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嵩山城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2057.JPG←小天狗から見た嵩山城全景
 嵩山城は、岩櫃城主斎藤氏滅亡の城である。斎藤氏は岩櫃城を拠点に勢力を張り、関東管領山内上杉氏の麾下に属していた。上杉氏が小田原北条氏に逐われて没落すると、斎藤越前守憲広は勢力拡大を狙って、三原庄の鎌原氏と争うようになった。鎌原氏は甲斐の武田信玄を頼り、一方の憲広は白井長尾氏を通じて越後の上杉謙信を頼った。1563年、信玄は真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃した。10月に岩櫃城が落城すると、憲広は謙信を頼って越後に逃れたが、末子の城虎丸を池田佐渡守重安と共に嵩山城に入れて守らせ、武田方の拠点となった岩櫃城と対峙した。翌年より武田勢による嵩山城攻撃が開始された。65年には、憲広の嫡男憲宗が上杉勢の加勢を得て嵩山城に入った。一方、武田勢の主将真田幸隆は、嵩山城の支城である仙蔵城(内山城)を攻略し、ここに本陣を置いて嵩山城を攻撃した。幸隆は斎藤方の池田重安父子を調略し、11月半ばに五段田原で斎藤勢と激戦を交えた。その翌朝、真田勢は朝駆けして嵩山城一の木戸を激闘の末に突破し、嵩山城に攻め上がった。夜には憲宗は自刃し、城虎丸と一族郎党・女房子供は大天狗の岩上より身を投げて斎藤氏は滅亡した。

 嵩山城は、吾妻地域で特異な威容を誇る、標高789.2m、比高240mの嵩山に築かれている。南麓に道の駅があり、またハイキングコースも整備されているので、城へのアクセスは非常に良い。2つの登山道の内、西の表登山道から登ると、入口付近に何段かの平場があり、これが激戦の展開された一の木戸である。一部公園化で改変されているが、ほぼ往時の形態を留めている様である。ここから延々と登山道を登ると、嵩山の尾根南西部の鞍部に至る。ここには尾根に沿って段々に曲輪群が見られ、城内では最も居住性のあるエリアである。山上には、南西から順に小天狗・中天狗・大天狗と呼ばれる突き立った岩塊があり、それらの間の尾根に曲輪を築いて城としているが、あまり城兵のいるスペースがない。主郭は「実城の平」と呼ばれる小さな平坦地で、その下に二ノ郭と思われる平場が広がっている。その他、派生する尾根に曲輪群が見受けられるがいずれも大した規模ではない。また山自体が峻険な岩塊でできているせいか、堀切は自然地形をそのまま利用したもの以外は普請されていない。遺構としては大したものではなく、滅亡間近の悪あがきの城だった様である。それにしてもこの嵩山は、吾妻地域のどの城からもよく見え、また目立つ山なので、武田方に対しての精神的な嫌がらせにはもってこいだったろうと思う。山上からの眺望は素晴らしいので、城としてよりハイキングに適した城である。
主郭の「実城の平」→IMG_2099.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.612625/138.830130/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

  • 作者: 小川 由秋
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/01/06
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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行沢城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1996.JPG←堀切と二ノ郭
 行沢城は、高田小次郎の家臣田村山城守が城主であったと伝えられる城である。田村氏の事績は不明であるが、東方の諸戸川対岸の段丘上に田村氏館とされる古立の館があり、高田氏の下で付近の城砦群と連携して街道筋を守っていたと考えられている。

 行沢城は、行沢地区背後の比高わずか20m程の丘陵先端部に築かれている。大きく4つ程の曲輪を一直線に並べた連郭式の城で、東端の四ノ郭に配水所が建てられているので、配水所に登る北側斜面の階段から城内に入れる。四ノ郭は前述の通り配水所建設で改変されているが、その上の三ノ郭からは無傷で残っている。三ノ郭は馬蹄形の曲輪で、背後に主郭の切岸がそびえている。主郭は広いが、南が一段低くなっていて、2段で構成されている。主郭の背後には土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれている。堀切の西には方形の二ノ郭があり、二ノ郭の裏にも堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭から二ノ郭にかけての北側には武者走りが通っており、2本の堀切などを繋いでいる。全体に遺構はよく残っているが、主郭の周囲や南斜面は冬でも薮が多くて、ほとんど遺構が確認できない。縄張り的に平凡で、素朴な形態の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292091/138.784533/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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諸戸城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1914.JPG←主郭南東角の堀切
 諸戸城は、歴史不詳の城である。しかし位置的にはこの地の土豪高田氏の勢力圏であり、高田氏の持城の一つであったと考えられている。近隣の行沢城・古立館・菅原城等と連携して、妙義地域を守っていたと推測されている。

