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古城めぐり(神奈川) ブログトップ
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本間屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00051.JPG←日蓮にまつわる「星の井戸」
 本間屋敷は、鎌倉時代の御家人本間六郎左衛門重連の本屋敷と推定されている。本間氏は海老名氏の一族で、海老名源八季定の二男右馬允能忠が本間村に分封されて本間氏の祖となったとされる。重連は能忠の子忠家の六男に当たり、六郎左衛門尉を称した。本間氏の館は、金田・中依知上依知の3ヶ所にあったと伝えられ、金田のものが本拠で、交通の要衝であった中依知・上依知には一族か家臣の者を配置した可能性があるらしい。また、1271年に日蓮上人が佐渡配流となった際に、佐渡守護大仏宣時に預けられたが、実際には守護代の本間重連がその護送の任に当たり、その途次、依知郷の本間屋敷に滞在したと言う。その後、本間氏は日蓮に帰依して、3ヶ所の屋敷を全て寺としたとの伝承が残っている。本間氏は室町時代まで続いたが、永享の乱で海老名氏と同じく鎌倉公方足利持氏方に付いて敗れ、没落した。
 本間屋敷は、現在の妙純寺の地と考えられている。遺構は残っていないが、周囲には堀ノ内・中屋敷・宿屋敷・東屋敷などの字名が残り、屋敷地であった名残りを漂わせている。また寺の境内には、本間重連の廟所や日蓮が滞在した折の逸話にまつわる「星の井戸」が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.464707/139.366325/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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今泉館(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00038.JPG←館に由来する切通し状の井戸坂
 今泉館は、武蔵七党の一、猪俣党の流れを汲む今泉氏の居館である。猪俣党の祖時資から7代目の伊予僧都が初めて今泉氏を称し、近隣の粕屋氏・海老名氏らと縁戚関係になっていたと言う。今泉氏については、鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」に、承久の乱で死傷した今泉七郎他6名の名が記載されている。室町時代の永享の乱の際には、鎌倉公方足利持氏方に与していた一色伊予守六郎が今泉館に籠ったとされ、幕府軍はその討伐の為、長尾出雲守憲景・太田備中守資光を大将として攻め寄せたが、伊予守は既に下総の結城氏朝の元に逃れた後だったと言う。その後、結城 合戦で伊予守は討死したとされる。尚、秦野市にも今泉館と伝承される場所があり、どちらが伊予守が立て籠もった館なのかは不明である。
 今泉館は、現在マンションや宅地となっており、遺構は全く残っていない。JR相模線のすぐ東側の段丘上に位置し、急崖上に建つ居館であったらしい。館跡の南側には、館の茶の湯に使われた井戸があり、底を通る切通し状の車道は井戸坂と呼ばれ、その標柱に今泉館のことが簡単に記載されている。この切通し道は堀跡であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.465389/139.395422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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中土合城山(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00029.JPG←城山バス停
 中土合城山は、詳細不明の城館である。相模川東岸の平野部に面した段丘上に城山と呼ばれる小丘があり、一説には大貫氏の関連した城郭ともされるが定かではない。大貫氏の祖は、室町中期に上野小泉城主で、1416年の上杉禅秀の乱では、大貫越中守義利が鎌倉公方足利持氏方に付いて戦功を挙げ、1440年の結城合戦で大貫義幹が討死すると、その子義兼は恩賞として相模国愛甲郡を与えられたと言われる。その後裔は小田原北条氏に仕え、中郡戸田郷に住んだらしい。大貫家は、近世には恩馬七人衆の一家に数えられ、名主役を勤める家格を保ってきたと言う。
 中土合城山は、東名高速の海老名SAの南西1km程の所にある。城山は高速建設の際に採土されて城地の大半が削られてしまい、かつては段丘上にあった小丘も、現在ではほぼ完全に平地となり、全くの宅地と変貌している。尚、付近のアパートには城山の名が付き、ちょっと北には「城山」というバス停がある。これらが唯一の明確な痕跡であろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.423539/139.395250/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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恩馬館(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00017.JPG←館跡の農業アカデミー
 恩馬館は、渋谷氏の庶流恩馬氏(遠馬氏とも言う)の居館である。平安末期に渋谷庄司重国の3男時国は、恩馬を与えられて入部し、恩馬三郎を称した。1189年、時国は源頼朝に従って奥州合戦に参戦したと言う。その後の恩馬氏の動向は不明であるが、その後裔は小沢氏を名乗り、近世には恩馬七人衆の一家として名主を勤めたと言う。
