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小日向城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8292.JPG←べんしょう山と呼ばれる帯曲輪
 小日向城は、小日向の砦とも呼ばれ、歴史不詳の城である。武田氏支配時代に松井田城の北東の出城として築かれたのではないかとの説が提起されている。尚、主郭には倉屋敷の名が残っているが、1786年に幕令により城跡に郷倉が建てられたからと言う。

 小日向城は、九十九川北側の微高地に築かれている。現在はほとんどが宅地となり、ソーラーパネルも敷地内に多数設置されており、城跡の雰囲気は乏しくなっている。しかし周囲よりは高くなっており、主郭に当たる民家の北側には空堀を挟んで「べんしょう山」と呼ばれる大土塁の様な帯曲輪が東西に長く築かれている。但しものすごい竹薮で踏査が大変である。べんしょう山の東端には虎口を兼ねたと思われる堀切が穿たれ、帯曲輪を分断している。城の中心部は倉屋敷の名の残る主郭と、水路を挟んで東側に三角形に張り出したニノ郭であるが、主郭の西側にあった土塁はソーラーパネル設置でほとんど削られ、ニノ郭もほぼ大半がソーラーパネルで埋め尽くされている。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.320710/138.829186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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名山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8217.JPG←主郭の土塁
 名山城は、歴史不詳の城である。安中忠政が松井田城を改修した後に、安中・松井田両城の繋ぎの城として築かれたのではないかと推測されている。
 尚、1582年の織田信長による武田攻めの際、崩壊する武田領国の中で上野国峰城主小幡信貞は軍勢を率いて安中領に乱入したが、里見郷の土豪里見吉政は、安中氏を援助するため郷原の「名山」と言う小山に登って軍勢を集め、小幡勢と交戦したと言う(平山優『天正壬午の乱』)。この名山が名山城であった可能性は十分あるだろう。

 名山城は、碓氷川と九十九川に挟まれた標高290m、比高50mの山上に築かれている。登道はないので、西側を通る小道の脇から薮をかき分けて登城した。低土塁で囲まれた方形の主郭を山頂に置き、南から東にかけて2段の腰曲輪が廻らされている。その東斜面に更に2段の腰曲輪が築かれている。北側には段曲輪と堀切があり、その北側は自然地形の尾根となっている。堀切の西側には腰曲輪がある。一方、主郭周囲の腰曲輪から堀切を挟んで南東に大手の尾根があり、細長い大手郭群が築かれている。大手先端には段曲輪群が築かれて登り口を防衛しているが、この段曲輪群は『日本城郭大系』『境目の山城と館 上野編』のいずれの縄張図にも描かれていない。名山城は、遺構は比較的ささやかなもので、全体に薮も多く、この地域の城の中では少々見劣りする。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310197/138.821955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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人見城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8135.JPG←互違いになった堀の十字路
 人見城は、南北朝期に足利方の武将であった人見四郎恩和の館であったものを、戦国期に改修したものと考えられている。但し、人見四郎恩和の伝承については検討を要する。おそらく人見四郎恩阿のことを言っているのだと思うが、恩阿は武蔵七党猪俣党の一流で、武蔵国の住人であった。その事績は人見氏館の項に記載する。本拠が武蔵であった土豪なので、西上野に館を構えていたとは考えにくい。おそらく人見の郷名に基づく仮託であろう。

 人見城は、柳瀬川南岸の比高40m程の段丘の縁に築かれている。少々変わった縄張りで、ほぼ方形に区画された曲輪を横一線に連ね、北側斜面にそれらより低く長方形の曲輪を並べている。曲輪はいずれも空堀で分断され、段丘上の曲輪と斜面の曲輪とはまるで碁盤の目の様に整然と配置されているので、空堀の十字路ができている。しかし堀のクロス部は僅かに互違いになって横矢を掛けている。縦の空堀は斜面を竪堀となって落ちている。曲輪には土塁も築かれ、特に北斜面に横一線に並んだ曲輪群は背後が大土塁となっている。また主郭だけ、北側に堀を挟んだ小さな出曲輪と、その右方に張り出した塁線があり、より防御を固めていた様である。主郭を始めとする段丘上の曲輪群は、北側の遺構は残っているが、南半分は宅地などになって改変されており、空堀も湮滅している。この他、曲輪群の東に馬出しとされる独立堡塁が築かれている。その東側は斜面となっており、腰曲輪らしい平場があり、その東に細流が落ちている。ここには鶯井戸と呼ばれる湧水点がある。
 人見城は、北側遺構は完存し、少々薮っぽいものの地主さんと地元の方たちの努力で一応の散策路が整備されている。尚、解説板にある城のイラストで、馬出しに馬が描かれているのには笑った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.292645/138.830838/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(一) (岩波文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/04/17
  • メディア: 文庫



