二穴城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]
←主郭~二ノ郭間の段差
(2020年11月訪城)
二穴城は、能登守護の七尾城主畠山氏が築いた城と言われている。1581年に前田利家が能登に入部すると、家臣の高畠茂助・宇野十兵衛を置いて守らせたと言われる。小口瀬戸と七尾南湾を航行する船舶を監視する役目を負っていたと考えられている。
二穴城は、七尾南湾に突き出た丘陵上に築かれている。城の北東に多賀神社があり、その裏から城内の畑跡に通じる道が伸びている。城内は耕作放棄地と竹薮になっている。南北に主郭・二ノ郭を配置した城で、2郭間は高さ1m程の段差だけで区画されている。南の主郭は丘陵突端にあり、西辺に低土塁を築いている。更に主郭・二ノ郭の西側には数段の腰曲輪が築かれ、この腰曲輪群を貫通して竪堀状の通路が下っている。また二ノ郭の東側にも腰曲輪が1段築かれている。二ノ郭の後部にも土塁があり、段差で北側の尾根と区画されている。そこから北側は一面の酷い薮で、踏査困難なため、遺構の有無は確認できていない。
二穴城も向田城と同じく、現地解説板ではずっと北側に続く尾根や南西に張り出した丘陵上も城域だったとしているが、『能登中世城郭図面集』では遺構とは認定していないので、どちらが正なのかよくわからない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.113155/137.016624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2020年11月訪城)
二穴城は、能登守護の七尾城主畠山氏が築いた城と言われている。1581年に前田利家が能登に入部すると、家臣の高畠茂助・宇野十兵衛を置いて守らせたと言われる。小口瀬戸と七尾南湾を航行する船舶を監視する役目を負っていたと考えられている。
二穴城は、七尾南湾に突き出た丘陵上に築かれている。城の北東に多賀神社があり、その裏から城内の畑跡に通じる道が伸びている。城内は耕作放棄地と竹薮になっている。南北に主郭・二ノ郭を配置した城で、2郭間は高さ1m程の段差だけで区画されている。南の主郭は丘陵突端にあり、西辺に低土塁を築いている。更に主郭・二ノ郭の西側には数段の腰曲輪が築かれ、この腰曲輪群を貫通して竪堀状の通路が下っている。また二ノ郭の東側にも腰曲輪が1段築かれている。二ノ郭の後部にも土塁があり、段差で北側の尾根と区画されている。そこから北側は一面の酷い薮で、踏査困難なため、遺構の有無は確認できていない。
二穴城も向田城と同じく、現地解説板ではずっと北側に続く尾根や南西に張り出した丘陵上も城域だったとしているが、『能登中世城郭図面集』では遺構とは認定していないので、どちらが正なのかよくわからない。
主郭西辺の土塁→
←主郭西側の腰曲輪お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.113155/137.016624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1