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能見城防塁(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4688.JPG←北尾根の竪堀
(2021年2月訪城)
 能見城防塁は、新府城北方に築かれた外郭線である。築城時期には2説あり、武田勝頼が新府城を築城した際に、新府城の北方からの敵を想定して一緒に構築したとするもの、或いは、天正壬午の乱の際に新府城に本陣を置いた徳川家康が、若神子城を中心とする北条氏直の大軍に備えて構築したとするもの、という見解がある。また防塁の中で一番東の端に位置する堂坂砦は家康が北条勢に備えて築いたと伝えられているが、これも武田氏の防塁を修築したものとの見解もある。いずれにしても1581~82年にかけてのごく短時日の間に築城されたものと考えられている。

 能見城防塁は、七里岩台地の上にある標高590mの山を中心として、台地を分断するように東西に長く築かれている。能見山の山頂には防塁の中心となる能見城があったとされるが、後世の改変が多く、明確な遺構は確認できない。防塁は、現在残っているのは6つの区域に分かれる。
 一番東にあるのが前述の通り堂坂砦で、車道脇に解説板が立ち、その南に堀跡や土塁らしい跡が残るが、形はあまり明瞭ではない。
 堂坂砦の西270mの所にあるのが御名方神社付近の遺構で、神社のある丘を取り巻くように空堀と土塁が廻らされている。空堀の東側は竪堀となって落ちている。
 御名方神社の西の民家・ソーラーパネルの西側に墓地があり、この墓地裏にもわずかに遺構が残っている。土塁と堀状の低地が見られるが、薮で形状がわかりにくい。
 能見城のある山の北側に残る遺構が、防塁の中核的な遺構である。山の北東から北に突き出た尾根に竪堀と連続枡形の遺構が残る。枡形は規模大きく、防塁中の重要な関門として構築されていたことがうかがわれる。ここにある竪堀は最上部で横堀となり、山の北辺を西に向かって延々と伸びている。この横堀は、中央からやや西寄りのところでクランクしており、枡形遺構と解釈されているが、近代の改変もあるようで役割が少々掴みづらい。
 能見城の山の西側の住宅地内に、車道の東西に土塁が残っており、西枡形とされる。遺構が断片的である上、改変も受けているので、往時の形状は想像するしかない。
 JR中央本線の西側の台地辺縁部にあるのが、西曲輪(西砦)とされる。北辺に低土塁が残り、北斜面に腰曲輪が数段見られる。西曲輪の郭内は、平坦な平場が広がっている。南端部は幅広の土塁となっている。

 能見城防塁は、全体に遺構は良く残っているが、御名方神社付近以外は薮が多く、ちょっと残念な状態である。特に山の北尾根の連続枡形遺構は出色のものであり、今後整備されて保存されていくことを望みたい。
御名方神社周りの横堀→DSCN4638.JPG
DSCN4723.JPG←北尾根の連続枡形の土塁
山の北辺の横堀→DSCN4750.JPG
DSCN4770.JPG←北辺横堀の屈曲部
西枡形の土塁→DSCN4842.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【能見城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.751101/138.418422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【堂坂砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.754671/138.425138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【御名方神社付近の遺構】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.754619/138.422177/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【墓地裏の遺構】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.754427/138.420439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北尾根の竪堀・連続枡形遺構】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.752842/138.418744/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【西枡形】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.749847/138.416040/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【西曲輪】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.749482/138.413572/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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新府城(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4237.JPG←大手虎口の丸馬出
(2021年2月訪城)
 新府城は、甲斐武田氏最後の居城である。武田氏の居城は、信虎による甲府開府以来躑躅ヶ崎館にあったが、長篠合戦で大敗した後、迫りくる織田・徳川の脅威に対抗するため、武田勝頼の命で1581年2月に築城が開始された。この地への築城の献策は、武田親族衆の重臣穴山梅雪によると言われ、普請奉行には真田安房守昌幸が任じられた。勝頼や昌幸の書状によれば起工の日は2月15日、領国内に10軒に1人の割合で30日間の人夫を供出させる総動員体制で、昼夜兼行の突貫工事が行われた。その最中の3月22日には遠江の要衝高天神城が落城し、武田氏を取り巻く情勢は更に緊迫化した。しかも勝頼は、高天神城への後詰めを行わず見殺しにしたことで、その権威は大きく失墜した。9月にはほとんどの築城工事が完了し、勝頼はその落成を友好諸国に披露した。勝頼が新府城へ移転しようとしていた矢先、北条氏家臣で伊豆戸倉城主笠原新六郎範定(北条家筆頭家老松田憲秀の次男)が武田方に降伏してきた為、その仕置のために伊豆に出馬し、帰国後の12月24日に新府城への移転を決行した。躑躅ヶ崎館のあった古府中を去るに当たって、心残りの無い様に館や家臣屋敷を悉く打ち壊したと言う。また城下町を形成する余裕がなく、家臣団の屋敷を集住させるだけで精一杯であったが、一方で城の北方に能見城を中心とする外郭線を築き、城のある七里岩台地を分断する長城を備えていたとされる。勝頼は1582年の正月を新府城で迎えたが、正月早々に武田親族衆の木曽義昌が織田信長に通じて反逆した為、1月28日に木曽義昌追討の兵を発し、自らも2月2日に新府城を発って諏訪上原城に本陣を置いた。一方、武田領侵攻の準備を進めていた信長は、木曽氏の反乱を契機として2月3日に侵攻作戦を開始した。この時信長は朝廷を動かして、勝頼を朝敵と認定させることに成功し、武田討伐の大義名分を整えた。織田軍の侵攻が開始されたその日、更に勝頼にとって不運なことに浅間山が大噴火を起こし、人心が激しく動揺した。こうして、ただでさえ疲弊していた武田方の前線はまたたく間に崩壊し、重臣の穴山梅雪も駿河江尻城を徳川家康に明け渡して降伏した。勝頼は、上原城から急いで新府城に戻った。3月2日、実弟の仁科信盛らが守る高遠城が激戦の末に落城すると、新府城へ織田軍が迫ってくる状況となった。勝頼は評定を行い、未完成の部分があった新府城での防戦は無理と判断、真田昌幸の岩櫃城撤退策と小山田信茂の岩殿城撤退策を受けて、最終的に岩殿城へ退くことを決断、3月3日早朝に新府城に火を放って岩殿城に向かった。勝頼の新府城在城は、わずか3ヶ月余であった。結局、笹子峠に差し掛かったところで小山田氏の裏切りに遭い、進退窮まった勝頼は3月11日に日川渓谷沿いの田野で北条夫人・嫡子信勝らと共に自刃し、甲斐の名門武田氏は滅亡した。しかしわずか3ヶ月後に織田信長が本能寺で横死し、武田遺領の織田勢力は一挙に瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時、若神子城に本陣を置いた北条氏直に対して、徳川家康が本陣を置いたのが新府城である。数カ月に及ぶ長期対陣となったが、黒駒合戦など各地の局地戦で勝利を挙げた徳川勢が北条の大軍を逼塞させ、また北条方にあった真田昌幸を寝返らせたことで、家康は北条勢の背後を脅かすことに成功した。しかし寡兵の徳川勢に北条の大軍を撃破する力はなく、結局徳川方の優勢下で北条氏と和睦し、乱は集結した。こうして新府城は、その短い役目を終えた。

 新府城は、七里岩台地の西縁にある比高60m程の独立丘陵に築かれている。山頂に広大な面積を持った長方形の本丸を置き、その西側に南北に並んだ方形の区画を挟んで二ノ丸がある。ちなみに南北に並んだ方形区画の内、北側のものは本丸西虎口の外枡形となっている。二の丸も長方形の曲輪で、南には馬出しとされる土塁の囲郭があり、南に食違い虎口が築かれている。本丸の南下方には仕切り土塁で東西に区画された三の丸が広がっている。しかし三の丸は薮が生い茂り、北東に虎口があるが確認は困難である。三の丸外周には腰曲輪・帯曲輪が築かれ、南東に大手虎口が築かれている。大手虎口は、前面に丸馬出と三日月堀を設け、その内側に土塁で方形の区画を築いている。この方形区画は、動線は屈曲せず、内側・外側の門跡が一直線に配置されている。この形状は、搦手の乾門跡も似た構造であり、躑躅ヶ崎館の虎口も同じ構造である。この点では、武田氏の虎口構造は近世城郭に見られる枡形虎口とは構築思想が異なっていることがわかる。一方、二の丸から搦手虎口に至る間には帯曲輪や井戸跡が残っている。丘陵最下方の北から東にかけては帯曲輪が廻らされ、特に北側では土塁が築かれ、2ヶ所に出構と呼ばれる突出部が、外周の堀跡に突き出している。出構の機能には諸説あるが、鉄砲陣地と考えるのが自然だろう。搦手には東西に細長い独立郭が設けられ、南は土橋、東は木橋で連絡している。但し、木橋は現在は無く、橋台だけが現存している。北側には堀跡が低地の畑となって残り、西側では水堀が現存している。これらの堀の上に切岸がそびえ、帯曲輪が構えられている。
 新府城は、一つ一つの曲輪が大きく、いずれの曲輪も土塁で囲まれて防御を徹底していたことがわかる。中でも北面は重厚な防御線を構築しており、ここで最後の決戦を挑んでいたら、どれ程の損害が織田軍に出たか、想像したくなる。しかし東側の防御は脆弱で、その点が新府城が未完成であったとされる所以であろう。

