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塚原城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3886.JPG←二ノ郭から見た主郭の虎口
 塚原城は、大掾氏の一族、鹿島氏の庶流塚原氏の居城である。かの名高い剣聖・塚原卜伝はこの塚原氏の当主で、一時期塚原城主であった。鹿島氏15代義幹の子安幹がこの地に入部して塚原氏を称し、塚原城を築いたと言う。この安幹が養子として迎えたのが卜伝で高幹を名乗った。1591年の佐竹氏による鹿島城攻撃の際には塚原一族も鹿島城に立て籠もって戦い、塚原義安は自刃し、塚原義隆は討死した(系譜には不明点が多い)。
 一方、塚原卜伝は、鹿島神社神職の卜部家吉川左京覚賢の次男で、塚原土佐守安幹の養子に迎えられ、塚原新右衛門高幹と名乗った。1532年に家督を継いで塚原城主となったが、妻の妙と若くして死別し、養子に家督を譲って自身は3度目の修行の旅に出たと言う。

 塚原城は、北浦東岸の比高30m程の段丘突出部に築かれている。字が消えかかった案内標識が県道18号線に出ており、そこから細道を北東に登って行き、台地上で西に道を進むと一面の畑が広がっており、脇に城址看板が立っている。しかしその先が非常にわかりにくい。畑の奥にある山道を行ったり来たりして、ようやく探し当てることができた。塚原城は、西に張り出した台地の北端の基部を掘り切って、北側に3段の曲輪を築いている。最上段の主郭は最も広く、東辺にのみ低土塁を築き、ここに虎口を築いている。背後を堀切で防御しているが、浅い堀切で大した防御性は感じられない。主郭の東には土塁で囲まれた半円形の二ノ郭がある。二ノ郭は主郭と段差だけで区切られ、その高低差は1.5m程にしか過ぎない。二ノ郭の下方に腰曲輪が廻らされており、竪堀らしいものが数本見られる。素朴な構造の、簡素な城砦である。
 尚、腰曲輪のはるか下には民家があり、竪堀を覗いていたら民家の小父さんに「何やってんだ?」と大声で訊かれてしまった。城跡を見てると答えたら納得してもらえたが、この城に行くときは注意しましょう。
主郭背後の堀切→IMG_3852.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.992226/140.603585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


塚原卜伝 古今無双の剣豪 (日経文芸文庫)

塚原卜伝 古今無双の剣豪 (日経文芸文庫)

  • 作者: 小島 英記
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2014/05/09
  • メディア: 文庫


タグ:中世山城
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粟生城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3817.JPG←粟生城跡に建つ平光寺
 粟生城は、大掾氏の一族、鹿島氏の庶流粟生氏の居城である。元々は、平安末期に豊浦左近少輔光実が築いたと言われ、当初は花山城と呼ばれていた。その後、鹿島宗幹の次男幹実がこの地に入部して粟生氏を称し、花山城を改修して居城とし、鹿島城南東の防備に当たった。更に粟生城の出城として、石神城に一族の石神八郎憲幹を分知して備えを強固にしていたが、1558年に粟生・石神両氏の間で争いが起き、両氏とも滅亡して粟生城は廃城になったと言う。

 粟生城は、3郭から成っていたと言い、土塁で区画されて西を御城、東を内御城、北を外城と呼んでいたと伝えられている。鹿島臨海工業地帯に程近い丘陵南端に築かれていたが、工業地帯造成のために早くに採土で破壊されていたらしい。既に戦後間もなくの航空写真を見ても、城の中心部であったと思われる丘陵上は、平らで草木のない台地になってしまっている。現在は更に採土が進んでしまっており、壊滅的な状況である。それでも以前は、西側に堀切状の切れ目(谷戸)があって、唯一明確に残る遺構であったらしいが、私が訪城した時にはここにも重機が入って破壊が始まっていた。数年後には全てなくなるだろう。ここより北の平光寺付近には土塁らしき土盛りがあり、八幡神社北の切り通し状の車道は堀切の跡であるらしい。いずれにしても寺以外ほとんど壊滅的な、残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.945736/140.655835/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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高天原古戦場(茨城県鹿嶋市) [その他の史跡巡り]

IMG_3795.JPG←鹿島義幹の墓
 高天原古戦場は、鹿島氏内訌の古戦場である。1512年、鹿島景幹が、下総米野井城を攻めて討死すると、弟の義幹が養子として家督を相続した。義幹は、1523年に鹿島城を大改修したが、一部の近臣の専横を許し暴政を行った為、重臣達は鹿島氏同族の島崎城主島崎利幹と通じ、更に府中城の大掾氏、水戸城の江戸氏らを引き込んで、当主廃立を謀った。その結果、義幹は追放され、大掾高幹の弟通幹を迎えて景幹の娘を娶らせ、新たな鹿島氏当主とした。義幹は下総国の東氏(千葉氏の一族)を頼って東庄城(須賀山城か?)に逃れ、翌24年、鹿島城奪回の兵を起こし、利根川から舟によって高天原に上陸した。迎え撃った通幹勢との間で激戦となり、敗れた義幹は南方の鉢形野において自刃した。この時、義幹の宿老の内野氏・飯塚氏も節を守ってこれに殉じたと言う。またこの戦いでは、鹿島氏宿老で鹿島神流を創始した高名な武芸者でもあった松本備前守尚勝(政信)(剣豪塚原卜伝の師でもある)も通幹方として激闘の末、討死している。松本備前守の弟子の塚原卜伝も参戦していたが、卜伝は無事に帰還した。

 高天原は、鹿島神宮の東方に今でもその地名が残るが、具体的にこの付近のどこが戦場になっていたのかは判明していないらしい。しかし、そこから南方の鉢形には敗れた鹿島義幹の墓があり、その近くに内野氏・飯塚氏の墓も建てられている。義幹の墓は、なんと焼肉屋の真裏にある。実際は墓があるのではなく、墓碑が墓代わりとして建っている。道路を挟んで南の向かいに内野氏の墓があり、こちらも墓碑が墓となっているが、東に70m程離れた飯塚氏の墓には碑がなく、ほとんど丸坊主にされた木が植わっているだけである。車の通りの多い、市街地と化しているが、わずかに500年前の歴史が残されている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.965112/140.649033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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林城[中城](茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3774.JPG←外郭北端の大空堀
 林中城は、鹿島城主鹿島氏の一族林氏の居城である。すぐ南に隣接して林外城があるが、「外城」に対して「中城」と呼ばれることから、林氏の平時の居城は林中城で、有事の際の詰城として林外城を築いていたと考えられる。林氏の事績については林外城の項に記載する。

 林城は、前述の通り中城と外城の2つの城が、低地帯を挟んで向かい合う台地先端部に築かれている。中城は北側に位置し、台地南端の突出部の基部を堀切で分断して区画した、ほぼ五角形状の城である。主郭内は空き家ではあるが民有地なのでここへの不法侵入を避け、南斜面を直登して外周から遺構を確認した。主郭の外周には数m低い位置に腰曲輪が廻らされ、腰曲輪の外縁部には低土塁が築かれている。この腰曲輪の南端付近に竪堀状の虎口が付いている。腰曲輪の藪を突っ切って、東側から主郭背後に回ると堀切が穿たれているが、この堀切はそれほど大規模なものではない。一方、主郭の北側に広がる民家が立ち並ぶ台地は、明らかに往時の家臣団居住地で、いわば中城の外郭に当たる。外郭の北限には枡形跡の鉤の手道路が残り、その両側に外郭遺構が残っている。ほぼ南北に小道が台地を横断しているが、往時の堀切の跡と思われる。この堀跡道の北端脇には大空堀が現存し、その脇に櫓台が築かれている。この空堀の先は台地西側の腰曲輪に繋がっている。腰曲輪は延々と南に伸びているようだが、その先は民家裏なのであえて踏査しなかった。以上の様に、外城と比べると居住性を重視した造りのため、見劣りするのは否めないが、それでも往時の雰囲気はよく感じられる。
低土塁のある主郭腰曲輪→IMG_3682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.010089/140.612018/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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楯の宮館(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3604.JPG←主郭背後の空堀
 楯の宮館は、歴史不詳の城である。津賀城から南東に約1.4kmの、標高約40m、比高35m程の舌状丘陵先端部に築かれている。東西に長い長方形のプランを持った方形館を基本とし、全周を土塁で囲み、背後に当たる東側に空堀を穿ち、土橋の架かった虎口を築いている。主郭周囲には腰曲輪が廻らされている。主郭の北辺には、周囲の土塁より一段高くなった土壇があり、櫓台であったと考えられる。尾根続きの東側には、わずかな堀底道状の小道があり、堀切の様な地形も見られるが、あまりはっきりしない。大した規模の城館ではなく、風化しているのか土塁などもそれほど見応えのある大きさでもない。あまりパッとしない城館で少々期待外れだった。位置的に考えると津賀城の出城であろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.030256/140.593822/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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阿玉館(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3563.JPG←南側の虎口と土橋
 阿玉館は、中居城主中居氏の庶流阿玉氏の居館である。中居時幹の3男幹時がこの地の地頭となり、阿玉三郎と称したと言う。その他の事績は不明であるが、佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で滅ぼされたのだろう。

 阿玉館は、北浦東岸の台地の中程に築かれている。東京電力大洋変電所の南に隣接している。変電所建設の際に、虎口の土塁が削られたらしく、その跡が変電所敷地の南西隅にマーキングされている。阿玉館自体はよくある方形単郭居館で、全周に土塁と空堀が残り、南に土橋の架かった虎口が築かれている。東側は下草が整備されていて、遺構がよく確認できるが、変電所沿いの西側は藪が多く、空堀もかなり埋まってしまっている様だ。比較的小規模な城館だが、山林内にこれだけ綺麗に遺構が残っているのは素晴らしいことである。
東側の土塁と空堀→IMG_3566.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.102203/140.552344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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馬場館(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3542.JPG←土塁と空堀
 馬場館は、烟田氏の家臣団の居館と言われる「烟田八館」の一つである。烟田八館は、烟田城周辺にあり、その防衛網の一翼を担っていたと考えられ、一族・重臣が配されていたと見られる。中でも馬場館は最大の規模を持ち、重要な位置付けであったことが伺われる。

 馬場館は、丘陵上に築かれた単郭方形居館で、新宮神社参道に隣接する山林がそれである。南に向けてややすぼまった台形をしており、外周には土塁と空堀がよく残っている。空堀は全周を廻っているが、土塁は西半分しか見られない。以前は畑になっていたので、元は全周にあった土塁が削られて今の形になったのだろう。西側の車道から深い堀と切岸が垣間見え、キャッスラーならパッと見で城だと気付くはずである。尚、空堀の北西部では水が染み出しており、往時は水堀であった可能性もある。虎口と土橋は、畑になっていた際の改変が多く、原形がわかりにくいが、形状からすると北西のものが往時の虎口であろう。少々藪が多いが、なかなか見事な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.154544/140.535135/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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蕨砦(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3472.JPG←主郭の土塁と空堀
 蕨砦は、歴史不詳の城砦である。位置的に野友城に近いことから、元亀年間(1570~73年)に北浦北岸の当間の津の領有を巡って木崎城主武田氏と鹿島城主鹿島氏とが争った際に、野友城の出城として武田氏によって築かれたものではないかという説が提示されている。

 蕨砦は、北浦に注ぐ巴川西岸の標高22.7m、比高15m程の丘陵上に築かれている。車道沿いに城址標柱があり、登り道が整備され、城内も薮が伐採整備されているので、遺構の確認がし易い。土塁で囲まれたほぼ方形の3つの曲輪で構成されており、南に一番大きな曲輪である主郭を置き、その北に東西に三ノ郭・二ノ郭を並べて配置している。いずれも綺麗に整形された曲輪群で、主郭には枡形虎口まで構築されている。また三ノ郭の東側切岸下には腰曲輪が築かれている。また主郭外周から二ノ郭の西側にかけては、空堀が穿たれている。蕨砦は、非常に綺麗に遺構が残っており、小規模ながら素晴らしいの一言に尽きる。地主の方の努力の賜物であろう。
尚、「砦」という名称になっているが、3郭から成る普請のしっかりした遺構は、「城」と読んで差し支えないレベルである。砦と城の名称の違いは何なのか、少々考えさせられる。
二ノ郭・主郭の仕切り土塁→IMG_3486.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.167008/140.462844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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芹沢城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3391.JPG←南東辺縁部の横堀
 芹沢城は、大掾氏の一族芹沢氏の居城である。芹沢氏は、鎌倉期まで大掾氏の宗家であった多気大掾氏の流れ汲み、八田知家の讒言によって没落した多気義幹の次男茂幹が、義幹の失脚後に宗家となった馬場資幹の後援によって復活して、後の芹沢氏の祖となった。南北朝期に茂幹の後裔平竜太が、相模国高座郡に所領を与えられ、芹沢の地に館を構えて芹沢氏を称した。元服した竜太は幹文と名を改め、以後、良幹・高幹・望幹と4代にわたって鎌倉公方に仕えた。その後、1385年に隠岐守良忠の時に常陸へ戻ったが、これは病弱であった大掾詮国を支えるためであったと推測されている。良忠は府中城に在城し、詮国の継嗣満幹を補佐し、その報賞として行方郡荒原郷の芹沢を与えられた。そして戦国前期の天文年間(1532~55年)、芹沢秀幹の時に芹沢城が築かれたと言われている(別説もあり、秀幹の2代前の俊幹が初代城主とも言われる)。その後、芹沢城を本拠として勢力を維持した。小田原の役後の1591年、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将は謀殺されたが、時の当主国幹は病気と偽って招きに応じなかったため危害を免れた。しかし、佐竹氏に滅ぼされた大掾氏系諸族の残党が同族である芹沢氏を頼り、芹沢城に集まって籠城する事態となった。義宣は芹沢氏とはかねてからの誼もあり、芹沢城への攻撃は避けたが、国幹は周囲を佐竹氏に抑えられた為、城を放棄して下総古河に移り、後に下野国喜連川の那須資家の館に身を寄せ、そこで生涯を閉じた。国幹の子通幹は縁故の秋田河内守実季を頼って出羽国に移住したが、1602年に秋田氏は国替えによって常陸国宍戸城に移封となり、通幹もこれに従って常陸に戻った。1606年、通幹は徳川家康に召されて行方郡富田の地に100石を与えられ、同年故郷の芹沢に帰住し、その子孫は水戸藩郷士となった。幕末には、新撰組の初代筆頭局長となった梟雄芹沢鴨を輩出した。

 芹沢城は、梶無川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。現在、段丘上は耕地化しており、大きく立派な城址碑が建つほかは、明確な遺構は台地の南東辺縁部にしか残っていない。この辺縁部には横堀が穿たれており、特に南東角では三重堀切となって斜面を分断している。この他では、段丘上の大宮神社付近に土塁跡らしい土盛があるが、遺構かどうかは不明である。芹沢城は、近世にかなり改変されている様なので、遺構が僅かなのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.140283/140.424607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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羽生城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3287.JPG←主郭の土橋
 羽生城は、現地解説板では羽生館と称され、鹿島神宮大禰宜の中臣氏の一族の城である。南郡橘郷の支配と所領経営のために鎌倉末期頃に築かれたと言われている。橘郷は1174年に常陸国衙より鹿島神宮に寄進され、大禰宜中臣則親の勢力下に置かれた。以後、則親の子孫が代々所領を相伝し、羽生村に館を構えて本拠とし、羽生氏を称した。霞ヶ浦の水運にも影響力を持ち、羽生舟津も知行したと言う。

 羽生城は、霞ヶ浦沿いの比高10m程の台地上に築かれている。万福寺の境内も城域で、「要害」の地名があるらしい。万福寺以外の城内は未整備の藪に覆われており、遺構の見て回るのに苦労する。主郭は北西端にあり、堀切で分断され、背後のニノ郭とは土橋で連結されている。二ノ郭・三ノ郭は藪でどこまで広がっているのかわかりにくい。三ノ郭の北には横堀があって、その北は出曲輪となっている。また三ノ郭と万福寺境内の間には、谷戸の様に低くなった畑があり、往時の地形を残している様である。
 この城は、城郭遺構よりも万福寺の方が素晴らしく、仁王門や阿弥陀堂など、古風で趣がある。平清盛の長男、平重盛に縁のある寺らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.144711/140.383644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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中根城(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3219.JPG←主郭堀切と土橋・虎口
 中根城は、歴史不詳の城である。『図説 茨城の城郭』によれば、一説には佐竹氏に属した中根氏の城であったとも言われるが、定かではない。

 中根城は、中丸川支流の小河川の東岸の比高20m程の段丘先端部に築かれた城である。西端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の城であるが、遺構が完存しているのは主郭のみで、二ノ郭は民家となり、三ノ郭は畑となってかなり改変されている。比高たかだか20m程なので、主郭下のとりつきやすい場所から直登すれば、城跡へはすぐである。主郭は西から南にかけて外周に帯曲輪を築き、北から東にかけては土塁を築いている。土塁の外側は空堀で台地と分断しており、特に二ノ郭側の堀切は土橋と虎口が残り、その形状がよく分かる。北側の空堀はだいぶ埋まってしまっているのか鋭さがなく、おまけに東半分は倒竹が酷く形状がほとんどわからない。主郭内はある程度藪が伐採されているので、歩きやすく、北東角には櫓台が築かれているのがわかる。大した技巧性もない城であるが、主郭部がよく残っているだけ良しとしたい。但し、幕末や戦時中に改変されているらしいので、留意する必要がある。主郭部を見た限りでは、あまり改変されているようには見受けられなかったが。
 尚、城の南西にある車道の橋の名は「館下橋」である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.377387/140.556207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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長者山城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3081.JPG←主郭空堀の屈曲部
 長者山城は、歴史不詳の城である。ここには「長者伝説」がある。昔、一盛長者という富豪が居て、後三年の役の際に10万の兵を率いて奥州に向かった源義家は、この地で長者から豪勢なもてなしを受けた。奥州平定後、再びこの地で前に劣らぬ接待を受けた義家は、このような富豪は後日の煩いになると考え、急襲して長者を滅ぼした、というものである。一盛長者は、源頼信の5男、常葉五郎義政のことであったと言う。一方、時代が下って戦国後期の天正年間(1573~92年)には、この屋敷に春秋駿河守や小曾沼権之助などと言う武士が住んでいたとも言われるが、確証はない。

 長者山城は、田野川南岸にそびえる比高30m程の河岸段丘辺縁部に築かれた城である。その選地は、前小屋城石塚城と共通しており、縄張りにも類似性が見られる。北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式で、現在は宅地化・耕地化で改変されているが、一部の遺構が良く残っている。主郭の周囲には土塁と空堀が残り、南中央には土橋が架かり、空堀は南東部では横矢掛かりのクランクを設けている。空堀の東端は、主郭・二ノ郭東側の斜面に構築された横堀に接続している。この横堀は、主郭空堀との合流点東側に竪堀状の虎口を設け、側方には櫓台を築いている。二ノ郭・三ノ郭はかなり改変され、西側半分は近年ソーラー発電所になってしまっているが、二ノ郭北辺の土塁は健在で、西側の土塁も部分的に残存している。外周の空堀は残念ながら埋められてしまっている。三ノ郭は、入口に「一盛長者伝説地」の石碑が建っている以外は湮滅が進み、二ノ郭との間の空堀も既にわからなくなっているが、南東角部から東面にかけて、車道脇に腰曲輪と横堀が残っている。この車道も往時の空堀跡であろう。前述の通り、佐竹一族の城との類似性が見られる一方、この付近は江戸氏の勢力圏であったと考えられるので、今後の考究が望まれる。
主郭東斜面の横堀→IMG_3126.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.412243/140.433555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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二条城(京都府京都市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2939.JPG←本丸周辺の水堀と石垣
 二条城は、上洛の際の将軍の宿所に当てるため、徳川家康が京に築いた城である。関ヶ原合戦後、実質的に天下を手中に収めた家康は、1601年に西国の諸大名に造営費用と普請役を課し、所司代板倉勝重を造営総奉行として翌1602年に二条城の築城を開始した。同年、家康は征夷大将軍の宣下を伏見城で受け、1603年、できて間もない二条城に入って御所に参内して「拝賀の礼」を行った。続いて、二条城で重臣・公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。1611年、家康は本来主筋に当たる豊臣秀頼を二条城に招き会見を行った。この時、秀頼の側にはその身を守るため加藤清正が付き従った。豊臣家を滅ぼした両度の大阪の陣では、大御所家康と2代将軍秀忠は、二条城に駐在して幕府方の本営となった。1619年、徳川和子(秀忠の娘)の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修が行われた。1624年、後水尾天皇の行幸に備えて、大改修が行われた。それまでの本丸は現・二ノ丸の位置にあったが、城域を西に大幅に拡張し、現在の縄張りとなった。現在残る二ノ丸御殿も基本的にはこの時のものである。1626年、3代将軍家光は、改修成った二条城に後水尾天皇を迎え、5日間に渡って各種の宴が催された。この時が二条城の最盛期で、その後、後水尾天皇が上皇となると行幸御殿は後水尾院の御所に移築され、また多くの建物が解体撤去された。1634年の家光の上洛以降、230年間将軍が二条城に入ることはなく、その間、落雷で天守は焼失し、また大火で本丸御殿や隅櫓などが焼失した。幕末の動乱期になると、14代将軍家茂の上洛の為、1862年に荒れていた城の整備・修復が行われ、63年に家茂が上洛して二条城に入った。1866年、徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けた。翌67年10月、15代将軍慶喜は二条城の二ノ丸御殿大広間に在京諸藩の重臣を集め、大政奉還を行った。慶喜が大坂城に撤収すると、二条城は朝廷に接収され、幕府の城としての役目を終えた。

 二条城は、世界遺産にもなっている有数の観光地でもあり、ここで多くを語る必要はないだろう。環郭式の総石垣の平城で、国宝・重文建築が多数残っている。二ノ丸は幕府の権威を示す豪壮華麗な様式で、特に唐門は近年修復されて素晴らしい姿を現している。一方で、二ノ丸御殿内の障壁画や天井画などは劣化が進んでおり、今後の修復が望まれる。本丸は、幕末の財政難の影響で、出枡形門からして質素である。二条城は現存遺構が多すぎて、2時間掛けても外周までは回りきれなかった。また、隅櫓・天守台・西門枡形など、周辺の絶好の撮影スポット付近が立入禁止で近づけない所が多く、植栽に邪魔されて綺麗に撮影できず、消化不良気味になってしまったのは残念だった。何年先になるかわからないが、再訪必須だなぁ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.014032/135.747671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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新庄城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2652.JPG←尾根鞍部の堀切
 新庄城は、丹波小守護代として船井郡を領した井上氏の居城である。歴代の城主は、文明年間(1469~86年)以降、井上雅楽助・井上孫五郎・井上又六と続いた様で、丹波守護細川政元の奉行人波多野秀久の奉書や守護代上原元秀の遵行状を井上氏に発出している。また『丹波志』によれば、戦国後期には井上氏は没落していたが、井上治部少輔は明智光秀に仕えて丹波平定の先鋒となり、古邑を回復したと言う。

 新庄城は、標高230m、比高110mの城山に築かれている。城山は南北2峰あり、北の峰に本城、南の峰に出城を置いている。現在はほとんど人が入らない山らしく、城内は全体に藪が多い。また東の谷戸からの登城路があるが、倒木が多く一部では道が消失しており、結局斜面直登になる可能性が高い。私はこの道を知らなかったため、本城南東の尾根を直登した。
 本城は、主郭の周囲に腰曲輪を廻らし、北と南に数段の段曲輪、東尾根に2段の舌状曲輪を配置している。この舌状曲輪(上段)の付け根は一段低い鞍部の曲輪となっており、南側に虎口が付いていて、前述の登城路と繋がっている。この虎口を防衛するように、舌状曲輪後部に土塁・物見台が築かれている。下段の舌状曲輪の先端には土塁が築かれ、その側方に虎口が築かれている。舌状曲輪から下方にやや離れた南東尾根にも、明確に削平された曲輪が築かれている。一方、前述の鞍部の曲輪から主郭の北側に向かって明確な城道が残っている。主郭は三角形状の曲輪で角部に土塁を築いている。主郭内は藪が少なく、20年以上前の小学生が作った城址解説板が残っている。主郭から南尾根を辿ると、段曲輪の先の鞍部に二重堀切が穿たれている。内堀の外側には土塁も築かれている。これらによって出城との分断を図っている。
 南の出城も基本的な構造は本城と同じで、頂部の主郭の周りに腰曲輪を廻らし、更に北尾根に段曲輪を築いている。こちらも主郭へ至る城道が、段曲輪側方に明確に残っている。『図解 近畿の城郭Ⅰ』によれば、この出城の周囲の斜面には畝状竪堀が穿たれているとされているが、かなり小さい竪堀のため、遺構かどうかはかなり微妙な感じである。
 以上が新庄城の遺構で、頑張って藪漕ぎをした割にはあまりパッとしない城だったのは残念である。
舌状曲輪後部の物見台→IMG_2589.JPG
IMG_2677.JPG←出城の畝状竪堀?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.103646/135.518911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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藁無城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2492.JPG←二ノ郭の崩落した石積み
 藁無城は、丹波守護代として勢威を振るった八木城主内藤氏の一族、船岡内藤氏の居城である。詳細な事績には不明点が多いが、『広瀬家文書』によれば、1559年夏、藁無城主内藤季有が杉崎大和守と共に黒井城主赤井氏を味方として桑田郡小川村で八木城主内藤宗勝と戦ったが、赤井氏が宗勝方に寝返ったため季有は敗れ、波々伯部光好が仲介して季有と大和守は宗勝と和睦したと伝えられる。1564年春には、小山の郷士某が藁無城主内藤安芸守季行が謀反を企てていると八木城の内藤和泉守に告げたため、城主宗勝は和泉守に兵350余名を従わせ藁無城を攻めたと言う。個人的な推測であるが、船岡内藤氏がこれほど内藤宗家に反抗的であったのは、おそらく宗勝が内藤氏とは縁もゆかりもない松永久秀の実弟で、宗家を乗っ取られたためであろう。

 藁無城は、林松寺背後の標高270m、比高130mの山上に築かれている。登山道は消失していおり、城に行くには斜面を直登するしかない。丹波守護代の一族にしては小規模かつ技巧性のない城で、最高所に小さな主郭、その南・東・北の三方を囲む二ノ郭、その北に土塁状の長い土橋で繋がった三ノ郭、その背後に2段に分かれた四ノ郭を配置した、基本的には連郭式の縄張りとなっている。二ノ郭南から東にかけては腰曲輪が廻らされ、長土橋の両側にも腰曲輪が広がっている。三ノ郭西側には大きな穴が開いているが、おそらく採石跡であろう。二ノ郭切岸には部分的に石積みらしいものが見られるが、自然石が多く、ほとんど崩落している。採石の山となっていたせいで、石垣の石が持ち出されてしまった可能性もある。いずれの曲輪もわずかな段差だけで区画されており、堀切は四ノ郭後部の北尾根を分断する部分に、比較的小規模なものが穿たれているに過ぎない。正直言って、技巧性に乏しい並の山城の類で、苦労して直登するほどの価値はない様に感じた。
 尚、山麓の林松寺は、平時の城主居館があった場所との言い伝えがあり、ここには立派な石垣がある。
四ノ郭背後の堀切→IMG_2524.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.136853/135.481982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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塩貝城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2463.JPG←前面堀切から落ちる二重竪堀
 塩貝城は、大戸城とも呼ばれ、この地の国人領主塩貝将監の居城である。塩貝氏については、晴政・晴道父子の名が知られ、いずれも将監を称した。晴道は、八上城主波多野秀治に忠節を尽くし、1579年に明智光秀に塩貝城を攻め落とされたと言う。

