柴田屋館(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]
←土塁状の土盛り
柴田屋館は、永禄年間(1558~70年)に蓮沼城主椎名肥前守康胤の家臣柴田丹後守久光の館跡と伝えられる。椎名康胤は、元々松倉城を本拠として新川郡守護代を務めた武将で、富山城主神保長職との抗争の中で越後の上杉謙信に支援を求め、上杉方となっていた。しかし1568年に武田信玄の調略に応じて上杉氏から離反したため、謙信に攻撃されて松倉城を開城し、蓮沼城に移ったが、1576年に滅ぼされた。そして久光も、1579年に木舟城主石黒左近蔵人によって柴田屋館を滅ぼされたと言う。
柴田屋館は、現在の日吉神社境内に築かれていた。神社境内は周囲の水田よりわずかに高くなっている。また、神社周囲には土塁が一部確認できるが、「堀や土塁などの明確な遺構は見つかっていない」とのことなので、現在見られる土塁は遺構ではない可能性がある。神社入口には館跡の標柱と解説板が立っており、その歴史を今に伝えている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.597458/136.913027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
柴田屋館は、永禄年間(1558~70年)に蓮沼城主椎名肥前守康胤の家臣柴田丹後守久光の館跡と伝えられる。椎名康胤は、元々松倉城を本拠として新川郡守護代を務めた武将で、富山城主神保長職との抗争の中で越後の上杉謙信に支援を求め、上杉方となっていた。しかし1568年に武田信玄の調略に応じて上杉氏から離反したため、謙信に攻撃されて松倉城を開城し、蓮沼城に移ったが、1576年に滅ぼされた。そして久光も、1579年に木舟城主石黒左近蔵人によって柴田屋館を滅ぼされたと言う。
柴田屋館は、現在の日吉神社境内に築かれていた。神社境内は周囲の水田よりわずかに高くなっている。また、神社周囲には土塁が一部確認できるが、「堀や土塁などの明確な遺構は見つかっていない」とのことなので、現在見られる土塁は遺構ではない可能性がある。神社入口には館跡の標柱と解説板が立っており、その歴史を今に伝えている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.597458/136.913027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館