 尚、新府城は国の史跡となっているが、城が大きいため整備の手を行き渡らせることができず、ところどころ薮が多くなっている。しかも過去に樹木の全面伐採と薮払いがされたが、その後未整備が続いたため、現在では進入困難な薮も多い。中でも三の丸・二の丸南の馬出し・本丸西虎口の外枡形は激薮で、かつ茨が多く辟易する。以前にも他の城の記事で書いたが、継続的な整備ができないならば、樹木の全面伐採はやめて欲しい。樹木がなくなると日当たりが良くなって、雑草が猛烈な勢いで伸びて、人の背丈を超えるほど茂ってしまうからである。間伐され手入れされた山林のままにしておくのが、城にとっては良いと思う。
広大な本丸→DSCN4380.JPG
DSCN4524.JPG←搦手の乾門跡の方形区画
北側に突出した西出構→DSCN4547.JPG
DSCN4531.JPG←北西の水堀と切岸

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.735653/138.425063/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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白山城(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN4045.JPG←西斜面の放射状竪堀
(2021年2月訪城)
 白山城は、鍋山砦とも呼ばれ、武田氏の支城である。創築は甲斐源氏武田氏の初代信義によるとされ、武田庄に築いた居館に対する要害城(詰城)として築いたと伝えられる。信義が失意の中で没し、孫の信長が伯父一条忠頼(信義の嫡男)の跡を継ぐと、信義の遺領は一条氏が相続した。信長から2代後の時信の諸子は分立して武川衆という地域武士団となって蟠踞した。その中で十郎時光が青木氏を名乗った。青木氏8代信種は、武田信縄・信虎・信玄3代に仕え、鍋山砦(白山城)を守って1541年に没したと言う。青木氏から庶流の山寺氏が分出して鍋山を領有すると、鍋山砦は山寺氏が守備することになった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に天正壬午の乱が生起すると、武川衆は徳川方に付いて活躍しており、山寺氏も徳川氏に臣従しているので、白山城も徳川方の防衛網の一部として機能したと推測されている。

 白山城は、標高561.1mの鍋山(城山)に築かれている。城は国指定史跡となっているので、南東麓の白山神社脇から登道が整備され、城内も薮払いされているので、遺構をよく確認することができる。ほぼ四角形をした主郭を中心に、北と東に腰曲輪を廻らし、南に二ノ郭、北の腰曲輪の先に堀切を穿って、土橋で連結した台形状の三ノ郭を配置している。主郭・二ノ郭・三ノ郭はいずれも枡形虎口を備え、特に主郭と三ノ郭では内枡形が明瞭である。主郭は全周を土塁で囲み、主郭の北側の腰曲輪にも土塁を築いている。二ノ郭は、東西で2段の平場に分かれ、下段郭は土塁を廻らし、上段郭は主郭との間に横堀を穿ち、横堀西端部を土橋で連結している。三ノ郭の北側と二ノ郭の西の尾根にも堀切が穿たれ、守りを固めている。西尾根には合計2本の堀切があるが、内堀は堀底が平坦で曲輪となっている。この城で出色なのは、武田氏の山城によく見られる放射状竪堀で、やや小さく浅いものの形はよく残っており、前述の堀切と組み合わせて効果的に山腹の敵兵移動を遮断していることがわかる。南東の大手道では、2本の竪堀で挟まれた扇形の斜面に土塁と横堀で木戸口を防御し、また北の搦手では、三ノ郭に向かって右は土塁、左は竪堀群で障壁を作っている。また三ノ郭の両翼には横堀を穿ち、枡形虎口と組み合わせて巧妙な防御を施している。白山城は、小規模な城ながら、戦国後期の武田流の築城技術が遺憾なく投入されており、出色の城である。
 尚、白山城の南北には北砦(北烽火台)南砦(ムク台烽火台)が残っており、白山城と共に国指定史跡になっている。
三ノ郭の内枡形→DSCN4018.JPG
DSCN4094.JPG←二ノ郭虎口~主郭虎口の導線
二ノ郭上段郭の横堀・土橋→DSCN4155.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.700828/138.422016/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


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古渡城山(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3938.JPG←堀切跡の窪地
(2021年2月訪城)
 古渡城山は、古渡城山の烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。『甲斐国志』によれば陣鐘を懸けて東は谷村へ、また西は吉田・船津へ急を告げたとされる。

 古渡城山は、鹿留川曲流部に突き出た標高583mの独立丘に築かれている。主郭に住吉神社があるので参道が整備されており、登城はたやすい。L字型の丘陵上に築かれており、北の先端部に主郭、その南に二ノ郭、東に突き出た尾根先端に三ノ郭が築かれている。主郭の西辺には土塁が残り、主郭の先の尾根にも数個の小郭があり、主郭の付け根にわずかな堀切跡の窪地が見られる。二ノ郭にも先端部近くの両側に土塁が築かれ、二ノ郭南側に段状に腰曲輪群があり、東斜面にも明確な腰曲輪群が見られる。二ノ郭から三ノ郭に至る途中の尾根も段々になっていて、三ノ郭の周囲にも腰曲輪が確認できる。私はこれらの腰曲輪群は遺構と考えているが、『甲斐の山城と館』によれば「全山耕作されているのではっきりしない点が残される」としており、畑地跡である可能性もある様だ。いずれにしても比較的小規模な城であるが、谷村と富士吉田方面を繋ぐ中継地点として重要な役目を負っていたことがうかがわれる。
二ノ郭東側の腰曲輪群→DSCN3916.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.534173/138.877133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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勝山城(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3857.JPG←本丸北斜面の石垣
(2021年2月訪城)
 勝山城は、平地の谷村城に対する詰城である。築城時期は不明で、『甲斐国志』では1594年に浅野長政の家老浅野左衛門氏重が築いたとしているが、近年では1532年に小山田越中守信有が歴代の居館中津森館から谷村城を築いて移った際に、勝山城も築城されたのではないかと推測されている。いずれにしても越中守信有以降、小山田氏は出羽守信有・出羽守信茂と3代に渡り谷村を拠点として郡内の支配に当たった。1582年の武田氏滅亡の際、信茂は武田勝頼を裏切って織田信長に出仕したが、処刑されて小山田氏は滅亡した。信長横死後に生起した天正壬午の乱では、小田原北条氏が郡内地方を制圧したが、徳川氏との間で和睦が成立すると、徳川氏の重臣鳥居元忠が谷村城に入城して郡内を支配した。1590年の北条氏滅亡後、徳川氏が関東に移封となると、郡内は羽柴秀勝の領地となり、その家臣三輪近家が、次いで加藤光吉・浅野氏重が相次いで谷村城に入った。その後、鳥居成次・本堂茂親の後、1633年に秋元泰朝が上州総社城から谷村城に移封となった。勝山城は谷村城と桂川に架かる内橋で連絡され、両城一体となって機能していたらしい。秋元氏支配時代には、宇治から江戸に運ばれる将軍家御用のお茶壺を保管する茶壺蔵が勝山城内に置かれた。秋元氏が3代続いた後、1704年に秋元喬知が川越城に移封となると、谷村城と共に勝山城も廃城となり、天領(幕府直轄地)となって谷村代官が置かれ、谷村陣屋が造営されて幕末まで続いた。

 勝山城は、標高571.3m、比高120m程の城山に築かれている。現在は公園となって整備されている。山頂の本丸には櫓台が築かれ、東照宮が建てられている。本丸の南側に腰曲輪状に二の丸・三の丸が築かれている。二の丸は本丸の西側まで帯曲輪となって廻らされ、三の丸も東側まで帯曲輪となって続いている。また北・東・南の三方の尾根には舌状曲輪群が配置され、各尾根の先端には大沢見張り台・源生見張り台・川棚見張り台が置かれた。勝山城には堀切が少なく、北尾根にのみ堀切が穿たれている。一方で、西から南西の山腹に横堀が延々と穿たれ、南端では竪堀となって南尾根側方を落ちており、この方面の防御を重視していたことがわかる。この他、本丸の北斜面の城道脇に石垣が築かれ、北尾根の曲輪群の城道にも石列、また二の丸から本丸への登り道にも小さな石垣が構築されている。本城部から離れた南西麓には竪堀・竪土塁があり、南の平地には外堀跡が低地となって残っている。この外堀は西側まで続いていたらしいが、現在は中央道が建設されているため破壊されている。
 以上が勝山城の遺構で、現在残る縄張りや遺構を見る限り、武田氏時代の城というより、豊臣時代の近世的山城の側面が強い様に感じた。しかし武田・北条間で軍事的緊張の強かった時期に、小山田氏が平城の谷村城しか築いていなかったとは考えにくく、横堀などはその時代の名残かもしれない。
三の丸と南の郭群→DSCN3654.JPG
DSCN3731.JPG←北尾根曲輪群の石列
西側山腹の横堀→DSCN3792.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.554426/138.903998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

