力丸城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←堀跡の水路
力丸城は、那波氏の庶流力丸氏の居城である。1367年に那波一族の日向守広宗がこの地に分封されて、力丸城を築いて居城とし、力丸氏を称したと言う。後に箕輪城主長野信濃守の管轄下に入った。戦国末期には他の上野諸豪と同様に小田原北条氏に服属したらしく、1590年、力丸佐介宗也とその子伊賀守の時、北条氏滅亡と共に没落した。
力丸城は、力丸町の集落のほぼ全部を城域とした平城である。現在は宅地化と耕地化で遺構は湮滅している。昭和20年代前半の航空写真を見ると、堀跡の水路が縦横に走り、主郭跡もはっきりと分かる。しかし現在は、わずかに曲輪間の堀跡が水路となって名残りを残しているだけである。力丸町会議所の西側の道路脇に城址石碑が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332240/139.114895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
力丸城は、那波氏の庶流力丸氏の居城である。1367年に那波一族の日向守広宗がこの地に分封されて、力丸城を築いて居城とし、力丸氏を称したと言う。後に箕輪城主長野信濃守の管轄下に入った。戦国末期には他の上野諸豪と同様に小田原北条氏に服属したらしく、1590年、力丸佐介宗也とその子伊賀守の時、北条氏滅亡と共に没落した。
力丸城は、力丸町の集落のほぼ全部を城域とした平城である。現在は宅地化と耕地化で遺構は湮滅している。昭和20年代前半の航空写真を見ると、堀跡の水路が縦横に走り、主郭跡もはっきりと分かる。しかし現在は、わずかに曲輪間の堀跡が水路となって名残りを残しているだけである。力丸町会議所の西側の道路脇に城址石碑が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332240/139.114895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城