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浦野城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7213.JPG←馬場から見た二ノ郭と腰曲輪
 浦野城は、この地の豪族浦野氏の居城である。浦野氏は、平安末期の1150年頃に祢津氏から分かれたとされる。1190年の源頼朝の上洛に随行した武士の中に、祢津次郎と共に浦野太郎の名が見える。室町期の1400年、大塔合戦には浦野式部丞の名があり、寛正年間(1460~65年)・文明年間(1469~87年)には田中・祢津代官として浦野氏の名が見え、祢津氏の庶流浦野氏がその代官としてこの地を領したらしい。1553年、浦野民部允は北信の雄村上義清に従って、甲斐の武田信玄と上田原で戦っている。義清は勇将で、信玄を2度まで破ったが、調略などで徐々に領国を蚕食され、結局居城の葛尾城から落ちて、越後の上杉謙信を頼って逃れた。村上氏敗北後、浦野氏は武田氏に服属し、1557年の第3次川中島合戦などで活躍した。1582年3月に武田氏が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、浦野氏は上杉景勝に属したが、後に真田氏の家臣となり、1622年に真田信之が松代城に移封となると、これに従って松代に移った。

 浦野城は、飯縄山から南東に伸びる尾根の南中腹に本城が築かれている。またその東にある本城より高い峰に物見松砦が築かれている。本城は、南に突き出た舌状の二ノ郭、その上に一段高く方形の主郭が築かれている。その背後の斜面や周囲には何段もの腰曲輪が築かれている。東下方には広い曲輪があり、馬場跡とされる。ここは御射山祭広庭(みさいやまさいひろば)とも呼ばれ、諏訪上社の神氏であった浦野氏が、諏訪大社の神事である御射山祭を寺領でも行っていたと考えられている。往時は武士達が小笠懸や相撲などを披露したり宴を行ったりしたとされ、周囲の土壇は桟敷であったと見られている。この馬場の周囲にも腰曲輪が築かれている。但し、近世にはかなり広範囲に耕作されていたようなので、どこまでが遺構か、あまりはっきりしない。塁線にはところどころ石積みが見られるが、これも往時のものかどうかはかなり微妙である。
 一方、主郭から上の斜面を登っていくと、南東に突き出た尾根の付け根に堀切が穿たれ、東の谷に向かって長い竪堀となって落ちている。この南東尾根の先に物見松砦がある。砦までの途中の尾根は、倒木が多数あってかなり荒れている。物見松砦は、後部に土塁を築いた主郭の背後に四重の堀切を穿っている。主郭の外周には腰曲輪が一段取り巻き、その東に堀切が穿たれている。その先の尾根にも小郭群が置かれ、小堀切も穿たれている。
 浦野城は、一般的な山城とは構造が異なる城で、祭祀の場として特殊な使われ方をした城だった可能性がある。
広大な馬場跡→DSCN7222.JPG
DSCN7295.JPG←物見松砦の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.382587/138.161895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【物見松砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.382864/138.164481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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