孫沢城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]
←主郭外周の空堀
(2020年2月訪城)
孫沢城は、大崎義隆の家臣笠原九郎左衛門の居城と伝えられる。宮崎城主笠原氏の一族で、1590年に生起した葛西大崎一揆の際、九郎左衛門も宮崎城に立て籠もり、討死したと言う。
孫沢城は、標高65m、比高25m程の丘陵南東端に築かれている。小さな方形の主郭を置き、西と北には台地と分断する空堀を穿ち、主郭の南斜面には2~3段の腰曲輪を築いている。腰曲輪は全て民家の敷地であり、主郭も民家の真裏の民有地なので、進入できない。そのため、東斜面から取り付いて、主郭外周の空堀だけ確認するに留めた。この空堀は、東斜面まで降っている。『日本城郭大系』には、主郭の西側に「西館」があったと書かれているが、自然地形でよくわからなかった。尚、数年前まで南の民家に城址標柱があったようだが、現在は無くなっている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593613/140.816048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2020年2月訪城)
孫沢城は、大崎義隆の家臣笠原九郎左衛門の居城と伝えられる。宮崎城主笠原氏の一族で、1590年に生起した葛西大崎一揆の際、九郎左衛門も宮崎城に立て籠もり、討死したと言う。
孫沢城は、標高65m、比高25m程の丘陵南東端に築かれている。小さな方形の主郭を置き、西と北には台地と分断する空堀を穿ち、主郭の南斜面には2~3段の腰曲輪を築いている。腰曲輪は全て民家の敷地であり、主郭も民家の真裏の民有地なので、進入できない。そのため、東斜面から取り付いて、主郭外周の空堀だけ確認するに留めた。この空堀は、東斜面まで降っている。『日本城郭大系』には、主郭の西側に「西館」があったと書かれているが、自然地形でよくわからなかった。尚、数年前まで南の民家に城址標柱があったようだが、現在は無くなっている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.593613/140.816048/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1