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子檀嶺城(長野県青木村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6577.JPG←長大な伏勢堀
 子檀嶺(こまゆみ)城は、1585年の「第一次上田合戦」で真田安房守昌幸が上田城で徳川軍と戦った際、杉原四郎兵衛を筆頭とする塩田衆が真田氏に謀反を起こして籠城した城と伝えられる。昌幸は嫡男信之に命じて子檀嶺城を攻略させ、その後は真田氏の家臣小山田壱岐守茂誠が入城した。1600年の「第二次上田合戦」では中山道から徳川本軍を率いて進軍した徳川秀忠が、日根野吉重や石川三長の軍勢に攻めさせたが、茂誠が撃退したと言う。また別説では、古くは冠者智武が拠った城とも、或いはその後、岡村権左衛門平清氏が拠ったとも言われる。真田氏時代には、池田出雲守が守ったとの説もある。

 子檀嶺城は、標高1223.2m、比高700mの峻険な子檀嶺岳に築かれている。岩山がそびえ立つ独特の山容を持つ山で、登山道が整備されている。コースは3つあるが、城の遺構を見るには東麓から登る当郷管社コースが最適である。標高680m地点まで車で登れるが、そこからでも登頂比高は543mもある。見るからに登るのが大変そうな山なので、なかなか登る決心がつかずに来てしまったが、最近は加齢による身体能力低下が心配されるので、体力が十分ある内に制覇しておこうと、意を決して5月連休に登城した。
 東の尾根伝いに登山道を登っていくと、標高900m付近の東尾根から城の遺構らしきものが現れる。強清水という水場の上の尾根で、強清水に至る手前に登山道を貫通するように竪堀らしい地形が見られ、上の尾根には段曲輪群らしき平場が見られる。この尾根を登りきると、山腹に広大な緩斜面が広がっている。ここは御座敷平と呼ばれ、城兵の居住区であったのだろう。しかしここまで登っても、まだ山頂は遠くに見えるだけである。この御座敷平を西に登りきると、山上から北に伸びた尾根脇を登る登山道がようやく始まる。ここから山上まではまだ比高250mもあり、やっと半分登ったところである。
 この北尾根脇の登山道を登っていくと、標高1025m付近に伏勢堀と呼ばれる大規模な空堀が現れる。あまりネット上に情報がなかったので、どの程度の規模の遺構かわからずに来たが、山腹をうねるように堀が走っている。この城の出色の遺構で、総長250m程に及ぶ横堀であり、山の北側に広がる比較的傾斜の緩い斜面全域を横断して掘り切っている。伏勢堀は途中で東西の堀が直交しており、ここに大手虎口を構えていたらしい。この直交部の上には櫓台が構築されている。また延々と伸びる堀に沿って、防衛陣地の腰曲輪群も確認できる。この構造は下野多気山城と同じものである。
 更に登ってようやく山上の尾根に至ると、東端に物見台が築かれている。ここからの眺望は最高で、上田平、葛尾城虚空蔵山城砦群まで見える。物見台の西側には堀切が穿たれ、登山道はこの堀切に通じている。山上の主城部は、基本的に居住性がほとんどない細尾根城郭で、まとまった平場は主郭ぐらいしかない。主郭は土塁も何もない長円形の平場で、3基の祠が置かれている。ここも眺望が素晴らしい。北側に腰曲輪があり、東西の尾根に堀切が穿たれている。西の尾根には若干の平場と堀切が穿たれ、1155m峰にも小堀切が穿たれており、ここまでが城域だったようである。
 子檀嶺城は、何と言っても山上からの眺望と、伏勢堀が見事な城である。
伏勢堀の直交部→DSCN6638.JPG
DSCN6433.JPG←堀切と東物見台
主郭→DSCN6537.JPG
DSCN6535.JPG←北側の腰曲輪
西尾根の堀切→DSCN6519.JPG
CS.jpg←遺構の配置
(出典:長野県林業総合センター提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.392278/138.116405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/03/10
  • メディア: 単行本


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