SSブログ

小出城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN6602.JPG←二重空堀
 小出城は、この地の豪族小出氏の居城である。小出氏は、古くは小井弖氏と書き、藤原南家の流れを汲む伊豆国伊東の豪族工藤氏の庶流とされる。この地は、鎌倉初期に工藤氏の所領で、その地頭としてその一族が入部していたらしい。この一族は早くに信濃国に住み着き、1180年に源頼朝が石橋山で挙兵した際、甲斐源氏武田信義父子と共に平家方の大田切城を攻撃し、勝利の勲功により西春近を安堵されたと伝わる。鎌倉中期の工藤師能の時、郷名から小井弖氏を称した。南北朝期から室町期にかけて、中先代の乱・大徳王寺城戦・大塔合戦・結城合戦と参陣している。1453年頃、師能系の弾正忠朝能兄弟は、妹が神(みわ)氏(諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪に移住したと言う。尚、後に豊臣大名となった小出秀政は、小出氏の末流とされる。

 小出城は、天竜川西岸の河岸段丘の一角、戸沢川とその支流の沢筋が直交する部分の北西に築かれている。伊那地域の河岸段丘の城は、いずれも天竜川を眼下に望む段丘先端部に築かれているが、小出城はやや奥まった山間部の崖端に築かれている。工藤氏が入部した当初は、周辺豪族の勢力が強くて、隠れるように居住したものであろうか?城の構造は、南の段丘縁に主郭・二ノ郭を東西に連ねている。主郭は、外周の一部に低土塁が残存し、急崖である南以外を空堀で分断している。東の二ノ郭との間は二重空堀となっている。この二重空堀は、この手の居館形式の城では珍しい大型のもので、中間土塁も規模が大きい。二ノ郭は矢竹が密生しているのでわかりにくいが、土塁もない平場で、北側は主郭に続く空堀で分断されている。主郭の西は現在畑となっているが、西城の地名が残っている。主郭・二ノ郭の北は、東西に長い三ノ郭で、中城の地名が残り、民家・畑・杉林となっている。三ノ郭の北は、沢筋を利用した堀となっている。更にその北の畑の中にも堀端の地名が残っているらしく、往時はL字型の堀があった様だが、堀はほとんど埋められており、わずかに東端部の台地際に堀型が残っているだけである。以上が小出城の遺構で、周囲の曲輪はかなり改変が進んでいるものの、主郭周辺の遺構は見事である。
主郭→DSCN6599.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.819910/137.933114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城のつくり方図典 改訂新版

城のつくり方図典 改訂新版

  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー