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漆山館・漆山陣屋(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3004.JPG←陣屋の標柱
(2020年9月訪城)
 漆山館は、山形城の支城である。大久保古城を居城とした最上満頼(満直の子)が、一時期漆山館に居住して漆山殿と称せられたと言う。築館は1398年とされる。一方、江戸初期の『最上家分限帳』によれば、最上義光の死後、その家臣の鈴木備後守が居城し、500石を領したと言う。しかし『日本城郭大系』では漆山九郎兵衛が館主とされており、戦国時代から桃山時代・江戸時代と変遷する中で、最上家家臣団の再配置が行われたことによるのかもしれない。

 漆山陣屋は、江戸時代に漆山領を支配するために設営された。1668年に奥平昌能が山形藩に9万石で入封すると、漆山領3万石は幕府領となった。1677年に漆山村に陣屋が新築され、その後他藩の飛び地領や米沢藩の預り地の設置など、支配者が激しく入れ替わり、それに伴って陣屋の廃止と復活が繰り返された。1760年、漆山代官所が廃止され、長瀞陣屋付となり、漆山は出張陣屋となった。1770年に漆山村以下9か村1万5千石余が米沢藩の預り地となり、米沢藩は漆山に陣屋を設けた。1842年、漆山以下4か村が山形藩秋元家の所領となり、漆山陣屋は廃止された。1845年に秋元家は上野館林藩に移封となったが、村山郡に4万6千石余の飛び地を分領したため、その内、漆山以下36か村の支配のために翌46年に漆山陣屋が造営された。以後、館林藩士と家族が多い時で約300名、この陣屋で暮らしたと言う。そのまま幕末に至り、戊辰戦争では漆山陣屋兵は進撃してきた庄内藩兵と交戦して敗北した。明治3年に陣屋は廃された。

 漆山館は、JR漆山駅の北西にあった。漆山館の跡地に漆山陣屋が規模を縮小して造営されたらしく両者の位置は重なっている。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しており、睦児童遊園という小さな公園の隅に漆山陣屋遺跡と描かれた標柱と、大正時代に旧主子爵秋元氏が建てた漆山営師碑が建っているだけである。
 尚、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の遺跡地図では、JR漆山駅の西方(漆山陣屋より約400m南)に漆山館があった事になっているが、間違って記載されている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.317872/140.343529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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