鬼場城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]
←主郭背後の二重堀切
鬼場城は、諏訪氏の庶流矢ヶ崎氏の城である。当初、齢松山城の支城として造られたが、位置の重要性とその堅固さから本支の逆転があり、後に鬼場城が本城となったと推測されている。天文年間(1532~55年)には、矢崎和泉守が鬼場城に拠って武田信玄に属したと伝えられる。山道を通して上原城とも簡単に連絡でき、北山浦一帯の交通路が集中する所であったため、交通の要衝であり、上原城防衛網の重要な支城であったと考えられている。
鬼場城は、永明寺山から延びた支尾根が上川へ落ち込む先端の、標高905.5m、比高75mの峰に築かれている。城山団地の奥から北に伸びる車道があり、その脇から散策路が整備されており、そこから南東に進んでいけば、大した山道を登ることなく簡単に訪城できる。頂部に土塁囲みの主郭を置き、東側に虎口郭と堀切を挟んで二ノ郭(鉄塔が建つ)を築いている。主郭は小さく、土塁で囲まれてすり鉢状になっており、齢松山城のものより居住性がない。主郭・二ノ郭の周囲には数段の腰曲輪群が配置され、二ノ郭北の腰曲輪には大井戸の跡が残っている。主郭の南には小さな横堀が構築されている。主郭背後の尾根には二重堀切が穿たれ、その先に小さな三ノ郭がある。三ノ郭は削平が甘く、ほとんど自然地形に近いが、南北に腰曲輪群を配し、中央に堀切らしい窪地も見られる。三ノ郭の外側には、搦手筋を守る長さ100m余りに及ぶ土塁と空堀が築かれ、緩斜面の尾根を防御している。以上が鬼場城の遺構で、遺構はよく残っており、主郭と背後の尾根筋は薮払いされて見やすいが、腰曲輪や主郭の東側は笹薮に覆われてしまっている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.004908/138.173311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
鬼場城は、諏訪氏の庶流矢ヶ崎氏の城である。当初、齢松山城の支城として造られたが、位置の重要性とその堅固さから本支の逆転があり、後に鬼場城が本城となったと推測されている。天文年間(1532~55年)には、矢崎和泉守が鬼場城に拠って武田信玄に属したと伝えられる。山道を通して上原城とも簡単に連絡でき、北山浦一帯の交通路が集中する所であったため、交通の要衝であり、上原城防衛網の重要な支城であったと考えられている。
鬼場城は、永明寺山から延びた支尾根が上川へ落ち込む先端の、標高905.5m、比高75mの峰に築かれている。城山団地の奥から北に伸びる車道があり、その脇から散策路が整備されており、そこから南東に進んでいけば、大した山道を登ることなく簡単に訪城できる。頂部に土塁囲みの主郭を置き、東側に虎口郭と堀切を挟んで二ノ郭(鉄塔が建つ)を築いている。主郭は小さく、土塁で囲まれてすり鉢状になっており、齢松山城のものより居住性がない。主郭・二ノ郭の周囲には数段の腰曲輪群が配置され、二ノ郭北の腰曲輪には大井戸の跡が残っている。主郭の南には小さな横堀が構築されている。主郭背後の尾根には二重堀切が穿たれ、その先に小さな三ノ郭がある。三ノ郭は削平が甘く、ほとんど自然地形に近いが、南北に腰曲輪群を配し、中央に堀切らしい窪地も見られる。三ノ郭の外側には、搦手筋を守る長さ100m余りに及ぶ土塁と空堀が築かれ、緩斜面の尾根を防御している。以上が鬼場城の遺構で、遺構はよく残っており、主郭と背後の尾根筋は薮払いされて見やすいが、腰曲輪や主郭の東側は笹薮に覆われてしまっている。
主郭南の横堀→
←腰曲輪に残る大井戸お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.004908/138.173311/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1