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浮島城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8116.JPG←台地上の堀状地形
 浮島城は、物部信太連の後裔、浮島太郎安広の居城であったと言われる。元々の創築は、天慶の乱の際に平将門に属した興世王によると言われるが、元より伝説に過ぎない。浮島氏の居城として戦国末期まで続いたが、元亀・天正年間(1570~1592)に浮島弾正が佐竹氏に攻め滅ぼされ、廃城になったと伝えられている。尚、城址にある姫宮神社は、里の口伝によれば元亀・天正の戦乱に敗れた浮島弾正の愛娘・小百合姫が湖に身を投げ、その霊を慰めるべく祀ったものと言われている。

 浮島城は、霞ヶ浦南岸の比高15m程の台地上にあったとされている。台地上は一面の畑で、明確な遺構は見られない。台地西端に前述の姫宮神社があり、その辺りが主郭部であったと推測される。台地上には堀切の跡の様な窪地が見られるが、遺構であるかどうかは不明である。その窪地地形の南斜面には祠の祀られた小平場があり、いかにも腰曲輪風であるが、果たしてどうであろうか。歴史ともども謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.972771/140.423577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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古渡城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8095.JPG←本丸北西隅の土塁跡、周囲は堀跡
 古渡城は、織田信長の重臣として知られた丹羽氏の江戸時代の居城であった。元々は、徳川家康の家臣山岡景友が築いた。山岡氏は、元は近江守護六角氏の家臣で、その後将軍足利義昭、織田信長、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は徳川家康に属した。1600年、関ヶ原合戦での戦功により常陸国古渡1万石の大名に封じられ、古渡城を築いて居城とした。1603年、丹羽長重が新たに古渡1万石に入り、古渡城を居城とした。長重は丹羽長秀の嫡男で、父の死後も引き続き豊臣秀吉に従った。しかし秀吉による丹羽氏勢力削減策によって越前・若狭・加賀2郡合わせて123万石の大封を没収され、加賀松任城4万石に大減封となった。後に小田原の役の軍功により加賀小松城12万石を領した。関ヶ原合戦では、西軍に付いて前田利長と浅井畷で戦い、戦後に所領没収となった。江戸芝浜に閑居していたが、前述の通り1603年に古渡1万石の大名に返り咲いた。後に2代将軍徳川秀忠に近侍した結果、加増転封が繰り返され、陸奥棚倉5万石、陸奥白河10万石へと移った。古渡城は、丹羽氏が転封となった際に廃城となった。

 古渡城は、霞ヶ浦湖畔の平地に築かれている。現在は宅地化・耕地化が進んでいるため、城の全体像はよくわからないが、本丸の部分だけが周囲より1m程高い微高地となって残っている。遺構はかなり部分的で、方形郭であった本丸の土塁の一部が残っている程度である。その周りの低地や道路は堀跡であろう。その周囲には二ノ丸などがあったのであろうが、昭和20年代の航空写真でも既に外郭の形状が追えなくなっている。解説板が建っているだけマシであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.976886/140.352144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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長峰城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8068.JPG←主郭から見た腰曲輪
 長峰城は、歴史不詳の城である。『土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書(諸岡文書)』によれば長峯民部という武士の名が伝わっており、この長峯氏が城主であった可能性がある。いずれにしても江戸崎土岐氏の勢力圏であり、その家臣の拠った城であったものだろう。
 長峰城は、登城山城から低地を挟んで西の段丘先端に築かれている。現在は長峰東公園となっており、公園化する際には発掘調査が行われ、堀跡などが見つかっているそうである。Y字状に分岐した段丘全体を城域にしており、東に伸びる尾根に主郭があったらしく、北面の切岸下に腰曲輪が付随している。主郭の台地基部には塚状の土壇があるが、何だったのかよくわからない。北に伸びる長い尾根も平坦であるが起伏があり、削平は甘い。結局、公園化による改変が多く、どこまでが城郭遺構であるのかはっきりしない。発掘調査で遺構を確認しているのだから、遺構を活かした城址公園にすればいいのに、なんでわざわざ遺構を破壊した公園にするのか、龍ケ崎市の対応には疑問を感じる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.920917/140.230629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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遠山城(茨城県牛久市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8044.JPG←北端の空堀
 遠山城は、歴史不詳の城である。一説には、関東管領山内上杉氏の家臣長尾憲景が、室町初期にこの地を与えられて遠山城を築いたとも言われるが、明証はない。
 遠山城は、牛久城から小河川を挟んだ東側の台地上に築かれている。南北2つの城域から成っており、南側の段丘先端部が主郭、北側の台地基部が外郭であったと推測される。主郭は現在畑になっており、平場がある以外は明確な遺構は確認できない。主郭と外郭の間は谷戸状の窪地で、車道が東西に貫通し、民家が立ち並んでいるが、往時は主郭と外郭を区画する堀切の役目を果たしていただろうことは想像に難くない。外郭は、民家や空き地となっており、北端部に鹿島神社が鎮座し、その北側に土塁と堀切が確認できる。堀切の東端は竪堀となって落ちている。結局、明確な城郭遺構としてはこの土塁と堀切だけで、それ以外は宅地化・耕地化による改変が進んでおり、不明瞭である。いずれにしても、古い形態の小規模な城砦であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.951912/140.139756/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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将門関連史跡 その4 [その他の史跡巡り]

 以前に茨城県内の県西地域の将門関連史跡について紹介したが、守谷・取手市域にも将門伝説が色濃く残っている。これは勿論、平将門の裔を自称した守谷城を本拠とした下総相馬氏の影響によると思われる。

<平将門・七騎石塔>(茨城県守谷市)
IMG_7986.JPG
 守谷の海禅寺には、平将門と7人の武者(七騎武者)のものとされる8基の石塔が残っている。1664年に守谷城主堀田正俊が寄進した『海禅寺縁起』によれば、海禅寺は931年に平将門が創建したと伝えられ、将門の母や弟将頼が寺に住んでいたと言う伝説も残っているらしい。将門には7人の影武者伝説があり、現在残る石塔は、937年に将門が京から帰国する途中、平良兼・貞盛軍に待ち伏せされ、将門の身代わりとなって討死した7人の影武者の供養塔と言われている。しかし江戸時代に建てられたものと言われ、あくまで伝説の域を出ない。しかし将門の影武者の墓というのは全国的にも珍しいらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930005/139.986634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<桔梗塚>(茨城県取手市)
IMG_7991.JPG
 桔梗塚は、将門の愛妾であった桔梗御前が亡くなった場所とされる。桔梗御前については諸説あるが、よく知られているのは、将門と7人の影武者のどれが本物かを見分ける方法を、桔梗が敵に教えてしまったために将門が討死したというものである。ここの桔梗塚に伝わる伝説では、将門が討たれたと聞いてここまで逃げて来た桔梗御前が、敵の追手に捕まりここで殺されたとされ、その恨みによってこの地の桔梗は花が咲かないと言う。元よりこれも伝説の域を出ない。
 場所は、国道294号線の脇で、交通量の多い幹線道路脇にこの様な史跡がぽつんと残っているというのは、何とも不思議なものである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925661/140.022640/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<朝日御殿跡>(茨城県取手市)
IMG_8000.JPG←大日山古墳に建つ岡神社
 朝日御殿は、将門の愛妾桔梗御前の御殿跡と言われている。岡台地の東端には平場が広がり、中央の一段高い土壇の上に岡神社が鎮座している。この土壇は大日山古墳で、県の指定史跡となっている。頂部からやや降ったところにも平場が広がっているが、御殿があったということ自体が伝説に彩られているので、遺構かどうかを詮索するのも野暮というものであろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925400/140.050814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<伝平国香供養塔>(茨城県龍ケ崎市)
IMG_8054.JPG
 地元では古くから、将門の伯父平国香の供養塔と伝えられている。その形態から鎌倉後期から室町前期にかけて造られたものと推測されている。かなり大型の宝篋印塔であると同時に、全体が太い寸胴で、笠の部分に反りが見受けられるなど,一般的な宝篋印塔と比べて珍しい形状をしている。この地域は、平安後期~南北朝期にかけて「相馬御厨」と呼ばれる荘園に属しており、下総相馬氏が支配していた。そのような背景から、相馬氏一族に連なる有力な在地領主が創建に関わっていた可能性が指摘されている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.921925/140.139627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※過去の将門関係史跡巡りはこちらこちらこちら
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小張城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7942.JPG←北側から見た城址推定地遠望
 小張城は、天正年間(1573~1592)に牛久城主岡見氏の家臣只越山城守善久により築城されたと伝えられる。この頃は下妻城主多賀谷重経による岡見氏攻撃が激しく、岡見氏は小田原北条氏に支援を求め、牛久番と呼ばれる北条麾下の北総諸将による輪番での守備を行っていたほどであるので、小張城の築城も牛久城防衛の一環であったろう。そして、東南東1kmの位置にある板橋城と共に岡見領西辺の防備に当たっていたと思われる。しかしその甲斐虚しく、1586年に小張城は多賀谷氏に攻め落とされ、只越氏は討死したと言う。その後、平手伊賀守、安岡豊前守などが城主となった。関ヶ原合戦後の1603年には、遠江久野城主松下石見守重綱が咎により小張城に移封となった。重綱は、鉄砲を扱う火薬師であったとも言われ、小張松下流綱火(国重要無形民俗文化財)を考案している。1623年に松下氏は下野烏山城に加増転封となり、小張城は廃城となった。

 小張城は、小張小学校付近にあったとされているが、遺構不明のため、その具体的な位置もわかっていない。小学校が建っているのは比高10m程の段丘辺縁部であり、城を築くには確かに適地であったろうとは想像される。北側から小学校を望むと、小学校手前がやや窪んでいるので、もしかしたら堀があった跡かも知れない。いずれにしても失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.982720/140.039377/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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高崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7932-001.JPG←城址遠望。住宅団地が城跡
 高崎城は、牛久城主岡見氏の支城である。『日本城郭大系』によれば、小張城主只越善久が築城したとされるが、詳細は不明。城址の北方800m程の所に岡見氏の一族岡見五郎兵衛が配送の後に自刃したと言われる場所があり、墓塔が建っていることから、岡見氏に深く関わっていた城であろうことは想像に難くない。
 高崎城は、その名も「城山」と言う地名の残る住宅団地にあった。現在は城内はほぼ全て住宅地となっており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代の航空写真を見ると、南に伸びた舌状台地の中程に南北2本の空堀で囲まれた曲輪がはっきりと確認でき、ここが主郭であったと思われる。周囲を低湿地帯で囲まれた低台地で、その輪郭は現在の住宅団地の輪郭にほぼ一致している。北に行くに従って高くなっている地勢で、北端の外郭に当たる部分は現在畑となっており、その北辺に土塁っぽいものが遠目に見えるが、畑のため進入不能で確認できなかった。尚、城域の北東部の市道脇に大手門跡の標柱が建っている。その南に土塁状の土盛が続いているが、遺構かどうかは不明である。標柱だけでなく、解説板も建ててくれるとありがたいのであるが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.990690/140.121989/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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長井戸城(茨城県境町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7846.JPG←主郭前面の空堀の横矢掛かり
 長井戸城は、天文年間(1532~55年)に小山氏に属した菅谷左京という武士の居城であったと伝えられている。菅谷氏は、1554年に祇園城主小山朝政の攻撃を受け、激戦の末に小山氏に降伏したと伝えられている。小山氏は古河公方の有力な与党であり、小山氏が長井戸城を攻撃したとされる年には、北条氏康に敵対した前古河公方足利晴氏・藤氏父子が古河城に立て籠もり、氏康の攻撃を受けて捕らえられていることから、足利晴氏の挙兵に呼応した攻撃であったものと推測される。その後の歴史は不明であるが、栗橋城水海城逆井城の中間に位置していることから、戦国末期には、北関東へ大きく勢力を伸ばして小山氏をも降した小田原北条氏の繋ぎの城として機能していたものと思われる。尚、発掘調査の結果では、12世紀~13世紀頃の鎌倉時代に築かれ、戦国時代まで在地豪族によって使われた可能性が高いことが判明したそうである。また長井戸城主であった菅谷家に伝来した「萌黄糸威伊予札二枚胴具足」が現存している。

 長井戸城は、現在長井戸香取神社の境内となっている。小河川に挟まれた舌状台地の中程に位置している。参道を歩いていくと、社殿の前面に空堀と土塁が横たわっている。空堀は浅くなってしまっているが、堀幅から考えると往時は3~4mの深さがあったものと推測される。参道東側で大きく横矢掛かりの屈曲が設けられており、いかにも北条的な造りである。社殿の建っているのが主郭で、外周の土塁は東半が残存しており、東側の空堀も明瞭に残っている。南の二ノ郭にも僅かであるが東辺の土塁・空堀が残存している。全く期待しないで行ったが、横矢の土塁・空堀が綺麗に残っており、一見の価値がある。
主郭北東部の土塁→IMG_7859.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.131159/139.796090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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岸の砦(兵庫県伊丹市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7800.JPG←猪名野神社境内に残る土塁
 岸の砦は、有岡城の惣構を守る砦の一つである。惣構の北端の突出部に位置し、1579年の織田信長による有岡城攻めの時には、荒木村重の重臣渡辺勘大夫が守っていたと言う。
 岸の砦は、現在の猪名野神社の境内にあったと推測されている。境内外周には土塁が残り、その脇の小道は、見るからに堀跡を思わせる。わずかな遺構ではあるが、今では失われてしまった有岡城惣構の雰囲気をよく残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.785180/135.415184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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有岡城(兵庫県伊丹市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7757.JPG←主郭西側の堀跡
 有岡城は、織田信長に謀反を起こした荒木村重の居城として知られ、また村重を翻意させようと説得に訪れた黒田官兵衛孝高が幽閉された城としても有名である。元の名を伊丹城と言い、この地の土豪伊丹氏が鎌倉末期頃に築いたと考えられている。『太平記』には、1362年7月、佐々木道誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に伊丹大和守の名が見える。同時代の軍忠状などには伊丹城の名が記載されており、南北朝期には伊丹城が実在していたことが判明している。
 また、1495年に成立した『新撰莵玖波集』という連歌集の中に、摂津守護細川氏の家臣伊丹兵庫(元親)の歌が4首も撰ばれていることから、伊丹氏は細川氏家中でも有力家臣で、和歌にも秀でた教養人であったらしい。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、伊丹城は度々攻防の場となり、三好長慶が畿内を制圧してからも伊丹城は度々攻撃を受けている。
 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、伊丹城主伊丹親興は直ちに信長に応じて三好氏を攻撃した。信長が摂津を制圧すると、親興は池田城主池田勝正・芥川城主和田惟政と共に「摂津三守護」となった。しかし将軍義昭と信長が不和となり、1573年に義昭が追放されて室町幕府が倒壊すると、将軍家側近となっていた伊丹氏も信長と対立した。翌74年、信長は、池田勝正の家臣として頭角を現した茨木城主荒木村重に命じて伊丹城を攻撃・落城させ、伊丹氏は滅亡した。伊丹城に入った村重は、信長より摂津一国38万石を与えられ、また城名も信長の命により有岡城と改め、摂津一国の軍事上の中心となるべく大改修を行って、惣構を有した城を完成させた。その後も信長に従って石山本願寺攻めなど各地の合戦に参加していたが、1578年10月、突然信長に反旗を翻し、有岡城に立て籠もった。驚いた信長は明智光秀らを説得に行かせたが失敗した。また羽柴秀吉の家臣黒田官兵衛も説得に赴いたがやはり失敗し、城内の土牢に幽閉されてしまった。信長は、大軍で有岡城を包囲攻撃したが、屈指の堅城であったため1年近くに及ぶ長期戦となった。しかし次第に敗色が濃厚となり、村重は有岡城を脱出して嫡男村次の居城尼崎城へ移った。その後も残った家臣たちが籠城戦を続けたが、1579年11月に有岡城は落城し、捕らえられた荒木氏一族・家臣・その家族らは悉く誅殺された。その後、池田之助(池田恒興の長男で輝政の兄)が城主となったが、1583年に美濃岐阜城に移ると、有岡城は廃城となった。

 有岡城は、猪名川西岸の伊丹段丘に築かれている。南北に長い不定形をした惣構を有した城で、惣構の北端に岸の砦、中央西端部に上臈塚砦、南端部に鵯塚砦を築いて防御を固めていたと言う。主郭は城域中央の東端に位置しているが、主郭西端部が周囲より一段高く、公園化されて残るほかは、鉄道や道路建設で破壊されている。JR伊丹駅の真ん前であるので、今となってはわずかに公園として残っているだけでも貴重であろう。昭和50年から行われた発掘調査で、主郭西側の土塁内面の石垣や石組み井戸・建物礎石などが検出され、復元保存されている。石垣には、福知山城などと同じく五輪塔の石材が転用されている。主郭跡の公園の西側には広い円弧状の窪地が残っており、これほど市街化が進んだ街中であるにも関わらず堀跡であることが明確にわかる。こんなに綺麗に堀跡が残っているとは予想外である。その他の遺構が見る影もないのは、残念だが場所的に仕方のないところであろう。とにかく幅広の主郭堀跡が立派である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.781232/135.420871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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師直塚(兵庫県伊丹市) [その他の史跡巡り]

IMG_7733.JPG
 師直塚は、足利尊氏の執事として辣腕を振るった高師直とその一族を祀ったとされる塚である。高氏は高階氏の出自で、古くは平安時代から源氏との関係を有し、鎌倉時代には代々足利氏の執事となって家政全般を取り仕切っていた。鎌倉時代の足利氏は、執権北条氏一門以外の外様では最大の勢力を有した御家人だっただけあって、諸国に膨大な所領を持っており、これらを管轄・統治するために政所・奉行所・御内侍所といった統治機構が整備されていた。あたかも小幕府とも言うべき規模で、これら全体を統括していたのが高氏であった。殊に南北朝動乱初期の激変する社会情勢と勢力図の中で、これらを破綻なく統括し続けていたことは並の能力ではなかったはずで、師直がいかに切れ者であったかが想像できる。
 尊氏が将軍となってからは、執事施行状という形式を発案して将軍権力を支えると同時に、将軍の親衛軍団長として各地の戦いで抜群の戦功を挙げた。戦場での機動性を高めるために「分捕切棄の法」を初めて採用し、北畠顕家を討死させた。四条畷の戦いでは、細川顕氏・山名時氏といった猛将を相次いで撃破した恐るべき知略をもった楠木正行をも撃ち破り、自刃に追い込んだ。『太平記』ではこの時の師直を、敵の偽装撤退を見抜いた「思慮深き老将」と評している。また、正行の奇襲に混乱に陥った自軍を押しとどめたり、師直の厚情に感激した上山左衛門という武士が、師直の身代わりとなって盾となり討死したエピソードも語られている。
 一方で師直には専横の振る舞いも多かったらしく、戦功を無視された桃井直常など、恨みを持つ武士も多かったとされる。それが遂に室町幕府をしてきた足利直義との党派対立に発展し、観応の擾乱へと突き進むこととなった。摂津打出浜の合戦で弟直義に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦を結んだが、先年師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。『太平記』によれば、この時殺されたのは師直・師泰以下、一族家臣合わせて14人に登った。太平記の記述を読む限り、能憲は予め誰が誰を殺すか用意周到に決めており、しかも和睦して武装解除された敵将を、実際に養父殺害に関わった師直・師泰だけでなく14名も抹殺したのは、虐殺というべき所業であった(家来を含めるともっと多かったはずである)。太平記の描いた殺伐とした時代でも、この様な虐殺行為は他に例を見ない。この行為を黙認した直義は、自軍に付いた武士達からも早くに信望を失ったのだろう(生粋の直義党の武将は別として)。それが結局、打出浜合戦での大勝からわずか半年での直義の京都脱出、そして八相山合戦・薩埵山合戦での敗北へと繋がっていくことになったと個人的に推測している。
 尚、これ以後も高氏の傍系は細々と続いたが、師直時代の様に燦然と輝く事績を残す機会は、遂に再び廻ってくることはなかった。

 師直塚は、武庫川東岸の国道171号線の側道脇にある。大正4年に建てられたという立派な石碑がここに移されている。周辺は市街化が進んで往時の面影は全く見られないが、石碑だけが動乱の歴史を今に伝えている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.774023/135.384264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


高 師直 -室町新秩序の創造者- (歴史文化ライブラリー)

高 師直 -室町新秩序の創造者- (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/05/17
  • メディア: Kindle版


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瓦林城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7724.JPG←城址とされる日野神社
 瓦林城は、南北朝時代に赤松円心の部将貴志五郎四郎義氏が守っていたことが知られる城である。即ち『貴志義氏軍忠申書』によれば、1336年4月13日に義氏は瓦林城に立て籠もっており、足利尊氏が九州で態勢を立て直して再挙東上するまでの間、白旗城に籠もった赤松勢の一翼を担って、摂津瓦林城で新田義貞率いる南朝軍の進攻を食い止めていた。5月25日の湊川の戦いでは、南朝軍は香下寺城・円生寺城から瓦林城に来攻し、これと戦ったと言う。また『太平記』には、1362年7月、佐々木道誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に河原林(瓦林)弾正左衛門の名が見える。瓦林氏の出自は不明であるが、既に瓦林付近に拠点を持っていた可能性がある。神崎川下流の北朝軍の防衛体制を見た南朝軍は、夜半密かに神崎川の上流から渡河し、小屋野(昆陽)・戸松(富松)・河原林(瓦林)に軍勢を配して、早旦に北朝軍を一斉攻撃したと言う。昆陽・富松・瓦林は後述する通り、いずれも戦国期には城が築かれた要地であり、この時既に瓦林に何らかの城砦が築かれていた可能性がある。尚、北朝軍はこの合戦で大敗し、河原林弾正左衛門も討死したと記載されている。
 時代は下って戦国前期には、瓦林正頼の持ち城となっていた様である。瓦林氏は鷹尾城から越水城に居城を移しているが、瓦林城はその支城となっていたと推測されている。1519年に阿波から細川澄元が越水城に攻め寄せてきた時には、細川高国が越水城の後詰めとして池田城を本陣とし、昆陽城・富松城と共に瓦林城に兵を入れて陣を張らせたと言われている。1570年9月、瓦林三河守が城主の時、三好氏の部将篠原長房の攻撃を受け、織田信長に味方していた三河守は、防戦虚しく城兵ら男女110余名と共に討死した。但しこの時落城した城は、瓦林城であったとも越水城であったとも言われ、詳細はわかっていない。いずれにしても、瓦林城はこの頃には機能を失ったと考えられている。

 瓦林城は、武庫川西岸の平地に築かれていたらしい。現在の日野神社の辺りにあったと言われており、神社参道に城址碑が立ち、神社の由緒書きにも瓦林城のことが記されている。しかし堀跡も残っておらず、城を思わせるものは何も残っていない。戦後間もなくの航空写真を見ても城の名残を思わせるものは確認できないので、早くに失われた城の様である。その不鮮明な歴史と共に、闇に包まれた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.749150/135.370338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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越水城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7717.JPG←城址碑・解説板
 越水城は、この地の土豪瓦林氏が戦国時代に築いた城である。元々この地では、南北朝時代の観応の擾乱で打出浜合戦が行われた際に、足利直義方の畠山国清・石堂頼房・上杉朝房らが小清水(越水)に陣所を置いたと言う(『太平記』では打出浜合戦とは言わずに小清水合戦と呼んでいる)。一方、瓦林正頼は豊嶋に館を構えていた土豪であったが、応仁の乱が始まるとより要害性の高い鷹尾城を築いて居城を移した。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、正頼は1516年に越水城を築いて居城を移し、細川高国に味方したと言う。阿波から京に上る細川澄元が越水城に攻め寄せ、高国が後詰めに出陣したが、1520年2月、正頼は澄元勢に開城して堺へ逃れた。同年10月、正頼は開城の責めを問われ、また澄元と内通したとして切腹させられた。その後、澄元の家臣三好氏が入城した。以後、越水城は三好氏の本城となり、阿波本領への中継拠点ともなった。1533年、瓦林氏は一向一揆衆と共同で三好氏を攻めて越水城を奪い返し、瓦林一族が城を守ったが、その後も攻防が繰り返され、後には畿内の覇者三好長慶の居城となった。長慶は、家臣松永久秀を京に留め、自身は越水城で指揮を執ったと言う。1566年、三好氏の家臣篠原長房が城主の時、瓦林三河守に攻められて一旦開城したが、4ヶ月後には長房が奪還し、9月には足利義親(後の足利14代将軍義栄)が一時入城した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭・信長の連合軍が摂津征伐を始めると、長房は越水城を放棄し、越水城には織田方の武将が入ったと考えられる。その後の織田勢力の伸張に伴って、越水城は戦略的価値を失い、廃城になったと思われる。

 越水城は、比高15m程の丘陵上に築かれている。現在は一面の市街地となって民家が所狭しと建てられており、城の遺構は完全に湮滅している。しかし現在でも急坂の上にあり、西国街道の要衝であったことは地勢から窺える。大社小学校の南東角に城址碑と解説板が建っており、その文面からもてっきり小学校敷地が城址だと思っていた。しかし『日本城郭大系』に記載の縄張図と戦後間もなくの航空写真とを見比べると、小学校東側の段丘辺縁部が城の中心部であったらしい。前後の航空写真には西側の土塁と堀がはっきりと確認できる(その位置は小学校敷地より東側である)。従って段丘の南東部を堀で断ち切って、主郭を置いていた様である。主郭後部に天守台が築かれ、主郭内の段差部には石積みもあったらしいが、昭和30年代には全面的に宅地化されてしまっており、今では見る影もない。往時、畿内の覇者となった三好長慶が拠っていた城とは想像できない変わり様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746682/135.337830/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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打出浜古戦場〔大楠公戦跡碑〕(兵庫県芦屋市) [その他の史跡巡り]

IMG_7709.JPG
 打出浜古戦場は、南北朝時代の古戦場である。普通、打出浜合戦と言えば観応の擾乱の際に足利直義の軍勢と戦って足利尊氏・高師直が敗れた合戦を指すが、それ以前にもあり、合わせて前後2回の合戦が行われている。

 最初の合戦は、1336年。竹之下合戦で新田義貞率いる朝廷軍を打ち破り、西上した足利軍は、第1回目の京都争奪戦に敗れ、逃れた尊氏は丹波経由で兵庫津に陣を移した。ここで、態勢を立て直して反攻を期す足利軍と、追撃してきた新田義貞・北畠顕家・楠木正成らの朝廷軍とが再度激突した。その戦いの経緯は『太平記』と『梅松論』とで記述が異なっているが、いずれにしても旗色の悪かった足利勢は敗れて西へ指して引き退き、室泊の軍議を経て九州へと落ち延びることとなった。

 2度目が有名な観応の擾乱での戦いである。1350年、将軍足利尊氏と執事高師直は、西国で猛威を振るい始めていた足利直義(恵源)の養子直冬(実は尊氏の庶子)を討伐するため、軍勢を率いて西に向かった。この隙を突いて、政務を辞し出家に追い込まれていた直義(恵源)は京都を脱出して河内石川城に入って、師直打倒の兵を挙げた。驚いた尊氏は備前国福岡より軍を引き返し、石見三隅城を攻撃していた高師泰の軍勢も急遽引き返させて、播磨の書写坂本で合流した。1351年2月、尊氏・師直方と直義方の両軍は摂津打出浜で激突した。戦意旺盛な直義方が尊氏・師直勢を圧倒し、尊氏の親衛隊長とも言うべき師直・師泰兄弟が負傷して戦意を喪失して、尊氏方が敗北した。『太平記』によれば、この時尊氏を始め高一族など主要な武将たちは自刃を覚悟したが、尊氏の小姓饗庭命鶴丸の奔走で師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦が成り、尊氏以下の諸将は上洛の途に付いた。しかし先年、師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。

 尚、南北朝時代には街道の要衝で度々合戦が行われた為、打出浜に限らず、同じ要地で何度も干戈が交えられた。

 打出浜古戦場は、現在国道2号線北側に楠公園があり、そこに大楠公戦跡と刻まれた立派な石碑が建っている。これもまた全国によくある南朝方礼賛の石碑と解説板で、皇国史観全盛で日本が右傾化していた昭和11年(2・26事件のあった年)に建てられている。その為、楠木正成の事績のみを大々的に記し、「逆賊」足利氏の内訌については何ら記載するところがない。また朝廷軍と足利軍の戦いについても、主将は新田義貞であったので、本来は「新田義貞戦跡」と書かれるべきであろう。この辺りが、皇国史観の「虚偽観念」という史実無視の発想らしい。尚、歴史的には観応の擾乱での合戦の方が重要であり、現代ならばそれについての補足説明を加えても良いと思うのであるが・・・。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.734921/135.317810/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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船上城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7705.JPG←本丸周囲の堀跡の畑
 船上城は、キリシタン大名として有名な高山右近が築いた城である。織田信長横死後の1585年、天下統一を目指す豊臣秀吉は大名の国替えを断行し、摂津高槻城主高山右近重友が明石与四郎則実に代わって明石郡6万石を与えられた。右近は最初、明石氏の居城枝吉城に入ったが、直ちに船上城の築城に取り掛かった。一説には、この地には別所吉親(三木城主別所長治の叔父)が築いた林ノ城があり、それを右近が拡張整備したとも言われている。しかしわずか2年後の1587年6月、秀吉はバテレン追放令を発し、右近は改宗を拒否して領地没収の上、追放となった(一時的に加賀前田家が名築城家で声望もあった右近を庇護し、右近は高岡城の縄張りを行った)。その後、明石は豊臣氏の直轄領となった。秀吉の死後、1600年の関ヶ原合戦で天下の覇権を握った徳川家康は、女婿の池田輝政を播磨姫路城に配し、明石船上城にはその一族池田出羽守由之が入ってこれを守った。1615年の一国一城令で、船上城は櫓や堀を廃して城構えから屋敷構えに改修され、1617年に信濃松本城主小笠原忠政が明石に移封となると、2代将軍徳川秀忠の命により明石城が新たに築城された。船上城の用材の一部は明石城へ転用され、1620年の明石城完成と共に船上城は廃城となった。

 船上城は、明石川の河口付近の西側の平地に築かれていた。周囲一帯は宅地化で遺構は完全に失われ、本丸跡は畑になり、その中の小さな土壇に神社が残っている程度である。また本丸周囲には堀跡の水路と低い畑が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ると、本丸を始めとして東西に方形に近い形の畑が3つ~4つ程並んでおり、連郭式の城だったようである。方形の曲輪を並べる平城の形態は、この後に右近が縄張りした高岡城とも共通している。いずれにしてもほぼ完全に失われてしまった城である。尚、水路を挟んで本丸北東にある公園に、船上城の解説板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.647834/134.975023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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明石城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7377.JPG←堀切兼用の東大手道
 明石城は、2代将軍徳川秀忠の命により、西国諸藩への備えとして新造された城である。1617年、大坂の役の戦功によって信濃松本城主小笠原忠真は明石10万石を賜り、船上城に入部して明石藩が成立した。それ以前の明石は姫路城主池田輝政の領国で、甥の池田出羽守由之を船上城に置いて守らせていた。輝政の死後、嫡男利隆が若死にして幼い光政が当主になると、江戸幕府は光政を鳥取城に移し、播磨を二分して姫路城には本多忠政を、明石には小笠原忠真を配した。そして翌18年、将軍秀忠は、忠真に忠政(忠真の舅)の指導を受けて新城を築くよう命じた。忠真は領内から3ヶ所の築城候補地を選定し、秀忠の決裁で現在の地が選ばれた。同年10月、幕府は3名の普請奉行を派遣すると共に普請費用として銀一千貫を支出した。その4ヶ月前には戸田氏鉄に尼崎築城を命じており、幕府は大坂防衛のために姫路・明石・尼崎の3段構えの防御線を構築しようとしていたと言う。明石城の築城は1619年正月に始められ、櫓・御殿・城門などには一国一城令で廃城になった伏見城・三木城高砂城・船上城・枝吉城などの資材が解体使用された。1620年に城は完成し、本丸の四隅には三重櫓が建てられていたが、天守は天守台のみで建てられなかった。こうして小笠原氏の居城となったが、忠真は1632年に豊前小倉城に加増転封となった。その後6ヶ月間、姫路城主本多氏に預けられた後、戸田松平氏・大久保氏・藤井松平氏・本多氏・越前松平氏(直良流)と変遷して幕末まで存続した。

 明石城は、明石駅前にそびえる比高20m程の段丘先端部を利用して築かれた城である。現在は公園となっており、本丸南側の2つの隅櫓が現存している。幕府の特命で築かれた城だけあって、豪壮な総石垣の城となっている。段丘上には西から順に本丸・二ノ丸・東ノ丸を並べ、本丸の西側には腰曲輪である稲荷曲輪を築き、これらの南側に広い水堀で囲まれた三ノ丸を置いている。本丸~東ノ丸の北側には天然の谷戸を利用したと思われる桜堀があり、その北側の丘陵部にも捨曲輪として北ノ丸が設けられている。本丸は前述の通り天守台を備え、東の二ノ丸との間に大堀切を穿ち、土橋で連結した大手虎口を設けている。本丸北側には搦手虎口がある。本丸内には柿本人麻呂を祀ったという人丸塚があるが、塚が本丸にあるのは近世城郭では珍しい。二ノ丸と東ノ丸は高低差がない地続き地形で、食い違い虎口を有した仕切り石垣で分割しているだけである。東ノ丸の東前面には堀切兼用の東大手虎口が築かれている。各城門は厳重な枡形虎口となっており、三ノ丸南東のものは二重枡形を形成している。南西には枡形虎口がそのまま駐車場入口として利用されている。北ノ丸は、自転車競技場や文化施設が建てられて破壊されているが、遊歩道脇の林の中に石垣と土塁で形成された枡形が残っている。明石城は、段丘辺縁部の急崖を効果的に利用しており、高い石垣群と相まって見事な姿を残している。ただ残念なのは、城址に関する看板・標柱が全くと言ってよいほど無く、全然地元から愛されていない城という印象を受ける。また夏場の訪城でもあったため、石垣に雑草がかなり生えており、破損の心配もある。せめて除草剤を定期的に散布して雑草の侵食を防ぐとともに、各所に解説板を建てるだけの愛着は持ってほしいと感じた。
天守台→IMG_7474.JPG
IMG_7487.JPG←坤櫓

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.652636/134.991717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平山城
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兵庫城(兵庫県神戸市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7327.JPG
 兵庫城は、戦国末期に池田恒興が築いた城である。恒興は織田信長の乳兄弟で、その関係から信長より特に親しく遇せられた。恒興は1580年、信長に謀反を起こした荒木村重の籠る花隈城を攻め落とし、その功によって兵庫の地を拝領した。これに伴い、兵庫はそれまでの室町幕府の権力や東大寺・興福寺等の寺社勢力との関係から脱し、信長の支配下に入った。これを機に1581年、恒興は花隈城を廃し、その遺材も加えて新たに天守を備えた兵庫城を築いた。信長横死後の1583年、恒興は美濃大垣城へ移封となり、兵庫城は羽柴秀吉の直轄地となった。1617年、尼崎藩領となると兵庫陣屋と呼ばれ、奉行が置かれた。その後、1769年に幕府の直轄領となり、大坂奉行所に属して与力や同心の勤番所が設けられ、大坂谷町代官支配となった。1868年(明治元年)、明治政府はここに兵庫鎮台を置き、間もなく裁判所、県庁と変遷した。

 兵庫城は、海陸の物資の集散地であり、湊川の支流と分水路が天然の堀を成す交通の要衝に築かれた。現在の切戸町・中之島の付近で、東西・南北各々約140mの規模で、周囲には幅3.6mの堀が廻らされていたと言う。しかし明治初期に市街化のため土塁は削られ、開削された兵庫新川運河が城の中心部を貫通し、遺構は大きく破壊された。従って現在は見るべき遺構はなく、運河西側の遊歩道に石碑と解説板が立っているだけである。今となっては幻の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.665273/135.172563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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高砂城(兵庫県高砂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7245.JPG←城跡の高砂神社
 高砂城は、播磨梶原氏の居城である。元々は室町時代に杉岡蔵人によって築かれたと伝えられる。 杉岡氏は播磨守護赤松氏に属しており、嘉吉の乱の際に小松原城主小松原永春と共に赤松満祐の元に馳せ参じたと言う。その後、梶原氏が城主となり、赤松氏の水軍の将を務めて赤松晴政の淡路国脱出を支援したり、一族を馬廻として出仕させるなど、戦国期まで赤松氏に従った。播磨梶原氏は「景」を通字にしている通り、鎌倉幕府創業の功臣梶原景時の裔を称した。梶原景秀が城主の時、織田信長の部将羽柴秀吉による三木合戦となり、景秀は三木城主別所氏の麾下として高砂浦を守備し、後詰めの役を果たした。毛利氏や本願寺顕如は、この高砂城から三木城への軍兵・兵糧米の陸揚げを計画していたと言う。しかし黒田官兵衛孝高の仲介により景秀は秀吉に帰順し、高砂の本領を安堵されたと見られる。1580年には秀吉の命により高砂城は一旦破却された様である。関ヶ原合戦後に池田輝政が姫路城主になると、播磨の海の守りを固める為に1612年に近世高砂城を新たに築き、家臣の中村主殿助正勝を高砂城主として城下町を整備した。その後、元和の一国一城令によって高砂城は廃城となった。

 高砂城は、現在の高砂神社の地にあったとされる。しかしこれは池田輝政が築いた近世高砂城で、梶原氏の中世高砂城がどこにあったのかは明確ではない。小松原城の近傍にあったとも、高砂神社の北西にあったとも、或いは梶原の城の跡に近世高砂城を築いたとも言われ、諸説あって確定できないのが実情である。いずれにしても、市街化で城の遺構は完全に湮滅している。城より高砂神社が立派で、比較的広い境内には松が多数植わっており、社殿や山門も素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.743825/134.803576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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加古川城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7242.JPG←称名寺周辺の水路は堀跡か?
 加古川城は、羽柴秀吉が播磨平定の為、播磨の領主達を集めて行った加古川評定が行われた城である。この地の豪族糟谷(糟屋)氏の居城で、糟谷氏は源平合戦の際に平家追討に功のあった糟谷有季が、源頼朝から播磨国印東郡南条郷を与えられ、糟谷有数のとき加古川城を居城としたとされる。南北朝期~戦国期には播磨守護赤松氏、赤松氏衰退後は別所氏などに仕えた。加古川城が歴史の表舞台に出るのは、前述の通り加古川評定の時である。1577年、羽柴秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。初めて播磨に入った秀吉は、加古川城(糟屋の館)に入り、播磨の領主達を参集して毛利討伐の軍議を行った(加古川評定)。この時、三木城主別所長治は自身は参上せず、代理として叔父で反織田派の別所賀相(吉親)を派遣した。この賀相が評定において秀吉と衝突し、帰城後に長治を説得して別所氏を織田方から離反させた。これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。姫路城に進出していた秀吉は周囲を敵性勢力に囲まれる形となり、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、白山城を築いて本陣とした。この時、加古川城の糟谷氏では、時の12代城主武則が黒田官兵衛孝高の推挙により秀吉に仕え、以後一貫して秀吉の幕下で活躍した。武則の兄朝正は別所側に立って三木城に入った。別所氏麾下の反織田勢力は、神吉志方高砂・野口・淡河・端谷の6城主は各自の城を堅守し、他の小城主は三木城内に籠城した。織田方は大軍勢を播磨に派遣して、別所方の諸城を各個撃破した。この時、加古川城は織田方最前線の重要な兵站拠点となった。最後に残った三木城には秀吉が厳重な包囲網を構築して、「三木の干殺し」と呼ばれる過酷な籠城戦となった。この三木合戦において、糟谷武則は箕谷ノ上付城に布陣して活躍したと言う。後に武則は秀吉の小姓頭となり、賎ヶ嶽七本槍で功名を挙げ、加古川城主として35,000石を与えられた。武則の子宗孝は、1615年の大阪夏の陣で豊臣方として籠城し、討死した。同年6月、加古川城は破却された。

 加古川城は、現在の称名寺一帯にあったと言う。加古川の南岸に位置し、近くには山陽道(現国道2号線)が通っていることから、加古川の渡河点を押さえる要衝であったと考えられる。付近一帯は完全に市街化されており、遺構は完全に湮滅している。わずかに寺の周囲に水路があり、往時の堀跡であった可能性が推測される程度である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768595/134.830420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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神吉城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7205.JPG←本丸跡の常楽寺
 神吉(かんき)城は、この地の土豪神吉氏の居城である。神吉氏の出自には諸説あるが、播磨守護赤松氏の一族であるとされる。少なくとも『太平記』に多数登場する赤松氏の一族郎党の中には神吉氏の名は見えないので、太平記以後の時代に分出された庶家の様である。戦国期には、三木城主別所氏と代々気脈を通じており、1578年2月に別所長治が突如織田方から離反すると、神吉城主神吉民部大輔頼定も別所氏に呼応して神吉城に立て籠もり、志方城・野口城と共に織田勢の大軍の攻撃を受けた。『信長公記』によれば、織田勢は信長の嫡男織田信忠を筆頭に、その弟神戸信孝、重臣の林秀貞、細川藤孝、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、荒木村重などそうそうたるメンバーが率いた約三万の大軍に対し、頼定はわずか千名ほどの城兵で果敢に抵抗し、何度も攻撃を撃退したと言う。しかし衆寡敵せず、織田勢の総攻撃を受けて頼定は討死し、神吉城は落城した。尚この際、西の丸を守備していた頼定の叔父神吉貞光(藤大夫)は、荒木村重・佐久間信盛が藤大夫の詫言を取次いで奔走し、志方城降参の説得を条件に助命され、志方城へ退去したと言う。

 神吉城は、常楽寺の地に本丸があった。周辺は全て市街化し、遺構は完全に湮滅している。『信長公記』の記載によれば、中の丸(本丸)・東の丸・西の丸で構成され、中の丸には天守も上げられていたと言うが、往時の面影はほとんど失われている。本丸跡の常楽寺境内は周囲より3~4m程高くなっており、往時の地勢を僅かに残しているに過ぎない。尚、常楽寺本堂裏の墓地には城主神吉頼定の墓があるが、非常に立派な墓所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.795083/134.829519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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志方城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7194.JPG←墓地に残る本丸土塁跡
 志方城は、赤松氏の重臣櫛橋氏の居城である。櫛橋氏は伊朝を祖とするが、その出自には諸説あって明確にできない。櫛橋氏の名が現れるのは南北朝期で、観応の擾乱における摂津打出浜の合戦の後、敗北して自刃を覚悟した将軍足利尊氏と執事高師直以下の高一族と共に、赤松範資(赤松円心の嫡男)の郎党の中に櫛橋三郎左衛門伊朝の名が、太平記巻29に見える。いずれにしても播磨守護となった赤松氏に代々仕えた。嘉吉の乱で赤松氏が滅び、その後赤松政則が赤松氏を再興して播磨を回復すると、櫛橋左京亮則伊は政則の股肱の臣として活躍し、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役を務めた。櫛橋氏は代々天神山城を居城としていたが、1492年に則伊が志方城を築いて居城を移したとされる。その後、伊家・伊定・政伊と続いた。1578年、三木城主別所長治が織田方から離反すると、櫛橋氏は別所氏に呼応して志方城に立て籠もった。しかし同年8月、羽柴秀吉の攻略にあって落城し、櫛橋氏は滅亡した。尚、伊定の娘・光(てる)は秀吉の名参謀として活躍した黒田官兵衛孝高の妻となり、嫡男長政(後の福岡藩主)を産んだ。

 志方城は、周囲を低地帯に囲まれた低台地に築かれている。南端に本丸、その北に二ノ丸、西側に西ノ丸を築いていたとされる。市街化で遺構はかなり改変されてしまっている。本丸は観音寺の境内となり、周囲に段差5m程の切岸が散見され、北の墓地裏に土塁跡が確認できる。切岸下には堀跡の名残も残っている。二ノ丸は志方小学校となり、西ノ丸は民家が立ち並んでいて遺構は完全に湮滅している。結局城跡らしさを残すのは本丸だけだが、市街地中心部の城の現況としては、それでも良しとすべきであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818075/134.822266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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白山城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7133.JPG←平場周囲に残る土塁
 白山城は、名刹として名高い書写山圓教寺の境内に、1578年、羽柴秀吉が播磨平定戦の最中に一時期本陣を置いた陣城である。その前年の77年、秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。御着城主小寺政職の家老の姫路城主黒田官兵衛孝高は、織田方に付くことを政職に進言し、更に播磨に入った秀吉に姫路城を明け渡し、播磨の諸豪族にも織田方に付くことを説いて回っていた。その甲斐あって、短時日の内に播磨をほぼ平定し終えた秀吉であったが、翌78年2月、突如三木城主別所長治が織田方から離反し、これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。周囲を敵性勢力に囲まれる形となった秀吉は、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、山上の十地坊に白山城を築いて本陣とした。これは、陣を構えるに好適な要害であり、また多数の兵の収容が可能で兵糧の確保が容易な大寺院であった為とされる。その後、戦況の推移に従って平井山に本陣を移すまで、白山城が秀吉の本陣となった。
 尚、圓教寺側ではこれを「秀吉の乱入」と称している。それは、秀吉が守護使不入の圓教寺の荘園27,000石を全て没収し(後に500石のみ施入された)、摩尼殿の本尊・如意輪観音像など多数の仏像・寺宝を奪い取り、自身の本拠近江長浜城に持ち去ってしまったからである。また兵たちによって僧坊は壊され、寺域は大いに荒らされた。寺からすれば、いわれのない暴挙であったろう。この様に、織田軍の各地での暴虐は、戦国乱世の常識からしても常軌を逸した破壊的なものであった。

 白山城は、圓教寺の大講堂裏の書写山山頂部に築かれている。ここは白山権現が祀られていることから白山とも呼ばれている。前述の通り、往時は十地坊と言う僧坊があった。平坦な平場となっており、現在は給水施設が建っているので改変を受けているが、平場の周囲には土塁の跡が明瞭に残っている。また土塁の外側周辺にも、幾つかの平場群が確認でき、虎口状の地形も見られる。しかし秀吉が率いていた兵数は万単位であり、とても山頂の平場群だけで収容することはできなかったであろう。実際、書写山ロープウェイの山上駅から圓教寺まで登る途中、土塁で囲まれた平場や段曲輪状の平場が散見され、山内全域に兵が駐屯していたと考えられる。山頂からは再興赤松氏の居城置塩城が望め、播磨中世史の転機となった歴史的な場所である。
圓教寺への途上に見える土塁囲郭→IMG_6982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.893209/134.655390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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76年前 [雑感]

76年前の今日、戦争が始まった。
最近では、このことを大きく取り上げないマスコミも多い。

国と国民を奈落の底に突き落とす戦争になぜ日本が突き進んだのか?
なぜ開戦を、多くの日本人が支持し、賞賛したのか?
その総括はいまだ十分にされないまま、時だけが過ぎ去り、
この国民は過去への反省を忘れようとしている。

この国民の暴走で、どれほどの災厄をアジア・太平洋地域に撒き散らしたのか。
日本人は、もう一度そのことをよく思い直した方が良い。
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赤穂城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6937.JPG←二ノ丸東側外周の石垣
 赤穂城は、忠臣蔵で名高い赤穂浅野家(浅野内匠頭)の居城として知られている。基本は純然たる近世城郭であるが、その前身は関ヶ原合戦の後にこの地を領有した姫路城主池田輝政が、末弟の長政を22,000石で赤穂に配し、後の赤穂城地に掻上城を築いたのが最初とされる。その後、池田輝政の家臣垂水半左衛門勝重が赤穂郡代となって役所を構え、更に池田政綱・輝興が赤穂を領した。しかし1645年3月、輝興は突如狂乱して内室と侍女2人を斬り殺して改易となった。その後には、浅野長政の孫に当たる浅野内匠頭長直が、常陸国笠間城から赤穂に53,500石で移封となった。長直は、1648年に赤穂城築城願を幕府に提出し、紆余曲折を経て、1661年に赤穂城が完成した。築城に当たっては、甲州流軍学者近藤正純が設計を行い、更に招聘された軍学者山鹿素行が途中から参画して縄張りに修正を加えた。赤穂浅野家は3代続いたが、1701年、内匠頭長矩の時に江戸城中で吉良上野介義央と刃傷事件を起こし、5代将軍徳川綱吉の命で即日切腹となり、赤穂浅野家は断絶した。同年4月に赤穂城開城となり、一旦は幕府領となったが、翌年、下野国烏山城主永井伊賀守直敬が赤穂に33,000石で入封して暫定的に統治した。1706年、森長直が赤穂に20,000石で入封し、以後森氏11代の居城として幕末まで存続した。尚、元々5万余石の浅野家時代でも分不相応に広壮な城であったが、浅野家改易以降は禄高が次第に減少した為、幕末には城下町は衰微し、城の維持修復にも事欠く有様であったと言う。

 赤穂城は、海に面した低丘陵に築かれている。本丸の周囲に二ノ丸を環郭式に廻らし、北側に三ノ丸を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は水堀で囲繞され、西国の近世城郭らしく総石垣の城となっている。観念論を主軸にした江戸期軍学者の設計らしく、本丸を始めとする各所の塁線は複雑な折れを持ち、隅櫓台は張り出され、各所で横矢掛かりを強く意識した縄張りとなっている。特に本丸は稜堡式城郭の原型とも言えるもので、しつこいくらい屈曲している塁線がいかにも理念先行の軍学者の設計らしい。本丸内には天守台もあり、築城時に天守を建てる計画もあったようだが、結局財政難で建てられずに終わっている。同様に、本丸の4つの隅櫓台も、実際に櫓が上げられたのは北東隅櫓だけで、他の3つは横矢枡形と称して石垣の基台のみであった。
 城内には近代に入ってから一時期学校が置かれるなどして城の遺構は改変されたが、現在は国指定史跡となって復元作業が進められている。本丸は大手門が復元され、御殿跡の配置がコンクリート板で地面にマーキングされている。二ノ丸は国名勝の庭園が復元途上である。三ノ丸には大石神社があり、47士が祀られて観光名所となっている。護岸工事に二ノ丸石垣が持ち出されるなど、一時期改変されたせいと思われるが、石垣は真新しいものが多く、かなり積み直しされてる感じである。大手門の枡形石垣は、明治期に破壊されたものを復元しており、一部の角部が円弧状の石垣も往時の形であるらしい。三ノ丸の石垣もほぼ全周に渡って残っている。訪城が夏場だったこともあり、石垣にかなり雑草が生えていて、石垣の損壊が危惧される状況であった。私は個人的に、純然たる戦闘用に造られた、実戦本位の中世城郭の方が好きなので、権勢誇示志向の強い近世城郭、特に机上理論のみの江戸期軍学者の手になる赤穂城は、ちょっと好みから外れていた。
天守台から見た本丸御殿跡→IMG_6866.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746047/134.388735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世水城
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坂越浦城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6682.JPG←公園となった城跡
 坂越浦城は、嘉吉の乱の後に播磨守護となった山名持豊(宗全)が築いたと言われる城である。1454年に築城工事が行われていたことが資料に残っていると言う。その後、赤松氏が再興されて播磨を再び領すると、赤松氏の庶流・龍野城主赤松村秀の支城となり、その通城(かよいじろ)となって坂越港の支配拠点となったと言う。江戸時代には、赤穂藩の御番所が置かれて坂越浦に出入りする船の監視に当たった。
 坂越浦城は、坂越浦を望む比高20m程の段丘上に築かれている。現在公園となっているが、あまりに綺麗に整備されすぎて、公園周囲も擁壁で固められ、往時の面影は微塵もない。平場があったことと、眼前に坂越浦が広がっていることがわかるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.767220/134.431844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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坂越茶臼山城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6643.JPG←城址とされる山頂
 坂越茶臼山城は、山名持豊(宗全)によって築かれたと言われる城である。1441年の嘉吉の乱で、幕府追討軍の先頭に立って赤松満祐を城山城に攻め滅ぼした持豊は、坂越茶臼山城を築き、赤松氏残党に備えてしばらく駐屯していたと言う。その後、1455年に赤松氏の残党が赤松氏再興を目指して蜂起し、播磨に討ち入ってその一軍が茶臼山城の山名勢を攻めたが、敗退したとも言われる。

 坂越茶臼山城は、宝珠山の西の標高160mのピーク上に築かれていたと言う。しかし現在はテレビ塔が建つ他、石仏が多数置かれており、かなり改変を受けているらしく、明確な遺構は確認できない。強いて言えば、テレビ塔や石仏が建っている部分が一段高くなっており、物見台であったものだろうか。この高台は曲輪と言う程の広さはない。物見台周囲は公園化された平場となっており、ここからは坂越浦を一望できる。城址と言うより景勝地と言う方が適している。

 尚、坂越茶臼山城の北東の尾根には太平記にその名が現れる児島高徳の義父、和田備後守範長とその一族の墓がある。熊山合戦(太平記 巻16)で重症を負った高徳が、茶臼山城中腹の妙見寺に逃れて傷を癒やしたとの伝説がある関係からなのだが、有名な児島高徳も児島・和田一族も太平記にしか記載が見られず、同時代資料に全く記載がない為、その実在が強く疑われているのが実態である。にも関わらず彼らを顕彰する平成7年に建てられた解説板では、後醍醐天皇の治世を「建武の中興」と称し、「国民の福祉を優先する後醍醐天皇の信頼を裏切った足利尊氏」と決め付けている。全く史実を無視した皇国史観という虚偽観念に毒された解説文で、こんなものを現代でも臆面もなく建てていることは、取りも直さず日本が戦前回帰主義に冒され、再び右傾化しつつある証左であり、暗澹とした気分にならざるを得ない。
 ※皇国史観について知りたい方は、拙ブログ「時代錯誤の石碑を建てた日本学協会」の項を参照下さい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.770516/134.429419/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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佐土構居(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6580.JPG←堀跡とされる水路
 佐土構居は、小寺氏の庶流英保氏の郎従、清水小左衛門久勝が1573年に居住したとされる居館である。久勝は妻鹿孫次郎貞祐の8世の裔孫と伝えられ、祖父吉春の時に初めて清水姓を名乗ったと言う。『御着茶臼山城地絵図』によれば、佐土構居の西側に旧印南郡・旧飾東郡の郡界があり、そこに御着城の東外堀が穿たれ、山陽道と郡界・外堀の交差部に城門があった。従って、佐土構居は御着城惣構の東に隣接して築かれた居館であったらしい。
 佐土構居は、現在の福乗寺境内付近に築かれていた。周辺はすべて宅地化されており、遺構は完全に湮滅している。わずかに福乗寺裏を流れる水路が堀の名残を伝えているに過ぎない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815486/134.743066/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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御着城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6570.JPG←二ノ丸外周の堀跡と切岸
 御着城は、播磨守護赤松氏の一族、小寺氏の居城である。小寺氏は伝わっている系図では、赤松氏を南北朝動乱の中で大大名にのし上げた赤松円心より4代前に分かれた一族と言われる。しかし、円心以前の赤松氏自体の系図が不明瞭であり(南北朝で彗星のように現れた楠氏・名和氏も同様)、事実かどうかは必ずしも明らかではない。ただ太平記には、元弘の乱の時から赤松氏に従った一族として、佐用氏・上月氏と共に小寺氏の名も何度も現れており、赤松氏は鎌倉時代には名もなき土豪であったとは言え、既に一族を広く蟠踞させるほどの勢力を有していたことが窺われる。小寺氏は赤松宗家の家臣として重用され、1349年に小寺頼季が、円心の次男貞範が築いた姫山城(後の姫路城)の城代となり、以後代々、姫山城主を歴任した。1441年の嘉吉の乱の際には、小寺伊賀守職治は赤松満祐に従って幕府討伐軍と戦い、城山城で討死した。赤松氏滅亡後、その遺臣達は赤松氏再興を目指して奮闘し、職治の子と推測される小寺藤兵衛(豊職か)もその主要メンバーとなって長禄の変で後南朝に奪われていた神璽を奪還し、お家再興に成功した。再興赤松氏の当主政則は、応仁の大乱の時に東軍の細川勝元に与して山名氏に奪われていた本拠の播磨を奪還し、播磨守護に返り咲いた。播磨に戻った政則は、1469年に置塩城を築いて居城とし、小寺豊職を姫路城主とした。豊職の子政隆は、同じ赤松家臣であった浦上氏の下克上で動揺する赤松氏を支え続けた。伝承では御着城はこの政隆によって、1519年に築かれたと言われている。しかし、嘉吉年間(1441~44年)には既に構居が設けられ、明応年間(1492~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭に発展していたとされ、発掘調査の結果からもそれが裏付けられている。いずれにしても、政隆以後、則職・政職と3代に渡る小寺氏の居城となった。政職の時には、赤松氏の勢力が衰退した為、黒田職隆・孝高(官兵衛)父子らの多くの有能な人材を登用し、次第に自立した大名となった。勢力の拡張に伴って御着城も整備され、戦国末期には別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城と称せられた。播磨に織田信長の勢力が伸びてくると、政職は黒田孝高の進言を容れて一旦は織田方に付いたが、三木城主別所長治の離反、摂津有岡城の荒木村重の反乱が相次いで起き、これに動揺した政職は織田から離反して毛利方に付いた。その後、三木城・有岡城が落城すると、政職は城を捨てて備後の鞆に逃亡し、小寺氏は没落。信長の部将羽柴秀吉の侵攻で御着城は落城した。

 御着城は、天川東岸の平地に築かれた城である。中心部に本丸・二ノ丸を東西に配置し、北と東には四重の堀、南と西には二重の堀を廻らし、更に惣構を備えた城であったと言うが、現在は城の中心部を東西に国道2号線が貫通し、市街化が進んで遺構はほとんど残っていない。本丸北半は公園と天守風の公民館となり、本丸南半は小寺氏一族を祀る小寺大明神が鎮座している。また二ノ丸は御着城跡公園というグラウンドに変貌している。遺構として残っているのは、公民館北側に移築保存された天川橋の下の堀跡の窪地と、二ノ丸外周の堀と切岸(土塁)だけである。播磨三大城と称せられた面影は全く残っていない。それにしても、御着城の周辺には城を築くに適した丘陵・山稜がいくつもあるのに、わざわざ平地に城を築いたことは、小寺氏の先進性を窺わせるものであろう。
 尚、本丸跡の公園西側に黒田家の廟所が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818533/134.740705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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朝日山古戦場〔赤松塚〕(兵庫県姫路市) [その他の史跡巡り]

IMG_6519.JPG←朝日山合戦に関連した赤松塚
 朝日山合戦は、天文年間(1532~55年)に生起した赤松氏と浦上氏の抗争である。嘉吉の乱で一旦は滅亡した赤松氏は、旧臣達の努力で再興されたが、戦国時代に入ると重臣の浦上氏が勢力を伸ばして、主家赤松氏を凌ぐようになった。1534年、赤松・浦上両氏の間で朝日山において激戦が行われた。櫛橋左京亮・上月右京亮など多くの赤松重臣が討死し、播磨島津氏も当主忠長が討死して断絶した。尚、現地の石碑によれば、朝日山での合戦は複数回あった様である。

 朝日山合戦の行われた朝日山の南西約1kmの位置の公園の一角に、赤松塚が残っている。石碑の解説文によれば、朝日山合戦で多くの赤松一族・将兵が、或いは討死し、或いは自刃し、爾来この地で鍬入れなどをすると祟りがあり、病気や災難に遭うと言い伝えられていると言う。赤松氏に所縁深い土地であることが窺える。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.811275/134.580932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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青山古戦場(兵庫県姫路市) [その他の史跡巡り]

IMG_6512.JPG←石碑と解説板
 青山古戦場は、後に智将として勇名を馳せた黒田官兵衛孝高の初陣となった戦いである。青山の戦いは、赤松宗家とその庶流龍野赤松氏の対立に端を発している。宗家の置塩城主赤松義祐と龍野城主赤松政秀の対立は、織田・別所・龍野赤松・宇喜多連合と赤松宗家・浦上・小寺連合の争いという周辺諸豪を巻き込む騒乱に発展した。そして1569年8月、政秀は3000の兵を率いて、赤松義祐に属した御着城主小寺政職の家老黒田職隆・孝高父子の守る姫山城(後の姫路城)に向けて進撃した。孝高は、父職隆から離れて土器山に布陣し、最前線で政秀軍を迎え撃った。不意撃ち・挟み撃ちなど秘策を尽くし、悪戦苦闘の末に政秀軍を追い詰めてこの地まで撃退し、青山で最後の決戦となった。数に勝る政秀軍を撃退することに成功した孝高は、奇襲の作戦技もあって有名になったと言う。
 青山古戦場は、千石池の南東の袂に石碑と解説板が建っている。住宅地の奥の突き当りで、千石池の背後の丘陵はゴルフ場に変貌している。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.842364/134.626100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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