甲信越の名城を歩く 山梨編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


タグ:近世山城
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与縄館(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3581.JPG←主郭西の空堀
(2021年2月訪城)
 与縄館は、歴史不詳の城館である。伝承では谷内(口)豊後守という武士の居館であったと言うが、その事績は不明である。郡内の領主小山田氏の本拠中津森館に近いことから、小山田氏に関連する城館との見方もある。

 与縄館は、旭川南岸の段丘上に築かれている。段丘崖に沿って東西に3つの曲輪が並んでおり、中央に方形の主郭があり、空堀を挟んで西に西郭、同じく空堀を挟んで東に東郭が並立している。主郭は前述の通り東西を空堀で分断されており、現在は畑となっている。北側には2段ほどの腰曲輪が築かれている。西の空堀は幅が広い箱堀で、北斜面では中央に土塁を残した二重竪堀となって落ちている。東の空堀は薮がひどく形状が確認できない。西郭は耕作放棄地で薮に覆われている。東郭は木が生えた空き地で、北の腰曲輪らしい平場は宅地になっている。西郭の西側と東郭の東側は、共に深い沢で隔絶されている。これらの遺構群の後ろ(南側)には防御構造がなく、そのまま緩斜面に接している。与縄館は、遺構は残っているが、後世の改変のせいもあるのか縄張りは少々中途半端である。
主郭東の空堀→DSCN3571.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.560099/138.940905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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カセット・ウォークマン WM-EX2の修理と復活 [日記]

DSCN2574.JPG
うちには古~いカセット・ウォークマン WM-EX2が捨てられずに残っている。
さっきネットで調べてみたら、1996年発売の製品らしい。

去年の年末大掃除の際に、ちょっと思いついて動くかどうか試してみたら、
ちょっとだけモーターが動く音がした後、すぐに止まってしまう。
たぶん内部のゴムベルトが切れてるんだろう。
山城ハイシーズンが終わって、梅雨時の天候不順で出歩けない季節になったら、
ネットで調べて直してみよう、とそのままお蔵入りにしていた。

先日、ようやく例年より遅い梅雨入りになって、先週末も天気が悪かったので、
巣ごもりということで、いよいよウォークマンの修理準備に取り掛かった。

ウォークマンの修理をネットで検索してみると、結構な数がヒットした。
モノ好きな人が多いんだな~、と自分のことを棚に上げて感心。

WM-EX2の裏蓋を外してみると、案の定ゴムベルトが切れていた。
ベルトの掛かり方と、プーリーの位置関係・配置寸法などを簡単にスケッチ。
その結果とネットの情報から、千石電商というその道では知られているらしいお店で
ゴムベルトを注文。

2日ほどですぐに届いたので、今夜修理に取り掛かった。
ケースの左右と底に全部で5本のビスがあり、それを外す。
そうすると裏蓋の下側が浮くので、ちょっとこじって開けると、
上側を止めているツメが外れて裏蓋が取れる。
DSCN2575.JPG

次に切れているベルトをピンセットを使って外す。
駆動プーリー(一番小さい右上のプーリー)の所だけ、
ベルトがぐじゃっと張り付いていたが、それ以外はきれいに取れた。
駆動プーリーだけ、エタノールと綿棒で清掃し、ゴムの残りを除去。

DSCN2577.JPG
次に新しいベルトに掛け替え。
使用したベルトは、φ70×0.95Tの角ベルト。

DSCN2578.JPG
その後、裏蓋を仮で閉めて、カセットを入れてテスト。
ベルトの径が元と違うので、スピード調整が必要だとネットの情報にあったが、
聴いた限り問題ないようだ。
各動作を確認したが、リバース、早送り、巻き戻し、すべて正常に作動。
ワウフラ(回転ムラによる音揺れ)もほとんど感じられない。
リモコンも正常に作動するし、表示も問題ない。

その後、裏蓋の固定ビスを締めて修理完了。
というわけで、わずか10分程度で修理が終わった。

DSCN2579.JPG
びっくりしたのは、古いガム型電池。
10年じゃきかないぐらい放置してあったので、
枯渇してとうに死んでいると思って、ダメ元で充電してみたが、
充電後5日経っても、テスターで電圧測ったらちゃんと生きている!
古い日本製品って、すごいもんだ。
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岩殿城(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3488.JPG←馬場曲輪と富士山
(2021年2月訪城)
 岩殿城は、甲斐東部を守る武田氏の重要な支城であり、岩櫃城久能山城と並ぶ武田三堅城の一に数えられる。元々岩殿山には9世紀の末に、天台宗の岩殿山円通寺が開創されたと伝えられる。10世紀初めには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道場として栄えた。16世紀に入ると武田信虎が甲斐を統一し戦国大名化していく中で、相模の北条氏に対する防衛と、独立性の強かった小山田氏に対する目付的な任務を帯びて、武田氏直轄の重要な支城として岩殿山が城砦化されたと考えられている。1581年には武田勝頼の命で、荻原豊前守の寄子・同心が岩殿城の在番と普請を命ぜられている。1582年、織田信長による武田征伐が開始されると、武田氏の勢力は各地で総崩れとなり、諏訪上原城から新府城に撤退した武田勝頼は、小山田信茂の進言を容れて岩殿城を目指して退去した。しかし勝頼一行が笹子峠まで来たところで、信茂は勝頼を裏切って道を塞ぎ、進退窮まった勝頼は天目山で自刃し、甲斐源氏の名門武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後の武田遺領は信長の支配下に入ったが、勝頼滅亡のわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、甲斐・信濃を支配していた織田氏の勢力は瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発した。この時、北条氏は津久井城主内藤綱秀を甲斐国都留郡に派遣し、岩殿城を接収して守備させた。天正壬午の乱は、北条・徳川両勢力が長期対陣の末に徳川方の優勢下で和睦した。甲斐を手中に収めた徳川家康は、鳥居元忠に都留郡を与え、元忠は最初岩殿城に入り、後に谷村城に移った。以後、岩殿城は歴史に現れなくなり、江戸時代初期には廃城になったと見られる。

 岩殿城は、中央高速のすぐ北側にそびえる標高634mの峻険な岩殿山に築かれている。一枚岩の大きな岩盤(鏡岩)がむき出しになった目立つ山で、その上に城が築かれている。散策路が何本か整備されているが、近年の崩落などで南中腹の丸山公園からのルートは通行禁止になっているので、北側の畑倉登山口から登城した。このルートは城の搦手だったらしく、物見台のある馬蹄形曲輪と、途中の尾根にも段曲輪数段が見られる。このルートを登り切ると山頂の主郭に至る。主郭は東西に細長い曲輪で、西側に烽火台とされる土壇があり、中心部にはテレビの電波塔が建てられている。主郭の東端には堀切2本と小郭がある。城内では堀切はここにしかないが、城の周りが絶壁で囲まれているので、堀切を必要としなかったのだろう。主郭から西に降っていくと、蔵屋敷(二ノ郭?)などの曲輪を経由し、城内で最も広い馬場曲輪に至る。馬場曲輪から上の蔵屋敷に通じる虎口は小規模な枡形を形成している。馬場曲輪は、広いが郭内に起伏があり、あまり大きな建物はなかっただろう。馬場曲輪から南東に降ると亀ヶ池・馬洗池という井戸がある。円通寺時代から使われた水の手だったのだろう。馬場曲輪の西は高台となっており、そそらく往時の櫓台で、乃木希典の石碑が建っている。更にそこから西には細尾根上の小郭と帯曲輪があり、その先に西の物見台とされる曲輪がある。その南に大岩で囲まれた細い通路の揚城戸と番所の小平場がある。この他、南中腹の丸山公園の部分も大手の曲輪だった様である。以上が岩殿城の遺構で、縄張りにはあまり技巧性はなく、山自体の持つ峻険さだけが武器の城だった様である。
主郭東側の堀切→DSCN3459.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.621678/138.949875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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雷電山砦(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3381.JPG←虎口の石垣
(2021年2月訪城)
 雷電山砦は、金山城主由良氏が築いた砦と考えられている。藪塚温泉から籾山峠に至る途中の標高190mの雷電山に築かれている。南西の県道脇から登山道があり、それを登っていくと砦に至る。砦の名の通り小規模な城砦で、山頂部には土壇と腰曲輪状の平場がいくつか見られ、四阿や雷電山の標柱がある。この砦では、南山腹を廻る横堀があり、虎口には石垣が残っている。しかし横堀はほとんど腰曲輪の様に見え、虎口の石垣も小さい。虎口の上を山頂まで登る道の脇には竪土塁・竪堀があるが、竪堀はほとんどわからない程度のものである。この他、県道脇の登り口近くに井戸があるとされるが、私が確認した限りでは石切場の跡らしく、遺構とは思えなかった。
 尚、砦には車道脇から登れるのだが、登り口近くには車を駐車できるスペースがない。しかも車の往来が結構激しい山道なので、路肩に車を停めておくのも困難である。そのため少々行きづらい位置にある砦である。
砦の頂部の平場→DSCN3399.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364308/139.327401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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矢田代官所(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3368.JPG←北辺の空堀と土塁
(2021年2月訪城)
 矢田代官所は、矢田陣屋の北にほぼ隣接する様に築かれた代官所である。吉井藩鷹司松平家の代官である小林氏が居住したと言う。

