SSブログ

上松蔵人屋敷(長野県上松町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3087.JPG←居館跡の平場
 上松蔵人屋敷は、現地解説板では「天神山 木曽氏館跡」と記載され、木曽氏19代義昌の弟上松蔵人義豊の居館である。義豊は上松に分封されて上松氏を称した。1582年1月、木曽義昌は頽勢に陥っていた武田勝頼を見限り、織田信長の調略に応じて実弟義豊を人質に差し出し、武田氏から離反した。これが契機となって信長の武田征伐が開始され、瞬く間に武田領国は崩壊し、同年3月に武田氏は滅亡した。同年6月、信長が本能寺で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領争奪戦、天正壬午の乱が生起した。その経過の中で、木曽氏は徳川家康に帰属し、同年9月に義豊は遠州浜松に移ったと言う。義豊が遠州に去った後は、地士塚本氏が入り、駅亭長・問屋職を務めた。尚、義豊は後に兄義昌の跡を継いだ義利と折り合いが悪く、義利に殺された。この事件によって阿知戸(網戸)藩木曽家は改易された。

 上松蔵人屋敷は、玉林院背後の台地、天神山に居館を構えていたと伝えられる。玉林和尚は木曽氏17代義在の弟で、義豊の大叔父に当たるのでこの地を義豊に与えたと伝えられる。天神山の先端部にはその名の通り天満宮のお堂が建ち、その背後は一段高い平場となっている。台地上は草むらに覆われた平場があるだけで、他に明確な遺構は見られないが、玉林院裏の登り口に解説板が建っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.786218/137.696811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

王滝城(長野県王滝村)

DSCN3053.JPG←王滝城跡地の現況
 王滝城は、木曽左京大夫義元が飛騨勢や美濃勢の侵攻に備えて築いた城である。1504年7月、飛騨の三木重頼が兵数百で木曽に侵攻し、義元の部将上野肥後が守る上島砦を攻め落とした。義元は自ら兵を率いて王滝城に入り、三木勢を迎撃しようとしたが、態勢が整わないうちに三木勢の攻撃を受けて王滝城は落城し、義元は退却中に追撃を受け、この時に受けた傷が元で没した。1555年8月に武田信玄が木曽に侵入した際、木曽義康(義元の孫)は飛騨勢と戦うために王滝城に在城し、その子義昌は福島城を守っていた。武田勢が軍勢を分けて両城を攻撃すると、義康は抗しきれず信玄と和睦して服属した。

 王滝城は、ダム湖である御岳湖の南岸にある突出した段丘上にあったらしい。ダム建設以前は王滝川に臨む断崖上の段丘であった。現在はグラウンドや空き地となって改変されており、明確な遺構は残っていない。『信濃の山城と館』の縄張図では、この段丘の北西端が一段高くなっていて社が祀られていたらしいが、この高台も湮滅してしまっている。背後の比高100mの山の峰に主郭があったとも言われるが、CS立体図で見ても曲輪らしい遺構は残っていないようである。王滝城は木曽防衛のための重要な城であったが、解説板はおろか標柱すらなく、全く往時の姿を知ることはできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.810287/137.588975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
nice!(3)  コメント(0) 

西野城(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3021.JPG←主郭
 西野城は、木曽氏中興の祖とされる木曽讃岐守家村が築いたとされる砦である。家村は、足利尊氏に従って軍功を上げ、1338年に恩賞として信濃国木曽・高遠・向・洗馬等を賜り、妻籠城の他、馬籠・田立・西野に砦を構え、贄川に関所を設けたと伝えられる。木曽の防衛網の重要拠点であり、『日本城郭大系』によれば戦国期には木曽義康・義昌の家臣西野右馬允友重が守っていたと言う。

 西野城は、標高1422m、比高250mの城山に築かれている。城山の北の尾根には旧飛騨街道が通る西野峠があり、交通の要地を押さえる城であったことがわかる。現在城跡は町の史跡となり、展望台となっているので、登山道が整備され真夏でも薮漕ぎせずに登ることができる。ほぼ単郭の城で、山頂の主郭の北側にはわずかに土塁が築かれている。主郭の北東と北西に小郭を築き、北西尾根の少し下の方に堀切を穿っているが、かなり浅い堀切でほとんど段曲輪に近い形状となっている。遺構はこれだけであるが、周囲の眺望に優れ、ここに城砦を築いていた重要性はよく分かる。
北西尾根の堀切→DSCN3033.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.948994/137.588761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

