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姫路城外郭 その2(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

 今年の夏、2年前に平成の大修理が完了した姫路城を再訪した。前回2006年に訪城した時には、時間の制約等もあって主要部分(要するに一般観光客の見学ルート)しか見て回ることができなかった。今回は、城内の可能な限りの範囲を見て回るとともに、これまでほとんど見て回ることができていなかった外郭の内、遺構が良く残っている中濠を見て回った(内京口門だけは以前に見に行っていた)。姫路ではありがたいことに、ホテルで自転車を無料貸出してくれる所があるので、広域の外郭を巡るのに非常に助かった。

<総社門>
IMG_5777.JPG←雑草に覆われた石垣
 総社門は、総社の西門筋にあった枡形門であった。現在は門跡を県道518号線が貫通しており、ごく一部の石垣を残すほかは壊滅的で、残存状況は悪い。市民会館西側に雑草で覆われている直方体があるが、実は総社門の残存石垣の一つで、冬場ならば石垣面が現れるだろう。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.832695/134.694893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<中ノ門>
IMG_5786.JPG
 中ノ門は、中曲輪正面5門の中央にあった枡形門であった。中央にあった門だけあって、他の門より格式が高かったらしく、内側の櫓門には単層の櫓が付随していた。又、外に出番所、枡形内に大番所があったと言う。ここも枡形は跡形もなく、残存状況は極めて悪い。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.833558/134.690323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<鵰門>
IMG_5807.JPG←鵰門の枡形内部
 鵰(くまたか)門は、中ノ門の西側にあった枡形門で、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。車道が通っているものの、奇跡的に枡形石垣が往時の形状を残している。でもここを通る車も自転車も、走りづらそうである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.833981/134.688456/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<埋門>
IMG_5810.JPG
 埋門は、中曲輪の西南隅櫓の傍らに設けられた枡形門である。鵰門と同様に、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。他の中濠南面の城門と異なり、ここだけ小型の出枡形形式である。尚、門の西側には二層の隅櫓が付随していた。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.834492/134.685903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<車門>
IMG_5844.JPG
 車門は、船場川沿いに設けられた二重枡形のやや複雑な形状の門である。西に向いた外門は、普通の高麗門と車道門の2つがあり、高麗門と車道門との間に内側を仕切る石垣と中間門が設けられて、二重の枡形を構成していた。ちなみに車道門という名は初めて聞くもので、どのような役割の門だったのか、よくわからない。現地解説板の図では船場川(外濠)に面した船着場の様な門だが、船からの荷物を積んだ荷車を通した門だったということだろうか。車門は石垣がよく残存し、堀も残っているので、往時の雰囲気はよく感じられる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.835690/134.685988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<市ノ橋門>
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 市ノ橋門は、中曲輪西側にあった門で、船場川(外濠)の外に直接通じていた。特殊な形の枡形門で、現地解説板の図によれば塁線から斜めに張り出した台形状の外枡形と、内側に引っ込んで作られた櫓門による内枡形を組み合わせた、ハイブリッド形式の様な枡形であったらしい。現在は広い車道が通っていて、北側の石垣が一部残るだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.837838/134.688306/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<清水門>
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 清水門は、船場川沿いに設けられた中曲輪西北方の枡形門で、枡形内に「鷺の清水」という井戸があったことからこの名が付いた。出枡形の城門であったが、現在出枡形は失われ、内側の櫓門部分の石垣が残存しているだけである。ここからはそびえ立つ天守がよく見える。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.841132/134.692190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<南勢隠門>
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 南勢隠門は、内濠・中濠の間に築かれた西側帯曲輪の中間に築かれた食違いの城門である。石垣がよく残っているが、残念ながら標柱も解説板もない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.839124/134.690366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<野里門>
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 野里門は、北東に設けられた城門で、野里の出入口にあたることからこの名が付いた。濠が鍵型に屈曲した部分に設けられた内枡形の城門であったが、遺構はほぼ壊滅状態である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.842188/134.698520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<久長門>
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 久長門は、中曲輪の東側にあった内枡形の城門で、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。石垣はかなり失われているものの、何とか枡形らしい雰囲気は残している。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.837451/134.699335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

 以上、姫路城の中濠沿いの外郭城門を巡ってみた。鵰門や埋門は街中に枡形が残っており、通学する学生が自転車で枡形や南勢隠門の食違いを普通に通り過ぎている。城門遺構がすっかり生活に溶け込んでる感じがして、すごいなと思った次第。
タグ:近世平山城
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茂木陣屋(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5568.JPG←陣屋跡の現況
 茂木陣屋は、肥後熊本藩細川家の分家が築いた陣屋である。茂木藩細川家の初代細川興元は、細川藤孝(幽斎)の次男で、細川忠興の弟に当たる。関ヶ原の戦いで軍功を挙げ、兄忠興に従って小倉城代となったが、後に兄と不和になり出奔した。その後、父幽斎を頼って京都に隠棲していたが、1608年に徳川家康の仲介で兄忠興と和解した。1610年に2代将軍徳川秀忠のはからいで下野国茂木地方25ヶ村・10054石を与えられ、茂木藩を立藩して陣屋を造営した。その後、大阪夏の陣に参戦し、その功により1616年、茂木1万石に常陸国谷田部6200石を加増され、合計16,200石の大名となった。1619年、興元の子で2代藩主興昌は藩庁を茂木から谷田部に移し、谷田部藩が成立した。その後は谷田部陣屋が本拠となったが、茂木陣屋はそのまま残され、茂木地域の所領を引き続き統治した。そのまま明治維新を迎え、明治4年に藩主興貫は再びこの地に藩庁を移し、茂木藩と改称した。同年、廃藩置県により茂木陣屋は廃された。

 茂木陣屋は、現在の茂木町民センターや茂木商工会がある敷地にあった。遺構は全く無く、北西の交差点脇に石碑が建っているだけである。その西に掛かる橋は、御本陣橋と呼ばれ、わずかにその名に往時の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.531390/140.186298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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将門関連史跡 その3 [その他の史跡巡り]

 「将門関連史跡 その2」の続きである。前回同様これらの史跡については、「将門ブログ」に記載されている膨大な量の情報から多くの知見を得た。

<子飼の渡し古戦場>(茨城県下妻市)
IMG_5447.JPG←子飼の渡し付近の現況
 子飼の渡しは、小貝川にある渡し場で、平将門とその叔父良兼との間で合戦が行われた。935年の野本合戦で3人の息子を失った源護は、朝廷に将門を訴えたが不発に終わった。源護の娘婿でもあった良兼は積年の恨みを晴らすため、937年8月、軍勢を将門の本拠に向けて進め、常陸・下総両国の境にある子飼の渡しで将門軍と対陣した。この時、良兼は、桓武平氏の祖である高望王(将門の祖父に当たる)と将門の父で今は亡き良将の霊像を陣頭に掲げて進軍するという奇策を用いた。将門軍は、これに全く抵抗できず大敗したと言う。将門は山野に隠れ、良兼軍は抵抗するもののない将門の本拠地・下総国豊田郡に入り、栗栖院常羽御厩や人家を焼き払った。そして、逃れていた将門の妻子を見つけ、芦津江のほとりで惨殺した。
 子飼の渡しは、現在の愛国橋付近であったとされ、橋の西の袂に標柱が建っているが、日に焼けてしまって解説文の文字を読むことができない。せめて解説板だけは直して欲しいところである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.148505/140.002770/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<鎌輪の宿>(茨城県下妻市)
公民館裏の石碑→IMG_5450.JPG
 鎌輪の宿は、将門の元々の根拠地で、その居館の地である。一時期、上京して太政大臣藤原忠平に仕えたが、在京12年にして都の腐敗に幻滅して、故郷の下総国相馬御厨に戻った。そして豊田郡の鎌輪に新たな本拠を定め、民衆と共に原野を開拓して新たな国造りに努めたと言う。しかし、叔父たちの執拗な攻撃に遭い、居ること7年にしてやむなく石井に本拠を移した(石井営所)。その後、ちょっとした行き違いから天慶の乱の首謀者となってしまい、そのまま坂東の地を席巻して新皇を称したが、平貞盛・藤原秀郷の軍に敗れ、非業の最期を遂げた。将門の死後、残党狩りは過酷を極め、鎌輪の宿も人は去り、舎屋は焼かれ、歴史の彼方に埋没したと言う。将門の居館は、古老の伝えるところでは大字鎌庭字館野(新宿地内)にあったとされる。

 鎌輪の宿は、旧千代川村にあった。現在の航空写真ではわかりにくいが、戦後の航空写真を見ると、この地はかつて鬼怒川が東に向かって大きくUの字に蛇行していた内側の平地であり、三方を川で囲まれた要害の地であったことがわかる(現在、河道は改修され、まっすぐ南流している)。鎌輪の宿を伝えているものが2ヶ所あり、一つは千代川公民館裏に立派な石碑が建ち(ここは旧河道である)、もう一つはそこから西北西に700m離れた鎌庭香取神社境内の前に解説板が建っている。実はそれ以外にもう一つ、千代川中学の北西の水田地帯の中に「居館跡」と書かれた立看板があるらしいので、後日再訪してみたい。この看板の地が、古老の伝える居館跡なのであろう。

 場所:【千代川公民館裏の石碑】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.155678/139.963074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【鎌庭香取神社】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.158121/139.955778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<御所神社>(茨城県八千代町)
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 御所神社は、平将門を御祭神として祀る神社で、将門の館跡(仁江戸の館)であったとの伝承があるらしい。「桔梗の前」という愛妾を住まわせていたと伝えられている様だ。しかし将門の居館として『将門記』に記載されているのは、鎌輪の宿と石井営所なので、実際に仁江戸に館があったのかは不明。居館ではなく、将門によって郷村統治の為の陣屋が置かれた可能性もあるだろう。また一説には堀田道光と言う人の居館であったともされるが、堀田氏の事績も不明である。いずれにしても「御所」の名が示す通り、将門伝説を語り伝える地の一つであることは間違いない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.161231/139.932722/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<常羽御厨兵馬調練の馬場跡>(茨城県常総市)
IMG_5471.JPG
 常羽御厨(いくはのみうまや)は、平良持・将門2代に渡る牧場である。元々この付近には官牧であった古牧(現・古間木)と大牧(現・大間木)があり、古牧が手狭となったため移転した大牧の馬見所が、この馬場であったと言われている。東西に飯沼の入江を控え、南北に大路が貫通して両牧場に通じる要地で、馬場の北端を花立と称し、検査調練の際の出発点であったとされる。937年、子飼の渡しの合戦で将門軍を破った良兼は、将門の本拠地豊田郡を蹂躙し、常羽御厨など多数の人家舎宅を焼き払った。これは、将門の兵馬調練場として軍事上の重要拠点であった為に狙われたものと言われている。
 現在は、馬場地区にある交差点の脇に、「常羽御厨兵馬調練之馬場跡」と刻まれた石碑と解説板が建っているだけである。
 尚、西方の入江に接した白山(城山)の地に、将門の陣頭で上野守に任命された常羽御厨の別当多治経明の居館があったと伝えられている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.133404/139.920577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<下総国亭跡>(茨城県常総市)
IMG_5476.JPG←石碑・解説板と筑波山
 下総国亭(国庁)の地は、平安前期~中期の頃、北総最初の開拓地で、鬼怒川と飯沼川の水便を利用できる地勢であったため、早くから開拓基地として栄えていた。昌泰年間(898~901年)に鎮守府将軍平良将がこの地に進出して居を構え、下総開拓の府として国庁を置いた(現在の地名「国生(こっしょう)」は、国庁を置いたことに由来すると言われる)。良将は、後にこの地の下流に当たる要害地・向石下に豊田館を築いて居住し、902年に豊田館で将門が生まれたと伝えられる。しかし国庁は、良将・将門父子の時代を通じてこの地に置かれていたとされ、939年11月に鎌輪の宿に還った将門は、捕虜の常陸長官招使をこの地の一家に住まわせたと『将門記』に記載されている。また常陸介藤原維幾父子に与えられた一家も、この地内にあったとされる。但し、「国庁」とは言っても国府ではなく、国府の下位にあって地域支配を行うための出先機関としての官衙であったろう。
 下総国亭は、鬼怒川西岸の台地上の畑の只中に、石碑と解説板が建っているだけである。この台地の西を流れる鬼怒川支流の小河川は、その名も将門川と言い、将門伝説に所縁深い地であることを伺わせる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.129929/139.948654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<六所塚>(茨城県常総市)
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 六所塚は、古代の前方後円墳で、将門の父良将が下総国庁を本拠とした際に「六所の宮」を勧請して祭祀を行ったことから、六所塚と呼ばれるようになったと伝えられる。また別説では、六所塚は良将の墳墓で、元の名を御所(五所)塚と呼んだが、940年の将門滅亡後に逆賊の汚名が高まるに連れて六所塚と改称されたとも言われる。東側の通称六所谷と称される地は、将門討死後にその遺骸を埋葬した地とも伝承されていると言う。
 六所塚周辺には、かつては85基もの古墳があり御子埋古墳群と称されていた。現在では盗掘や開発によってほとんどが姿を消したが、当古墳群中で最大の前方後円墳である六所塚は、古くから畏敬されてきたため、現在までその姿を残している。農道脇に標柱と解説板が建っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.100634/139.958739/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平親王将門一族墳墓之地>(茨城県常総市)
IMG_5487.JPG←堤防下の石碑と解説板
 平親王将門一族墳墓之地は、将門の父平良将と兄将弘らの墳墓の地であったと言われている。将門の討死後、豊田の郎党は主君の遺骸を葦毛の馬に乗せて密かに逃れ来て、この一族の墓側に葬ったと伝えられている。この墳墓の地一帯の台地は御子埋と称され、古くから石碑群があり、「馬降り石」と呼ばれて、その前を通る時は必ず下馬して怪我のないように祈る風習があった。また御子埋に接する引手山の一廓は乗打すると落馬すると恐れられ、手綱を引いて通り過ぎなければならないと畏敬されてきたと言う。これらの石碑は、鎌倉中期の1253年に時の執権北条時頼が民生安定の一助とするため、自ら執奏して勅免を受け、下総守護千葉胤宗に命じて一大法要を営ませて建碑したものを始め、その翌年以降に縁者伴類多数の講中が豊田・小田(時知)両氏の助力を得て建碑したものなどである。現在は蔵持城付近の「赦免供養之碑」と西福寺の「菩提供養之碑」として、移されて現存している。

 平親王将門一族墳墓之地は、立派な石碑と解説板が建っているのだが、場所が非常にわかりにくい。堤防下にあるという情報だけを頼りに周辺を歩き回って、ようやく探し当てた。六所塚古墳から東南東に250m程の位置にあり、鬼怒川堤防の西側直下にある。石碑と解説板以外はただの藪に覆われた台地である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.100045/139.961550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平将門菩提供養之碑>(茨城県常総市)
IMG_5494.JPG

 前述の通り、平親王将門一族墳墓之地にあったものが、新石下の妙見寺に移され、明治4年の妙見寺廃絶の後、寺縁によって西福寺に移されたものと伝えられる。1254年の将門の命日(2月14日)に建碑供養されたものである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.109008/139.973116/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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山王堂古戦場(茨城県筑西市) [その他の史跡巡り]

IMG_5420.JPG←謙信が本陣を置いた山王堂
 山王堂の戦いは、1564年に越後の上杉謙信が常陸の小田氏治を破った戦いである。これに先立つ1561年、小田原北条氏の本拠地小田原城を、関東諸将を率いて攻撃し、その帰途鶴岡八幡宮において上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を譲られた。上杉方の関東諸将の中には小田氏治も参陣していたが、謙信が越後に帰還すると、北条氏康による関東諸将の切り崩しが行われ、翌62年に氏治は北条方に付いた。1563年、氏治が府中城主大掾貞国を攻撃して打ち破ると、小田氏と対立関係にあった佐竹氏・真壁氏らは連名で上杉謙信に氏治の背信を訴え、謙信の出馬を要請した。それが引き金となって謙信による小田氏攻撃が行われることとなった。翌64年4月、上野国平井にいた謙信は、出陣要請に応えて軍勢を率いて出陣し、驚くべき速度で進軍し、短時日で常陸国の山王堂に着陣した。あまりの速さに、上杉方の関東諸将・常陸の諸将の援軍が間に合わなかったほどだと言われている。謙信着陣の報を受けた氏治は、慌てて軍勢を整えて小田城を出立し、山王堂近くの芦原に布陣した。間もなく上杉勢の突撃によって戦闘が開始され、小田勢もよく凌いだが、激戦の末に敗れ、氏治は小田城に敗走して立て籠もった。勝ちに乗った上杉勢は小田城を大軍で攻撃し、氏治は藤沢城に逃れ、代わりに残って戦いの指揮を執った小田氏の老臣信太治房は自刃し、小田城は落城したと言う。

 山王堂合戦の際に謙信が本陣を置いた山王堂は、海老ヶ島城の南南東約1.8km、大川東岸の低台地の辺縁部にあった。下館市街から筑波方面に通じる県道14号線からやや西に外れたのどかな農村風景が広がる土地で、往時の光景を想像するのは難しい。両軍がどのように布陣したのかも詳らかではないが、大川を挟んで両岸に対峙したものであろうか。いずれにしても、泥田内での激突であったらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.239955/140.043883/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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将門関連史跡 その2 [その他の史跡巡り]

 以前、2010年に平将門の本拠地石井営所など将門関連の史跡を訪ね歩いたが、その他にも茨城県内南西部には各所に将門にまつわる史跡が散在していることが、その後わかっていた。今年の初夏、久しぶりにこうした将門関連史跡を廻ってみた。尚、これらの史跡については、「将門ブログ」に記載されている膨大な量の情報から多くの知見を得た。

<三国三公頌徳碑>(茨城県結城市)
IMG_5383.JPG
 三国三公頌徳碑は、平貞盛・藤原秀郷・結城朝光の3人の武将の業績を讃えた石碑で、戊辰戦争の際に旧幕臣を組織して函館政府を樹立した榎本武揚の撰になる碑文である。尚、この石碑の隣には水戸城主江戸氏の最後の当主江戸重通の碑が建っている。

 平貞盛は、常陸大掾平国香の嫡子で、将門の従兄弟に当たる。将門の乱の際に、将門討伐軍の将となり藤原秀郷と共に将門を打ち破った。貞盛の系統は桓武平氏の嫡流となり、伊勢平氏や常陸大掾氏などを輩出した。

 藤原秀郷は、俵藤太とも呼ばれ、現在の栃木県佐野市付近に本拠を持った豪族で、平貞盛と共に将門を打ち破った。その功績によって鎮守府将軍となり、渡良瀬川流域に広くその子孫が蟠踞した。中でも特に藤姓足利氏と小山氏は「下野の両虎」と称され、その勢力を競っていたが、源頼朝の挙兵の際の去就によって、足利氏は滅んだ一方で小山氏は大きくその勢力を伸ばし、以後は小山氏が秀郷流藤原氏の嫡流と目せられた。

 結城朝光は、小山朝政の弟で結城氏の祖である。源頼朝が挙兵した際、かつて頼朝の乳母であった母の寒河尼に連れられて、武蔵国隅田宿の宿所で頼朝に対面し、以後は頼朝の寵遇を受けた。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.296216/139.844799/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<結城諏訪神社>(茨城県結城市)
IMG_5390.JPG
 940年、朝廷からの平将門討伐の宣旨を受けた藤原秀郷は、この地に諏訪神社を勧請して戦勝祈願を行ったと伝えられる。そして見事に将門を討ち取った秀郷は、翌年諏訪神社を創建した。以後、その子孫からの尊崇厚く、源頼朝の奥州合戦に出陣する小山朝政・結城朝光兄弟は当社に戦勝祈願をしてから出立したと言う。境内には「勝負岩」という大岩があり、将門の軍勢の矢から秀郷を守ったと伝えられる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.243122/139.871879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<伝・源護館>(茨城県下妻市)
IMG_5403.JPG←大串の富士神社
 源護は、筑波山西麓に広く勢力を有していた豪族で、平国香以前の常陸大掾職を務め、娘を平国香・平良兼・平良正らに嫁がせていた。935年、息子の扶、隆、繁ら3兄弟が将門と争い、野本合戦で悉く敗死して、護の本拠も将門に焼き払われたと言う。大串の富士神社付近には、その居館があったとされる。この地は大宝城の南続きの台地上に位置し、周囲には往時は大宝沼が広がっていた事から、居館を築くに適した要害の地であったと推測される。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.197768/139.973631/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<石田館(平国香館)>(茨城県筑西市)
長光寺→IMG_5408.JPG
 筑西市東石田は、将門の伯父で常陸大掾であった平国香の本拠があった。現在長光寺の建つ付近一帯が、平国香の居館があった場所と伝えられている。国香は源護の娘婿であったため、935年に護の息子たちが将門と争うと、国香は源一族の側に付いて自ら軍を率いて参戦した(野本合戦)。しかし将門の精鋭軍に敵わず、石田館に逃げ帰ったが将門軍は追撃して石田館を攻撃した。傷を負っていた国香は、館に火をかけられて敗死したと言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.220881/140.048218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平国香墓>(茨城県筑西市)
IMG_5415.JPG
 石田館跡とされる長光寺の南東550m程の畑の中に、平国香の墓と伝わる石塔がある。畑への入口脇に解説板が昨年設置され、場所がわかりやすくなっていて助かった。石塔の背後には雄大な筑波山の山容を望むことができる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.217869/140.053046/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<弓袋山古戦場>(茨城県石岡市)
奥の山が湯袋山→IMG_5426.JPG
 937年9月、将門は平良兼の居館のある服織の宿に向けて進軍し、良兼の館やその家臣の館を焼き払った。良兼は、将門が来る前に一族と軍勢を率いて筑波山中の弓袋山(湯袋山)に逃げ込み、山中に隠れた。将門は陣を堅固に作って敵襲に備える一方、山中の良兼を攻めようとするが、互いに持久戦となり、勝敗を決しないまま軍勢を引き上げたと言う。
 弓袋山合戦は、県道150号線が筑波山北東の山稜を横切る湯袋峠付近であったのだろう。この地は、北西に伸びる山稜の先端付近にあったとされる平良兼館方面から道1本で繋がっており、確かに急場しのぎで良兼一族が立て籠もるには、都合が良かったのだろう。藪だらけなので、山中には入らず、峠付近の近景と麓から湯袋峠付近の遠望だけ写した。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.241011/140.124457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<御堂の越の碑(将門供養碑)>(茨城県桜川市)
IMG_5427.JPG
 后神社の東南100m程の丘の上の墓地に、御堂の越の碑と呼ばれる将門供養碑がある。伝承では、将門を滅ぼして乱を鎮定した後、平貞盛が将門供養の為に建立したものだと言う。現在は一般の方の墓の真裏に数個の墓石や石碑があり、多分これだろうということしかわからない。一般墓地と20cm程しか離れておらず、なんかあまりにも可哀想な状態だった。もし貞盛が立てたという伝承が本当だったら、極めて貴重な文化財と思うのだが、全く信用されていないのか、何らの保護措置も案内板の設置もされていないのは悲しいことである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.325317/140.079074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<后神社・きさきの井>(茨城県桜川市)
IMG_5430.JPG
 后(きさき)神社は、将門の妻「君の御前」を祀った神社である。解説板によれば、承平の頃に平真樹と言う豪族が、この大国玉字木崎に居を構えていた。真樹は、将門の父良文の遺領大国玉地方を領しており、その娘が将門に嫁いだ。前常陸大掾・源護の子・扶、隆、繁らは君の御前に懸想し、これを略奪しようとして将門を襲った。しかし戦は将門・真樹の勝利となり、扶、隆、繁らは敗死し、源一族に援軍として加わっていた将門の伯父平国香も自殺した。以後、将門は伯叔父たちと相争うこととなった。937年7月、服織に住む叔父平良兼が、将門を攻撃した。同月18日、猿島郡陸閑において、君の御前とその子が良兼の配下によって斬殺された。死後祭祀の礼を享け、后神社と称したと言う。ご神体は平安時代五衣垂髪の女人木像で、君の御前の木像であるらしい。尚、現在この地を「木崎」と呼ぶのは、后の転訛であると言う。
 また、后神社の裏の道路を挟んで東の斜面下には、大国玉七井の一つ「きさきの井」の井戸跡がある。
IMG_5435.JPG←きさきの井
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.325645/140.078151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<将門宝塚>(茨城県桜川市)
IMG_5437.JPG
 将門宝塚は、将門が財宝を埋めた塚だと言われている。后神社の北東200m程の位置、河岸段丘東端部の山林内に円墳状の塚があり、頂部に祠が祀られている。土地の人からは、「宝塚さま」と呼ばれていると言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.326942/140.079632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<御門御墓>(茨城県桜川市)
IMG_5444.JPG
 御門御墓は、平将門とその一族の墓と伝えられている。ここは将門の居館があったところと言われ、将門らの霊を供養するため、後年五輪塔を建立したものと推測されている。4基の五輪塔が残っているが、これらは鎌倉初期の作とされている。尚、「みかど」の地名は、新皇を僭称した将門の居た所から、当初は「帝」の字を当て、その後、「御門」→「三門」と変遷した。三門の集落続きの木崎が、古くは「后」の字を当てていたのと一対になっており、天慶の古い歴史を今に伝えていると言う。
 尚、「将門ブログ」の管理人の方が、『将門の御墓(東向き)は、将門の妻「君の御前」を祀る后神社(西向き)と向かい合うように建っています。これは偶然ではないでしょうね。』とコメントしておられるが、ものすごく鋭い観察眼であり、恐れ入るばかりである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.330105/140.068903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


※この続きは「その3」へ。
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光得寺五輪塔(栃木県足利市) [その他の史跡巡り]

IMG_5150.JPG←前列左が南宗継の供養塔、
                          前列右が高師直の供養塔
 光得寺は、源姓足利氏3代義氏が開基となったとされる寺で、ここには樺崎寺(足利氏の菩提寺)にあった五輪塔群が移されている。明治初年の廃仏毀釈によって樺崎寺が廃寺となった際、法縁によって光得寺に移されたと言われている。全部で19基もの五輪塔群で、ほとんどは刻文が摩滅して誰のものか不明であるが、明確に読み取れるものが4基あり、足利尊氏と考えられるもの(「長寿寺殿」(=尊氏の法名)と推測されるが、一字が不明のため不確定)、その父・貞氏のもの、そして尊氏の執事を務め、各地の南朝方との戦いで絶大な軍功を挙げた前武州太守・高師直のもの、高氏の庶流で師直が観応の擾乱で滅ぼされた後に、一時期尊氏の執事を務めた南宗継のもの、がある。

 これらの五輪塔群は、長いこと修復整備のために足利市が寺から他所に移していたため、近年までお参りすることができなかった。ようやく昨年あたりに修復が完了し、立派な覆屋が建てられてお参りできるようになったのを、「高 師直: 室町新秩序の創造者(吉川弘文館)」という本に写真が載っていたのを見て初めて知り、さっそく初夏に訪問した。最初に光得寺を訪れたのは2008年。それから9年も掛かって、ようやく念願の対面ができた。足利は高氏一族の本拠地であり、光得寺はその庶流南氏の本拠であった名草に近い。おそらく南宗継やその子孫が建てた供養塔と思われるのだが、あれほど日本史に名高いのに、太平記による師直悪玉論によって功名を消し去られた師直の墓(供養塔)は、全国的にも多分ここしか無い(その他では、師直が惨殺された武庫川辺に「師直塚」というものがあるだけ)。その意味で、歴史的に極めて貴重な供養塔である。その他の無名の五輪塔も、一部がもし南氏が建てた供養塔だとしたら、武庫川で滅亡した高氏一族(師泰、師夏ら)の菩提を弔う供養塔であった可能性もあるだろう(南氏一族の墓は名草の清源寺にあるので、光得寺のものは観応の擾乱で滅亡した高氏宗家の諸将を供養したものではないだろうか)。南北朝時代の重要な歴史を再認識させる、貴重な文化財である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.359314/139.482293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/07/21
  • メディア: 単行本


タグ:墓所
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矢島城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5135.JPG←主郭の現況
 矢島城は、長久年間(1040~44年)に七井刑部大夫頼治が築いたと言われる城である。頼治は、矢島郷と常陸国中郡の計48郷を領し、矢島郷に居城を築いたと『岩松家系図』に伝えられている。頼治から13代の裔、刑部大夫綱代の時、1559年に益子城主益子勝宗に攻められて落城し、綱代は多田羅館に移り、その後の矢島郷は益子氏の支配するところとなった。尚、矢島城の南にある日枝神社は、その社伝によれば1040年に七井刑部大夫頼治が再建し、後に鎌倉前期の1216年にも岩松新六郎綱持が本社を再建したと言う。

 矢島城は、小貝川東岸のなだらかな丘陵中腹に築かれている。現在は一部が民家のほかは、一面の麦畑に変貌している。戦後間もなくの航空写真を見ると、かなり耕地化による湮滅が進んでいるものの北半の遺構が残っており、北に突出した櫓台を築き、周囲を空堀で囲んで防御した単郭の城だったらしいことがわかる。また主郭内部の北東寄りにL字型の土塁が見られ、何らかの城郭構造があったらしい。これらは、畑の畦道の形にその名残を残しているだけである。残念と言う他はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.500952/140.094824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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市花輪館(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5118.JPG←主郭切岸と周囲の堀跡の畑
 市花輪館は、貞治年間(1362~68年)に益子喜市郎勝直により築かれたと言われる。『益子系図』によれば、勝直は益子越前守勝政の嫡男で市花輪に住したが、益子安正が死没した時、その子十郎丸が幼かったため、勝直が入嗣して家督を継いだと言う。しかし益子氏の系図はいくつか異本があって、正確なところは不明である。また別説では、勝直の弟市花十郎直正(直政)が「市花館」を築いて居住したとも言われ、勝直が住したのは「向館」であったともされていて、はっきりしたことはわかっていない。いずれにしても、宇都宮氏麾下で勇名を馳せた紀清両党の一、益子氏一族の居館であったことはほぼ疑いのないところであろう。

