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青柳城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3972.JPG←堀跡のような水路
 青柳城は、後に館林城を居城とした赤井氏の初期の居城であったとされる。館林周辺は佐貫庄と呼ばれ、室町時代には佐貫氏庶流の舞木氏が支配し、赤井氏はその被官であった。永享の乱の最中、舞木持広の寄騎の侍として赤井若狭守の名が見える。しかし室町後期には下剋上で赤井氏が佐貫庄を掌握したらしい。この頃の赤井氏居城が青柳城であったと伝えられる。赤井氏は後に館林城を築いて居城を移したが、その時期は明確ではない。以前は戦国中期頃に館林城に移ったとされていたが、それ以前の享徳の乱の最中の1471年に山内上杉氏の重臣長尾氏が赤井氏の拠る立林(館林)城を攻略したという記録が残っており、戦国時代より前に既に館林城があったことが判明している。また赤井氏の館林城以前の居城としては大袋城とも言われており、青柳城との関係は不明である。

 青柳城は、龍積寺付近の平地に築かれていたらしい。現在寺の北側を水路が流れているが、城のどこかの部分の堀跡である可能性がある。しかしそれ以外は宅地化などで改変されており、明確な遺構もなく、どのような縄張りの城だったのかも皆目わからない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.222370/139.517741/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


名将言行録 現代語訳 (講談社学術文庫)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
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タグ:中世平城
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白旗城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3817.JPG←薮の中に残る堀跡
 白旗城は、享徳の乱の激戦・羽継原合戦の際に、関東管領上杉房顕方の岩松氏が、古河公方足利成氏の羽附陣屋に対して布陣した城と伝えられる。

 白旗城は、鶴生田川南岸の微高地に築かれている。この微高地は白旗山と呼ばれ、付近には馬場、首洗堰等の地名が残るという。現在城跡は激しい薮の林となり、周囲は宅地や団地となっている。川沿いの道を進むと、微高地に北から伸びる1本の堀跡が残り、その東には土塁が築かれている。辛うじて確認できるのはここまでで、後は激しい薮に阻まれて確認できない。いずれにしても一時的な陣城と思われ、大規模な城ではなかっただろう。それにしても対峙した羽附陣屋とはわずか700m程しか離れておらず、川を挟んでいるとはいえ、あまりに近すぎるのがちょっと気になる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.236719/139.573874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 享徳の乱

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  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/11
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タグ:陣城
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山鹿城(福岡県芦屋町) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3646.JPG←三ノ郭から見た主郭
 山鹿城は、当初は藤原秀郷流山鹿氏、鎌倉時代以降は宇都宮氏流の山鹿麻生氏の歴代の居城であった。伝承では、天慶年間(938~47年)に鎮西奉行となった藤原秀郷の弟藤原藤次によって築城され、藤次は山鹿氏を称したと伝えられる。以後山鹿氏代々の居城となり、平安末期の城主山鹿兵藤次秀遠は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際に平家方に付き、1183年に幼帝安徳天皇を奉じて西国に落ちてきた平氏一門を城に迎えた。しかし源氏方の緒方三郎惟義の軍勢が迫ると聞き、平氏一門は城を離れた。結局秀遠は平家と運命をともにし、滅亡した。鎌倉時代になると、下野宇都宮氏の一族宇都宮左衛門尉家政(宇都宮氏3代朝綱の子)が山鹿秀遠の旧領を与えられて入部し、山鹿氏、後に麻生氏を称した。室町・戦国期には、大友氏・大内氏・毛利氏らに従った。1587年、豊臣秀吉の九州平定により、麻生上総介元重は筑後の小早川隆景の配下とされ、筑後に移り、山鹿城は廃城となった。

 山鹿城は、遠賀川の河口に近い標高40mの城山に築かれている。城山は公園化されているので盛夏でも遺構が確認できるが、改変が見られるのは仕方のないところである。中央に主郭を置き、南北に曲輪を配置している。北に長く伸びるのが三ノ郭で、南の腰曲輪状のものが二ノ郭である。江戸時代の絵図を見ると、二ノ郭は南から主郭西までL字型に主郭を囲んでいた様だが、西の平場は現在では崩落等によって小道ぐらいの幅しか残っていない。三ノ郭の北西と東には腰曲輪がある他、先端部下方にも段状に曲輪群が置かれている。この他、南の尾根鞍部を挟んだ南の高台に出丸が築かれていて、2つの神社の祠が祀られている。以上が山鹿城の遺構で、簡素な構造の小城砦であり、戦国末期にどれほど重視されていたのかは疑問に感じる。
出丸→DSCN3630.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.897073/130.669649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


九州の名城を歩く 福岡編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/03/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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本城城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3611.JPG←高台にある蛭子神社
 本城城は、蛭子谷(えびすだに)城とも言い、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際、源頼朝の命で東国武士団を率いて平家追討のため九州まで下向した源範頼は、ここに城郭を構えて本陣を置き、平家方の原田種直と戦ったと伝えられる。また範頼は、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、敗戦処理のためしばらくこの城に滞在したと伝えられる。

 本城城は、鵜巣池の南西にある丘陵上に築かれていた。現在丘陵上は、本城霊園という広大な墓地に変貌し、明確な遺構は残っていない。霊園の中心付近の十字路脇に城の解説板が立ち、その脇の高台には蛭子神社が祀られている。もしかしたら、城の櫓台だったかもしれないが、周囲は改変され尽くしており、どのような城だったのか、想像することも難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.881523/130.721372/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史 5)

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  • 作者: 元木 泰雄
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2013/03/01
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タグ:中世平山城
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黒崎城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3545.JPG←二ノ丸北側の腰曲輪と石積み
 黒崎城は、福岡藩主黒田長政が築いた筑前六端城の一である。六端城は、東隣の豊前細川家に備えるために築いた城砦群であった。長政は、父官兵衛孝高以来の重臣井上周防守之房に2万石を与えて黒崎城代とした。1615年に元和の一国一城令で破却された。

 黒崎城は、独立丘陵である道伯山に築かれている。「道伯」は、井上之房の号「道柏」に由来する。県の史跡に指定されており、公園化されているので、盛夏でも訪城可能であるが、遺構の残存状況はあまり良くない。それというのも、江戸時代中期に石垣の石材が新田開発のために転用され、その後も幕末に砲台が置かれたり、近代には耕地化されていたからである。現地解説板に書かれている江戸後期の絵図によれば、ほぼ正方形の本丸があり、西以外の三方を幅広の二ノ丸で囲み、北に伸びる尾根に縦長の三ノ丸を置いていたらしい。また本丸西側には3段の腰曲輪が築かれていた様である。現在本丸は高台になっているが、二ノ丸との間の切岸は緩やかな斜面に変わってしまっている。城内には一部に石積みが残るが、改変が多い上、近代の積み直しもあり、どこまで往時の遺構かはわからない。見所が少なく、非常に残念な状況である。
本丸跡の原っぱ→DSCN3584.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.870442/130.773547/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新書703黒田官兵衛 (平凡社新書 703)

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  • 作者: 小和田 哲男
  • 出版社/メーカー: 平凡社
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タグ:中世平山城
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若松城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3529.JPG←城跡付近の現況
 若松城は、福岡藩主黒田長政が築いた筑前六端城の一である。六端城は、東隣の豊前細川家に備えるために築いた城砦群であった。長政は、若松城に三宅若狭家義を置いて守らせた。元々、永正年間(1504~21年)頃に竹内治部という武士の居城であったと伝えられる。1615年に元和の一国一城令で破却された。幕末には福岡藩がここに砲台を築いた。

 若松城は、洞海湾内に浮かぶ中島という孤島に築かれていたが、明治14年に港湾整備工事の一環で全面的に削平され、その姿を消してしまっている。現在の若戸大橋の付近にあったらしいが、その正確な位置も現況ではわからない。しかし今でも若松と戸畑とを結ぶ若戸渡船があり、江戸中期の正徳年間(1711~16年)には西岸に福岡藩によって洲口番所が設けられて人・物流の監視をするなど、交通の要地であったことがわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:(推定)https://maps.gsi.go.jp/#16/33.902452/130.817084/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:近世海城
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板櫃川古戦場(福岡県北九州市) [その他の史跡巡り]

DSCN3525.JPG←古戦場付近の現況
 板櫃川の戦いは、大宰少弐・藤原広嗣の乱の時に広嗣軍と朝廷軍が激突した戦いである。『続日本紀』によると、740年、太宰府に左遷されていた広嗣は、全国で相次ぐ伝染病の流行や天災の発生を朝廷の失政が原因であるとして、政敵の僧玄昉・吉備真備を朝廷から排斥するため挙兵した。朝廷は、大野東人を大将軍に任命し追討軍1万7千人を派遣した。両軍は板櫃川で対峙し、広嗣軍は舟筏で渡河しようとしたが、朝廷軍から弓を激しく射掛けられ、渡河に失敗した。更に朝廷軍からの呼びかけで広嗣軍から投降者が相次ぎ、戦列が崩壊、広嗣軍は大敗した。敗走した広嗣は後に肥前で捕らえられて処刑されたと言う。この乱により、朝廷は政治・軍事が集中した太宰府のあり方を再考することとなり、一時大宰府は廃止された。

 板櫃川古戦場は、小倉市街地の南西方にある。古戦場付近は市街化されており、かつての古戦場の雰囲気は全く残っていない。わずかに八幡橋の袂に解説板が立っているだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.876874/130.855021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

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  • 作者: 宇治谷 孟
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1992/06/05
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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小倉城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3345.JPG←北の丸の水堀・石垣
 小倉城は、江戸時代に細川氏、次いで小笠原氏の居城となった近世城郭である。しかしこの地は関門海峡を押さえる交通の要衝であり、古くから記録に現れる要地であった。奈良時代の740年には大宰少弐藤原広嗣の反乱に際して、この付近に軍団が置かれていた。鎌倉中期の文永年間(1264~74年)頃には、緒方大膳惟重が居城したとされるが、それが現在の小倉城の地であったかどうかは定かではない。現在の小倉城の直接の前身は戦国後期の1569年に、大友氏と毛利氏の抗争の中で毛利氏によって築かれ、高橋鑑種が城主となった。1586年、島津氏の侵攻を受けていた大友宗麟は、豊臣秀吉に支援を求め、これを契機として秀吉の九州征伐が始まった。この時、小倉城主高橋元種(鑑種の養子)は秀吉に降り、秀吉は大軍を率いて小倉城に入城した。九州平定後、小倉城には毛利勝信が置かれた。1600年の関ヶ原の役の際、勝信は西軍に属したため黒田官兵衛孝高によって小倉城を占領され、関ヶ原合戦後に改易されて土佐配流となった。同年の毛利氏改易後、細川忠興は豊後国39万9千石を与えられ、当初は中津城を居城とした。小倉城には弟興元を置いたが、1601年12月に忠興と不和となって出奔した。忠興は小倉城に居城を移し、1602年から7年かけて小倉城を改修して現在の規模とした。1632年に肥後熊本城主加藤忠広が改易となると、2代藩主忠利は熊本54万石に移封となり、譜代大名で明石城主小笠原忠真が15万石で入城した。以後、幕末まで小倉藩小笠原家歴代の居城となった。幕末の1866年、第二次長州征伐の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に敗退し、小倉城を焼いて撤退した。これにより、小倉城は昔日の姿を失った。

 小倉城は、平地の高台を利用した近世城郭で、北九州市の中心街となっている。本丸を中心に、南に松の丸、北に北の丸を配し、それらの外周に二の丸、三の丸、外郭が築かれていた。城の中心部は概ね逆三角形をしており、周囲を石垣・水堀で囲んでいたが、水堀は北半分しか残っておらず、南や東は埋められてしまっている。近世城郭らしく、枡形城門や横矢掛りを多用した縄張りであるが、地形の高低差が小さい上、南側は水堀が失われてしまっているため、縄張りに緊張感が感じられない。模擬天守・着見櫓が再建されて威容を誇っているが、天守は元のものにはなかった破風が設けられているなど、史実を無視した昭和再建の代物で歴史的価値はない。なんでこれが続100名城に選ばれるのか、選定基準がよくわからない。幕末に焼亡していなければ城門の一つや二つが残されていたかと思うと、それも無く石垣だけが残り、侘しい限りである。また外郭も西側の三の丸土塁が断片的に残っているだけで、遺構の湮滅が進んでいる。そんな中、北の丸にある八坂神社だけは櫓風に建物が建てられており、城の雰囲気を感じさせる。
多聞口門の枡形虎口→DSCN3430.JPG
DSCN3365.JPG←三ノ丸土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.884302/130.873754/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:近世平城
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木曽氏定勝寺館(長野県大桑村) [古城めぐり(長野)]

DSCN3205.JPG←台地上の館跡
 木曽氏定勝寺館は、木曽氏の一時期の居館である。木曽氏は三留野から木曽福島までの間を南から北へ度々居所を移しており変転が激しいが、その中の一つが定勝寺館である。

 木曽氏定勝寺館は、現在は定勝寺の境内となっている。須原宿の西端にあり、街道を眼下に収める台地上に築かれている。前述の通り寺の境内となっているため、明確な遺構は残っていない。しかし定勝寺は名刹で、1598年に建てられたという山門・本堂・庫裡は国の重要文化財に指定されている立派なものである。また墓地には木曽氏歴代の内4人の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.694833/137.688528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:居館
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上松蔵人屋敷(長野県上松町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3087.JPG←居館跡の平場
 上松蔵人屋敷は、現地解説板では「天神山 木曽氏館跡」と記載され、木曽氏19代義昌の弟上松蔵人義豊の居館である。義豊は上松に分封されて上松氏を称した。1582年1月、木曽義昌は頽勢に陥っていた武田勝頼を見限り、織田信長の調略に応じて実弟義豊を人質に差し出し、武田氏から離反した。これが契機となって信長の武田征伐が開始され、瞬く間に武田領国は崩壊し、同年3月に武田氏は滅亡した。同年6月、信長が本能寺で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領争奪戦、天正壬午の乱が生起した。その経過の中で、木曽氏は徳川家康に帰属し、同年9月に義豊は遠州浜松に移ったと言う。義豊が遠州に去った後は、地士塚本氏が入り、駅亭長・問屋職を務めた。尚、義豊は後に兄義昌の跡を継いだ義利と折り合いが悪く、義利に殺された。この事件によって阿知戸(網戸)藩木曽家は改易された。

 上松蔵人屋敷は、玉林院背後の台地、天神山に居館を構えていたと伝えられる。玉林和尚は木曽氏17代義在の弟で、義豊の大叔父に当たるのでこの地を義豊に与えたと伝えられる。天神山の先端部にはその名の通り天満宮のお堂が建ち、その背後は一段高い平場となっている。台地上は草むらに覆われた平場があるだけで、他に明確な遺構は見られないが、玉林院裏の登り口に解説板が建っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.786218/137.696811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

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  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
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タグ:居館
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