古畑十右衛門屋敷(長野県木祖村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2975.JPG←屋敷のあった段丘崖
 古畑十右衛門屋敷は、薮原殿屋敷とも言い、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。1800年に奉行所に提出した家筋の書上げによると、古畑十右衛門家は木曽讃岐守家教の後裔古畑伯耆守家重の分流で、薮原に居住し、村民は尊称して薮原殿と言った。初代十右衛門、2代勘右衛門は木曽義昌に仕えた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、義昌も下総国海上郡阿知戸(網戸)に移封となったが、古畑氏は下総には行かずにこの地で帰農し、江戸時代には薮原宿の本陣・問屋・庄屋を務めた。6代目より寺島に改姓した。

 古畑十右衛門屋敷は、江戸時代には本陣にあったが、それ以前は東の段丘崖の上の台地に上屋敷・下屋敷があったらしい。明治初年の町村誌では、屋敷跡は皆畑となっているが、堀跡は残っていたらしい。屋敷跡と見られる東の台地上は、西向きの緩傾斜地で、現在は宅地と畑になっている。めぼしい遺構は無い上、車を停める場所も近くにないので、行くのはやめて薮原宿から遠望するだけにした。
本陣跡→DSCN2955.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.938205/137.786461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

奈良井城(長野県塩尻市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2920.JPG←主郭周囲の空堀
 奈良井城は、現地標柱では奈良井治部少輔義高居館と書かれ、木曽氏の一族奈良井義高の居城である。義高は、福島城主木曽義康の弟で、奈良井に居住して奈良井治部少輔を称した。1555年4月、武田信玄の木曽侵攻の際に義高は敗死し、城も陥落したとされるが、異説もある。

 奈良井城は、木曽路の観光で有名な奈良井宿の北の段丘辺縁部に築かれている。西のカツ沢を天然の堀とし、北と東に空堀を穿って台地と分断して主郭を形成している。ほぼ単郭の城であるが、南や西にわずかな段差で腰曲輪が構築され、特に南西に向って下り勾配となる部分には腰曲輪が3段形成されている。城とは言うものの、居館的色彩の濃い館城である。尚、近くの大宝寺の裏手には奈良井義高の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967196/137.811749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

太田道灌陣屋(埼玉県川島町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2493.JPG←陣屋跡の石碑、奥に水路
 太田道灌は、扇谷上杉氏の家宰で、戦国初期の関東争乱の中で獅子奮迅の活躍をした名将である。殊に山内上杉氏の重臣長尾景春が大規模な反乱「長尾景春の乱」を起こした時には、関東各地を転戦してほぼ独力で乱を鎮圧した。また築城家としても有名で、江戸城河越城岩付城など名だたる関東の名城の原型を築いたと言われる(道灌の父太田道真が築城したとの説もある)。

 川島町にある養竹院は、そんな活躍をした道灌の陣屋跡に建てられたとの伝承がある。養竹院は、道灌の甥叔悦禅師が、同じく道灌の甥で養子となった資家(岩付城主)の菩提を弔う為に開山した寺である。寺には明確な遺構はないが、周辺には水路が流れ、堀跡であった可能性がある。また境内には「太田道灌の陣屋跡」と書かれた石碑がある。太田資家夫妻の墓もある他、岩付太田氏にまつわる遺品が多く残されており、太田氏との深い繋がりを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.979196/139.500918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

玉川陣屋(埼玉県ときがわ町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2366.JPG←陣屋跡の現況
 玉川陣屋は、『日本城郭大系』では代官屋敷と記載され、関東に入部した徳川氏が築いた陣屋である。元々この地には、天文年間(1532~55年)に松山城主上田朝直が築いた出城があり、森兵庫頭・家老小澤肥前・澤田五右衛門・樅澤三右衛門ら多数の将士を置いて、近郷を管轄させたと言う。1590年の小田原の役後に徳川家康が関東に移封となると、玉川領は徳川氏の直轄地となり、代官頭大久保長安に支配を命じた。長安は、家臣平岡帯刀を玉川へ派遣し、建物が残っていた出城跡をそのまま陣屋として使い、近郷50ヶ村を支配させた。『新編武蔵国風土記稿』では、文禄年間(1592~96年)頃に陣屋が設営され、その頃は中川某が代官として支配していたとする。6代将軍徳川家宣の治世の1710年に、玉川陣屋は廃された。

 玉川陣屋は、現在は畑や宅地に変貌し、明確な遺構は残っていない。しかし町の史跡に指定され、立派な石碑が建てられている。明確な遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.012233/139.294238/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