 恩馬館は、伝承では現在の県立かながわ農業アカデミー(旧県立農業大学)の敷地にあったと言われている。しかし既に整地されていて、遺構は存在しない。地勢としては周囲を望むことのできる緩やかな起伏の丘陵上に当たり、周囲には谷戸も入り込んだ地形であるが、景観の一変した現在では居館のあったことを思わせるものは何も無い。尚、農業アカデミーの正門前に、恩馬氏のことをかるた風に歌った碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.425952/139.406301/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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吉岡館(神奈川県綾瀬市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09993.JPG←吉岡堀ノ内付近
 吉岡館は、渋谷庄司重国の長男吉岡太郎光重の居館と考えられている。渋谷氏では、重国の次男高重が一族を代表して幕府御家人として出仕していたようで、吉岡光重の名は鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」には見えないと言う。しかし、1213年の和田合戦で高重以下の渋谷氏兄弟は敗れて没落し、残った光重は後の1247年の宝治合戦で功を挙げ、薩摩に所領を得て下向したと言う。
 吉岡館は、吉岡堀ノ内にあったと推測されているが、現在は地名以外には何も残っていない。付近は目久尻川東岸に面した台地となっていて、「堀ノ内」バス停は台地上にあるが、日本城郭大系には台地の斜面中段の平坦地が推定地と記載されている。遺構はおろか場所も明確ではないが、付近には豊富な湧水があったとされ、台地の斜面下に今でも清流の水路が流れている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.430358/139.419004/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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新堀淵丸山(神奈川県綾瀬市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09967.JPG←切通し道と丘陵残存部
 新堀淵丸山は、南流する目久尻川に突き出した小丘で、低湿地帯に突き出した独立状の半島地形となっている。特に城址との伝承はないと言うが、丸山の頂部には平坦面が広がり、付近には「土合」と言う地名もあるので、小豪族の居館が置かれたものと想像されている。
 新堀淵丸山は、現在は山の半分が削られてテニススクールが置かれており、かつての面影を失っているが、西側半分は丘陵部が残存し、その更に西側に切通し状の道が通っている。その為、堀切で分断した独立丘陵上の城砦と言えば、そう見えなくはない。南側の削り残された僅かな丘陵上には祠があり、何か丸山にまつわるものである可能性もあるだろう。渋谷氏の本城、早川城に近く、その出城だったのかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.439222/139.411987/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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曾司館(神奈川県綾瀬市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09948.JPG←長泉寺のある祖師谷
 曾司館は、渋谷庄司重国の孫曾司五郎定心の居館である。居館の場所は明確ではないが、曾司郷の西寄りの丘陵地に「祖師谷(そしやと)」と呼ばれる谷戸があり、そこに建立されている長泉寺付近と推定されている。元々この地には、渋谷氏の菩提寺である祖師山菩提寺という寺が建っていたと言う。
 曾司館は、遺構もなく正確な場所もわからないが、長泉寺のある谷戸の入口にある長泉寺の解説板に、わずかに曾司五郎定心のことが数行記されているだけである。上浜田館と位置的に至近の距離にあり、上浜田館の様に谷戸に面した斜面上に築かれた居館だったのかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.446477/139.405228/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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上浜田館(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09938.JPG←館跡の浜田歴史公園
 上浜田館は、正式には「上浜田中世建築遺構群」と呼ばれ、中世の居館跡と考えられている。発掘調査の結果、中国や朝鮮からの舶来品や国産の陶磁器類が出土し、南北朝期から室町期にかけての遺構と推定されている。南北に伸びた丘陵東斜面の谷戸地形を利用して、2段の削平面が置かれ、建物跡・柵列・溝状遺構・井戸跡などが発掘されており、主家や付属屋・厩等複数の建物群から構成された上層階層の住居で、渋谷氏の支配した渋谷庄に属していることから渋谷氏の一族大谷氏との関連が考えられている。
