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米ヶ崎城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9636.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 米ヶ崎城は、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭であった千葉(浜田)安房守広綱の居城である。広綱は、主家葛西氏に反逆して浜田の乱(浜田兵乱)と呼ばれる戦乱を起こしたことで知られる。米ヶ崎城は、この戦乱の中で築かれたとも言われる。浜田氏は、奥州千葉氏の一流千葉矢作氏の一族であったが、後に葛西氏の一族西館氏から継嗣を迎えたことから葛西氏の親族衆となり、気仙郡での権勢を増大させた。この頃の浜田氏の居城は高田城(東館)であったが、広綱の時に米ヶ崎城を築いて居城を移した。一説には、城主であった及川氏から米ヶ崎城を召し上げて改修し、及川氏は後に蛇ヶ崎城に移ったとも言われる。1587年、広綱は朝日楯主本吉大膳重継と衝突し本吉郡に侵攻したが、葛西太守晴信の仲裁で撤兵した。しかし本吉侵攻に対する葛西太守の所領減の措置に不満を抱き、翌88年春、広綱は反乱を起し(浜田の乱)、近隣を侵して勢力を拡大していった。これを知った晴信は、反乱鎮圧のため領内の諸勢を動員し、自らも気仙郡に出陣した。浜田勢は葛西方の防衛の主力である気仙沼熊谷党と篠峯山麓で激戦を繰り広げたが劣勢となり、後退した。その後も浜田の兵乱は続いたが、8月に至って広綱は降伏した。浜田氏は所領を没収され、気仙郡の旗頭は矢作氏に移された。1590年の奥州仕置による葛西氏改易の後、広綱の子信綱は葛西大崎一揆に参陣し、深谷の役(須江山の惨劇)で討死した。

 米ヶ崎城は、広田湾の北岸から南に突き出た標高25m程の半島上に築かれている。半島全体が城域となっており、北半分は宅地化などで改変されていてどこまでが城域であったのかは明確ではない。一方、南半分は畑や山林となっていて遺構がよく残っている。南から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭が並び、それぞれ堀切と鞍部の曲輪で区画されている。主郭には米崎八幡神社が建っている。小さな高台で、西側には広い腰曲輪が広がっている。主郭から堀切を挟んで北に二ノ郭がある。二ノ郭は北東部が入隅となった横矢掛りのある曲輪で、畑となっている。二ノ郭の北端には千葉安房守・老臣大和田掃部・他2名の家臣の墓が立っている。二ノ郭の北は幅広の鞍部の曲輪があり、その北に横長の三ノ郭があるが、この付近は薮が酷くて踏査困難である。鞍部の曲輪の西側に竪堀状虎口があり、下に広がる腰曲輪に通じている。三ノ郭の北側も堀状の曲輪となっているが、畑と宅地になっている。ここから北側は前述の通り宅地や畑となっており、改変を受けている上、未踏査できない場所が多い。それでも住宅地に曲輪跡や土塁が散発的に残っている。やや残念な状況ではあるが、南半分は城跡らしい雰囲気をよく残している。
二ノ郭の切岸→DSCN9612.JPG
DSCN9646.JPG←主郭と広大な腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.000868/141.659303/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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