タグ:中世崖端城
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丹生東城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8070.JPG←東側の腰曲輪跡らしい平場
 丹生東城は、丹生城の出城である。しかし城の歴史ははっきりせず、いつの時代のどの城主によって築かれたのか、詳細は不明である。
 丹生東城は、丹生湖の西側にある標高245m、比高35m程の丘陵上に築かれている。残念ながら、10数年前の耕地整理で破壊され、現在は地勢以外に遺構を留めていない。この地は城山と呼ばれ、畑となった丘陵の東と北に、一段低く帯状に平場が廻っているが、これがかつての堀や腰曲輪の跡であるらしい。耕地整理前の発掘調査では、ここに畝堀が見つかっているというので、小田原北条氏の上州進出後に関連する勢力によって改修された可能性も考えられる。いずれにしても現在では、現地に標柱も何もなく、極めて残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266248/138.824165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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丹生城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7902.JPG←主郭背後の二重堀切
 丹生城は、岩松氏が築いたと推測されている。後閑氏の系図では、新田義貞の末弟に新田四郎義重なる人物がいて、足利方として戦功を挙げて丹生を与えられたと言うが、そもそも新田四郎義重の実在が確認できない。しかも新田一族の多くが敵対し続けた足利氏に、義重だけが属したと言うのも奇異である。後閑氏による系図の創作であろう。実際には岩松満長が鎌倉公方足利持氏から丹生郷を与えられて丹生城を築いたと考えられている。岩松氏は、新田氏と足利氏の両方の流れを汲み、足利氏に従って軍功を挙げ、新田嫡流家が南北朝内乱で滅亡すると、新田氏に変わって新田荘を支配し、後には新田姓を称した。1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略し、59年には武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。以後は後閑城が本拠となり、丹生城の帰趨は不明である。

 丹生城は、標高290m、比高90mの山上に築かれている。北尾根の先に車道が通っており、案内板が出ているので、訪城は容易である。城内は一部の曲輪が整備されているものの、少々薮が多い。広い城域の城で、山頂に主郭を置き、主郭周囲に腰曲輪を廻らし、南・南南東・南東の3つの尾根に曲輪群を築いている。ところどころ堀切が穿たれているが、規模は大きくなく、全面に土塁を盛ってちょっとした障壁の様な形で築かれているものもある。南東の先端のピークには物見曲輪が築かれている。主郭の北側腰曲輪から東に伸びる尾根が大手筋で、切り通し状の坂虎口や曲輪の先の長い尾根に、4~5本の堀切が穿たれている。この尾根は、一部が墓地などに改変されているが、堀切はよく残っている。この他、主郭の背後には二重堀切が穿たれ、その先に二ノ郭群、三ノ郭が続き、また小さな二重堀切を挟んで四ノ郭があり、その先を北端の堀切が穿って城域が終わっている。全体に多数かつ比較的大きな腰曲輪群が築かれているが、横矢掛かりはほとんど無く、あまり技巧性は感じさせず、面白みにはやや欠ける。ただ二重堀切が多用されているところなどは、武田氏勢力による普請の可能性を感じさせる(静岡などは、二重堀切と言うとほとんど武田氏の専売特許の様になっていたので)。
大手尾根に残る堀切→IMG_8031.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264380/138.815260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世山城
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烏山城 その2(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_7304.JPG←古本丸周囲の横堀
 烏山城は、昨年築城600年を迎え、それを記念して市を上げて各種のイベントを開催した。そして薮に埋もれていた城跡も、だいぶ整備されたと聞いていたので、今年の1月に12年ぶりに再訪した。整備したと言っても、どうせ主要部だけだろうとタカをくくっていたら、案に相違してほぼ全域に渡って薮が伐採されて、遺構がよく分かる様になっていた。ここでは薮伐採によって見事な姿を現した遺構群を概観していきたいと思う。

 南北に伸びる尾根上に、北から順に北城・中城・古本丸・本丸を配置し、それらの周囲にも常盤曲輪・若狭曲輪等の名称の付いた大型の曲輪や腰曲輪群を築いて防御している。古本丸の北西から西面にかけて大きな二重横堀が穿たれている。また北城の西側にも二重横堀を穿ち、間の土塁には虎口の切れ目があって、西に展開する大野曲輪へと城道が繋がっている。大野曲輪は扇形に広がった形で、先端に横堀を穿って、外郭を遮断している。古本丸の西側には、前述の二重横堀の西尾根に、西城という曲輪がある。西城は付け根に虎口を設けた土塁を築き、内部が3段程の平場に分かれている。北側には横堀が穿たれ、先端の堀切まで繋がっている。南斜面には腰曲輪が2段築かれている。西城の先端は大きな二重堀切で分断されており、中間土塁は外堀に対して張り出し、横矢を掛けている。更に2つの堀切を挟みながら西へ曲輪群が展開している。本丸の西側にも横堀が穿たれ、その下方に若狭曲輪があり、その下には西城まで繋がる大きな腰曲輪が築かれている。本丸の東側にも大手を守る常盤曲輪(上段・下段)があり、それぞれに石垣が残っている。古本丸の東にも厩跡という曲輪が展開し、北城の東斜面にも腰曲輪群が築かれている。この他、本丸は近世の改修を受けたため、石垣を築いた枡形虎口があり、北城の北端や大野曲輪の付け根にも桝形虎口が築かれている。
 近世に改修を受けた部分もあるとは思うが、戦国期の姿を色濃く残し、かなり技巧性を持たせた規模の大きな縄張りで素晴らしい。薮払いの整備が進められて、かなりの部分がよく確認できるようになったので、この機会に評価を四ツ星から五ツ星に改訂したいと思う。
大野曲輪付け根の堀切(横堀)→IMG_7399.JPG
IMG_7227.JPG←常盤曲輪下段の外周の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.663703/140.147974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 那須 義定
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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長井坂城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7035.JPG←主郭・二ノ郭間を通る沼田街道
 長井坂城は、沼田城攻略の拠点となった城である。1560年、関東に出陣した上杉謙信は、沼田城攻略に当たり、沼田を迂回して長井坂に布陣したとされる。この当時、小田原北条氏が関東管領山内上杉氏を関東から駆逐したことで、上野の国衆の多くが北条氏に降っていた。沼田氏では家中で内訌があり、これに北条氏が介入して前当主の沼田顕泰を越後に逐い、北条綱成の次男が入嗣して沼田康元となって沼田城を守備していた。しかし謙信の出馬によって形勢不利と判断した康元は沼田城から退去し、沼田城は謙信に攻略された。謙信死後の1580年、沼田城を攻略した武田氏の部将真田昌幸は赤城西麓を南進し、長井坂城を守備していた白井長尾氏の家臣牧弥六郎・須賀加賀守を駆逐し、これを占領した。1582年10月、武田氏滅亡・本能寺の変後に鉢形城主北条氏邦が5000余騎で長井坂城を囲み、真田方守将の恩田越前守・下沼田豊前守は奮戦の後脱出した。その後、長井坂城は北条氏の属城となり、氏邦の家臣猪俣邦憲が在城して、沼田城攻撃の拠点としたと言う。

 長井坂城は、利根川と永井川に刻まれた比高210mの急崖の上に築かれた城である。棚下砦と同じ段丘が、北端に突き出た部分に当たる。崖端城の通例と異なり、方形郭を並立させた珍しい縄張りとなっている。しかも城の中央部を沼田街道が貫通しており、街道を城内に取り込んだ形態も有している。崖に面した街道西側に主郭を置き、街道東側には二ノ郭を配置している。街道はちょうど2つの曲輪の間の堀底道となっている。主郭も二ノ郭も、基本は方形郭であるが、主郭は街道に向かって横矢の張り出しを設け、二ノ郭も南東角に横矢の張り出しを設けている。また主郭は崖側以外の三方に土塁を築き、南東部に空堀に繋がる大型の虎口を設けている。二ノ郭も街道側以外の三方に土塁を築いており、いずれの曲輪も東に広がる平地からの攻撃に対する防御を強く意識している。主郭・二ノ郭の外周には空堀が廻らされ(但し、二ノ郭北側のみ湮滅)、主郭北側には角馬出が配置され、その周囲にも空堀が穿たれている。主郭・二ノ郭の南側には三ノ郭が置かれ、その南側も土塁と空堀で防御している。三ノ郭は中央を街道が貫通しているので、東西で別郭となっているが、相対する虎口が確認できるので、三ノ郭東西は木橋で連結していたと考えられる。木橋を街道上に架けることによって、防衛線にもなるわけである。東三ノ郭の土塁は高さ5m程もある大土塁で、しかも横矢掛かりを持ち、重厚な防衛陣地となっている。三ノ郭の東にも空堀が伸びて台地東端まで掘り切っており、城の中枢部の東から北にかけて四ノ郭を設けている(現地標柱では三の丸だが、四ノ郭が正しいと思う)。この他、北側は断崖なのに腰曲輪も築かれている。以上が長井坂城の縄張りで、畑となっている二ノ郭以外は史跡として整備されているので、薮も少なく遺構が見やすい。横矢掛かりを多数設けた、戦国末期の築城技術を堪能できる。
 尚、縄張図に関しては、『日本城郭大系』のものより『中世城郭事典』のものがより正確である。
主郭南側の空堀→IMG_7120.JPG
IMG_7048.JPG←二ノ郭の横矢掛かりの土塁・空堀
三ノ郭の大土塁→IMG_7063.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.585157/139.065220/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

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  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/06/17
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棚下砦(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6983.JPG←丸馬出
 棚下砦は、棚下御殿砦とも南雲御殿遺跡とも呼ばれ、上杉謙信に関連する城砦と考えられている。長井坂城津久田城との間に位置し、沼田城から厩橋城に至る要路中間を押さえる砦であったとされる。永禄年間(1558~70年)の北条景広宛上杉輝虎書状に「棚下之寄居」の表記があり、それが棚下砦のことであろうと推測されている。

 棚下砦は、利根川東岸の比高170mの断崖上に築かれている。北と南に深い谷が刻まれた天険の要害そのものの地形にある。遺構も見事で、先がすぼまった防弾形の主郭と、土橋で連結された細長の丸馬出で構成されている。東の車道から歩いていくと、空堀で区画された丸馬出が前面に見えてくる。丸馬出は、北面から東の先端部まで土塁を築き、独立堡塁として機能するように構築されている。馬出外周の空堀は、主郭との間を分断する堀切に接続し、更に主郭北側に回り込む横堀にも屈曲しながら繋がっていて、横矢を掛けている。主郭は東に土塁を築き、中央南寄りに櫓台らしい土壇を設けている。前述の主郭北側の横堀は、途中で竪堀となって落ち、その西側は帯曲輪となって主郭先端まで伸びている。主郭の先端(西端)には物見台があり、眼下には利根川の曲流部が一望できる。この他、丸馬出の東側の平場は、『日本城郭大系』の縄張図によればニノ郭で、東端に土橋の架かった堀切があった様だが、現在は車道が建設されて堀切が破壊されている。棚下砦は小規模な城砦であるが、丸馬出や大きな空堀が見事で、一見の価値がある。
馬出し・主郭周囲の空堀→IMG_6954.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572630/139.060650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名の山城を歩く