 上浜田館は、現在「浜田歴史公園」という史跡公園となって整備され、2段の削平面に、発掘された柱跡などの遺構が復元されている。周囲は一面の住宅団地となっており、往時の景観は望むべくもないが、貴重な遺構が保存されているだけでも素晴らしい。谷戸に面した斜面に築かれた居館であり、遺構としては町田にある小山田1号遺跡によく似ている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.444327/139.402159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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国分館(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09924.JPG←館跡から見た海老名市街
 国分氏は、相模中部の豪族海老名氏の一族である。海老名源八季定は、各地に庶子を分封して大いに海老名氏の勢力を広めたが、この時季定の三男有季は国分に入部して国分氏を称した。源平争乱の折には国分氏は源頼朝の弟範頼に従い、承久の乱の時には北条泰時の部将となって活躍した。
 国分館の位置は正確にはわかっていないが、相模国分寺の西隣の字中屋敷が館跡であろうと推測されている。この地は海老名市街中心部を眼下に納める比高10m程の急崖の上にあり、中世豪族の居館の立地としては申し分ない。しかし遺構はなく、その地勢だけが往時の雰囲気を漂わせるのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.454273/139.397203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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海老名館(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09876.JPG←住宅地の一角に立つ記念碑
 海老名氏は、村上源氏の流れを汲む相模中部の豪族である。康平年間(1058~64年)に源四郎親季(有鹿とも言う)が相模守となって坂東に下向し、海老名郷に住んで海老名氏を称した。親季は武勇に優れ、前九年の役の際に源頼義に従って武功を挙げた。後嗣がなかったため、武蔵七党横山党より季兼を養子に迎えた。その子海老名源八季定は武勇天下に名高く、「保元物語」「曽我物語」にその名を伝えられている。この季定の代に海老名氏は大いに勢力を伸ばし、諸子を分封して本間氏、荻野氏、糟屋氏などを輩出した。鎌倉時代に入ると、1213年の和田合戦で縁戚関係にあった和田義盛に加担して敗れ、一時期勢力が衰えた。室町時代に入ると、海老名氏は鎌倉公方足利氏に従い、永享の乱で足利持氏が滅びると海老名尾張守と弟の上野介も捕らえられて自刃し、海老名氏は衰亡した。尚、この永享の乱の中、安房里見氏より援軍として遣わされた大島義金との間に機縁が生じ、義金の子正時と、海老名一族の兵衛尉広治の娘が結婚した。その後広治は、隣の田邑宗友との領地争いで嫡子広信が討死して劣勢に立つと、正時の来援を得て田邑氏を打ち破った。その後間もなく広治は嗣子なく病没したため、大島正時が海老名氏の領地を継承したと言われている(大島豊後守正時屋敷の項参照)。その後の海老名氏の事績は不明である。

 海老名館は、有鹿小学校の南の字御屋敷にあったと言われている。しかし宅地化で遺構は完全に湮滅しており、往時の面影は全く残っていない。しかし館跡近くには海老名氏の記念碑が建ち、館跡の西方にやや離れて海老名氏霊堂が残っている。しかしこの霊廟は、すぐ近くで圏央道の建設が進んでおり、かなり危うい状況にある。数年後には景観がかなり変わってしまっているだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.452350/139.379908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
   (海老名氏記念碑)
タグ:居館
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大島豊後守正時屋敷(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09872.JPG←屋敷跡の現況
 大島豊後守正時は、元々安房里見氏の部将であった。里見氏は、永享の乱の際に同じ鎌倉公方足利持氏方であった相模の豪族海老名氏の元に大島義金を援軍として送り、それが機縁となって、義金の子正時は海老名氏の娘を娶ることとなった。永享の乱後、海老名広治は隣の田邑宗友と領地争いを起こし、甥の正時に応援を頼んで助けられた。間もなく広治は病没し、正時は後嗣のなかった広治の跡を継いでこの地に居を構えて治めたと言う。その後の大島氏の事績は定かではないが、江戸期以降は旧家として里正を勤めた様である。大島氏はそのまま現在に至るまで、この地でその家系を保っている。
 大島豊後守正時屋敷は、字東屋敷にある。北半は大島氏が土地を市に寄贈して大島記念公園となっており、大島氏の由来を刻んだ石碑が建っている。南半は、今でも大島氏の居宅である。市街化が進み遺構はないが、今でも当地でその家系を保っているとは驚きである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.441302/139.384671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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高木主水正清秀屋敷(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09854.JPG←屋敷跡付近の現況
 高木主水正清秀は三河の武士で、徳川家康に仕え、後世徳川16神将の一人に数えられた。1590年に小田原北条氏が滅び、豊臣秀吉の命で家康が関東に入部すると、清秀は武蔵・上総・相模に5000石の知行を与えられた。1594年には子の正次に家督を譲り、海老名郷に隠居したと言う。諏訪神社の西方に屋敷があったと推測されており、諏訪神社には1620年に正次による社殿造立の棟札が残っている。1623年、正次は大阪の定番となり、1000石の加増を受けて河内国丹南に1万石を領したと言う。尚、隠居した清秀の屋敷には、徳川家康が鷹狩りの際に二度にわたって立ち寄ったと言われ、その信任の厚さを物語っている。
 高木主水正清秀屋敷は、前述の通り諏訪神社の西方にあったと言われているが、一面の住宅地となって遺構は全く残っていない。字西屋敷の地名がこの地に残っているだけである。徳川16神将の一人と謳われる有数の武士の遺蹟も、時代の変遷には抗えなかったのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.440830/139.382976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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厚木館(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09846.JPG←館跡とされるマンション
 厚木館は、相模中部の豪族厚木氏の居館である。厚木氏の事績としては、室町時代に永享の乱の後、引き続いて起こった1440年の結城合戦で、永享の乱で滅んだ鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を擁して結城城に立て籠もった際、その擁立派の中に海老名・本間・今泉の相模中部の諸氏と共に厚木氏の名が見えると言う。持氏派は完敗し、厚木氏の一族と思われる厚木掃部助が討死した。
 厚木館は、厚木中心部にほど近い智音寺境内にあったと日本城郭大系に記載されている。しかし訪城した際、たまたま智音寺にいた地元のご老人の話では、智音寺の南に隣接して建っているマンション付近が館跡とのことであった。いずれにしても既に遺構は完全に湮滅してしまっている。ただ智音寺境内は、北側に広がる緑地より一段高くなっていて、わずかに館跡らしさを漂わせている。何より地元の人の間にきちんと語り継がれていることがちょっと嬉しかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.436023/139.367033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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山角次郎右衛門勝長屋敷(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09837.JPG←屋敷跡付近の現況
 山角氏は、元々小田原北条氏の歴代の重臣であった。山角勝長の曽祖父紀伊守定勝は、1590年の小田原の役の際に小田原城浜手隅矢倉を守備していたと言われ、北条氏滅亡後は当主氏直に従って高野山に赴いた。氏直が病没すると、徳川家康に召し出されて相模で1200石を領する旗本となった。その4代後の勝長は、山角氏の菩提寺であった法雲寺の中興開基となった。山角氏の屋敷は、酒井新宿の殿原(頓原)にあったが、徳川氏が大政奉還して駿府に隠棲すると、多くの旗本と共に山角氏も酒井の地を去ったと言う。
 山角次郎右衛門勝長屋敷は、相模川の支流玉川に架かる新宿橋の南西にあったと言われるが、現在は畑と民家に変貌し、遺構は全く残っていない。尚、東方にある法雲寺には山角氏の立派な宝篋印塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.416107/139.358021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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戸田堀ノ内(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09825.JPG←堀ノ内の現状
 戸田堀ノ内は、歴史不詳の城館である。厚木市戸田に字堀ノ内という方形の区画があり、その一角に「加賀屋敷」があったとの伝承があるというが、明確ではない。戸田は、古くは富田と書き、室町~戦国期の富田の領主としては、1353年以前は淵辺源五郎某(足利直義の命で護良親王を斬殺した淵辺伊賀守義博の一族か?)、1426年には一色刑部大輔持家、小田原北条氏支配時代の1556年には伊波大学助、天正年間(1573~92年)には伊波氏の跡を継いだ池田孫左衛門と、4氏の名が古文書に見られるというが、堀ノ内との関連は不明である。
 戸田堀ノ内は、延命寺の南東に当たり、現在は宅地化されていて遺構は全く残っていない。以前はオクラ用水と呼ばれる用水路もあったようだが、それすらも既に湮滅してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.399720/139.366883/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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真芳寺砦(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09811.JPG←砦のあった真芳寺
 真芳寺砦は、小田原北条氏が築いた砦である。かつて真芳寺砦のある地は、相模川自然堤防の最も狭まった場所で、ここを通過する軍勢を阻む急所であったと言われる。真芳寺を開山した仁忠良義禅師は北条氏の支族とされ、本家の庇護の下、この要衝の地に寺を建て、周囲に空堀・水堀・土塁などを設けて小田原防衛の一拠点としたと言われている。1569年に甲斐の武田信玄が小田原城に攻め寄せた際、北条方の軍勢は真芳寺砦に集結して武田勢を迎撃し、一敗地にまみれたものの小田原城の備えを固める時間を稼ぐことができたとされる(牛ヶ渕の戦い)。
 真芳寺砦は、現在は前述の通り真芳寺の境内となっている。周辺は宅地や畑となって遺構は残っておらず、地勢も変わってしまっていて、往時の要害性を感じることはできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.389400/139.367934/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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田村館(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09596.JPG←団地前に建つ石碑
 田村館は、相模の豪族で鎌倉幕府の重臣であった三浦義村の館跡とされている。相模川の渡河点である田村の渡しの西岸に位置し、交通の要衝に構えられた館で、「吾妻鑑」には田村山荘として登場する。1219年には、3代で滅んだ源氏将軍の後継として都から迎えられた藤原頼経が、鎌倉に向かう途中、田村館に5日間宿泊したと言われている。義村の死後、1247年の宝治合戦で三浦宗家が滅びると、田村館も廃されたと考えられる。
 田村館は、既に市街化で遺構は完全に湮滅している。宮の前住宅団地の付近にあったとされ、団地前に石碑が建っているだけである。相模川の対岸には梶原景時の一宮館があり、交通の要衝として重視されていたことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.372815/139.367613/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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梶原景時館(神奈川県寒川町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09580.JPG←土塁と堀跡
 梶原景時館は、一宮館とも呼ばれ、鎌倉幕府創業の功臣梶原景時の館跡とされている。石橋山の戦いで大敗して山中に隠れた源頼朝を、平氏方の大将大庭景親が捜索した際、景時は密かに頼朝を見逃して助けたことで、頼朝が鎌倉に入った後、その寵遇を受けることとなった。景時は、荒くれの多い坂東武者には珍しい能吏であったが、一方で冷徹に過ぎる態度から多くの鎌倉武士の反感を買う事となった。 その為、頼朝没後、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と言ったのを頼家に謀反を図ろうとしていると景時が讒言したことで、御家人連名での景時弾劾状が奏請される事態となり、結局滅ぼされることとなった。また、源平合戦の折には軍監として源義経に従い、何かと暴走しがちな義経と事々に対立して、結局義経滅亡の元凶となってしまった為、判官贔屓の後世からは悪役として捉えられてしまっている。しかし鎌倉幕府の創設に当たってはなくてはならなかった人物であった。景時は一宮を所領としており、この地に館を構えたと言われている。1199年11月、弾劾されて鎌倉を追われた際、景時は一族郎党を率いて一宮館に引き上げたが、翌年の1月20日に再起を期して一族を率いて上洛の途に就いたが、追討されて清美関で滅ぼされた。

 一宮の梶原景時館は、おそらく景時の館跡とされる城館としては最も遺構が明瞭である。現在は畑地の中にわずかに土塁と堀跡が残存しているに過ぎないが、昭和初期まで遺構が明瞭に残っていたと言い、国土変遷アーカイブの昭和20年代の航空写真でもほぼ方形の居館跡がはっきりと確認できる。近くには梶原氏一族郎党(七士)の墓もあり、その背後の水路は内堀の名残りとも言う。館跡の南西部にある天満宮に石碑と解説板が建っている。鎌倉幕府創業の功臣の遺蹟として貴重である。
梶原氏一族郎党(七士)の墓→DSC09591.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.364862/139.382772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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懐島館(神奈川県茅ヶ崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09541.JPG←神社境内に建つ石碑
