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子王山城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3593.JPG←主郭
 子王山城は、歴史不詳の城である。創築には2説あり、『日本城郭大系』では天慶の乱(平将門の乱)の時に多胡政兼が築いたとし、現地解説板では平将門の家臣柴崎兵部景家が築いたと書かれている。しかし時代が古すぎて証明できず、にわかには信じがたい。一方、時代は下って戦国時代には、関東を逐われた関東管領山内上杉憲政から上杉家の名跡と関東管領職を譲られた長尾景虎(後の上杉謙信)が、三国峠を越えて関東に出馬したが、平井城奪回に際し、甥の長尾喜平次景勝(後の上杉景勝)がこの城に入ったとされ、その為「喜平次の城」と呼ばれるようになったとも言われる。しかし、景虎が平井城を奪還したのは1560年で、景勝はまだ4歳であった。また平井城は間もなく廃城となっているので、この伝承も信じ難い。結局のところ、子王山城の歴史は定かではない。

 子王山城は、標高551mの子王山に築かれている。よく目立つ山で、遠くから見ると木がまばらにボサボサと突き立って生えているのがパンク・ロック・ミュージシャンのヘアースタイルに似ていることから、妻との間では「パンク山」と呼んでいる。比高のある山だが、幸い南東の鞍部まで車道が延びており、そこから登山道も整備されているので、高低差100m程で苦労なく訪城することができる。基本的には小規模な物見的な城砦で、山頂の小さな主郭の周りに数個の腰曲輪を廻らし、北東と北西の尾根にいくつかの曲輪を配しただけの簡素な縄張りである。明確な堀切は北東尾根の先にあるが、規模はかなり小さい。遺構にはあまり期待できないが、物見の砦としては絶好の位置にあり、北西尾根からは眼下に平井金山城高山城がよく見える。平井金山城の背後を押さえる物見砦だったものと推測される。
北東尾根の小堀切→IMG_3600.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.197291/139.003594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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諸松城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3541.JPG←主郭の土塁
 諸松城は、関東管領山内上杉氏の家臣、本間佐渡守の居城と伝えられている。古くは平安時代の947年に栗本土佐守義秀が築城したと言われるが、あまりに古すぎてにわかには信じがたい(大体、この時代に土佐守という官途名が地方武士に名乗れたのかも甚だ疑問である)。本間氏についても、『日本城郭大系』によれば、天正年間(1573~92年)に本間佐渡守が改修したとされ、既に山内上杉氏が没落した後なので、事実とすれば本間氏は武田氏か北条氏に服属していたのだろう。なお『大系』では、諸松城は真下城等と合わせて「三波川地域城」と言う城砦群の一としている。

 諸松城は、三波川の南にそびえる山上に築かれている。位置的には南北に延びた尾根の南端に当たる。南中腹には険しい山中の諸松集落があり、車道が通っているが、往時から古道が通っていたのだろう。城は比較的単純な縄張りで、山頂に主郭を置き、南の尾根に2段の腰曲輪、主郭の北には堀切を挟んで二ノ郭があり、その北に城域の北端を区切る堀切が穿たれている。主郭にはL字状に土塁が築かれ、祠や石碑等が建ち、信仰の山だったことがわかる。主郭の裏の堀切は深さ5m程もある。この堀切から主郭の東斜面を通って東の腰曲輪に通じる武者走りが延びている。この武者走り付近の主郭切岸には石積みが残っている。また主郭前面には虎口の小郭が置かれている。前述の南の腰曲輪は、上段のものは土塁で囲まれ、東端に虎口を築いている。下段のものは背後に土塁と堀切を築いている。その南には鞍部の小堀切がある。この他、東斜面に廃屋があるが、ここも腰曲輪だったのだろう。以上の様に諸松城は、山頂中央ではなく南の鞍部に向かって偏しており、峠の古道を押さえる関所的な要害だったと思われる。しかも普請がしっかりしており、間道を押さえる要衝として重視された城砦であったことがうかがわれる。
主郭裏の堀切→IMG_3553.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.151252/139.016833/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)

戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2011/06/04
  • メディア: 新書


タグ:中世山城
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郷原城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3445.JPG←主郭東の曲輪群
 郷原城は、岩櫃城の出城である。詳細は不明であるが、岩櫃城の視覚上の弱点である岩櫃山南麓地域を監視し、街道を扼するための物見の要害だったと思われる。また、武田勝頼を迎えるための御殿として築かれた潜龍院から近いので、潜龍院と一体運用された詰城的な役割を負っていた可能性も考えられる。

