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鈴岡城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5805.JPG←主郭外周の空堀
 鈴岡城は、信濃守護小笠原氏の一流、鈴岡小笠原氏の居城である。南北朝期に小笠原貞宗の子宗政によって築かれたとされる。小笠原氏は一時期、信濃守護職から外されていたが、1399年に長秀が信濃守護に任命され、1400年に京都から信濃に入国したが、高圧的な態度などから国人衆の反発を買い、大塔合戦で長秀は敗北し、再び守護職を罷免された。しかし長秀の弟政康は上杉禅秀の乱鎮圧や足利持氏追討で軍功を挙げ、信濃守護職を取り戻し、小笠原氏を中興した。政康の死後、小笠原氏は深志(府中)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡小笠原氏が分立し、惣領職をめぐって抗争を繰り広げた。この内、政康の次男光康が松尾城を本拠に伊賀良庄全体を統括し、松尾小笠原氏となった。政康の長男宗康は信濃守護に補任されたが、1446年に深志の小笠原持長(政康の長兄長将の子、深志小笠原氏)と善光寺表の漆田原で戦って討死した。その結果、弟光康が守護職と小笠原氏惣領職を引き継いだ。幼少であった宗康の子政秀は伊那に逃れて叔父光康を頼り、後に松尾城と毛賀沢川を挟んで南の鈴岡城に居城し、鈴岡小笠原氏となった。将軍足利義尚が、政秀を小笠原氏嫡系と認めて信濃守護職に補任したため、これに反発した松尾小笠原氏と対立するようになった。1493年、松尾の小笠原家長の嫡男定基が陰謀を企て、守護政秀・長貞父子を松尾城に誘い出して殺害し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。1534年、深志の小笠原長棟は松尾城の定基を攻め、定基父子は降伏して松尾城を明渡した。長棟は松尾城を破却し、定基の子貞忠とその子信貴は甲斐へ逃れた。長棟は分裂していた信濃の小笠原氏を統一し、その子信定が鈴岡城に入り、伊賀良庄を治めた。1554年、甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、下伊那の多くの国人衆は武田氏に降ったが、鈴岡城の信定と神之峰城主知久頼元は頑強に抵抗した。しかし先に甲斐に逃れていた松尾小笠原家の信貴・信嶺父子は、武田氏の先鋒となって鈴岡城を攻撃し、落城させた。敗れた信定は京に逃れ、鈴岡小笠原氏は滅亡した。その後鈴岡城は松尾城の支城として使用され、1590年の小田原の役後に徳川家康が関東に移封となると、徳川氏に属していた松尾城主小笠原信嶺も武蔵本庄城に移り、松尾城と共に鈴岡城も廃城となった。

 鈴岡城は、天竜川西方の比高40m程の河岸段丘先端部に築かれている。現在城の中心部は城址公園となり、西部は耕地に変貌しているが、遺構はよく残っている。東端に主郭と堀切で分断された北の出丸が置かれ、主郭の西から南にかけて大きな空堀を介してL字型の二ノ郭が置かれている。二ノ郭の東下方には帯曲輪が築かれている。二ノ郭外周にも空堀が穿たれ、この空堀は東の帯曲輪下まで伸びており、全体をコの字型に囲んでいる。二ノ郭の西には横長の外郭(的場)、その外側にも空堀を挟んで本城の地名が残る外郭がある。この本城は広大な緩斜面となっていて、西の最上部に遠見原と呼ばれる高台がある。この高台付近からの眺望は最高で、城内の他、神之峰城を始めとする山々が一望できる。遠見原の西にも城域を画すると思われる堀跡が見られる。一方、本城の北東に空堀を挟んで三角形の荒小屋(新小屋の意味か?)という曲輪がある。荒小屋は未整備の竹林になっていて、近くにいた農家の方にお断りして入らせていただいた。荒小屋と本城を隔てる空堀には土橋が架かり、荒小屋の北端角の下方には段曲輪群が築かれている。この他、二ノ郭東の帯曲輪の東斜面や出丸の北西斜面には竪土塁群が見られる。公園化・耕地化による改変もあるが、思った以上に遺構がよく残り、特に空堀は規模が大きく見応えがある。
二ノ郭外周の空堀→DSCN5797.JPG
DSCN5793.JPG←荒小屋と本城を隔てる空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.483728/137.826469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信州の城と古戦場

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