 諸戸城は、諸戸川北岸の標高370m、比高70m程の丘陵上に築かれている。南麓の吾妻神社付近からも登れるようだが、地形図には東尾根に道が記載されているので、私は東尾根から登城した。この東尾根の林道は明確で、迷わずに城まで行くことができるが、林道建設の際に東尾根の遺構が破壊を受けているのが惜しい。諸戸城は、長方形の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に堀切を穿ち、各尾根上に曲輪を配した縄張りとなっている。主郭は北東から南西に細長く伸びており、北東角に低土塁と虎口が築かれ、北西角には竪堀状の通路を持った枡形虎口が築かれている。この桝形虎口の外には武者走りが通り、北西の堀切と南西の堀切を繋ぐ通路となっている。主郭角の堀切はいずれも明確で、深さ3~4m程ある。堀切の外には、いずれの尾根も細尾根上に曲輪が築かれている。北西尾根の曲輪は2段に分かれ、下段の曲輪には北辺に土塁が築かれている。北東尾根の曲輪は林道でやや破壊を受けているが、先端に堀切が残り、側方に尾根と平行に帯曲輪が築かれている。南西尾根の曲輪はほとんど自然地形に近いが、先端に物見台の様なものが見受けられる。南東尾根の曲輪は堀切の外に土壇の様な小郭があり、その先の東尾根はダラダラと続いている。この東尾根上に3本の堀切が穿たれているが、前述の通り林道建設で破壊を受けており、側方の竪堀部がわずかに残るだけで、痕跡はわずかでしかない。以上が諸戸城の遺構で、菅原城や桐の木坂城など、厳しい岩場の山に築かれた城と比べると、大きく趣を異にしている。しかし街道に近い位置にあることから、至近にある行沢城と共に街道を監視し、押さえる役目を負っていたことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292247/138.775241/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世山城
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菅原城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1770.JPG←西尾根の二重堀切
 菅原城は、この地の土豪高田氏の重要な支城である。高田氏は関東管領山内上杉氏に仕え、武田氏の侵攻に備えて、松井田城の前衛として菅原城を構えていた。武田信玄が佐久制圧を目指して志賀城を攻撃した時には、上杉氏の援軍として高田遠春父子が志賀城に入ったが、落城して討死した。その後も高田氏は、箕輪城主長野氏の下で武田氏に抵抗していたが、1561年末頃には武田氏に服属した。武田氏が滅ぶと北条氏に従い、北条氏が滅亡すると、高田直政はこの地を離れ信濃に移住した。この間の菅原城の歴史は明確ではないが、上州と信州佐久を結ぶ重要路に接していることから、街道確保のために重視され、戦国末期まで使われた城と推測されている。

 菅原城は、県道51号線に向かって西から張り出した、標高452m、比高110m程の山上に築かれている。ネット上では過去にこの城に行っている人の多くは南東の急崖を登っている様だが、往時にそんな道を登城路としたとは考えにくいし、地形図を見ると西尾根近くに登る山道が北麓から伸びている様なので、そちらからアタックした。一部消えかかってはいるものの辛うじて林道が残っており、こちらのルートからならば苦労することなく西尾根近くに行くことができた。またこのルートを選択すると、『境目の山城と館 上野編』などの各種の縄張図に描かれているよりも西側に遺構が広がっていることも確認できた。『境目の山城と館 上野編』の縄張図で言うと、堀切カの更に西側に当たる。この西側遺構が記載されているのは、家に帰ってから調べた限りでは飯森康広氏の「戦国期の富岡市妙義町菅原城と高田氏」所収の縄張図だけの様である。鞍部に二重堀切(但し外堀は、両側に竪堀を落としているだけ)を穿ち、その東側に櫓台がそびえている。櫓台から更に平らな尾根を経由して南東に城道が伸び、動線制約の竪堀を抜けて西出曲輪に至る。西出曲輪は西側に腰曲輪を築き、先程の城道はこの腰曲輪に通じている。西出曲輪の背後には土塁と大きな櫓台がそびえ、その背後に城内最大の堀切カがある(以後、曲輪等の符号は『境目の山城と館 上野編』に準じる)。堀切カの東に2郭がそびえ、堀切からの城道は北西斜面を経由して堀切オに通じている。つまり堀切オは、虎口を兼ねているわけである。堀切オの北尾根にもいくつかの小曲輪群が見られる。一方、2郭の南東尾根には2本の堀切と3郭があり、そこから岩尾根を抜けて、主郭群に至る。主郭群はほとんど居住性のない小さな曲輪群の集合体で、頂部は物見台状となっていて、その周りを腰曲輪が取り巻いている感じである。主郭の北にはやや広めの馬蹄形曲輪があり、その先に3本の堀切と北尾根曲輪群がある(『境目の山城と館 上野編』の縄張図では堀切2本となっているが、その先にももう1本、両側に竪堀を落としているだけの小堀切が確認できた)。また主郭群の南東尾根も細長い曲輪が続き、先端に宝篋印塔がある。その先にも物見の曲輪があるらしいが、斜度の厳しい岩尾根の様だったので、踏査しなかった。一方、主郭群の南西斜面には規模の大きな曲輪群が築かれている。最上段の5郭が最も大きく、実質的な城の中心部であろう。その下の東西にも馬蹄段や腰曲輪が築かれている。城巡りの先達・余湖さんの図では、その下にも中央を大土塁で仕切った曲輪がある様だが見落としてしまった。
 菅原城は、厳しい岩山を利用した城砦で、地勢自体が最大の防御となっている。尚、城の大手は2郭の北尾根とされているが、私が見た限りではより防御構造が厳重な西尾根の方であったと思う。
動線制約の竪堀→IMG_1774.JPG
IMG_1779.JPG←西出曲輪の土塁・櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.271949/138.772752/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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桐の木坂城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1749.JPG←主郭背後の堀切
 桐の木坂城は、国峰城主小幡信貞の持城と伝えられる。小幡氏以前には、この地域一帯を領した高田氏の城であったと推測されている。高田大和守繁頼は桐の木坂城以外にも西牧地区に多くの城砦を築いて甲斐武田氏の侵攻に抗したが、1561年には高田氏は武田信玄に降っており、それ以後は桐の木坂城を含むこれらの城は放置されたと思われる。1582年の武田氏滅亡後、小田原北条氏が上野をほぼ手中に収めると、小幡氏は北条氏に降り、この頃に高田氏の城を修築したか、或いは新規築城によって桐の木坂城が整備されたと考えられている。天正壬午の乱での対陣後、徳川家康との和睦が成った北条氏直は信濃から兵を引き、上野・信濃国境の松井田西牧両城を直轄地として強化し、この時期に両城の連絡と後方の備えとして桐の木坂城を築城したとも推測されている。1590年の小田原の役で北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入部すると、宮崎城に奥平信昌が入城していることから、この頃には桐の木坂城は廃城になったと思われる。

 桐の木坂城は、小坂川東岸の山上に築かれている。『境目の山城と館 上野編』に「下仁田地区の城は、山が険しく、十分な広さを確保できないために、山上の砦は物見烽火台として使われ、主要部分が中段及び山麓に置かれる例が多く・・・」と記載されている通り、山麓台地上の緩斜面の高台に居館を置き、その背後の細尾根に小城砦を築いている。この城に登るには、南西麓の県道196号線脇から民家の前を通る坂小道が伸びているので、それを登るとよいのだが、傍目には民家の私道のような道なので、ちょっと登るのに躊躇してしまう。道を登りきると、広い緩斜面に出る。耕作放棄地となっており薮に覆われているが、ここが馬場平と呼ばれる下曲輪である。特に明確な遺構は見られない。そこから北西に笹薮を抜けると、切岸に囲まれた中曲輪群に至る。中斜度の斜面上に何段もの曲輪を築いており、最上段は小さな方形の区画となっている。見るからに屋敷地という感じで、井戸跡らしい窪みも残っている。ここから北側の細尾根に道が伸びており、尾根上に虎口が築かれている。この尾根上に小城砦が築かれているが、主郭以外は「尾根上は幅1mほどで曲輪としては殆ど用をなさない」(『境目の山城と館 上野編』)と記されている通りの状況である。細尾根の西端や主郭に向かう途中には物見台が築かれている。唯一平面的な広さを持った主郭は、東西両端に堀切を穿ち、北西辺に低土塁を築いている。しかし小屋掛け一つ建てれば、それでいっぱいになってしまう程度の広さしかない。主郭の東も細尾根で、結局山上の砦でまともに兵が置けるのは主郭だけである。桐の木坂城は、中段の中曲輪を主体とした城だった様である。
 尚、山上の砦に登った時、主郭に鹿が2頭いたらしく、ダッシュで逃げていくのが遠目に見えた。
中曲輪の上段平場→IMG_1724.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【山麓の中曲輪】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.261949/138.748505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【山上の砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.262451/138.749020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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西牧根小屋城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1650.JPG←主郭
 西牧根小屋城は、小田原北条氏の家臣庭屋安芸守直成か、その子直澄が築いたとされる城である。『境目の山城と館 上野編』によれば、庭屋氏は藤原道長の7代の孫親能の3男親直が源頼朝の近習として仕え、武功によって上野国多胡郡・群馬郡・緑野郡の3郡を拝領し、甘楽郡新屋の庭屋に入部して、庭屋氏を称したとされる。その後、執権北条氏が新田義貞の鎌倉攻めで滅亡すると、庭屋直常も討死して、残された一族は安芸国厳島に落ち延びた。戦国時代になると、厳島に居た庭屋右衛門直尹は伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)を頼って父祖の地、上野へ下向した。その後を継いだ安芸守直成は、小田原北条氏2代氏綱の近習となり、重臣として活躍した。氏綱が没すると直成は殉死し、子の安芸守直澄が跡を継ぎ、北条氏康の命を受けて西上州平定のため新屋の庭谷城と西牧根小屋城を築いた様である。1559年、直澄は庭谷城で武田氏の間諜に殺され、嗣子右衛門太夫直元が根小屋城主となった。1565年、武田信玄が倉賀野城を攻略すると、この地は武田氏の支配下に入り、国峰城には小幡憲重を入れ、支城の庭谷城へは上原図書入道随応軒と庭屋左衛門尉大夫兼行を西上州7郡の惣横目(監視役)に任じて配置した。その為、直元も武田氏に服属して庭谷城の副将となった。その後、武田氏が滅び、織田氏の部将滝川氏も没落して上野国の大半が北条氏の支配下となると、直元は北条氏に従い、1590年の小田原の役で北国勢の別働隊、真田安房守昌幸の攻撃を受け、根小屋城は落城した。直元は城を逃れ、1605年に没したと言う。以上が『境目の山城と館 上野編』の記載であるが、北条氏が重臣を勢力圏から外れた地に移封したということも解せないし、庭屋直成という武士の事績も手元の文献やネット上では確認できないので、どこまで事実なのか何とも判断し難い。
 尚、西牧城の項で記載した通り、小田原の役の時、北条氏が派遣した武蔵青木城主多米周防守長定と相模藤沢城(御幣山砦?)主大谷帯刀左衛門嘉俊の2将は、共に西牧城を守ったとも、西牧城と根小屋城に分かれて守ったとも言われている。

