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松岡城(長野県高森町) [古城めぐり(長野)]

DSCN6002.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の堀切
 松岡城は、市田城とも呼ばれ、市田郷を本拠とした豪族松岡氏の居城である。築城は南北朝時代と言われ、戦国時代を通して改修の手が加えられたと考えられている。松岡氏は、1400年に信濃守護小笠原長秀が信濃の国人領主連合軍に敗れた大塔合戦の際、小笠原氏に従って戦った。また1440年7月の結城合戦にも参陣している。1554年、武田信玄が伊那に侵攻し、鈴岡城主小笠原氏と神之峰城主知久氏を制圧すると、それを見た松岡氏は抵抗は無理と判断し武田氏の軍門に降った。以後伊那衆として50騎を率いて飯富三郎兵衛(山県昌景)の配下に属した。1582年、織田信長が武田征伐を開始すると、松岡兵部大輔頼貞は織田軍に降り、本領を安堵された。しかし武田氏滅亡のわずか3ヶ月後に本能寺で信長が横死し、北条・徳川両氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」を経て伊那谷が徳川家康の支配下となると、松岡氏は徳川氏に従った。1585年、松本の小笠原貞慶が徳川方から豊臣方に変心し、徳川方の保科氏が守る高遠城を攻撃した。この時、松岡右衛門佐貞利は徳川家康に臣服を約していながら、小笠原氏に味方して高遠城攻撃に向かったが、形勢不利と見て引き返した。その後、このことを家臣の座光寺次郎右衛門為時が伊那郡司菅沼定利に密告し、1588年に家康から改易を命じられて、井伊直政にお預けとなった。これは、今は亡き直政の父直親が今川義元に命を狙われた際、信州に逃れてきた直親を松岡氏が庇護したことから、その恩義に報いるため直政が必死に取りなしたことによると言う。直政は、貞利を500石の禄で家臣の列に加え、以後松岡氏は井伊氏の家臣となって存続した。一方、松岡城は松岡氏改易により廃城となった。

 松岡城は、天竜川西方の比高100m程の河岸段丘上に築かれている。両側に浸食谷が入り込んだ舌状台地を堀切で分断した連郭式の城で、城内は公園化されているが改変は少なく、遺構がよく残っている。先端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭が直線的に配置されている。主郭は三角形に近い縦長台形状の曲輪で、先端に一段低い腰曲輪、後部には土塁を築いている。二ノ郭は[型の曲輪で、主郭とは堀切で区画され、両端が突出して主郭側方まで回り込んでいる。三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭は、いずれも横長の曲輪で直線的な堀切で分断されているが、四ノ郭だけは北側が三ノ郭の側方まで突出して横矢が掛かっている。また四ノ郭~五ノ郭間の堀切は、現在五ノ郭にある松源寺の門前に当たるが、側方の竪堀以外はほとんど埋められてしまっている。松源寺の裏手には土塁が残っている。これらの主要な曲輪の側面にも防御構造が施されている。四ノ郭の北斜面には横堀が穿たれ、この横堀は東側が斜めに斜面を降って先端で折れ曲がり、竪堀となって落ちている。主郭の南から東にかけても横堀が穿たれている。更に主郭の南から南東に広がる斜面には、南尾根を中心としてV字型の斜面に多数の帯曲輪群が構築され、腰曲輪群の最下段には横堀が構築されて、斜面下からの敵の接近に対する防御線となっている。この横堀は、斜面に沿って曲がりながら北端まで掘り切っている。この他、城全体を囲む北と南の斜面には、薮でわかりにくいが竪土塁が何本か築かれている。現在の形状を見る限り、竪堀でなく竪土塁による斜面防御の構造で、初めて見る形態である。以上が松岡城の構造で、雄族の居城だけあって、規模が大きく見応えがある。
 尚、松岡城の南には谷戸を挟んで松岡南城(小城)が隣接している。
四ノ郭北側の横堀→DSCN5966.JPG
DSCN6104.JPG←主郭南東斜面の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.545714/137.864385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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