 矢田代官所は、矢田陣屋と同様、矢田川とその支流に挟まれた台地の東縁部に築かれている。内部は民家となっているので入ることはできないが、南側に土塁が残り、その西端部には枡形状の通路の屈曲が見られる。また北側の林の中には土塁と空堀が残っている。普通は陣屋跡をそのまま代官所にすることが多いはずなので、陣屋と代官所が別に置かれた稀有な例である。矢田陣屋があった時代に、鷹司松平家の家臣となっていた小林氏が陣屋のすぐ北に屋敷を構え、陣屋が吉井に移って代官に就任してからも自分の屋敷をそのまま代官所としたために、この様な形となったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.250581/138.996481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


国別 城郭・陣屋・要害・台場事典

国別 城郭・陣屋・要害・台場事典

  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2021/06/13
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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矢田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3344.JPG←西側の空堀と土塁
(2021年2月訪城)
 矢田城は、近世には矢田陣屋と呼ばれ、この地の土豪小林氏が中世に築いた城館である。江戸時代前期以降には、京都五摂家の一、鷹司家の出である松平信平を祖とする鷹司松平家の陣屋となった。その経緯は吉井陣屋の項に記載する。1752年、松平信友が藩主の時に吉井に陣屋を移した。尚、すぐ北に隣接するように矢田代官所が置かれている。

 矢田城は、矢田川とその支流に挟まれた台地の東縁部に築かれている。方形単郭居館であったと思われ、西辺と北辺に立派な土塁と空堀が残っている。郭内は民家になっているので、外回りから眺めるしかできないが、すぐ西を通る車道からでも、よくその遺構を見ることができる。一部ではあるが、史跡指定されていないのが不思議なほど、遺構がよく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.249110/138.996030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館 陣屋
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黒川城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3291.JPG←大土塁
(2021年2月訪城)
 黒川城は、鎌倉初期の武士渋谷次郎高重の居城と伝えられる。渋谷高重の事績は早川城の項に記載する。黒川郷を源頼朝から賜ったことが、頼朝の側近で上野国奉行人であった安達盛長から伝達されたと言う。但し渋谷氏は相模国を本領とする御家人なので、黒川郷を与えられて所領としていたとしても、高重自身は本領に留まり、黒川郷には一族家臣を代官として派遣して支配していたものと思う。

 黒川城は、比高30m程の丘陵先端部に築かれている。不動尊の裏山で、不動尊脇から登道が付いており、案内板も設置されている。ほぼ単郭の城で、後部に削り残しの土塁があり、主郭の外周は一段低く横堀か腰曲輪が廻らされている。しかし土塁は形が改変されている模様で、『日本城郭大系』にも「近年破壊された」とあるので、元の形状から削られてしまっている様である。また外周の横堀・腰曲輪も、南辺の横堀ははっきりしてるが北辺の腰曲輪・横堀は東麓からの登道になっていて、改変の可能性が強く、元の形状は不明である。土塁の後ろには平坦な台地が広がっているが、普通なら土塁背後に堀切がありそうなのにここでは堀切の痕跡も確認できない。遺構を見る限り、所領統治の陣屋的な城だったように思う。
主郭南側の横堀→DSCN3297.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264492/138.865932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

  • 作者: 元木 泰雄
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/01/18
  • メディア: 新書


タグ:中世平山城
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尻高城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3226.JPG←堀切と主郭
(2021年2月訪城)
 尻高城は、長尾尻高氏の居城である。平時の居館としての里城・並木城に対して、山上の詰城に当たる。1401年に白井城主長尾重国(景春)の家臣が築城し、2年後に完成すると、重国の3男重儀が城主となり尻高左馬頭を称した。尻高氏の事績については、並木城の項に記載する。

 尻高城は、赤狩川西岸の標高700mの「ゆうげい(要害の転訛)」と呼ばれる山上に築かれている。並木城の北東1.5kmの位置に当たる。南麓の小屋集落の最上段から山道が付いている。最初は幅広の尾根で、地形図の標高610m地点まで来ると、大手郭群の堡塁に至る。大手郭は前面に堀切があり、その上に腰曲輪を伴った数段の平場で構成された堡塁があり、最上段は櫓台の様な形状で、背後は切岸で区画されている。この堡塁の南西の支尾根にも段状に曲輪群が構築されているが、その先は自然地形となっていてどこまで曲輪としていたのかはよくわからない。大手郭群の先は急斜面の細い尾根道となり、これを高さ60m程登ると、山上の主城部に至る。主城部は、T字型の細尾根上に築かれている。最初に現れる南尾根は、先端に2段ほどの段曲輪を置き、その先はほとんど自然地形の細尾根となっている。その先に段差があって主郭に至る。主郭の西に降る尾根には、堀切2本と二重堀切が散発的に穿たれ、その西の峰に物見の小郭、更に西に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この小堀切の内側には横長の石が間隔を空けて2つ並べられており、門跡の礎石であった可能性がある。また他の堀切には石積みも確認できる。一方、主郭の東には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭には全部で5基の石祠が間隔を空けて置かれている。二ノ郭の先端は1段の腰曲輪があり、その先は急峻な細尾根となっている。また二ノ郭の南斜面には2段の帯曲輪が築かれている。以上が尻高城の遺構で、ネット上で見つけた『群馬の古城』の縄張図はちょっと不正確で、西尾根の遺構は縄張図に載っていない。堀切としてはこちらの方が深くしっかり穿たれている。いずれにしても大した兵数を置くことはできず、冬期の籠城も困難で、あくまで有事の際にだけ使用された城であることがうかがわれる。
大手郭群の段状曲輪→DSCN3123.JPG
DSCN3201.JPG←西尾根の門跡?の石
堀切沿いの石積み→DSCN3210.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.630726/138.906873/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

太田道灌と長尾景春 (中世武士選書43)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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岩下城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2974.JPG←大堀切、奥は主郭
(2021年2月訪城)
 岩下城は、岩櫃城の支城である。岩櫃城を居城とした斎藤氏は、一時期庶家の大野氏に実権と城を奪われ、その配下となって岩下城を居城とした。その後大永年間(1521~28年)に、斎藤憲次が大野氏を滅ぼして岩櫃城を再び居城とすると、家臣の富沢但馬守基光を岩下城に入れて守らせた。憲次の子憲広の時、岩櫃城は武田氏の家臣真田幸隆に攻略されて没落したが、岩下城主の富沢但馬守行連は、甥の弥三郎・海野長門守等と共に岩櫃落城前に武田氏に内通し、所領を安堵された。その後富沢氏は、吾妻郡を領した真田氏に属して岩下城を守備した。行連の子勘十郎は、1575年の長篠合戦で討死したと言う。

 岩下城は、吾妻川北岸の標高545m、比高115mの山上に築かれている。吾妻川を挟んだ対岸には三島根古屋城がある。岩下城の東下まで山道が伸びているのでそこを車で上り、北の峠の部分から西の尾根に取り付けば、簡単に城に到達できる。T字型の尾根に沿って曲輪を連ねた城で、西尾根に大堀切を穿って城域を二分した一城別郭の縄張りとなっている。前述の山道から尾根を南に登っていくと、最初に浅い堀切が現れ、その先に中規模の堀切2本と小郭があり、その先に三ノ郭がある。三ノ郭は三角形に近い形状の曲輪で、西に一段低く腰曲輪を置き、東・南斜面に帯曲輪1段、また南尾根には舌状曲輪を配置し、先端部に段曲輪群を築いている。この段曲輪群の段数は、『日本城郭大系』『境目の山城と館』の縄張図に描かれているよりも多く、段曲輪中にはわずかに石積みの跡が見られる。これらの東の遺構群の西側に、前述の通り深さ10m程にも及ぶ大堀切がある。この堀切は北側に竪堀となって長く落ち、西側には竪土塁が築かれている。この竪堀に沿って、東西に腰曲輪群が築かれている。大堀切の西側にそびえるのが主郭で、後部に土塁を築いた小さな曲輪である。主郭の西に一段低く二ノ郭があり、神社が祀られている。主郭・二ノ郭の北斜面から西尾根にかけて大きな腰曲輪が築かれ、更にその下方にも腰曲輪群が築かれている。以上が岩下城の遺構で、城自体はそれほど大きなものではないが、堀切が大きく、特に城域を二分する堀切は圧巻の大きさである。北尾根から近づいて行くと、段々と堀切が巨大になっていくので、城の守りの堅さを実感できる。
北尾根の2本目の堀切→DSCN2901.JPG
DSCN2938.JPG←段曲輪群に残る石積み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559817/138.771969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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三島根小屋城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2813.JPG←登り途中の二重堀切の内堀
(2021年2月訪城)
 三島根小屋城は、天文弘治の頃(1532~58年)に手子丸城主大戸浦野氏の家臣江見山城守の居城であったと伝えられる。江見氏は、浦野氏と共に岩櫃城主斎藤憲広と戦ったが敗れ、信濃へ落ち延びたと言う。その後、浦野下野守が三島根小屋城に入ったとされる。尚、吾妻川の対岸には斎藤氏の支城岩下城があり、三島根小屋城と対峙している。

