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城之腰砦(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0854.JPG←主郭の大穴
 城之腰砦は、歴史不詳の城である。しかし目の前には市川氏の居城砥沢城があり、その支城であったことは疑いないとされる。
 城之腰砦は、中道院背後の標高535mの山上に築かれている。中道院の墓地裏から登れるが、なかなか険しい細尾根で、滑落しないよう注意が必要である。小規模な城砦で、山頂に主郭を置き、急崖の南西斜面以外の三方に腰曲輪群を築いた単純な構造をしている。腰曲輪群は西尾根・北東尾根・南東尾根の3つに分かれるが、それぞれ武者走りで接続されていて、兵員の横移動を意識している。主郭には大穴があり、そこから溝が北東の腰曲輪に向かって落ちている。『境目の山城と館 上野編』では竪穴式の小屋掛けの跡と推測しているが、その通りであろう。南東の尾根鞍部には小堀切が穿たれているが、ささやかなものでほとんど防御効果を期待できない。この他に北麓に居館跡らしい平場があるらしいが、存在を知らず見逃してしまった。いずれにしても、山間の小土豪の築いた小さな山塞である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.153651/138.673468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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真下城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0697.JPG←三ノ郭のL字状土橋
 真下城は、譲原城とも言い、関東管領山内上杉氏に属した真下氏の居城である。真下氏は、武蔵七党の一、児玉党の一流で、正確な系図は不明ながら、児玉氏2代弘行の次男・入西三郎大夫資行の子・五郎大夫基行が、児玉郡真下郷に分封され、真下氏を称したことに始まると推測されている。真下氏は、南北朝期に真下春行が南朝方の北畠顕家に従ったが、討死して没落し、残った一族がこの地に移住したらしい。そして天文年間(1532~55年)の頃に、真下伊豆守吉行が真下城を築城したと伝えられている。山内上杉氏に属していたことから、山内上杉氏の居城平井城の支城として機能したと考えられる。1551年、真下吉清が城主の時、河越夜戦の後に関東南半の覇権を握った北条氏康が上州に進撃し、真下城は北条氏に攻略された。その後の歴史は不明であるが、遺構を見る限り、北条氏の下で改修された可能性がある。