 西牧根小屋城は、標高520m、比高140mの山上に築かれている。西麓の街道筋には源太屋敷と呼ばれる居館部があり、その背後に屹立する天狗岩を物見台とし、山稜上に小規模な詰城を築いた、この地域の城に多い構造となっている。まず居館の源太屋敷は、現在は畑となっているが、段が築かれ石垣が築かれている。石垣は往時の遺構とは見做し難いが、遺構の石垣も全くゼロではないかもしれない。源太屋敷の南端に榛名神社があり、その裏を登っていくと斜面上に段がいくつも築かれ、そこにも石垣がある。しかしさすがにこれは畑の石垣だろう。この斜面を登りきると、城の西側の尾根に至る。この尾根の西端が天狗岩で、物見台と腰曲輪が築かれ、祠が置かれている。この祠は庭屋安芸守が建てたと言い伝えられているらしい。一方、尾根を東に進むと詰城に至る。西尾根からの城道は大きく南に斜面を迂回して、主郭の南尾根の段曲輪群に通じている。『境目の山城と館 上野編』の縄張図にある「片流れの堀切」は、実際には前述の城道が繋がる虎口である。また主郭の南斜面には何段かの帯曲輪が築かれている。南尾根曲輪群から主郭へは斜度がきつく、直接主郭に道が通じていたのではなく、この帯曲輪を経由して主郭東側の堀切へ通じていたらしい。この堀切の西側上方に1段腰曲輪があり、その上に主郭がある。主郭は大きくはないが、西牧城の砦よりは遥かに広い。主郭の北西や西側には腰曲輪が見られるほか、小規模な石積みも確認できる。主郭の東尾根には二ノ郭・三ノ郭が築かれ、それぞれ小堀切で区画されているが、いずれも細尾根の狭小な曲輪である。三ノ郭の東に小郭が置かれて城域が終わっている。遺構は以上で、西牧根小屋城は、山麓居館と詰城が一体運用された城だった様である。ちなみにこの城では、立派な鹿のツノをGetすることができた。

 尚、この城は各種城郭本では単に「根小屋城」と呼称されるが、群馬県内には同じ名の城が多いので、ここでは便宜上、「西牧根小屋城」と表記した。
源太屋敷の石垣と屹立する天狗岩→IMG_1599.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【源太屋敷】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.250217/138.706212/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【山上の詰城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.250157/138.708529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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西牧城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1558.JPG←御殿跡とされる山麓の平場
 西牧城は、小田原の役の際に小田原北条氏が北国勢に備えた城である。永禄年間(1558~69年)の武田氏侵入時代に既に存在していたとも言われるが、砥沢城との混同もあり必ずしも明確ではない。元々この地は土豪の高田氏の支配領域であり、武田氏侵入以前に高田氏によって城砦が築かれていたとも考えられている。1582年の武田氏滅亡後、北条氏が上野をほぼ手中に収めると、信州境を押さえる要地として、西牧城は松井田城と共に北条直轄地として重視され、強化されたと言われている。小田原の役の時には、歴戦の部将である武蔵青木城主多米周防守長定と相模藤沢城(御幣山砦?)主大谷帯刀左衛門嘉俊が西牧城に配されたが、小諸城主松平康国・康寛兄弟(依田信蕃の子)に攻撃され落城、多米・大谷両将は討死したとも捕らえられたとも伝えられる。但し、2人の大将が西牧城を守ったのではなく、西牧城と根小屋城に分かれて守ったとする説もある様だ。