 郷原城は、標高530m、国道からの比高120mの山上に築かれている。ここは岩櫃山から南東に伸びた尾根中間のピークに当たる。小規模な城砦で、頂部の小さな主郭から東の尾根伝いに腰曲輪群を築き、要所に動線制約の竪堀を落とし、先端に小堀切を穿って防御した縄張りとなっている。また主郭の背後にも腰曲輪1段と南西にも舌状の出曲輪1段が構築されている。技工的にはあまり特色のない城で、曲輪群と小堀切・竪堀のみで構成されたただの出城と言う趣である。潜龍院から歩いて5分と掛からずに登ることができる。ハイキングコースが整備され、表示も多いので迷うことはない。
東尾根側方に穿たれた竪堀→IMG_3436.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.552534/138.799982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

ぶらり真田昌幸・信繁の城跡&温泉めぐり (ご当地戦国武将・旅行ガイドブック)

  • 作者: マコト出版
  • 出版社/メーカー: マコト出版
  • 発売日: 2016/08/16
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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潜龍院(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3469.JPG←石垣の残る潜龍院跡と岩櫃山
 潜龍院は、古谷館とも呼ばれ、真田昌幸が主君武田勝頼を迎え入れる為に築いた御殿である。1582年、織田信長による武田征伐が開始されると、武田勢は総崩れとなり、出陣していた勝頼は新府城に戻って今後の対応を重臣達と協議した。新府城はまだ築城途中で織田の大軍の攻撃に抗し切れないとの判断から、他の城への籠城が検討された。候補は小山田氏の岩殿城と真田氏の岩櫃城で、昌幸の献策が容れられ、勝頼は岩櫃城に向かうこととなった。昌幸は勝頼を迎える準備の為、先に岩櫃城に入って、勝頼の為の御殿を岩櫃山の南中腹に急造し、突貫工事で僅か3日間で完成させたと言う。これが潜龍院の御殿である。しかし勝頼は、途中で行き先を岩殿城に変更し、その途中で小山田信茂の裏切りにより逃げ場を失い、天目山で自刃して武田氏は滅亡した。使われることのなかった御殿は、その後昌幸の一族祢津潜龍斎昌月(まさあき)という山伏が拝領して寺とし、巌下山潜龍院と称された。

 潜龍院は、前述の通り岩櫃山の南中腹に位置している。南麓の国道145号線からの比高は110m程ある。古谷地区から東に登った奥に位置し、山腹に広大な平地が広がっている。その平地の北西部に高さ1.5m程の石垣で囲まれた方形の区画があり、そこが御殿の跡で、石垣は御殿の遺構とされている。しかし遺構はこれだけではなく、広大な平地の隅には櫓台らしい土壇があり、また平地の東西の入口は尾根で狭まっており、木戸口があったものと強く推測される。また平地の外縁部には腰曲輪も確認できる。潜龍院の東には岩櫃城の出城・郷原城があるが、その帰りに気付いたのは、潜龍院のある広大な平場の東端に切岸があり、そこに薮に埋もれた石垣があったのである。これも往時の遺構である可能性があるだろう。潜龍院は基本的に御殿であるので、城郭遺構としての面白みは望むべくもないが、勝頼を迎えるために整備された場所であり、歴史的事件に関連した類例の少ない遺構で非常に貴重である。
御殿跡の広大な平地→IMG_3408.JPG
IMG_3454.JPG←平地東端部の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554379/138.796678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


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内出城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3356.JPG←主郭の切岸
 内出城は、岩櫃城主斎藤氏の家臣秋間氏の居城であったとされている。伝承では最初は秋間氏の館で、1349年に秋間刑部貞勝は里見兵庫と戦って主君吾妻太郎行盛と共に討死したと言う。貞勝の子泰則は、行盛の子千王丸を守って再挙を図り、1357年に上杉氏の支援によって里見氏を滅ぼし、吾妻を奪還した。千王丸は斎藤憲行と名乗り、内出城を築いて泰則に与えたとされる。その後、秋間氏は吾妻三家の一と称されたが、文明年間(1469~86年)に大野義衡に滅ぼされたと伝えられる。しかし岩櫃斎藤氏とその家臣の伝承は異聞もあって俄に史実とは見做し難い。上杉氏支援の話も、岩櫃城の項で記載した通り年代が合わないので、はっきりとしない。

