SSブログ

小谷城(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8143.JPG←本丸の石垣
(2019年12月訪城)
 小谷城は、近江北半を支配した戦国大名浅井氏3代の居城であり、中世5大山城の一つに数えられる大規模な山城である。浅井氏の出自には諸説あって明確ではないが、鎌倉時代には北近江に根を張る国人領主であった。南北朝期に婆娑羅大名として知られる佐々木(京極)道誉が南北朝動乱期の活躍で台頭し、北近江の守護大名となって勢力を確立した。3代将軍足利義満が定めた室町幕府の典礼では、京極氏は幕府の四職に列した。浅井氏は、こうした京極氏の家臣として活動した。応仁の乱の最中に京極氏家中で家督争いが起きると、京極氏の家臣団は分裂して抗争を繰り返し、京極氏の勢力は衰えた。1523年、再び京極高清の跡目をめぐって内訌が起き、浅井亮政らは家臣団中最大の勢力を持っていた上坂信光を失脚させ、京極高清・高慶父子を尾張国に逐った。こうして江北の実権を握って台頭した亮政は、その翌年には小谷城を築いていたと見られ、1524年に尾張に奔った京極高清を小谷城の京極丸に迎えて饗応した。一方、近江守護・観音寺城主六角氏は、京極氏の本家筋であり、都を逐われた足利将軍を近江で保護する実力者であり、下剋上で台頭した浅井氏と対立するようになった。1525年、六角定頼は浅井氏討伐のため進軍し、小谷城を攻撃した。この時の小谷城は、現在の大嶽(おおづく)城に主郭があったとされる。攻撃を受けた亮政は越前朝倉氏に援軍を求め、朝倉教景(宗滴)率いる朝倉勢が小谷城へ入り、金吾丸を築いて滞陣したと言う。決定打を与えられなかった六角氏は、その後も度々浅井氏と交戦し、亮政は次第に劣勢に追い込まれた。亮政は、六角氏への従属姿勢を示しつつ、朝倉氏や本願寺勢力と協調して江北の地盤を固め、1534年には京極高清・高延父子を宿所において饗応した。この宿所は、山上ではなく清水谷の居館であるとされ、この頃には山上の城郭も山麓の根古屋も整備されていた可能性が高い。1542年、亮政が亡くなると久政が跡を継いだ。久政の時に、小谷城搦手に六坊と称される出坊が建てられている。久政は、六角氏に服属しつつ内政を整えたが、六角氏への従属を良しとしない家臣団の反発を受け、1560年に嫡子賢政(後の長政)に家督を譲って、小谷城内の小丸に隠居した。長政は、日の出の勢いの織田信長の妹お市を娶り、勢力拡大を図った。しかし1570年4月、信長が朝倉氏討伐のため敦賀に侵攻すると、突如長政は信長に反旗を翻し、危殆に陥った信長は辛くも京に逃げ帰った(金ヶ崎の退き口)。6月、信長は離反した浅井氏を攻撃し、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍による姉川合戦が繰り広げられた。浅井・朝倉連合軍は敗れ、その後織田勢は浅井氏の支城群を徐々に蚕食し、小谷城を追い詰めていった。1573年8月、信長は小谷城を包囲し、朝倉義景率いる援軍を破った。戦意に乏しい朝倉勢は序盤の敗戦と出城の失陥を見て撤退を始め、刀根坂で織田勢の激しい追撃を受けて壊滅した。本拠の一乗谷に向かった義景を追って、織田勢は越前になだれ込み、そのまま朝倉氏を滅ぼした。信長は小谷城包囲に戻り、総攻撃を開始。孤立した小谷城は落城し、長政は小谷城内の赤尾屋敷で自刃、浅井氏は滅亡した。信長は、わずか1ヶ月で越前・北近江の戦国大名を相次いで滅亡させるという、怒涛のような進撃であった。浅井氏滅亡後、小谷城は攻略の殊勲者羽柴秀吉に与えられたが、秀吉は長浜城を築いて移り、この時に小谷城の建物の多くが長浜城に移されたと言う。

 小谷城は、小谷山南東の尾根筋に築かれている。元々初代亮政が築いた小谷城主郭は、小谷山山頂の大嶽にあったが、後に南東尾根に本城を移したらしい。本丸は標高350mの峰にあり、最高所の山王丸はそれより北の50m程高い398mの峰に築かれている。信長に攻め落とされた後、秀吉の長浜移城などにより、建築物だけでなく石垣も多数持ち出されたと思われるので、往時の姿そのものではないはずだが、縄張りはほぼ往時の姿を留めていると推測される。南北に長い尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の縄張りを基本とし、西斜面に多くの腰曲輪を築いて防御を固めている。本城部は大きく2つに分かれ、本丸を最高所とした南部分と、山王丸を最高所とした北部分がある。南部分は南から順に、番所・お茶屋・御馬屋敷・桜馬場・大広間・本丸の各曲輪から成る。本丸の東には赤尾屋敷の段曲輪が築かれている。北部分は南から順に、中丸・京極丸・小丸・山王丸から成るが、北部分の各曲輪はどれも複数の平場で構成されている。これら多くの曲輪が連ねられ、しかもいずれも広さがあるが、防御の主体は石垣・土塁・切岸だけで、堀切はほとんど見られない。唯一、本丸裏は中丸との間に大堀切があるが、実態は堀切と言うより鞍部の曲輪である。また西麓の根古屋(清水谷)に向かって、腰曲輪群を貫通する様に何本もの竪堀が、また東側にも数本の竪堀が穿たれている。石垣は、観音寺城などと比べるとだいぶ小振りである。虎口は、平易な坂虎口が多く、枡形はあまり見られない。この他、山王丸の北尾根には六坊の平場群があり、南の尾根には金吾丸・出丸が築かれている。主城域からやや離れて、小谷山の東の尾根に月所丸があり、ここだけ尾根筋を分断する堀切が3本穿たれ、尾根付け根の北側斜面には7本の畝状竪堀が穿たれている。月所丸は、明らかに構築思想が本城と異なるので、朝倉氏の援軍による構築と見るのが自然であろう。

 以上が小谷城の遺構で、本城部はオーソドックスな連郭式の作りであり、横堀の塹壕線や畝状竪堀はなく、堀切すらもほとんどない。曲輪間の切岸もあまり大きなものがなく、遮断系の要素に乏しい縄張りと感じられた。一方で、西斜面に多数の腰曲輪群と竪堀が構築され、根古屋方面からの斜面だけ防御が厳重である。

 尚、南端の出丸から小谷城全域を踏査するには、車道を使わず山麓から山道を歩いて登るしかないので、大嶽城や清水谷まで含めると、全域踏査にはほぼ丸1日費やす覚悟が必要である。私は結局、車に戻るまで6時間も掛かった。それでも清水谷奥の三田村屋敷や大野木屋敷は踏査できなかった。
本丸から見た大広間→IMG_8137.JPG
IMG_8160.JPG←大堀切とされる鞍部の曲輪
大堀切の東腰曲輪の石垣→IMG_8172.JPG
IMG_8201.JPG←中丸の3段曲輪
月所丸脇の畝状竪堀→IMG_8391.JPG
IMG_8418.JPG←月所丸先端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.459779/136.277708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


【図解】近畿の城郭II

【図解】近畿の城郭II

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー