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黒崎城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3545.JPG←二ノ丸北側の腰曲輪と石積み
 黒崎城は、福岡藩主黒田長政が築いた筑前六端城の一である。六端城は、東隣の豊前細川家に備えるために築いた城砦群であった。長政は、父官兵衛孝高以来の重臣井上周防守之房に2万石を与えて黒崎城代とした。1615年に元和の一国一城令で破却された。

 黒崎城は、独立丘陵である道伯山に築かれている。「道伯」は、井上之房の号「道柏」に由来する。県の史跡に指定されており、公園化されているので、盛夏でも訪城可能であるが、遺構の残存状況はあまり良くない。それというのも、江戸時代中期に石垣の石材が新田開発のために転用され、その後も幕末に砲台が置かれたり、近代には耕地化されていたからである。現地解説板に書かれている江戸後期の絵図によれば、ほぼ正方形の本丸があり、西以外の三方を幅広の二ノ丸で囲み、北に伸びる尾根に縦長の三ノ丸を置いていたらしい。また本丸西側には3段の腰曲輪が築かれていた様である。現在本丸は高台になっているが、二ノ丸との間の切岸は緩やかな斜面に変わってしまっている。城内には一部に石積みが残るが、改変が多い上、近代の積み直しもあり、どこまで往時の遺構かはわからない。見所が少なく、非常に残念な状況である。
本丸跡の原っぱ→DSCN3584.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.870442/130.773547/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新書703黒田官兵衛 (平凡社新書 703)

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  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2013/11/15
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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若松城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3529.JPG←城跡付近の現況
 若松城は、福岡藩主黒田長政が築いた筑前六端城の一である。六端城は、東隣の豊前細川家に備えるために築いた城砦群であった。長政は、若松城に三宅若狭家義を置いて守らせた。元々、永正年間(1504~21年)頃に竹内治部という武士の居城であったと伝えられる。1615年に元和の一国一城令で破却された。幕末には福岡藩がここに砲台を築いた。

 若松城は、洞海湾内に浮かぶ中島という孤島に築かれていたが、明治14年に港湾整備工事の一環で全面的に削平され、その姿を消してしまっている。現在の若戸大橋の付近にあったらしいが、その正確な位置も現況ではわからない。しかし今でも若松と戸畑とを結ぶ若戸渡船があり、江戸中期の正徳年間(1711~16年)には西岸に福岡藩によって洲口番所が設けられて人・物流の監視をするなど、交通の要地であったことがわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:(推定)https://maps.gsi.go.jp/#16/33.902452/130.817084/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:近世海城
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板櫃川古戦場(福岡県北九州市) [その他の史跡巡り]

DSCN3525.JPG←古戦場付近の現況
 板櫃川の戦いは、大宰少弐・藤原広嗣の乱の時に広嗣軍と朝廷軍が激突した戦いである。『続日本紀』によると、740年、太宰府に左遷されていた広嗣は、全国で相次ぐ伝染病の流行や天災の発生を朝廷の失政が原因であるとして、政敵の僧玄昉・吉備真備を朝廷から排斥するため挙兵した。朝廷は、大野東人を大将軍に任命し追討軍1万7千人を派遣した。両軍は板櫃川で対峙し、広嗣軍は舟筏で渡河しようとしたが、朝廷軍から弓を激しく射掛けられ、渡河に失敗した。更に朝廷軍からの呼びかけで広嗣軍から投降者が相次ぎ、戦列が崩壊、広嗣軍は大敗した。敗走した広嗣は後に肥前で捕らえられて処刑されたと言う。この乱により、朝廷は政治・軍事が集中した太宰府のあり方を再考することとなり、一時大宰府は廃止された。

 板櫃川古戦場は、小倉市街地の南西方にある。古戦場付近は市街化されており、かつての古戦場の雰囲気は全く残っていない。わずかに八幡橋の袂に解説板が立っているだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.876874/130.855021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

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  • 作者: 宇治谷 孟
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1992/06/05
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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小倉城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3345.JPG←北の丸の水堀・石垣
 小倉城は、江戸時代に細川氏、次いで小笠原氏の居城となった近世城郭である。しかしこの地は関門海峡を押さえる交通の要衝であり、古くから記録に現れる要地であった。奈良時代の740年には大宰少弐藤原広嗣の反乱に際して、この付近に軍団が置かれていた。鎌倉中期の文永年間(1264~74年)頃には、緒方大膳惟重が居城したとされるが、それが現在の小倉城の地であったかどうかは定かではない。現在の小倉城の直接の前身は戦国後期の1569年に、大友氏と毛利氏の抗争の中で毛利氏によって築かれ、高橋鑑種が城主となった。1586年、島津氏の侵攻を受けていた大友宗麟は、豊臣秀吉に支援を求め、これを契機として秀吉の九州征伐が始まった。この時、小倉城主高橋元種(鑑種の養子)は秀吉に降り、秀吉は大軍を率いて小倉城に入城した。九州平定後、小倉城には毛利勝信が置かれた。1600年の関ヶ原の役の際、勝信は西軍に属したため黒田官兵衛孝高によって小倉城を占領され、関ヶ原合戦後に改易されて土佐配流となった。同年の毛利氏改易後、細川忠興は豊後国39万9千石を与えられ、当初は中津城を居城とした。小倉城には弟興元を置いたが、1601年12月に忠興と不和となって出奔した。忠興は小倉城に居城を移し、1602年から7年かけて小倉城を改修して現在の規模とした。1632年に肥後熊本城主加藤忠広が改易となると、2代藩主忠利は熊本54万石に移封となり、譜代大名で明石城主小笠原忠真が15万石で入城した。以後、幕末まで小倉藩小笠原家歴代の居城となった。幕末の1866年、第二次長州征伐の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に敗退し、小倉城を焼いて撤退した。これにより、小倉城は昔日の姿を失った。

 小倉城は、平地の高台を利用した近世城郭で、北九州市の中心街となっている。本丸を中心に、南に松の丸、北に北の丸を配し、それらの外周に二の丸、三の丸、外郭が築かれていた。城の中心部は概ね逆三角形をしており、周囲を石垣・水堀で囲んでいたが、水堀は北半分しか残っておらず、南や東は埋められてしまっている。近世城郭らしく、枡形城門や横矢掛りを多用した縄張りであるが、地形の高低差が小さい上、南側は水堀が失われてしまっているため、縄張りに緊張感が感じられない。模擬天守・着見櫓が再建されて威容を誇っているが、天守は元のものにはなかった破風が設けられているなど、史実を無視した昭和再建の代物で歴史的価値はない。なんでこれが続100名城に選ばれるのか、選定基準がよくわからない。幕末に焼亡していなければ城門の一つや二つが残されていたかと思うと、それも無く石垣だけが残り、侘しい限りである。また外郭も西側の三の丸土塁が断片的に残っているだけで、遺構の湮滅が進んでいる。そんな中、北の丸にある八坂神社だけは櫓風に建物が建てられており、城の雰囲気を感じさせる。
多聞口門の枡形虎口→DSCN3430.JPG
DSCN3365.JPG←三ノ丸土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.884302/130.873754/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:近世平城
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木曽氏定勝寺館(長野県大桑村) [古城めぐり(長野)]

DSCN3205.JPG←台地上の館跡
 木曽氏定勝寺館は、木曽氏の一時期の居館である。木曽氏は三留野から木曽福島までの間を南から北へ度々居所を移しており変転が激しいが、その中の一つが定勝寺館である。

 木曽氏定勝寺館は、現在は定勝寺の境内となっている。須原宿の西端にあり、街道を眼下に収める台地上に築かれている。前述の通り寺の境内となっているため、明確な遺構は残っていない。しかし定勝寺は名刹で、1598年に建てられたという山門・本堂・庫裡は国の重要文化財に指定されている立派なものである。また墓地には木曽氏歴代の内4人の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.694833/137.688528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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上松蔵人屋敷(長野県上松町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3087.JPG←居館跡の平場
 上松蔵人屋敷は、現地解説板では「天神山 木曽氏館跡」と記載され、木曽氏19代義昌の弟上松蔵人義豊の居館である。義豊は上松に分封されて上松氏を称した。1582年1月、木曽義昌は頽勢に陥っていた武田勝頼を見限り、織田信長の調略に応じて実弟義豊を人質に差し出し、武田氏から離反した。これが契機となって信長の武田征伐が開始され、瞬く間に武田領国は崩壊し、同年3月に武田氏は滅亡した。同年6月、信長が本能寺で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領争奪戦、天正壬午の乱が生起した。その経過の中で、木曽氏は徳川家康に帰属し、同年9月に義豊は遠州浜松に移ったと言う。義豊が遠州に去った後は、地士塚本氏が入り、駅亭長・問屋職を務めた。尚、義豊は後に兄義昌の跡を継いだ義利と折り合いが悪く、義利に殺された。この事件によって阿知戸(網戸)藩木曽家は改易された。

 上松蔵人屋敷は、玉林院背後の台地、天神山に居館を構えていたと伝えられる。玉林和尚は木曽氏17代義在の弟で、義豊の大叔父に当たるのでこの地を義豊に与えたと伝えられる。天神山の先端部にはその名の通り天満宮のお堂が建ち、その背後は一段高い平場となっている。台地上は草むらに覆われた平場があるだけで、他に明確な遺構は見られないが、玉林院裏の登り口に解説板が建っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.786218/137.696811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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王滝城(長野県王滝村)