 内出城は、吾妻川東岸の段丘上に築かれている。現在は内出地区の集落となっており、城内は宅地や畑となっていて改変が進んでいる。しかし城の形は概ね追うことができる。南西端に主郭を置き、その東から南にかけてL字状の二ノ郭、更にその北東に向かって数個の曲輪を配した縄張りとなっている。曲輪の中で最も明瞭なのは主郭で、周囲の切岸の他、東と南の空堀の一部が残っている。その他の曲輪も北辺の切岸は明瞭で、特に先端の6郭はほぼ往時の姿を残していると推測される。また集落内には堀跡らしい水路や道路も見られる。この他、主郭の南西に車道を挟んで2つの櫓台と空堀・堀切の遺構が残っており、主郭以上に城跡らしさを残している。ここが城域最西端に当たるようだ。しかしいずれも民家が近い上、曲輪はいずれも民有地なので、訪城の際は不審者と間違われないよう、また迂闊に立ち入って不法侵入にならないよう注意が必要である。
城域最西端の空堀と櫓台→IMG_3336.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561066/138.818371/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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柳沢城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3196.JPG←2郭の上にそそり立つ主郭
 柳沢城は、岩鼓の要害とも呼ばれ、岩櫃城の支城である。城の歴史については不明で、城主は柳沢治部少輔の名が伝わっているが、詳細はわからない。一説には、2代目・岩櫃城主斎藤行禅は、重臣の反対を押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えたが、3代行弘のときに安吉は反乱を起こし鎮圧されたとも言われる。

 柳沢城は、標高540m、比高120m程の観音山に築かれている。谷戸を挟んで、岩櫃城の出丸である「天狗の丸」と相対する位置にある。その位置関係から見ても、岩櫃城と一体運用された出城だと思われるが、ただの出城にしては普請が本格的で、独立性の高い縄張りとなっている。南西麓に不動堂があり、そこから登山道が整備されている。修験の山だったということで、急な岩場を登り、更に大岩を迂回する細道を通って尾根まで出る必要がある(但し途中に梯子もある)。柳沢城は南端に物見の曲輪を置き、その北に最高所の主郭、その北西斜面に腰曲輪状の2郭、更に各々堀切を挟んで3郭・4郭・5郭と並んだ連郭式の縄張りを基本としている。主郭は小さな曲輪であるが、物見と言うほど小さくはなく、石祠が祀られている。主郭の前後に小郭が数段見られ、斜面下方に広い2郭がある。主郭と2郭の高低差は大きく、主郭の山は二ノ郭の上にそそり立っている。3郭・4郭・5郭は、いずれも北東斜面と南西斜面に腰曲輪群を伴っており、それぞれの腰曲輪は堀切から落ちる長い竪堀で分断されている。また北東斜面の腰曲輪群は、なかなか急な斜面に段々に築かれているので、高低差が物凄く大きく、登り降りするのが大変である。また竪堀は数箇所でわずかな屈曲が見られ、上方の腰曲輪塁線上からの横矢掛かりを意識している。これほど明確に横矢を掛けた竪堀を見るのは、相模大庭城以来だと思う。この他、3郭には北東辺に大土塁が築かれている。この様に柳沢城は、ただの出城と思っていたら、本格的な普請がされた山城で、非常に見応えがある。
3郭の堀切→IMG_3262.JPG
IMG_3318.JPG←竪堀正面に隅櫓台がそびえる

