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神之峰城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5661.JPG←主郭東側の堀切
 神之峰城は、諏訪氏の分流でこの地の豪族であった知久氏の居城である。知久氏は知久平に居館を置いていたが、戦国前期頃に神之峰城を築いて本拠を移したらしい。1533年には京都醍醐寺理性院の厳助僧正が信州に下向した際、神之峰城を訪れた記録が残っている。1554年に武田信玄が伊那を攻略した際、下伊那地方で最も抵抗したのは神之峰城の知久氏であった。この年に神之峰城は落城したらしく、知久頼元父子3人は生け捕られ、甲斐国大原の島へ流罪となり、知久氏宗家は没落した。その後の知久領は、武田氏に従属した知久氏一族が支配したらしい。一方、頼元の子七郎頼氏らは京都に逃れて牢人となっていたが、1582年に織田信長が武田氏を滅ぼすと、頼氏は28年ぶりに神之峰城への帰還を果たした。おそらく織田氏の後援によるものと考えられている。本能寺の変後に徳川・北条両氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起すると、頼氏は徳川家康に従って甲斐に出陣して北条勢と戦った。頼氏の子則直は、関ヶ原の戦い後に旗本信濃衆として3千石を与えられ、阿島陣屋を設けて本拠を移し、交代寄合衆として幕末まで存続した。

 神之峰城は、標高772mの神之峰に築かれている。城内には民家が点在する他、久堅神社やNHK等複数の放送施設が建っており、かなり改変を受けている。基本的な骨格は、h型の尾根に沿って曲輪を配した連郭式で、NHK放送施設が建っている丘が主郭である。その西には堀切状の平場を挟んだ高台に出郭が築かれている。二ノ郭は南北に長い曲輪で、南端の高台に久堅神社が建っている。出郭の南北には腰曲輪が築かれている。また主郭の南側に腰曲輪が築かれ、そこを東に進むと堀切が穿たれている。。この主郭東側の堀切のみ往時の姿を残している。堀切の東は尾根上に平場があり、その東に高台となった二ノ郭がある。二ノ郭には熊野社が建ち、南の腰曲輪には防災無線基地が建っている。この他、北東には北東から東にかけての緩斜面にも曲輪らしい平場が散見されるが、改変のためによくわからない。東にやや外れて、蔵屋敷と呼ばれる高台があり、これも出郭であった様だ。以上のように神之峰城は往時の形状はのこっているものの改変が多く、あまりパッとしない城である。
高台状の出郭→DSCN5590.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.459036/137.872174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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