DSCN3053.JPG←王滝城跡地の現況
 王滝城は、木曽左京大夫義元が飛騨勢や美濃勢の侵攻に備えて築いた城である。1504年7月、飛騨の三木重頼が兵数百で木曽に侵攻し、義元の部将上野肥後が守る上島砦を攻め落とした。義元は自ら兵を率いて王滝城に入り、三木勢を迎撃しようとしたが、態勢が整わないうちに三木勢の攻撃を受けて王滝城は落城し、義元は退却中に追撃を受け、この時に受けた傷が元で没した。1555年8月に武田信玄が木曽に侵入した際、木曽義康(義元の孫)は飛騨勢と戦うために王滝城に在城し、その子義昌は福島城を守っていた。武田勢が軍勢を分けて両城を攻撃すると、義康は抗しきれず信玄と和睦して服属した。

 王滝城は、ダム湖である御岳湖の南岸にある突出した段丘上にあったらしい。ダム建設以前は王滝川に臨む断崖上の段丘であった。現在はグラウンドや空き地となって改変されており、明確な遺構は残っていない。『信濃の山城と館』の縄張図では、この段丘の北西端が一段高くなっていて社が祀られていたらしいが、この高台も湮滅してしまっている。背後の比高100mの山の峰に主郭があったとも言われるが、CS立体図で見ても曲輪らしい遺構は残っていないようである。王滝城は木曽防衛のための重要な城であったが、解説板はおろか標柱すらなく、全く往時の姿を知ることはできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.810287/137.588975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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西野城(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3021.JPG←主郭
 西野城は、木曽氏中興の祖とされる木曽讃岐守家村が築いたとされる砦である。家村は、足利尊氏に従って軍功を上げ、1338年に恩賞として信濃国木曽・高遠・向・洗馬等を賜り、妻籠城の他、馬籠・田立・西野に砦を構え、贄川に関所を設けたと伝えられる。木曽の防衛網の重要拠点であり、『日本城郭大系』によれば戦国期には木曽義康・義昌の家臣西野右馬允友重が守っていたと言う。

 西野城は、標高1422m、比高250mの城山に築かれている。城山の北の尾根には旧飛騨街道が通る西野峠があり、交通の要地を押さえる城であったことがわかる。現在城跡は町の史跡となり、展望台となっているので、登山道が整備され真夏でも薮漕ぎせずに登ることができる。ほぼ単郭の城で、山頂の主郭の北側にはわずかに土塁が築かれている。主郭の北東と北西に小郭を築き、北西尾根の少し下の方に堀切を穿っているが、かなり浅い堀切でほとんど段曲輪に近い形状となっている。遺構はこれだけであるが、周囲の眺望に優れ、ここに城砦を築いていた重要性はよく分かる。
北西尾根の堀切→DSCN3033.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.948994/137.588761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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古畑十右衛門屋敷(長野県木祖村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2975.JPG←屋敷のあった段丘崖
 古畑十右衛門屋敷は、薮原殿屋敷とも言い、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。1800年に奉行所に提出した家筋の書上げによると、古畑十右衛門家は木曽讃岐守家教の後裔古畑伯耆守家重の分流で、薮原に居住し、村民は尊称して薮原殿と言った。初代十右衛門、2代勘右衛門は木曽義昌に仕えた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、義昌も下総国海上郡阿知戸(網戸)に移封となったが、古畑氏は下総には行かずにこの地で帰農し、江戸時代には薮原宿の本陣・問屋・庄屋を務めた。6代目より寺島に改姓した。

 古畑十右衛門屋敷は、江戸時代には本陣にあったが、それ以前は東の段丘崖の上の台地に上屋敷・下屋敷があったらしい。明治初年の町村誌では、屋敷跡は皆畑となっているが、堀跡は残っていたらしい。屋敷跡と見られる東の台地上は、西向きの緩傾斜地で、現在は宅地と畑になっている。めぼしい遺構は無い上、車を停める場所も近くにないので、行くのはやめて薮原宿から遠望するだけにした。
本陣跡→DSCN2955.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.938205/137.786461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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奈良井城(長野県塩尻市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2920.JPG←主郭周囲の空堀
 奈良井城は、現地標柱では奈良井治部少輔義高居館と書かれ、木曽氏の一族奈良井義高の居城である。義高は、福島城主木曽義康の弟で、奈良井に居住して奈良井治部少輔を称した。1555年4月、武田信玄の木曽侵攻の際に義高は敗死し、城も陥落したとされるが、異説もある。

 奈良井城は、木曽路の観光で有名な奈良井宿の北の段丘辺縁部に築かれている。西のカツ沢を天然の堀とし、北と東に空堀を穿って台地と分断して主郭を形成している。ほぼ単郭の城であるが、南や西にわずかな段差で腰曲輪が構築され、特に南西に向って下り勾配となる部分には腰曲輪が3段形成されている。城とは言うものの、居館的色彩の濃い館城である。尚、近くの大宝寺の裏手には奈良井義高の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967196/137.811749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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