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杭城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1019.JPG←東郭群の中心郭の虎口と土橋
(2020年11月訪城)
 杭城は、杭城楯(杭城館)とも言い、山野内城主須藤刑部定信が立て籠もった城と伝えられる。定信は、1584年に結城七郎と戦ったが敗れ、山野内城は落城した。定信は逃れて杭城を築いて立て籠もったが、最後は福岡川崎で自刃したと伝えられている。

 杭城は、標高256mの杭城山に築かれている。この山は、七北田川の支流西田中川の最奥部に位置する丘陵で、西田中川はこの丘陵の東端に突き当たったところで南北に分かれて遡っている。即ち杭城山は、南北を峡谷で刻まれ、東に離れた平野部から隔絶した地にある。その為、宮城県内でおそらく最も踏査困難な城だと思う。それほど山深い地であるので、クマの出没リスクも高く(実際に足跡があった)、目印の乏しい広幅の緩傾斜地であるため、遭難リスクにも怯えながらの訪城となった。
 訪城ルートは、よく参考にさせていただいている「城郭放浪記」さんの案内を参考にした。杭城山林道を東進し、南北に分かれる分岐路を南に進んで降っていき、途中で谷に降りていく分岐路を入って西田中川に降りる。浅瀬を渡渉して東の山裾に取り付き、薮に埋もれた作業用林道を登っていく。しかし途中で道が消失したため、結局傾斜のある斜面を直登して城域に辿り着いた。

 城の遺構は、大きく3群に分かれて自然地形を挟んで散在している。『日本城郭大系』の表記を参考にして、ここでは東から順に東郭群・中郭・西郭と呼称する。東から西へ辿ると最初に現れるのが東郭群前面の長い切岸で、城の最前面に切岸・土塁の防御線が構築されている。そこから西に進んだ先に、東郭群の中心となる曲輪がある。全周を切岸で防御し、後部に土塁と横堀を構築し、土橋を架けている。また周囲には帯曲輪を廻らしている。この曲輪から南にやや離れた所に南の出曲輪があるらしいが、今回は見逃した。いずれにしても東郭群の防御が最も厳重である。東郭群からあまり幅のない尾根を西に登っていくと、その先に中郭がある。中央がややくびれた東西に長い曲輪で、前面に枡形虎口を築き、その南に堀切と出曲輪を置いている。また中郭は、背後に幅広の土塁を築き、その背後には堀切を穿って土橋を架けている。中郭から西の斜面を登っていくと、杭城山山頂にある西郭に至る。西郭は、最高所にあるが小さな平場で、いかにも物見という雰囲気である。背後に堀切を穿っているが、明確な遺構はそれだけである。南に伸びる尾根上はほとんど自然地形の平場である。以上が杭城の遺構で、最高所にある西郭は前述の通り物見台と考えられるので、主郭に当たるのは中郭だろう。広い丘陵上に曲輪が散在し、全く求心性のない縄張りである。追い詰められて立て籠もった城としても、少々理解に苦しむ城の構造である。
中郭の虎口→DSCN1029.JPG
DSCN1037.JPG←中郭の幅広の土塁
中郭背後の堀切→DSCN1049.JPG
DSCN1070.JPG←西郭背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.333089/140.749851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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