 市花輪館は、桜川西岸の比高10m程の低丘陵上に築かれている。宅地と畑に変貌しており、遺構の残存状況は良好とは言えないが、民家が建っている主郭は周囲の畑より一段高くなっており、切岸で明瞭に区画されている。主郭外周には部分的に土塁もある様だ。主郭周囲は畑が一段低くなっており、幅10m程の空堀が廻らされていたらしい。この他、北東にやや離れて土塁と堀切道があったらしいが、消滅したと言う。台地上にわずかに館の痕跡を残す城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.532286/140.102355/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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稲毛田城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5090.JPG←僅かに見られる土塁跡らしい土盛
 稲毛田城は、歴史不詳の城である。一説には、稲毛田重正や宇都宮氏の家臣綱川右近(左近丞とも)が城主であったとも、或いは古く平城天皇の御宇(9世紀初頭)に下野助・乙貫朝景(朝則?)が築いた城とも言われる。また1361年、稲毛田重一が城主の時に宇都宮氏綱に滅ぼされ、そのまま廃城となったとも伝えられるが、詳細は不明である。
 稲毛田城は、現在崇信寺の境内となっている。方形単郭居館であったらしく、昭和30年代までは南東部以外の3/4程度の範囲の土塁と空堀が残っていたようだが、その後の墓地造成などにより、遺構はほぼ完全に湮滅している。わずかに北側に土塁の残欠らしい土盛が見られる程度で、壊滅的な状況で残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.570588/140.067186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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祖母井陣屋(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5078.JPG←陣屋跡の現況
 祖母井陣屋は、大田原藩が飛地領を治めるため1602年に築いた陣屋である。1600年の関ヶ原合戦の際、大田原城主大田原晴清は徳川家康に臣従し、大田原城に詰めて会津の上杉景勝の南下を抑える功を挙げ、1602年に加増を受けて12400石を領する大名となった。芳賀郡内に多くの飛地領を有し、その統治のため同年、祖母井に代官陣屋を置いた。祖母井陣屋はそのまま幕末まで存続した。
 祖母井陣屋は、現在の芳賀東小学校の地にあった。遺構は全く無く、校地の端に小さな解説板が建っているだけである。時勢柄、校地に入れないので、解説板を遠目に望むしかできない。各地の多くの陣屋跡と同じく、往時を忍ばせるものは皆無である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.547871/140.062551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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祖母井城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5071.JPG←解説板の後ろに残る土塁
 祖母井(うばがい)城は、宇都宮氏の家臣祖母井氏の居城である。祖母井氏は、元々は下総の名族千葉氏の一族で、大須賀氏の庶流に当たる。大須賀氏の事績については松子城の項に記載する。大須賀四郎胤信の3男嗣胤は、執権北条時頼が三浦泰村を滅ぼした1247年の宝治合戦で敗北し、宇都宮氏を頼って下野国君島(現在の真岡市)に移り、君島十郎左衛門尉を名乗った。そして、嗣胤の次男貞範がこの地に移り住んで祖母井左京介を称し、祖母井氏の祖となったと言われている。以後、祖母井氏は代々宇都宮氏に忠節を尽くし、伊予守護を一族で兼帯していた宇都宮氏が、鎌倉後期になって8代貞綱の弟泰宗を初めて伊予に下向させて伊予宇都宮氏を分立した際、その家臣団の一員として祖母井一族も伊予に下向している(現在では、祖母井姓は栃木県より愛媛県の方が多いらしい)。祖母井城は、天文年間(1532~55年)に祖母井信濃守吉胤が築いたと言われ、吉胤は1558年の多功城での戦いで上杉謙信の軍勢と戦って討死した。また信濃守定久は、戦国末期の小田原北条氏による宇都宮攻撃の際、北条勢を迎え撃ち、また多気山城の守備勢の一翼を担った。信濃守高宗は豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し、戦功を挙げた。1597年に宇都宮氏が改易になると、祖母井氏も没落し、祖母井城は廃城となった。

 祖母井城は、五行川東岸の低大地の西際近くに築かれていた。現在主郭跡の一部は公園となっているが、遺構は壊滅的な状況である。公園東の旅館の裏に長さ10m程の土塁が残っているのが、唯一の明確な現存遺構である。戦後間もなくの航空写真を見ると、主郭の北・西・南の三方を巡る堀跡が確認でき、主郭北辺には土塁も残っている。前述の現存遺構の土塁は、主郭南東部のものの様だ。主郭の北と南にも曲輪らしい跡が見られ、北郭の西・北外周にやはり堀跡が見られる。現状の航空写真と見比べると、この北郭の堀跡は、現在は田福院外周の水路となって往時の名残を残している様だ。北郭堀の外周にも帯曲輪があった様である。南郭は現在の芳賀町体育館のある場所で、昔は学校が建っていたらしく、戦後の写真で既に破壊を受けている。南郭の更に南にももう1郭あった可能性があるが、戦後間もなくでも耕地化による改変が進んでいて、はっきりとはわからない。いずれにしても、前述の土塁だけが明確な城の名残である。
北郭の堀跡の水路→IMG_2719.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.550362/140.059955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平石館(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5065.JPG←延生寺跡
 平石館は、宇都宮氏の家臣平石紀伊守高治の居館である。高治は祖母井城主祖母井信濃守吉胤の弟で、天正年間(1573~92年)に平石館を築いたと言う。1597年に宇都宮氏が改易になると、平石氏も没落し、平石館は廃館になったと推測される。
 平石館は、大正期の耕地整理で土塁・空堀が全壊し、遺構は完全に湮滅している。その為場所も正確にはわからないが、日枝神社の南東にあったらしい。戦後間もなくの航空写真を見ても既に場所の特定ができないほど改変されてしまっている。尚、南方には平石氏の菩提寺であった延生寺跡がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.540364/140.060320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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下之庄代官屋敷(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5063.JPG←貴重な文化財である代官屋敷
 下之庄代官屋敷は、江戸時代に交代寄合芦野家(那須七騎の一で芦野城の故地に陣屋を構えた)の飛地に置かれた陣屋である。この地の名主であった藤平(とうへい)家が郷代官を代々勤めたと言う。この郷代官藤平家は、以前に「きえ」さんから神楽ヶ岡城に頂いたコメントによると、戦国末期の「西方崩れ」で西方氏(西方城主、宇都宮氏の一族)と共に赤羽に移った神楽ヶ岡城主藤平一族の末裔であろうとのことである。

 下之庄代官屋敷は、往時の陣屋門と母屋が残っている。周囲は水堀で囲まれているようだが、夏場だったので薮で一部しかわからなかった。陣屋門と母屋は茅葺屋根の古い建築物で、江戸前期に建てられたと言う貴重な文化財なのであるが、なぜか町の史跡には指定されていない。見たところ、茅葺屋根がだいぶ傷んでいたので、市貝町の今後の文化財保護行政に期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.530312/140.062144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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水沼城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5052.JPG←城址付近の現況
 水沼城は、宇都宮氏の家臣水沼五郎入道の居城と伝えられている。元は、天文年間(1532~55年)の頃に頼母玄蕃守と言う武士が居城としていたが、宇都宮氏によって滅ぼされ、代わって水沼氏が入城して武威を振るったと言う。1597年の宇都宮氏の改易により廃城となった。

 水沼城は、野元川という小河川の東岸の宿水沼という地にあったとされる。「宿の古城」とも呼ばれるが、遺構が完全に湮滅しているため、その正確な場所は不明である。しかしどこの水田かわからないが、水田中に「本丸」「中丸」「櫓下」という地名が残っているそうなので、戦後間もなくの航空写真をじっくり見て城の痕跡が残っていないか探してみた。すると、宿水沼集落の南の水田中に堀跡のような帯状の水田で囲まれた、ややひしゃげた方形の畑があり、ここが主郭であったものだろうか。この主郭推定地の南西角は、現在はお堂の建つ墓地となっており、周囲の水田より1m程高く、主郭の唯一の痕跡なのかもしれない。戦後の航空写真には、主郭と推測される方形の畑の南や東の水田にも堀跡らしい形が認められるので、主郭の周りに二ノ郭が広がっていたものと推測される。いずれにしても現在では完全に失われた城である。
 尚、南西の丘陵地に舟戸城があり、水沼城の有事の際の詰城だったと推測される。
主郭の唯一の名残?の墓地→IMG_2714.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.534692/140.027468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高橋城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2708.JPG←南の堀跡の畑
 高橋城は、延文年間(1356~61年)に高橋刑部左衛門尉義通が築いたと言われている。高橋氏は常陸の名族佐竹氏の出と言われ、信州7千石を領して木曽義仲に従っていたが、義仲滅亡後に関東に下向し、宇都宮氏を頼ってその家臣となったとされる。以後、高橋城を本拠として宇都宮氏の家臣として続き、16代小太郎判官越後守貞勝までの歴代の居城となった。1597年に宇都宮氏が改易になると、高橋城も廃城となった。尚、現在城跡に残る「小太郎判官の墓」は、高橋氏12代御子之介義途のものと伝えられている。

 高橋城は、五行川東岸の平地に築かれていた。現在は一面の水田に変貌し、遺構は完全に湮滅している。昭和20~30年代の航空写真を見ると、南西角に前述の「小太郎判官の墓」を置き、北・西・南を巡る堀跡のような帯状の水田の形状が確認でき、これが主郭であったろうと推測される。西と南の堀は直線状だが、北の堀は弧を描いた形状である。今は耕地整理で壊滅し、高橋小太郎の墓と南側の堀跡の畑しか残っていない。東には水路を挟んで高椅神社が建っている。
主郭南西角に残る小太郎判官の墓→IMG_5040.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.519699/140.042231/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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京泉館(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2707.JPG←京泉館跡とされる民家付近現況
 京泉館は、宇都宮氏麾下で勇猛で知られた紀清両党の一、芳賀氏の初期の居館である。芳賀氏は後に御前城、更に真岡城と居城を移している。伝承では、清原真人龍口蔵人高重が、985年、花山天皇の怒りに触れてこの地に配流され、京泉館を構えたと言う。その後裔芳賀高親の時に源頼朝の奥州合戦に従軍した後、御前城を新たに築いて居城を移したと言う。

 京泉館は、五行川東岸の平地に築かれていた。かつては二重の堀と土塁に囲まれた平城であったらしいが、昭和初期の耕地化で遺構は完全に湮滅している。その為、現地に行っても館のあった正確な場所はわからない。昭和20年代前半の航空写真を見ても、畑のなんとなくの形状からこの辺りが主郭だったのかな?と想像する程度である。『日本城郭大系』によれば、一部の土塁が残るというが、これもよくわからない。芳賀氏草創期の城館であるが、非常に残念な状態である。
 尚、ここから真南に1.3kmの所に、芳賀氏のものと伝えられる墓石群が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.480561/140.032082/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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籠谷城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2685.JPG←一面の畑となった台地
 籠谷城は、宇都宮氏の家臣籠谷氏の居城である。天正年間(1573~92年)に籠谷伊勢守政高によって築かれたと伝えられている。政高は、無量寿寺の大檀那としてその伽藍を再建した。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際にも、宇都宮国綱・芳賀高武に籠谷氏が従っている。1597年に宇都宮氏が改易されると、籠谷城も廃城となったと思われる。
 籠谷城は、江川西岸の比高15m程の段丘先端に築かれていた。南端部は土取りで消滅しており、その他の台地上は一面の畑となっていて、遺構は完全に湮滅している。台地辺縁部には一段低く腰曲輪らしい平場も見られるが、はっきりしない。『日本城郭大系』には、北東部に堀と土塁が一部残っていると記載されているが、どこのことかわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.494044/139.977965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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内宿館(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4764.JPG←主郭北西の櫓台の張出し
 内宿館は、歴史不詳の城である。位置的には神明城木崎城の中間に位置していることから、両城を居城とした常陸武田氏の支城であったろうことは想像に難くない。しかし佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で武田氏が滅亡した後、関ヶ原合戦後の1602年に出羽国由利郡からこの地に5000石で移封となった仁賀保氏が陣屋として築いた(或いは武田氏時代の城館を改修した)のではないかとの説や、1623年に常陸府中に入部した皆川氏の一族が内宿館を居館としたとの説も提示されている。いずれにしても推測の域を出ず、今後の考究が待たれるところである。

 内宿館は、武田川北岸の比高25m程の段丘先端に築かれている。東西に並んだ主郭・二ノ郭から成っており、主郭は自性寺の境内となり、二ノ郭は現在は墓地と空き地になっている。自性寺の周囲には最大で高さ5m程にも及ぶ大土塁が築かれ、ほぼ全周を囲繞している。その北側から東側にかけての外周には規模の大きな横堀が穿たれている。この横堀の内、北面では主郭から張り出し櫓台を両翼に設けて、相横矢を掛けている。一方、二ノ郭は以前に小学校が建てられていた為に改変を受けており、かつてはあった主郭との間の空堀は埋められてほぼ湮滅している(北側の山林脇だけ、わずかに窪んだ地形として残っている)。二ノ郭は主郭よりも数m低い位置にあり、主郭西辺の土塁が切岸の様な形で残っているだけである。二ノ郭の北端には虎口の土塁が築かれている。遺構は以上の通りで、内宿館は単純な構造の城館ながら、土塁や空堀の規模が大きく、相横矢の櫓台と相俟って中々見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.101787/140.499086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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小貫城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4713.JPG←主郭周囲の横堀
 小貫城は、神明城主であった常陸武田氏の支城である。1455年に武田昌信の次男信次が築いたと言われる。その他の歴史は不明である。

 小貫城は、武田川沿いの比高20m程の段丘南西端に築かれている。神明城の西北西1.5km程の位置である。現在城の主要部は一面の畑となっているが、昭和20年代の航空写真を見ると、今では失われてしまった曲輪の形が明瞭に確認できる。先端に置かれた主郭は五角形の形状をしており、北東のニノ郭との間は堀切で分断していた様である。この堀切は現在では埋められて耕地化され、湮滅している。ニノ郭と台地基部との接続部にも堀切があった可能性があるが、これも湮滅しているので実際どうだったのかはよくわからない。主郭の外周には横堀が穿たれ、主郭の西辺には土塁が築かれている。前述の横堀は中規模のものであるが、倒竹地獄になっていて踏査が困難である。横堀は北西側で二重横堀となっている。また主郭の西側には横堀の外側に堀切が穿たれ、その西に一段低く台地が伸びており、西出曲輪となっている。この他、二ノ郭の南斜面も腰曲輪となっていた可能性があるが、宅地化されて改変されてしまっており、これもよくわからない。結局、主郭周辺だけが往時の遺構を残しているが、激しい倒竹でかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.107491/140.474946/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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鳥名木館(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4682.JPG←主郭先端の櫓台
 鳥名木館は、大掾氏の一族で手賀城主手賀氏の庶流鳥名木氏の居城である。鳥名木氏は鎌倉中期にこの地に入部して以来、戦国末期までこの地を支配した。1591年、佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で鳥名木氏も滅亡した。しかしその子孫は残り、江戸時代には麻生藩新庄氏に仕えた。尚、鳥名木家に残る1297年の譲状を始めとする古文書群は、「鳥名木家文書」として県指定の文化財になっている。

 鳥名木館は、霞ヶ浦東岸の比高30m程の台地上の、やや奥まった部分の北端に築かれている。本家の居城手賀城からは北にわずか5~600m程しか離れていない。主郭・二ノ郭の2郭から構成されており、主郭と二ノ郭の間は土塁だけで区画されている。明確な堀切はなく、二ノ郭は東側のどこまで広がっていたか不明である。主郭の先端部には土塁が築かれ、特に城址碑の建っている部分は幅広で櫓台が築かれていたと考えられる。主郭周囲の斜面には腰曲輪らしい平場も見られる。二ノ郭は一部畑のほかは薮と空き地、主郭はほとんどの部分がガサ薮で覆われており、土塁と先端櫓台以外は春先でも突入不能である。せっかく誘導標識や解説板があるのだから、もう少々行政の方で整備してくれるとありがたいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.097106/140.431859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小貫館(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4624.JPG←南の切通し状参道
 小貫館は、西蓮寺を使用した寺院城郭であったらしい。天正年間(1573~92年)に小貫氏が城主であったと言われ、小高城の支城となっていた様である。戦国期にこの付近で唐ヶ崎合戦という戦いがあったということで、行方四頭で同族の小高氏・玉造氏による所領争いを発端として、宗家に当たる大掾氏や周辺豪族を巻き込んだ一大紛争となったと言う。その際に小貫氏が立て籠もった城砦であったのかもしれない。

 小貫館は、前述の通り西蓮寺の境内となっている。この地は霞ヶ浦東岸の比高30m程の台地上にあり、周囲を低湿地帯に囲まれた要害であったのだろう。西蓮寺は782年創建と伝えられる古刹で、それを臨時的に要塞化しただけの城館であると思われるので、城郭遺構は極めて少ない。南中央の参道は切通し状の通路で、途中で屈曲しており、いかにも城郭風の造りである。またその東側には、台地より5m程低い位置に腰曲輪らしい平場が広がっている。この他では、境内奥の南側に横堀などの城郭遺構があるようだが、寺の方が作業されており、怪しまれるとまずいので、奥の遺構を確認することはできなかった。城館というより、国重文になっている仁王門や相輪橖など、古刹西蓮寺の文化財の方に目を奪われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.071840/140.439155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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人見館(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4606.JPG←東側の堀切
 人見館は、船子城主下河辺氏の家臣人見氏の居城である。人見氏についての事績は不明であるが、武蔵七党猪俣党に属する人見氏が有名なので(太平記にもその名が現れる)、その一族が下河辺氏に従って常陸に入部したものかもしれない。
 人見館は、霞ヶ浦東岸の比高25m程の段丘先端に築かれている。主郭と周囲の腰曲輪から成るほぼ単郭の簡素な城砦で、東側の台地基部を堀切で分断している。主郭外周には所々土塁が築かれている。東側の堀切には横矢掛かりのクランクが見られるが、堀自体に鋭さはなく切岸の角度も比較的緩く、あまり厳しい防御性を感じさせない。主郭の北西角には塁線の張り出しも見られ、西側下方の腰曲輪への横矢掛かりを意識しているのがわかる。しかし特徴的なのはその程度で、全体には大味な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.065006/140.433254/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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行方城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4497.JPG←主郭横堀の屈曲部
 行方城は、中城とも呼ばれ、大掾氏の庶流行方氏の居城である。行方氏は後に四家が分立し、行方四頭と称された。その事績は古屋城の項に記載する。行方氏の嫡流たる小高氏は小高城に本拠を移したため、行方城は一旦廃城になったと言われるが、室町中期になると、船子城主であった下河辺義親が行方城に移り、改修したと言う。1591年、所謂「南方三十三館の仕置」で下河辺氏は佐竹氏に滅ぼされ、その後佐竹氏の家臣荒張尾張守が入城したが、翌年の佐竹氏の出羽秋田移封によりこの地を去り、行方城は再び廃城となったと言う。

 行方城は、谷戸の低湿地帯に面した比高20m程の段丘先端に築かれている。先端の広大な主郭と台地基部にある二ノ郭から成る、素朴な縄張りの城である。二ノ郭は民家となり、主郭はその民家の畑となっている。民家の方が不在だったので、中に入ることができず、敷地外の外周斜面だけ確認した。主郭と二ノ郭の間には堀切があり、かなり埋まっているようだが痕跡は明確である。この堀切近くには腰曲輪を睥睨する櫓台が見られる。主郭の外周には横堀が穿たれ、特に西側斜面は二重横堀となっている。南西端部で屈曲して掘り切っており、横矢を意識していることがわかる。主郭北西端には土橋が見られるが、往時からの遺構かどうかは不明である。後世の改変の可能性もある。遺構としてはこの程度で、縄張りの技巧性はほとんど感じられない。主郭が広大なので、政庁機能を優先させた城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.052864/140.462394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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船子城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4431.JPG←2郭南東部の横堀
 船子城は、伝承によれば、永享の乱の際に鎌倉公方足利持氏に味方して敗北した関宿の城主下河辺義親が、小高氏を頼ってこの地に逃れ、船子城を築いたと言う。行方下河辺氏は、義親・その子晴親・その弟氏親と3代続いたと言われる。後に下河辺氏は行方城へ移り、船子城は小高氏の城となったとも言われるが詳細は不明である。

 船子城は、霞ヶ浦東岸の比高25m程の丘陵上に築かれている。南麓に浅間神社があり、その背後から登ることができる。比較的広い城域を有しているが、全体が藪に覆われていて、踏査がなかなか大変である。南端から順に1郭・2郭・3郭・4郭と直線的に配置し、1郭の西側に細長い西出曲輪を配置したのがこの城の基本構造である。曲輪の番号は、ここでは先端から順に番号付けしたが、実際の主郭は2郭と考えて良いと思う。城内最大の面積があり、防御構造が最も厳重だからである。1郭はそれに対する笹曲輪の役割であったろう。1郭は後部に土塁を築き、2郭との間を堀切で分断している。中心となる2郭は南面から東にかけて土塁を築き、その外周に腰曲輪を築いている。2郭腰曲輪の南東部は横堀となって防御を固めている。ここから南東尾根に土塁を伸ばし、側方に段状に曲輪を伸ばしている。2郭後部には横矢張出しの櫓台が築かれている。2郭・3郭・4郭の間はそれぞれ堀切で分断されている。この他、主要な曲輪の周囲には腰曲輪が築かれているが、藪が酷くてわかりにくい。2郭の横堀付近以外は、あまり技巧性を感じさせない縄張りの城である。
3郭後部の堀切→IMG_4366.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.048049/140.451987/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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古屋城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4257.JPG←周囲の空堀
 古屋城は、伝承では行方忠幹の居館であったと言われている。忠幹は大掾氏の庶流行方氏の初代で、大掾繁幹の子吉田清幹の次男として生まれ、行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したとされる。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。宗幹の4人の子は遺領を分与されて、小高氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏と言う、所謂「行方四頭」となった。ところで、行方氏の居城としては、古屋城から北に1.1kmの位置にある行方城が知られており、規模的に古屋城は大掾氏一族の居城としては小さすぎることから、忠幹の別宅か何かであったものであろうか。一方、古屋城の大手に当たる西側に隣接して曹源寺があり、曹源寺の開基は船子城主下川辺義親(行方下川辺氏と称される)で、その供養塔も境内に残っていることから、古屋城は下川辺氏が関連した城館であった可能性もある。

 古屋城は、谷戸に面した比高20m程の段丘突出部に築かれている。単郭の小規模な城館であるが、周囲を取り巻く土塁と空堀の規模が大きく(土塁は高さ5m程、空堀は深さ10m程もある)、長径でも100m程の曲輪の規模と比べると、異様に大規模な普請が行われている。しかし内部は民家であり、堀は藪が繁茂してよく見ることができない。残念ながら入口付近のみ確認して探索を終了した。城歩きの大家余湖さんの鳥瞰図によれば、大手虎口側方には張出し櫓台もあるようだが、藪でよくわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.043001/140.464389/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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島並城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4168.JPG←主郭の横堀
 島並城は、この地の国人領主島並氏の居城である。島並氏の出自は明確ではないが、一説には大掾氏の庶流行方氏の一族とも言われている。島並氏の事績も不明点が多いが、1591年に、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将が謀殺され城が悉く制圧されると、島並城も開城し、城主島並入道幹家も死亡した。島並氏の遺臣藤崎権右衛門は、主君の菩提を弔う為に登城山是心院を城址に建立した。その後、幹家の子左衛門大夫幹国は、佐竹氏の家臣となってり水戸城に出仕していたが、行方郡の取締りとして島並に止宿し、権右衛門の誠心に感じて、島並の姓を賜ったと言う。

 島並城は、霞ヶ浦東岸の比高20m程の丘陵突出部に築かれている。城の中心部は是心院背後の丘陵部にあるが、是心院が建っているのも往時の南郭であったと考えられる。最高所に主郭を置き、主郭の東西に東郭・西郭を置いている。主郭・東郭・西郭共に南北に長い曲輪で、主郭のみ背後に土塁があり、また前面に櫓台を築いている。東郭は切岸のみで区画されているが、西郭との間は横堀で分断されている。西郭の北端が櫓台状の高台になり、祠が祀られているが、往時から宗教施設があった可能性がある。西郭の西側にも2段の横堀が穿たれており、主郭のものと合わせて西側だけ三重の横堀で厳重に防御されている。西郭西脇の横堀は城内通路を兼ねていたらしく、下段の横堀に繋がる虎口が築かれている。下段の横堀の西側には腰曲輪が築かれている。城内は、南郭・西郭以外は山林となっているが、歩けないほど酷くはない。厳重な横堀群が特徴的な城である。
西郭北端の高台→IMG_4160.JPG
IMG_4157.JPG←中段横堀の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.015617/140.475826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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島崎城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3952.JPG←主郭の虎口
 島崎城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、島崎氏の居城である。鎌倉初期に行方氏の祖、行方宗幹の次男高幹が島崎に分封されて島崎氏を称した。しかし島崎城の築城時期は明確ではなく、一説には応永年間(1394~1427年)、11代成幹の時に築かれたとも言われる。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。当初四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していた。しかし時代が下ると一族相争うようになり、後には島崎氏が最大の勢力となった。島崎氏は代々左衛門尉を名乗り、室町後期の13代長国は善政を敷いて、中興の英主と謳われた。戦国時代になると、島崎氏は積極的な外征を行って勢力を拡張した。14代利幹(安国)は、1522年には同族の長山城主長山幹綱を攻め滅ぼし、1523年の鹿島氏の内訌に乗じて鹿島城を攻め、1536年には同族の玉造城主玉造宗幹を攻めた。1584年には島崎義幹が麻生城主麻生之幹を攻め滅ぼすなど、4万5千石を領して、鹿島・行方両郡に割拠する国人領主(所謂「南方三十三館」)で筆頭の地位を得た。この戦国後期には、勢力を拡張する佐竹氏に従うようになり、1584年の沼尻合戦などにも佐竹氏の一翼を担って参陣した。しかし1590年の小田原の役後、佐竹氏が豊臣秀吉から常陸一国を安堵されると、翌91年に佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した島崎義幹・徳一丸父子ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。島崎城も佐竹氏の軍勢に攻められ、城主なき城は間もなく落城し、以後廃城となった。

 島崎城は、常陸利根川北岸からやや離れた比高25m程の半島状台地の先端部に築かれた城である。南端に主郭を置き、その北にニノ郭・三ノ郭・Ⅳ郭・Ⅴ郭を直線的に配置し、主郭の西側に西郭を配置している。西麓から登り道が付いており、入口に石碑が立ち、主郭の神社手前に解説板が建っている。強勢を誇った豪族の城らしく、規模の大きな普請が随所に見られる。小道を登っていくと、最初に下段の腰曲輪に至り、その先を進むとその上段にある水の手曲輪に至る。ここには西郭切岸下に井戸跡が窪地として残っている。また水の手曲輪の横の主郭下には横堀が穿たれている。水の手曲輪から道を登っていくと主郭と二ノ郭の間の鞍部の曲輪に至る。構造から考えて、特殊な形の枡形虎口と考えて良い。南の主郭側には虎口が開いた大土塁がそびえており、櫓門があったのであろう。主郭の南端には御札神社があり、その裏に当たる主郭先端には低土塁が築かれている。主郭の西半分は薮で覆われているが、西端にも低土塁が築かれている。その先は西郭との間の堀切になっている。西郭は全域藪が酷く、堀切沿いに低土塁がある以外はほとんど遺構がわからない。前述の枡形虎口の北側に二ノ郭があり。土塁と坂虎口が築かれている。二ノ郭は東辺以外を土塁で囲んだ、島崎城ではやや小さい曲輪である。ここは薮が伐採されていたので、形状がわかりやすい。ニノ郭北側には三ノ郭との間を分断する深さ4m程の堀切が穿たれている。この堀切は東側で曲がっており、堀切東端にニノ郭裏から通じる土橋が架かっている。土橋はそのまま三ノ郭から伸びる一騎駆け状の土塁に直角に繋がっており、非常に珍しい構造である。三ノ郭は縦長の曲輪で、西と北を土塁で囲んでおり、特に北側の土塁は幅が広く多門櫓のようなものが築かれていた可能性がある。この北側にも深さ10mを超える円弧状の大堀切が穿たれ、東側では横堀状となって降っている。その北側に独立堡塁状の小さいⅣ郭があり、Ⅳ郭東端も横堀側方の土塁となって伸びている。Ⅳ郭北側も深さ5m程の堀切となっていて、その北に東西に長く広いⅤ郭がある。Ⅴ郭には高圧鉄塔が建っている。鉄塔付近以外は薮がひどいが、北側に低土塁が築かれているのが確認でき、その北側も深さ4m程の堀切で分断されている。この堀切だけ、わずかに横矢掛かりの張出しが塁線に見られる。以上の様に、大きな4つの堀切で分断した規模の大きな城である。薮が多く遺構が確認しづらいのが難である。
三ノ郭堀切→IMG_4042.JPG
IMG_4099.JPG←5郭堀切の横矢掛かり
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.961560/140.535178/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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