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古城めぐり(山形) ブログトップ
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広浜楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2012.JPG←畝状竪堀
 広浜楯は、大宝寺氏(武藤氏)の家臣弭間(はずま)九郎右ヱ門の居城である。しかし詳細な歴史は不明である。

 広浜楯は、大谷集落背後の標高120m、比高60m程の丘陵上に築かれた城である。比高が低いので、簡単に登ることができる。私は大谷集落の光明院の南にある小さな神社の背後の斜面を直登した。途中、城道を思わせる道跡が残っており、城の北西の尾根上に辿り着いて城に向かって行くと、物見台と思われる小丘を経由し、その先に土壇と堀切が築かれている。その上はもう主郭である。主郭は先端部に土塁があり、その先に腰曲輪2段を伴っている。その先は堀切が穿たれて、両側を竪堀で落としているが、堀切先の土壇を取り巻くようにV字状に穿たれている。この堀切のすぐ東側に隣接して畝状竪堀が穿たれている。しっかり普請された、比較的大きな畝状竪堀で、竪堀群の一番東側は東尾根との間を二重堀切で分断し、そこもV字状に竪堀を両側に落としている。一方、主郭背後は堀切を介して方形のニノ郭が続き、その先も堀切で尾根を分断している。以上が遺構の概要で、やや広めの主郭とニノ郭に腰曲輪を組み合わせた比較的小規模な城であるが、堀切と畝状竪堀が効果的に組み合わせられており、縄張りは技巧的である。またいずれの堀切もしっかり穿たれた中規模のものである。この他に北に伸びる尾根に出丸もある様だが、時間の都合で未踏査である。

 尚、訪城した際、主郭に近づくと雉か何かの鳥がギーギー鳴いて羽をバタつかせる音がし、主郭でこちらを威嚇していたが、優しく話しかけると鳴きやんで静かになった。野生動物でも、話しかけると意図が通じて攻撃してこないという話を聞いたことがあるが、実際に通じたのは面白い経験だった。
主郭北西の堀切→IMG_2061.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.694746/139.730333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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関根城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1957.JPG←主郭群背後の二重堀切
 関根城は、最上軍が上杉軍の庄内侵攻に対抗した城である。戦国末期、庄内の大宝寺氏(武藤氏)を攻め滅ぼして、一旦は庄内を手中に収めた最上義光であったが、義光に滅ぼされた大宝寺義興の養子義勝の実父本庄繁長は、1588年、上杉景勝の意を受けて庄内に侵攻した。この時最上勢は、関根城に立て籠もって防戦したが落城し、城主樋野左衛門尉は討死した。こうして最上方の諸城を撃破した本庄繁長・大宝寺義勝親子の率いる上杉軍は、中山玄蕃・東禅寺筑前守率いる最上軍と十五里ヶ原で激突し、本庄軍の猛攻の前に最上軍は大敗を喫した。続く黒瀬川合戦でも最上軍は大敗して庄内より撤退、最上義光は完全に庄内を失う事となった。

 関根城は、大山川西岸にそびえる標高252.7m、比高173mの山上に築かれた城である。東麓の関根集落背後の台地上に居館跡と推定される3段程の平場があり、最上段南側には虎口の開いた土塁が築かれている。ここから尾根筋を藪と格闘しながら登って行くと、途中にも小さな枡形状の木戸口や小郭があり、堀切・腰曲輪を経由して城域北端のニノ郭群に到達する。ニノ郭はほぼ方形の曲輪らしく、外周に腰曲輪が取り巻いており、北西尾根に1本の堀切が、また北東尾根には三重堀切が穿たれている。この三重堀切は結構規模が大きく、この方面の尾根筋を厳重に遮断している。北端のニノ郭から最上部の主郭までは段曲輪群が連なり、かなり南北に長い城域となっている。ただ主郭も含めていずれの曲輪も小さな平場で、多くの兵を籠められる規模ではない。主郭の背後にも細尾根上の曲輪が続き、大きな二重堀切が穿たれている。この堀切は、中間に低い土塁状の阻塞を設けた山形に多い形状で、規模は大きいが切岸の傾斜が緩く、鋭さは余り感じさせない。この背後にも曲輪が続く様だが、薮が密生しており、未踏査である。全体に藪がひどく、遺構の確認が大変である。尾根筋は堀切で防御しているものの、ひたすら段曲輪を連ねただけの縄張りで、戦国末期に戦場となった城にしては遺構に物足りなさを感じる。
主郭→IMG_1945.JPG
IMG_1907.JPG←ニノ郭北東尾根の三重堀切の一部
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.666335/139.735970/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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砂谷楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1830.JPG←主郭北斜面の畝状竪堀
 砂谷楯は、歴史不詳の城である。砂谷には加賀国安宅関守であった富樫左衛門尉の開村伝説があるというが、元より単なる伝説に過ぎない。現在残る遺構から考えれば、戦国後期に大宝寺氏(武藤氏)か最上氏による構築であろう。

 砂谷楯は、砂谷川上流部の標高280mの山上に築かれている。南斜面から直登すると、先端部の物見郭に到達する。腰曲輪を伴った前衛郭群である。その先に二重堀切と細尾根の先にもう1本中規模の堀切が穿たれて、ニノ郭に至る。ニノ郭から1段腰曲輪を経由して主郭に至る。主郭は北側から東側にかけて高さ3m程の土塁が廻らされ、中間部に櫓台を伴っている。また主郭背後は大きな堀切が穿たれ、更に細尾根上の三ノ郭の先に小堀切があって城域が終わる。この城で特徴的なのは、主郭後背部とニノ郭西側に穿たれた畝状竪堀で、特にこの城独特なのは、ニノ郭や主郭の下方に物見台状に張り出した独立堡塁があり、その基部を堀切や二重横堀で穿ち、更にこの独立堡塁の上面から三重竪堀が落ちていることである。また畝状竪堀は比較的規模が大きくしっかりと普請されている。前述の堀切もいずれも中規模でしっかり普請がされ、比較的斜度の緩い斜面に畝状竪堀を配置した縄張りは、極めて合理的である。曲輪内は藪が多く見通しは余り効かないが、見応えのある遺構である。
主郭背後の堀切→IMG_1833.JPG
IMG_1807.JPG←独立堡塁に刻まれた横堀・竪堀群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.661160/139.764206/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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蛇ノ口楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1720.JPG←二重横堀
 蛇ノ口楯は、奥州の名族伊達氏の家臣、須藤備中守の夏館と言われている。北側山麓に冬館とされる樋口館があり、蛇ノ口楯と一対となって機能したと考えられる。
 蛇ノ口楯は、羽黒川南岸にそびえる標高490m、比高170mの山上に築かれている。城への道は途絶しており、西の谷戸の林道から、適当な斜面に取り付いて直登した。蛇ノ口楯は、V字型の尾根に沿って曲輪群を展開した縄張りで、大きく東曲輪群と西曲輪群、更に東曲輪群の北東端に位置する物見郭群に大別される。いずれの曲輪も小規模で、しかもどの曲輪も削平が甘く、切岸も不明瞭で、かなり漠然としたイメージの城である。大手は西の谷筋からの道らしく、小規模な枡形虎口が構築され、この斜面に沿って二重横堀が穿たれて防御が固められている。また西曲輪群の先端西側にも小さな横堀が廻らされている。V字の接点に当たる場所には櫓台が築かれ、手前に1本、背後に前述の二重横堀から繋がる二重堀切で尾根筋を分断している。また北東端の物見台は、腰曲輪に取り巻かれた曲輪群を構成している。全体としてはパッとしない印象の城で、二重横堀・堀切だけが唯一の見所である。

 尚、夏館・冬館という置賜地方独特の呼び名があるが、雪深い置賜では山城は冬には機能させられず、麓の居館に本拠を置いたことによるのだろう。
西尾根の曲輪群→IMG_1693.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.855834/140.153236/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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三沢楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1674.JPG←東斜面の横堀
 三沢楯は、伊達氏の家臣富沢飛騨守の居城である。築城時期は明確ではないが、現在残る遺構から1580年前後の伊達輝宗期の城と推測されている。豊臣秀吉による奥羽仕置によって、伊達氏が岩手山へ移封になると、富沢氏も同行してこの地を離れ、そのまま廃城になったと考えられている。
 三沢楯は、羽黒川東岸の比高60m程の丘陵上に築かれた城である。小規模な城で、南北に曲輪を連ねた連郭式を基本とし、周囲に腰曲輪や横堀を廻らせている。南側の腰曲輪には蔵王神社の祠がある。山上は主郭の北に伸びる尾根に、わずかな段差で区切られた曲輪が連なり、その先に堀切がある。この堀切の東側に落ちる竪堀には土塁が並走し、二重竪堀の様になっている。この堀切の北尾根にも曲輪があるらしいが、後世の改変と薮でよくわからない。一方、前述の堀切から東の斜面には2段の小規模な横堀が穿たれて、主城部の側面を防御している。この横堀の真ん中辺りには土橋が掛かり、上の曲輪に繋がる城道となっていた様である。三沢楯は、神社の参道もあり、比高も低いので簡単に訪城できるが、城内は比較的草薮が多く、遺構が小規模なため確認し辛い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.869118/140.152482/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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鷺城(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1576.JPG←主郭大手の枡形虎口
 鷺城は、歴史不詳の城である。広義の鷺城は、背後の早坂山に築かれた早坂山楯を含む城砦群ともされる。1804年の『米沢地名選』によれば(1)戸板山館、(2)土肥館、(3)大津土佐守、(4)鷺ヶ城、(5)鷺館の5通りの名称があり、城主についても(1)土肥備中守、(2)土肥単多備中守、(3)大津土佐守、(4)小梁川泥藩の4名が記されており、判然としない。近年の考証では、(1)戸板山館→(2)土肥単館→(3)鷺ヶ城、という様に何段階かの変遷を経て築城されたと推測されており、初期の城郭として早坂山楯が築かれ、後に中腹に土肥備中守が土肥単館を築き、更に後に小梁川泥藩が土肥単館を拡張改修し、南北両翼に根小屋を配した山城としたとの説が提示されている。
 尚、この様な複雑な経緯から、早坂山楯を鷺城の第1山城とし、本項で紹介する中腹の鷺城を第2山城とする見解もある。

 鷺城は、羽黒川の東岸にそびえる標高340m、比高80mの丘陵上に築かれた山城である。背後にそびえる早坂山から西に伸びる尾根上に位置している。狭小な曲輪群で構築された旧態依然とした縄張りの早坂山楯とは、明らかに異なる築城思想で作られた大型の城である。主郭を始めとする曲輪はいずれも広く、山頂の主郭を中心にして三方に伸びる尾根上に配置されている。尾根筋にはそれぞれ規模の大きな堀切が穿たれ、特に城内最大となる主郭東側の堀切は、深さ8m幅15m程にも達する。またこの堀底の両側は腰曲輪に繋がり、それぞれ堀底道との間に枡形虎口(木戸口)を設けている。主郭の大手にも大きな枡形虎口が築かれており、立派な櫓門が建てられていたと思われる。この他、南東麓谷戸に築かれた第2居館とされる根小屋に向かっては、曲輪の外周下方に長大な横堀が穿たれて根小屋側からの敵の接近を防御している。ここの横堀の構造も結構複雑で、上方で櫓台が睨みを効かせた枡形虎口を備えたり、南尾根曲輪群の堀切と横堀を組み合わせたりするなど、技巧的な構造が随所に見られる。鷺城は、早坂山楯とは明らかに普請の規模と構造が異なり、大型の堀切と枡形虎口が随所に築かれた城で、近世城郭にも匹敵する戦国末期の最新鋭の縄張りである。遺構から見る限り、おそらく伊達輝宗・政宗期の拠点城郭であったと考えられ、大型の端正な枡形虎口や大規模な堀切など、舘山城とも共通点が垣間見られる。
主郭東側の大堀切→IMG_1443.JPG
IMG_1541.JPG←曲輪外周の横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.886379/140.150612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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早坂山楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1335.JPG←城内最大の堀切
 早坂山楯は、歴史不詳の城である。鷺城の第1山城とする見解もあり、位置付けも明確ではない。早坂山楯を含む鷺城は、1804年の『米沢地名選』によれば(1)戸板山館、(2)土肥館、(3)大津土佐守、(4)鷺ヶ城、(5)鷺館の5通りの名称があり、城主についても(1)土肥備中守、(2)土肥単多備中守、(3)大津土佐守、(4)小梁川泥藩の4名が記されており、判然としない。近年の考証では、何段階かの変遷を経て築城されたと推測されており、早坂山楯は初期の城郭として、山頂の早坂山に築かれた山城と山麓の根小屋から構成されていたものと考えられている。この初期形態の城が『米沢地名選』に言う、戸板山館と城主大津土佐守であろうとされる。

 早坂山楯は、羽黒川の東岸にそびえる標高502.8m、比高233mの早坂山山頂部に築かれた山城である。第1居館とされる西側の谷戸から登ったが、明確な道はなく、適当に斜面を登って尾根筋に出て、そこから尾根伝いに登城した。尾根までの登攀は大変だが、尾根にさえ出てしまえば藪も少なく踏み跡が残っているので、城までは楽に辿り着ける。最初に虎口があり、そこから腰曲輪を経由して城域に入る。おびただしい数の帯曲輪群で構成された城であるが、一つ一つの曲輪は小さく削平も明確ではない。主郭やニノ郭といった主要な曲輪は、数段の複数の郭群で構成されているらしい。特に防御が厳重なのは主郭群で、その入口郭は土塁で虎口を防御し、後ろに櫓台を備えた囲郭となっている。その先に三角点のある主郭群最上部の曲輪となるが、いずれにしても数名しか籠もれないような小さな曲輪である。主郭群の背後尾根にも三ノ郭群と思われる曲輪群が連なり、そこには中・大・小・中と4つの堀切が曲輪を挟んで穿たれている。最も大きい2つ目の堀切は深さ5m程あるが、鋭さは余り感じさせない。早坂山楯は、堀切の規模から考えて戦国期の遺構と思われるが、縄張りは旧態依然としたもので、戦国後期には西麓の鷺城に主体が移ったと考えられる。
主郭群入口郭の土塁→IMG_1278.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.888360/140.155954/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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原田館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1194.JPG←わずかに歪んだ堀跡
 原田館は、地元の伝承によれば、伊達氏の家臣原田甲斐の居館であったとされる。しかし原田氏との繋がりは文献的にも乏しく、実証できないと言う。
 原田館は、方形の主郭と周囲を囲むニノ郭から成る、環郭式の平城に近い居館である。住宅地の横に残る山林の中に遺構が眠っており、それほど薮がひどくないので、簡単に訪城することができる。主郭とニノ郭のほぼ全周の土塁と堀が残っている。しかし規模は大したものではなく、土塁は低く、堀も埋もれているのかかなり浅い。ニノ郭南東の虎口にはわずかに櫓台らしき土壇も確認できる。しかし全体の面積も大きくはなく、いずれにしてもささやかな遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.905056/140.157115/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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羽山楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1140.JPG←枡形虎口
 羽山楯は、歴史不詳の城である。国道13号線沿いの標高450m、比高130m程の山上に築かれている。北西隅の腰曲輪に羽山神社が鎮座しており、急峻だが参道が整備されている為、薮漕ぎせずに訪城できる。南北に主郭とニノ郭を連ね、周囲に幾重にも腰曲輪を廻らしただけの単純な縄張りの城である。主郭は綺麗に削平された平坦地となっているが、ニノ郭は巨石がゴロゴロしており、かなりの不整地面である。これらの巨石は山岳信仰の遺物と推測されているらしい。西側に枡形虎口が残っているが、その周辺には明らかに人為的加工の跡を残す石が散乱しており、虎口石垣を破壊したものの様である。どうも破却の跡らしく、豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達政宗が岩出山に移封となった時に破壊されたものかもしれない。
主郭西側の腰曲輪群→IMG_1152.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.881378/140.193560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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タグ:中世山城
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太郎楯(山形県朝日町) [古城めぐり(山形)]

IMG_1025.JPG←主郭背後を走る三重横堀
 太郎楯は、1513年に長岡内蔵之丞勝治が楯主であったと伝えられる。太郎集落背後の急峻な丘陵地に築かれた山城で、ほぼ単郭の小さな城である。主郭はかなり斜度のついた斜面上に段々に曲輪を設けており、非常に郭内の高低差が大きい。その為、あまり多くの兵を籠めることはできない。この城の特徴は、主郭の背後と前面をそれぞれ三重横堀を廻らして防御していることで、これら2群の横堀群はいずれも尾根筋を堀り切ったまま斜面上をうねる様に走っており、かなり豪快なものである。また主郭前面のものは、尾根の西側で二重竪堀に変化している。東南東1.2kmの位置にある水口楯にも長大な三重堀切があり、縄張り面での共通性を感じさせ、築城主体が太郎楯と同じであったことを伺わせる。
傾斜地の曲輪群→IMG_1026.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.290096/140.108416/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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タグ:中世山城
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柏倉楯山楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0996.JPG←北尾根の二重堀切
 柏倉楯山楯は、歴史不詳の城である。長谷堂城の北西2.1kmに位置し、山形城の南西部を押さえる要地であることから、長谷堂城と共に山形盆地を防衛する為に最上氏によって築かれたものと推測される。

 柏倉楯山楯は、標高280m、比高80mの半島状に突き出た山上に築かれた山城である。北に伸びる尾根に適当に取り付いて登って行くと、二重堀切があり城域に入る。そこから段曲輪群があって、主郭下方の広い腰曲輪に至る。ここから主郭に向かって右側に、馬出し状の小郭があり、腰曲輪を経由して主郭に至る。主郭の背後にはニノ郭があり、腰曲輪を介して南側の二重堀切がある。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図ではここまでしか描かれていないが、、その先の背後の尾根にも曲輪群が伸びている。数段に分かれ、南端の最頂部に櫓台があり、尾根の脇には帯曲輪を築いて側面を防御している。櫓台の下方には円弧状の横堀があり、その先の尾根の鞍部に当たる最下方に堀切が穿たれて城域が終わっている。いずれの曲輪も削平が綺麗にされ、切岸も明瞭でしっかりした普請がされている。北尾根の堀切や主郭には標柱があり、どこかに解説板もあるらしいが見つけられなかった。晩秋に訪城した時、午前中の雨が上がり、折しも陽が射し始めて黄金色の紅葉が照り映えて美しく、思い出に残る城になった。
南端の櫓台→IMG_0961.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.223066/140.252220/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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タグ:中世山城
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上野楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0851.JPG←主郭北辺の横堀
 上野楯は、歴史不詳の城である。山形盆地の南方、蔵王上野地区に半島状に突き出た、比高60m程の丘陵先端部に築かれている。三角形状の広い主郭と、その外周を取り巻く一段低い帯曲輪から成る単郭の山城である。山の北側を通る林道から、沢を越えて城の北側の斜面に取り付いて訪城した。城に近づくと腰曲輪群が3~4段築かれている。沢筋には水の手らしい平場が広がっており、水場への動線を確保する曲輪群だったと考えられる。主郭の北辺には横堀が廻らされ、中央部に竪堀状の虎口が開かれている。この虎口に向かって、主郭腰曲輪の塁線はわずかに歪んで横矢を掛けている。横堀の東端は竪堀となって落ちており、その脇に土塁で防御された枡形虎口があって、そこから横堀状に城道が伸びている。主郭の背後には堀状の狭い窪地を挟んで土塁が築かれ、その背後に尾根筋を遮断する堀切がある。横堀も堀切もいずれも規模は小さく、縄張りも複雑さは見られず、上野楯が小土豪によって築かれた城砦であったことを伺わせる。
主郭背後の堀切→IMG_0810.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.173590/140.345506/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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タグ:中世山城
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名川城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0694.JPG←主郭~ニノ郭間の二重堀切
 名川城は、歴史不詳の城である。一説には、戦国時代末期に越後上杉氏が最上氏を破って庄内を制圧した際、最上方の在地豪族が抵抗して立て籠もったとも言われるが定かではない。
 名川城は、梵字川と大鳥川に挟まれた、比高50m程の南北に細長い丘陵先端部に築かれた城である。城のそばを六十里越街道と大島道が通っており、これらの街道を押さえる要害であった。南北に連なる3つの曲輪から成る単純な縄張りの城で、ほぼ方形の主郭を南に置き、背後に土塁と堀切を築き、ニノ郭との間を二重堀切で分断している。主郭内は現在果樹園となっている。ニノ郭は南北に長く、その先端付近は一段低い三ノ郭になっている。三ノ郭はニノ郭に対してL字状に食い込んだ平場となっていて、上段のニノ郭から横矢が掛けられている。三ノ郭は外周を低い土塁で囲繞し、北尾根下方には薮で判然としないが二重堀切で防御している様だ。
土塁で囲まれた三ノ郭→IMG_0710.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.603187/139.836029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
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添川楯(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0590.JPG←馬出し曲輪のL字状土塁
 添川楯は、羽黒山の北に伸びる山塊から、西に伸びる半島状丘陵に築かれた城である。鎌倉時代に執権北条時頼によって探題として派遣された3人の長吏の内の1人、梅津中将実高の居城であったとされる。南北朝期には寒河江大江氏の持ち城となり、戦国期には再び梅津氏の城となり、上杉氏が庄内を制圧してからは上杉氏の、関ヶ原合戦後に庄内が最上氏の所領となると最上氏の持ち城となった。1614年、最上義光の死後、一栗兵部高春が清水義親を擁して反乱を起こすと、この添川楯に立て籠もって新関久正に討伐されたと言う。

 添川楯は、標高110m程の丘陵地に築かれた城である。南北を沢で挟まれた要害の地で、西麓の畑地から城内を貫通するように林道が伸びており、簡単に訪城することができる。但しその分、林道建設で遺構は破壊を受けてしまっている。途中がくびれた丘陵上に点々と曲輪を連ねた縄張りで、中央部の広い平場に主郭を含めた3段の曲輪を築いている。主郭背後には高さ2m程の土塁を築き、更に背後を二重堀切で防御していた様である。更に奥には城内最高所となる東曲輪がそびえ、方形の小規模な物見曲輪の周囲に空堀と帯曲輪が廻らされて防御を固めている。一方、主郭部の北側には横堀が穿たれ、外周に腰曲輪群が構築されている。また主郭部の手前にも道沿いに二重堀切らしき跡が残り、そこから主城部に向かう道沿いにはL字状の土塁が残り枡形状の馬出し曲輪になっていた様だ。草木が繁茂しているが、遺構は比較的明瞭に確認できる。主郭土塁の裏には「添川館跡」という標柱も立てられている。近世初頭まで使われた城にしてはあまり技巧性は無く、素朴な縄張りであるが、ネット上では無名なのが不思議なくらい、城の形態をよく残している。
主郭部の横堀→IMG_0607.JPG
IMG_0643.JPG←主郭の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.739462/139.971965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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田沢楯(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0536.JPG←二重堀切
 田沢楯は、庄内を制圧した越後上杉氏の家臣荒川玄備義次の居城である。1588年、越後上杉氏の家臣本庄繁長が、大宝寺氏を滅ぼして最上領に併合された庄内に侵攻し、庄内争奪戦が始まった。上杉勢は十五里ヶ原の合戦で最上勢を破って庄内を支配下に収め、荒川義次を田沢楯に配したとされる。この地には庄内から最上に通じる坂本越え街道があり、この街道を押さえていたと考えられている。1590年、上杉氏による太閤検地が行われると、抵抗した庄内地侍の一揆勢が挙兵し、義次は討死したと言う。その後、江戸時代には荒川氏の子孫は庄内に入部した酒井氏に仕えて鶴岡に移住した。
 田沢楯は、田沢川と楯山川の合流点西側の比高60m程の丘陵上に築かれた城である。北側の車道沿いから小道を登ると、北端の堀切に行き当たる。ここから前郭・堀切・副郭と続き、二重堀切の先に広い曲輪群が広がっている。但し、平場群が広く展開するだけであまり面白みのない縄張りである。結局二重堀切だけが見所であり、少々落胆した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.870784/139.987929/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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進藤楯(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0483.JPG←主郭背後にそびえる土塁と櫓台
 進藤楯は、最上義光の重臣であった酒田城主志村伊豆守の家老進藤但馬守の居城である。進藤但馬は、慶長年間(1596~1615年)にこの地で1,500石の知行を得ていたが、1614年の一栗兵部が乱を起こした際、志村九郎兵衛(伊豆守の子)と鶴ヶ岡城に入る途中、兵部に敗れて討死したと言う。
 進藤楯は、進藤集落南方の比高40m程の丘陵地先端に築かれた平山城である。土塁で周囲を囲まれた、広大な窪地状の主郭を持ち、その背後には高さ15m程にもなる高土塁上の櫓台がそびえている。更にその背後には円弧状に空堀が穿たれ三の郭と分断されている。主郭には2つの虎口があり、北側の大手虎口は竪堀状となっており、南側の搦手虎口は土塁を貫通して堀切状となっている。主郭手前にはニノ郭があり、更にその手前に数段の腰曲輪が築かれている。珍しい、窪地状の主郭を持った城である。
主郭背後の空堀→IMG_0496.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.900259/140.023534/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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本宮楯(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0442.JPG←主郭背後の堀切
 本宮楯は、歴史不詳の城である。伝承によれば、佐藤前司則清の居城であったとされるが詳細は不明で、一説には庄内を制圧した上杉氏の城とも言われている。
 本宮楯は、本宮集落の東にそびえる標高97m、比高67mの石鉢山に築かれた山城である。主郭を中心にY字状に曲輪が連なった縄張りとなっている。主郭の北西角と南西角に各々虎口が開かれている。前者は虎口の前に数段の段曲輪が連なり、虎口には櫓門跡らしい土壇がわずかに残る他、虎口側方は数状の畝状竪堀で防御している。後者も馬出し状の小郭が張り出し、藪で明瞭ではないが城道が下方に伸びている様だ。主郭背後には土塁の外に堀切が穿たれ、主郭南側には横堀が廻らされ、虎口馬出しから横矢が掛けられている。主郭東側は平坦な平場で外郭として機能したと思われるが、あまり明確な普請はされていない。本宮楯は、ほぼ単郭の小規模な城であるが、虎口の造作には工夫が凝らされている。
畝状竪堀→IMG_0426.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.910361/140.007010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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山谷楯(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0384.JPG←山谷楯の遠景
 山谷楯は、河内城とも言い、歴史不詳の城である。伝承によれば、奥州から落ち延びた安倍貞任がこの楯に籠もったとも言われる。一方、南北朝時代には、庄内には出羽国司に補任された後醍醐天皇の寵臣葉室光顕が藤島城に入部するなど、南朝勢力の拠点となっていた。1337年、堀川具信は南朝方として兵を挙げたが、1340年に北朝方の武藤氏に敗れ、河内城に退いたと言い、山谷楯がその河内城ではないかと推測されている。
 山谷楯は、山谷集落の南に隣接する比高15m程の独立丘陵に築かれている。『山形県中世城館遺跡調査報告書』によれば、主郭に腰曲輪、櫓台などが残っているとされるが、山谷楯の周囲は全て民家の敷地となっており、突入不可能で訪城は断念した。

 お城評価(満点=五つ星):-(未訪城のため評価なし)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.898979/139.970738/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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山楯(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0373.JPG←主郭背後の空堀
 山楯は、歴史不詳の城である。飽海郡誌等によれば、最上氏の家臣庄司四郎兵衛尉の居城であったとの伝承が紹介されている。この庄司氏は、沼ノ平楯主東海林隼人助成盛の子に三郎兵衛尉宗長と四郎太夫政成の兄弟のいずれかとの説もある様だ。1583年に山形城主最上氏の後援を受けた前森蔵人(後の東禅寺筑前守義長)が尾浦城主武藤(大宝寺)義氏を攻め滅ぼし、庄内は最上義光の支配下に入ったが、1588年、越後上杉氏の家臣本庄繁長が庄内に侵攻して庄内争奪戦が始まった。上杉勢は十五里ヶ原の合戦で最上勢を破って庄内を制圧すると、最上氏の家臣、東海林兄弟は朝日山城と山楯に拠って抵抗したが、上杉勢に攻められて、東海林氏は最上領に敗走したと言う。

 山楯は、標高90mの丘陵上に築かれた城で、現在主郭部が公園化されている。公園に至る道は、主郭背後の空堀を通る堀底道で、この空堀に沿って主郭背面には土塁が築かれている。主郭から西側にゆるやかな傾斜地が広がり、そこに扇状に多くの腰曲輪群が築かれているらしいが、視認できるのは極一部に過ぎず、大半は藪がひどく確認が困難である。また城内を車道が貫通している為、一部破壊を受けている。それでも遺構は残っているので、もう少し整備してくれると、城の全容が把握しやすいのだが。
公園化された主郭→IMG_0348.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.903408/139.946116/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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廻館(山形県庄内町) [古城めぐり(山形)]

IMG_0328.JPG←廻館の大欅
 廻館は、戦国時代に相馬佑之進盛親の居館であったと言われている。相馬氏と言えば、平将門の後裔を誇る奥州の戦国大名であるが、廻館主の相馬氏はその庶族とされ、奥州相馬氏から派遣された出羽の所領代官であったものが土着したと考えられている。その他の事績は不明である。
 廻館は、最上川跡の沼を利用した要害であったと言われ、廻館郵便局~公民館付近が館跡であったとされるが、現在宅地化により遺構は完全に湮滅している。そこから100m程南の国道47号線沿いに町の指定文化財になっている樹齢600年の大欅があり、唯一往時の名残を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.817417/139.928012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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行沢楯(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0221.JPG←出曲輪背後の堀切
 行沢楯は、最上氏の家臣行沢式部の居城と言われている。行沢氏の知行は1000石で、小国城主細川氏への対策としてこの地に入部させたものと考えられている。
 行沢楯は、比高50m程の丘陵地先端部を利用して築かれている。西端部に切通し状の小道とその隣の高台に神社があり、先端部の出曲輪として機能していたと考えられる。その背後に城内最大の堀切があり、その上の丘陵上には広大な平場群が連なっている。最上部に主郭・ニノ郭と考えられる小規模な曲輪があり、主郭の背後には土塁が築かれている。そこから更に東にも平場群が連なり、最上部に詰丸の様な曲輪が築かれ、背後に小堀切が穿たれて城域が終わっている。これらの曲輪群の南辺縁部には沢を転用したと思われる横堀状地形がある。行沢楯は、遺構は比較的よく残っているものの、唯だだっ広く曲輪群が連なるだけの取り留めのない縄張りで、あまり面白みはない城である。
主郭と土塁→IMG_0251.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.614371/140.483123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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駒籠楯 その2(山形県大石田町) [古城めぐり(山形)]

IMG_0205.JPG←出丸周囲を巡る空堀
 駒籠楯には一度訪れているが、その後手に入れた『山形県中世城館遺跡調査報告書』によって、空堀で囲まれた出丸があることがわかったので、再訪した。
 この出丸は、主郭から南東に突き出すように築かれており、最上川に突き出た段丘先端を利用して築かれている。出丸内は現在耕作放棄地となっており、草薮に覆われているが、深さ4m程の大きな横堀で囲まれている。また中央部には土橋が掛かっている。こうした構造は、駒籠楯が単なる古代の水駅ではなく、室町時代頃まで使われた要害だったように思われるが、果たしてどうだろうか?

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.624117/140.345244/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:居館
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川前楯(山形県大石田町) [古城めぐり(山形)]

IMG_0167.JPG←西斜面の四重横堀
 川前楯は、歴史不詳の城である。最上川曲流部北岸の山上に位置し、最上川渡河点を扼する要害であったと思われる。
 川前楯は、標高145m、比高80mのハケツ山全体に構築された山城である。南端に川前観音堂があり、その裏から登って行くことができるが、物凄い藪城で、遺構の確認は大変である。観音堂から北に伸びる尾根を登って行くと、堀切・物見台・二重堀切が築かれ、その先の櫓台の背後に深さ5m程の堀切があり、その上が主郭となる。主郭はほぼ長方形の曲輪のようだが、あまりに薮がひどくほとんど形状が把握できない。主郭の東には小さな腰曲輪群があり、北東に伸びる尾根にも物見台と小郭群がある。その先に四重堀切があるらしいが、薮がひどく未踏査である。一方、主郭の西には比較的大きな曲輪群があり、その西側下方には多重横堀と畝状竪堀が執拗に穿たれている。上段には二重横堀があり、そこから竪堀状虎口と並走して畝状竪堀数本が穿たれ、その下の下段は四重横堀となっている。整備されればさぞかし見応えがある遺構なのだが、如何せん薮がひどいのであまりお勧めは出来ない。
主郭手前の堀切→IMG_0124.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(藪で☆一つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.613488/140.347411/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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次年子楯(山形県大石田町) [古城めぐり(山形)]

IMG_0070.JPG←主郭背後の最大四重の堀切
 次年子楯は、台屋城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。この地の土豪が有事に備えて築いたと考えられており、次年子集落の伝承では森家の先祖が築いたものと言われている。
 次年子楯は、比高50m程の台地先端部に築かれた山城である。小規模ながら、多重横堀や畝状竪堀が効果的に配置された縄張りとなっている。背後に土塁を築き、内部を数段の段差で区画した主郭の周囲に、東から北斜面にかけて小型の畝状竪堀29条と、東に開いた大手に対して動線を制約する為に中型の畝状竪堀3条が穿たれている。これらの畝状竪堀は、上下の帯曲輪を竪堀で繋いだ様な形をしている。また主郭背後の西から南にかけて三重堀切が湾曲しながら走り、一部では最大四重の堀切となっている。主郭東側にも二重横堀が穿たれ、南端でこれら二つの多重横堀が交差し、竪堀状の搦手虎口や小郭に繋がっている。主郭の北東端には大手虎口と小郭があり、大手道の先にも小郭がある。北東に斜面を降っていくと、木戸口の様な窪みも確認できる。単郭の小さな城ながら、充実した遺構で見応えがある。
畝状竪堀→IMG_0021.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.597392/140.288386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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嘉門楯(山形県戸沢村) [古城めぐり(山形)]

DSC04858.JPG←主郭前面の二重堀切
 嘉門楯は、この地域の小領主早坂嘉門が築いた山城である。早坂氏はこの村の草分けで、現在に至るまでその家系を保っている古家である。早坂氏が元々この地に居た豪族なのか、それとも清水氏などの家臣だった者がこの地に入部したのかは定かではないが、地理的位置関係からすれば、おそらく戦国時代後期に清水氏や最上氏の家臣となってこの地域の小領主となっていたと思われる。

 嘉門楯は、角川とその支流長倉川の合流地点北方にそびえる、比高90m程の山稜先端部に築かれている。現在も山麓にある早坂嘉門家の裏山に当たり、この城に登るには麓の早坂嘉門家の許可が必要である。訪城当日はあいにく御本家の方は不在だった為、御分家の方の許可を頂いて登城した。さすがに古家の持ち山らしく、綺麗に下草が駆られて手入れされた城で、遺構が非常にわかりやすい。堀切が多用された連郭式の城で、最前面の段曲輪の前に単発の堀切があり、その先に二重堀切を介して物見台状の三ノ郭があり、更に単発の堀切の先にニノ郭があり、その背後に、前面に二重堀切が穿たれた主郭がそびえている。主郭背後は急峻な三重堀切で分断し、更に背後の尾根筋には堀切が単発で2本穿たれている。この単発堀切の内、内側のものは比較的規模が大きい。城は大きく「くの字」に曲がった尾根に沿って築かれており、山頂部に広く居住性のある主郭を置き、東側に腰曲輪を備えている。腰曲輪には内部を分断する竪堀が数本穿たれ、三重堀切から落ちる竪堀に連続する形で更に竪堀を落として畝状竪堀状とし、背後の尾根から腰曲輪に繋がる動線を厳重に遮断している。城の背後に繋がる尾根の先は広大な平地となっており、自然地形であるが外郭として利用されたと思われる。嘉門楯は、非常に綺麗に遺構が残っている上、縄張りも整然として美しい山城である。この遺構は末永く残してもらいたいものだ。尚、麓には元屋敷の地名が残っている。
綺麗に手入れされた主郭→DSC04854.JPG
DSC04843.JPG←主郭背後の三重堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.667203/140.146742/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

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落楯(山形県新庄市) [古城めぐり(山形)]

DSC04665.JPG←七重堀切の一部
 落楯は、歴史不詳の山城である。片平館の東南東650mの至近にあり、相互に関連していたことが類推されるが、築城の意図は不明である。

 落楯は、大以良川北岸の比高70m程の丘陵上に築かれている。ほぼ単郭の城であるが、極めて技巧的な縄張りを有している。西に伸びる尾根筋を適当に登って行くと、途中に2ヶ所の物見台らしい小ピークがあり、その先に城がある。大手には、二重堀切が2ヶ所穿たれて防御を固めているが、以前は林道があったらしく、一部破壊されている様なので、1ヶ所の二重堀切はその改変による可能性がある。そこを越えると馬出し状の腰曲輪があるが、その奥、主郭の北西面に当たる斜面には、なんと畝状竪堀と五重横堀が連続して穿たれ、相互に連携して厳重に防御を固めている。畝状竪堀から上段の腰曲輪への虎口に繋がり、この腰曲輪の上が主郭となる。主郭は非常に広いが、中央が大きく凹んだうねるような構造で、東端には櫓台がそびえ、この櫓台に向かって段曲輪を構築している。櫓台背後の尾根筋には、七重堀切が穿たれている。いずれも小規模な堀切だが、七重というのはこれまで見てきた城の中では最多レコードである。この堀切は、三条目はやや小さく、四条目は中央の土橋を残した浅い堀切となっている。この七重堀切から北面の腰曲輪に向かっては、櫓台状の土塁の脇をすり抜けて、やはり畝状竪堀が穿たれた腰曲輪に繋がっている。また南面の腰曲輪に向かっても、七重堀切から落ちる竪堀と並んだ形で畝状竪堀が穿たれている。主郭南端には隅櫓台と小郭があり、その下に築かれた畝状竪堀を見下ろし、横矢を掛ける様にそびえており、非常に効果的な迎撃構造となっている。落楯は、同じように畝状竪堀で武装された小倉楯よりも、更に精緻な構造で、出色の遺構である。これ以上、林道などでの破壊が無いよう望みたい。
主郭にそびえる櫓台(写真奥)→DSC04634.JPG
DSC04599.JPG←五重横堀
五重横堀横の畝状竪堀→DSC04614.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.810988/140.372304/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

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タグ:中世山城
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片平楯(山形県新庄市) [古城めぐり(山形)]

DSC04549.JPG←外周部の横堀
 片平楯は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』では「片平館A」と称され、安食丹波の子孫安食才兵衛が楯主であったと伝えられる。安食氏は清水城主清水氏の家臣で、安食楯を居城とし、安食一族は清水氏の持刈数の1/4近くを占める重臣であったらしい。

 片平楯は、標高271m、比高60m程の丘陵先端部に築かれた平山城である。比較的緩やかな丘陵地の斜面に多数の腰曲輪を配置する縄張りが、安食楯とよく似ている。山麓外周に横堀を巡らし、西端の大手虎口は二重竪堀状に構築されている。外周の横堀には腰曲輪間を分断する竪堀や横堀が穿たれ、上部の腰曲輪群に繋がる虎口の横にも、Eの字型に竪堀が配置されている。城内はおびただしい腰曲輪群が構築され、全体でどれほどの数になるのか、数えるのも大変である。山頂には主郭が築かれているが、主郭には池跡の様なの窪地があり、祭祀か何かで利用されたような小さな土壇が確認できる。外周部の防御構造以外は、ひたすら腰曲輪を連ねただけの古風な縄張りの城である。
 ちなみに、「片平館A」と言うからには片平館Bがあるのだろうが、どこに存在するのだろうか?
E字状の竪堀→DSC04542.JPG
DSC04484.JPG←腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.813530/140.365781/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

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安沢楯(山形県金山町) [古城めぐり(山形)]

DSC04353.JPG←ニノ郭北側の畝状竪堀
 安沢楯は、歴史不詳の山城である。山麓の安沢、焼山、田茂沢の各集落を通る街道は、古代から秋田、雄勝地方へ通じる古道と言われ、この交通路を押さえる楯であったと言われている。

 安沢楯は、標高317m、比高120m程の山上に築かれている。主郭群とニノ郭群を直線的に配置した連郭式を基本とし、周囲に腰曲輪などを巡らしている。当初登り口がわからなかったので、適当に南に伸びた支尾根に取り付いて直登し、東西に伸びる尾根上に至ると尾根筋に山道が整備されていたので、それを東に向かって城に到達した。ニノ郭手前に二重堀切があって、敵の接近を防いでいる。堀切からニノ郭北側に回りこむと、畝状竪堀が穿たれている。これまでに見てきた山形の城の畝状竪堀の中では、かなり形状が明瞭に残っていて、藪も少なく形状がわかりやすい。ニノ郭の南に伸びる支尾根には段曲輪群が幾重にも構築され、それに沿って登山道が整備されているのが初めてわかったので、下山の時はこの道を降った。(但し、登り口は非常にわかりにくい。少し登ると朽ちかけた鳥居が建っているのが唯一の目印。)ニノ郭を東に進むと、主郭群の手前に三重堀切が穿たれ、その北側にもわずかに畝状竪堀が残っている。しかしそこから北側にあったはずの段曲輪の遺構は、北側斜面に建設中の林道で大規模に破壊されてしまっていた。一方、主郭群は山頂部の狭小な主郭とその手前の段曲輪群から成り、更に主郭の南尾根と北尾根に段曲輪群を連ねている。主郭には小さな祠が建ち、ベンチが整備されていた。主郭背後となる北尾根には三重堀切が穿たれているが、1本目は浅く、三重というより2.5重と言う感じである。以上の様な遺構で、なかなか整った形の縄張りの山城である。
主郭群の段曲輪→DSC04381.JPG
DSC04418.JPG←主郭群手前の三重堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.873995/140.363935/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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松山楯(山形県金山町) [古城めぐり(山形)]

DSC04316.JPG←主郭外周の二重横堀
 松山楯は、歴史不詳の山城である。『山形県中世城館遺跡調査報告書』所収の縄張図によれば、主郭周囲に二重横堀の他に畝状竪堀が穿たれており、愛宕山楯との類似点から最上氏によって築かれた金山城の支城と考えるのが自然であろう。

 松山楯は、稲沢集落南方の比高50m程の丘陵中腹に築かれている。西麓に熊野神社があり、そこから登山道が整備されている。そこから比高で30m程登った所にも社殿が建ち、往時の出丸であったと考えられる。更にそこから数段の腰曲輪を経由して稲荷社の祀られた主郭に至るが、主郭の周辺は物凄い笹薮で、全く遺構の確認ができない。主郭内は薮が払われているので歩きやすく、背後に土塁が築かれているのがわかる。その背後には尾根筋を遮断した堀切が穿たれている。また主郭北東には搦手虎口があり、そこから外に出ると土塁が土橋状に伸びている。この土橋の右手には、掛川城で「十露盤堀」と呼ばれる堀と同形状の二重横堀がはっきりと確認でき、また土橋の左手も横堀が1本穿たれて、主郭の北面から西面にかけての外周の防御を固めているのがわかる。土橋はそのままL字状に曲がって二重横堀外側の帯曲輪に繋がり、二重横堀は先端で主郭背後の堀切と繋がっている。一方、主郭の南側には畝状竪堀がある様だが、笹薮で全く確認できない。おまけに以前は林道が伸びていたらしく、林道建設で畝状竪堀や腰曲輪は破壊されてしまっている様だ。基本的には単郭の、小規模な城である。
主郭→DSC04337.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.888872/140.372816/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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愛宕山楯(山形県金山町) [古城めぐり(山形)]

DSC04241.JPG←主郭
 愛宕山楯は、歴史不詳の山城である。金山城の南方1.2kmの位置にあり、その支城として最上氏によって、北の仙北小野寺氏や庄内の上杉勢に対する備えとして築かれたと推測される。

 愛宕山楯は、標高297m、比高130m程の愛宕山に築かれている。主郭に愛宕神社が祀られており、西麓から参道が整備されているので簡単に登ることができる。かなり複雑な縄張りを持った広い城で、大きく2つの城域に分かれ、愛宕神社が鎮座した主郭を中心とする主城部と、その北尾根に築かれた出丸部分とがある。まず主城部は、主郭と北のニノ郭があり、その間は二重の横堀で分断されている。2つの曲輪とも多くの腰曲輪が廻らされ、竪堀を兼ねた虎口が数ヶ所開かれている。主郭の西側と東側にはそれぞれ横堀と連携させた小型の畝状竪堀が穿たれ、かなり技巧的な構造となっている。また主郭とニノ郭の間の二重横堀には、横堀と虎口を巧みに組み合わせた小枡形が築かれている。主郭南西側には、コの字形の堀で囲まれた独立孤塁や、斜面に沿って段状に構築された三重横堀も確認できる。一方、北の出丸部分は、緩斜面を介して主城部からやや離れており、やはり腰曲輪が数段構えられている。出丸北東の腰曲輪には堀切と竪堀も穿たれている。遺構は比較的よく残っているが、切り払われた枝が散乱し、埋もれかけている部分もあって、遺構が確認しづらい部分も多い。
 愛宕山楯は構造も複雑で城域も広く、金山城より30m程高所に位置しているので、こちらが本当の金山城ではなかったかとする説が出るのもうなずける。
三重横堀の一つ→DSC04277.JPG
DSC04095.JPG←小さな畝状竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.874229/140.340546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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