小藩大名の家臣団と陣屋町 3 南関東・中部(新装改訂版)

  • 作者: 米田藤博
  • 出版社/メーカー: クレス出版
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

須賀谷原古戦場(埼玉県嵐山町) [その他の史跡巡り]

DSCN2343.JPG←出土した五輪塔群の覆屋
 須賀谷原古戦場は、山内・扇谷両上杉氏が戦った長享の乱の際の古戦場である。1486年に声望の高かった扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、主君扇谷上杉定正の糟屋館で謀殺され、道灌死後の翌年、関東管領山内上杉氏と扇谷両上杉氏との間に対立が生じ、長享の乱と呼ばれる動乱となった。1488年2月、扇谷上杉定正の本拠糟谷館を襲撃しようとして実蒔原で敗北した山内上杉顕定は、同年6月に定正の重要拠点河越城を攻撃しようと出陣した。しかし定正は、顕定に反逆していた長尾景春と古河公方足利成氏の子政氏の援軍と共に須賀谷原で迎え撃った。この須賀谷原の合戦で扇谷上杉氏は再び勝利した。この後、11月には高見原で三度目の合戦があり、これにも定正は勝利し、山内上杉氏は3タテを食うこととなった。これら3つの合戦を総称して、俗に長享三戦と言う。

 須賀谷原の合戦は、菅谷館北東の丘陵地で行われたらしい。埼玉の古城巡りで有名なブログ「そこに城があるから」の記事を参考に古戦場推定地を訪問した。住宅団地の只中にある空き地(公園?)の丘の上に覆屋があり、五輪塔数基が建っている。ここでは平成12年に行われた発掘調査の結果、戦国時代の塚や墓壙群が発見され、15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡と考えられており、遺跡の年代と位置関係から須賀谷原合戦と関係する遺跡と推測されているらしい。五輪塔はこの時出土したものという。残念ながら、現地には遺跡についての解説板や石碑はなく、あるのは土地区画整理組合の石碑だけである。歴史を後世に伝えるために、遺跡についての解説板などを是非設置してもらいたいものである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.038802/139.327809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

  • 作者: 水野大樹
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: Kindle版


タグ:古戦場
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

奈良梨館(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2308.JPG←館跡の民家
 奈良梨館は、小田原北条氏の家臣で松山衆であった鈴木氏の居館である。鈴木氏は、鈴木民部重直が伊豆から松山衆の寄騎として奈良梨に移住したとされる。伊豆の鈴木氏といえば、伊豆水軍の将の一人であった江梨鈴木氏が知られているので、重直もその一族であった可能性がある。北条氏滅亡後は、奈良梨村の名主となったと言う。

 奈良梨館は、現在ご子孫とされる鈴木家の宅地となっている。宅地の北側に土塁が残るようだが、訪城したのが夏場だったので、わずかに道路際から見ることしかできなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.083537/139.287586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2018/12/04
  • メディア: 新書


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

奈良梨陣屋(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2301.JPG←東側の土塁と堀跡
 奈良梨陣屋は、信濃の名族諏訪頼忠の陣屋である。1582年、甲斐武田氏・織田信長の相次ぐ滅亡後に生起した北条・徳川・上杉諸氏の抗争「天正壬午の乱」の中で、頼忠は諏訪氏旧臣達に擁立されて諏訪氏の家督を継ぎ、旧領を奪還して北条方に付いた。天正壬午の乱終結後は徳川家康と和睦し、徳川氏に服属した。1590年の小田原の役の後、徳川家康が関東に移封となると、諏訪頼忠も武蔵国奈良梨・羽生・蛭川等1万2千石を拝領し、奈良梨に陣屋を構えた。諏訪氏の陣屋期間は、1592年に諏訪頼水が上野国総社に移封となるまでの3年間であった。

 奈良梨陣屋は、現在の八和田神社(旧諏訪神社)境内を含む一帯にあったらしい。社殿の北と東には土塁と堀跡が残っている。町指定史跡でもあり、土塁北東に解説板が立っているが、それによると「戦国時代から江戸時代にかけて」の頃に「鎌倉街道上道の宿駅として栄えた奈良梨において、(中略)なんらかの施設がおかれていた可能性がある」と書かれており、諏訪氏について触れられていないことから、諏訪氏の陣屋とは断定できなかったらしい。しかし奈良梨は、戦国時代には小田原北条氏の伝馬が置かれていた戦略的要地であったと言うので、ここに諏訪氏が陣屋を置いた可能性は十分考えられるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.082306/139.288445/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー