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古城めぐり(石川) ブログトップ
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桝形山砦(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6862.JPG←畝状竪堀
 桝形山砦は、歴史不詳の城砦である。西谷内城と7~800mしか離れておらず、畝状竪堀が構築されていることから、西谷内城の支砦であったものを越後上杉氏により改修されたものとの説が提示されている。

 桝形山砦は、標高120m、比高70m程の山上に築かれている。西谷内城の前面にそびえる山にあり、西谷内城を防衛するには絶好の位置にある。基本的には北・西・南の三方の尾根を堀切で分断しただけの簡素な構造の城砦だが、この手の小城砦にしては堀切はいずれも大きい。主郭は方形に近い形状の曲輪で、内部は南北2段に分かれている。主郭の南側には前面の堡塁となる二ノ郭があり、桝形形状の土塁が築かれている。二ノ郭の南側も堀切で分断されている。この城には前述の通り畝状竪堀があるが、主郭の東斜面に築かれている。竪堀の規模は小さいが、杉林が間伐されているので形状がわかりやすい。この他、主城から南にやや離れたところにL字状に堀切と土塁を築いた前衛の堡塁があり、南大手筋の防備を固めていたことがわかる。桝形山砦は小規模な城砦であるが、西谷内城の支砦と考えられるものとしてはこの他に町屋砦がある。いくつもの砦群を築いて防衛網を構築していたとなると、西谷内城が一国人領主の国分氏の城ではなく西谷内畠山氏の城であったとする説も説得力があると感じられる。
 尚、城までの道はないので、南麓から南尾根の取り付きやすいところに登り、尾根を登っていくしか方法はない。
主郭前面の堀切→IMG_6837.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.154571/136.815319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/08/10
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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西谷内城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6643.JPG←三ノ郭虎口脇の張出しと水堀
 西谷内城は、西ヶ谷城とも言い、七尾城主畠山氏の家臣国分氏の居城である。一説には能登畠山氏の同族畠山家継(西谷内畠山氏)が在城したともされるが詳細は不明。天授年間(1375~81年)に、能登守護となった畠山氏によって西谷内の地頭として国分氏が置かれ、1430年に西谷内城が完成したと言う。その後、長綱連の家臣となった国分五郎兵衛が居城し、綱連に従って七尾城で上杉勢と戦った。藤津比古神社の1576年の棟札には「国分備前守慶胤」の名があると言い、これが五郎兵衛のことであろうか?またその名乗りから、西谷内国分氏は下総の名族千葉氏の庶流国分氏の流れであることが推測される。能登が前田利家の領国となるとその家臣となったらしく、1600年の前田利長による大聖寺城攻略の際に五郎兵衛は討死したと言う。但し、現在残る西谷内城の規模から考えると、一介の国人領主である国分氏の城ではなく、西谷内畠山氏の持城で、その城代として国分氏が置かれたとの説も提唱されている様だ。

 西谷内城は、比高30m程の丘陵地に築かれている。南に向かって緩やかに傾斜した土地全体を城域としており、城としては大型の部類に入る。大きく4つの曲輪群から構成された梯郭式の縄張りで、最上部に主郭、その下に二ノ郭群、更に南下方に三ノ郭群・四ノ郭群・外郭が置かれている。それぞれの曲輪群は、細かい段差で区切られた多くの平場で構成されている。主郭は2段の平場で構成され、上段は妙見堂跡とされ、西谷内国分氏が千葉氏の流れを汲む一族であった(少なくとも当時そう称していたであろう)ことがわかる。主郭と二ノ郭群の間は段差だけで区切られている。二ノ郭群は外周を方形に空堀と土塁で囲み南東角には櫓台を備えている。主郭虎口の手前に、城内通路に沿って土壇があり、小さな石積みが見られる。二ノ郭群内部はいくつかの平場に分かれるが、起伏が多く、形が判然としない。二ノ郭群の南の三ノ郭群は全体として半月形の形状で、やはり外周を土塁と堀で囲んでいる。中央に築かれた虎口の西側の堀は、比較的規模が大きく高低差もあり、虎口に対して横矢の張出しを設け、湧水があるらしく水堀となっている。一方、虎口の東側の堀は空堀で、規模も比較的小さい。三ノ郭群の東部にはいくつかの張出しが設けられ、その一部にはわずかな石垣跡が残っている。四ノ郭群は、中央に築かれた虎口が枡形虎口となっており、その東側に比較的幅の広い空堀が穿たれている。虎口両側には土塁が伸び、下方の外郭を見下ろせるようになっている。外郭は、内部に起伏が多い粗雑な作りであるが、内部に空堀が穿たれ、物見台らしい土壇も見られる。
 西谷内城は、城域は広いが、全体に起伏の多いざっくりした構成の城である。またかなり緩い傾斜地の城のため、堀と多数の曲輪群で防御を固めていたと見られる。雨降り後でもあったせいか、城内には湧水が多く、水には困らなかったことが想像される。解説板や遊歩道が整備されており、ある程度薮払いもされているので、訪城はしやすい。
主郭の妙見堂跡→IMG_6723.JPG
IMG_6767.JPG←四ノ郭の枡形虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.161676/136.812487/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 竹井 英文
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


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富木城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6618.JPG←城跡の現況
 富木(とぎ)城は、富来城とも記載され、上杉勢、織田勢が相次いで領したと言う城である。木尾嶽城の歴史に出てくるが、南北朝時代に富来俊行と言う武士がおり、この地域で活動しているので、富木城と関係していていた可能性がある。時代は降って1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。富木城には藍浦長門が城将として配された。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、富木城には誉田弾正・長十郎右衛門・杉原和泉・藤尾左近らが攻め寄せ、城将藍浦長門は自刃し、城は落城した。その後、謙信はすぐに能登に再侵攻し、ようやく七尾城を攻略し、能登は上杉勢に平定された。しかしこの歴史は富木城の近くにある木尾嶽城のものと全く同じであるので、両城の歴史が混同されたものか、それも2城が一体となって機能した別城一郭の城であったのか、どちらかであろうと思うが詳細はわからない。1581年に織田勢が能登を制圧すると、菅原館に前田利家、七尾城に菅屋長頼、そして富木城には福富行清が配された。しかしわずか5ヶ月後には、毛利攻めの進展に備えて菅屋・福富両名は信長の元に呼び戻され、能登は前田利家の領するところとなった。

 富木城は、標高22m、比高わずか15m程の低丘陵に築かれている。しかし江戸後期には既に開墾により遺構は湮滅していたということで、現在も畑地や薮となってるだけで明確な遺構は見られない。残っているのは地形だけという、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.150551/136.741827/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦う日本の城最新講座

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2017/12/19
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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木尾嶽城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6545.JPG←二ノ郭から見た主郭切岸
 木尾嶽城は、南北朝動乱期の激戦地である。1346年の得江頼員軍忠状によれば、前越中守護井上俊清・同八条・新田貞員・栗沢政景・富来俊行らが能登に侵入し、富来院内の木尾嶽に立て籠った。北朝方の能登守護吉見頼隆の子氏頼を大将とした軍勢は木尾嶽に攻め寄せ、3月16日に攻撃を開始し、5月4日に木尾嶽を攻め落とした。1350年には観応の擾乱の余波で、井上俊清の同族と思われる井上布袋丸と富来俊行が足利直義方に付いて、富来院(おそらく木尾嶽)から鹿島郡花見槻へ打って出て、足利尊氏方の守護勢と交戦した。1362年には、5月と7月に木尾嶽城で戦闘があり、5月の合戦では富来斎藤次らが能登守護吉見氏頼の軍勢と戦って討ち取られ、7月の合戦では木尾嶽城が落城している。その後、時代は降って戦国後期の1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。木尾嶽城には藍浦長門が城将として配された。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、木尾嶽城には誉田弾正が攻め寄せ、城将藍浦長門は自刃、足軽大将の寺崎政国は敗走中に討ち取られ、城は落城した。その後、謙信はすぐに能登に再侵攻し、ようやく七尾城を攻略し、能登は上杉勢に平定された。

 木尾嶽城は、標高130m、比高120mの城ヶ根山に築かれている。城跡近くまで背後の尾根に山道が南北から通じており、私は南の山道を車で登ったが、途中で山道の路盤が崩れており、普通の乗用車では進めなくなったので、途中からは歩いて城まで行った。背後の尾根を進むと、3本の小堀切が確認できる。しかしかなり浅いもので、大した防御性は感じられない。城は頂部に主郭を置き、背後の鞍部から北側を回って主郭周囲を半周する様にニノ郭が築かれている。主郭には櫓台があり、薮が伐採されているので眺望に優れている。また主郭・二ノ郭の西側斜面には数段の腰曲輪が段状に築かれ、土塁と虎口らしいものも確認できる。南斜面の腰曲輪には礫石も散乱している。この他、背後の尾根を少し西に行ったところの北斜面に、殿様池という湧水もある。遺構としては以上で、戦国後期まで使われて戦闘が繰り広げられた城にしては、かなり単純かつ小規模な城である。
腰曲輪の虎口と土塁→IMG_6560.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.148388/136.754079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記の群像  南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2013/12/25
  • メディア: 文庫


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末吉城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6437.JPG←主郭背後の堀切
 末吉城は、堀松城とも言い、七尾城主能登畠山氏の直轄支城である。創築は応永年間(1394~1427年)のこととされるが、完成したのは応仁の乱後の1477年と言われる。応仁の乱後に帰国した能登畠山氏3代義統は、堀松庄の領国化を図り、能登口郡北部の外浦地区を防衛する為に末吉城を完成させたと考えられている。城将は、最初は畠山氏の家臣平(ひらか)氏(或いは手筒氏とも伝えられる)であったが、1554年に遊佐続光が叛乱した際、遊佐勢5000に攻撃されて末吉城は落城した。その後は、守護畠山義続の家臣河野藤兵衛続秀が城将となり、天正年間(1573~92年)には河野肥前が城将となった。1576年に上杉謙信が能登に侵攻した際にも、上杉勢の攻撃によって再び落城し、河野肥前は討死したと推測されている。時代は不明であるが、畠山氏の一族松波丹波守義行が城将となったこともあったらしい。その後、前田利家が能登を領すると、重臣の中川家範が末吉城に置かれたと言う。廃城時期は不明。

 末吉城は、標高53.8mの城山に築かれている。しかし主郭は頂部ではなく、峰から南西に伸びた尾根の先端に築かれている。現地解説板の縄張図によれば、主郭の背後を堀切で断ち切り、背後の尾根上に延々と平場を設けた広域の城としている。大手は西来寺の脇にあり、奥に散策路が伸びている。山林入口に大手虎口があり、櫓台が右手に築かれている。櫓台の奥は高台上の平場群となっている。大手道を少し奥に進むと、枡形虎口が形成されている。しかし虎口の正面にも竪堀が穿たれていて、囮虎口か何かだったかもしれない。枡形を通って丘陵地を登っていくと、二ノ郭の平場に達する。その西側にそびえているのが主郭である。主郭は方形に近い形状の曲輪で、郭内は北東に向かって上り勾配となっており、北東隅に櫓台が構築されている。その北側には、前述の通り堀切が穿たれている。この堀切は薬研堀ではなく箱堀状で、二ノ郭と繋がっているので、二ノ郭の一部としても機能していたと考えられる。二ノ郭の東側には谷戸状の平場があり、馬場とされている。主郭背後の尾根にも散策路が通っており、三角点のあるピークが狼煙台・物見台とされている。狼煙台跡は「土塁囲みで希少価値の高い城郭遺構」と解説板に記載されているが、残念ながら四阿の設置でよくわからなくなってしまっている。尾根上は自然地形が多いが、所々に段曲輪や土塁・虎口らしい地形が確認できる。光念寺の奥に観音堂と高宮が鎮座し、ここが搦手だったとされ、尾根上の散策路を歩くと、ここに降りてくる。末吉城は、交通の要衝を押さえる重要な城ではあったが、遺構を見る限り堅固に固めた大規模な城ではなく、比較的少数の兵で街道の監視を主任務とする城だった様である。
大手道の枡形虎口→IMG_6420.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.012200/136.785042/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城を攻める 城を守る (講談社現代新書)

城を攻める 城を守る (講談社現代新書)

  • 作者: 伊東 潤
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/02/19
  • メディア: 新書


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館開城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6301.JPG←西斜面の竪堀群
 館開城は、徳田城とも言い、この地の土豪得田氏の詰城である。得田氏は、鎌倉時代には幕府の御家人で、得田館に居住していた。以後、戦国時代まで続いた武家で、室町時代に畠山氏が能登守護となると、その家臣となった。館開城の城主は得田佐渡守であったとも伝えられる。1576~77年にかけての上杉謙信の能登侵攻の際、得田秀章・章種父子は鹿島郡荒山で討死したと言う。

 館開城は、比高わずか30m程の城山に築かれている。城山の南に西から入り込んだ谷戸があるが、ここに小道があり、城の南の尾根まで通じている。この谷戸はおそらく大手で、内部にある平場には小屋などが建っていたと思われる。城は、頂部に南北2郭を堀切を介して並べており、南が主郭、北がニノ郭となっている。主郭の南辺に土塁が築かれ、南東に虎口が築かれている。主郭と二ノ郭の間には幅広の土橋が架けられている。二ノ郭の北側下方には堀切を介して三ノ郭が置かれている。また主郭の周囲にも堀切を介して西郭・南郭・東郭が置かれている。便宜上「郭」と呼称したが、これらの出曲輪はしっかりした削平はされておらず、堀切前面の櫓台的な作りである。主郭の南側から西側、更に二ノ郭の西側までにかけては腰曲輪が築かれ、主郭の南西斜面と西斜面に何本かの竪堀群が落ちている。ネット上ではこれを「畝状竪堀」と呼んでいるものもあるが、「畝状」と言うほどの本数はなく、二重竪堀・三重竪堀程度である。しかもこれらの竪堀は幅広で、箱堀状になっているのが特徴的である。またこの城で出色なのは、南尾根から主郭虎口まで至る動線構造である。南尾根の側方に築かれた腰曲輪を経由して主郭南の堀切に至り、ここにT字に交差している主郭南東の堀切が堀底道を兼ねていてそこを登り、ようやく左手に主郭虎口が現れる。この間、城道は常に左手にそびえる主郭塁線上からの攻撃を受け、また反対の右手側にも出曲輪の櫓台がそびえ、そこからの攻撃にも晒されるという巧妙な枡形虎口となっている。この他、南尾根に小堀切が穿たれて城域が終わっている。館開城は大きな城ではないが、竪堀群と堀底道への攻撃構造が巧妙で面白い。
西郭~主郭間の円弧状堀切→IMG_6285.JPG
IMG_6327.JPG←二ノ郭から見た堀切と主郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.048961/136.827571/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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石動山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6203.JPG←主郭外周の横堀と帯曲輪
 石動山城は、山岳信仰の霊山として栄えた石動山院内に築かれた山城である。1576年、能登制圧のため七尾城攻略を進める上杉謙信が、七尾城の背後を押さえる為に築き、重臣の直江大和守景綱を守将として置いたと伝えられる。翌77年、謙信は石動山大宮坊に本陣を置いて七尾城を攻撃したが、有名な9月十三夜の詩「霜は軍営に満ちて秋気清し・・・」はこの城で詠じたものと言われる。1582年6月、織田信長滅亡後に寺領奪還を目指す石動山宗徒と信長の部将前田利家との間で戦闘が行われ、荒山城攻略の翌日、前田勢は石動山院に攻め入り、一山に火を放った。栄華を誇った石動山寺坊約300坊の堂塔伽藍はことごとく焼き尽くされ、石動山城もその役目を終えたと考えられる。

 石動山城は、石動山の奥の院「大御前」の峰から南東へ鞍部を一つ挟んだ、標高520mの峰に築かれている。国の史跡に指定されている石動山の中にあるので、遊歩道が整備されていて訪城は容易である。山頂に台形状の主郭を置き、周囲に腰曲輪を廻らしている。主郭の北東と北西の2辺には低土塁が築かれ、また主郭の東から北東辺にかけては切岸下に横堀が穿たれて、その外周に帯曲輪が置かれている。この横堀は、北西端までそのまま腰曲輪を貫通して堀切っており、外側の腰曲輪北端は物見台となっている。また、南東・北東・西の三方に伸びた尾根上に段曲輪を築き、北東尾根では先端に竪堀・堀切を穿っている。城としては簡素な作りの小城砦であるが、石動山院の詰城的な位置付けから考えて、機能的にはこれで十分であったのだろう。
北東尾根先端の堀切→IMG_6180.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.964518/136.974471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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荒山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6023.JPG←二ノ郭から見た主郭
 荒山城は、荒山砦とも言い、石動山衆徒と織田勢が戦った荒山合戦の舞台となった城である。元々は、1577年に七尾城主能登畠山氏が、上杉謙信の侵攻に備える為に築いたと言われている。謙信は七尾城を攻略すると、荒山城にも守将を配置した。1582年6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、石動山衆徒は寺領の奪回を目指して越後の上杉景勝に支援を求め、信長の部将前田利家を討とうと動き出した。そして畠山氏旧臣の温井備中守景勝・三宅備後守長盛と共に、荒山砦に立て籠った。利家は、柴田勝家と佐久間盛政に加勢を頼み、佐久間勢が2500の兵で山麓の高畠に着陣すると、利家は長連龍を七尾口へ向かわせ、自身は3000の兵を率いて柴峠に出陣し、宗徒側の軍勢の分断を図った。宗徒側は荒山城の出城を構築している途中で、前田勢は温井・三宅軍を急襲し、これを破った勢いに乗じて荒山城を攻め落とし、阿弥陀院俊慶・大和坊覚笑ら多数の宗徒が討死した。これを荒山合戦と言う。この合戦に勝利した前田勢は、翌日石動山院に攻め入り、一山に火を放った。こうして栄華を誇った石動山寺坊約300坊の堂塔伽藍はことごとく焼き尽くされた。

 荒山城は、標高486mの桝形山に築かれている。かなり高所に位置しているので、360度の眺望に優れる、まさに天空の城である。富山湾まで一望でき、立山連峰も見渡すことができる。山頂に台形状の主郭を置き、東面以外の外周に腰曲輪状の二ノ郭を廻らし、更に北尾根・北西斜面・東尾根に段曲輪群・腰曲輪群を築いている。特に北尾根の段曲輪群はそれぞれの曲輪の面積が大きく、曲輪の数も多い。城内通路を兼ねたと思しき小堀切も確認できる。北西斜面の曲輪群の中に竪堀の様な溝地形も見られる。しかし全体的には、基本的には堀はあまり構築されておらず、尾根や斜面に曲輪群を連ねた多段式の山城であった様である。現在は公園として整備されており、近くまで車道が伸び、遊歩道も整備されているので、訪城はたやすい。但し、主郭周辺と北西斜面以外は薮である。
 尚、石動山に繋がる東尾根にも堀切や折れを伴う通路などがあるらしいが、薮が多く見逃した。
北西斜面の腰曲輪→IMG_6014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.954710/136.944945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

能登中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2015/08
  • メディア: 大型本


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坪井山砦(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5727.JPG←外周の横堀
 坪井山砦は、坪山砦とも呼ばれ、末森合戦の時に佐々成政が本陣を置いた陣城である。元々は七尾城を本拠とした能登畠山氏の勢力が築いた砦とされる。一説には、畠山七人衆と呼ばれる重臣層に追放されて近江に亡命していた畠山義綱が能登入国を図るのに備えて、1567年に七尾城方の温井・三宅一族が坪井山砦を築いたとも言うが、遺構を見る限りではこの所伝には少々疑問を感じる。1584年、加賀能登を領する前田利家の領国を分断するため、佐々成政は末森城攻略を図った。ここに名高い末森合戦が生起した。その詳しい経緯は末森城の項に記載する。成政は、坪井山に本陣を置いて末森城に猛攻を掛けた。しかし利家の迅速果敢な後詰め戦により、搦手を突破されて城兵との合流を許してしまった。勝機を失った成政は、敵地での長い補給線と退路の確保を考慮して、本陣を引き払い越中に撤退した。

 坪井山砦は、標高約50mの低丘陵に築かれている。丘陵東麓に白山神社があり、その脇から小道が付いているが、途中で道が消えるので、とにかく西に向かって進んでいけば砦に到達する。砦は長円形をしており、東端に大手虎口を設け、外周に帯曲輪または横堀で防御している。西端にも搦手虎口があり、堀切を穿ち土橋を架けている。また北側に出曲輪があり、基部は主郭外周の横堀と兼用した堀切で分断している。一応この様な遺構は見られるが、普請は非常にささやかなもので、臨時的な陣城と言う色彩が強い。同じ陣城でも、例えば韮山城付城群等に見られるような複雑な構造は見られず、普請は極めて小規模である。それは、末森合戦が短期決戦を主眼とした奇襲攻撃であり、長期滞陣をする意図が最初からなかったからなのだろう。越中から国境を越えて出撃してきている佐々勢にすれば、長期攻囲戦になった時点で兵站の問題から撤退を余儀なくされる乾坤一擲の作戦であったことがうかがわれる。
大手虎口→IMG_5696.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793804/136.759894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


佐々成政 (人物文庫)

佐々成政 (人物文庫)

  • 作者: 遠藤 和子
  • 出版社/メーカー: 学陽書房
  • 発売日: 2010/04/05
  • メディア: 文庫


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御舘館(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5681.JPG←外郭南東部の横矢の張出し
 御舘館は、歴史不詳の城館である。岡部六弥太忠澄の後裔を称する、口能登の岡部氏一族の居館との伝承もあるが、確証はない。発掘調査の結果では、御舘館の存続年代は、南北朝時代から室町時代及び戦国時代であり、14世紀後半~15世紀前半と16世紀後半の二時期に盛期を持つと推測されている。

 御舘館は、杓田川北岸の比高10m程の段丘の南の縁に面して築かれた城館である。基本的には方形館で、コの字型の二重の堀で囲まれた梯郭式の縄張りとなっている。内郭は土塁がなく、堀だけで囲まれているが、南西角のみ櫓台が築かれている。また外郭は帯曲輪状でコの字状に廻らされ、東側では広幅の曲輪となり幅のある土塁を築いて防御している。しかも南東部だけ横矢の張出しを設け、更にその南端部は堀が台地の縁に沿って内側に入り込んでいる。東側に向かって防御を固めているが、これは館の東側に加賀・能登を結ぶ街道が通っていたからだと思われる。この他、現在は遺構がないが、発掘調査の結果では東と北にも更に曲輪があったらしい。御舘集落に隣接した山林の中に、奇跡的に明確な遺構が残る謎の城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.802378/136.767683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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龍ヶ峰城(石川県津幡町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5559.JPG←三ノ郭から見た主郭
 龍ヶ峰城は、加越国境城砦群の一である。北陸道を扼する要衝に位置しており、最初は加賀一向一揆が築いたと考えられている。1573年の上杉謙信の越中侵攻の際には、一向一揆に加担する土豪村上右衛門が在城していたが、上杉勢に攻略された。その後、織田信長の勢力が北陸に伸びると、越中を与えられた佐々成政の属城となった。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の金沢城主前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に使用された城である。成政は、龍ヶ峰城に佐々平左衛門を配置して前田勢に備えた。1585年、利家の弟前田秀継・利英父子の攻撃を受け、数度の戦いの後、前田勢によって攻略された。

 龍ヶ峰城は、標高194.5mの城ヶ峰に築かれている。城のすぐ直下には旧北陸道が通っており、城の役割がよく分かる。現在城跡は公園化されており、堅田城と同様に、ここもほぼ全ての遺構が見て回れる様に遊歩道が整備されている。山頂に狭小で細長い主郭を置き、その南斜面に三ノ郭などの腰曲輪群を段々に築いている。また主郭から北に細尾根(実質的な土橋)で繋がった小さな二ノ郭を配置し、二ノ郭の北東と北西に小郭を配置し、北尾根に2つの堀切と小郭群、北西尾根にも堀切と物見台を築いている。主郭・二ノ郭の東斜面にも腰曲輪群を配置し、眼下の北陸道を監視している。以上が遺構の全容で、大きな城ではなく、大した兵数も籠められそうにない。少数の兵で街道を押さえる任務を負った城だったのだろう。
北尾根の曲輪群→IMG_5585.JPG
IMG_5618.JPG←旧北陸道から見た龍ヶ峰城

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.662360/136.796908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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鳥越弘願寺(石川県津幡町) [古城めぐり(石川)]

IMG_5537.JPG←北西角部の土塁
 鳥越弘願寺は、一向一揆が築いた寺院である。寺とは言うものの、一向宗の総本山であった石山本願寺(後の大坂城)がそうであった様に、鳥越弘願寺も実質的に「鳥越弘願寺城」と呼んで差し支えない規模の城郭寺院である。1350年に本願寺3世の法主覚如の弟子玄頓によって創建されたと言われる。北加賀における一向宗の最初の拠点と考えられており、1488年の加賀一向一揆の頃には城塞化されていたらしい。その後、1580年に織田勢が加賀に大軍で侵攻した際、織田信長の部将佐久間盛政は能登末森城攻略に向かう途上、弘願寺を陣営にしようとしたが断られた為、弘願寺を焼き払ったと伝えられている。江戸初期の1609年、弘願寺は津幡町加賀爪に移転したと言う。

 鳥越弘願寺は、前述の通り「鳥越弘願寺城」と言うべきもので、大国主神社の周囲に高さ5m以上もある大土塁が残っている。神社のある平場は御屋敷跡と言われ、大土塁は神社の北・西・南にコの字状に残っている。特に北側の土塁は一段高くなっており、また土塁の上部は平坦になっていて、塀や櫓などの構造物が建っていたと推測される。また神社の南東にも、東西60m以上の長さの大土塁が残っている。現在の形状から推察すると、往時は寺の四周を大土塁で囲んでいたのだろう。尚、南の土塁上には、町の天然記念物の巨木が2本あり、小さな墓地もある。鳥越弘願寺は、遺構としては土塁だけで、しかもそのほとんどが薮に埋もれてしまっている。不覚にもコンタクトレンズをまた無くしてしまい、私には因縁の城ともなってしまった。
南西角の土塁→IMG_5517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.689293/136.776030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
  • メディア: 単行本


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堅田城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5425.JPG←北西斜面の畝状竪堀
 堅田城は、歴史不詳の城である。木曽義仲の砦との伝承があるが、元より当てにはならない。発掘調査の結果では、山麓居館らしい堅田B遺跡は鎌倉時代のものと推測され、堅田城はその縄張りから戦国後期の姿を留めるとされる。加賀一向一揆が築いたとの説もあるが、この城には畝状竪堀が構築されており、加賀の城で畝状竪堀というのは極めて特異であり類例もない。一方で能登にある畝状竪堀の城は越後上杉氏勢力による改修とされていることから、堅田城も何らかの形で上杉氏勢力が介在した城ではないかと個人的に推測している。

 堅田城は、標高113.1m、比高100m程の山上に築かれている。南麓に小原越、西に北陸道が通る交通の要地にある。現在、市の史跡に指定されており、主要部は公園化され、遊歩道も整備されているので訪城はたやすい。山頂に不定形で横長の主郭を置き、その西から南に向かって張り出した舌状部に二ノ郭・三ノ郭を築いている。主郭西端には櫓台があり、ニノ郭を見下ろしている。主郭内部は北側に大きくえぐれた低地部分があるなど、起伏がある。ニノ郭は上下2段の平場に分かれている。また主郭の東には東郭があり、南には南郭が築かれている。これが城の中心部で、この中の曲輪はいずれも段差だけで区切られている。この中心部を取り巻くように腰曲輪と武者走りが外周を廻り、西・南・南東・北に派生する尾根に堀切を穿ち、西尾根以外ではそれぞれ尾根上の曲輪の先に更に堀切を穿って分断している。南東の外側の堀切のみ、中央に土橋が架かっている。主郭背後に当たる北側だけは、鋭い大堀切となっている。3つの尾根の内側の堀切は、前述の腰曲輪や武者走りに通じており、城内通路としても機能していたことがわかる。この城で出色なのは、前述の通り畝状竪堀が穿たれていることで、北西斜面と北斜面に大型の畝状竪堀が刻まれている。この他、南西の尾根を登ったところには虎口が築かれ、両翼にそびえる平場から攻撃を受けるようになっている。遺構は以上の通りで、遺構は完存し、薮払いもされ、しかもほぼ全ての遺構が見て回れる遊歩道が整備されていて、素晴らしい。
主郭の櫓台→IMG_5383.JPG
IMG_5447.JPG←主郭背後の大堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.612496/136.706636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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朝日山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5324.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 朝日山城は、加越国境城砦群の一である。一説には、1573年に上杉謙信が加賀一向一揆の拠る朝日山を攻めたとも言われるが、確証はない。朝日山城がはっきりと姿を表すのは1584年のこととされる。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の金沢城主前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。朝日山城は、田近越(田近道)を押さえて、佐々方の一乗寺城と対峙する前田方の城であったと推測されている。利家が成政の攻撃に備えるため、家臣の村井長頼に築城させたと言うのが一般的であるが、築城中に佐々勢の攻撃を受けて一時占拠されたとも、或いは佐々勢が築城したものを村井勢が奪って改修したとも伝えられ、築城の経緯には不明点が多い。

 朝日山城は、標高190mの丘陵上に築かれている。西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を一直線に連ねた連郭式の縄張りで、主郭と二ノ郭の間は堀切で分断し、周囲には腰曲輪を一段廻らしているだけの簡素な縄張りである。昭和50年代から、城の周囲では採土が進められ、現在でも城の間近まで荒涼とした景色が広がってしまっている。採土は主郭のすぐ西側まで迫っていたものを、金沢市教育委員会の行政指導によって危うく破壊を免れたと言うが、見る限りでは主郭・二ノ郭の南面も削られて、地山の断面が見えている。一応、主要な遺構は残っており、主郭~二ノ郭間の堀切や、北側の腰曲輪ははっきりと残っている。しかし主郭も二ノ郭も耕作放棄地らしく、低い薮で覆われていて酷い有様だが、幸い見通しが効くので、一応の遺構の確認は可能である。『日本城郭大系』の縄張図を見ると二ノ郭と三ノ郭の間にも堀切がある様だが、現在は切岸だけで区画され、堀切は確認できなかった。これは、三ノ郭上面が削られた可能性もあるだろう。遺構が残っているとは言え、とにかく無残な姿を晒しており、残念と言う他はない。
主郭北側の腰曲輪→IMG_5340.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.628478/136.763091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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切山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5089.JPG←主郭西側の出枡形
 切山城は、加越国境城砦群の一である。金沢城主前田利家の支城の一つであったと考えられている。また一説には不破彦三が城主であったと伝えられるが、それが前田家家臣の不破直光のことなのか、それともその父光治のことなのか、よくわかっていない。
 本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。切山城は、越中側に大きな堀を設けていることから、小原越(小原道)を押さえ、佐々方の松根城と対峙する城であったと推測されている。また発掘調査の結果、城域北東端の堀によって小原越が切断されていることが判明しており、城が街道を戦時封鎖していることを遺構で確認できた初めての事例とのことである。

 切山城は、標高139m、比高100m程の丘陵上に築かれている。現在、松根城とともに「加越国境城跡群及び道」として国の指定史跡となっている。しかし国指定なのに城まで至る道には誘導標識や看板が全くなく、ちょっと不安になってしまった。一応、城の北東に駐車スペースと史跡石碑・解説板が設置されているが、特に散策路はなく、遺構の標柱も設置されていない。中世城郭の城歩きに慣れていない人には、ちょっと難易度が高い。
 城は、不等辺五角形の主郭を中心に、周りに腰曲輪状のニノ郭を廻らし、西尾根に2本の堀切と数個の曲輪を配置し、北東には小原道を監視する外郭が築かれている。この城で出色なのは主郭周囲の構造で、全周を低土塁で囲んだ主郭に対し、西側の大手虎口は出枡形を設けた二重枡形虎口を構築し、北東には主郭と堀切で分断し土橋で連結した角馬出しを築いている。また主郭南角にはニノ郭に突出した櫓台を設けている。櫓台の下方は薮だらけなのでわかりにくいが、ニノ郭に侵入した敵に対する攻撃点であると同時に、下方を通る小原道をも攻撃できる絶好の位置にある。ニノ郭の北東は緩斜面となっていて、そのまま外郭に至る。外郭は笹薮に覆われているので構造がわかりにくいが、土塁や櫓台らしい高まりが確認できる。コンパクトでシンプルな縄張りの城であるが、桝形虎口や角馬出しなど見応えがある。但し、二ノ郭の南・東と外郭は薮がひどい。今後の整備に期待したい。
主郭南角に突出した櫓台→IMG_5075.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.600542/136.745131/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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柚木城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4973.JPG←主郭~二ノ郭間の土橋・堀切
 柚木城は、歴史不詳の城である。現地解説板によれば、尾山御坊と越中を結ぶ最短経路(三の坂道)の途中に位置しており、16世紀後半に築かれた城と推測されている様だ。

 柚木城は、標高200m、比高80mの山上に築かれている。城跡は現在、直江谷健康の森の一部となり歴史広場として整備されているので、迷うことなく訪城できる。多数の曲輪群で構成された城で、頂部に縦長の長方形の主郭を置き、北東の斜面に二ノ郭群を築いている。主郭は南西隅に櫓台を設け、西辺に低土塁を築いている。二ノ郭群は3段の平場で構成され、主郭との間に堀切を穿ち、南端に土橋を架けている。二ノ郭群の両側には腰曲輪が築かれ、主郭との間の堀切は北側の腰曲輪に繋がっている。二ノ郭群の下には横堀が廻らされ、防御線を築いている。この横堀は二ノ郭群の右側面まで伸びている。横堀の外周にも緩斜面の曲輪があり、北東の尾根には小堀切も見られる。二ノ郭群右側面の横堀の外には、登城道を兼ねた帯曲輪があり、その先に虎口が築かれて、主郭・二ノ郭間の土橋脇の虎口郭に至る。この虎口郭は主郭東側の腰曲輪にも繋がり、最上段には南と東に低土塁を築いた東郭がある。ここから南東に伸びる尾根に小郭群が連ねられ、尾根先端に物見のような平場が築かれている。以上が遺構の概要で、柚木城は薮も少なく、遺構が明瞭で見応えがある。遺構を見る限り、織田氏勢力の介在はなかったらしく、織田勢の加賀制圧以前に機能していた城と考えられる。
二ノ郭群下方の横堀→IMG_4982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569166/136.758800/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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高峠城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4942.JPG←南尾根曲輪群の堀切
 高峠城は、加越国境城砦群の一である。元々は、越中川上の雑賀(坂井)日向守の居城であったとの伝承がある。その後は加賀一向一揆の城となり、1580年の織田勢による加賀制圧・尾山御坊の攻略の際、この城でも戦いがあったらしく、一揆方戦死者の供養の碑が城の東側に建てられている。1583年には金沢城主前田利家の支城の一つとして、家臣不破彦三直光が城主であったと伝えられる。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い。高峠城は、二俣越(二俣道)を押さえ、佐々方の荒山城と対峙する城であったと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。

 高峠城は、標高220mの山上に築かれている。山頂の主郭を中心に、東・西・南の三方に伸びる尾根上に舌状曲輪群を連ねただけの古風な縄張りである。東尾根は林道建設で一部破壊されたようで、あまり大した遺構は確認できない。南尾根には細長い曲輪が2段確認でき、その間には中規模の堀切が穿たれている。西尾根の曲輪群は尾根に沿って延々と伸びており、確認できただけでも5~6段の曲輪があるようだ。西尾根にも2本の堀切が確認でき、主郭の直下に小さいのが一つと4~5段目の間に中規模のものが一つ見られる。4段目の曲輪は北側に土塁を築いており、現在でも城の北側を通る道(これが二俣道なのだろう)に対する防備を意識していたことがわかる。
 只この高峠城、遺構はよく残っているが、全山笹薮に埋もれてしまっており、縄張りの細かい部分は確認できないのが残念である。
主郭の現況→IMG_4922.JPG
IMG_4935.JPG←西尾根の堀切と上段曲輪の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559446/136.748157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学習研究社
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: ムック


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荒山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4802.JPG←城域西端の横堀
 荒山城は、加越国境城砦群の一である。天正年間(1573~92年)に越中を領した富山城主佐々成政が、加賀・能登を領した前田利家に対抗するために築いた城と考えられている。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。荒山城は二俣越(二俣道)を押さえ、前田方の高峠城と対峙する城として築かれたと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。

 荒山城は、医王ダム北方の標高260mの東西に細長い丘陵上に築かれている。加越国境城砦群は、いずれも街道を取り込む形で築かれているが、荒山城も城のすぐ北側を二俣道が貫通しており、それを見下ろす様に築城されている。また街道を西から東進して来る敵勢を食い止めることを主眼として築かれている為、城域の西端に横堀・切岸・土塁による防御線を築き、切り通し状になった街道に対して両翼から迎撃できる様に、街道両側に腰曲輪群が築かれ、特に主城域である南側は腰曲輪群が幾重にも構築され、北西部には櫓台らしい土壇や竪土塁も確認できる。この街道南側の腰曲輪群には、数ヶ所に竪堀状の切れ込みがあるが、囮虎口であったか、或いは本物の虎口として機能していたか、どちらかではなかろうか。これら腰曲輪群の南東の頂部に主郭がある。主郭は櫓台と土塁を備え、北側に腰曲輪状の二ノ郭を置いている。また主郭の前後には堀切を穿ち、土橋で連結した馬出しが各々設けられている。東馬出しの先には細い尾根上を堀切で分断した曲輪群が続き、中規模の二重堀切も設けられている。敵に対して後方に当たることから、万一敵に背後に回り込まれても、主郭に容易に近づけない様にしたものだろう。城域東端には高圧鉄塔が建っているが、その東にも小堀切が見られるので、鉄塔建設の際に曲輪が削られたらしい。
 荒山城は、外郭まで遺構が良く残っており、季節を選べば比較的薮も少ない。城へのアクセスが容易なのもありがたい。
二重堀切の内堀と中間土塁→IMG_4696.JPG
IMG_4735.JPG←東馬出しから見た土橋・堀切
竪堀状の切れ込み→IMG_4826.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.564599/136.781008/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学習研究社
  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: ムック


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二曲城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4592.JPG←主郭前面の桝形虎口と石敷道
 二曲(ふとげ)城は、織田軍に徹底抗戦した加賀一向一揆が、鳥越城と共に最後の拠点とした城である。元々はこの地の土豪二曲右京進によって築かれた。二曲氏は、山麓の通称「殿様屋敷」に居館を置き、山上に二曲城を築いて詰城としていた。1570年以後、本願寺から派遣された鈴木出羽守が一向一揆山内衆(白山麓の門徒衆の総称)の大将となると、織田軍に対する防御を固めるため、二曲城の向かいの山に新たに鳥越城を築き、二曲城はその支城となった。1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は同年4月に尾山御坊を攻略した。しかし白山麓の一向一揆山内衆は、鳥越城・二曲城を拠点に頑強に抵抗を続けた。鳥越城の固い守りに苦戦した勝家は和睦を持ちかけ、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して謀殺し、11月に鳥越城・二曲城共に落城した。鈴木出羽守を殺された後も山内衆は抵抗を続け、二度に渡って蜂起した。一度は鳥越・二曲両城を奪還したが、間もなく佐久間盛政に攻略された。1582年には信長から一揆残党の掃討の命を受けた盛政は、峻烈な一揆弾圧を行い、300余名の門徒衆が磔刑となった。ここに100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。

 二曲城は、鳥越城から大日川を隔てて南にそびえる標高260m、比高75mの山上に築かれている。北の峰に主郭を置き、鞍部を挟んで南の峰に、独立した曲輪である五ノ郭を置き、間の谷部の最上段には四ノ郭、主郭から西に下る尾根筋にニノ郭・三ノ郭を配置した縄張りとなっている。鳥越城と比べると、かなり規模の小さな小城砦である。三ノ郭の前面は両側を堀切で穿って小郭を置き、背後の二ノ郭との間も片堀切で分断し、側方に土橋を架けている。ニノ郭は小さい曲輪ではあるが、桝形虎口と設け、土塁で囲まれ、掘立柱建物跡も見つかっている(発掘調査結果に基づいた表示あり)。土塁などは復元整備されたものだが、史跡整備をした後に豪雨などで崩れており、二ノ郭北斜面も崩落している。二ノ郭から主郭まではやや離れているが、尾根にいくつもの段曲輪が築かれている。ニノ郭虎口や主郭虎口に石畳みをコンクリートで固めた道が付いているが、これは発掘調査で見つかった石敷路を復元したものらしい。主郭も前面に桝形虎口を築いた三角形の小さな曲輪であるが、掘立柱建物跡や井戸、櫓があったらしい。主郭の北側には2段の帯曲輪が築かれ、南隅にも小郭が築かれている。谷部にある四ノ郭は、倉跡が見つかっており、前面には石垣で補強された堰の様な土塁が築かれている。五ノ郭は、史跡整備された痕跡はあるが、辛うじて登り道が残るが薮でほとんど途絶しかかっており、現在はほとんど未整備で、曲輪内も猪にかなり荒らされている。辛うじて外周の土塁が確認できるだけの小さな曲輪で、物見程度のものである。
 二曲城は、鳥越城と共に国指定史跡になっているので、一旦は復元整備がされたが、現在はかなり荒れてきており、ちょっと残念な状態である。城の遺構面でもかなり見劣りする。
堀切と三ノ郭→IMG_4586.JPG
IMG_4621.JPG←四ノ郭前面の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357198/136.600957/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国と宗教 (岩波新書)

戦国と宗教 (岩波新書)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/22
  • メディア: 新書


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岩倉城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4474.JPG←土塁で囲まれた主郭
 岩倉城は、加賀一向一揆が築き、後に織田軍の城砦となった。享禄年間(1528~32年)に一向一揆勢が越前朝倉氏の猛将朝倉宗滴の攻撃に対して城を築いたとされ、城主は沢米左衛門、家老は勘右衛門・惣左衛門と伝えられている。元亀年間(1570~73年)頃には、鈴木出羽守が守る鳥越城の出城として三坂峠を守った。1575年、織田軍の攻撃により落城したが、一揆勢によって再び奪還された。その後、両軍の最前線基地として攻防が繰り返されたが、1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、11月に鳥越城が落城した。その後も一揆残党が蜂起して一時は鳥越城・二曲城を奪還するなどしたが、1582年に信長の命を受けた佐久間盛政は、一揆残党に対して峻烈な弾圧を行い、100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。加賀一向一揆が殲滅されると、岩倉城も対の城としての役割を終えたものと推測されている。

 岩倉城は、標高296m、比高230m程の山上に築かれている。南西麓から登山道が整備されており、国土地理院地形図にも道が記載されているので、GPSさえ持っていれば迷うことはないが、城までの道程は長い。山麓の国道脇に出ている道案内図は地元の有志が作ったらしい力作だが、あまりにザックリし過ぎているのと、距離感や実際のルート形状が合っていないので、ほとんど参考にならない。とにかく分岐が出てきたら真っ直ぐ進んで行けば城址に至る。城に近づくと、広い平坦な尾根があり、米左衛門屋敷(おそらく城主居館)とされている。その先では道が二又に分かれ、左が大手道で主郭に至り、右が岩倉観音のある帯曲輪に至る(以下、遺構の名称は現地縄張図の表記に従う)。岩倉城は全周を土塁で囲繞した大型の縦長の主郭を持ち、北西・北東・南西の3ヶ所に虎口を設けている。大手門は北西の虎口とされ、前述の大手道は堀底道となってここに至る。虎口の前には小郭が置かれ、城道はここで90度折れ、更に反対方向に90度折れていて、実質的な桝形虎口となっている。この城で素晴らしいのは搦手門とされる北東の虎口で、外に広い土塁で囲まれた角馬出しを設け、更にそこから南北2方向に虎口が開いている。南の虎口は平虎口で腰曲輪に通じているだけだが、北の虎口は土塁で囲まれた細い屈曲した枡形通路となり、主郭北側下方の攻撃用虎口郭に通じている。この攻撃用虎口郭というのも角馬出しで、全周を土塁で囲み、北東と南西の2ヶ所の虎口が開き、北東の虎口の外は更に横堀状通路となって北尾根に通じている。主郭の北側の土塁は周囲より一段高くなった櫓台となっていて、この攻撃用虎口郭を上方から見下ろせるようになっている。この様に主郭搦手は二重馬出しを設けた、巧妙な多重桝形虎口となっている。主郭南西の虎口は現地表記では東門とされ、西の帯曲輪から入る虎口で、わずかに土塁が食い違いとなっている。この他、主郭の外周には帯曲輪・腰曲輪が廻らされ、南東尾根の先は小ピークとなり出曲輪が設けられている。
 岩倉城は、大規模な城ではないが、二重馬出し・多重桝形虎口を設けるなど、縄張り的には加賀南部の城の中では鳥越城・舟岡山城に並ぶ出色の城で素晴らしい。こうした造りは織田氏勢力の築城法と推測され、織田勢が鳥越城攻撃の拠点として、この城を大きく改修したことを物語っていると考えられる。現地解説板でも玄蕃尾城との類似を指摘している。尚、この解説板、手書きの古いものではあるが、縄張図もかなり正確で、解説記述も細部にわたっており、見事な力作である。これほど遺構も見事で、整備もしっかりされているのに、県も市も史跡に指定していないのは不思議というほかはない。
馬出し間を繋ぐ桝形通路→IMG_4522.JPG
IMG_4526.JPG←角馬出し(攻撃用虎口郭)
米左衛門屋敷→IMG_4448.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.378536/136.562655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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日谷城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4358.JPG←二ノ郭内側の横堀
 日谷城は、檜屋城とも記載され、加賀一向一揆・越前朝倉氏・織田氏がそれぞれ戦術拠点とした城である。応仁・文明の大乱(1467~77年)の頃、遠来の武将に対抗するため檜屋義久を中心に一向衆が日谷城を築城したと考えられている。1555年、越前朝倉氏の老練の猛将朝倉宗滴の加賀侵攻の際には、一揆衆は日谷城に立て籠もって抗戦したが落城した。以後、朝倉氏の持ち城となった。1567年、朝倉義景の家臣で北の庄城主堀江景忠が一向一揆に通じて謀反を起こすと、朝倉氏と一向一揆勢との抗争となったが、朝倉氏の元に身を寄せていた足利義昭の調停により和議を結び、その条件として一揆方の松山城及び朝倉方の大聖寺城・黒谷城・日谷城は焼却廃城となった。1575年、織田信長は3万6千の軍勢で越前一向一揆を殲滅し、更に加賀に乱入して江沼・能美2郡を制圧し、大聖寺城・日谷城を修復して戸次(別喜)右近広正・佐々長穐(ながあき)・堀江らの将を入れて、加賀一向一揆討伐の拠点とした。しかし広正らは加賀一向一揆の討伐に失敗した為、尾張に召還されたと言う。

 日谷城は、大聖寺温泉背後の標高110m、比高100m程の山上に築かれている。城跡は現在、日谷城址里山自然苑となっており、散策路が整備されてる。山頂に瓢箪型の主郭を置き、周囲に二ノ郭、三ノ郭を廻らし、北尾根には北郭を設けている。二ノ郭・三ノ郭は内側に浅い横堀を穿ち、北郭も外周を横堀で防御している。特に北郭の横堀は、北郭の南側の腰曲輪から見下ろせる位置に構築されており、上方の北郭と側方の腰曲輪と、両方から攻撃を受けるように設定されている。またこれらの曲輪はいずれも切岸が大きく、曲輪間の高低差が大きい。また北郭の尾根の基部には浅い堀切が穿たれている。更に北西尾根の薮をかき分けて段曲輪群を降っていくと、薮が途切れた先に綺麗に薮払いされた西出曲輪が、まるで隠れ里のように広がっており、その基部にはやはり堀切が穿たれている。日谷城は、それほど技巧的ではないが、高低差の大きい縄張りで、見応えがある。横堀の多用という点では、松山城と同一の築城思想が感じられる。
堀切と西出曲輪→IMG_4410.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.277631/136.335461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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松山城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4217.JPG←主郭外周の横堀
 松山城は、加賀一向一揆が築き、後に織田軍の城砦となった。史料上の初見は1555年の朝倉宗滴による加賀進攻の際、一向衆の篝火が置かれたとされる。この頃、一向衆によって朝倉氏の攻撃に備えて築かれたと推測される。1567年には、越前朝倉氏の元に身を寄せていた足利義昭が朝倉氏と一向宗の和睦を周旋し、松山城は一旦は焼却廃城となった。1580年の柴田勝家率いる織田軍による加賀一向一揆制圧戦の際には、松山城には徳田小次郎・坪坂新五郎らの一揆勢5~600人が立て籠もったが、柴田勝政・拝郷・溝口の諸将の山手からの攻撃により落城した。織田勢による加賀制圧の後は佐久間盛政の家臣徳山則秀が松山城主となったと言われる。1600年の関が原の戦いの際には、金沢城主前田利長が松山城を陣城として大聖寺城を攻撃した。

 松山城は、標高45mの丘陵上に築かれている。この丘陵を本城とし、西に伸びた尾根の先の小山に出丸を置いている。本城と出丸の間の平坦な平場は寺屋敷の地名が残っている。本城の前に西の出丸に登るとそこはタケノコ山で、訪城時はまだ4月末だったので、タケノコ狩りをしていた地元の人に許可をもらって入山した。西の出丸には「物見櫓」の看板が設置されており、輪郭式の縄張りとなっている。頂部の平場の周囲に2段の腰曲輪が廻らされ、下段の腰曲輪の南側は横堀状になっている。出丸と東の寺屋敷の平場や尾根との間には長い空堀が穿たれている。この空堀は、南部で「く」の字に曲がって尾根まで掘り切っている。出丸側には土塁が築かれ、城道が残り、土塁の西側には曲輪が広がっている。空堀を越えて東に進むと、本城への登道の前に「大臣泊館跡地」のプレートが現れる。どういう由来か、また寺屋敷との関連はどうだったのか気になるが、解説が何もないので不明である。その先には本城西尾根の曲輪群が現れる。北に2段の腰曲輪を伴った尾根上の細長い曲輪である。主郭は中央の小山にあり、塚のような土壇が曲輪内にある。主郭の外周には南面以外を横堀が穿たれている。この横堀は東西両端とも南端に土橋を設けて東西の尾根に繋がり、土橋付近では堀も深いが、北に行くに従って堀は浅くなっている。堀の外側には北西尾根・北尾根に曲輪群が築かれている。北尾根の付け根には松山古墳があり、往時は物見台として機能したのだろう。主郭の東には前述の通り土橋が架かっているが、この部分は二重横堀となっていて、土橋は直角に曲がって横堀外周の土塁に繋がり、その先で東へ曲がるルートとなる。更に東に土橋の架かった堀切が穿たれ、その先は東尾根の曲輪になっている。この曲輪は削平が甘く、土塁が築かれているもののほとんど自然地形に近い。以上が松山城の遺構で、織田軍が使用したにしては城の規模は小さく、主郭東の複雑な動線構造以外には見るべきものが少ない。一向衆殲滅後はあまり重要視されなかった城の様に思われる。
 尚、城内には一応の散策路はあるが、あまり整備はされておらず、特に主郭東側は薮が多くて、せっかくの複雑な動線構造が薮に埋もれており、少々残念である。
主郭西側の土橋→IMG_4177.JPG
IMG_4113.JPG←東の出丸の空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.312134/136.392410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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波佐谷城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4027.JPG←土塁で囲まれた主郭
 波佐谷城は、一向一揆の部将、宇津呂丹波が築いたと言われる。元々この地には、山田光教寺・若松本泉寺と並んで「加州三ヵ寺」「三山の大坊主」と呼ばれた波佐谷松岡寺があり、1531年の享禄の錯乱で松岡寺が焼亡した後に築城されたと考えられている。前述の三ヵ寺は、本願寺の法主蓮如の血をひく一家衆寺院で、加賀一向一揆を率いる大坊であった。波佐谷松岡寺は蓮如の3男蓮綱の創建で、その子蓮慶が当地に移したと言われる。1531年、一向宗徒の内紛によって越前の和田本覚寺・藤島超勝寺らの大一揆(それに対して松岡寺ら一家衆方は小一揆と称される)に夜討ちされ、道慶とその子実慶らは自害し、実慶の子顕慶は乳母に抱かれて能登の松波へ 逃れた。これが享禄の錯乱である。その後に築かれた波佐谷城は、加賀一向一揆の城砦の一として機能したが、1580年、織田信長の家臣柴田勝家の攻撃で陥落し、字津呂丹波・藤六父子は討死した。その後信長は、家臣村上頼勝を小松城に6万6千石で封じ、頼勝は一族の村上勝左衛門を波佐谷城に置いたとされる。頼勝は1598年に越後本庄城へ転封となっており、この頃までに波佐谷城も廃されていたと推測されている。

 波佐谷城は、大杉谷川東岸の標高90m、比高55mの丘陵上に築かれている。いくつもの谷が深く入り込んだ丘陵地で、北西端の平地に松岡寺があったらしい。ここは広い平場が広がっているだけで、明確な遺構はない。松岡寺跡の東に、磯前神社から登ってくる切り通し道(谷)を挟んで出砦がある。西辺に土塁や櫓台らしい土盛りが見られるが、遺構はそれだけである。ここから小道を東に向かうと大きな谷を渡って東側の丘陵地に至り、ここを南東に登っていくと本城に至る。本城は、1/4円形状の主郭と周囲の腰曲輪1段で構成されている。主郭は外周に土塁を廻らし、南西角に櫓台を築き、櫓台は横矢の張り出しとなっている。櫓台の内側には井戸跡らしい窪みがある。主郭の北と西面は腰曲輪との間に横堀が穿たれている。腰曲輪の北部には桝形虎口が設けられ、そこに至る尾根筋の登城道の脇には竪堀が長く穿たれ、枡形の脇まで穿たれている。また本城の西側にも大きな竪堀が穿たれ、竪堀の最上部は土橋が架かり、西の丘陵と区画している。本城から北西に下った丘陵先端部には出丸が設けられている。東の上段郭と西の下段郭と2郭で構成され、北面以外には土塁が設けられている。また北側斜面には腰曲輪が設けられ、背後の尾根には二重堀切を穿っている。波佐谷城は、松岡寺を含めた広大な城であるが、独立した曲輪群が散在しており、あまり求心性のない縄張りとなっている。
 尚、城への正規の登り口は非常にわかりにくく、磯前神社脇から登る迂回ルートの方がわかりやすい。また丘陵内には一応の散策路が整備されており、本城の主郭だけは整備されている。
本城の桝形虎口→IMG_3982.JPG
IMG_4003.JPG←本城西の竪堀
出丸の二重堀切の内堀→IMG_4066.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.340848/136.484764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出丸】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.342508/136.483562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出砦】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.341955/136.482146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【松岡寺跡】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.341453/136.481459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国と宗教 (岩波新書)

戦国と宗教 (岩波新書)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/22
  • メディア: 新書


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蓮台寺城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3878.JPG←主郭跡
 蓮台寺城は、加賀守護富樫氏の内訌の舞台となった城であり、また加賀一向一揆の誕生の地となった城である。応仁の乱が勃発すると南加賀の半国守護富樫政親は、細川勝元方の東軍に与した。しかし北加賀の半国守護となっていた赤松政則も東軍方で、赤松氏の支配に抵抗する富樫氏家臣団は、政親の弟幸千代を擁して西軍に属し、ここに富樫氏の家督を巡って政親と弟幸千代との争いが発生した。幸千代は浄土真宗高田派を支援していたため、劣勢であった政親は浄土真宗本願寺派の蓮如に支援を求め、蓮如は仏敵である高田派を一掃するため、富樫氏の内訌に武力介入する決断をした。1474年、本願寺派門徒を味方に付けた政親は、山川・本折・槻橋ら加賀の武士団の支持を得て、幸千代の立て籠もる蓮台寺城を攻囲した。数ヶ月に及ぶ攻防戦の末に蓮台寺城は陥落し、幸千代は虚空蔵山城に逃れて立て籠もった。しかし虚空蔵山城も攻撃を受けて支えきれず、幸千代は越中に亡命したと言う。蓮台寺城の戦いでは本願寺派門徒衆の力が勝因であり、この戦いが加賀一向一揆と称される本願寺派門徒による武装蜂起の始まりとなった。その後、時代は下って1600年、前田利長と丹羽長重が戦った北陸の関ヶ原と言われる浅井畷の戦いの際、長重方の武将江口三郎右衛門は蓮台寺城跡に陣を構え、前田軍を追撃しようとしたと言う。

 蓮台寺城は、蓮代寺町の南方の比高40m程の丘陵先端部に築かれている。但し、地元の有志が城跡として整備しているだけで、実際にここが蓮台寺城であったのかどうかは、公式には認められていないらしい。国道8号線のガード下をくぐって南側にある民家の脇から登道がある。登っていくと、堀切跡と思われる切り通しがあり、その左手に登っていくと主郭に至る。途中、曲輪状の平場や堀切の様な窪地も見られる。山頂の主郭には穴蔵跡があり、現地解説板では往時の遺構のような微妙な書き方をしているが、実際は近世の改変ではないかと思う。そのせいもあって、主郭の削平は甘くデコボコしている。主郭の北東尾根を下っていくと、ここにも曲輪状の平場が数段見受けられる。遺構としては以上で、一応城郭遺構らしいものは見られるが、一時的な陣城レベルのもので、長期籠城戦に耐えられるような城ではない。それとも追い詰められて急遽籠城したものであろうか。今後の考究に待つところが多い城である。
堀切状の窪地→IMG_3879.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370243/136.467361/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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鳥越城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3729.JPG←本丸の土塁と櫓台
 鳥越城は、織田軍に徹底抗戦した加賀一向一揆の最後の拠点となった城である。1570年に石山本願寺と織田信長の間で石山合戦が始まり、鳥越城もその軍事的緊張の余波で1573年頃に築かれたとされる。城主は、紀伊雑賀衆の首領鈴木孫一重秀の一族とも言われる鈴木出羽守で、出羽守は本願寺から派遣された武将とされる。1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は同年4月に尾山御坊を攻略した。しかし白山麓の一向一揆山内衆は、鳥越城・二曲城を拠点に頑強に抵抗を続けた。鳥越城の固い守りに苦戦した勝家は和睦を持ちかけ、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して謀殺し、11月に鳥越城・二曲城共に落城した。鈴木出羽守を殺された後も山内衆は抵抗を続け、二度に渡って蜂起した。一度は鳥越・二曲両城を奪還したが、間もなく佐久間盛政に攻略された。1582年には信長から一揆残党の掃討の命を受けた盛政は、峻烈な一揆弾圧を行い、300余名の門徒衆が磔刑となった。ここに100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。

 鳥越城は、手取川と大日川に挟まれた、標高310m、比高120mの城山に築かれている。現在国指定史跡となっており、城内は綺麗に復元整備されている。しかも山上まで車で行けるので、訪城は容易である。山上に北から順に後三の丸・後二の丸・本丸・中の丸・二の丸・三の丸を連ねた連郭式の縄張りとなっている。後三の丸は、後二の丸との間に大堀切を穿って分断した独立性の高い曲輪で、外周に横堀を廻らしている。南側には一段の小郭を置き、また南東には水の手を兼ねたと思われる「あやめが池」がある。後二の丸と本丸は小山となって後三の丸の南にそびえ、東側には腰曲輪を置き、後二の丸の北から西には横堀を穿っている。ここには小さな土橋が架かり、土橋の側面は石積みで補強されている。後二の丸と本丸との間は堀切で分断されている。本丸は長方形の曲輪で、内部に建物跡が復元表示されている。外周に低土塁を伴い、南東に櫓台を設け、南に桝形虎口を築いている。桝形虎口は石垣が綺麗に復元され、高麗門と櫓門も復元されている。しかしいくら何でも、天正年間(1573~92年)の山城に高麗門というのは実態に合わないように思うが、国指定史跡だから根拠もなく復元するわけがないので、判断に迷う。桝形虎口の東側は堀切となって東の腰曲輪に繋がっている。本丸の西には腰曲輪があり、登城道を兼ねている。本丸の南は中の丸で、土塁や柵列があり、南西に門が復元されている。中の丸の南に一段高く二の丸があり、ここにも土塁と櫓台が復元されている。二の丸の南に土橋の架かった堀切を介して三の丸が広がり、三の丸の南にも土橋の架かった堀切を介して段曲輪があり、その下方に広大な外郭(現地解説板ではマゴジクボと表示されている)があり、外周に大土塁を廻らしている。前述の三の丸南の堀切の東側には、堀切から落ちる竪堀につながる形で、コの字型の横堀・竪堀が築かれている。
 遺構は以上の通りで、鳥越城は織田氏による改修の可能性を残すものの、石垣の石は小さく、穴太積みのような近世的なものではないので、一向一揆時代の遺構を多く残していると思われる。それを考えると、一向一揆は戦国大名と同じレベルの高度な軍事集団で、城普請も戦国大名の一級城郭と変わらないレベルである。とても農民が単に武装化したレベルではない。そういう考証ができる点でも、鳥越城は貴重である。
本丸の桝形虎口→IMG_3713.JPG
IMG_3775.JPG←三の丸南の土橋と堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.366045/136.601129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/09/15
  • メディア: 単行本


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舟岡山城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3454.JPG←本丸南斜面の石垣
 舟岡山城は、剣城、白山城とも呼ばれ、一向一揆の城を織田勢力が改修した城である。長享年間(1487~89年)に一向一揆の将であった坪坂平九郎が居城し、その後若林長門がこの城に拠ったと言われる。1573年に織田信長が越前朝倉氏を滅ぼすと、加賀一向一揆は直接織田勢の攻撃に晒されることになった。この頃から加賀の要所要所に一向一揆勢により城砦が整備されたと言われ、舟岡山城もこの頃に金沢御堂の指導の下に修築されたと推測されている。1580年、金沢御堂の陥落後も鈴木出羽守に率いられた一向一揆山内衆は、鳥越城を本拠にして織田勢に徹底抗戦を続けていたが、晩秋の織田勢による大規模な加賀一向一揆平定作戦によって一揆勢の拠点は次々に奪われ、舟岡山城も信長の部将佐久間盛政によって攻略された。1583年、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に付いた丹羽長秀は、柴田勝家滅亡後に越前と加賀2郡を与えられ、丹羽氏の家臣早谷五左衛門が舟岡山城に在城した。1585年に長秀が没し、加賀2郡が金沢城主前田利家の所領となると、その家臣高畠石見守が城将として配置されたと言う。

 舟岡山城は、船岡山と呼ばれる大きな独立丘陵全体を城砦化した城である。この丘陵の南側は東西に細長い高台になっており、ここに城の中枢部が構築されている。高台の中央やや東寄りに本丸を置き、東西に堀切を穿ち、東に土橋で連結した二ノ丸と、その北に土塁で区画された三ノ丸を置いている。本丸の西には東と同様に土橋で連結したⅤ郭を置き、その西に細長いⅥ郭を配置している。主郭は南辺以外の三方に土塁を築き、北西には隅櫓台、東西の虎口には櫓門跡らしき土塁・櫓台を築いている。三ノ丸の南東の虎口から二ノ丸・三ノ丸の仕切り土塁の虎口を抜け、主郭への土橋に繋がるルートはすべて屈曲して設定されている。二ノ丸の南端には堀切と小郭が築かれている。Ⅴ郭は北側に横堀が穿たれ、南には桝形虎口が築かれてⅥ郭へと通じている。Ⅵ郭の西端には腰曲輪が数段築かれて、北に広がる外郭へと城道が通じている。本丸と三ノ丸の北側には土塁と空堀で囲まれた広いⅣ郭があり、土塁・空堀の屈曲部に北虎口の土橋を架け、Ⅳ郭南西端には主郭切岸や土塁・空堀で囲まれた枡形空間を伴った虎口が築かれ、ここも北に向けて土橋が架かっている。Ⅳ郭の北西はだだっ広いだけの外郭が広がっている。この城で素晴らしいのは、随所に石垣が見られることで、本丸では外周や虎口櫓台に石垣が見られ、特に南斜面の石垣は石も大きく、角部には算木積みまで見られる。二ノ丸・三ノ丸・Ⅴ郭にも石垣が随所に見られる。土塁も空堀もいずれも規模が大きく、桝形虎口も多用され、完全に近世城郭の作りである。中世城郭のつもりで行ったが、実際は天正年間(1573~92年)頃に大改修を受けた近世城郭であった。少々薮が多いが、予想外の好城郭で素晴らしい。鷹巣城とよく似た構造も多く、舟岡山城も織田氏勢力の築城法の典型と考えて良さそうだ。
本丸の西虎口と土橋→IMG_3561.JPG
IMG_3403.JPG←三ノ丸南東の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439117/136.634216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:近世平山城
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槻橋城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3242.JPG←主郭背後の大堀切
 槻橋城は、加賀守護富樫氏の家臣槻橋氏の居城である。富樫氏の盛衰を記した『官地論』には槻橋近江守重能の名が見え、1488年に高尾城で富樫政親が滅亡した時には、共に討死した武将の中に槻橋弥次郎・嫡家の豊後守・三郎左衛門・式部丞・弥六・三位房などの槻橋一族がおり、富樫氏の譜代家臣であった様だ。尚この城のある山は「御蔵山」と呼ばれ、「兵糧」を預けていた「御蔵」が一向一揆に攻められた時に焼失したと伝えられる。その後の城の歴史は不明であるが、遺構を見る限り戦国期まで一向宗により使われ続けたのではないかと思う。

 槻橋城は、標高221m、比高130mの山上に築かれている。幸いなことに舗装された林道が城の真裏を通っているので、訪城は極めてたやすい。車から降りでまず眼前に見えるのが主郭背後の大堀切とそびえ立つ主郭の切岸である。いきなりこれなので、テンションが上がる。主郭背後の切岸には武者走りが1段あり、背後の防御を固めていたことがわかる。また前面と右側にも腰曲輪が廻り、前面の腰曲輪には桝形虎口が築かれている。主郭は横長の長方形の曲輪で、前面以外の3面を大土塁で囲み、南東部は横矢の張り出しを設けて、主郭の南横を通る城道に対する防御を意識している。この主郭群から西の尾根と南西の尾根との2つの尾根に、U字状に遺構が広がっている。2つの尾根に多数の曲輪群が築かれ、一部は土塁の囲郭となっている。また尾根筋には城道が残り、一部は切通状になっている。ただ尾根筋の曲輪群は薮が多く、形状があまりはっきり確認できない部分も多い。整備されると、縄張りがかなりわかりやすくなるだろう。
腰曲輪の桝形虎口→IMG_3266.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.463125/136.625977/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


加賀中世城郭図面集

加賀中世城郭図面集

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2017/05
  • メディア: 大型本


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高尾城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3158.JPG←5郭の堀切
 高尾城は、室町時代に加賀守護であった富樫氏の実質的な滅亡の地である。富樫氏の事績は富樫館の項に記載する。富樫政親は、弟幸千代との内訌の際に一向宗徒を味方に付けることで幸千代を破り、加賀一国を支配下に置いた。しかしその後、一向宗が勢いを増すと、政親は一転して一向宗を弾圧したことから、一向一揆との争いが始まり、1488年、20万もの数に膨れ上がった一向一揆勢によって、政親は高尾城に追い詰められて自害した。その後、加賀は一向宗の国となり、いわゆる「百姓の持ちたる国」となった。一向宗は名目上の守護として富樫一族の泰高を擁立したが、守護大名の実質はなく、事実上政親の滅亡をもって加賀守護家富樫氏の滅亡と見做してよい。

 高尾城は、金沢市の文化財行政を転換させた城でもある。何らの保護政策も取っていなかったところ、北陸道建設の為の土取りと石川県教育センターの建設で遺構の多くが失われ、さすがに中世加賀の重要な歴史の場である高尾城の破壊は地元史家に強い衝撃を与え、大きな抗議運動が起きた。その為、市は遅まきながら遺構の調査を行うとともに、わずかに残った遺構を見晴台とする公園に整備したのである。対応が遅きに失した感はあるが、無反省に今でも城郭遺構の破壊を続けている自治体よりは数倍マシであろう。

 高尾城は、主城部と出曲輪から成り、見晴らし台として整備されているのは出曲輪である。出曲輪は標高160m、比高100m程で、「ジョウヤマ(城山)」の地名があり、北半分は土取りで削られてしまっているので、往時の広さはわからない。背後の尾根とは切岸・堀切で明確に区画されている。この背後の尾根は一騎掛けの土橋となっている。これを奥に進むと「コジョウ(古城)」の地名が残る主郭部に至る。標高は190m。主郭の周りにはわずかな段差で北東に二ノ郭、南に三ノ郭を構え、前述の尾根からの登り口には数段の小郭を築いている。二ノ郭の北東下方には堀切が穿たれ、その先に4郭が広がり、更にその下方もより大きな堀切で分断し、5郭が置かれている。一方、二ノ郭の北斜面には帯曲輪が築かれ、その西端に二重竪堀が落ちている。三ノ郭の南の尾根には物見郭が2つ確認でき、途中には堀切状の地形があるが、鋭さがなく自然地形なのかどうか判然としない。また西に分岐する尾根には土橋が見られる。これだけを見ると、守護の城としてはかなり小さく、守護館に対する有事の詰城ということを考えるとこんなものかとも思ったが、実際は違うらしい。帰ってから調べてわかったが、実際には高尾城塞群と称されるほど城域は広大らしい。主城と思った部分の更に奥にも遺構が散在しているらしいが、求心性の乏しい城だった様で、どれほどの防御性を持っていたのかは疑問である。これらを全部踏査するにはかなりの時間を要するだろう。今回は短期決戦の弾丸山城ツアーなので、これで良しとしよう。
竪堀→IMG_3180.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.513327/136.637757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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鷹巣城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_2989.JPG←空堀に挟まれたニノ郭の土橋
 鷹巣城は、織田勢力が加賀を制圧した頃に歴史に現れる城である。1576年の城主は平野神右衛門と伝えられるが、翌77年平野氏は越後に赴き、上杉謙信に属したと言う。これは謙信が手取川合戦で柴田勝家率いる織田軍に圧勝した年で、謙信の能登攻略、加賀一向一揆との和睦等と連動した動きであったろう。1580年、御館の乱で越後上杉氏が弱体化した隙を突いて、織田軍はようやく加賀を制圧し、信長の部将佐久間盛政が尾山御坊を攻略して金沢城として築き直して城主となると、家臣の柘植喜左衛門・郭賀八矢・松本我摩久順次が鷹巣城の守将となった。また一説には、柴田勝家が家臣の拝郷家嘉を入れて守らせたとも言われる。1582年に信長が本能寺で横死すると、明智光秀を討った最大の殊勲者羽柴秀吉が織田政権の実権を掌握した。その後の織田家家臣団では親秀吉派と反秀吉派が争い、1584年(『日本城郭大系』が載せる『石川県史』では1585年のこととするが、末森合戦のあった1584年の間違いであろう)、反秀吉派であった越中の佐々成政は、親秀吉派の前田利家の領国加賀・能登へ大挙侵攻し、鷹巣城も攻撃されたが、前田利家が出張って撃退したと言う。

 鷹巣城は、辰巳ダム東方にあり、谷戸に挟まれた標高245mの丘陵上に築かれている。城内南西辺には山道が貫通しており、一部遺構が破壊されているが、ほとんどの遺構は無傷で、しかも南東麓からこの山道を使って車で城付近まで来ることができるので、訪城はたやすい。主郭を中心に、扇状に曲輪を南東側に展開した梯郭式の縄張りとなっている。西から順に笹曲輪・主郭・ニノ郭と並び、二ノ郭の北に三ノ郭が置かれ、ニノ郭と三ノ郭の外側に四ノ郭が築かれている。それぞれの曲輪は堀切・空堀で分断防御され、主郭・ニノ郭・三ノ郭には土橋が架けられている。ニノ郭・三ノ郭の土橋は、ぞれぞれ直交する空堀に挟まれた形で構築されており、横にそびえる曲輪の塁線上から攻撃できる様になっている。各曲輪の堀の中では、二ノ郭外周の空堀が最も規模が大きく、内側の土塁と相まって大きな防御性を発揮していたと思われる。また二ノ郭空堀の南端には横矢のクランクが設けられている。四ノ郭の外周にも土塁と横堀が延々と構築され、大きな横矢のクランクや張出し櫓台も構築されているが、外周の空堀は規模が小さめである。また笹曲輪・主郭・三ノ郭の北斜面にも横堀の防御線が築かれ、笹曲輪先端まで掘り切っている。この他、城の主要部から山道を挟んで西の斜面にも腰曲輪群や横堀が築かれ、下方の西に張り出した曲輪の基部には堀切が穿たれている。遺構としては以上で、ニノ郭・三ノ郭・四ノ郭は直線形の堀を基本に要所で横矢を掛ける構造で、織田氏勢力の築城法の一つの典型と見做されている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.496907/136.720541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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大聖寺城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7410.JPG←本丸の天守台
(2005年3月訪城)
 大聖寺城は、錦城山に築かれた山城である。鎌倉時代に狩野一族によって築かれたとされ、鎌倉幕府滅亡後の1335年、中先代の乱の時に北陸で挙兵した北条残党の名越太郎時兼は、越中・能登・加賀の兵を従えて京都へ攻め上ろうとしたが、狩野一門の土豪、敷地・上木・山岸・福田氏らの拠る大聖寺城で交戦し、僅かの兵に打ち負けたと太平記に記されている。その後、津葉五郎清文が城を守ったが、1337年、脇屋義助配下の畑六郎左衛門時能は、敷地伊豆守・山岸新左衛門光義・上木平九郎家光ら狩野氏一党を味方に引き入れ、大聖寺城を攻め落とした。その後は一向一揆衆の拠点となり、1555年には越前朝倉氏の勇将朝倉宗滴が加賀に侵攻し、大聖寺城を落とした。その後、1567年には朝倉氏と一向一揆の間で和議が成立し、朝倉方の大聖寺城は破却されたが、1575年に越前を平定した織田信長は、大聖寺城を修復して戸次右近広正を城将とした。信長の重臣柴田勝家は、1580年、加賀一向一揆の拠点尾山御坊(現在の金沢城)を攻め落とし、大聖寺城には拝郷五左衛門家嘉を配した。1582年に本能寺の変で信長が横死し、柴田勝家と羽柴秀吉が後継を巡って争うと、翌83年の近江柳ヶ瀬の役で家嘉は討死した。勝家を北の庄城に攻め滅ぼした秀吉は、溝口金右衛門秀勝を大聖寺城に入れ、丹羽長秀の与力とした。1598年、秀吉の甥小早川秀秋の家臣山口玄蕃頭宗永が大聖寺城に入部したが、1600年の関ヶ原の前哨戦となった前田利長との合戦で、大聖寺城は前田勢に攻め落とされ、宗永は自害した。関ヶ原合戦後、戦功により前田家が加賀・能登・越中百万石の大藩となると、引き続き大聖寺城を支城としたが、1615年、元和の一国一城令で大聖寺城は廃城となった。1639年、加賀藩3代藩主の前田利常は、三男利治に7万石を分封し加賀藩支藩として大聖寺藩を立藩した。藩政時代、大聖寺城は入山を禁止された。

 大聖寺城は、標高65mの丘陵上に築かれた城である。本丸を中心として、大きく馬蹄形に戸次丸・三ノ丸・二ノ丸・西ノ丸・鐘ヶ丸・東丸を連ね、更にそれらの主要な曲輪の周囲に腰曲輪を備えた縄張りとなっている。堀切による分断防御はほとんどなく、曲輪を高低差をつけて連ねただけという印象である。しかし馬洗池が残っていて、水の手には困らなかったのだろう。しかし城としての要害性は左程ではなく、故に歴史上落城も多かったと思われる。尚、細長い本丸には天守台が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.308045/136.303285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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