 西牧城は、市ノ萱川南岸に築かれている。川沿いの段丘上の平場を主城域(居館)とし、その背後に屹立する山上に小城砦を築いている。まず段丘上の平場は現在耕地化され、何段もの平場に分かれ、石垣が築かれている。しかしこれらは耕地化に伴うものとも考えられ、どこまで往時の形を留めているかはっきりしないが、『境目の山城と館 上野編』の縄張図によれば最上段の平場に御殿があったらしい。また東の沢を渡る小橋が架かっているが、これが往時の大手らしい。一方、山上の小城砦は、古くは「鐘撞堂」と呼ばれたと伝えられ、物見と烽火台を兼ねた施設であったと推測されている。しかしこの小城砦は断崖に囲まれ、登坂路を見つけ出すのが難しい。北面の断崖を行きつ戻りつして迷った挙げ句、ようやく断崖と断崖の狭間にある急斜面に僅かな踏み跡を見つけて登ることができたが、この城の縄張り図を書いたお歴々はどうやって登り道見つけたんだろうか?と、驚いてしまう。山上には居住性のほとんどない小さな平場群だけで構成された砦がある。平場は全部で6つ。2郭には2基の石祠が祀られ、その背後に最上段の1郭があるが、本当にただの物見台である。1郭の南支尾根に狭小な南郭があり、武者走りで2郭と繋がっている。2郭の北東に3郭・4郭が段々に連なり、3郭の南に5郭があって、その脇に小竪堀が落ちている。いずれにしても詰城にもならない広さである。
 西牧城は、北条氏が重視したという伝承とは不釣り合いなほど、ささやかな遺構である。ただ山麓の居館部自体が川と沢筋で街道から隔絶されており、そうした地形を利用して守りを固めていたことは十分に考えられる。
 なお山上の砦への道が見つけられなければ、危険なので無理に登らない方が良い。
山上砦の3郭から見た2郭→IMG_1567.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【山麓の主城部(居館)】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.238190/138.696148/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【山上の砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.237186/138.695612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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西平城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1510.JPG←堀切と半月状の独立堡塁
 西平城は、大島上城とも言い、歴史不詳の城である。北麓の平野部には大島下城があり、その詰城であった可能性がある。大島下城は国峰城主小幡氏の家臣小間氏の城であるので、西平城も小幡氏の持城であった可能性が高いと言う。

 西平城は、標高300mの山上に築かれている。北中腹を上信越道が貫通していて、北麓の遺構は湮滅しているが、それ以外の遺構はよく残っている。この城へは、上信越道の側道から登道が付いている。山頂に主郭を置き、背後の西尾根に小堀切を挟んで二の郭を配置し、主郭の北側から東側にかけて何段もの腰曲輪を築いた縄張りとなっている。主郭は南辺に土塁を築き、東側には虎口を兼ねた堀切を穿っている。堀切の外側には半月状の独立堡塁がそびえ、その下方にも堀切と腰曲輪がある。東の腰曲輪群と北の腰曲輪群は明確な武者走りで繋がっている。一方、主郭背後の二ノ郭は細尾根の曲輪で、西端が高くなっていて物見台になっていたと考えられる。ここには小祠が祀られている。その西には城域を区切る堀切が穿たれている。この他、北尾根の東も、あまり明瞭ではないが曲輪群とされており、塚状の土壇や平場が見られる。その東下方、前述の側道からの登道の東側にも土塁や物見台状の土壇が見られ、遺構と考えられる。
 西平城は、腰曲輪群で構成された小城砦であるが、曲輪間の繋ぎの武者走り・城道が明確である。ちなみに、この城から降りる際に相方が倒木で負傷してしまうというアクシデントがあった。個人的にいわく付きの城となってしまった。
土塁のある主郭→IMG_1507.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.235005/138.861995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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内匠城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1441.JPG←横矢掛かりの大空堀
 内匠城は、国峰城主小幡氏の家臣倉股大炊助の居城である。倉股氏は小幡氏家中の旗頭と伝えられるが、詳細は不明。1590年の小田原の役の際、上杉景勝軍の別働隊が国峰城を攻略した時、別働隊を率いた藤田能登守信吉がしばらく在城したのが内匠城であったと推測されている。

 内匠城は、鏑川の南に横たわる離山(はなれやま)丘陵の南東端、標高221.6m、比高50mの段丘上に築かれている。城のすぐ北側を上信越道が貫通しており、最北の空堀だけ損壊を受けているが、大部分は幸いにも無傷で残っている。内匠城は、南東端に主郭を置き、その北から西にかけてニノ郭を廻らし、更にその北と西に北三ノ郭と西三ノ郭を配置した梯郭式の縄張りとなっている。主郭も二ノ郭も大手は北側に付いており、それぞれの曲輪は大きな空堀で分断されている。主郭は南西角部が高台となり、その上に更に土壇が築かれており、さながら天守台の様である(現在は神社が建っている)。しかも空堀に対して西側に張り出しており、堀底へ横矢を掛けている。主郭北西部も塁線が内側に折れて横矢掛かりが見られる。主郭の南と東の斜面には帯曲輪が築かれ、更に南東下方には堀切と土壇・段曲輪が築かれて、下方への防備を固めている。二ノ郭は西側に土塁が築かれ、外周には幅広の大空堀が穿たれている。この空堀は、二ノ郭の北西部で、北三ノ郭の櫓台が西に張り出し、横矢を掛けている。この北三ノ郭櫓台の北側でも空堀が屈曲している。西三ノ郭は畑になっており、立入禁止になっていたので未踏査であるが、その外周も空堀が穿たれている様だ。
 内匠城の作りは、西上州の他の城とは大きく趣を異にしており、台地辺縁部を利用した中規模の城であること、ダイナミックな横矢の大空堀があるなど、小田原北条氏の城に多い特徴を色濃く持っている。織田信長横死後の天正壬午の乱の後、北条氏がこの地を支配した時に改修を受けた可能性が大きいと思う。
主郭の天守台らしき土壇→IMG_1375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.239159/138.903108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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大山城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1262.JPG←二ノ郭外周の横堀
 大山城は、国峰城主小幡氏の家臣野宮氏の歴代の居城である。野宮氏は、野宮淡路守信勝から28代駿河守信詮まで続いたと伝えられる。信詮の母は小幡氏の出であったので、野宮氏は小幡氏の親戚筋でもあった。信詮は1590年の小田原の役の際に、叔父の小幡則信と共に上方勢に抵抗し、国峰城落城後は小幡信昌(国峰城主小幡信貞の弟)に従って加賀に移り、1618年に没したと言う。

 大山城は、鏑川南岸に突き出した比高60m程の段丘上に築かれている。この場所は上信越道のすぐ北に当たり、行き方が少々わかりにくいが高速道路の側道を進むと、その脇から城への散策路が整備されている。遺構は完存し、城内は綺麗に整備されているので、非常に良好な遺構を見ることができる。但し、城内には絶滅危惧植物が自生しており、ロープで規制された部分には立入らないよう注意書きが立っているので、注意が必要である。城は、大きく3つの曲輪から構成され、北西に張り出した方形に近い形の曲輪が主郭、その南側背後に二ノ郭、更に主郭とは竪堀で分断された三ノ郭が北東に突き出している。更にこれらの曲輪の外周には腰曲輪が築かれ、二ノ郭西側では3段の腰曲輪が確認できる。また二ノ郭の南西外周には横堀が穿たれているが、埋もれているのかかなり浅い堀である。主郭と二ノ郭の間は段差で区画されているが、西端部だけ堀が穿たれ、主郭にはこの堀に沿って土塁・櫓台が築かれている。三ノ郭も後部の曲輪とは段差だけで区切られている。二ノ郭の南東部には、背後の尾根と分断する堀切が穿たれ、尾根側に2~3段の段曲輪が築かれて城域が終わっている。近くまで車でアクセスでき、綺麗に整備されているので、おすすめの城である。
主郭から見た竪堀と三ノ郭→IMG_1281.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.239142/138.842576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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馬山西城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1154.JPG←二ノ郭の上にそびえる主郭
 馬山西城は、馬山東城に対する詰城(要害城)である。東城と共に別城一郭の構えを為し、国峰城主小幡憲重の持城であったと伝えられる。

 馬山西城は、馬山東城が築かれた台地の南方に横たわる、標高330m、東城からの比高60m程の山上に築かれている。下仁田・南牧地域の城によく見られる通り、曲輪が小規模で居住性をほとんど持たない詰城の様相を呈している。しかしその中では比較的城域が広く、東西に伸びる尾根上に約150~60m程に渡って遺構が残っている。東城から南西に畑道を進み、畑の奥の藪に埋もれた小道を見つけて南下すると、主郭北尾根の曲輪群に至る。2段の曲輪を経由して上に登ると二ノ郭に至る。二ノ郭は虎口を築き、その前面に小郭を設けている。二ノ郭の上には4m程の切岸で主郭がそびえている。主郭は小さく土塁もないが、2基の祠が祀られ、城址碑が建てられている。主郭の西尾根には明確な遺構が見られないが、東尾根には尾根上に6つ程の曲輪群が連なり、所々を小堀切で防御している。合計で3つの堀切が確認できる。『境目の山城と館 上野編』の縄張図では、4本の堀切があることになっているが、エの堀切は誤認だと思われる。東尾根の先のピークに曲輪7があり、その南に伸びる細尾根の先に物見台があって、祠が祀られている。城内は藪が少なく歩きやすいが、城の北麓だけ藪が多く、道が見つけにくいのが難である。
2本目の堀切→IMG_1172.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.219739/138.802192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世山城
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馬山東城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1135.JPG←主郭跡とされる米山寺
 馬山東城は、国峰城主小幡憲重の持城と伝えられている。この地は、東の小幡氏に対して北から高田氏、西から武田氏の勢力を背景に市川氏が進出し、その接壌地帯となっていたことから、小幡氏にとって重要な拠点であったと考えられている。尚、南方の山上に馬山西城があり、東城を居館とし、西城を詰城とした別城一郭の構えであった。
 馬山東城は、道の駅しもにたの東の比高35m程の台地上に築かれていた。平坦地が延々と広がるかなり広大な台地であるが、米山寺の位置に主郭があったらしく、周囲より一段高くなっている。そこから北に向かって舌状台地が伸びているが、畑や墓地に変貌しており、段差や腰曲輪状の地形が確認できるが、改変が激しく遺構かどうかはわからない。結局明確な遺構は無いが、米山寺に建つ城址碑だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.223045/138.804102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世平山城
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吉崎城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1117.JPG←北東尾根の堀切の一つ
 吉崎城は、桜井丹後守の出城で、その家老桜井右近将監が居城していたと伝えられている。桜井丹後守は、鷹ノ巣城の城代であったらしい。鷹ノ巣城主小幡三河守貞政は、関東管領兼上野守護の山内上杉氏に仕えてほとんど鷹ノ巣城を留守にしており、城代桜井丹後守が鷹ノ巣城を守り、吉崎城には家老の桜井右近将監が置かれたと推測されている。吉崎城は、鷹ノ巣城築城後にその防衛力強化のために築かれた様である。桜井丹後守は、山内上杉氏没落後、武田氏・滝川氏・北条氏とこの地域の支配者の変遷に伴ってこれに従い存続を図っていたが、1590年の小田原の役では、上杉景勝軍の別働隊、藤田能登守信吉の軍勢によって西牧城根小屋城と共に攻略され、同年徳川領になると廃城となったと考えられている。

 吉崎城は、標高453m、比高213m程の富士山に築かれている。この富士山は、遠目に見ても峻険な山で、最初に山容が見えてきた時、まさかあの山に登るんじゃないだろうなと思ったほど厳しい山容である。一応、富士山への登山道が南西麓の民家の奥から付いているのだが、登山道は消えかかっている上、砂礫と枯れ葉で滑るし木が少なく捕まるところがない、なかなか大変な登城となった。登山道は最初は東方向に斜面を登っていくが、途中から北方向に折れ、尾根と平行に西斜面をトラバースするルートとなる。この西斜面に、西に突き出した物見台らしい平場が3ヶ所確認できる。綺麗に削平されているので、間違いなく遺構であろう。この物見台遺構は『境目の山城と館 上野編』の縄張図には記載がない。これらを通過して進むと、城の北西中腹の腰曲輪に至り、ここには赤い鳥居が建っている。ここから途中腰曲輪を1段経由して登りきった山頂部が主郭で、小祠が鎮座している。主郭は土塁もない狭小な曲輪で居住性はなく、詰城という以上のものではない。主郭の北東の尾根には合計5本の急峻な堀切が執拗に穿たれている。しかしこの尾根は斜度が急な上、砂礫で滑りやすく、捕まることのできる木も少なく、登り降りできる尾根ではない。何でここまで執拗に堀切を作る必要があるのかと思ってしまう。また主郭背後に当たる南尾根は峻険な岩の細尾根で、2本堀切を穿って防御しているが、ほとんど人が通れる場所のない滑落必至の岩塊の堀切で、ここも堀切を穿つ必要があるのか、よく理解できない。『境目の山城と館 上野編』の著者の宮坂先生はこの危険な尾根の堀切まで測量しているが、何歳でここを踏査したのか、驚くばかりである。この他、北西の遥か下方に中段曲輪群があるらしいが、体力を予想外に消耗したため未踏査である。
 吉崎城は、遺構はよく残っているが、峻険で危険なちょーヤバい山城である。下仁田・南牧地域の城にはこうした例が多いが、その中でもかなり危険な部類に入る。従って、普通の人でも滑落しかねない城なので、特に高齢者には訪城はお勧めできない。
南尾根のちょー危険な堀切→IMG_1099.JPG
この堀切は極めて危険なので、行かない方が良いです。自己責任で判断して下さい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(但し、非常に危険!)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.207066/138.801677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
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羽沢城(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1037.JPG←腰曲輪の石積み跡
 羽沢城は、砥沢の砦とも呼ばれる。歴史については不明確な部分が多いが、現地では市川五郎兵衛屋敷と表記され、羽沢城の5代目城主として市川五郎兵衛真親の名が伝わっている。真親の前の城主(おそらく真親の父)が右馬介真治で、市川氏本家の砥沢城主市川右近介真乗の弟で、1536年に真乗が25歳で若死にすると、その嫡子久乗が5歳という幼少であったので、その後見を務めて市川氏本家を支えた。真治は、砥沢の関守も兼ね、1588年に73歳で没したと言う。その次の城主真親は1571年頃の生まれと言われ、武田氏・北条氏が滅んで主家を失った後、関東に入部した徳川家康からの仕官の誘いを断り、代わりに1593年12月に家康から鉱山開発・新田開発許可の朱印状を勝ち取った。そして砥沢村(現・南牧村)で砥石山の経営を行うと共に、信州佐久地方へ進出し、私財を投じて用水路を開削、新田開発で多大な功績を挙げた。その名は、今でも五郎兵衛新田や五郎兵衛用水として伝わっており、その功績を伝えるため、佐久市には五郎兵衛記念館が建てられている。
 一方、話が戦国時代に戻るが、国峰城を奪われて武田信玄を頼った小幡憲重・信貞父子は、武田氏の支援によって南牧の砥沢に砦を築いて、国峰城奪還の橋頭堡としたが、その砦が羽沢城ではなかったかとする説もある。しかし現在残る遺構から考えれば、胡桃城裡山砦を含めた砥沢城の方が拠点として相応しいように考えられる。

 羽沢城は、市川氏の本城砥沢城より更に1.3km程奥地にあり、南牧川と星尾川の合流点に築かれている。ここは佐久方面に通じる間道を押さえる交通の要地で、麓の城館と背後の詰城で構成された城であったと推測される。南牧村民俗資料館(旧尾沢小学校)の場所が周囲より一段高い台地となっており、ここに屋敷が置かれていた様だ。校地にした際に大きく改変されているので、どの様な屋敷地だったのかは現状からでは明確にはわからない。一方、その背後の尾根上の詰城は、虎口を兼ねた小堀切とその背後の数段の小郭から構成されただけの小城で、大した兵力を籠めることもできない、ほとんど物見程度のレベルである。それでも一部に石積み跡が見られる。城郭遺構としては見るべきものは少ないが、南牧の歴史を語る上では重要である。尚、城の北東にやや離れて市川五郎兵衛真親の墓が残る他、詰城の登り口に法輪塔が残る。
小堀切→IMG_1031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.161066/138.659005/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世平山城
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砥沢城・胡桃城裡山砦(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0940.JPG←二重竪堀
 砥沢城は、南牧衆の筆頭であった市川氏宗家の居城である。市川氏は、1567年に信州生島足島神社に奉納した起請文に、南牧6人衆として市川氏の兄弟3人が名を連ねている。即ち市川一族だけで6人衆の半分を占めていた。甲斐国八代郡市川を出自とする一族で、市河氏とも表記され、甲斐武田氏と同様に新羅三郎源義光を祖とする。その後、甲斐・信濃に一族が盤踞し、武田氏に従っていた。南牧の上州市川氏もその庶流と推測され、いつの頃か南牧に来住したらしい。武田信玄が信濃に進出すると、上州諸族の中ではかなり早い時期に武田氏に従った。一方、1553年に国峰城主小幡憲重は、留守中に箕輪城主長野業政の支援を受けた同族の宇田城主小幡景定に城を奪われた。憲重は武田信玄を頼り、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入った。これは、元々市川氏の城があったものを、若干の手を加えて小幡憲重・信貞父子が拠り、上州攻略の橋頭堡にしたと考えられている。その後、小幡父子は国峰城の奪還に成功した。
 胡桃城裡山砦は、歴史不詳であるが砥沢城の尾根続きにあることから、武田氏の意向を受けて市川氏或いは小幡氏が改修強化した詰城と考えられている。

 砥沢城は、南牧川と渋沢川に挟まれた標高510m、比高70m程の山上に築かれている。南東麓には市川氏の末裔の屋敷があり、往時のものかはわからないが石垣が確認できる。山上の要害部は細尾根上の狭小な城砦で、一部改変を受けているが、小堀切・小郭が残り、一部に石垣も残存している。
 胡桃城裡山砦は、砥沢城から更に140m程登った、標高650mの西の尾根続きに築かれている。砥沢城同様に細尾根の小城砦で居住性はほとんど無いが、段曲輪群などがしっかりと残っていて普請の規模はより本格的かつ広範囲である。山頂の主郭は東西に細長く、背後に2本の小堀切を穿ち、西端に物見台を備えている。主郭側方には帯曲輪が築かれ、北東端には明確な桝形虎口が築かれている。この枡形虎口は、小城砦には不釣り合いなほどしっかり築かれた大型のものである。主郭の東尾根には数段の段曲輪があって、断崖に接している。これらの山上部から北東に降ると、尾根の北斜面には大型の二重竪堀とL字型の竪堀・横堀の連結構造が見られる。また尾根東の窪地状の部分には2段程の平場が広がり、石垣が明確に残っている。この石垣は耕地化による可能性もあるが、『境目の山城と館 上野編』では遺構と見做している。ここ以外にも数箇所に石積み跡が散見される。更に砥沢城に至る北東下方の尾根にも明確な段曲輪群が所々に築かれている。
 遺構を見る限り、砥沢城と胡桃城裡山砦は一体運用されていたと考えられ、小さな城砦ながら武田氏による改修の痕跡を見いだせる。
枡形虎口→IMG_1013.JPG
IMG_0922.JPG←尾根上土塁の石積み跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【砥沢城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.156961/138.669412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【胡桃城裡山砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.155661/138.663876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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