戦国大名の山城を歩く

  • 作者: 小和田 泰経
  • 出版社/メーカー: 新紀元社
  • 発売日: 2019/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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津久田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6946.JPG←城址中心部の現況
 津久田城は、白井長尾氏の支城である。築城時期は不明であるが、永禄年間(1558~70年)に津久田地衆によって築かれたと推測されている。1580年8月、沼田城の真田昌幸は、海野輝幸らに命じて、3千余騎でこの城に迫り、城将牧弥六郎、須田加賀守らを白井城に逐って、津久田城を占領した。1582年に武田氏が滅び、織田信長の重臣滝川一益が上野を与えられると、その甥滝川義太夫が沼田城に入城し、津久田城は白井長尾氏の支配に戻って、牧和泉守が守った。本能寺の変後、一益は神流川合戦で北条氏直に大敗して本領の伊勢に逃れ、その際に沼田城は真田氏に返還された。この時、白井長尾氏は北条氏に帰属し、津久井城も北条氏の支配下に入った。沼田城代となった真田氏の重臣矢沢頼綱は、中山右衛門尉らに津久田城を攻撃させたが、返って敗れ討死したと言う(牧和泉守の奮戦は、猫山城にも伝わっている)。その後の歴史は不明であるが、北条氏の属城として続き、小田原の役で廃城になったのだろう。

 津久田城は、利根川と沼尾川の合流点南東の比高50m程の段丘上に築かれている。広大な平地の北西端部に築かれ、主郭の周囲に空堀で囲まれた曲輪群を東西と南に連ねた、群郭的な縄張りとなっていた。しかし城内は、昭和42年の土地改良事業で破壊され、現在は宅地と農地に変貌し、遺構はほぼ完全に湮滅している。わずかに住宅裏の西斜面と北斜面に腰曲輪が残っているようだが、西の腰曲輪も杉の倒木で進入不能となっており、北の腰曲輪には到達できなかった。また住宅の裏に城址解説板があるのが辛うじて見えたが、民家の方にお断りをしないと、そこまで到達することもできない。昭和20年代の航空写真でははっきりと堀跡と曲輪の形状が確認でき、昭和42年に破壊されるまでは遺構が完存していたことがわかる。惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553344/139.043527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


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猫山城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6910.JPG←堀切と西郭群
 猫山城は、猫城とも言い、白井長尾氏の支城である。「猫」は根古屋の転訛らしい。当初は戸丸甚右衛門が在城し、1582年には牧和泉守が城を守り、牧氏は北条方として上杉方の真田勢と戦ったと言う。但し、牧氏の奮戦は津久田城にも伝わっており、城の遺構を見る限り、津久田城が攻撃を受け、攻撃中の真田勢を猫山城から出撃した軍勢が背後から急襲したと言う辺りが実相のような気がする。

 猫山城は、標高340m、比高100m程の山上に築かれている。東西に伸びる尾根上の2つに峰にまたがって築かれており、東郭群と西郭群から成る一城別郭式の縄張りである。『日本城郭大系』では、西郭群が本城で東郭群が別城(出城)としているが、東郭群の方が標高が高いので、こちらが本城のはずである。縄張りは全体的に簡素である。東郭群は長円形の主郭の周りに2段の腰曲輪が半周囲繞しているだけである。上段は幅が広いが、下段は帯曲輪状となっている。この東郭群の北に鞍部の自然地形が続き、北端に小堀切を挟んで西郭群が築かれている。西郭群あり、最上段の西主郭に城址標柱が立っている。その西側に小堀切を挟んで、猫山城では最大の面積を持っている西ニノ郭が広がっている。尾根は西ニノ郭の先で北に折れて伸び、そこにやはり堀切を挟んで西三ノ郭が築かれて、城域が終わっている。この他、城の築かれた尾根の北斜面下方にも傾斜の緩い平場が見られ、腰曲輪であった可能性がある。薮は少なく、遺構はよく確認できるが、普請の規模の小さいささやかな遺構で、恒常的な城砦と言うより、作戦上臨時に取り立てられた城砦と感じられた。
 尚、私は城まで北の谷筋の車道から斜面を直登したが、山上から遠望した限りでは西の車道から西尾根筋を登っても来られそうに見えた。それができれば、西からのアクセスの方が楽だと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.529795/139.039557/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2018/06/19
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不動山城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6784.JPG←三ノ郭から見た主郭
 不動山城は、見立城とも言い、白井長尾氏の重要な支城である。長尾氏の居城白井城から利根川を隔てて東方に位置している。元々は地衆見立氏らの寄居として築かれたが、白井城が攻撃された時には、二度も白井城主が不動山城に逃れて再起を図っている。1590年の小田原の役の際、前田・上杉らの北国勢によって攻め落とされ、廃城となった。

