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森野新館(富山県滑川市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3460.JPG←館跡の現況
 森野新館は、松倉城の支城である。松倉城は、戦国時代の新川郡に一大勢力を築いていた椎名氏の居城であり、早月川を隔てて森野新館の東方3.7kmに位置している。森野新館の館主は、松倉城の家老であったとの伝承があるが、詳細は不明である。

 森野新館は、比高10m程の段丘の北西端に築かれている。しかし現在は圃場整備により遺構は完全に湮滅し、一面の水田と化している。以前は館の遺構と思われる土塁が残っていたらしいが、それも消滅したと『日本城郭大系』に記されている。昭和20年代後半の航空写真を見ても、既に館の形状は追えなくなっており、今となっては規模も縄張りも知ることはできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.753774/137.395953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/02/21
  • メディア: 単行本


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魚津城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3416.JPG←城址の石碑
 魚津城は、越後上杉氏の越中支配の重要拠点であり、織田勢の猛攻を受けて落城した城である。元々の築城は、室町中期以降に新川郡守護代で松倉城を本拠とした椎名氏によると考えられている。一説には、建武の新政期の1335年に椎名頼胤が築城したとも言われる。戦国後期の1569年、上杉謙信は越中に侵攻し、松倉城と共に魚津城を攻め落とした。魚津城には上杉氏の部将河田豊前守長親が置かれ、以後交通の要地を押さえる魚津城は上杉氏の重要拠点となった。その後、山本寺伊予守など有力部将が配置された。1578年に謙信が急死すると、上杉家中は跡目を巡って内訌(御館の乱)を起こしたため、織田信長の筆頭家老柴田勝家率いる織田勢の越中侵攻を許し、越中の上杉方は次第に東部へ追い詰められ、魚津・松倉両城を最期の頼みとして戦うことになった。1582年3月下旬頃、中条景泰ら12人の武将が立て籠もった魚津城は、織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らの攻撃を受け、激しい攻防が数ヶ月にわたって繰り広げられた。しかし揚北衆の新発田重家の反乱で苦境にあった上杉景勝は、なかなか援軍を出すことができず、4月23日に魚津城将12人が景勝の執政直江兼続に送った決別の書状を見るに及んで、不利を承知で5000余人を率いて出陣し、5月15日に天神山城に後詰として着陣した。この動きを知った織田方は5月下旬、旧武田領の上野を支配した滝川一益と、信濃川中島4郡を支配した森長可とが、それぞれ越後への侵攻を開始した。特に森軍は景勝の本拠春日山城を目指して進軍しており、急報を受けた景勝は5月27日、やむを得ず春日山城に向けて撤退した。魚津城の城将12人は、降伏を肯んぜず、織田勢の猛攻に力戦して一人残さず討死し、6月3日に魚津城は落城した。それは、本能寺の変の翌日のことであった。落城直後に織田信長横死の報を受けた柴田勝家・佐々成政・前田利家ら織田勢は翌4日に魚津城から引き上げ、まもなく上杉方は魚津城を奪回し、須田満親が守将として置かれた。しかし翌83年、態勢を立て直した佐々成政の攻撃を受け、二ノ丸を奪われた満親は城を明け渡して退去した。以後、佐々氏の持ち城となり、佐々氏が豊臣秀吉に降伏して肥後に移封となると、前田利家の支配下となった。その後、1615年の一国一城令で廃城になったと推測されている。

 魚津城は、現在の大町小学校の校地にあった。現在は遺構はすべて湮滅している。ほぼ方形の本丸をコの字型に囲む二ノ丸で構成され、それぞれ水堀で囲んだ縄張りで、大手は西の海側に向いていた。遺構はないが、校地内に城址の石碑や解説板が立ち、その歴史を伝えている。尚、学校の南側に土塁跡の様なわずかな土盛り、また校庭の北西角に大土塁の様な土盛りがあるが、いずれも遺構ではないらしい。歴史上有名な城であるが、あまりに残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.813528/137.397165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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若栗城(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3387.JPG←土塁
 若栗城は、歴史不詳の城である。伝承では、城主は不悪糺斎右京輔とも、或いは総田太郎左衛門とも言われる。総田太郎左衛門は、上杉謙信か景勝の頃にこの城で討死したとも言う。しかしいずれも確証はない。ただ、昭和49年の田圃整備に先立って行われた発掘調査の結果、出土遺物から戦国期の築城と推測されている。

 若栗城は、北陸自動車道の黒部インターの南東の平地に築かれている。現在は西側1/3程度のコの字型の土塁が残っているだけであるが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、東西に長い長方形に近い形状の城だったようである。解説板では東側に土塁はなかったように書かれているが、前述の航空写真では東には土塁があるように見え、北辺の2/3の部分に土塁が見られない。実際の往時の形状がどうだったのか、全周を土塁で囲んでいたのか、或いは一部は土塁がなかったのか、よくわからない。土塁の外周には堀が廻らされていたらしいが、現在は湮滅している。城の規模に対して土塁は高さ5m程もあって大きく、不釣り合いに思える。また北西隅の櫓台は外側にやや張り出しており、横矢も掛けている。どの様に使われた城だったのか、謎が多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.877218/137.489691/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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長安寺館(富山県黒部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3366.JPG←土塁で囲まれた長安寺
 長安寺館は、歴史不詳の城館である。若栗城から750m程しか離れておらず、若栗城と関連した城館であった可能性がある。

 長安寺館は、現在の浄土真宗長安寺の境内にあり、東面の山門両脇と、南面、西面に土塁が残っている。但し、東面・南面の土塁は玉石垣で覆われており、改変を受けている。南西隅から西面にかけての土塁だけが旧状を残しているが、隅部の土塁はシートで覆われている。北面は土塁がなく、水路が流れているが、戦後の航空写真を見ると水路の付替えが行われている事がわかるので、その際に湮滅したのかもしれない。いずれにしても、比較的小規模な城館であった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.883431/137.492598/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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井口蔵人館(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN3357.JPG←館跡の長興寺
 井口蔵人館は、井口城とも言われ、南北朝時代に大家庄を領した井口蔵人という武士の居館である。井口氏は、『源平盛衰記』によれば鎮守府将軍藤原利仁の3男を祖とする一族と言われる。南北朝期に北朝方で越中守護となった桃井直常の麾下に、井口蔵人の名が『太平記理尽抄』に見える。井口氏の本拠は礪波郡井口郷にある井口城であり、後に大家庄村の井口蔵人館(井口城)に転じたとの説がある。

 井口蔵人館は、現在の長興寺の地にあったとされる。明確な遺構は確認できないが、寺の北東100m程のところに長興寺を開基した柏原家の墓塔群がある。町のHPでは、柏原家は井口蔵人の有力な家臣の一人、柏原孫兵衛を祖とすると伝えられると言う。しかし長興寺のご住職の話では、柏原氏は横尾城主の家臣で、位牌の法号も「院殿」という殿様クラスだけに許されたもので、かなりの有力者であったらしい。
 尚、この長興寺のご住職、とても優しい方で、朝から城巡りでお邪魔した我々夫婦を堂内に招き入れて頂き、お茶と菓子までご馳走になりながら、いろいろとお話を聞かせていただいた。この場を借りてお礼を申し上げたい。
柏原家墓塔群→DSCN3360.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.926532/137.548174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富山県の歴史散歩

富山県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/02/15
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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六田楯(山形県東根市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3348.JPG←楯跡付近の現況
 六田楯は、小田島楯とも呼ばれ、最上八楯の一、六田氏の居城である。楯主は六田兵衛と伝えられる。最上八楯は、天童城主天童氏を盟主とした最上地方の有力武士団の連合体で、山形城主最上義光の時代には最上氏の北進に対して激しく抵抗した。しかし義光による切り崩しにあい、天正年間(1573~92年)の天童合戦で最上八楯は壊滅し、最上氏の支配下に組み込まれた。六田氏の事績は不明。

 六田楯は、現在国道13号線が貫通している。位置は蟹沢交差点の北らしいのだが、大きく改変されてしまっており、遺構は完全に湮滅している。『山形県中世城館遺跡調査報告書』には、「北と南にわずかに堀跡を残す」と記されているが、現況からではどこにあるのか、さっぱりわからない。戦後の古い航空写真を見ても、既に城跡の痕跡が不明瞭なので、どの様な縄張りの城だったのかも、今となってはわからない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.437472/140.379041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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兵沢遺跡(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3322.JPG←東側の内堀と外側の土塁
 兵沢遺跡は、歴史不詳の城館的遺跡である。一説には『続日本紀』に出てくる古代の大室塞がここのことではないかとも、或いは延沢城北方防御のための武器・兵糧倉庫が置かれていたのでは?とも言われるが、確定的な説はない。

 兵沢遺跡は、二重の堀と土塁を廻らした方形居館状の遺跡である。城館であるとは限らないので郭などと呼ぶのは正確性を欠くが、ここでは便宜上、城館的な呼称で各遺構を呼ぶこととする。内郭はほぼ正方形の曲輪で、南に土橋(遺構かどうかは不明)があり、土橋の西側に土塁が築かれている。曲輪内は畑となっている。内郭の周囲には内堀が明瞭に残り、特に東側では空堀の外側にも土塁が築かれていてその形状をよく残している。内堀の外周には外郭が廻らされているが、外周を取り巻いていたと思われる外堀の湮滅が進んでおり、その範囲は明確にできない。しかし北の山林内には外郭外周の外堀の北側部分が一直線に残っている。また北側の外郭内に大きな土盛りが見られ、遺構かと思ったが、古い航空写真には写っていないので、これは耕地化に伴ってできたもので遺構ではないらしい。謎の多い遺跡だが、形状はよく残っている。尚、内郭の南西隅に遺跡標柱が立っている。
北側に残る外堀→DSCN3335.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.603423/140.474603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


あなたの知らない山形県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない山形県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2013/12/06
  • メディア: 新書


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尾花沢楯(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3302.JPG←神社周囲の堀跡
(2020年9月訪城)
 尾花沢楯は、最上八楯の一で、尾花沢氏の居城である。最上八楯は、天童城主天童氏を盟主とした最上地方の有力武士団の連合体で、山形城主最上義光の時代には最上氏の北進に対して激しく抵抗した。しかし義光による切り崩しにあい、天正年間(1573~92年)の天童合戦では、天童方の尾花沢氏は義光方に付いた延沢城主野辺沢氏に攻撃され、尾花沢楯は攻略されたと言う。江戸時代には尾花沢代官所陣屋が置かれ、幕府の直轄領を支配した。

 尾花沢楯は、丹生川南岸の比高10m程の河岸段丘の西縁部に築かれている。城跡は現在、尾花沢小学校の校地と民家に変貌している。遺構はほとんど残っていないが、西の車道脇に堀跡の地形が残り、南東端の稲荷愛宕両所神社の周囲にも堀跡が残っている。この堀は北側に伸びており、民家の裏に低地となって残っているが、かなりわかりにくくなっている。往時は南北に長い二ノ郭と、西側に突出した主郭で構成され、2郭の間を空堀で分断していたらしいが、この空堀は失われている。城跡の痕跡は部分的に残るが、解説板はおろか城址標柱もなく残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.608621/140.401003/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (織豊大名の研究6)

最上義光 (織豊大名の研究6)

  • 作者: 竹井英文
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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二階堂館(山形県天童市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3051.JPG←北東角の塁線と空堀
(2020年9月訪城)
 二階堂館は、成生庄の地頭であった二階堂氏の館と推測されている。しかし確証はなく、時宗佛向寺跡との伝承もあり、現地解説板では「二階堂遺跡」と呼称されている。

 二階堂館は、乱川と押切川に挟まれた平地の中程に築かれている。方形居館であったらしく、郭内は畑となり、その周囲の空き地に館の北辺と東辺の塁線と空堀跡が残っている。しかし夏場に行ったので雑草が繁茂し、確認できた痕跡はわずかである。堀跡は明瞭なのだが、かなり埋もれている様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.389757/140.353721/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

山形県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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天童陣屋(山形県天童市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3024.JPG←喜太郎神社の参道入口
(2020年9月訪城)
 天童陣屋は、天童藩織田家の陣屋である。織田信長直系の家で、信長の次男信雄の系統である。1615年、信雄に大和国宇陀郡3万石・上野国小幡2万石が与えられ、後に信雄の4男信良が小幡藩を立藩した。その支配は1世紀半に及んだが、1767年、山県大弐の明和事件に連座して藩主信邦は蟄居処分となり、その跡を継いだ養嗣子・信浮は5万石から2万石へ減封の上、出羽高畠藩へ移封となった。1830年、藩主織田信美は陣屋を天童に移し、天童藩を立藩した。その後、幕末まで存続した。結局、織田家が天童を直接治めていたのは、わずか40年程であった。

 天童陣屋は、天童城のある舞鶴山の北西の平地にあった。かつては二重の堀で囲まれた広い陣屋で、中心には内堀に囲まれた御殿があったらしい。しかし現在は、遺構は完全に湮滅し、市街地に埋没している。しかも陣屋の中心をJR山形線が南北に貫通している。喜太郎稲荷神社の参道入口に天童陣屋の絵図が掲示されている。御殿は神社の南西にあったらしい。参道入口の東60m程の小さな十字路付近に大手門があったらしく、御陣屋大手門跡の標柱が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.355472/140.368870/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩の通知表 (TJMOOK)

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  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2020/10/10
  • メディア: 大型本


タグ:陣屋
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漆山館・漆山陣屋(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN3004.JPG←陣屋の標柱
(2020年9月訪城)
 漆山館は、山形城の支城である。大久保古城を居城とした最上満頼(満直の子)が、一時期漆山館に居住して漆山殿と称せられたと言う。築館は1398年とされる。一方、江戸初期の『最上家分限帳』によれば、最上義光の死後、その家臣の鈴木備後守が居城し、500石を領したと言う。しかし『日本城郭大系』では漆山九郎兵衛が館主とされており、戦国時代から桃山時代・江戸時代と変遷する中で、最上家家臣団の再配置が行われたことによるのかもしれない。

 漆山陣屋は、江戸時代に漆山領を支配するために設営された。1668年に奥平昌能が山形藩に9万石で入封すると、漆山領3万石は幕府領となった。1677年に漆山村に陣屋が新築され、その後他藩の飛び地領や米沢藩の預り地の設置など、支配者が激しく入れ替わり、それに伴って陣屋の廃止と復活が繰り返された。1760年、漆山代官所が廃止され、長瀞陣屋付となり、漆山は出張陣屋となった。1770年に漆山村以下9か村1万5千石余が米沢藩の預り地となり、米沢藩は漆山に陣屋を設けた。1842年、漆山以下4か村が山形藩秋元家の所領となり、漆山陣屋は廃止された。1845年に秋元家は上野館林藩に移封となったが、村山郡に4万6千石余の飛び地を分領したため、その内、漆山以下36か村の支配のために翌46年に漆山陣屋が造営された。以後、館林藩士と家族が多い時で約300名、この陣屋で暮らしたと言う。そのまま幕末に至り、戊辰戦争では漆山陣屋兵は進撃してきた庄内藩兵と交戦して敗北した。明治3年に陣屋は廃された。

 漆山館は、JR漆山駅の北西にあった。漆山館の跡地に漆山陣屋が規模を縮小して造営されたらしく両者の位置は重なっている。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しており、睦児童遊園という小さな公園の隅に漆山陣屋遺跡と描かれた標柱と、大正時代に旧主子爵秋元氏が建てた漆山営師碑が建っているだけである。
 尚、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の遺跡地図では、JR漆山駅の西方(漆山陣屋より約400m南)に漆山館があった事になっているが、間違って記載されている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.317872/140.343529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


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青柳城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2994.JPG←青柳城の看板がある溜池
(2020年9月訪城)
 青柳城は、山形城の支城である。慶長年間(1596~1615年)の『最上義光分限帳』によれば、最上義光の家臣長谷川長右衛門の居城で、2300石を領したと言う。

 青柳城は、村山高瀬川南岸の平地に築かれた城である。現在城内は宅地化されており、その縄張りすら明確ではない。ただ、民家の庭先の溜池(湧水池?)の脇に「青柳城」の看板が立っている。またそこと北側の民家の東側に、円弧状の土盛りが遠望でき、土塁らしく思える。主郭の土塁であろうか?もう少し城の情報が得られればよいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.299216/140.353507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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前田慶次旧跡(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2906.JPG←無苦庵西側の土塁
(2020年9月訪城)
 前田慶次利益は、前田利家の甥である。利益については、小説や漫画などでも書かれていて有名なので、その事績についてはここで改めて記載はしない。上杉景勝の家臣となって慶長出羽合戦の長谷堂合戦にも従軍し、景勝の米沢移封に従って米沢に移り住んだ。晩年は、堂森の地に隠棲して悠々自適の生活を営んでここで没したと伝えられる。そのため、堂森付近には利益に所縁のある史跡が散在する。

<前田慶次屋敷>
 前田慶次屋敷は、無苦庵と称され、前田慶次利益の晩年の屋敷地である。2015年に発掘調査が行われた結果、屋敷の規模が確定され、それまではただの伝承地であったが、より確からしい「推測地」となった。県道1号線沿いにあり、南東の隅が車道建設で破壊され、屋敷地の大半は民家と畑に変貌している。しかし西から北にかけて土塁が残っており、矢竹も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.910414/140.151848/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<慶次清水>
DSCN2896.JPG
 慶次清水は、無苦庵から南東に300m弱の山林の中にある。無苦庵で過ごした利益が、飲料水にここで湧き出る清水を使用していたと言う。「里の名水・やまがた百選」に選ばれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.908975/140.154809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<堂森善光寺>
DSCN2916.JPG←前田慶次の供養塔
 堂森善光寺には、利益の供養塔が建てられている。しかし近年建てられたものなので、残念ながら文化財的価値はほとんどない。それよりもこの善光寺には、鎌倉幕府創業の功臣大江広元の次男長井時広(出羽長井氏の祖)とその妻の木造が残っている。武将の木造は各地に残っているが、妻の木造というのは極めて希少であり、夫妻の木像が揃って残る貴重な例である。堂森善光寺を訪れたら、利益の供養塔よりも長井時広夫妻の木像を拝観すべきである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.907350/140.151654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説 (中世から近世へ)

前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説 (中世から近世へ)

  • 作者: 大西 泰正
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/04/12
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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北館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2873.JPG←宅地裏に残る土塁
(2020年9月訪城)
 北館は、歴史不詳の城館である。館主は喜多伯耆守と伝承されているが、文献等の資料には現れない武士なので、実在したかどうかもわからない。

 北館は、普門院館の北北西わずか200mの位置にあり、ほとんど隣接するように築かれている。やや東西に長い方形単郭居館で、郭内は畑となり、周囲には土塁が残っているが、周りには宅地が並んでいるので、あまり近づいて確認することができない。土塁は高さ3m程で、南側には堀跡の痕跡も見られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.865622/140.141333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史散歩

山形県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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SONY BDZ-RX50のHDD交換 [日記]

2010年の夏に購入したソニー製ブルーレイレコーダー、BDZ-RX50。
使い始めてからかれこれ10年以上も経っていた。

そんな中、1ヶ月ほど前から動作不良が発生した。
録画した番組の再生時にブツブツ途切れて、
映像と音声がしょっちゅう止まってしまうのである。

パネル前面下側にあるリセットボタンを押してしばらく様子を見たりするが、
また再発。
たぶんHDDの損傷が原因なんだろう。
メーカーのHPで調べたが、既にメーカーでは修理対応できないようだ。

BDレコを新しく買うような余裕はないので、自分でなんとかするしかない。
幸い、HDDはネット上で、BDレコ換装用のものが売られていたので、それを購入。
今までと同じ500GBでは能がないので、一気に2TBへの増強を目指した。
それでも1万円でお釣りが来る。

購入と同時並行で、これまでHDD内に残っていた録画データの整理や、
BD-REへのダビングなどを行ってHDDを空にした。

せっかくHDDが空になったチャンスなので、HDDの初期化も試してみた。
その後、テスト録画を何番組かやってみたが、やはり動作がおかしい。
録画エラーの履歴も残るようになった。
終いには、「SYSTEM ERROR」が出て動作しなくなった。

そこで今日、かねて購入しておいたRXシリーズ用の2TB HDDに交換を決行。
この記事は、その手順の備忘録。
(※あくまで交換は自己責任で行ってください!)

交換自体は簡単である。

DSCN5518.JPG
① 電源ケーブルを外した後、まず天板を外す。
  両横の1本ずつのビスと、背面側の3本のビスを外し、
  天板を斜め後ろに引き上げれば、簡単に外せる。

DSCN5519.JPG
② 次にHDDの取り外し。
  これもHDD固定ベースの両脇の4本のビスを外せば簡単に取れる。

DSCN5522.JPG
③ HDDに接続されているS-ATAケーブルと電源ケーブルを外す。
  コネクターはただ単に刺さっているだけなので、引き抜けば取れる。

DSCN5523.JPG
④ HDDと固定ベースは、HDD裏の4本のビスで固定されているだけなので、
  ビスを外してHDDを交換する。

⑤ 後は③、②、①と逆順で、組み上げる。
DSCN5525.JPG←取り付け後のHDD

⑥ いよいよここから新しいHDDのセットアップ。
  RX50をサービスモードで立上げ、HDD Restore、等の手順を実施。
 (詳細は省略。知りたい方はこちらのブログを参照ください。)

⑦ ところがここで問題が発生。
  RX50をつないでいるテレビは、デジタルTV(OS:Android)なのだが、
  RX50と接続できる端子がHDMIしかない。

  しかしHDMIだとRX50の初期設定が完了するまで、画像出力が出ないことが発覚。
  HDDのセットアップとRX50の初期設定をするには、
  ピンコードでTVに画像を映さないといけない。

  仕方なく、別の部屋にあった古いTVをえっこらと運んできて、
  ピンコードでRX50に接続。
  ピンコードは保管していたのを引っ張り出して利用。

⑧ 無事にHDDセットアップとRX50の初期設定が完了。
  残量は1.9TBと表示された。
DSCN5529.JPG

  ただし、HDD情報の画面では、500GBしか表示されない。
  しかし上の写真でちゃんと1.9TBと認識されているので、
  問題はないようだ。
DSCN5530.JPG

この後、テスト録画して再生の動作も問題ないことを確認。
これでまだまだ現役で活躍しそうだ。
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普門院館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

DSCN2849.JPG←庫裡前の土塁
(2020年9月訪城)
 普門院館は、歴史不詳の城館である。上杉治憲(鷹山)敬師郊迎跡として国指定史跡となっている普門院の境内が館跡である。普門院の本堂・庫裡周辺にほぼ方形の土塁の西側半分が残っているが、明確に土塁とは言いかねる部分もあり、残存状況はあまり良いとは言えない。『山形県中世城館遺跡調査報告書』では、西面と南面の土塁の一部が途切れていることから、これらが虎口であったと推定している。普門院は、1599年に中興第一生證詠法印が再興したつ伝わることから、荒廃していた普門院を館跡に再建したと推測している。

 尚、上杉治憲敬師郊迎跡とは、名君として名高い上杉鷹山が、若き日の恩師細井平洲を米沢藩に迎えた際、米沢城下から遠く離れたこの関根の地に出迎え、再会を果たしたことにちなむ。1796年9月6日、鷹山は高齢の師平洲の3度目の米沢来訪を、羽黒堂(羽黒神社)に迎え、新築間もない普門院に案内して旅の労をねぎらい、礼を尽くしたと言う。門前には敬師の像が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.863826/140.142106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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武田信成館(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2802.JPG←居館北西角の塁線
(2020年8月訪城)
 武田信成館は、赤甲城とも呼ばれ、武田氏11代信成の居館である。以前は15代信守の館とされていたが、現在はそれより4代前の信成の館であったと考えられている。1398年、信成が信州へ出陣中に落館し、信成夫人は館内の井戸に身を投じたと伝えられている。1410年に信成の嫡子信春は、母を弔うため居館を清道院に改め、虎渓和尚を開山始祖にしたと言う。

 武田信成館は、現在は清道院の境内と畑になっている。外周には土塁の痕跡が残り、西辺から北辺にかけては切岸と堀跡の窪地・水路が見られる。わずかではあるが、方形居館の痕跡が明瞭で、GoogleMapの航空写真を見ると館の形状がよく分かる。尚、清道院には、信成夫人の墓や身投げの石組み井戸が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.623134/138.643180/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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武田信重館(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2768.JPG←館跡に建つ成就院
(2020年8月訪城)
 武田信重館は、甲斐守護で武田氏14代信重の居館である。信重は流浪の守護と呼ばれ、父信満が1417年、上杉禅秀の乱で縁者である禅秀方に付いて木賊山で自害した後、鎌倉府や甲斐国で強大な権力を持つ一族の逸見氏の難から逃れる為に出家し、高野山に逃れた。しかしその後、禅秀を滅ぼした鎌倉公方足利持氏が幕府との対立姿勢を強めると、6代将軍となった足利義教は信重の甲斐守護復帰を画策し、1438年、幕府の命によって信濃守護小笠原氏と甲斐守護代跡部氏が支援して、信重は甲斐守護として入国した。実に21年ぶりの帰国であった。しかし入国後も依然として守護代跡部氏の勢力が強く、国内は安定せず、下剋上に悩まされたらしい。1450年信重は、黒坂太郎を討伐中に小山城主穴山伊豆守に攻められ、館付近で自刃した。
 尚、この館は、信満自刃後の1418年に武田信元(穴山満春)が甲斐守護として入国以来、武田伊豆千代丸、武田信重と、3代32年間の守護館となった。

 武田信重館は、笛吹川西岸の成就院の地にあったと伝えられる。この付近はしばしば笛吹川の氾濫に見舞われた場所であったため、遺構は完全に湮滅している。境内には信重の墓が残っており、所縁深い地であることを実感させる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.628384/138.618439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2016/05/30
  • メディア: 単行本


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下曽根氏屋敷(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2762.JPG←境内に残る土塁
(2020年8月訪城)
 下曽根氏屋敷は、武田氏の庶流下曽根氏の居館である。下曽根氏は、武田氏14代信重の子中務大輔賢信(賢範)が下曽根氏を称したことに始まる。下曽根氏の事績としては、1559年から1582年まで、下曽根氏3代岳雲軒浄喜が信濃小諸城代となったと伝えられる。浄喜は、1582年の織田信長による武田征伐の際、小諸城に逃れてきた武田信豊(武田信玄の実弟信繁の次男)を討ち、その首を信長に進上して降伏するが、不忠の廉で誅殺されたと言う。また武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際に徳川家康に服属した武田家旧臣達が提出した『天正壬午武田諸士起請文』には、侍大将として下曽根源六信辰の名がある。源六の弟源七弥左衛門尉は、長篠の戦いで討死している。この様に下曽根氏は、武田氏時代にはその親族衆として、また武田氏滅亡後は徳川氏に仕えて活躍した。

 下曽根氏屋敷は、笛吹川南岸の平地にあり、現在実際寺の境内となっている。境内の東面から南面にかけて土塁がよく残っている。屋敷のある曽根郷は、甲府から右左口を経て、古関・阿難坂の難所を越え、精進を経て駿河に至る中道往還を押さえる重要な交通の要衝で、天正壬午の乱の際の徳川家康の甲斐入国の際にもこの道筋が使われており、甲斐の要地を任されていたことがうかがわれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.592622/138.575717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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秋山光朝館(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2717.JPG←熊野神社周囲の斜面
(2020年8月訪城)
 秋山光朝館は、甲斐源氏の一族秋山太郎光朝の館である。光朝は加賀美遠光の長子で、始め加賀美太郎と呼ばれたが、大井庄を支配するに及んで山寄りの要害地秋山に館を構え、秋山太郎と称した。弟小笠原長清と共に京都で平知盛に仕え、平重盛の女婿となっていた。そのため、1180年の源頼朝の挙兵の際に遅参して不信を買い、また平家との近さから甲斐源氏の中で次第に孤立していった。平家滅亡後は頼朝に疎まれ、1185年に甲斐源氏の勢力伸長を恐れた頼朝に命で鎌倉勢に攻撃され、光朝は雨鳴城中野城のことか?)を築いて防戦したが、遂に雨鳴城で自害した。

 秋山光朝館は、現在の熊野神社の境内にあったと言う。熊野神社は秋山集落を眼下に望む、比高5m程の独立小丘となっており、周囲は斜面で囲まれている。1592年の古図によれば、東西2郭から成っていたらしく、周囲には三重の堀があったらしいが、現在は宅地化などで失われ、その痕跡も不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.583182/138.445491/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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上野城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2697.JPG←主郭跡の空き地
(2020年8月訪城)
 上野城は、椿城とも言い、甲斐武田氏の庶流大井氏の居城である。元々の創築は、鎌倉時代に小笠原長清の孫上野六郎盛長によるとされる。城の付近に椿が多いことから椿城と呼ぶようになったと言う。その後しばらくの間、上野城の事績は不明となるが、戦国時代には武田氏の庶流大井上野介信達がこの城に拠った。大井氏は、南北朝時代の観応年間(1350~52年)に武田氏10代信武の2男信明が大井庄を領有し、大井氏を称したことに始まる。大井氏6代信達の頃には西郡一帯に勢力を拡大し、有力な国人領主に成長した。1507年に14歳で武田氏の家督を継いだ信虎に対して、1515年、大井信達・信業父子は駿河の今川氏親の援助を受けて、信虎に反抗した。信虎は大井氏討伐のため上野城を攻撃したが、大敗した。また大井氏を支援した今川勢は、郡内の吉田城や中道の勝山城に拠って信虎方に攻撃を加えた。しかし1517年、信虎は勢力を盛り返し、勝山城の今川勢を孤立させ、今川氏と武田氏が和睦し、大井氏も信虎に降った。その後、信達は、今井・栗原氏らと再び叛乱を起したが、1520年に敗れて信虎の家臣となった。信達の娘は、信虎の正室となり、晴信(信玄)・信繁・信廉を生み、大井夫人と称せられた。信達は、大井宗芸・武田高雲斎と号し、晩年は信玄の外祖父として重きを成したと言う。信業の弟虎昌は信玄・勝頼2代に仕え、1579年に81歳で没した。その子昌次も信玄・勝頼に仕えたが、1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の時に徳川家康に服属し、以後徳川氏の旗本となって続いた。

 上野城は、櫛形山の東の山裾の、市之瀬川・堰野川に南北を挟まれた丘陵上に築かれている。現在城跡は上野集落の一角にあり、城内は畑や宅地に変貌している為、遺構は完全に湮滅している。しかし1989年に行われた地中レーダー探査が行われ、堀跡などが確認されている。現在、空き地となっているのが主郭と考えられ、その脇には秋山氏の墓所がある。主郭の南東にある本重寺の墓地には、大井氏の墓所がある。本重寺には城址碑が建っている。信虎の攻撃を撥ね退けた程の城であるから、往時はかなりの要害であったと思われるが、現在からその姿を想像するのは困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.602707/138.442336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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小笠原長清館(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2693.JPG←館跡碑が建つ小笠原小学校
(2020年8月訪城)
 小笠原長清館は、後に信濃守護となった小笠原氏の祖、小笠原長清の居館である。長清は、甲斐源氏の一族加賀美遠光の次男で小笠原氏を称した。長清は、兄秋山光朝と共に京都で平知盛に仕えていたが、源氏挙兵の動きに応じて1180年10月に甲斐に帰国し、駿河へ出兵した甲斐源氏一族を追って合流した。以後、平家追討で功を挙げた。1185年の平家滅亡後、父遠光は信濃守となり、その子長清も同国伴野荘の地頭となって、東信濃に勢力を拡大した。甲斐源氏の多くが源頼朝に粛清されたが、父遠光と共に長清は粛清を免れ、1221年の承久の乱では東山道大将軍の一人として活躍した。その功により阿波守護にも任じられ、小笠原氏繁栄の礎を築いた。1242年に81歳で京都で没した。

 小笠原長清の館は、候補地が2つ伝えられ、北巨摩郡明野村(現・北杜市)とここ、中巨摩郡櫛形町(現・南アルプス市)である。2ヶ所とも小笠原の地名が残るが、いずれの地名をもってその名としたかは不明と言う。しかし両所とも長清との所縁を伝えており、明野村には長清寺に小笠原長清の供養塔が残り、この櫛形町には長清の祠堂が明治中期に建てられた。小笠原小学校付近の小字を「御所庭」と言うことから、小学校付近に館があったと推測されているが、遺構もなく、館の範囲・形状を特定できるものはない。小学校校庭の脇に館跡の石碑が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.609790/138.461777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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富田城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2684.JPG←城の顕彰碑
(2020年8月訪城)
 富田城は、甲斐武田氏の庶流大井信達の支城である。城主は富田対馬守範良と伝えられる。大井氏は上野城を本拠として西郡に大きな勢力を有し、駿河の今川氏親の援助を受けて若い武田信虎に反抗し、信虎と度々交戦した。この両者の戦いは今川氏の介入もあって1517年まで続いたが、同年3月、武田氏と今川氏との間で和睦が成立し、大井氏も信虎に降った。この時、信達の娘が信虎の正室となり、武田信玄の生母となった。しかしその後も今井氏・栗原氏らと反抗したが、1520年に敗れて信虎の家臣となった。翌21年9月、今川氏の部将で遠州土方城(高天神城)主福島正成が1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻した。このとき富田城は9月16日に落城し、今川勢の前進基地となった。その後、今川勢は甲斐府中の武田信虎の館(躑躅ヶ崎館)を目指して進撃を開始し、登美の龍地台に布陣して荒川を挟んで信虎の軍勢と対峙した。10月16日の飯田河原合戦で信虎勢は勝利し、続く11月23日の上条河原合戦でも信虎は今川勢に大勝した。大敗した今川勢は総大将の福島正成を始め多くの部将を失い、富田城へ敗走した。そのまま越年し、1月14日に駿河に引き上げたと言う。

 富田城は、河川氾濫が繰り返された平地にあったため、その場所は特定されていない。一説には釜無川の支流滝沢川の西岸にあったとされる。現在は国道52号線沿いの公園の一角に「富田城顕彰之碑」が建っているだけである。碑文には、石碑から南東540mに城があったと書かれているが、そこは工業団地に変貌している。その近在には的場・御前・お西等の地名が残っていると言う。戦国甲斐の歴史上、重要な城であるが、遺構が全く無いのは地勢上、致し方のないことであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.583356/138.475059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


今川氏親 (中世関東武士の研究26)

今川氏親 (中世関東武士の研究26)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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加賀美氏館(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2664.JPG←法善寺前の水路
(2020年8月訪城)
 加賀美氏館は、甲斐源氏の一族加賀美次郎遠光の館である。遠光は、甲斐源氏3代清光の3男で、加賀美荘を領して加賀美氏を称した。遠光はこの地を本拠に、峡西地方・鰍沢・塩山を支配して強大な勢力を誇った。治承・寿永の乱では、1180年の源頼朝の挙兵以来、甲斐源氏の有力な武将として活躍した。『吾妻鏡』によれば、1185年の小除目で遠光は信濃守に任じられた。頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦にも参陣した。1192年、頼朝の永福寺供養に甲斐源氏の一族と共に供奉し、また頼朝の次子実朝の誕生を祝う五十日百日の儀では遠光も嘉儀に預かっており、頼朝に大いに信頼されていたことがうかがわれる。しかし甲斐源氏の勢威伸長を頼朝は危険視し始め、甲斐源氏の一族は次々と粛清されていった。遠光の子秋山光朝も死に追いやられたが、遠光は粛清されることなく長寿を全うし、1261年に74歳で没した。

 加賀美氏館は、法善寺の寺域にあった。法善寺は遠光の館跡に孫の遠経が建立したと伝えられる。法善寺の南と西には堀跡と思われる水路が廻らされている。しかしそれ以外に明確な遺構は見られない。遺構はないものの、寺域は広く、往時は広大な居館であったことがうかがわれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.603213/138.485187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




タグ:居館
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金丸氏館(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2608.JPG←西側に残る土塁と堀跡
(2020年8月訪城)
 金丸氏館は、武田氏の庶流金丸氏の居館である。金丸氏は、甲斐守護武田信重の子右衛門尉光重を祖とする一族で、光重に男子がなかったため、武川の一色藤直の子藤次を養子とし、藤次は金丸伊賀守を称した。藤次は武田信昌・信縄・信虎の時代を生き、1519年に69歳で没した。以後、子孫の若狭守虎嗣は信虎に仕え、続く筑前守虎義は信玄に仕えた。虎義には7男1女があり、金丸氏は嫡男昌直、次いで4男定光が継ぎ、他の男子は土屋・秋山姓を名乗った。2男の土屋右衛門尉昌次は長篠合戦で討死にし、5男惣蔵昌恒が土屋氏を継いだ。1582年、織田信長による武田征伐で武田勝頼は滅んだが、昌恒は最期まで勝頼に従い、死を覚悟した勝頼が自害するまでの時間を稼ぐため、追撃してくる織田勢を相手に奮戦して自刃した。その際、崖道の狭い所で岩角に身を隠し、片手は藤蔓に掴まり、もう片手で刀を持ち、迫りくる敵兵を次々に斬っては谷川に突き落としたと伝えられ、後に「土屋惣蔵片手千人斬り」と讃えられた。昌恒の子忠直は後に徳川家康に見出され、上総久留里藩2万石の大名に取り立てられ、子孫は常陸土浦藩主として明治維新を迎えた。

 金丸氏館は、現在の長盛院境内にあった。ここは段丘の東端に当たり、東と南は急崖となっている。本堂裏手の西辺に土塁が残っている。以前は北側半分にも土塁が残っていたらしいが、現在は住職の墓地に改変されてしまっている。また西側の土塁の外側は若干低くなっており、空堀があったと思われる。これ以上の改変が無いよう望みたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.653112/138.488985/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


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一橋陣屋(山梨県甲斐市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2507.JPG←陣屋跡の水田
(2020年8月訪城)
 一橋陣屋は、8代将軍徳川吉宗が創設した御三卿の一、一橋家が置いた陣屋である。1746年、吉宗は4男一橋刑部卿宗尹に封地10万石を与え、そのうち30,044石6斗9升2合を甲州巨摩郡において設定した。治所として一橋陣屋を設営したが、7年後の1753年に河原部村に移され、この陣屋は廃された。

 一橋陣屋は、妙善寺の門前に置かれたとされる。しかし短命で終わった陣屋であったせいもあり、遺構は残っておらず、現在跡地は水田となっている。その脇に解説板だけが立っている。何もないのに、市の史跡になっているというのが不思議である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.692907/138.477656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


徳川将軍家・御三家・御三卿のすべて (新人物往来社文庫)

徳川将軍家・御三家・御三卿のすべて (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/06/07
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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武田信玄の治水事業(山梨県甲斐市・韮崎市・南アルプス市) [その他の史跡巡り]

DSCN2478.JPG←信玄堤の現在の姿
(2020年8月訪問)
 武田信玄が甲斐国主として在世中に行った釜無川・御勅使(みだい)川の治水事業は、広く知られている。国の史跡にも指定されているし、NHK BSプレミアムの「英雄たちの選択」で治水について取り上げた回(「水害と闘った男たち〜治水三傑・現代に活かす叡智〜」)でも細かく紹介されていた。

 戦国大名といえば、世間一般では民衆の苦しみをよそに戦いに明け暮れていたイメージが強いが、実際にはかなり民政を重視した政策を採っていた。民衆が疲弊すれば国力が弱体化し、すぐに他国に攻め込まれて滅亡する危険性があったし、領内の有力国人衆が主君の悪政に対して叛乱を起こすと、たちまち国から追放される可能性もあったため(中世では家臣には主君を選ぶ権利があると考えられていた)、各地の戦国大名はかなり民政に神経を尖らせていた。最先端の領内統治システムを構築していた小田原北条氏などは、その最たるものである。現代の、危機感が欠落し、上から目線で国民をナメてかかっている劣悪な政治屋たちに、爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいである。戦国時代は、ある意味で現代よりも国民に目を向けていた時代だったから、堤防などを築いて治水事業を行った大名は数多い。中でも複合的な治水対策を行った大名が、武田信玄であった。信玄はおよそ20年もの時間をかけて、これらの治水事業を完遂した。

 ここでは、信玄が行った治水事業による史跡群を紹介する。


<信玄堤>
 信玄堤は、甲府の西方、釜無川と御勅使川の合流点の下流に築かれた堤防である。しかしこの堤防だけでは、暴れ川の釜無川・御勅使川の洪水を防ぐことができない。そこで以下の様な複合的な対策を行って洪水の流れを調節した。
 ・御勅使川の流れを上流の「石積出し」で北側へはねる
 ・このはねた流れを2つの「将棋頭」で受け止める
 ・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で御勅使川の洪水の流れを「高岩」に導き、その勢いを弱める
 こうして弱まった流れを「信玄堤」で受け止めたと言う。ただ、信玄が築いた当時の「信玄堤」は霞堤という形式であり、現在のものとは形が異なる。霞堤については後述する。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.668088/138.501474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<聖牛>
信玄堤公園にある聖牛→DSCN2649.JPG
 聖牛は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本で有名な古い河川工法の一つで、戦国時代の甲州が発祥の地と言われている。丸太を横に寝た三角錐の形に組み、底面に細長い石籠をいくつも積んだ形をしている。展示用のものが信玄堤公園の北端にあるほか、川縁にも現存している。現在でも機能していると言うから、戦国の知恵はすごい!

