大嶽城〔附、福寿丸・山崎丸〕(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]
←大嶽城の主郭を囲む土塁
(2019年12月訪城)
大嶽(おおづく)城は、近江の戦国大名浅井氏の居城小谷城の背後を守る出城である。元々、浅井氏初代亮政が築いた小谷城とは、この大嶽城を主郭としていたと考えられている。その後、南東の尾根に小谷城の本城部が移った後も、背後の高所を押さえる位置にあることから、何らかの役目を負って存続していた可能性がある。1573年、織田信長が小谷城を攻撃した際には、浅井氏の援軍として加勢に来た越前朝倉氏の一軍が大嶽城を守備していた。しかし焼尾砦の守将浅見対馬守俊成は、織田勢の調略を受けて降伏し、俊成の手引きで織田軍は嵐に乗じて大嶽城を攻め落とした。この後、坂道を転げ落ちるように朝倉氏は滅亡し、孤立した浅井氏も滅亡した。
大嶽城は、標高494.6m、比高395mの小谷山山頂に築かれている。小谷城からだと、搦手の六坊跡を通過してから登道を15~20分程登れば、大嶽城に行き着く。登道が整備されているので、迷うことはない。大嶽城は、主郭を中心に、外周に数段の腰曲輪を巡らした環郭式の縄張りとなっている。高所に築かれた出城にしては大型の城で、かなりの兵数を籠めることができる。しかしかなり大味な作りで、主郭も腰曲輪も大型の幅広の土塁で囲まれているが、切岸の傾斜は緩い。北西の尾根には堀切が2本穿たれているが、これもあまり鋭さがない。一方で、北西から南西まで廻る腰曲輪は西側で大きく斜めに湾曲して降り、その西側下方には大きな竪堀が2本落ちていて、ダイナミックな構造を見せている。この他、小谷城からの登道がある東尾根や、出砦に通じる南西の尾根には何段もの曲輪群が築かれている。
大嶽城の南西の尾根には、福寿丸と山崎丸と言う2つの出砦が築かれている。この尾根筋にも山道が整備されているので、迷う心配はない。これらの出砦は、いずれも大嶽城と同様に援軍の朝倉勢が普請して立て籠もった砦である。福寿丸には朝倉氏の部将木村福寿庵が、山崎丸には同じく朝倉氏の部将山崎吉家が守将として入っていたと伝えられる。2つの砦とも朝倉氏の最新の築城技術で作られた城とされ、大きな城砦ではないが普請はしっかりしている。いずれも土塁で囲まれており、枡形虎口や橫矢の張り出しが多用されている。曲輪全体が枡形状の構造になっている部分もあり、こうした構造は相模御所山城や韮山城附城群によく似ている。これらを見ると、織豊系陣城は織豊勢力が突然編み出したものではなく、周辺諸勢力との抗争の中で互いに築城技術を吸収し進化させてきたものだということがわかる。織豊系陣城を考察する上で、好適な事例である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:【大嶽城】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.465983/136.273395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
【福寿丸】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.460705/136.269189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
【山崎丸】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455951/136.268159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
(2019年12月訪城)
大嶽(おおづく)城は、近江の戦国大名浅井氏の居城小谷城の背後を守る出城である。元々、浅井氏初代亮政が築いた小谷城とは、この大嶽城を主郭としていたと考えられている。その後、南東の尾根に小谷城の本城部が移った後も、背後の高所を押さえる位置にあることから、何らかの役目を負って存続していた可能性がある。1573年、織田信長が小谷城を攻撃した際には、浅井氏の援軍として加勢に来た越前朝倉氏の一軍が大嶽城を守備していた。しかし焼尾砦の守将浅見対馬守俊成は、織田勢の調略を受けて降伏し、俊成の手引きで織田軍は嵐に乗じて大嶽城を攻め落とした。この後、坂道を転げ落ちるように朝倉氏は滅亡し、孤立した浅井氏も滅亡した。
大嶽城は、標高494.6m、比高395mの小谷山山頂に築かれている。小谷城からだと、搦手の六坊跡を通過してから登道を15~20分程登れば、大嶽城に行き着く。登道が整備されているので、迷うことはない。大嶽城は、主郭を中心に、外周に数段の腰曲輪を巡らした環郭式の縄張りとなっている。高所に築かれた出城にしては大型の城で、かなりの兵数を籠めることができる。しかしかなり大味な作りで、主郭も腰曲輪も大型の幅広の土塁で囲まれているが、切岸の傾斜は緩い。北西の尾根には堀切が2本穿たれているが、これもあまり鋭さがない。一方で、北西から南西まで廻る腰曲輪は西側で大きく斜めに湾曲して降り、その西側下方には大きな竪堀が2本落ちていて、ダイナミックな構造を見せている。この他、小谷城からの登道がある東尾根や、出砦に通じる南西の尾根には何段もの曲輪群が築かれている。
大嶽城の南西の尾根には、福寿丸と山崎丸と言う2つの出砦が築かれている。この尾根筋にも山道が整備されているので、迷う心配はない。これらの出砦は、いずれも大嶽城と同様に援軍の朝倉勢が普請して立て籠もった砦である。福寿丸には朝倉氏の部将木村福寿庵が、山崎丸には同じく朝倉氏の部将山崎吉家が守将として入っていたと伝えられる。2つの砦とも朝倉氏の最新の築城技術で作られた城とされ、大きな城砦ではないが普請はしっかりしている。いずれも土塁で囲まれており、枡形虎口や橫矢の張り出しが多用されている。曲輪全体が枡形状の構造になっている部分もあり、こうした構造は相模御所山城や韮山城附城群によく似ている。これらを見ると、織豊系陣城は織豊勢力が突然編み出したものではなく、周辺諸勢力との抗争の中で互いに築城技術を吸収し進化させてきたものだということがわかる。織豊系陣城を考察する上で、好適な事例である。
大嶽城西側の大竪堀→
←大嶽城西側の腰曲輪大嶽城付近から見た小谷城→
←福寿丸の桝形虎口山崎丸の横矢張出しと空堀→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:【大嶽城】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.465983/136.273395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
【福寿丸】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.460705/136.269189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
【山崎丸】
https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455951/136.268159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0