 真下城は、神流川西岸にそびえる標高310m、比高160mの山上に築かれている。登道は南東麓にあるらしいが、あまり整備されていないという情報だったため、私は東の尾根先端にある給水施設から登った。斜度の緩やかな尾根筋で、藪も少なく、こちらからの登城がお勧めである。広い緩斜面が続くが、途中から登道が土塁状の城道となり、北側に平場が広がるようになる。城に近づくと、眼の前の斜面に腰曲輪群が現れ、城道は坂土橋となって四ノ郭に至る。坂土橋の北側は短い横堀が穿たれ、土橋の動線を制約している。城は、東から順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭と連ねた連郭式の縄張りとなっている。広い三角形状の四ノ郭の奥には三ノ郭があるが、その前面に横堀と土塁が築かれている。土塁の中央は切れていて、横堀に通じる通路となっている。横堀の北側は三ノ郭北側の帯曲輪に通じ、途中で北斜面に竪堀(城道兼用か?)が落ちつつ、三ノ郭背後の堀切まで通じている。一方、横堀の南側では土塁がL字状土橋となって三ノ郭に繋がっている。ここでは前述の横堀に、更に土橋側方に竪堀を穿って土橋の動線を制約した構造となっている。この横堀・竪堀を連携させたL字状土橋の構造は北条氏関係の勢力の城(武蔵天神山城の東出郭・下野唐沢山城の南東遺構群・下野諏訪山城など)によく見られ、真下城も北条氏によって改修された可能性がある。三ノ郭は正方形の曲輪で、後部に低土塁を築き、南西隅に張り出しを設けてL字状土橋へ横矢を掛けている。主郭との間には堀切を穿ち、三ノ郭から土橋を架けて主郭南側の腰曲輪に繋げている。その上の主郭は、やはり後部に低土塁を築き、背後に堀切を穿って、西の二ノ郭と分断している。この堀切は、主郭・二ノ郭の南側の腰曲輪・北側の帯曲輪まで分断している。二ノ郭には土塁がなく、背後の西尾根との間を堀切で分断している。南西には虎口郭を張り出させて、西尾根に通じる土橋を架けている。西尾根は少し先で南東に降る尾根と分岐し、その分岐付近に平場を設けている。『日本城郭大系』ではこれを水の手曲輪としている。この他、主郭の北東尾根にも2段程の段曲輪が築かれるほか、前述の東尾根の城道南側にも何段かの広い曲輪が広がり、その南端に虎口と城道が築かれている。城の形態を見る限り、大手は東尾根だった様である。真下城は、大きな城ではないが、一部に技巧的構造が見られ、神流川流域の山城としては出色である。
堀切と二ノ郭→IMG_0740.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.153097/139.041574/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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諸城(群馬県上野村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0630.JPG←櫓台から見た堀切と主郭
 諸城(もろしろ)は、歴史不詳の城である。勝山・乙母両集落を繋ぐ桧峠の南の尾根に位置し、武州街道の峠の押さえのために築かれたと推測されるが、詳細は不明。地元の伝承では今井某の居城と言い、木曽義仲の側近今井兼平の伝説も伝わるが、ただの伝説に過ぎないだろう。尚、『日本城郭大系』では「神流川流域最奥の城」とある。
 諸城は、前述の通り桧峠の南の尾根の標高600m付近に築かれている。この尾根にはハイキングコースが整備されていて、いくつかの登り口があるようだが、私は東麓から勝山神社を経由して桧峠に至り、そこから浄水場の脇をすり抜けて尾根伝いに南下するルートを選択した。林道・ハイキングコースの敷設で破壊されている部分が多く、残っているのは城の中心部のみで、尾根筋の曲輪や櫓台などはかなり削られて改変されてしまっている。城の中心部は、北側に櫓台を設け、その南に堀切と主郭、主郭の南辺に土塁と堀切が確認できる。この他に、『境目の山城と館 上野編』の縄張図にある、櫓台北側の尾根上の縦長の曲輪跡とその先端の堀切脇の竪堀が、辛うじて残っている。峠からやや離れて存在するのが不思議であるが、遺構を見る限り、峠の番所と街道の物見を兼ねた性格の城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.082237/138.779812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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尾附城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0593.JPG←東尾根の堀切
 尾附城は、歴史不詳の城である。『境目の山城と館 上野編』では、登戸から尾附に移り、戦国期には武田氏に属した山中衆の土屋山城守高久の城と推測している。
 尾附城は、神流川の湾曲部に突き出た標高556m、比高66mの諏訪山と呼ばれる山上に築かれている。北側の山地との間は谷状地形となり、尾附集落が広がっているため、独立丘となっている。山頂の主郭に諏訪社の小祠があり、そこへの参道が北麓から付いているが、一部で石段が崩れており、気を付けないと滑落の危険がある。途中、2~3段の帯曲輪・腰曲輪を経由して主郭に至る。主郭を中心に東西に伸びた尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の城であるが、いずれの曲輪も大した広さではなく、主郭も含めて居住性はほとんど無い。西尾根は、腰曲輪と繋がった二ノ郭的な段曲輪の先を小堀切で分断している。この堀切は、規模は小さいが鋭く穿たれ、両斜面に竪堀となって落ちている。堀切の先は自然地形の尾根となっている。一方、主郭の東尾根には2段の段曲輪の先にやはり堀切が穿たれている。『日本城郭大系』の縄張図では「大堀切」と記載されているが、実際の規模は西尾根のものと大差ない小堀切である。その先の尾根の高台に石尊社の小祠が祀られ、その下にやや広い東曲輪があり、北東に降る尾根上にも小郭が築かれている。遺構としては以上で、小平城などと同様、山間の小土豪が築いた詰城の形態を良く留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.090335/138.804789/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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小平城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0532.JPG←ニノ郭から見た主郭
 小平城は、この地の土豪黒澤氏の城と伝えられている。黒澤氏の事績については黒田城の項に記載する。
 小平城は、古田集落の背後に突き出た標高459m、比高90m程の山上に築かれている。古田集落の家の脇をすり抜けて南の谷戸に入る林道があり、その道の奥まで行けばすぐ右手に城の腰曲輪群が見える。西上州南西部の山間地の土豪の城に多い小規模な城砦で、遺構は完存しているものの居城性はほぼ無い、有事の際の詰城といった感じの城である。山頂に主郭を置き、南東と北側に腰曲輪群を連ねており、これら2つの腰曲輪群を連絡する武者走りが確認できるが、武者走りは途中で竪堀によって分断され、動線遮断を意識していることがわかる。千軒山城でも竪堀による分断が意識されていたので、同じ築城思想であった様である。また主郭の北側下方の腰曲輪には大手道が北麓から通じているが、虎口は横堀状となっている。主郭の南東の曲輪群では、最上段の曲輪はある程度の広さを持っているので、二ノ郭に相当するのだろう。ニノ郭から下の曲輪群は西辺または東辺に削り残しの土塁(というか削り残しの岩盤)を設けている。途中に小堀切が穿たれ、南東尾根の末端の鞍部にも峠道を兼ねたと思われる小堀切がある。この城は、藪が少なく動物には格好の住み家らしく、主郭も腰曲輪も鹿の糞だらけで足の踏み場もないほどである。小平城は、山間の小土豪の城の形態がよく分かる城である。
南東尾根の小堀切→IMG_0564.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.100565/138.887143/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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千軒山城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0415.JPG←主郭
 千軒山城は、一夜ヶ城とも言い、歴史不詳の城である。この地域の土豪であった黒澤氏、土屋氏に関連した城と考えられている。なお歴史不詳とは言いながら、一夜ヶ城と言う名から想像すれば、一夜にしての築城伝説か何かがあったのではないだろうか?一夜にしての築城は在地土豪レベルの小勢力には相応しくない伝説なので、佐久方面より侵攻してきた甲斐武田氏の後援による構築であったかもしれない。あくまで個人の勝手な推測であるが。尚、千軒山城の尾根続きの遥か下方には黒田城があり、関連のあった城であったことも想定される。

 千軒山城は、標高772m、比高432mの千軒山に築かれている。黒田城の尾根続きで、黒田城の西側からハイキングコース(トレイルランのコース)が整備されている。長い尾根筋の途中に広い平場があり(標高630m付近)、小屋や倉庫が置かれた曲輪と考えられる。山頂の城は、東西に伸びる尾根上に4つの曲輪を連ね、各曲輪を堀切で分断した小規模な城砦である。主郭前面の尾根筋に数段の腰曲輪を築いて前衛としている。主郭直下の腰曲輪は、尾根筋で堀切状となり、わずかだが遮断効果を持たせている。この腰曲輪は主郭の南側を帯曲輪状に延々と伸び、主郭背後の堀切まで通じている。途中に竪堀が穿たれ、この竪堀によって腰曲輪を分断している。山頂の曲輪は、東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭と配置され、主郭が最も規模が大きいが、それでも居住性はほとんど無い。主郭の北辺だけ土塁が築かれている。二ノ郭・三ノ郭は数人しか入れない程の小規模なものである。堀切はいずれも小規模だが、三ノ郭背後のものは円弧状に掘り切っており、形状として横堀に近い。その先を降った先にある四ノ郭はやや広いが、ほとんど自然地形に近く普請は不徹底である。四ノ郭の西から南には広い平坦地が広がっている。この平坦地は、城の南中腹全体に広がっており、東の尾根まで伸びている。これが居館などの城郭遺構かどうかは微妙で、一見すると植林地か耕作地にしか見えないのだが、平場内部の仕切り土塁に石塁があり、その一部は耕作などで築いたものにしては石のサイズが大きく、しかも虎口状の通路もあるので、この大きい石垣は城の遺構かもしれない。
主郭背後の堀切→IMG_0428.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.119356/138.895340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


首都圏発 戦国の城の歩きかた

首都圏発 戦国の城の歩きかた

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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黒田城(群馬県神流町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0333.JPG←神社背後の物見台
 黒田城は、この地の土豪黒澤氏の城と伝えられている。黒澤氏の事績についてはよくわからないが、上野村に国指定重文の「黒澤家住宅」があり、江戸幕府の直轄地(天領)であった山中領の大総代を務めた黒澤治部右衛門家の居宅であった。おそらく黒田城を築いた黒澤氏と同族であろう。因みに山中領は、神流川沿いの山間地に東西に長く広がっており、下山郷・中山郷・上山郷の3郷、22ヶ村が属していた。前述の黒澤治部右衛門家は上山郷楢原村の名主でもあったが、その他の郷村の名主も黒澤姓が多く、室町・戦国期から一族が神流川沿いに広く盤踞していたものと推測される。