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.566978/138.812642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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岩櫃城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2863.JPG←二ノ郭から落ちる長大な竪堀
 岩櫃城は、戦国後期に上州に進出した真田氏の重要な支城であり、岩殿城久能山城と並ぶ武田三堅城の一に数えられる。元々は、鎌倉時代から南北朝時代にかけてこの地を領した吾妻氏が築城したとも言われ、南北朝期に吾妻太郎行盛が城主であったとも伝えられるが明確ではない。伝承では、1349年に行盛は南朝方の里見義時に攻められて討死し、その子千王丸(後の斎藤越前守憲行)は逃れて、安中地方の斎藤梢基の養子となり、斎藤氏を称したと伝えられる。1357年、上杉憲顕は里見義時らを追討し、憲行は上杉氏に従って岩櫃城を奪還し、以後山内上杉氏の幕下となったという。(しかし時代的にはこの説は史実と合わない。1357年といえば、将軍足利尊氏が存命中で、観応の擾乱の余波で尊氏と足利直義の養子直冬の対立が燻っており、直義党であった上杉憲顕は信濃に落ち延びていたまま復権していなかったはずである。もし里見氏討伐が事実であれば、それは上杉氏復権後の1362年以降であろう。)以後、斎藤氏は吾妻地方東部を支配し、岩櫃城は6代越前守憲広まで斎藤氏歴代の居城となった。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃した。憲広は堅城に拠って抵抗したが、ついに落城し、憲広は上杉謙信を頼って越後に逃れ、子の城虎丸を嵩山城に立て籠もらせて抵抗を続けた。しかし1565年、嵩山城も落城し、斎藤氏は滅亡した。信玄は幸隆を吾妻郡代に任じ、幸隆は一族の海野幸光・輝幸兄弟を岩櫃城代とした。1574年に幸隆が没すると、その嫡男信綱が真田氏の家督を継いだが、翌75年の長篠の戦いで信綱・昌輝兄弟が討死し、3男の昌幸が真田氏の家督を継いだ。1580年に昌幸は沼田城を攻略し、沼田城代として叔父の矢沢頼綱を置き、岩櫃城はその支城となった。翌81年、昌幸は海野兄弟を謀叛の罪で誅殺した。82年、織田信長の武田征伐が始まると、既に高天神城を見殺しにしたことで信望を失っていた武田勝頼から離反する信濃の国人衆が相次いだ。築城途中の新府城では支えきれないと判断した勝頼に対して、昌幸は岩櫃城への籠城を献策して一旦は容れられ、勝頼を迎え入れる為に仮御殿の造営を行ったが、勝頼は途中で小山田信茂の岩殿城へ行き先を変更し、その途中の笹子峠で信茂に裏切られて天目山で自刃し、武田氏はあっけなく滅亡した。武田氏滅亡後、上野には信長の重臣滝川一益が入り、真田氏も滝川氏に従ったが、わずか3ヶ月後に信長は本能寺で横死し、一益は北条氏直によって上野から逐われ、本領の伊勢に逃げ帰った。天正壬午の乱を経て、徳川・北条両氏の和睦が成り、その条件として上野の真田領は北条氏に割譲されることとなったが、昌幸はこれに抵抗し、半独立勢力として上田城・岩櫃城の二拠点を中心に上杉・北条・徳川の諸将と集合離反を繰り返した。1589年、豊臣秀吉の裁定によって、沼田領は北条氏に引き渡され、矢沢頼綱を岩櫃城代とした。1590年に北条氏が滅亡すると、真田氏は秀吉に服属し、昌幸の嫡男信幸が沼田城主となり、重臣の出浦対馬守が岩櫃城代となった。1600年の関ヶ原合戦では、岩櫃城は東軍に付いた信幸の支配下となり、戦後も信幸の属城として続いたが、元和の一国一城令で岩櫃城は破却された。

 岩櫃城は、峻険な岩櫃山の東の尾根途中に築かれた城で、標高594m、東麓の国道145号線からの比高210m程の位置にある。さすがは昌幸が武田勝頼を迎えようとした城だけあって、広大かつ大規模な普請を加えられた山城である。北東中腹に駐車場と観光案内所が整備され、城内もハイキングコースが整備されているので、訪城に困ることはない。東尾根上に西から順に主郭・二ノ郭を置き、東下方の緩斜面に中城と呼ばれる三ノ郭を配置している。主郭は「いだて(居館)」と呼ばれ、東西に長い広い曲輪で、北辺に土塁を築き、北東部に櫓台を備えている。主郭の北西部と南西部に枡形虎口が設けられているが、破却のせいか形状がやや不明瞭である。主郭の南側から東側にかけて横堀が廻らされ、そのまま二ノ郭との間を掘り切っている。二ノ郭周辺を中心に、規模の大きな竪堀・横堀のネットワークが形成され、城内通路・登城道は基本的に堀底道となっている。中でも二ノ郭直下から東尾根に平行して落ちる竪堀は長大で、上部で腰曲輪の横堀とY字状に合流し、延々と中城まで落ちて、先端は直角に折れ曲がって北斜面に落としている。またその他の横堀や南東斜面の腰曲輪からも何本も竪堀を落としている。一方、主郭西側の岩櫃山山頂に続く尾根にも物見らしい小郭群を置いており、北斜面にやはり竪堀を穿っている。また主郭北西の桝形虎口の下にも土壇や堀が構築されており、搦手・尾根上の物見付近まで一切手を抜かない縄張りとしている。おそらくは戦国末期の北条氏との緊張状態を如実に示しているのであろう。このほか、北東斜面にも水曲輪と言う曲輪群が段々に配置され、その側方に横堀が穿たれ、搦手への登城道となっている。その名に違わぬ屈指の堅城で、横堀・竪堀の巧妙なネットワークは素晴らしい。この他、南斜面下方や東斜面下方にも何段もの広い曲輪群があり、「殿屋敷(海野長門守屋敷)」「出浦対馬守屋敷」と称されている。
 岩櫃城は、関八州で私が訪城していなかった最後の大規模城郭であったが、期待通りの素晴らしい遺構だった。ちなみに登ったのは4月上旬で、春の早かった今年は既に桜が咲いており、青空も出ていたが、駐車場に車を駐めたところで突然雪が降り出したのには、驚かされた。雪が出迎えてくれたように思えた。
主郭南側の横堀→IMG_3018.JPG
IMG_3049.JPG←背後の尾根の竪堀
主郭の櫓台→IMG_2994.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559136/138.804359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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横尾八幡城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2735.JPG←主郭の土塁と虎口
 横尾八幡城は、沼田・吾妻地域に進出した真田昌幸の支城である。元々は大永年間(1521~28年)に尻高三河守によって築かれたと言われている。後に塩原源太左衛門が城代となった。1580年に武田勝頼の部将、真田昌幸が吾妻地域に進出するとその持城となり、富沢豊前守が配された。1582年に武田氏が滅亡し、その後上州を支配した織田信長の部将滝川一益も本能寺の変の後、神流川の戦いで大敗して本領の伊勢に逃れると、北条氏が上州を手に入れた。その際、天正壬午の乱での徳川家康との和睦の条件で、真田氏の沼田・吾妻領が北条氏に割譲されたが、真田昌幸はこれを拒絶して抵抗した。1584年に上田城を築いて居城とした昌幸は、嫡男信幸に利根・吾妻2郡の守りを命じ、信幸は北条氏の侵攻に備えて吾妻の武士達を横尾八幡城の番衆にして守らせた。1589年、鉢形城主北条氏邦の家臣猪俣邦憲が名胡桃城を攻め落とした、いわゆる名胡桃城事件を契機に始まった吾妻合戦の時、北条氏邦は岩櫃城を攻め、北条方の部将富永助重は300騎を率いて横尾八幡城に攻め寄せたが、真田方は富沢豊前守らが固く城を守り、また岩櫃城から後詰めも出て、北条勢を撃退した。この後、豊臣秀吉の小田原の役となったため、北条氏の軍勢は撤退した。

 横尾八幡城は、名久田川西岸の標高420m、比高60m程の丘陵上に築かれている。町の指定史跡なので、城への登り口に解説板が立ち、城の西尾根まで車道が延びており、訪城は容易である。しかし残念ながら、主要部以外は藪だらけで、腰曲輪等はほとんど未整備の薮に埋もれてしまっている。主郭を中心に2段の腰曲輪を巡らした環郭式の縄張りで、更に東尾根に舌状曲輪を置いているようである。しかし前述の通り主郭と西側の腰曲輪部分以外は薮が酷くて遺構の確認ができない。主郭は外周に土塁を築き、北辺以外の三方に虎口を開いている。腰曲輪には土塁や井戸跡が確認できるが、特に目を引く様なものではない。横尾八幡城は、基本的には小規模な城砦で、多くの兵を籠められたとも思われず、このレベルの小城を北条勢が落とせなかったのは本気で落とす気がなかったからではないかなどと想像してしまう。それにしても折角の指定史跡が薮で埋もれているのは、何とも勿体無い限りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.607140/138.871179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌

真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2015/11/16
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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稲荷城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2677.JPG←主郭西側の空堀と切岸
 稲荷城は、吾妻氏の家臣大野新三郎の居城と伝えられている。吾妻氏は、承久の乱の時に四郎助光が宇治川で討死して没落し、実権は家臣の大野・塩谷・秋間の3氏の手に移り、大野氏はこの稲荷城を居城としたと言う。大野憲直の時に、塩谷・秋間両氏を圧倒し、新たに岩櫃城を築いて居城を移したと言われている。また南北朝時代に討死した吾妻太郎行盛は、稲荷城で生まれたという伝承もある様だ。その後の歴史は不明であるが、現在残る遺構からすると戦国期まで使われたと推測され、岩櫃城防衛の為に改修された城と考えられている。

