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古城めぐり(石川) ブログトップ
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御幸塚城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7319.JPG←本丸の櫓台跡
(2005年3月訪城)
 御幸塚城は、今江城とも言い、加賀守護富樫氏の築いた城である。明確ではないが、富樫泰高の居城であったとも言われる。泰高は、恐怖政治を敷いた専制将軍足利義教の逆鱗に触れて失脚した兄教家に代わって家督を継承したが、その後間もなく、嘉吉の乱によって将軍義教が赤松満祐に暗殺され、その後は、復帰運動を始めた兄教家と守護職を巡って争った。1447年、加賀を二分して教家の嫡男成春と泰高の二人を、それぞれの半国守護とすることで和睦が成立した。その後、1462年に成春が病死すると、泰高は加賀一国の守護となり、その2年後には成春の嫡子政親に家督を譲って泰高は隠居した。1467年に応仁・文明の大乱が巻き起こると、東軍に付いた政親に対して、弟幸千代が西軍方に付いて加賀国内で争った。政親は、一向一揆を懐柔して味方に付けることにより、幸千代を打ち破って加賀守護の地位を固めたが、強大になった一向一揆を警戒するようになって次第に一揆勢と反目し、1488年、一揆勢は隠居していた泰高を擁立して、20万とも言われるおびただしい数で政親の拠る高尾城を攻め滅ぼし、その後泰高を加賀守護に据えた。御幸塚城は、この後には一向一揆勢の城砦として機能していたと考えられている。既に加賀国内の実権は一揆勢が握っており、加賀一向一揆の内部抗争である享禄の錯乱で富樫氏は加賀から逐われて、加賀はいわゆる「百姓の持ちたる国」となった。戦国時代後期になると、織田信長は越前を制圧して加賀に進出した。1576年、信長は大聖寺城将戸次広正を佐久間盛政に替え、盛政は徳山則秀と共に一揆勢の拠る御幸塚城を落城させた。以後、織田氏の持ち城となり、1600年の関ヶ原合戦の際には、加賀の前田利長は東軍に付き、西軍に付いた小松城主丹羽長重らに対抗するため、御幸塚城に山崎長徳・奥村栄明・太田長知らを布陣させたと言う。その撤退戦として行われたのが浅井畷の戦いで、加賀百万石を現出する契機となった。

 御幸塚城は、現在の今江小学校から帝人加工糸小松工場にかけての丘陵地に築かれていた。かつては、城のすぐ西側に今江潟と呼ばれる大きな干潟が広がり、沼地に面した丘陵という要害地形であったが、今江潟は既に開拓されて消滅しており、往時の雰囲気は残っていない。しかし地勢は健在で、小学校の南側は高台となっており、最上部に今江城址の大きな石碑が建っている。ここは本丸の櫓台だったと考えられる。周囲は切岸を思わせる斜面で囲まれ、周りの道路はかつての堀の名残であったと思われる。既に周辺は市街化が進み、城跡らしさを感じさせないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.379391/136.436881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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虚空蔵山城(石川県能美市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7265.JPG←大手門跡
(2005年3月訪城)
 虚空蔵山城は、和気山城、白米城、舘城とも呼ばれ、加賀守護富樫氏が築き、後に加賀一向一揆の拠点となった山城である。創築は定かではないが、1476年に富樫政親と弟幸千代が守護職を巡って争った際に、蓮台寺城を落とされた幸千代が一時虚空蔵山城に立て籠もった。しかし攻められて落城し、幸千代は越中に亡命した。加賀守護富樫氏が加賀一向一揆勢に攻め滅ぼされると、虚空蔵山城は一向衆の持ち城となり、一揆勢の領袖荒川市助らの居城となった。1580年、織田信長が一向衆殲滅の為加賀に攻め込むと、虚空蔵山城は織田軍の北国軍総大将柴田勝家の部将佐久間盛政に攻められて落城した。その後歴史上に現れないことから、この時に廃城になったと考えられる。

 虚空蔵山城は、標高138m、比高98mの比較的なだらかな虚空蔵山に築かれている。鍋谷川の曲流部に北から張り出した山地の上にある為、眺望に優れ、遥かに日本海まで見渡すことができる。山頂に本丸を置き、南側に鞍部を挟んで二ノ丸を配置している。鞍部には土橋の掛かった堀切が穿たれている。本丸も二ノ丸も、曲輪外周を低い土塁で囲み、更にその外側に腰曲輪を巡らしている。二ノ丸には僅かではあるが石垣がはっきりと確認できる。山麓から伸びる大手道の途中には大手門跡が残り、虎口の土塁・石垣が残存していて、往時の姿を彷彿とさせる。この他にも石垣跡が残るなど、遺構はほぼ完存している。本丸の北・東・西に曲輪があった様だが、訪城当時はまだ藪の中の遺構探索など思いもよらない頃だったので、だいぶ見逃している。いずれ再訪したい城の一つである。
二ノ丸の石垣→IMG_7273.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.423437/136.552333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三道山城(石川県能美市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7200.JPG←三道山八幡神社のある丘陵地
(2005年3月訪城)
 三道山城は、三道山堡とも呼ばれ、歴史不詳の城である。日本城郭大系によれば、1600年に前田利長が不破大学、または岡嶋備中・同帯刀を置いたと言う。当時は、豊臣秀吉の死後、専権を強めた徳川家康と前田利家が対立したが、唯一家康に拮抗する勢力を持っていた重鎮の利家が1599年に病没したことで勢力バランスが大きく徳川方に傾き、家康の前田討伐が検討された頃であったので、おそらく家康の討伐に対する防衛拠点として築かれたのだろう。唯一、三道山城がはっきりと伝わっているのは、北陸の関ヶ原と呼ばれる浅井畷の戦いの際に、前田利長は先発隊を御幸塚城に入れ、自身は三道山城に陣を敷いたことである。母芳春院を人質にして家康に膝を屈し、家名存続を図るという苦渋の決断をした利長は、この浅井畷の戦いで西軍の丹羽長重を破り、加賀百万石安泰への道を開くこととなった。
 三道山城は、現在の三道山八幡神社の鎮座する丘陵地に築かれていたと考えられている。比高僅か5~10m程の丘陵地で、周囲は宅地化されている。神社境内にも特に城の痕跡は見られないが、往時は低湿地帯の中に浮かぶ島の様な要害であったのだろう。尚、一説には、浅井畷の戦いの際に前田利長が陣を敷いた三道山城とは、和田山城のこととも言われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.448533/136.505996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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和田山城(石川県能美市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7224.JPG←ニノ郭周囲の空堀
(2005年2月訪城)
 和田山城は、1506年に越前守護朝倉貞景によって越前から追われて加賀に逃れた和田坊超勝寺によって築城されたとされる城である。和田山の名も、和田防に由来するとされる。その後、享禄の錯乱と呼ばれる加賀一向一揆の内紛が発生し、和田山城は超勝寺勢力の拠点となった。1575年、越前朝倉氏を滅ぼし越前一向一揆も殲滅した織田信長は、加賀にその勢力を伸ばした。北国軍団長となった織田家重臣の柴田勝家に北の庄城を与え、勝家は鳥越城などの一揆勢力に対する拠点として、佐久間盛政の部将安井左近に和田山城を守らせた。その後の歴史は定かではないが、1600年の北陸の関ヶ原とも言われる浅井畷の戦いの際に、前田利長が陣を敷いた三道山が、この和田山城ではなかったかと推測されている。関ヶ原以後、廃城になったと考えられる。

 和田山城は、和田山・末寺古墳群(国指定史跡)の南端の8号墳・9号墳を利用して築かれた平山城で、現在は公園として整備されている。古墳を主郭の櫓台として利用し、周囲に土塁や空堀、腰曲輪をめぐらしており、特に主郭とニノ郭の周囲をぐるりと巡る空堀は、堀幅が10m程もある見事なものである。ただ、周囲の平地よりわずか20~30mの比高しかないなだらかな丘陵地であるため、峻険さは望むべくもない。それでも往時は低湿地帯に囲まれた要害地形で、軍事拠点として有効だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.441015/136.507777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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松根城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6734.JPG←三ノ丸先端の大堀切
(2005年1月訪城)
 松根城は、加越国境城砦群の一である。元々は南北朝時代の1369年、越中を本拠として室町幕府に抗した桃井直常の子桃井直和がこの地に陣し、幕府方の吉見左馬助らが攻略したと言われる。また文明年間(1469~87年)には、一向一揆の首領の一人、洲崎兵庫(慶覚)が陣を敷き、その後戦国時代にかけて、一向衆が本格的な城郭に改修したと考えられる。戦国末期には織田信長の勢力がこの地を圧し、松根城も織田氏の属城となった。信長の本能寺での横死後、後継者の地位をめぐって羽柴秀吉と織田家重臣の柴田勝家が対立し、秀吉は賤ヶ岳で勝家を破り、北の庄城に攻め滅ぼして、信長の後継者の地位を固めた。同じく織田家家臣であった越中富山城主佐々成政は、秀吉に敵対し、秀吉方に付いた加賀能登を領する金沢城主前田利家との間に軍事的緊張が高まると、両陣営は加越国境に多くの城を築いて対峙した。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い。松根城は、小原越(小原道)を押さえ、前田方の切山城と対峙する城であったと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。1584年、佐々成政は大軍を率いて能登に侵攻し、要衝の末森城を攻囲した。この時成政は、家臣の杉山隆重を松根城に置いて守らせた。佐々勢は末森合戦で攻めきれず、越中に撤退すると、前田利家は重臣村井長頼に松根城・朝日山城を攻撃させ、松根城は攻め落とされた。翌年、秀吉自ら越中に大軍を率いて佐々討伐を行うと、成政は降伏した。越中は前田利家に与えられ、戦略的価値を失った松根城は廃城になったと思われる。また発掘調査の結果、城域南西端の大堀切によって小原越が切断されていることが判明しており、城が街道を戦時封鎖していることを遺構で確認できた初めての事例とのことである。

 松根城は、小田原北条氏が箱根周辺に築いた城と同様に、松根峠を越える小原道を城内に取り込んだ城である。その目的は明瞭で、成政が加賀能登に侵攻するための街道を防衛し、かつ兵站線と万一の時の退路の確保を目的としたものであったろう。縄張りも戦国最末期の山城に相応しく技巧的で、各所の動線は屈曲し、大手虎口は二重枡形となり、曲輪外周に横堀を構えて防御している。そして要所を堀切で分断している。特に北東端と南西端は大規模な堀切を穿って、敵の接近を阻んでいる。こうした防御構造は巧妙である一方、各曲輪の削平は甘く、主郭も含めて起伏がある。その点では、居住性は考えられておらず、建物などもなかったと思われる。松根城は、城としては中規模で、峠の守りを固める陣城的なものに近かったようだ。馬場曲輪まで車で行けるので、訪城は厳冬期でない限り楽である。
外周を固める横堀→IMG_6713.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.616217/136.783422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小丸山城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_1363.JPG←本丸に建つ城址碑
(2004年8月訪城、2019年8月再訪)
 小丸山城は、能登に入部した織田信長の部将前田利家が築いた城である。北陸では、1577年に手取川の戦いで圧勝した越後の上杉謙信が優勢であったが、謙信は翌年3月、春日山城で急逝し、上杉氏内部で後継者の地位を巡って御館の乱と呼ばれる内乱が発生した。この機に乗じて信長は加賀・能登を攻略し、1581年に前田利家に能登一国を与えた。利家は当初、能登畠山氏の居城七尾城に入ったが、翌年には不便な山城の七尾城を捨て、港に近く城下町の整備に好適な平山城の築城に着手した。それが小丸山城である。しかし城造りの最中に主君信長は本能寺で横死し、同僚羽柴秀吉が後継者に踊り出て、1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、名実ともに信長の後継者となった。利家は、勝家を捨てて秀吉に味方し、戦後秀吉から加賀を加増されて金沢城に入った。築城半ばの小丸山城には、兄安勝、子の利政、家臣大井直泰らを相次いで置いたが、1615年、元和の一国一城令で廃城となった。

 小丸山城は、港にほど近い小丘で、4つの曲輪で構成されていた。現在は公園となっていて、あまり明確な遺構は残っていない。しかしそれでも、本丸と天性丸との間には深い堀切が穿たれ、本丸の南東と南西には隅櫓台が残っている。特に南西のものは広さがあり、天守台だったのではないだろうか。これら以外の遺構は明確ではなく、土塁も天性丸北辺に表示はあるが形は明確ではなく、各曲輪の中は普通の公園になっていて、普通の人はここが城跡とは思わないであろう。もう少し城址公園らしい整備をしてくれていたらと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.046083/136.960062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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七尾城 その1(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5831.JPG←大手道から見えてくる石垣群
(2004年8月訪城)
 七尾城は、能登畠山氏の居城である。その築城時期は明らかではない。畠山氏の起源は、坂東武士として名高い畠山重忠に遡る。坂東八平氏の一、秩父氏の一流で声望の高い武将であったが、1205年、鎌倉幕府初代執権北条時政の謀略によって重忠が滅ぼされると、その名跡が絶えることを惜しんで、足利義兼の子義純を重忠の妻(北条政子の妹)と再婚させて畠山氏を再興した。源姓畠山氏の誕生である。以後、足利氏の一族として続き、足利尊氏が室町将軍となるに及んで、他の足利一門と同じく畠山氏も大きくその勢力を伸ばすこととなった。3代将軍義満が室町幕府の典礼を定めた際には、畠山氏は斯波氏・細川氏と並んで守護大名家最高の三管領家に名を連ねた。1408年、畠山基国の次男満慶が能登守護となり、能登畠山氏の祖となった。能登畠山氏の全盛期は7代義総の時で、統率力に優れた武将で、七尾城が大きく整備されたのは義総の時と考えられている。この頃には荒廃した京都から逃れてきた多くの公家・歌人などの文化人を七尾城下に招き、七尾には文化の花が開いたと言う。しかし義総が没すると家中に動乱が起き、それを収束する過程で畠山七人衆という7人の重臣による合議制が始まった。七人衆の中では遊佐氏と温井氏が双璧で、激しい権力抗争を繰り広げた。そんな中で越後の上杉謙信は越中を平定して能登に迫り、織田信長は越前朝倉氏を滅ぼして越前を平定し加賀に迫った。七尾城の七人衆は、上杉方に付こうとする者と織田方に付こうとする者とで二分された。1575年、謙信が能登攻略に取り掛かり、七尾城を取り囲んだ。籠城戦の中、七尾城内では疫病が流行して幼主春王丸が没し、長続連は信長に救援を依頼する為、子の連龍を安土に派遣したが、間もなく親上杉派の重臣遊佐続光が謙信に内応して、長一族を討ち取り、さしもの堅城七尾城も落城、能登畠山氏は滅亡した。その後は、鯵坂長実が城代となった。1581年、七尾城は加賀・能登を平定した信長の支配下に入り、能登一国は前田利家に与えられた。利家は七尾城に入って改修を行ったが、間もなく不便な山城を捨てて港に近い小丸山城を築いて移り、七尾城は廃城となった。

 七尾城は、広大な城域を有する大規模な山城で、麓からの比高は250mに及ぶ。山頂部には本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸・桜馬場を始め、温井屋敷・遊佐屋敷等の重臣屋敷等、多数の曲輪群が連なっている。これらは見事な野面積み石垣で囲繞され、特に大手道から望む何段もの古色蒼然とした石垣群は壮観である。私はわざわざ麓から登ったので、麓の屋敷地を抜けて赤坂口から登り始め、七曲り・番所跡・沓掛場などを過ぎて、石段の大手道を登って行くと、やがて目の前に現れてきた石垣群を見て、本当に感動したのを今でもはっきりと憶えている。ただ、この見事な石垣群はあまり高くは積まれておらず、高石垣を積む技術がなかったことを示している。また本丸と背後の長屋敷間や二ノ丸と三ノ丸間は、深さ15m程にも及ぶ大堀切で分断されている。見事な遺構群で、行くなら数時間掛けてゆっくり楽しんだ方が良い。また、整備が行き届いている為、真夏の訪城でも主要な遺構は全て確認できるだろう。私にとって七尾城は、是非もう一度行きたい城の筆頭である。

 尚、2007年に起きた能登沖地震では、七尾城の石垣の一部が崩落したようである。無事復元されただろうか?
山麓の大手道跡→IMG_5805.JPG
IMG_5818.JPG←安寧寺跡にある畠山廟

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.008756/136.984051/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

※その後の再訪で確認した遺構群はこちら


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松任城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5760.JPG←公園に残る土塁らしき跡
(2004年8月訪城)
 松任城は、白山市の松任市街地にあった平城である。その起源には2説あり、1176年頃に国司加賀介師高が松任に居館を築いたとも(現地解説板による)、鎌倉時代初期に富樫氏の庶流松任十郎範光が築いたとも言われている(日本城郭大系による)が、定かではない。松任城がはっきりと歴史に現れてくるのは室町中期以降で、1488年に加賀守護富樫政親を滅ぼした加賀一向一揆の一人鏑木氏が、松任城に拠っていたと言う。戦国後期に越後の上杉謙信が能登・加賀に侵攻し、織田信長方の総大将柴田勝家と手取川で戦った折には(1577年)、七尾城を発して一路南下した謙信は、松任城に入って軍勢を整え戦機を待ったと言われている。その後、越後に戻った謙信が急死してその脅威が去ると、再び加賀・能登・越中に織田勢が侵攻し、その際松任城も1580年に柴田勝家に攻められて落城した。その後、1583年に前田利長が豊臣秀吉から松任4万石に封じられ、約2年間在城した。その後、秀吉の直轄期間を経て、1585年には丹羽五郎左衛門長重が城主となり、11年間在城した。1600年の関ヶ原の戦いの後には、戦功により再び前田利長が松任城を与えられ、赤座備後守直保が城代を務めた。その後、元和の一国一城令で廃城になったと思われる。

 松任城は、かつては上杉謙信の率いる大軍を迎え入れた程の規模の城であった様だが、街中の平城の運命に逆らえず、その遺構はほぼ完全に湮滅している。本丸跡は、現在のJR松任駅前のおかりや公園とされ、公園内には土塁跡と思われる土盛もあるが、公園化に伴う改変の可能性もあり遺構とは断定できない。本丸の周囲には二ノ丸・三ノ丸・出丸等があり、それぞれ堀で区画されていた様だが、今ではその痕跡を見出すことはできない。ただ街中をよく歩いてみると、住宅地の脇に「松任城址西南隅」等と書かれた、城域を示す小さな石柱が建っている。歩きまわって四隅の内3つは見つかったが、最後の一つが見つからなかった。いずれにしても、ここに城があったとは思えないほど変貌してしまった城跡である。

 尚、ごく最近、松任城址のおかりや公園は改装された様なので、現在の状況がどうなっているのかは不明である。
城域を示す石柱→IMG_5775.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.525019/136.565938/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
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富樫館(石川県野々市町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5746.JPG←野々市工大前駅付近の石碑
(2004年8月・2005年2月訪城)
 富樫館は、加賀守護職を務めた富樫氏の居館である。富樫氏は加賀斎藤氏の一族で、南北朝時代に富樫高家が足利尊氏に従って功績を挙げ、加賀守護となった。この高家が野々市に入部して居館を築いて守護所としたと言う。以後、富樫館は富樫氏歴代の居館となったが、富樫氏の加賀支配は幕政に左右される不安定なもので、しかも一族内に内訌を抱えていた為、一時は守護職を剥奪されたこともあった。室町後期の1464年に富樫政親が守護となった時には、南加賀のみを領する半国守護に過ぎなかった。応仁の乱の際には、政親とその弟幸千代の間で争いが起こり、政親は一向宗徒を味方に付けることによって幸千代を破り、加賀一国を支配下に置いた。しかしその後、一向宗が勢いを増すと、政親は一転して一向宗を弾圧し、一向一揆との闘いが始まった。そして1488年、20万もの数に膨れ上がった一向一揆は、守護富樫政親を高尾城に追い詰めて自害させるに至った。その後、加賀は一向宗の国となり、いわゆる「百姓の持ちたる国」となった。富樫館には、一向一揆によって加賀守護に擁立された冨樫泰高が入り、以後名目上の守護として存在した。1531年、一向一揆の内部抗争である享禄の錯乱の際に、加賀守護冨樫稙泰は小一揆(賀州三ヶ寺)に味方して敗れ、国を逐われた。以後は、富樫館は一向一揆の城塞となったと考えられるが、1580年に織田信長の軍勢が加賀を制圧すると、館は廃されて荒廃したと言う。

 富樫館は、中世加賀の歴史を語る上で重要な場所であるが、その遺構はすでに地上からは湮滅し、その往時の栄華を感じることはできない。現在は、北陸鉄道石川線の野々市工大前駅の南側に大きな石碑が建つほか、そこから南南西400mの住宅地の只中に堀跡が発掘された空き地があり、解説板が建っている。但し、堀は埋め戻されており、解説板の写真でしか見ることはできない。

 富樫氏は、中世加賀の重要な位置を占めているにもかかわらず、現在の石川県では近世以降の加賀前田氏ばかりが脚光を浴びている。特に金沢は加賀前田百万石一色である。金沢市への合併を拒んでいる野々市町だけが、富樫氏の歴史を伝えようと一生懸命になっている状況なのは、ちょっと残念である。歴史の中に無残に消えた富樫氏は、この館の遺構の現状に象徴されているようだ。
堀跡の眠る空き地→IMG_6846.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【石碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.532226/136.621717/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【堀跡の発掘現場】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.528760/136.620430/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

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末森城(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_4705.JPG←若宮丸から見た堀底道
(2004年4月訪城)
 末森城は、かつて織田信長の下で同僚であった加賀の前田利家と越中の佐々成政との戦い、いわゆる末森合戦が繰り広げられた山城である。築城年代は定かではないが、1550年には能登守護畠山氏の家臣土肥但馬が城主であった。上杉謙信が1577年に七尾城を攻撃した際には、末森に在陣し、七尾城を落城させた2日後に末森城を攻略したと言う。その後、謙信死後の家中の混乱で越後上杉氏の勢力が減退すると、加賀・能登は織田信長の支配するところとなり、能登4郡を与えられた前田利家が、小丸山城に拠って統治した。信長死後、豊臣秀吉に付いた利家は、加賀も与えられて金沢城を築いて加賀・能登を統治した。一方、越中富山城に拠る佐々成政は、織田信雄を擁する徳川方に付いた。この強い緊張状態の中で、加賀越中国境には、両者によって多くの山城が構築され、利家は加賀・能登を繋ぐ要衝である末森城に重臣の奥村永福を配し、城の増修築を施した。1584年に徳川家康が小牧・長久手の戦いで秀吉と交戦した後、成政は前田領へ1万5千の大軍で大挙侵攻し、末森城を奪取して加賀・能登を分断せんと企図した。ここに史上名高い、末森合戦が生起することとなった。

 佐々成政は9月8日夜、1万5千の大軍を率いて越中の木舟城を出発し、倶利伽羅へ押し寄せると見せかけて、間道を通り、砺波の宮島から沢川へ迂回し、津幡の牛首に出た。9日、先陣は一足早く吾妻野の天神山に達し、午後2時に本隊は末森城から4.5kmの坪井山に本陣を構えた。翌10日朝、佐々勢は末森城への攻撃を開始した。この知らせが金沢城に到達したのが、午後2時頃。知らせを受けた利家が、金沢城を出発したのが午後4時と言う。この間わずか2時間。既にこのことあるを予想して、前田方が臨戦態勢にあったことがこのことから分かる。利家は午後9時に津幡城に入り、後に続く利長を待ちつつ軍議を開いた。午後11時に津幡城を出発し、11日午前4時に末森城から1.5km西方の鯨骨山に布陣した。末森城では既に激戦が展開され、かつての城将で前田方の与力となっていた土肥但馬の甥土肥伊予は討死し、二ノ丸まで攻め込まれたが、奥村永福は寡兵500で以って果敢に抗戦して時間を稼ぎ、利家の救援を待った。利家の軍勢はわずか数千であったと言われるが、果敢に佐々勢を攻撃・攪乱し、数時間にわたる戦いの末、利家は搦め手を突破して城兵と合流することに成功した。勝機を失った成政は、敵地での長い補給線と退路の確保を考慮して、越中に撤退した。この末森城の戦いの結果、成政は完全に孤立し、翌年秀吉の佐々征伐によってついに膝を屈することになった。一方、利家はこの勝利によって秀吉を極めて有利な立場にし、この功績によって越中まで領有して、加賀能登越中の三国を支配する大大名となった。その後、末森城は1586年に廃城になったようである。

 末森城は、比高100m程の低い末森山に築かれた山城で、現在史跡として整備されている。入口に大きな石碑が建ち、そこから本丸に向けて山道が延びているが、整備の為の軽トラックが入れるように道がやや拡幅されているので、遺構は若干の破壊を受けている。かなり広い山城で、山頂の本丸をはじめ、二ノ丸、若宮丸、馬掛場など、かなり広範囲に曲輪が展開している。本丸への道は、かつての堀底道であったようで、ところどころに虎口らしい遺構が見られる。登城道を堀底に配置し、S字状に屈曲させて左右の曲輪から挟撃できるようになっていて、敵兵の侵入を阻止する巧妙な構造となっている。しかし馬出しはなく、多数の曲輪を連ねたりしているものの、巨大な堀切や畝状竪堀なども見られず、全体的な縄張は割りと平易で、戦国末期の山城として期待して行くとやや拍子抜けの感を持つかも知れない。訪れた時はまだ山城初心者の頃だったのと雨が降り始めたのとで、遺構の探索が十分でなく、搦手側の曲輪群の堀切や、若宮丸先に連なる曲輪群など、だいぶ見逃している。ここもいずれ再訪したい山城の一つである。
本丸大手虎口→IMG_4709.JPG
IMG_4722.JPG←広大な馬掛場

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.833762/136.778401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

【2019年4月再訪】
 石川の山城巡りの中で末森城に再訪して、前回2004年訪城時に見逃していた遺構もあらためて確認した。屈曲した竪堀が2ヵ所あり、大手の西尾根の屋敷地と三ノ郭群東側の腰曲輪に穿たれている。また二ノ郭前面には横堀が穿たれ、その手前に円弧状に土塁が築かれて防壁となっている。若宮丸の南斜面に何段かの腰曲輪群が築かれ、最下方に広大な若宮という曲輪がある。若宮の両端角には堀切が穿たれている。主郭の北には土橋を介して南北に細長い北郭があり、その外周に腰曲輪が築かれている。この腰曲輪から派生する東西の尾根にも堀切が穿たれている。搦手には竪堀が穿たれている。末森城は、遺構はよく残っているが、城域が広大なため整備の手が行き届かず、主要部以外は薮に埋もれてしまっているのが残念。尚、大手道の途中にイノシシ捕獲用の箱罠があったが、なんとイノシシが実際に引っかかっていた!こんなに間近で野生のイノシシを見るのは初めてだった。
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津幡城(石川県津幡町) [古城めぐり(石川)]

IMG_4680.JPG←土塁跡
(2004年4月訪城)
 津幡城は、加賀越中国境の倶利伽羅峠西麓に築かれた要衝である。1183年に平維盛率いる平氏軍が倶利伽羅峠の戦いを前に、街道を見下ろすこの小高い丘に砦を設けたと言われている。後に南北朝期の観応の擾乱の際には尊氏方の加賀守護富樫氏春が津幡城に拠って、直義方の越中守護桃井直常と戦った。戦国末期の1576年には、越中を平定した上杉謙信が加賀に侵攻して津幡に布陣し、七尾城平定の足掛かりとしたと言う。1583年には加賀の前田利家の領する所となり、越中の佐々成政との軍事的緊張が高まると、弟の前田右近秀継を入れて守らせた。翌84年に佐々成政の加賀侵攻によって生起した末森城の戦いでは、兵を率いて金沢城を発った利家は、津幡城に入って末森城救援の軍議をここで開いた。1585年、前田秀継が木舟城に移ると廃城となった。

 津幡城は、現在津幡小学校に変貌しており、周囲も宅地化され、往時の面影はない。しかしその地勢は現在でも明らかで、平地の中に浮かぶ独立丘陵状の高台であり、加賀能登越中の三方に繋がる街道が交差する要衝で、街道を扼して周囲を睥睨する絶好の陣場であったことは想像に難くない。小学校の正門を入って駐車場の西側には高台があり、おそらく土塁の跡なのであろう。ここには大きな慰霊碑が建ち、その脇に小さな城址碑が建っていて、往時そのままに今でも周囲を見下ろしている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.674219/136.734799/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小松城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3972.JPG←本丸堀石垣と天守台
(2003年11月訪城)
 小松城は、加賀前田家3代利常が隠居城として築いた城である。元々は、戦国後期に一向一揆衆が越前朝倉氏に備えて築いた城と言われている。1576年には一向一揆の部将で元本願寺家臣の若林長門が城主であったが、1579年に織田軍の北陸方面軍総司令官であった柴田勝家に攻められて落城し、信長は村上頼勝を城主とした。その後、信長が横死し、豊臣秀吉が天下を握り、1598年に越後に移封された頼勝の後に、秀吉の命で松任城の丹羽長重が小松城に入った。長重は関ヶ原の戦いの際に西軍側に付いたため没落し、小松城は加賀前田氏の持ち城となり城代が置かれた。1639年、名君として名高かった前田利常は、老齢のため長子光高に藩主の座を譲って隠居し、幕府に隠居城として小松城を整備することを申請した。そして一国一城令の数少ない例外として、整備を許された。本丸には天守も造られたが、太平の世の城であり、数奇屋風の小さなものだった。

 小松城は、梯川の蛇行によって作られた沼地を利用した平城で、金沢城の倍近い広大な城域に八つの曲輪を渦郭式に並べ、総面積の3割を堀が占める、まさに沼に浮かぶ水城で、往時は「小松の浮城」と呼ばれた。表向きは隠居城であったが、その規模と防備の固い曲輪配置から考えると、有事の際の金沢防衛の為の城だったのだろう。しかし現在では市街化で城はほとんど破壊され、わずかに県立小松高校のグラウンドの片隅に、天守台石垣と本丸堀石垣が残るだけに過ぎない。本丸と二ノ丸は高校の敷地となり、三ノ丸は芦城公園となっている。明治維新後の解体が恨めしい城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.412588/136.443511/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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金沢城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4388.JPG←桜に彩られた石川門
(2003年10月・2004年3月・4月訪城)
 金沢城は、言わずと知れた加賀百万石前田家の歴代の居城である。元々この地には、北陸に強固な地盤を築き、加賀守護家の富樫氏を滅ぼしさえした強力な宗教集団一向宗の尾山御坊が置かれていた。織田信長麾下の猛将柴田勝家率いる北陸方面軍が加賀に侵攻し、1580年に尾山御坊を攻め落とすと、佐久間盛政を置いて城郭として整備した。その後、1582年に本能寺の変で信長が横死し、1583年に賎ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝家を破って覇権を確立すると、秀吉は自分に味方した旧知の友前田利家に加賀を与えた。利家は能登小丸山城から金沢に移り、名を金沢城と改めて大々的に近世城郭として整備した。以後前田家は時代のうねりを巧みに乗り切って、幕末まで国内最大の大名として存続し、金沢城はその居城として北陸の中心であった。

 金沢城は、犀川と浅野川に挟まれた河岸段丘の先端に築かれた平山城である。国内最大の大名の居城らしく城域は広大で、外郭まで含めて全て見て回ると優に数時間を要する。見所も多く、特に現存建築物である石川門の存在感は圧倒的で、これぞ日本の城、というイメージに違わない立派なものだ。また随所に築かれた石垣は、時代によって積み方が異なり、金沢城は石垣の博物館とも呼ばれている。珍しいものでは亀甲石垣というものもある。辰巳櫓下の石垣は3段に分かれているが、これは前田家の抱える石垣職人に高石垣を積む技術がなかったからで、これを見た前田利長が激怒したとも伝えられている。

 明治維新以後、金沢城は陸軍の駐屯地となったり、戦後は一時期金沢大学が置かれていた為、やや改変を受けている部分もある。しかし観光事業に熱心な金沢市は、菱櫓・五十間長屋などを当時の工法を用いて釘を1本も使用せずに復元しており、現在でも更なる復元計画を進めているところである。見れば見るほど見所の多い城で、行くなら半日位つぶす気で見た方がよい城である。
大手掘→IMG_4258.JPG
IMG_4315.JPG←辰巳櫓下の石垣
西側外郭にもこんな櫓台がある→IMG_4305.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.563824/136.659794/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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