 不動山城は、利根川東岸の標高330m、比高130mの段丘上に築かれている。段丘先端に築かれた城としてはちょっと変わった縄張りで、空堀で段丘基部を分断しているのは普通だが、その先の段丘平坦面を2段に築き、上段を主郭・ニノ郭とし、下段をそれらに付随する腰曲輪状の三ノ郭としている。主郭・ニノ郭は、三ノ郭の上で堀切によって区画されている。三ノ郭の外周には広幅の空堀が穿たれ、その外側にL字状の四ノ郭が置かれている。三ノ郭の空堀には横矢掛かりのクランクも見られ、西端部でもクランクしながら斜面に落ちている。四ノ郭は内部が2段に分かれており、北端部が下段より3~4m程高い平場になっている。四ノ郭の外周にも空堀が穿たれている。三ノ郭南西角には坂土橋が付いて腰曲輪に通じ、更にもう一つの坂土橋で外郭に繋がっている。この他、北東に出曲輪が築かれ、四ノ郭との間の空堀は、北端でL字に折れている。出曲輪から北に伸びる尾根には、小郭群と堀切があり、北端に多重桝形虎口が築かれている。以上が不動山城の遺構で、一部耕地化による改変があるものの、遺構はほぼ完存している。主郭等の主要部は見やすいが、三ノ郭・四ノ郭は竹薮がひどいのが残念である。
三ノ郭の坂土橋→IMG_6796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.516190/139.031253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


土の城指南

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2014/06/18
  • メディア: 単行本


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八崎城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6669.JPG←主郭の空堀
 八崎城は、白井長尾氏の支城である。本城である白井城の南方を押さえる重要な支城で、長尾景春・憲景などがしばしば在城し、長尾景仲も城主となったことがある。しかし普段は城代を置いて守らせていたと推測されている。戦国後期には、上杉・北条・武田の三大名による覇権争いの中で白井城と共に八崎城の帰属も変転し、戦国末期には北条氏の支配下にあった。1590年の小田原の役では、前田・上杉らの北国勢の攻撃を受けて開城した。

 八崎城は、利根川とその支流東川に挟まれた段丘先端部に築かれている。南端に主郭を置き、その北側にニノ郭・三ノ郭があり、それらの西側に西曲輪、更に主郭から東川の深い渓流を挟んだ南東の段丘上に新曲輪を築いている。現在明確にその姿を残しているのは主郭だけである。主郭の北側には深さ5m程の規模の大きな空堀が穿たれ、しかも西側で横矢掛かりのクランクが見られる。主郭東側は東川によって削られた断崖絶壁となっている。主郭内は民有地で廃屋が残っているが、現在は入口に解説板が立ち、空き地となって開放されている。ニノ郭以降の曲輪は、住宅地に変貌し、堀跡は車道に変貌していてほとんどその痕跡を見出すことはできない。新曲輪も耕地化で遺構は失われている。ちなみに解説板によれば、度重なる風水害で大部分が崩れ去っているとされ、主郭や西曲輪はもっと規模が大きかったらしい。いずれにしても主郭周りの僅かな遺構しか残っておらず、残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.484141/139.025331/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
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有馬城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6644.JPG←主郭西側の空堀
 有馬城は、歴史不詳の城である。榛名山東の中腹の標高282.1mの段丘先端部に築かれている。北東端に主郭を置き、西と南に空堀を穿ち、外周にニノ郭を廻らした縄張りとなっている。しかしニノ郭は農地や工場・民家などに改変されており、西側に段差や土塁状の土壇が見られるが、どこまでが城域であったかも定かではなく、主郭南側の空堀もほとんど隠滅している。主郭は全体に薮が酷く、踏査が大変である。それでも西側の空堀は確認でき、主郭の北東側に腰曲輪が1段築かれているのが確認できる。主郭の北辺は大きく内側に湾曲し急崖に面しており、『日本城郭大系』の縄張図とは、主郭の形状は異なっている。昭和20年代の航空写真では、大系の縄張図に近い形状が見えるので、豪雨などで崖が崩れたものの様である。縄張図にある南東部の張出し部は薮が酷くて形状が確認できない。ニノ郭西側に描かれている馬出しは、前述の通り既に湮滅している。有馬城は、遺構の残存状況があまり良くなく、縄張り的に目立った特徴もなく、おまけに薮城なので、薮を強行突破してまで無理して行く城ではなかったのが残念。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.466352/138.993659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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原の内出(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6621.JPG←内出地区の民家群
 原の内出は、丹波屋敷とも呼ばれ、横尾丹波守が守った砦と伝えられる。「内出」の地名は上州では砦の別称であり、原の内出もそうしたものの一つである。横尾丹波守は、1547年の小田井ヶ原合戦で山内上杉方として参陣し武田勢と戦って敗れた横尾信光の子で、敗戦後にこの地に逃れ、小幡氏に属してこの砦を守ったとされる。後に小幡氏は武田氏に服属したので、横尾氏も同じく武田氏に属したと推測される。

 原の内出は、打越川北岸の原集落の中にある。明確な遺構はなく、県道48号線の北側に何段かの段差で民家が並んでいるだけである。『境目の山城と館 上野編』では、横尾丹波守の屋敷を中心にして若干の防備をして街道を監視し、連絡に当たったものと推測しており、民家を囲む石垣の中には、往時のものも含まれる可能性があるとの見解を示している。尚、内出地区の東端の墓地には、横尾丹波守の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.254846/138.815603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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高田城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6606.JPG←主郭の土塁
 高田城は、この地の土豪高田氏の本城である。高田氏の祖は、源頼光の曾孫盛員(もりかず)と言われ、盛員は甘楽郡菅野荘高田郷を領した。その10代の後裔高田憲頼は、関東管領山内上杉憲政に仕え、1547年、佐久に侵攻した武田信玄が笠原清繁の志賀城を攻撃した際、親族の笠原氏を助けて志賀城に立て籠もり、討死にした。その子繁頼は、西牧地区の諸城に拠って信玄の上州侵攻に抵抗したが、1561年に降伏した。繁頼の子信頼は、武田氏滅亡によって北条氏に服属したが、信頼の子直政の時に北条氏も滅亡し、関東に入部した徳川家康に仕えて300石を給され、旗本となって存続したと言う。

 高田城は、高田川南岸の丘陵地帯の中の245mのピークに築かれている。『境目の山城と館 上野編』に「現状は荒廃の極にある」と記されている通り、竹薮・笹薮でひどい状況にある。山頂の主郭から北東に伸びる尾根に段々に曲輪群が築かれ、先端に大手があったと見られるが、先端の道路から曲輪内に突入すると、そこは物凄い竹薮地獄で、一部に櫓台や堀切の痕跡はあるものの、そこから先への突破は不可能であった。仕方なくゴルフ場に至る西の車道脇から谷戸を越えて主郭を目指して登り直した。主郭周囲には数段の腰曲輪が築かれ、その上に主郭がそびえている。主郭は全周の2/3程を高さ1.5m程の立派な土塁で防御しているが、ここも竹薮が酷い。主郭全体の形は、南北に長く、中央部が狭くなった形をしている様である。南西に堀切があった様だが、ゴルフ場造成で消滅している。以上の様に、遺構は残っているものの、激薮で踏査はかなり困難で、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮で減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266958/138.840237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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高田上の城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6511.JPG←東尾根の腰曲輪群
 高田上の城は、高田氏の支城の一つとされる。本城の高田城から北西にわずか300m程しか離れておらず、側面を防御する城砦として機能したと考えられる。
 高田上の城は、高田川南岸の丘陵地の中の標高250mのピーク上に築かれている。城跡までの明確な登道はないが、北麓に高太神社があり、比高わずか30m程でそれほど傾斜もきつくない斜面なので、適当に登れば城域に至る。城は主郭を中心に、三方の尾根に腰曲輪を配しただけの比較的単純な縄張りである。しかしこの手の小城砦にしては腰曲輪群は規模が大きめで、大手に当たる東尾根の曲輪群は4段程築かれ、主郭もそこそこの広さを有している。北側の腰曲輪では低土塁も築かれている。また南尾根と西尾根には堀切が穿たれているが、南の方は手前の腰曲輪に柵が設けられており(おそらく裏にあるゴルフ場との境の柵)、近づくことができなかった。構造としてはこれだけの城であるが、普請は全体にしっかりしており、城内は薮も少なく歩きやすい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.268601/138.837898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世平山城
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