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勝保沢城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0461.JPG←出丸周囲の空堀
 勝保沢城は、小田原北条氏の家臣齋藤加賀守安清が城主であった城である。安清は元々武州勝沼郷の領主(元は勝沼城主三田氏の家臣か?)で、北条氏康に仕え、妻の父狩野筑前守安元と共に北条領国の北方警備のため一族を挙げてこの地に移住したと伝えられる。1590年に北条氏が滅亡すると安清は浪人となり、城地の方一町を寄進して曹洞宗宗玄寺を開いたと言う。
 一方で、宗玄寺の寺伝では、1615年に信州松本城主小笠原秀政が開基したとされ、寺の山門・本堂には小笠原氏の家紋が描かれている。しかし秀政とこの地に何の縁があったのかは不明で、謎の多い伝承である。

 勝保沢城は、赤城山西側の中腹に築かれている。南北を沢筋で遮断された地勢で、西の段丘先端部、直線距離で1.4kmの位置には不動山城がある。不思議な縄張りの城で、主城域と思われるのは宗玄寺の付近一帯の傾斜地で、北に向かって段々と高くなっている。城内は、宗玄寺の境内・墓地と畑、山林となっている。改変が多いので明確でない部分もあるが、西にある保育園・幼稚園との間に明確な空堀が残っている。宗玄寺の周りにも空堀があったらしいが、現在は湮滅している。結局、空堀以外に明確な城郭遺構は主城域には残っていない。一方、この主城域とは別に、北西の山林の中(赤城村歴史資料館の北東)に空堀で囲まれた長円形の孤塁があり、遊歩道で散策できるようになっている。ここを主郭とする資料もあるが、周囲に付随する曲輪がなく、独立した出丸と考えた方が良い。しかし出丸をここに築いた意図はさっぱりわからない。この出丸周囲の空堀は、北西部で北斜面に竪堀となって落ちている。以上が勝保沢城の遺構で、何とも理解し難い、消化不良な印象の城である。
 尚、宗玄寺の墓地には、齋藤加賀守安清の墓があり、一番高い所には後裔である現代斎藤家の大きな墓が立っている。先祖の墓を、同じ墓域に祀らないのも不思議なことである。
幼稚園との間の堀跡の畑→DSCN0578.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.520777/139.046348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

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