 黒田城は、黒田集落北東の標高456mの山稜先端部に築かれている。南西麓から車道が延びているので訪城は簡単だが、残念ながら肝心の遺構は道路建設でかなり改変されてしまっている。車道の行き着いた先は平場となっており、主郭であったらしい。主郭の奥には城山稲荷神社が鎮座しているが、その背後は小さな高台となっており、物見台であったらしい。現在はベンチなどが置かれた広場となっている。その先は急峻な岩場の尾根で、遺構らしい遺構は確認できない。一方、主郭から西側には僅かな段差や堀状の低地が残っており、二ノ郭等の曲輪群があったようだが、改変で曲輪の形態はあまりはっきりしない。黒田城から尾根続きの千軒山には千軒山城があるので、千軒山城を戦時の詰城とし、黒田城は街道監視の物見としての機能が主であったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.115335/138.908730/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東地方の中世城館〈1〉栃木・群馬 (都道府県別日本の中世城館調査報告書集成)

関東地方の中世城館〈1〉栃木・群馬 (都道府県別日本の中世城館調査報告書集成)

  • 作者: 村田 修三
  • 出版社/メーカー: 東洋書林
  • 発売日: 2000/11
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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折実館(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0322.JPG←館跡付近の現況
 折実館は、歴史不詳の城館である。1586年の新福寺合戦では、益子氏の一族で七井城主の七井忠兼が茂木城主茂木山城守の軍勢と戦って敗れ、討死している。この合戦は折実館付近で行われたと伝えられるが、折実館との直接の関連は不明である。
 折実館は、益子町から茂木町に通じる市道脇にあったらしい。ネットの情報では「ましこゴルフ倶楽部」入口の北西の台地の縁にあったとされる。しかし遺構は不明で、北の谷戸へ向かって台地辺縁部の低地の張り出しと、台地上の削り残し土塁みたいなものは見られるが、遺構かどうかは何とも言えない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、西と北に谷戸が入り込んだ半島状台地の北端部に位置していることがわかるが、既に明確な遺構は確認できない。失われた城館の様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.487661/140.138576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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平成30年 西日本豪雨について [雑感]

7月5日から発生している西日本豪雨について、
あまりの広範囲に起きた、あまりの甚大な被害に、言葉もありません。
しかもまだ豪雨被害は現在進行中で、未だ事態の収束が見えない状況と思います。

被害に遭われた多数の方々には、心からお見舞い申し上げます。
また、お亡くなりになった方々やそのご家族の方々には、心からお悔やみ申し上げます。

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益子古城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0308.JPG←西郭外縁部の土塁
 益子古城は、宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団、紀清両党の一翼を担った益子氏の初期の居城とされている。益子氏の事績については、益子城の項に記載する。『下野国誌』によれば、平安後期の康平年間(1058~65年)に征東大将軍紀古佐美の後裔紀正隆が那流山(高館山)の麓に城を築いて益子氏を称したと伝えられるが、この「麓の城」が益子古城だとされている。以後、益子城に居城を移すまで、機能していたと考えられている。また山麓の益子古城に対して詰城として築かれたのが山城の西明寺城だと考えられている。しかし発掘調査の結果、出土遺物などから益子古城は戦国期に約50年間に渡って存続した城と推測され、伝承と発掘調査結果が食い違い、益子古城・益子城・西明寺城の3城の関係が不明確となっている。
 尚、益子城の別名を益子古館とも言うので、益子古城とごっちゃになって少々紛らわしい。

 益子古城は、益子中心市街地の北側に位置する比高15m程の台地上に築かれている。中心に主郭を置き、その東西に南郭・西郭を配置し、主郭の北側に東西に伸びる丘陵上にも北郭・東郭を配置していたとされている。現在は、主郭・西郭・北郭は公園化されており、南郭には陶芸美術館が建てられ、東郭は工房広場となっており、いずれも大きく改変されている。明確な遺構として確認できるのは、主郭~南郭間の堀切、主郭~北郭間の堀切、それと西郭外縁部の土塁だけである。しかし堀切もかなり改変されてしまっている様だ。この他に、腰曲輪状の平場が主要な曲輪の外周部に見られ、横堀状の地形も見られるが、あまりに改変が多いため、どこまで往時の姿を留めているのか、判断が難しい。また主郭には、解説板は建っているが、遺構説明の標柱などは城内に一切なく、多分発掘された主殿の礎石位置を示していると思われる石列にも何らの説明もなく、キャッスラーでなければ何が何だかわからないだろうと思う。益子城でも書いたが、益子町は陶芸ばかりでなく史跡整備にも力を入れて欲しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.465446/140.103385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


焼物の里を訪ねて 益子・笠間 (エイムック 1816)

焼物の里を訪ねて 益子・笠間 (エイムック 1816)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: エイ出版社
  • 発売日: 2009/10/14
  • メディア: 大型本


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益子城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0100.JPG←主郭北側の腰曲輪と虎口
 益子城は、益子古館、根古屋城とも呼ばれ、宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団、紀清両党の一翼を担った益子氏の後期の居城とされている。当初の居城は益子古城であったが、後に益子城を新たに築いて居城を移したと言われている。しかしこれら以外にも巨大な山城、西明寺城があり、これら3城の関係がどうだったのかは現在でも明確にはなっていない。

 益子氏は、『下野国誌』によれば、平安後期の康平年間(1058~65年)に征東大将軍紀古佐美の後裔紀正隆が那流山(高館山)の麓に城を築いて益子氏を称し、後に山上に居城を移したとされている。また正隆は宇都宮氏の始祖宗円と血縁関係を結んでいて、宇都宮氏と深い関係にあったらしい。益子氏の系図には諸説あるため、『下野国誌』の記述が正しいとは限らないが、いずれにしても益子氏は古くから紀姓を称し、宇都宮宗円の下野進出と深い関係を持っていたことは間違いない様である。益子氏の歴史がはっきりするのは鎌倉時代以降である。1189年、正隆の孫正重は、源頼朝の奥州合戦において宇都宮氏3代朝綱に従って参陣し、清原姓の芳賀高親と共に軍功を挙げ、これ以後芳賀氏と共に「紀清両党」と並び称され、その名を轟かした。南北朝期にも、宇都宮公綱に従って各地を転戦し、名将楠木正成をして「その儀分(=器量)を量るに、宇都宮はすでに坂東一の弓矢取りなり。紀清両党の兵、元来(もとより)戦場に臨んで命を思ふ事、塵芥よりもなほ軽し。」(太平記 第6巻)と言わしめ、その鋭鋒を避けさせたほどであった。一時期、南朝方の春日顕国の軍勢に西明寺城を奪われるなど苦境に立たされることもあったが、観応の擾乱では、益子出雲守貞正は主君宇都宮氏綱に従って足利直義方の戦陣を崩壊させ、足利尊氏の薩埵山体制の構築に貢献した。戦国期に入ると、宇都宮氏の家中では度々内紛が起こり、また重臣たちは徐々に主家から独立した動きを見せ、主家への反抗も度々起こる様になった。益子氏も勝宗の頃から度々主家と事を構え、1559年には七井の矢島城を攻略して領地を拡大し、1576年には新たに七井城を築いて5男勝忠を城主にした。同年、勝宗は西明寺城を修築して居城を移したとされる。1581年、益子家宗は同じ宇都宮家臣で領地が隣接する笠間綱家と戦った。この頃から、益子氏と笠間氏は関係が悪化して、紛争が多発。益子氏の富谷城と笠間氏の橋本城は鋭く対峙し、両城を廻って攻防が繰り広げられた。また1584年には七井勝忠は主家宇都宮国綱と争い、敗れて尾羽寺で毒殺され、その子・忠兼も1586年に茂木山城守と新福寺で戦い、敗死した。こうしたことが積み重なって家宗は主家宇都宮氏に背いた。1589年、宇都宮国綱は芳賀高武ら重臣と密かに謀って家宗を攻め滅ぼし、益子氏は滅亡した。

 益子城は、比高20m程の丘陵先端部に築かれている。主郭を起点に、北と北東の2方向にY字状に分岐した地形を利用して曲輪群が築かれていた様である。最上段の主郭は、現在益子小学校に変貌しており、遺構は残っていない。その他は民有地が多く、主郭周り以外はほとんど進入することができない。辛うじて主郭周りだけ歩いてみたが、主郭北側下方に土塁が築かれた扇状腰曲輪があり、虎口が築かれている。その上方に主郭に至る虎口があり、その脇に櫓台が築かれている。もっと深入りして確認したいところだが、北麓の地主さんを訪ねてお断りしたところ、露骨に拒否感を示されてしまった。また北郭にある民家は閉鎖されており、立入りの許可を求めることもできなかった。『栃木県の中世城館跡』所収の縄張図と現状の航空写真を見比べると、主郭以外はほとんど遺構が残っていそうな感じなので、地権者の同意があれば、もっと城址公園などの史跡として整備できるだろうにと、非常に残念に感じた。益子町も、陶芸ばかりでなく史跡整備にも力を入れて欲しいところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.460424/140.097849/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/03
  • メディア: 単行本


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