 懐島館は、相模の豪族大庭景義の隠棲の地である。景義は大庭氏の棟梁で、弟の大庭景親と共に保元の乱では源義朝に従って奮戦した。1180年の源頼朝の旗揚げに際しては、弟景親は平氏方の大将として攻め寄せ、石橋山で頼朝を破ったが、その後、安房に逃れて再起した頼朝が鎌倉に入ると、敗れて斬首された。一方、景義は一貫して頼朝に従い、鎌倉幕府の重臣となった。奥州藤原氏を征伐の際、後白河法皇の院宣を得ることが出来なかった頼朝に、中国の故事を引いて「軍中将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず。」と出征を進言したのは景義である。1193年に出家したが、この頃何らかの事情で鎌倉を逐われたらしく、所領の懐島に隠棲し、以後、懐島平権守と称した。景義の死後、子の小次郎景兼が継いだが、和田合戦で討死し、懐島氏は滅亡、所領は没収された。

 懐島館は、現在神命大神宮と住宅地となっている。境内は西側に広がる畑地より僅かな微高地となってはいるが、遺構は完全に湮滅しており、境内の片隅に土塁跡と書かれた小さな石碑が虚しく建っているだけである。しかし景義の石像の他、一族の五輪塔など関連史跡や解説板・石碑が多数あり、現代にその足跡を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.345253/139.399606/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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杉浦屋敷(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09511.JPG←館跡の祠
 杉浦屋敷は、真土城とも呼ばれ、小田原北条氏の家臣杉浦藤左衛門の屋敷であったと言われている。杉浦氏は、1590年の小田原の役の際、豊臣方の先鋒徳川家康の軍とこの地で戦い、一族と共に壮烈な討死にをしたと言う。杉浦藤左衛門は住民に慕われた人物らしく、現在でも毎月7日をその命日として香華が絶えないと言う。
 杉浦屋敷の遺構は全く残っていないが、館内に創建したという大山不動尊を分祀した祠が「明王さん」と言われて今でも住民の尊崇を集め、その脇には石碑と解説板が建っている。またかつては、屋敷の庭木だったと言われる「明王松」と呼ばれる巨木があったそうだが、戦後枯死してしまったそうだ。この他、国道129号線に面したリンガーハットの裏には杉浦氏首塚の五輪塔が再建されているなど、遺構はなくてもその遺蹟は地元住民の中にしっかりと息づいている。
杉浦藤左衛門の首塚→DSC09518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(遺構はないが、関連史跡があり加点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.355719/139.356154/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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平間城(神奈川県伊勢原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09508.JPG←物見台らしき跡
 平間城は、歴史不詳の城で、小田原北条氏の家臣桜井伯耆守蓮俊の居城であったとされている。城址は隆安寺背後の台地上(神明社のある一帯)にあったと言われ、台地南縁部の西側半分には土塁らしき跡が明瞭に残っているが、耕地化に伴って改変されている様である。東側半分の土塁は墓地となってはっきりわからなくなっているが、城域の東端と思われる場所に稲荷社の置かれた円丘状の土壇があり、物見台か何かであった可能性がある。城館が置かれた可能性は現地の状況から確認できるが、はっきりと遺構と断定できるかどうかはちょっと自信が持てない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.385149/139.323045/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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矢名城(神奈川県秦野市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09470.JPG←主郭に残る土塁跡
 矢名城は、日本城郭大系では矢名三郎・野田左衛門居跡と記載され、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての頃、矢名三郎または野田左衛門と言う在地領主の城であったと伝えられる。しかし矢名氏も野田氏もその事績は伝わっておらず、その歴史も全く不明である。
 矢名城は、比高20m程の南から張り出した半島状の台地の先端に築かれた城で、城之内・堀屋・根古屋など城郭にまつわる地名が残っている。現在は台地のすぐ西隣を東名高速が通り、周囲も宅地化されているが、主郭部と思われる平坦地は畑となって完全な破壊を免れている。地勢も良く残っており、台地基部には土塁の残欠や堀跡らしき窪地が確認できる。畑の持ち主の方がいたので話を伺ったところ、土塁は畑を広げた際にかなり削ったらしいので、往時はもっと規模の大きな土塁であったことが想像される。また台地の東側や北端には腰曲輪状の平場が数段残っている。歴史は全く伝わっていなくても、城郭の存在はかなり明らかな城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.365623/139.259895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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藤間豊後守屋敷(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09447.JPG←屋敷地に建つ祠