 稲荷城は、四万川と須郷沢川に挟まれた丘陵先端部に築かれている。城のある台地の南東端には稲荷神社があり、その裏から小道が城跡まで伸びている。民家の真裏を通る上、主郭の南側の曲輪も畑となっているので、城に行くには注意が必要である。台地北東端に五角形の主郭を置き、西と南に曲輪を配置した梯郭式に近い縄張りとなっている。主郭は南面に虎口があり、その西側側方に主郭南西隅の土塁が張り出して櫓台となり、横矢を掛けている。主郭周囲は立派な土塁で全周が囲繞され、特に西側の二ノ郭に面した土塁は規模が大きい。しかもここでは塁線が緩く弓なりに曲がっており、ここでも横矢を意識している。主郭周囲の空堀もしっかりと穿たれており、外周から見た空堀と主郭の切岸は見応えがある。空堀は東端も北端も彫り切った先で竪堀となって斜面を降っている。主郭の北と東の下方には帯曲輪が巡っており、これらの竪堀はこの帯曲輪に連絡している。二ノ郭は西側に一直線に土塁を築き、空堀を穿っている。またこの土塁の外、北西角に土塁で囲まれた方形の曲輪がある。その周囲も空堀で囲まれ、二ノ郭の空堀と繋がっていて、空堀はちょうど小文字の「h」の形となっている。城内はきれいに整備されているので、遺構の見事さと相まって見応えがある。尚、『日本城郭大系』の縄張図は主郭の形状などが正確さに欠け、『境目の山城と館 上野編』の宮坂先生の縄張図の方が正確である。
二ノ郭西側の土塁と空堀→IMG_2692.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.581349/138.825560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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高野平城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2607.JPG
↑三ノ郭から見た堀切・二ノ郭・主郭

 高野平城は、岩櫃城主斎藤氏の支城であったと言われ、岩櫃城の北を守る砦と伝えられる。しかし詳細な歴史は不明で、真田幸隆による岩櫃城攻めでもこの城がどの様な役割を果たしたのか、わかっていない。

 高野平城は、標高737mの峻険な山上に築かれている。まともに麓から登ると比高が高く大変だが、幸い城のすぐ南中腹にきれいに整備された車道が延びてきており、比高は稼げる。この車道は、国土地理院地形図でもGoogleMapでも南からしか道が繋がっていないように記載されているが、GoogleMapの航空写真を見ると、山田城に至る車道がそのまま南に伸びてこの車道と繋がっており、実際にきれいな山道として整備されている。この車道から城までの登道は、行きは道が見つからず、適当な斜面から西の尾根に直登して訪城したが、帰りは城の南斜面に消えかかったわずかな林道が残っており、楽に車道まで戻ってくることができた。登道は下記リンクの辺で、薮にちょっとだけ分け入ると、左手に進む小道がある。
【登り口】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.580850/138.795068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
 高野平城は、頂部に長方形の主郭を置き、東に二ノ郭、更に堀切を挟んで三ノ郭が築かれている。その先にも平場らしいものはあるが自然地形に近くはっきりしない。一方、主郭の西側には堀切を挟んで2段の曲輪があり、更に少し尾根を降った下に2段の段曲輪が確認できる。きれいな連郭式の縄張りで、北斜面は斜度がきついので曲輪はないが、南斜面には帯曲輪が築かれている。主郭は北辺以外の3面に低土塁を築いており、東西の曲輪からはしっかりとした切岸でそびえている。城内の2本の堀切はいずれも浅く、鋭さがない。西側の堀切は帯曲輪と繋がっており、城内通路としても機能していたらしい。また主郭の南東下方には竪堀が落ちている。全体に普請の規模はあまり大きくないが、城の形はしっかりしている。城内は薮もなく歩きやすい。
帯曲輪と繋がる西側堀切→IMG_2626.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.582159/138.795519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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山田城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2507.JPG←少し周囲より高い主郭
 山田城は、古城とも呼ばれ、岩櫃城主斎藤氏の家臣山田氏の居城ではなかったかと推測されている。即ち、岩櫃城の支城ということになる。山田氏は斎藤氏の一族で、1563年の真田幸隆による岩櫃城攻撃によって、越後に落ちてゆく斎藤越前守の供をして国境まで行き、嵩山城に拠る末子城虎丸のことなど後事を託された。山田城主は山田源太左衛門尉と伝えられて、斎藤氏没落後の動向は不明。一説には、永禄年間(1558~69年)に成田氏と戦って討死したとも言う。いずれにしてもこの頃に廃城になった様である。

 山田城は、標高509m、比高120m程の丘陵上に築かれている。起伏はあるものの、全体的になだらかな地形で、あまり城を築くのに適地とは思えない感じである。城自体の作りもかなり大雑把で、とらえどころがない。内山城と同様、2016年の大河ドラマ「真田丸」効果で、城までの誘導標識・表示がわかりやすく掲示されており、城までの道に迷うことはない。城の西側を通る車道脇に標柱と解説板が建っており、そこから小道を東に進んでいくと、主郭に至る。城内は、東西に伸びる舌状丘陵が北と南にあり、その中央に低地を挟んでいる。北の丘陵部が主城域で、中央に方形に近い高台となった主郭を置き、西に二ノ郭が広がっている。主郭と二ノ郭の段差はわずかである。二ノ郭の西側にも何段かの腰曲輪が築かれている。一方、主郭の東側には堀切を挟んで三ノ郭が広がっている。この堀切は浅く、傾斜も緩く、鋭さはない。三ノ郭の中央付近にはわずかな土塁があるが、意図は不明である。三ノ郭の東側に数段の腰曲輪が築かれて、先端は谷戸に落ち込んでいる。これらの主城部の南側には低地があり、東に向かって傾斜し、下方には池が残り「水の手曲輪」の標柱が建っている。その東にはY字状の谷が刻まれている。これらの低地の南に、高台となった南曲輪群がある。南曲輪群の先端部には、西端に高台を築き、東に平場を伴った曲輪を設け、背後に堀切を穿っている。この堀切も前述のものと同様、傾斜が緩く鋭さはない。その西側には延々と平場が広がり、一部に区画の段差や、南辺に短い土塁も見られるが、全体にダラーッとした感じである。平場群の北辺近くに往時のものと思われる城道が東西に走っていて、西側の曲輪の段差部で、城道が屈曲して虎口を形成している。
 遺構から推測すると、山田城は山田氏の居館として築かれた城館で、周りの平場には山田氏家臣団が集住していたものであろう。ということは近くに有事の際の詰城があったはずであり、それが桑田城だったのか、高野平城だったのか、今後の考究が望まれる。
中央の低地にある水の手曲輪→IMG_2522.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.589180/138.804123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
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タグ:中世平山城
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桑田城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2441-001.JPG←主郭群北東斜面の竪堀
 桑田城は、岩櫃城主斎藤氏の支城である。城主は山田氏で、斎藤氏の一族とされる山田氏が山田城主を務めており、山田氏一族が守った城だろう。山田氏は吾妻七騎に列したが、永禄年間(1558~69年)に山田源太左衛門尉は成田氏と戦って討死し、城は放棄されたと言う。

 桑田城は、四万川を挟んで内山城の南に位置する、標高538m、比高138mの山上に築かれている。南東麓から登道が整備されており、迷わず登ることができる。この城も内山城と同様、城内に2基の高圧鉄塔が立っているので、良い目印になる。登山道を登っていくと、南東の大手の尾根筋にいくつかの平場が散見され、その上に『境目の山城と館 上野編』の縄張図で言う5郭群がある。5郭群は東西に長く、3段程に分かれており、東西両端に高圧鉄塔が建っている。5郭群の北東に鞍部の曲輪と小堀切を挟んで物見台の曲輪があり、更にその先の北西の尾根にいくつかの段曲輪が築かれている。一方、5郭群の背後には、鉄塔建設で破壊を受けているが、堀切が残存し、その上に数段の帯曲輪があって、主郭に到達する。主郭内は2段ほどの段に分かれており、神社が祀られている。主郭は広く居住性もあるが、土塁などは見られず、外周に数段の帯曲輪を巡らしただけの構造となっている。帯曲輪群の北東斜面には、明確な竪堀が1本長く落ちていて、東の大手から接近する敵兵の斜面移動を制約する目的だったと考えられる。主郭の西側背後には浅い堀切が穿たれ、二ノ郭が築かれている、二ノ郭は削平が甘くほとんど居住性がない細長い曲輪である。二ノ郭の背後にも浅い堀切が穿たれ、三ノ郭があり、その先も小堀切で城域が終わっている。前述の堀切はいずれも浅いが、両側が竪堀となって長く落ち、主郭群から続く帯曲輪を貫通している。この他、主郭群の北の支尾根には、帯曲輪から下に段曲輪群が築かれている。
桑田城の遺構は以上で、普請は小規模であるが遺構はよく残っており、城内も薮が少なく歩きやすい。主郭群手前の竪堀だけが目立つ城である。
堀切と主郭→IMG_2455.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.596468/138.799639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
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タグ:中世山城
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内山城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2267.JPG←2郭群背後の二重堀切の内堀
 内山城は、仙蔵城(仙蔵の要害)とも呼ばれ、武田氏の部将真田幸隆が嵩山城攻めの本陣とした城である。元々は岩櫃城主斎藤憲広に属した成田氏の城であった。1565年、真田幸隆は斎藤城虎丸が立て籠もる嵩山城攻撃の足掛かりとする為、300騎でこの城に駆け上がり、軍の指揮を執った。(いつ内山城が真田氏の支配下に入ったかは不明。)嵩山城が落城した後、折田将監は成田氏に代わって城を預けられ、関東無双の剛兵と呼ばれたと言う。しかしその後は存在意義が薄れ、まもなく廃城となったとされる。

 内山城は、嵩山城から胡桃沢川を挟んで西に広がる広大な台地の西側に突出した、標高584.9m、比高160m程の山稜上に築かれている。中世に吾妻地区から信濃に向かう本道であった沢渡・暮坂越えの街道を眼下に押さえる要地にある。城内には高圧鉄塔があるので保守道が整備されており、登り口さえ見つければ、主郭までは迷わずに登れる。登り口も、2016年の大河ドラマ「真田丸」効果で、わかりやすく表示されている。内山城は、大きく西側に湾曲した尾根上に多数の曲輪群を築いた連郭式の城で、城域はかなり広い。保守道を登って尾根に至ると、そこから北西の尾根に曲輪群が築かれているが、反対の南東にも物見台らしい小郭が散見される。主尾根を南西に登っていくと、鉄塔のある二ノ郭群に至る。多段式の曲輪で、南面から東面に扇形に曲輪を展開している。ここから派生する東尾根にも堀切と曲輪群があり、先端付近の斜面には2本の竪堀も穿たれている。2郭群の最上部には小さな土壇があり(櫓台?)、背後に二重堀切が穿たれている。この二重堀切を以って、城域は南北に大きく分割されており、一城別郭の城と評価されている。その上に主郭があるが、登道自体は大きく東に折れて、主郭の東尾根から登坂するルートとなっている。これは往時の城道のままのルートなのだろう。主郭東尾根にも堀切2本が穿たれ、腰曲輪群が構築されている。北斜面には竪堀群も穿たれている様である。ここから西に登っていくと、いくつかの曲輪を経由して、鉄塔の立つ主郭に至る。主郭は長円形の曲輪で、周囲にいくつかの腰曲輪を築き、背後にも堀切を穿って尾根筋を分断している。主郭の北の尾根には、一列に曲輪が連ねられ、それぞれ小堀切で区画されているが、この主尾根上の曲輪群は薮が多く、踏査が困難で辟易してしまう。この主郭背後の主尾根から西・北西・北の三方に派生する支尾根にも曲輪群が築かれている。これらの支尾根曲輪群では、普請がはっきりしない自然地形に近いものもあるが、最もはっきり普請されているのは真ん中の北西尾根曲輪群で、段曲輪群が一列に連なっている。尚、主尾根の北東端は林業用の林道開削で改変されてしまっている。
 以上の様に内山城は、城域は広いが、基本的に普請の規模は大きくなく、堀切も小さいものが多い。嵩山城攻めの本陣となった城ではあるが、真田氏も臨時の陣城として利用しただけの様に感じられた。
北西尾根の段曲輪群→IMG_2344.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.606132/138.798501/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ダイアプレス
  • 発売日: 2014/10/30
  • メディア: ムック


タグ:中世山城
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城峰城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2157.JPG←主郭背後の土塁
 城峰城は、城峰塁とも呼ばれ、歴史不詳の城である。位置的には、中世初期には吾妻三家の一、塩谷氏一門の領域で、その後、大野氏、岩櫃斎藤氏、真田氏と支配者が変転している。しかし一般には永禄年間(1558~69年)の嵩山合戦の際に、斎藤氏の立て籠る嵩山城の支城となっていたと考えられている。

 城峰城は、比高50m程の丘陵先端付近に築かれている。背後に当たる西側に福祉施設があり、また城自体が町の指定史跡で誘導標識もあるので、車で迷わず城跡まで行くことができる。基本的に単郭の簡素な城砦で、主郭の背後に土塁が築かれ、後ろには堀切が穿たれている。主郭の外周には1段の腰曲輪が廻らされている。また北側斜面にはもう1段、帯曲輪が築かれている。西側の台地基部から主郭に入るルートは、現在は土塁を迂回するように北側に設けられているが、一方で土塁中央部は窪んでおり、堀切に木橋が架かっていた可能性もある。これが城の本体であるが、ここから東に150m程離れた所に旗塚があって、物見台として利用された古墳跡だったと考えられている。塚の周りは腰曲輪状の平場が取り巻いている。『境目の山城と館 上野編』の縄張図では、塚の背後は堀切とされるが、あまり明瞭ではない。いずれにしても城峰城は、遺構は明確であるが、極めて簡素な作りの小城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.593281/138.836524/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世平山城
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