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高田城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9748.JPG←主郭背後の土塁
 高田城は、八幡館・東館城とも言い、奥州千葉氏の一流千葉矢作氏の一族浜田(千葉)氏の歴代の居城である。浜田氏は、矢作内館主千葉重慶の子胤慶を初代とする一族で、葛西氏の家臣で気仙郡の旗頭でもあり、後に葛西氏の一族西館氏から継嗣を迎えたことから葛西氏の親族衆となり、気仙郡での権勢を増大させた。浜田氏でよく知られるのは、主家葛西氏に反逆して浜田の乱(浜田兵乱)と呼ばれる戦乱を起こした安房守広綱である。その経緯は、米ヶ崎城の項に記載する。広綱は米ヶ崎城に居城を移し、高田城には家臣の高田壱岐を置いた。しかし結局広綱の反乱は鎮圧され、没落した。広綱の没後には村上丹後守則道が城主となったと言う。また葛西大崎一揆に関する伝承では、佐沼城に籠城した葛西旧臣団の中に、高田城主高田壱岐守胤冬の名が見える。

 高田城は、陸前高田の市街地中心部のすぐ北にある標高40~50mの丘陵上に築かれている。南から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭と、堀切で分断された3つの曲輪を南北に連ね、その東西に腰曲輪を配置した縄張りとなっている。主郭は本丸公園となっているが、後部が一段高くなり、背後から東西両辺にかけて土塁が築かれている。南には段曲輪が置かれている。本丸公園は、2011年の東日本大震災の時には大勢の市民が避難して、大津波から逃れることができた場所である。主郭の東の腰曲輪には天照御祖神社が建っている。また西側には広い腰曲輪群が置かれており、山林となっている。主郭の北には堀切が穿たれ、この西の腰曲輪群の北側に大竪堀となって落ちている。この竪堀は登城道でもあったらしく、北側に竪土塁が築かれ、この竪土塁は中間でL字に曲がって物見台を構築している。その下に二ノ郭西側の腰曲輪群に入る虎口が築かれ、その西に更に竪土塁が伸びている。二ノ郭には八幡神社が建っており、ここも後部が一段高くなり、西側に土塁が築かれている。二ノ郭の西側にも腰曲輪群が広がるが、一面の笹薮である。二ノ郭北に堀切が穿たれ、その北に三ノ郭がある。三ノ郭は、内部が2段に分かれ、西に段曲輪群が置かれている。三ノ郭の北には北郭があったが、震災後の高台移転で住宅地が建設され、大きく削られている。それでも南側には腰曲輪が見られる。以上が高田城の遺構で、市街地間近の城でありながら遺構がよく残っている。
 尚、城の麓の平地には、まだまだ空き地が多く、津波で壊滅した傷跡を残している。かつての賑わいを取り戻す日が来ることを願ってやまない。
主郭西側の腰曲輪群→DSCN9740.JPG
DSCN9723.JPG←堀切から落ちる大竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.018992/141.629004/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

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