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大橋城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6473.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
 大橋城は、佐竹氏の家臣茅根氏の居城であったと伝えられている。茅根氏は、佐竹氏の重臣であった小野崎氏の一族で、小野崎通長の次男通景が茅根大和守を称して、茅根氏の祖となった。当初は茅根城を居城としていたが、後に大橋城に居城を移したらしい。出羽秋田に移封となった佐竹氏の家臣に茅根氏がいるので、私見であるが、大橋城は戦国末期まで茅根氏の居城として続き、佐竹氏が常陸を去った時に廃城となったのだろう。

 大橋城は、茂宮川北岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南に向かって弓形になった丘陵の中央部に主郭を置き、西にニノ郭、東に三ノ郭を連ね、外周に腰曲輪を廻らしている。主郭は東・北・西の三面に土塁を築き、その外周に横堀を廻らしている。この横堀は、西と東では主郭とニノ郭・三ノ郭との間を分断する堀切となっている。主郭の南東角には隅櫓台が築かれ、主郭内部の南西寄りには櫓台を兼ねたであろう古墳が残っている。主郭南側の腰曲輪は中央部に竪堀状の虎口が築かれ、その西側は主郭からの横矢の塁線と腰曲輪南辺の土塁で囲まれた横堀状の通路が形成されている。また二ノ郭の西側には浅い堀が穿たれて、その先の平場と区画されている。三ノ郭の北側にも横堀が穿たれ、三ノ郭東側まで掘り切っている。この城へは、北西麓から城のすぐ下の墓地まで小道が付いており、その先をちょこっと直登すれば、城への到達はたやすい。しかし城内は全体に藪が多く、あまり見栄えしないのが残念である。
主郭北側の横堀→IMG_6487.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.513344/140.586591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平川城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6285.JPG←城跡に建つ工場
 平川城は、下野の戦国大名皆川氏の支城である。1435年に皆川氏秀が築いたと言われ、その後氏秀が父秀宗の跡を継いで皆川城主となると、次男成明を平川城主とした。氏秀の子宗成が皆川氏の当主であった1523年、宇都宮城主宇都宮忠綱は、鹿沼西部の加園城の渡辺氏・上南摩城の南摩氏を併呑し、その余勢をかって皆川領に大挙侵攻して、河原田合戦が生起した。皆川勢は必死の防戦に努め、当主宗成や平川城主の弟成明以下一族家臣の多数を失いつつ、辛くも宇都宮勢を撃退することに成功した。城主を失った平川城は、以後廃城になったと言う。
 平川城は、東武宇都宮線野州平川駅の北に位置する工場の敷地内にあった。現在はGKNドライブラインジャパンという工場であるが、昭和20年代前半の航空写真では、既に同じ規模の工場敷地に変貌してしまっている。従って、遺構は望むべくもない。工場南西の民家裏に土塁っぽいものが見られるが、遺構かどうかは全く判別不能である。尚、ここから南西にある工場敷地内の豊川稲荷神社に、城のことが記載されているらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.404360/139.752381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大宮城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6243.JPG←南東部に残るL字型の土塁
 大宮城は、御城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承によれば、小山氏が築いた城とも、或いは大宮小太郎という武士が拠った城とも言われるが定かではない。
 大宮城は、栃木市街北東部に鎮座する大宮神社の南東一帯に築かれている。『栃木県の中世城館跡』によれば、御城と呼ばれる主郭を中心に、その南東に中城、北に北城と呼ばれる曲輪が隣接していたらしい。城域は現在では宅地化・耕地化が進んでいるため、遺構の残存状況はかなり断片的で、往時にどのような縄張りとなっていたのかはほとんど把握できない。しかしそれでも、大宮神社の南東にはL字状に空堀・土塁が残っている。またそこから更に南東の水路脇に、L字型の土塁が確認できる。いずれも、断片的とは言いながらも、想像よりも立派な規模のものである。南東のL字土塁は周りの水路が屈曲し、歩道も屈曲しているので、枡形虎口を形成していたものかもしれない。いずれにしても、歴史ともども謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.391371/139.759204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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桃生城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6210.JPG←北の外郭の土塁跡
 桃生城は、律令政府が758年に造営を開始し、760年に完成し、その後774年に海道の蝦夷による攻撃を受けた古代城柵である。発掘調査の結果、外周を築地塀などで囲み、中央やや東寄りに政庁、その西側に官衙地区が設けられていることが判明している。これらはいずれも同時期と見られる火災で消失し、その後復興されていないことから、『続日本記』に記載されている海道の蝦夷による桃生城攻撃が原因と考えられている。8世紀後半の、わずか15年程の期間しか存続しなかった城柵である。

 桃生城は、標高70m程の丘陵地に築かれている。私が訪城した「丘陵地に築かれた古代城柵」としては、宮沢遺跡に続き2例目である。しかし宮沢遺跡のような本格的な堀などの防御施設はなく、外周を築地塀・土塁と櫓で防御していただけらしい。また桃生城は、古代城柵としては異例の未整備状態で、訪城した際、たまたま行き会った古代城柵巡りをしている中年のご夫婦が、「ここは最悪」と愚痴っていたほどである。普通は復元整備するか、それほどでなくとも散策路を整備して、政庁跡などを簡易的な表示で示すかするものだが、ここでは中心の政庁跡は藪で冬でも進入不能、西側官衙地区に至っては到達することすら不可能。北辺の築地塀の土塁だけは、わずかな踏み跡程度の小道が通じており、土塁の跡がわずかに示されているが、帰りに暗くなってきたら小道が見えなくなって危うく迷いそうになったぐらいである。史跡の整備状態としてはホントに最悪で、さすがにこれは行政当局でもう少し考えた方が良いのではないかと感じた。
政庁跡の現況→IMG_6203.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.533430/141.277485/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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七尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5955.JPG←腰曲輪上に屹立する三ノ郭
 七尾城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の最後の居城と言われている。山内首藤氏の事績については、大森城の項に記載する。山内首藤氏が最終的に七尾城に本拠を移した時期は不明であるが、永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子が石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた時には、七尾城が本拠となっていたとされる。当時の七尾城は三方を水に囲まれた要害で、葛西勢は総力を挙げて攻撃したが攻略できず、最後は兵糧攻めによって陥落し、山内首藤氏は没落した。その後、七尾城には葛西氏の一族葛西守重が入った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易されると、七尾城は廃城になった。

 七尾城は、北上川北岸に連なる丘陵群の一つ、標高80mの山上に築かれている。大きく3つの峰に曲輪群が築かれており、東の高い峰から順に主郭郡・二ノ郭群・三ノ郭群とされている。これらの曲輪群は、それぞれのピーク上に主体となる曲輪を置き、その外周に腰曲輪を数段廻らし、さらにそれぞれのピークから北西に伸びる尾根に沿って舌状曲輪を配置した構造で、一城別郭の縄張りとなっている。私は三ノ郭西側の谷戸に小道が付いていたので、そちらから南面の尾根筋まで至り、そこから西から順に城内を巡った。三ノ郭は比較的藪が少なく、山の手入れもされているので、遺構の確認がし易い。三ノ郭西側に浅い横堀を備えた腰曲輪を築き、北西尾根には二重堀切を穿ち、更に舌状曲輪を配している。舌状曲輪側方にも帯曲輪を築いている。次の二ノ郭群は、地形上の制約からか曲輪群の規模は小さい。また藪も多く、遺構が見づらい。基本的にはピーク上の二ノ郭と外周の腰曲輪、更に北西尾根に数段の段曲輪が置かれている。二ノ郭群と主郭群の間は、高低差の大きな斜面・鞍部で分断されており、二ノ郭側はこの斜面に何段もの腰曲輪群を築いている。鞍部は平場になっており、谷戸を登ってくる大手道に繋がっている。主郭は、ここから数段の腰曲輪を経由した上にあり、途中には浅い堀切と土橋もある。主郭内は僅かな段差で3段ほどに区画されている。主郭の外周も数段の腰曲輪で囲繞され、急峻な南側では幅が狭まって武者走り状になっている。主郭群も北西尾根に舌状曲輪が伸びており、先端を急峻な中規模の堀切で分断し、更にその下方にも舌状曲輪がある。主郭群と二ノ郭群の間の谷戸には、大手門の跡が残り、門跡の土塁が明瞭である。
 七尾城は、全体に旧態依然とした縄張りで、見た限りでは大森城の方が新鋭の山城である。また大森城の方が本城にふさわしい規模を誇っているので、山内首藤氏が居城を七尾城に移したというのは少々疑問に感じた。相当追いつめられたものか、或いは、大森城の方は葛西氏時代の戦国後期に大改修されたのかもしれない。
三ノ郭群の二重堀切の1本目→IMG_5977.JPG
IMG_6129.JPG←主郭群の堀切
谷戸の大手門跡→IMG_6168.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.528646/141.344240/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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大森城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5750.JPG←主郭北側の横堀
 大森城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の居城である。山内首藤氏は、後三年の役以来、源氏に恩顧のある家柄であったが、源頼朝が石橋山で挙兵した際、山内首藤経俊は母が頼朝の乳母であったにも関わらず平家に味方したばかりか、頼朝に対して矢を放ったため、頼朝が鎌倉を制圧すると斬首されそうになったが、老母の助命嘆願で助けられた。その後は頼朝に従って軍功を挙げ、御家人の列に連なった。奥州合戦にも従軍して、その功によって桃生24郷を拝領したのが、山内首藤氏が奥州に地歩を築く契機となった。後に山内首藤氏の嫡流は備後に移ったが、庶流が桃生郡に下向してこの地を支配した。奥州入部の時期は不明であるが、鎌倉末期から南北朝期頃に掛けては永井城を本拠に勢力を伸ばし、その後、大森城に居城を移して大勢力に成長した。大森城を本拠としたのは、南北朝期から室町中期(1350~1500年)頃と推測されている。この時期が、山内首藤氏が最も勢力を拡大した時代であったとされる。山内首藤氏の最終的な居城は、七尾城であったと言われるが、七尾城に移った時期は不明である。永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子は、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた。葛西氏は総力を挙げて攻撃したが、大森城・七尾城は陥落せず、やむなく兵糧攻め・長囲の計をめぐらしたため、遂に落城し、山内首藤氏は没落した。その後の桃生郡は葛西領に併呑され、大森城には葛西氏の家臣男沢氏が入城したと言う。

 大森城は、標高70m程の大森山という独立丘陵に築かれている。丘陵全体を城とした、規模の大きな山城で、山内首藤氏の勢威を感じさせる堂々とした造りである。中心に主郭を置き、西尾根に二ノ郭、東尾根に三ノ郭と東郭、北尾根に北郭を配している。主郭は南に内枡形の虎口を築き、虎口を守る櫓台などには石積みが散見される。主郭内は僅かな段差で東西に区画され、東部分は更に南北に区画されている。この内、北東部が一番高い位置にあり、主殿があったものと推測される。主郭外周には土塁が築かれ、主郭南辺では塁線に横矢掛かりが見られる。主郭外周は腰曲輪が築かれ、東・北・西の三面には切岸の下に横堀が穿たれて防御を固めている。この横堀は主郭東側の南端部では竪堀となって落ちている。二ノ郭周囲には幾つもの腰曲輪が築かれ、三ノ郭の先の東郭の基部には堀切が確認できる。この堀切も南端で竪堀となって落ち、竪堀の両側に腰曲輪が築かれている。以上の様に遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多く、歩いて回れない程ではないが遺構の確認は少々しづらい。南西麓に解説板があり、その先を直登したが、明確な道はなく、とにかく上を目指して登っていくしか無いが、主郭付近は普請の規模が大きく、見応えがある。石積みや桝形虎口などの遺構から考えると、戦国末期まで使用された大型の城だった様である。もう少し整備されていると、素晴らしいのだが。
主郭の横矢掛かりの切岸→IMG_5851.JPG
IMG_5862.JPG←櫓台を備えた主郭枡形虎口
東郭の堀切→IMG_5796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.501044/141.320958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中沢楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5660.JPG←段々になった曲輪群
 中沢楯(中沢館)は、歴史不詳の城である。勢力圏から考えれば、葛西氏の支配領域であることから、葛西氏の家臣の本拠であったことは想像に難くない。現地解説板によれば、戦国末期の1588年に葛西晴信が中沢左近之丞宛に、元南曲輪内にあった中沢神明社に対する「御立願之事」という願文を送っていることから、この中沢氏であったと推測されている。

 中沢楯は、人石山の裾野が大原浜まで伸びた突端の段丘に築かれている。比較的城域の大きな城で、段々になった多数の腰曲輪群で構成されている。中央に大手の谷戸があり、その南北に張り出した丘陵部に出曲輪を配している。曲輪群には堀切はなく、主郭まで段差という程度の小さな切岸だけで区画されている。主郭は頂部の平場と考えられるが、東側はそのまま丘陵基部に続いてしまっていて、主郭の範囲があまり明確にできない。現地解説板の縄張図に記載されている背後の堀切は、主郭からかなり離れた登り斜面に穿たれているが、非常に小規模で、特に2本目はほとんどわからないレベルである。また前述の縄張図には、南曲輪周囲に空堀、南麓の腰曲輪に石塁が記載されているが、空堀は湮滅して形態を残さず、石塁は耕地化の際の土留の可能性が高く、遺構とは看做し難い。縄張りとしては、素朴な形態を残した城だったと思われる。
 尚、大手の谷戸には民家があるが、無住の様で、入口に売地の看板が立っている。周辺の浜一帯は東日本大震災の被災地で、家屋がほとんど残っていないので、ここの地主の方も移住されてしまったのかもしれない。私は南西麓の中沢神明社から登ったが、城内で人の気配を感じることはなかった。一日も早い復興を祈るばかりである。
わずかな1本目の堀切→IMG_5625.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.331069/141.477170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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内親楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5559.JPG←東尾根から見た主郭の遠望
 内親楯(内親館)は、「うちごやたて」と読み、伊達氏の家臣宮内氏の居城である。『伊達世臣家譜』によれば、宮内氏は出羽国置賜郡長井荘宮内邑を本領とし、宮内氏を名乗る以前は遠藤氏を称していた。1490年、宮内中務盛実の時に内親楯に移り住んだと言う。その後、伊達市の内訌「天文の乱」が生起すると、宮内宗忠は白石宗綱らと共に晴宗に仕え、その論功行賞により外様より一族に列せられた。1552年、白石川対岸の宮城館へ居城を移した。宮内氏は、その後も相馬氏との抗争や大崎合戦にも従軍して軍功を挙げ、1591年に伊達政宗が岩出山城に移封となると、宮内氏は加美郡色麻に移った。

 内親楯は、白石川と松川合流点南の、標高120m、比高90mの山稜上に築かれている。丘陵先端のピークを中心にした南北に伸びる尾根と、その東に派生した尾根上に曲輪群を展開した規模の大きい城であるが、全山深い藪に覆われていて、遺構の確認は困難を極める。私は、東尾根の東端からと、北尾根の北東端と2ヶ所から登城を試みたが、いずれも深い藪に阻まれて途中で登城を断念した。辛うじて東尾根の曲輪群を途中まで探索できたが、幾つかの平場と堀切1条、それと腰曲輪から上段の曲輪に通じる虎口が確認できた程度であった。東尾根の曲輪群途中からピーク上の主郭が遠望でき、頂部が綺麗に削平されているのは見えたが、それ以上接近することはできなかった。いずれ整備されるとありがたいのだが。
曲輪群を繋ぐ虎口→IMG_5545.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆(藪で減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.039321/140.656092/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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飯詰楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5458.JPG←腰曲輪と主郭の切岸
 飯詰楯(飯詰館)は、歴史不詳の城である。標高95m、比高40m程の、白石盆地南部の浮島の様な小さな独立丘陵に築かれている。山頂に、切岸で区画された幾つかの平場を連ね、南面から東面の斜面に数段の腰曲輪を廻らしただけの小規模な砦である。西側には東北新幹線が貫通しているが、遺構自体は幸い無傷に近い。元々南西麓からの登り道があったらしく、今でも新幹線の高架脇に登り道が付け替えられている。この道を辿って登ると南面の腰曲輪群に到達する。更にここから頂部まで腰曲輪群を経由した登り道があり、山頂に至る。地形図だと、山頂に神社マークがあるが、副郭的な西の平場に石祠が立っているだけである。その東側には鞍部の平場を介して主郭と思われる方形の平場がある。その東の一段低い平場には謎の大穴が空いており、狼煙台か何かがあった可能性がある。また主郭手前には土橋と片堀切の様な地形が見られるが、薮に覆われていて判別しにくい。歩けないほどの藪ではないが、結構茨が多くて少々辟易する。ここからは、斎川沿いの谷部を通して馬牛楯を直接望むことができるので、馬牛楯主の桑折氏が白石城に備えて築いた前衛の砦か、逆に白石城側の勢力が馬牛楯に備えて築いた橋頭堡的な砦であった可能性もあるだろう。
南斜面の腰曲輪→IMG_5426.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.974989/140.616760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

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タグ:中世山城
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馬牛楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5399.JPG←二ノ郭虎口の土橋
 馬牛楯(馬牛館)は、萬行楯城とも言い、伊達氏の一族桑折氏の居城である。元々は、室町時代初期に刈田郡の領有を巡って伊達宗遠と亘理行胤がこの郡に侵攻し、斎川周辺で激戦を展開したと言われ、馬牛楯はこの頃伊達氏によって築かれたと推測されている。天文年間(1532~55年)には伊達氏の家臣桑折播磨守景長の居城となっており、奥州を二分した大乱「天文の乱」の際には、播磨守は伊達稙宗方に付いて、白石城を拠点とした伊達晴宗方の軍勢と、馬牛楯に立て籠もって戦ったと伝えられている。

 馬牛楯は、奥州街道(現・国道4号線)の西に隣接し、馬牛沼の北西に位置する標高190m、比高80m程の独立丘陵全体を城域にした、かなり大型の城である。東麓の孫太郎茶屋から登り道が付いており、地主さんにお断りすれば訪城は容易である。孫太郎茶屋入口にある現地解説板に縄張図が記載されており、それによると北から順に三ノ郭群・二ノ郭群・主郭群・南館と連郭式に並べ、更に主郭東側に東出郭を配置した構成となっている。いずれの曲輪群も広く、内部は何段かの平場に区画され、曲輪群の間は堀切は少なく、切岸だけで分けられている。堀切は、主郭と南館の間にだけ穿たれている。虎口は平易なものが多いが、二ノ郭虎口だけは土橋が構築されている。この他、三ノ郭の西側には大きな土壇状の曲輪があり、また二ノ郭外周などに腰曲輪群が構築されている。東出郭には塁線の折れを伴った土塁が築かれている他、主郭にも土塁が築かれ、西側の腰曲輪にまで土塁が伸びている。全体にあまり技巧性は感じられず、戦国前期の縄張りをそのまま残している様である。
 尚、2015年秋には標柱しかなかったが、2016年12月に訪城した時には前述の現地解説板が新設されていた。縄張図まで掲示されているので、ありがたい限りである。
東出郭前面の切岸→IMG_5214.JPG
IMG_5341.JPG←南館の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.951829/140.606825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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阿津賀志山防塁 その2(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

 昨冬の12月3日に阿津賀志山防塁を通った際に、たまたま発掘調査説明会が開催されており、それについては以前にブログの中でレポートした。この時、以前の防塁探訪で見逃していた部分を訪問したのでここに記載する。

〈森山地区〉
IMG_5182.JPG←良好に残る二重空堀
 国道4号線から少し南に逸れた道路脇の山林内に遺構が残る。山林によって風化が防がれているため、各所に残る阿津賀志山防塁遺構の中では最も往時に近い規模と姿を残していると思われる。堀は埋もれて薬研堀の鋭さを失っているが、それでもまだ深さ数m、幅も7~8m近くあることが実感できる。土塁も高さがあり、防塁中では最も良好な遺構であろう。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.885506/140.566399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

〈木戸口〉
発掘調査で確認された木戸口→IMG_5200.JPG

 森山地区遺構のすぐ北の車道脇にある。平成20年に発掘調査が行われ、防塁の土塁に往時に作られた切れ目(木戸口)があることが確認されており、『吾妻鏡』に両軍の激戦地として記された「大木戸」であった可能性が高いとされている。木戸口の前面には土橋らしい通路跡も検出されているが、現在は埋め戻されて草むらになっているので、確認はできない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.886455/140.566163/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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石尊山新城東尾根遺構〔仮称〕(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5065.JPG←石尊山山頂の東にある第1堀切
 石尊山新城東尾根遺構〔仮称〕は、石尊山新城〔仮称〕から東に約900m離れた位置に存在する。石尊山の尾根上に堀切らしいものがあると言う情報は、山歩きをしている方のブログで拝見し、それを元に尾根筋を辿ってみた。その結果、合計3本の堀切と曲輪らしい平場が確認できた。石尊山の三角点(標高486.5m地点)のちょっと東の尾根上に中央に土橋を削り残した浅い堀切が2条穿たれ、その堀切付近に腰曲輪らしき平場が見られる。1条目(第1堀切)はわずかな堀切であるが土橋が明確である。2条目の堀切(第2堀切)はしっかり普請されており、土塁も伴っている。そこから更に東に進むと、その先のピーク手前のトレッキングコース北側に腰曲輪らしい平場が広がっており、一部に湧水らしいものも見られることから井戸曲輪であった可能性がある。更にピークの東にももう1条堀切(第3堀切)が穿たれている。確認できた遺構としては以上で、主峰である石尊山山頂には曲輪などの明確な遺構は確認できない。この東尾根遺構は、深高山から石尊山に至る尾根筋の連絡路を防衛する木戸遺構の様に推測される。また尾根の西端に位置する石尊山新城と関連した遺構であろうことも想像に難くない。

 さてここで問題になるのが、石尊山新城の築城主体は誰か?ということである。眼前に小俣城があることから、①小俣城の後方を防衛する小俣渋川氏の支城、②小俣城攻めのために小俣渋川氏の敵性勢力によって築かれた付城(向城)、の2説が考えられると思う。②の場合、小俣城では越後上杉氏の手勢(善氏ら)によって攻撃されたことが伝わっており、その合戦は2ヶ月近くに及んでいるらしいので、その時に上杉方によって築かれた可能性がある。戦国後期に小俣城主渋川義勝は、足利城主長尾政長の妹婿であり、足利長尾氏と密接に連携していたと考えられるので、東尾根遺構は小俣城を攻めた上杉勢が深高山方面からの縦走路を通った足利長尾氏による後詰を警戒して築いたものかもしれない。或いは一時期、小俣渋川氏が足利長尾氏と対立していた事もあったのであろうか。そうだとすると足利長尾氏による小俣城攻めの付城であった可能性も考えられる。
 いずれにしても、山麓から見ると石尊山新城は岩盤の絶壁上に聳えており、往時にそこに旗が林立する様はさぞかし威圧感があっただろうと想像される。
第2堀切→IMG_5072.JPG
IMG_5076.JPG←湧水のある平場
離れて存在する第3堀切→IMG_5085.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.406173/139.397900/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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石尊山新城〔仮称〕(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4966.JPG←二ノ郭の堀切
 石尊山新城〔仮称〕は、多分私が発見したことになる城である。足利市がまとめた『足利市歴史文化基本構想』の中の城館MAPに石尊山城の記載があるが、このMAPでは名草城のある山稜の少し南寄りのピーク上を石尊山城としている。しかし足利市で「石尊山」と言えば、普通は栃木百名山にも名を連ねる名峰のことであるので、MAPの記載が間違っているのだろう、この石尊山のどこかに城があるのではないか、と推測して探索した。その結果、登山道から少し逸れた、西に張り出した断崖上に城郭遺構が確認できた。ところが後日、足利市の市民資料室で遺跡地図を確認したところ、MAPは間違いではなく、名草城の南に紛れもない「石尊山城」が遺跡として記載されていることがわかった。この遺跡として認定されているのとは別の、ここでレポートする石尊山系に築かれている山城は、ネット上でもこの遺構に関する報告がないので、おそらく新発見になるのだと思う。名称が重複するので悩んだが、他に適当な名称も思い浮かばなかったので、ここでは石尊山の尾根筋西端に新発見した城を石尊山新城〔仮称〕として紹介する。

 石尊山新城は、標高約300mの断崖上に位置している。周囲を垂直絶壁で囲まれた峻険な城で、東の尾根筋以外に城に近づく方法はない。岩場を削り切った2本の堀切で区画され、先端の主郭と背後の二ノ郭、それと堀切に繋がる二ノ郭北側の帯曲輪から構成された小規模な城砦である。主郭先端は僅かに高くなっており、櫓があったらしい。二ノ郭は岩がゴロゴロしており、ほとんど居住性がない。二ノ郭北辺には帯曲輪に通じる虎口が確認できる。この城の眼前には小俣城が聳えており、小俣城と何らかの関係がある城砦であることが想定される。実は、この石尊山新城からかなり離れた石尊山東尾根上にも城郭関連遺構があり、その項の中で考究したいと思う。
主郭の堀切→IMG_4971.JPG
IMG_4978.JPG←主郭
帯曲輪から見た主郭堀切→IMG_5000.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.404308/139.387879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※尚、上澤光綱さんの考証で、当城は所在不明となっていた「叶花山城」を再発見した可能性が高いと言うことで、ここに付記しておく。
タグ:中世山城
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御所平城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4944.JPG←城のある台地の遠望
 御所平城は、歴史不詳の城である。足利市がまとめた『足利市歴史文化基本構想』の中の城館MAPに記載のある城で、広域MAPに大雑把にしか記載されていないので、正確な所在地は不明ながら、大まかな場所と付近の地勢から、推定地を割り出した。後日、足利市の市民資料室で遺跡地図を確認したところ、ドンピシャだったことが判明した。
 御所平城は、小俣川上流域の南岸に位置する、比高5m程の舌状台地に築かれている。台地上は一面の畑となっているので、地勢以外に遺構は確認できない(遺跡地図の解説には北側に土塁があると記載されているが、湮滅したのか確認できなかった)。背後の丘陵には瓢塚古墳があり、城の物見台として利用された可能性もあるだろう。詳細不明であるが、地勢はよく残っている城館である。
城跡の現況→IMG_4948.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.415066/139.399509/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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霜降館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4928.JPG←水堀と土塁跡
 霜降館は、奥州藤原氏3代秀衡の家臣金堂駿河守の居館と伝えられている。現在の今道集落の中にあり、東辺部に水堀と土塁が、また西辺部にも土塁らしい跡が残っている。前述の伝承がもし事実とすれば、平安時代から残る古い城館であることになり、遺構はわずかながら極めて貴重なものであろう。尚、この城館は、たまたま帰り際に標柱を見つけて立ち寄った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.725195/141.203563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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石森館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4879.JPG←南麓に残る水堀跡
 石森館は、笠原城とも言い、葛西氏の一族石森氏の居城である。古くは平安末期の文治年間の始め(1185~86年)に奥州藤原氏の家臣猪塚修理が居城としたと伝えられる。その後、源頼朝の奥州合戦で藤原氏が滅ぶと、葛西氏が奥州惣奉行に任じられ、1221年にはその一族石森右近将監康次が石森館を居城とした。以後、石森氏の歴代の居城となったが、1590年の奥州仕置によって葛西氏が没落し、その後生起した葛西大崎一揆で、石森氏は小塚氏(小塚館主)・二ッ木氏(二ッ木館主)らと共に一揆鎮圧に当たった伊達政宗の軍勢に抵抗したが、殲滅されて滅亡した。その後には伊達氏の家臣で千石城主であった遠藤出雲守高康が石森館に移封された。藩政時代には「石森所」(「要害」より一段下のランク)となり、1631年に間野四郎左衛門が入部した。1639年、笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移封され、以後笠原氏の居城となった。

 石森館は、比高15m程の独立丘陵上に築かれている。城の周囲は市街化が進み、城内の曲輪には民家が建っているなど、改変が進んでいる。また、2008年には丘陵南東部の張出し部を崩して車道を通しており、破壊が続けられている。前述の通り、ほとんど民家の敷地になっているので進入し難いが、城内に笠原家廟所が建ち、その手前に堀切らしい跡が残っている。また北西の石太神社裏の丘陵上にも堀切らしい跡が残っているが、この辺りは薮がひどく遺構の確認が難しい。この他には、南麓に水堀が残っており、こうした小規模な平山城形式の城砦で現在まで水堀が残る例は珍しい。改変が進んでいるものの、貴重な遺構を残している。
廟所近くの堀切状地形→IMG_4903.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.723505/141.212608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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二ッ木館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4851.JPG←ニノ郭側から見た主郭切岸
 二ッ木館は、双樹館とも言い、葛西氏の家臣二ッ木三五郎堯明の居城であったと言われている。二ッ木氏は、元々小野寺氏を称していたとされ、葛西氏の一族石森将監康次が石森館に拠るに及び、小野寺三五郎堯明が二ッ木館に住み、ニツ木氏を称して石森館の後衛に当ったと伝えられる。1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、二ッ木氏も石森氏・小塚氏(小塚館主)と共に没落した。尚、『登米郡史』には、1590年に二ッ木三五郎が伊達政宗の軍に囲まれると、二ッ木氏の家臣某が主君を斬って伊達勢に降ったが、政宗はその裏切りを憎んでその家臣某を誅殺したとの伝承が残っていると言う。

 二ッ木館は、標高36mの丘陵上に築かれている。大きく東西2郭から成り、外周に腰曲輪を廻らしている。西側が主郭で、城内最高所に位置し、周囲を3~4m程の切岸で囲まれた広い曲輪で、祠が祀られており、そこまで参道が整備されている。しかし主郭の大部分は薮に埋もれている。主郭の北側には幅広の腰曲輪が1段、南側には2段程の腰曲輪が確認できる。主郭から東の二ノ郭に向かうと、切岸を降った所が鞍部になっており、堀切としての機能を有していたとみられる。二ノ郭は鞍部より少々高い位置にあるが、面積は小さく、削平も甘い。こちらも周囲に腰曲輪を伴っている。全体に、旧態依然とした縄張りの城で、要害性も高い地形ではなく、居館としての機能を優先させた城だった様だ。一部を除き薮がひどいのも難。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.729665/141.217918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小塚館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4817.JPG←主郭から見たニノ郭
 小塚館は、葛西氏の家臣小塚織部則安の居城と伝えられている。小塚氏は、1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、小塚氏も石森氏(石森館主)・二ッ木氏(二ッ木館主)と共に没落した。その後、則安の子帯刀は伊達氏に仕えて小塚七郎と称し、平士に列したと言う。
 小塚館は、標高27m程の独立円丘上に築かれている。頂部は平坦で、段差だけで区画された主郭・二ノ郭が東西に並び、周囲に帯曲輪が取り巻いただけの簡素な城砦である。主郭南部には神明社が建てられており、一部改変を受けているが、参道の階段があるので訪城は容易である。但し、神社境内以外の曲輪部分は薮で、しかも普請がささやかなため、削平が甘く、自然地形も多いので遺構はあまりはっきりしない。通り掛かりに寄り道する程度の城だろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.728393/141.229742/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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弥勒寺館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4790.JPG←主郭に通じる土橋と堀切
 弥勒寺館は、歴史不詳の城である。伝承では、葛西氏の家臣鈴木正斉入道が城主であったと言われるが、確証はない。

 弥勒寺館は、弥勒寺が建っている丘陵東端の、比高20m程の段丘上に築かれている。南北2郭から成る簡素な城砦で、主要部は公園化されている。南麓から階段を登ると二ノ郭周囲の腰曲輪に至る。その上に、高さ3m程の切岸で囲まれた二ノ郭が聳えている。二ノ郭は南北に長く、西辺に土塁らしい土盛があるが、公園化による改変の可能性もあり、遺構かどうか確証はない。二ノ郭の北に幅広の土橋が架かった堀切が穿たれ、その北が方形の主郭である。主郭は小規模な曲輪で、居住性はほとんど無い。主郭の背後にも土塁と堀切が築かれて、丘陵基部を分断している。その先は弥勒寺の墓地に変貌している。主郭の西側は、ニノ郭西側の腰曲輪がそのまま繋がっている。主郭の東斜面にも腰曲輪が2段ほどある様だが、薮がひどかったので踏査はしていない。小規模だが、比較的普請がしっかりされた城である。尚、ここの城址標柱も印字がほとんど消えているので、何とかしてほしいところである。
腰曲輪上にそびえるニノ郭→IMG_4770.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.731489/141.259332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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湖水城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4752.JPG←城跡の台地
 湖水城は、西郡城とも呼ばれ、葛西氏の家臣西郡氏の居城である。戦国末期の城主は西郡新左衛門とされ、1590年の奥州仕置の際、葛西氏の将として700騎の総大将として現在の桃生郡河南町須江に出陣し、翌91年深谷の役で伊達軍と戦い討死したと言う。一方、西郡城主として千葉左馬助胤元の名も伝わっており、城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 湖水城は、機織沼の西側にある比高5m程の島状台地に築かれている。平坦な頂部に長円形の主郭を置き、周囲に一段低く腰曲輪を廻らしていたようである。適当に取り付きやすそうな部分から台地に這い上がってみたが、全域藪が酷すぎてまともに写真が取れない状況で、遺構の確認もできないのが残念である。城址南側の民家近くに城址標柱が残っているが、字が判別不能なほど消えてしまっている。かなり残念な状況である。
 尚、機織沼の北東の丘の上に西郡新左衛門夫妻の石碑と祠が建っている。

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.733046/141.280317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鱒渕城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4718.JPG←腰曲輪から見た主郭切岸
 鱒渕城は、葛西氏の家臣及川紀伊の居城であったと伝えられている。また別説では、鱒渕城主として岩渕氏の名が伝わっている。城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 鱒渕城は、二股川支流の小河川南岸に南から突き出た、比高30m程の細長い丘陵上に築かれた城である。小規模な城砦で、南北2郭と腰曲輪から構成された連郭式の縄張りとなっている。南北2郭の内、北側が主郭で、主郭内は何段かの段差に分かれ、北端が一番高く、神社が建てられている(但し参道は途絶)。主郭後部に1段の段曲輪があり、その先に土橋の架かった堀切を介して二ノ郭が続いている。二ノ郭南部は途中から採土で消滅してしまっている。主郭の東西斜面には綺麗に削平された腰曲輪が1段取り巻いており、西の腰曲輪先端には、竪堀状の虎口が築かれている。しかしその先は斜面が崩落してしまったのか、城道を追うことができない。全体に小規模で、技巧性もなく、あくまで有事の際の詰城と、南東の館ノ下集落(往時の根古屋であろう)を防衛する障壁としての位置付けだった様である。尚、主郭の後部に高圧鉄塔があり、そこへの保守道が西麓から伸びているので、それを使って訪城できる。
土橋の架かった堀切→IMG_4675.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.748394/141.328189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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狼河原城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4520.JPG←主郭前面の堀切
 狼河原城は、別名を鳩岡城、畑沢城とも言い、葛西氏の家臣亀卦川氏の一族、米谷修理の居城である。米谷亀卦川氏の事績については、米谷城の項に記載する。南北朝時代の1369年に、亀卦川(米谷)政明の子信明が登米郡狼河原に分封され、狼河原米谷氏の祖となった。その後、狼河原城を居城として、米谷氏の勢力の一翼を担い、この地に勢力を張ったと思われる。戦国末期には、米谷常秀の弟常忠が狼河原(米谷)氏を継承した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易となると、同年10月領内で葛西氏家臣団による反抗が起き(葛西大崎一揆)、奥州仕置軍との間で激しい戦いが行われたと言われ、その中に兄の米谷常秀と共に狼河原常忠の名が見られると言う。(一説には、この時の狼河原城主として千葉修理亮胤則と言う名が伝わるが、狼河原氏との関係は不明。また戦国後期の1564年には葛西民部少輔が城主であったとも伝えられ、狼河原城主については不明点が多い。)その後、伊達政宗の軍勢によって殲滅され、狼河原氏は滅亡したと思われる。

 狼河原城は、二股川の南岸に突き出た標高97m、比高77mの丘陵上に築かれた城である。普請がしっかりされた比較的大型の城で、本家の米谷氏が拠った米谷城よりも遥かに優れた遺構を有している。西麓の車道脇に城址標柱が建ち、そこから東に入っていった民家の脇から登り道が付いている。民家の横を通るので、立入りの許可をもらった方が良い。大きく4つの曲輪から成り、主郭を中心に、南西に二ノ郭、北西に三ノ郭、南東に四ノ郭を配置し、それぞれ腰曲輪を廻らしている。主郭と二ノ郭・三ノ郭はそれぞれ堀切で分断されているが、いずれの堀切も両側の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねている。また二ノ郭側の堀切には、主郭塁線が内側に折れて横矢が掛かると共に、どうも主郭の搦手虎口があったらしく、この主郭への登り道を隠すように二ノ郭側の土塁が配置されている。主郭は背後に土塁を築き、西辺部にも幅広の土塁を築いている。三ノ郭は、主郭との間の堀切手前に土塁と櫓台を築いているが、一方で前面に当たる北側は、明確な切岸などの区画や防御構造がなく、ダラダラとした緩斜面になっている。各曲輪周囲の腰曲輪は、綺麗に削平されて何段かに区画されており、特に主郭東側の腰曲輪は広幅で、主郭切岸も5m程の高さで聳えている。四ノ郭だけは主郭との間に堀切がなく、前面に数段の段曲輪を築いている。一方、二ノ郭の腰曲輪の先端(南端)も堀切となっているが、前述の西麓からの登り道はこの堀切に通じている。この堀切から南に少し行った先にも外郭があり、切岸で囲まれた三角形状の小曲輪と周囲の腰曲輪が確認できる。
 なお城内の中で、二ノ郭とその周りの腰曲輪だけが、西麓の民家の畑になっており、訪城した時作業中のお爺さんと話すことができた。主郭先端に大同桜という古木があり、時折それを見に来る人があるらしい。
主郭東側の切岸と腰曲輪→IMG_4549.JPG
IMG_4632.JPG←腰曲輪から見た二ノ郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.772923/141.341021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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