 三島根小屋城は、吾妻川南岸の標高675m,比高240m程の斥候山(城山)に築かれている。城域は、山麓台地上の鉄塚と呼ばれる麓城と斥候山の山城部分に分かれている。
 鉄塚部は、諏訪神社背後の比高50m程の平坦な台地上にあったが、近年の上信道建設で東側半分ほどが破壊されてしまっている。しかし西半分は残っており、畑となった平場の北側に大きな方形の土壇があり、櫓台であったらしい。台地上の平場の南斜面には、腰曲輪らしい平場が一段あり、また台地の西側の斥候山に登る手前には、数段の平場群と堀状通路が見られる。但しこの辺りは林業などで改変されている可能性もあるので、全てが城の遺構かどうかは判然としない。
 山城部は、山頂までの長い尾根に段曲輪が散発的に配置している。砂礫部の多い急傾斜の尾根で、城道は一部を残してほとんど消滅しているため、ほとんど尾根直登となる。段曲輪群には、ほとんど技巧的なところは見られず、単に曲輪をポツポツと並べただけで、戦国期の城と言うより南北朝期の古い形態の城の様に思える。途中に石積みらしいものも見られるが、構築意図は不明である。段曲輪群の途中には2ヶ所に堀切が穿たれ、下方のものは二重堀切となっている。山頂の主郭は狭小な曲輪で祠が祀られており、前後と右側に腰曲輪が付随している。背後の尾根にも段曲輪群と堀切が2ヶ所に構築されている。尾根鞍部の堀切は二重堀切となっているが、かなり浅く痕跡的になってしまっている。
 以上が三島根小屋城の遺構で、曲輪の数こそ多いものの山城部はあくまで有事の際の詰城の位置付けで、技工性も見られない。久々の登城比高200mオーバーの山城だったが、遺構がどれも小規模であまり苦労が報われなかった。
鉄塚部の平場→DSCN2771.JPG
DSCN2789.JPG←謎の石積みと段曲輪群
背後尾根の堀切→DSCN2852.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554766/138.757313/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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羽田城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2621.JPG←主郭背後の大堀切
(2021年2月訪城)
 羽田城は、箕輪城主長野氏の一族羽田氏の居城である。1562年、武田信玄は羽田彦太郎を逐って、その跡を手小丸城主浦野重成に与えたと言う。また永禄年間(1558~70年)頃に羽田長門守康文が城主であったとの伝承もある。彦太郎は康文の子である可能性があるが、正確な関係は不明である。

 羽田城は、今川北岸の比高80m程の丘陵南端部に築かれている。平坦な丘陵上ではなく、丘陵の南斜面に築かれているため、城内は予想外に高低差が大きい縄張りとなっている。南西に大きく張り出したひしゃげた五角形状をした主郭と、堀切を介して北に配置された長方形の北郭から構成されている。主郭は内部が階段状に3段に区画され、最上段は更に東西にわずかな段差で区切られている。主郭の南中央には平虎口があり、その左側で塁線が張り出して横矢を掛けている。主郭の東西には横堀が穿たれ、背後の堀切と繋がっている。この横堀からは、西側で2本の竪堀が落ちている。また東側の横堀も、南端で直角に曲がって竪堀となって落ちている。この堀の直角部から上の腰曲輪に向かっても堀状通路が伸び、虎口を形成していたものと見られる。西の横堀の南端部にも虎口らしい部分があるが、この辺りは薮がひどくて形状がわかりにくい。北郭は、背後にも堀切が穿たれ、前後を堀切で分断されている。いずれの堀切も規模が大きく一直線に穿たれている。この他、主郭の南東部にも平場があり、ここも一郭であったと思われる。南東端に愛宕山大権現と刻まれた小さな石祠が立っている。以上が羽田城の遺構で、堀切が大きく、外周の横堀から落ちる竪堀を駆使した城であるが、一方で横矢掛りは少ない特徴がある。
主郭西側の横堀→DSCN2659.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.528873/138.744439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本



タグ:中世平山城
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大戸平城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2552.JPG←平場群の上にある二ノ郭
(2021年2月訪城)
 大戸平城は、歴史不詳の城である。戦国時代に大戸の領主であった手子丸城主浦野氏に関連する城と推測されている。一説には、厳冬期には居城が困難な山城の手子丸城に対する冬館とする見解もある。

 大戸平城は、大戸宿の南西にある比高30m程の丘陵上に築かれている。現在、城の二ノ郭・三ノ郭が公園として整備されている。北東麓から案内板に従って登っていくと、段々になった平場群を抜けて三ノ郭に至る。三ノ郭は半月形の曲輪で、その北東側に2段ほどの腰曲輪が広がっている。三ノ郭の後ろに2m程の段差で区画された二ノ郭がある。二ノ郭は城内で最も広い曲輪で、現在は木製の展望台が建っている。二ノ郭の奥には、2m程の段差で区画された主郭がある。主郭内は未整備で薮に覆われている。主郭・二ノ郭の東西には一段低く腰曲輪が置かれている。主郭背後には堀切が穿たれているが、形状は箱堀で、これは前述の東西の腰曲輪を繋ぐ通路としての機能を持っている。堀切の南には南郭があるが、現在は墓地と空き地となっている。墓地の部分は一段高くなっており、櫓台があったと考えられる。この櫓台からは前述の西側の腰曲輪に対して横矢が掛かる様になっている。以上が大戸平城の遺構で、特筆するような特徴はないが、予想外に整備されていたのが嬉しい。
主郭背後の堀切→DSCN2520.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.509662/138.772634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2013/01/15
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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仙人窟陣城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2438.JPG←仙人窟
(2021年2月訪城)
 仙人窟陣城は、手子丸城をめぐる攻防の際に真田信幸の軍勢が陣を置いた場所と伝えられる。1582年に小田原北条氏に奪われていた手子丸城を奪還するため、1586年、真田信幸は500騎を率いて北条氏邦・芳賀伯耆守綱可の2千騎と戦った際、仙人窟に伏兵を置き、大返しに返して大勝し、手子丸城を奪還したと伝えられる。しかし、手子丸城はその後も北条氏が保持していたらしく、真田方による奪還が実際にあったのかは不明である。

 仙人窟陣城は、史跡となっている仙人窟にある。陣城と言うが、あるのは仙人窟の遺構だけで、窟の前の平場をそのまま伏兵の待機場所として使用したのだろう。しかし、すぐ眼前には手子丸城がそびえているので、手子丸城からは丸見えで、伏兵を置くにしてももっと城から見えにくい場所に置くのではないかと少々疑問に思う。実際に真田方による手子丸城奪還戦があったのかも確実ではなく、城よりも仙人窟詣でとして行った方がよいだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518078/138.777698/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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手子丸城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN2212.JPG←主城部の腰曲輪群
(2021年2月訪城)
 手子丸城は、大戸城とも呼ばれ、元は大戸浦野氏の城であったものを小田原北条氏が改修したと推測される大規模山城である。浦野氏は滋野氏の一族で鎌倉中期に信濃からこの地へ移り、浦戸氏あるいは大戸氏を称した。手子丸城の築城時期は不明であるが、1513年に箕輪城主長野憲業が榛名山神社に捧げた祈願文に「大戸要害」とあり、この時期に手子丸城があったことが確認できる。1561年、浦野中務少輔重成は武田信玄に従い、信玄は箕輪長野氏の一族羽田彦太郎を逐って、その跡を重成に与えた。1563年、武田氏に抗して岩櫃城主斎藤憲広は手子丸城に押し寄せたが、重成は武田の加勢と共にこれを撃退し、翌年には岩櫃城は落城して斎藤氏は没落した。以後、浦野氏は吾妻を領有した武田氏家臣の真田氏に属した。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、元武田領国の支配権を狙って北条氏直の侵攻が始まった。神流川合戦で織田氏部将の滝川一益を駆逐した北条氏は上野全域の支配を目指し、吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まった。真田方であった手子丸城主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で手子丸城まで退き、そこで激戦の末討死した。以後、手子丸城は北条氏の支配するところとなり、吾妻作戦の前線拠点となった。一説には1586年の一時期、真田信幸が500騎を率いて奪還したとも言われるが、詳細は不明。その後も北条氏の前線拠点であり、1587年頃には城は改修強化され、上野方面を管轄した鉢形城主北条氏邦は重臣斎藤摂津守定盛を城代として置き、周辺地域支配を管轄させた。1589年、北条勢は手子丸城に集結して岩櫃城を衝く気配を見せたが、豊臣秀吉の北条氏討伐(小田原の役)が決定されたため、北条勢は撤退した。

 手子丸城は、温川と見城川の合流点東側にそびえる、標高649m、比高170m程の山上に築かれている。北麓まで伸びる支尾根が大手で、登道が付いている。東西500m以上に及ぶ主尾根に曲輪群を配置し、それぞれの峰から北に伸びる支尾根に更に曲輪群と堀切を配置した広大な城である。東西に伸びる主尾根中央の堀切を境に、西が主城部、東が外郭部と分かれている。
 主城部は、山頂に主郭とその東に副郭を置き、そこから北斜面に幾重にも腰曲輪群を築いている。この腰曲輪群は、主郭北側のものと副郭北側のものに中央の尾根で区画されている。主郭北側のものは曲輪がより大きく、下方で2つの支尾根に分かれて段曲輪が連ねられている。それぞれ先端近くに堀切が穿たれている。主城部の東から長く北に伸びる支尾根が大手で、大小3本の堀切と物見台状の曲輪や腰曲輪が配置されている。大手尾根をずーっと降った先にはやや広い平場が広がり、櫓台の様な土壇も見られ、大手の登り口を監視する出丸だった様である。
 一方、外郭部は、合計5つの峰があり、それぞれ頂部に曲輪が置かれ、周囲に腰曲輪群や堀切、竪堀が構築されている。間にある土橋を境に、西を中城、東を東出城とここでは便宜上呼称する。中城は、鉄塔のある曲輪から堀切を挟んで西に物見台の峰があり、その北尾根には『日本城郭大系』や『境目の山城と館 上野編』の縄張図にない堀切が2本穿たれている。東出城では東端に近い部分にも主尾根の北斜面に3段の腰曲輪群が連ねられている。東端の物見台の東側に城域東端の二重堀切が穿たれ、物見台の裏には横堀が築かれ、その西端は直角に曲がって竪堀となって落ちている。この辺りの防御構造は長野原城によく似ている。
 手子丸城は、覚悟はしていたが予想に違わぬ広大な城で、多段式腰曲輪群が多数かつ広い。一つ一つの曲輪はそれほど大きくはないが、全体ではかなりの数となり、一体どれほどの兵を置いていたのかと思う。城の形態としては、主城部は長野原城に、長い主尾根を主軸に多数の支尾根に曲輪群を配置した構造は松井田城によく似ている。また横堀から落ちる竪堀の雰囲気は岩櫃城のものに似ている印象もある。真田氏と北条氏双方による改修をうかがわせる城である。
大手尾根の堀切→DSCN2004.JPG
DSCN2225.JPG←主城部と外郭部を区画する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.514853/138.780938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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山の固屋城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1938.JPG←竪堀と腰曲輪群
(2021年2月訪城)
 山の固屋城は、歴史不詳の城である。城は深沢川沿いの道の西側にあるが、この道は榛名湖畔まで通じており、往古は草津街道の脇道として重要な間道であったと思われる。おそらくこの間道を押さえる目的で築かれた城で、天正年間(1573~92年)の小田原北条氏の吾妻侵攻期に、真田氏によって築かれた城と推測されている。

 山の固屋城は、深沢川とその支流の合流点南側にそびえる、標高680m、比高90m程の山上に築かれている。主郭の北東斜面に高圧鉄塔が建っており、その保守道が北東麓から整備されているので、迷うことなく登ることができる。山頂の主郭は、南東から北西に向かって伸びた細長い曲輪で、主郭の北西側には腰曲輪群が築かれている。その最上段にある小郭は、竪土塁で主郭の北辺と繋がり、東側に虎口を築いている。やや特殊な形態の虎口郭と考えられる。その下の腰曲輪には、低土塁が築かれ西端から竪堀が落ちているもの、下段付近で竪堀・横堀がL字型に穿たれているもの、等が構築されている。この北西の腰曲輪群の北東側には竪堀が穿たれている。この竪堀は、最上部でV字に繋がった2本の竪堀のうちの一つで、V字の頂点部分の脇には前述の虎口郭に入る虎口が作られている。竪堀から北に伸びる尾根には、2本の堀切を挟んで小郭群が続き、先端に物見台が築かれている。また主郭の背後には2段の段曲輪が築かれ、その下に南尾根を区画する堀切がある。北東の尾根には二ノ郭が置かれ、二ノ郭の先端部外周には2段の帯曲輪が円弧状に廻らされている。前述の鉄塔保守道は、この帯曲輪に繋がっている。
 以上が山の固屋城の構造で、主郭の北西部だけが一点豪華主義の様にやや複雑な構造を有している。一方で、山自体は傾斜があまりきつくなく、要害性はさほど高くない。堀・土塁などの普請も規模は小さく、真田氏が北条氏に備えたにしては、ちょっと中途半端な印象である。地元の地衆が逃げ込み城として築いた可能性も考えられないだろうか?
主郭に繋がる虎口郭の竪土塁→DSCN1880.JPG
DSCN1933.JPG←北尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.527105/138.825785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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丸山城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1792.JPG←三ノ郭跡の畑
(2020年12月訪城)
 丸山城は、須賀尾上城とも言い、大戸城(手子丸城)主大戸真楽斎の家臣丸山勘解由・高橋丹後が守った城と伝えられる。1582年9月、北条勢によって大戸城と共に陥落したと言う。また一説には、鷹繋・丸山両城を合わせて須賀尾城とし、大戸へ進出した北条勢に対抗して、真田昌幸が須賀尾峠で阻止するため両城を強化したとも考えられている。

 丸山城は、須賀尾集落のほぼ西端の、国道406号線北側の丘陵上に築かれている。現在城跡はほとんどが畑、一部が民家の敷地となっている。これらの内、明確に曲輪の形状を残しているが三ノ郭で、方形の区画で北側に空堀を穿ち、それ以外の3面を切岸で区画している。三ノ郭の北側に二ノ郭・主郭があったとされ、これら2郭の間は空堀で区画されていたらしいが、現在は埋められてしまっている。主郭西端の最上段の平場には、現在給水施設が置かれている。そこから東に向かって段状に畑が続いている。三ノ郭の東側には、道路を挟んで四ノ郭があるが、改変されている可能性が高く、周りの切岸跡の段差以外に城跡を思わせるものはない。三ノ郭の南東には枡形虎口があったとされるが、それも現状ではよくわからなくなっている。主郭の背後から四ノ郭の東側にかけては、沢跡の水路が天然の外堀となっている。結局、三ノ郭だけは明瞭だが、それ以外は改変が多く、城の痕跡を思わせるものは少ない。
三ノ郭背後の堀切→DSCN1787.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.502427/138.685645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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丸岩城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1760.JPG←土塁で囲まれた主郭
(2020年12月訪城)
 丸岩城は、真田氏が北条勢に対抗して守りを固めた城である。『日本城郭大系』によれば、元は元亀年間(1570~73年)に羽根尾城主羽尾幸全入道の城であったと伝えられるが、羽尾氏の城であったことが事実ならば、それは1563年の武田氏による岩櫃城攻略以前のことであろう。1582年8月、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際、大戸方面から侵入する北条方の内藤大和守に備えて、真田昌幸が丸岩城に湯本・西窪・横谷・鎌原等の吾妻諸将を交代で駐屯させ、岩櫃城と信州上田方面間の要路を確保した。その後、1584年3月に上杉景勝が岩井備前守に宛てた書状に、信州高井郡の地侍須田信正・市川信房が羽尾源六郎を助けて長野原・丸岩両城を奪取したと記載されていると言う。また1589年8月には、真田氏配下の北衛門・西窪治部・同甚右衛門が守備した。即ち、戦国末期に真田氏が北条氏の侵攻に抵抗していた時期には、丸岩城は北条勢の進出を防ぐための最前線となっていた。

 丸岩城は、標高1124mの丸岩の山上に築かれている。丸岩は、三方が100m余りの絶壁となった見るからに峻険な山であるが、南だけが尾根続きになっており、須賀尾峠を通る国道406号線脇から登道が付いている。南の尾根暗部に小さい平場があり、大手の平場とされている。そこから北の斜面を登ると、城から南に伸びる大手の尾根に至る。ここには中央に土塁が走り、その両側に腰曲輪が築かれている。中央の土塁は風除け土塁とされているが、それほど高さがあるわけではないので、土橋と言う方が合っているように思う。この尾根を登りきると、山頂の主郭に至る。主郭は東西に細長い狭小な曲輪で、周囲に土塁が築かれ、南西に大手の尾根に通じる虎口が築かれている。主郭の東側には段差の先に細尾根上の曲輪が続き、北斜面には腰曲輪群が3段程築かれている。この腰曲輪の下は前述の絶壁であり、掴まれる木も多くないので、下手に降りたら滑落して死ぬかもしれない。この他、主郭の北西には段曲輪群が築かれている。以上が丸岩城の概要で、城自体は細尾根の小城砦であるが、草津路の要衝須賀尾峠を押さえると共に吾妻渓谷沿いを監視する物見の城だったと思われる。
北斜面の腰曲輪群→DSCN1737.JPG
DSCN1732.JPG←北西の段曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.528312/138.662449/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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西窪城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1653.JPG←物見台に挟まれた窪地状の主郭
(2020年12月訪城)
 西窪城は、信濃国滋野氏の庶流とされる西窪氏の居城である。西窪氏は、滋野源氏・海野氏の一族で、信州小県郡から幸盛の弟幸房が平安時代末期に三原庄下屋に来住して下屋氏を称した。幸房の3男伊弥平三郎が西窪に入部して西窪氏の祖となったと言う。西窪氏当主は代々、治部左衛門を称した。西窪氏は、一族の鎌原城主鎌原氏と共に関東管領兼上野守護の山内上杉顕定に属していたが、大永年間(1521~28年)頃に岩櫃城主斎藤憲次の幕下となった。やがて武田信玄が吾妻に侵攻すると、鎌原氏と共に武田氏に属した。武田氏滅亡後は真田氏に属し、そのまま沼田藩に仕えた。西窪氏は、1681年に沼田藩が改易となると、鎌原氏・湯本氏・横谷氏等と大笹関所番となった。

 西窪城は、鎌原城から吾妻川を隔てた対岸の丘陵上に築かれている。非常に変わった形態の城で、大きく東に向かって傾いた斜面全体を城域としている様である。斜面の下半分はひな壇状の平場群となっているが、現在は畑となっているので、どこまで往時の形を残しているのかよくわからない。斜面の北東端は小高い丘になっていて、ここが城の中心とされている。丘の西側は堀切となっている。丘の上に2つの物見台土塁に挟まれた窪地状の平場があり、主郭と推測されている。主郭の東側には大きく傾斜した斜面が広がり、その下に傾斜の緩くなった平場が広がっている。この裾の平場には中央にわずかに竪土塁が見られ、下方に虎口らしい部分もある。これらの城の中心部は、ほとんど居住性のない砦の様なもので、珍しい形をしている。ここから西側には起伏のある斜面が広がり、西にやや離れたところに大きな空堀が穿たれて、丘陵部を区画している。これは遠堀の様なもので、その上に物見台の土壇があるが、斜面全体が広すぎ、明確な普請のない場所もあることから、実際に城の曲輪として使われていたのかは不明である。結局、縄張りがうまく捉えられない、異型の城である。
西の空堀→DSCN1680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523346/138.538467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2013/01/15
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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鎌原城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1606.JPG←二ノ郭に残る堀切
(2020年12月訪城)
 鎌原城は、信濃国滋野氏の庶流とされる鎌原氏の居城である。鎌原氏は、滋野源氏・海野氏の一族で、平安時代末期より三原庄を支配した豪族下屋氏の後裔と伝えられる。三原庄を開拓した下屋将監幸房の子孫幸兼がこの地に入部し、鎌原氏を称したと言う。築城は1397年と伝えられる。関東管領兼上野守護の山内上杉憲政が北条氏康によって越後に逐われると、吾妻地域は岩櫃城主斎藤憲広の支配するところとなり、鎌原城主鎌原宮内少輔幸重も斎藤氏に従った。1560年、鎌原氏は同族の真田幸隆を介して武田信玄に通じ、武田氏の吾妻侵攻に当たってその尖兵として岩櫃城攻略に掛かった。対する斎藤氏も鎌原城を攻撃した。以後、1563年に岩櫃城が武田氏に攻略されるまで、鎌原城は武田氏の吾妻侵攻の拠点として重視され、上杉氏の後援を受けた斎藤氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられた。1562年には斎藤氏麾下の羽尾氏に鎌原城を奪われ、信濃へ退去したが、その後武田氏の支援を受けて鎌原城を奪還した。以後武田氏に仕え、1575年の長篠合戦で嫡男幸澄は討死した。武田氏滅亡後は真田氏に属し、そのまま沼田藩に仕えて家老などを務めた。1615年の元和一国一城令で鎌原城は破却された。鎌原氏は、1681年に沼田藩が改易となると、西窪氏・湯本氏・横谷氏等と大笹関所番となった。

 鎌原城は、吾妻川東岸の比高90m程の段丘上に築かれている。段丘西側は吾妻川に臨む垂直断崖で隔絶された要害の地である。先端が二股に分かれたY字状の段丘を利用しており、台地基部に広大な三ノ郭を置き、Y字の左の先に二ノ郭・主郭・笹曲輪を南から順に連ねている。三ノ郭・二ノ郭・主郭の西側には広大な腰曲輪が築かれている。またY字の右の先には谷状になった窪地に東曲輪を配置している。主郭・二ノ郭・三ノ郭の背後にはそれぞれ堀切が穿たれているが、耕地化で多くが埋められてしまっており、明確に残っているのは二ノ郭のものだけである。但し、わずかな段差が残るほか、崖縁に堀形が残っており、その位置を知ることができる。その位置からすると、三ノ郭だけは食違い虎口になっていたらしい。また主郭・二ノ郭の堀切は西の腰曲輪まで貫通して掘り切っている。主郭の先端には電波塔が建ち、その先に断崖に面した細尾根上の笹曲輪がある。笹曲輪は小郭でただの物見であろう。一方、東曲輪は谷の緩傾斜地となっているが、東西に突き出た高台で挟まれ、先端には一段高く物見台が築かれている。尚、城は主要部が公園化されていて、各所に標柱も建っているが、三ノ郭の標柱だけは実際の三ノ郭から少し南に離れた所に立っている。鎌原城は、それほど技巧的な縄張りではないが、城域が広く、吾妻川上流部を押さえる拠点城郭であったことが伺われる。
主郭→DSCN1538.JPG
DSCN1504.JPG←西腰曲輪を貫通する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.524467/138.544518/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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鷹川城(群馬県嬬恋村) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1453.JPG←城址の平場群
(2020年12月訪城)
 鷹川城は、鎌原城主鎌原氏の支城である。伝承では、1193年4月に源頼朝が三原野狩りを行った際に狩屋を設けた場所であると言われている。時代は降って1560年10月、岩櫃城主斎藤憲広が羽根尾城主羽尾入道に鎌原城を攻撃させた際、鎌原宮内は嫡子筑前守重澄を赤羽根の台に出陣させ、西窪佐渡守知昭を大将として今井・樋口を鷹川城に置いて戦ったと言う。

 鷹川城は、吾妻川曲流部に南から突き出た台地上に築かれている。この台地は下袋倉の集落から50mほど高く、上は城の平と呼ばれる広大な平坦地が広がっており、現在は一面の畑となっている。その北端部は高台となっていて、ここが城跡と伝えられている。諏訪神社が建てられており、3段程の平場が見られる。周囲は断崖となっている。鷹川城は先端だけが小高くなった異型の台地に築かれた城で、物見と烽火台として活用するには絶好の地であることがわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.545346/138.573958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史 (県史)

群馬県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2014/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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羽根尾城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1392.JPG←主郭から見た堀切と二ノ郭
(2020年12月訪城)
 羽根尾城は、信濃国滋野氏の庶流とされる羽尾幸全入道の居城である。羽尾幸全は、舎弟海野長門守幸光・能登守輝幸と共に、この城を根拠地として勢威を振るい、草津の湯本氏・嬬恋の西窪・鎌原両氏等と並んで吾妻を舞台に活躍した。1562年、岩櫃城の斎藤憲広を降した武田信玄は、長野原城に真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を入れて守らせたが、翌63年9月の長野原合戦では、海野兄弟は斎藤方の大将として長野原城を攻略した。信玄は直ちに兵を発して岩櫃城を攻略し、羽尾氏も真田幸隆に服属した。1565年に斎藤氏が滅亡すると、信玄は幸隆を吾妻郡代に任じ、幸隆は翌66年に戦功のあった海野兄弟を岩櫃城代とした。しかし1581年、真田昌幸は、海野兄弟に対する誤解から海野兄弟を急襲し、幸光は岩櫃城で自刃し、輝幸は迦葉山へ退いたが追手に敗れて自刃した。その後1583年、昌幸の命により羽根尾城には湯本三郎右衛門が在城したと言う。

 羽根尾城は、吾妻川北岸の標高758m、比高100m程の山上に築かれている。北の西吾妻福祉病院の裏手から車道が延びており、城のすぐ近くまで車で行くことができる。北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の縄張りとなっている。主郭の背後には堀切が穿たれ、その上に主郭がそびえている。主郭は長円形の小さな曲輪で、外周を土塁で防御しているが、冬場でも灌木の多い薮になっている。また主郭の東辺には鉄塔が建っていて、遺構が一部損壊を受けている。主郭の東側には腰曲輪が置かれている。主郭南東には虎口があり、主郭前面の堀切を越えて二ノ郭に通じている。二ノ郭は、中央に土塁を走らせた狭小な曲輪で、ほとんど兵の居場所がない。二ノ郭の南には傾斜地を挟んで三ノ郭があるが、ここも大した面積はない。この他、主郭・二ノ郭の西側には竪堀が1本ずつ落ちている。この他、羽根尾城の南西麓には、平坦な高台があり、羽尾氏の居館があったらしい。ここには現在海野幸光の墓が残っている。羽根尾城はその規模から考えて、あくまで有事の際の詰城の位置付けであったと考えられる。
主郭背後の堀切→DSCN1374.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553896/138.607539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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長野原城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1244.JPG←主郭群の段状の平場群
(2020年12月訪城)
 長野原城は、吾妻地方を手中にした武田氏の支城である。元々はこの地方の豪族羽尾氏の持ち城であったと伝えられる。1562年、岩櫃城の斎藤憲広を降した武田信玄は、長野原城に真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を入れて守らせたが、翌63年9月、憲広は俊綱を倒して城を奪い、羽尾・海野兄弟を入れた。信玄は直ちに兵を発して岩櫃城を攻略し、長野原などを湯本善大夫に与えた。善大夫は1575年の長篠合戦で重傷を負って死去し、甥の三郎右衛門が継いだ。三郎右衛門は真田氏に属し、後に同心衆31人を付され、合わせて630貫余を知行したと言う。

 長野原城は、吾妻川と白砂川に挟まれた東西に長い山稜上に築かれている。城の中心部は西の標高750mの峰にあり、そこから東の尾根伝いに秋葉山出丸・第2出丸・箱岩出丸・第4出丸・天狗岩物見台と連珠状に続いている。南麓から登道があり、瑠璃光薬師堂脇から登ると箱岩と言う巨岩の下を抜けて腰曲輪を経由し、秋葉山出丸と第2出丸の間の尾根上に至る。この道は途中、薬師堂から箱岩までの間が立入禁止となっているが、箱岩の下だけちょっと荒れている程度で、実際にはそんなに危険な状態ではない(但しこの道を使う時は、あくまで自己責任でお願いします)。
 東尾根にある各出丸には腰曲輪が付随し、普請の痕跡が見られる。特に秋葉山出丸には武者溜りの小郭があり、南支尾根の先にも舌状曲輪と腰曲輪群が築かれている。尚、東の天狗岩物見台まで行くには、箱岩出丸の先で岩の絶壁を降りる必要があるので、岩場の登り降りに自信のない人は、箱岩出丸から先は止めた方が良い。
 秋葉山出丸の西尾根を登っていくと主城部で、主郭群最上段の櫓台に至る。この櫓台は、削り残しの尾根がそのまま西に伸びていて、主郭背後を防衛する高土塁を形成している。主郭群は、北西斜面に広大な曲輪群を段状に3段築いている。上段の主郭西には枡形虎口が構築されていて、下の曲輪に通じている。主郭群の西側には、長い竪堀を挟んで二ノ郭群が築かれている。この竪堀によって、城の中心部は一城別郭の構造となっている。二ノ郭群は、主郭群より小さな曲輪が段状に5段程築かれ、最上部は削り残し尾根による土塁となっている。二ノ郭の南には舌状曲輪が2段築かれている。二ノ郭群の西側は広い谷戸地形になっている。この西端部に大手防衛の曲輪が築かれ、その東側に谷戸下方を防衛する土塁と腰曲輪、更にその下方に「く」の字に大きく曲がった長い横堀とその前面を防衛する堡塁が築かれている。この谷下方の土塁の脇には木戸口があり、形状が明瞭なのだが、何故か縄張図には描かれていない。主城部の更に西の尾根が大手とされ、前述の大手防衛の曲輪の下に、二重堀切が構築されている。この二重堀切は右手だけ三重っぽい形に見える。
 以上が長野原城の構造で、主城部の広い曲輪群は、この城がこの地域の中心的城郭であることを物語っている。
二ノ郭西の舌状曲輪群→DSCN1342.JPG
DSCN1290.JPG←谷戸を防衛する土塁
谷戸下方の横堀→DSCN1296.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554568/138.639253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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雁ヶ沢城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1119.JPG←主郭背後の二重堀切
(2020年12月訪城)
 雁ヶ沢城は、信濃国滋野氏の庶流とされる横谷氏の城と伝えられる。横谷氏は、木曽義仲に仕えた土豪が吾妻に来住し、湯本氏が兄の系統で弟の系統が横谷氏になったとされる。『加沢記』に記載される1563年の真田幸隆による岩櫃城攻略の時にはこの城はなかったらしいことから、真田氏による岩櫃城攻略後に築かれたらしい。戦国後期に横谷重行は武田氏に降り、真田昌幸に属した。この頃には吾妻郡四騎(湯本・横谷・鎌原・西窪)とまで言われ、1582年の武田氏滅亡後は北条氏の侵攻に対して大戸城(手子丸城)、或いは倉内城に籠城した。北条氏滅亡後は沼田城主真田信幸に属して本領の横谷村を安堵された。関ヶ原合戦の際には、東西両軍に分かれた真田氏に従って横谷氏も東西に分かれて戦った。雁ヶ沢城を預かっていた横谷左近は真田昌幸に属し、下野国犬伏から上田へ帰城する昌幸軍の通過を容易にし、その後、上田の伊勢崎城を守ったと言う。

 雁ヶ沢城は、吾妻川と鍛冶屋沢川の合流点西側に突き出た、比高60m程の尾根上に築かれている。吾妻峡の険を避ける道陸神峠を往来する間道を押さえるための砦とされ、南麓に居館があったらしい。八ッ場ダム建設に伴い付け替えとなったJR吾妻線の旧線路を越えると東麓に松谷諏訪神社があり、そこから城へ登る道が付いている。登りきった細尾根上の平坦地が主郭で、後部が櫓台状に一段高くなっていて、祠が祀られている。主郭の背後の尾根に降ると、浅い二重堀切が穿たれている。しかしあまりに浅くて、ほとんど防御の役に立たないように見える。また堀切以外は明確な普請は少ない。『境目の山城と館(上野編)』でも記載している通り、道押さえの物見といった趣の小城砦である。
主郭→DSCN1105.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569063/138.729011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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小菅城(山梨県小菅村) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1076.JPG←主郭後部の櫓台
(2020年12月訪城)
 小菅城は、この地の領主小菅遠江守信景の居城と伝えられる。信景は、武田氏13代信昌の家臣で、一族衆でもあったらしい。甲武国境の警備に当たると共に、丹波黒川金山を支配していたと言う。信景以後の歴代の居城となった。小菅氏は武田氏に仕え、信玄・勝頼の時代には侍大将・足軽大将として活躍した。しかし1582年の織田信長による武田征伐で、武田氏が滅亡すると、一族の小菅五郎兵衛尉忠元は甲斐善光寺門前で小山田信茂らと共に織田信忠に誅殺された。またその他の一族では、天正壬午の乱で徳川方に付いて郡内に進攻した北条勢を撃退した小菅又八郎信有・同次郎三郎信久・同九兵衛等があり、徳川氏の旗本となったと言う。

 小菅城は、小菅川と宮川の合流点東側の比高60m程の山上に築かれている。山間のかなり奥地にある城で、南麓の小菅小学校の校地辺りが「御屋敷」と呼ばれ、平時の居館が置かれていたらしい。その西側の保育園の脇に解説板があり、その奥から登山道が整備されている。3つの曲輪を堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。南端にあるのが主郭で、内部は上下2段の平場に分かれ、上段曲輪の東辺に土塁を築き、その延長上の主郭北側に櫓台を築いている。主郭の北側には堀切が穿たれ、その先に細尾根上の二ノ郭、更に堀切を挟んで、三ノ郭が築かれている。三ノ郭も上下2段の平場に分かれている。三ノ郭と北東の尾根は斜面だけで区画されている。この斜面は切岸と言うほどの傾斜はなく、現地の縄張図等では堀切とされるが、実際には堀切は確認できない。この他、主郭の外周と二ノ郭・三ノ郭の東西の斜面には帯曲輪が1段廻らされている。帯曲輪は部分的に武者走りに近いぐらい狭くなっている。主郭周囲の帯曲輪から南に降った所には小平場があり、城門があったらしい。遺構としては以上で、単純な構造のかなり小規模な城である。
主郭櫓台から見た堀切・二ノ郭→DSCN1062.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.761714/138.939704/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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駒宮砦(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0929.JPG←三ノ郭から見た堀切と主郭
(2020年12月訪城)
 駒宮砦は、御前平の烽火台とも言い、歴史不詳の城砦である。一説には、この地に土着したと伝えられる相馬氏の後裔の居城との推測もある。しかし岩殿城の後背部を押さえる位置にあることから、岩殿城の北方を防衛すると同時に、小菅・丹波山地域と岩殿城を結ぶ烽火台的役割を担っていたものと、普通には考えられている。

 駒宮砦は、葛野川曲流部に東から突き出た標高496mの山稜上に築かれている。この城へは、北東麓の駒宮集落の南端最上部から城山の北東尾根の天神峠に登る道があるのでそれを登り、尾根上の峠に出たところで道を逸れて南西に登っていくと城域に至る。東西に曲輪を並べた連郭式の縄張りで、それぞれの曲輪間を合計4本の堀切で分断した構造となっている。中央にあるのが主郭で、前後に土塁を築き、南に虎口を設け、そこから繋がる南西斜面に腰曲輪を築いている。主郭の前後は堀切が穿たれ、西に二ノ郭、東に三ノ郭が置かれている。二ノ郭は後部に土塁を伴う土壇を築いており、櫓台があった可能性がある。また二ノ郭の南西には意図が不明な短い横堀がある。或いは水の手か雨水溜めであろうか?二ノ郭の先にも堀切が穿たれ、その前に先端の堡塁が築かれている。一方、三ノ郭も北から東にかけて土塁を築き、北斜面に帯曲輪、三ノ郭の先端には堀切を穿っている。いずれの堀切もやや円弧を描く様に穿たれ、両端から竪堀をしっかり落としている。この他、各所の土塁上には礫石が散乱している。駒宮砦は、しっかりと普請された城砦で、単なる烽火台ではない。しかしそれほど堅固な構造でもないので、少数の兵で守備した繋ぎの出城と考えられる。
主郭切岸と西側の堀切→DSCN0989.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.653164/138.964938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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