 藤間豊後守屋敷は、戦国時代に金目郷の領主であった藤間十左ヱ門の屋敷で、十左ヱ門は豊後守とも呼ばれている。おそらくは小田原北条氏の家臣であったものだろう。「新編相模国風土記稿」には忍城主成田下総守氏長の家臣として当麻(たいま)豊後守の名があり、小田原の役の際に小田原城に籠城したと言うが、藤間氏との関連(同一人物かどうかも含めて)は定かではない。
 藤間豊後守屋敷は金目川の北岸に位置し、堀之内の地名が残っている。付近は完全に宅地化されており、かつては屋敷地の北半分にコの字状に土塁が残っていたというが、現在は湮滅している。屋敷地付近は空き地になっていて、東門があったとされる付近に小さな祠が建っているが、僅かな微高地になっており土塁の名残かもしれない。その他では南門のあった場所の両側に、堀の名残りの水路が通っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.360059/139.287747/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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平塚城(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09443.JPG←城址付近の現況
 平塚城は、室町中期に大森伊豆守が拠ったとされる城である。古戦記類によれば、1440年の結城合戦の際、永享の乱で滅亡した鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて籠城した結城氏朝に呼応して、大森伊豆守が平塚に陣を敷いたと言う。その後の歴史は、武蔵平塚城との混同もあり、明確にはできない。
 平塚城は、現在の平塚農業高校の付近一帯にあったとされるが、市街化で遺構は完全に湮滅している。町内会の案内板に名前だけ記載されているが、現地に標柱もなく、農業高校の事務員さんにも聞いてみたがわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.334208/139.329418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
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公所ほんの内屋敷(神奈川県平塚市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09432.JPG←屋敷地の現状
 公所(ぐそ)ほんの内屋敷は、公所堀ノ内とも呼ばれ、小田原北条氏の家臣端山氏の居館があったと伝えられている。しかし現在の屋敷跡の所有者端山宅では文書類は焼失しており証明はできないと言う。北条氏所領役帳によれば、当地の領主は成瀬氏・高麗寺・大藤源七郎であるが、北条氏の直轄領もあったと言われ、端山氏との関連は明確にはできない様である。
 公所ほんの内屋敷は、かつては北側に土塁跡や屋敷内に井戸跡などが残っていた様であるが、現在は住宅地となって土塁も湮滅し、居館の跡を残していない。屋敷があったとされる場所は、緩やかな傾斜地で付近には川もなく、要害地形ではない。何故ここに館を築いたのか、よくわからないのが実情である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.345515/139.302531/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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本多氏館伝承地(神奈川県大磯町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09431.JPG←「伝承地2」付近の遠望
 本多氏館は、本多豊前守信親の邸址と伝えられている。信親の父美作守某は、元伊勢北畠氏の家臣で伊勢宗瑞(北条早雲)に従って相模に入部し、信親は北条氏政に仕えて足柄上郡曾我郷を領し、士十騎卒十五人の隊将であったと言う。甲斐の武田信玄との戦いの戦功により、黒岩郷の地を賜ったとされる。
 日本城郭大系によれば本多氏館の伝承地は2つあるらしく、鷹取山の西方の黒岩地区から西久保地区の付近とされ、いずれも丘陵地の只中にある高台であるが、現在は山林となっており明確な遺構は存在しない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【伝承地1】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.323021/139.259015/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【伝承地2】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.329271/139.261934/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


戦国大名北条氏―合戦・外交・領国支配の実像 (有隣新書73)

戦国大名北条氏―合戦・外交・領国支配の実像 (有隣新書73)

  • 作者: 下山 治久
  • 出版社/メーカー: 有隣堂
  • 発売日: 2014/03/27
  • メディア: 新書


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二宮太郎朝忠館(神奈川県二宮町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09416.JPG←二宮朝忠夫妻・曽我兄弟の墓
 二宮太郎朝忠は、日本3大仇討ちの1つとして知られる曽我兄弟の実姉の夫と言われている。二宮氏は、中村荘司宗平の次男四郎左衛門友平が二宮荘に入部して二宮氏を称した。その後裔朝忠は、河津三郎祐泰の娘(花月尼)を娶った。即ち、曽我十郎祐成・同五郎時致の姉である。花月尼は曽我兄弟の死後、知足寺で菩提を弔ったと言う。
 二宮太郎朝忠館は、この知足寺にあったと伝えられている。しかし遺構は全くなく、境内裏手には元禄年間(1688~1704年)に建てられた二宮朝忠夫妻・曽我兄弟の4基の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.302833/139.254273/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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中村館(神奈川県二宮町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09407.JPG←東側に残る堀切状地形
 中村館は、道場城と共に相模中村氏の拠点の一つと考えられている。中村氏の事績は道場城の項に記載する。位置は密蔵院の裏手の小丘一帯とされる。小丘頂部には数段の平場が残るらしいが、今回は登っていないので未確認である。小丘の東側には広い堀切状の地形があり、現在は畑となっている。その東側の民家敷地に沿って土塁状の土盛があるが、遺構かどうかは不明。更に民家の後背地も、斜面上に平場が段々にあり、屋敷地に相応しい様に思える。また密蔵院から道路を挟んで西側にやや離れに場所に、古墳のような高台が残っており櫓台として使われた可能性も考えられる。遺構としてははっきりせず、本当に館があったのかどうか、何とも言いがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.294374/139.240948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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押切城(神奈川県二宮町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09376.JPG←主郭跡の現況
 押切城は、ほとんど伝承の残らない城であるが、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森藤頼・三浦道寸と対峙した明応年間から永正年間(1492~1521年)にかけて、北条方の要害であったと考えられている。
 小田原市と二宮町の境界近く、相模湾に注ぐ塔台川が河口近くで蛇行している部分に半島状に突き出た台地上に築かれた城で、明治初期の地籍図によると3つの曲輪から成っていたと考えられ、西側に最も大きな主郭を置き、その東に南北に小さな2つの曲輪を置いていた様である。国道1号線という主要国道沿いに位置している為、現在は完全に市街化しており、遺構ははっきりと見ることはできない。しかし地勢は残っており、城地は周囲より数mの高台になっており、主郭とニノ郭・三ノ郭の間は大きな高低差が残っている。ニノ郭と三ノ郭はどのように分かれていたのか不明であるが、もしかしたら現在東西に通っている道路が曲輪を分断していた堀跡かも知れない。いずれにしてもほとんど平地に近い城地で要害とは見做し難く、日本城郭大系が言う通り軍事上の要害と言うより街道を押さえる拠点として一時的に活用されたものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.289155/139.234575/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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遠山左衛門屋敷(神奈川県秦野市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09209.JPG←屋敷地付近の現状
 遠山左衛門屋敷は、小田原北条氏の家臣遠山左衛門の屋敷地である。北条氏所領役帳には、遠山藤六がこの地を知行したとあり、一方、遠山惣九郎なる人物もこの付近を知行していたとされ、藤六や惣九郎の屋敷であったことも想像されるが、それ以上は不明のようである。
 遠山左衛門屋敷は小名堀之内にあり、江戸時代には構掘の跡が残っていたらしい。東に開けた谷戸地形になっているが、現在は遺構は完全に湮滅し、水田と民家に変貌している。城地も明確ではなく、全く往時の痕跡を見出すことはできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.385954/139.159473/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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