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.668000/138.501216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<一の出し、二の出し>
DSCN2638.JPG←現在の一の出し
 一の出し、二の出しは、釜無川・御勅使川の洪水の流れが下流の信玄堤に直接当たらないように、川岸から川中へ向けて作られた出っ張りである。洪水の流れを川の方へはねて堤防を守る働きがあった。現在は一の出しだけがあり、残る一の出しもコンクリートと石で作られているが、往時は竹で作った籠に石を詰めた蛇籠をたくさん並べていたと言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.669953/138.500251/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<高岩>
DSCN2643.JPG
 御勅使川と釜無川の合流点付近は強い洪水流となるため、「信玄堤」だけでは洪水の流れを防ぎ切れない。そこで、釜無川と御勅使川の洪水の流れを自然の地形の段丘崖「高岩」へ導き、ぶつけることによって、強力な水の勢いを弱め、更に「信玄堤」で氾濫を防いだと言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.671260/138.499564/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<霞堤>
DSCN2659.JPG
 往時の信玄堤は、霞堤という堤防形式であった。川の流れに対して逆八の字の形で雁行状に堤防を複数配列し、上下流の堤防の間には隙間を開け、一部が重なるようにしている。こうして水の逃げ道を作ることで、大洪水の水の圧力を逃し、洪水の流れを柔らかく受け止めることで堤防の決壊を防いだ。霞堤の隙間から外に溢れた水は、再び下流の隙間から川へ戻った。車道脇の緑地帯の中に、霞堤の一部が残っている様だが、夏場だと雑草でわかりにくい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.662718/138.503104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<竜岡将棋頭>
DSCN2529.JPG
 竜岡将棋頭は、南に配置された「白根将棋頭」と合わせて、御勅使川の洪水の流れを押さえて下流の「堀切」へ導く効果があったと考えられている。将棋の駒の頭の様に、山型に尖った形をしているので、この名がある。戦国時代から明治初めまで約400年にわたって維持されてきたが、明治になって山間部が荒れ、洪水時に川が出す土砂が増えたため、この付近一帯は埋没して、将棋頭は機能しなくなったと言う。現在見られる将棋頭は、昭和62年に発掘されたもので、南側の石堤だけが残っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.671783/138.456563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<石積出し>
DSCN2540.JPG←一番堤の先端部
 石積出しは、御勅使川が山間部から扇状地に出る扇頂部に築かれた雁行状の多段式堤防群である。この堤防群によって御勅使川の流路を北にまわし、ここから下流に将棋頭を設けて洪水時に水を分水した。石積出しは8番堤まであったらしいが、現在は1番から5番まで確認されていると言う。現在現地で確認できるのは1番から4番までで、駐車スペースと解説板があるのが2番堤、そのやや上流に大きな石で組まれた大きな1番堤、下流に数分歩いた所に3番堤がある。4番堤は浄水場の敷地に掛かっており、破壊を受けている。多分浄水場を作った人は、まさか国指定史跡になるとは思ってなかったんだろうなぁ。
2番堤→DSCN2533.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.653408/138.416523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<枡形堤防>
DSCN2569.JPG
 枡形堤防は、V字型の堤防で、六科村や野牛島村に水を引いている徳島堰の取水口(水門)を守るために築かれた。徳島堰が開削されたのは江戸時代前期なので、信玄の手になるものではないが、併せてここに記載する。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.662631/138.444375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<白根将棋頭>
DSCN2575.JPG
 白根将棋頭は、前述の「竜岡将棋頭」と同様に御勅使川の洪水の流れを制御するために築かれた。ここで御勅使川の流れが2方向に分流され、北側に新しく河道を開削して主流とした。南側の旧河道を前御勅使川と呼び、新河道を後御勅使川または本御勅使川と呼んだ。現在は北側の石堤だけが残っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.663119/138.451370/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<堀切>
DSCN2583.JPG
 「白根将棋頭」で分流された御勅使川の流れを、「高岩」に導くために新しく河道が開削された。特に「堀切」の部分は、小高くなった釜無川西側に沿った河岸段丘を穿ち抜いたもので、人力だけが頼りの時代には大変な難工事であったと言われている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.672202/138.478428/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<十六石>
DSCN2585.JPG
 十六石は、武田信玄が御勅使川と釜無川が合流する地点に置いた16個の巨石群である。この巨石で、釜無川の流れを当方の高岩方向に変えたと伝えられる。しかし江戸後期に編纂された『甲斐国志』では、既に砂中に埋まっていたと言い、度重なる水害で砂に埋まって、その位置も不明になっていた。しかし地中探査と発掘調査の結果、地下約1.5mに、西北西に配列して埋没している花崗岩の巨石が確認された。現在は車道脇に解説板と、柵で囲まれたスペースに中型の石が並べられているだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.676019/138.480788/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信玄堤

信玄堤

  • 作者: 和田 一範
  • 出版社/メーカー: 山梨日日新聞社
  • 発売日: 2021/01/30
  • メディア: 単行本


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雨宮氏屋敷(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2426.JPG←本堂裏の土塁らしき土盛り
(2020年8月訪城)
 雨宮氏屋敷は、武田氏の家臣雨宮氏の居館である。『甲斐国志』によれば、雨宮摂津守家国が居住したと伝えられる。また雨宮氏としては家国の他に、雨宮次郎右衛門が武田氏の蔵奉行衆の一人として見え、また武田義信(信玄の嫡男)付きの家臣として雨宮十兵衛家次が知られる。

 雨宮氏屋敷は、明確な場所は不明であるが、一説には慈眼寺境内とも言われている。慈眼寺の前面(東側)には田垂川が深い水路となって流れ、本堂の裏には土塁らしい土盛りが見られる。武士の屋敷地としてそれなりの構えがあったように思われるが、慈眼寺自体の歴史が武田氏時代まで遡る。即ち、武運長久の祈願所として武田家の保護を受け、その後、1582年の織田信長による武田征伐の際に兵火で焼失したと伝えられている。その歴史からすると、慈眼寺の位置に雨宮氏屋敷があり、屋敷跡に慈眼寺が建立されたのか、それとも元々慈眼寺はこの場所にあって、別の所に雨宮氏屋敷があったのか、いずれかなのであろう。今後の考究に期待したい。
 尚、慈眼寺の本堂・庫裡・鐘楼門は国の重文に指定されており、雨宮氏屋敷としてより、重文建築物を見に来る方が良いかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.643103/138.692189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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栗原氏館(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2409.JPG←わずかに残る土塁跡
(2020年8月訪城)
 栗原氏館は、武田氏の庶流栗原氏の居館である。武田氏11代信成の子十郎武続が東郡栗原郷に館を構え、栗原氏を称したことに始まる。以後、栗原一族は東郡の雄として栗原郷を中心に強大な勢力園を築いた。嘉吉年間(1441~44年)から永正年間(1504~21年)にかけての甲斐の下剋上時代には、守護武田氏と守護代跡部氏との間で激しい抗争があり、その中で岩崎一族が大半戦死したが、栗原氏も多くの犠牲者を出したものと見られる。1519年に武田信虎が甲斐統一を図り、守護所を歴世の石和(川田館)から甲府(躑躅ヶ崎館)に移して家臣団も甲府に移住させると、栗原信友を始めとする大井氏・逸見氏らの有力国人衆が新体制に反発して戦いとなった。しかし次第に鎮圧されて、武田氏の家臣団に組み込まれた。『甲陽軍鑑』によれば、信虎・信玄に仕えて活躍したのは、伊豆守信友・左衛門佐昌清・その子左兵衛尉詮冬(のりふゆ)等であった。武田氏滅亡後、栗原氏は徳川家康に仕えたと言う。

 栗原氏館は、大翁寺境内を中心とした一帯にあったとされ、近接する海島寺・妙善寺・大法寺の境内を含む、広大なものであったと考えられている。しかし遺構は湮滅が進んでおり、残っているのは大翁寺の北東にある小道脇の土塁と、大翁寺西側の入口脇に残る堀跡の水路だけである。大翁寺の墓地の北辺も一段高くなっていて、これも土塁跡とされるが、墓地造成の改変によりわかりにくくなってしまっている。大翁寺には栗原氏に関する解説板が立っているが、遺構としてはかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.665769/138.697361/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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