 塩貝城は、標高310m、比高120mの山上に築かれている。北西麓から登り道が整備されており、所々に表示があるのでわかりやすい。標高280mの尾根まで辿り着くと、出曲輪である鍛冶屋敷と、本城との分岐点に至る。鍛冶屋敷は低土塁で囲まれた単郭の出城で、北側に張り出しを設け、東側に形の整った枡形虎口を築いている。鍛冶屋敷と本城の間の尾根中間部には、土橋の架かった堀切が1本穿たれている。本城は、前面に2本の堀切を段状に築いており、内側の堀切は側方に竪堀が長く落ち、特に西側では二重竪堀に分岐して落としている。東側は更に数本の竪堀を落として畝状竪堀としている。従って、本城前面の防御線はかなり重厚である。本城は頂部の主郭とその手前の二ノ郭を主体とし、更に西側に数段の腰曲輪を築いている。最下段の腰曲輪は、北端に縦土塁を築き、そこから前述の二重竪堀に対して横矢を掛けている。またこの腰曲輪の南端は竪堀で遮断している。二ノ郭は東側斜面に畝状竪堀が穿たれているため、塁線も竪堀で削られ、ウネウネしている。主郭は綺麗に削平されているが土塁は築かれていない。背後には堀切が穿たれているが、この堀切は整形が甘く、前面の普請に注力した結果、力尽きた様な感じである。南東の尾根をやや降ったところにも堀切が穿たれて、城域が終わっている。いかにも地方の小土豪の城という感じの小城砦であるが、前面防御に集中した一点豪華主義の城である。
鍛冶屋敷の枡形虎口→IMG_2375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.187883/135.473614/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中村城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2247.JPG←放射状の竪堀
 中村城は、この地の国人領主で島城主川勝氏の支城である。詳細は不明であるが、川勝兵衛大輔氏隆が城主だったと伝えられている。

 中村城は、島城と谷戸を挟んでそびえる標高290m、比高100mの山上に築かれている。城へは、西麓の民家裏の小道を進み、東へ谷とへ登っていくと歓楽寺跡の平場があり、そこから南の斜面を直登すれば到達できる。主郭を中心に、北・南・西の三方の尾根に曲輪を配している。『図解 近畿の城郭Ⅲ』の縄張図の呼称に従うと、北尾根にⅢ郭・Ⅳ郭、南尾根にⅡ郭、西尾根にⅤ郭を置いている。いずれの曲輪も外周の切岸がしっかり構築されていて、下の斜面から見ると、塁線がそびえている。Ⅳ郭は上下Ⅱ段に分かれており、下段は中央が窪地となった緩やかな斜度を持った曲輪である。北から東の斜面には放射状に竪堀を落としている。4郭上段は削平が綺麗にされているが、その上のⅢ郭とされる部分は自然地形に近い斜面である。主郭へは前面の切岸の左方に進むと虎口がある。主郭内は綺麗に削平されているが、塚状のものと井戸跡と堀状溝が残っている。井戸跡と溝には現在でも水が溜まっている。溝は井戸と繋がっているので、水路として使われたのかもしれない。主郭と南のⅡ郭とはわずかな段差で区切られているだけだが、東辺近くは段差のない城道となっていて、側方に低土塁を伴っている。主郭の西には『近畿の城郭』に呼称が付いていない西郭があり、そこから尾根を降るとⅤ郭がある。Ⅴ郭の西の斜面にも竪堀が何本か穿たれているが、Ⅳ郭周囲よりも不鮮明である。あまり技巧性はないが、少々風変わりな縄張りの城である。
主郭の井戸・溝跡→IMG_2288.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.278742/135.558586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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日置谷城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2172.JPG←圧巻の畝状竪堀
 日置谷(へきたに)城は、歴史不詳の城である。上林川を挟んで南側には上林氏の居城であった上林城が向かい合っているが、日置谷城との関係は不明である。日置谷城はその技巧的な縄張りから織豊系の陣城と推測されており、『図解 近畿の城郭Ⅰ』では明智光秀に協力した上林氏が、織豊勢力の影響を受けながら構築した城との見解を載せている。

 日置谷城は、上林川北岸の比高100m程の山上に築かれている。東麓に上林禅寺があり、その背後から尾根筋に登り、尾根を西にたどると城に至る。大きく2つの城域に分かれ、標高220mの中間のピーク上に出城があり、西の標高240mの大きなピークが主城となっている。出城は単純な構造で、削平の甘い頂部の平場と北端の土橋の架かった堀切から成っている。
 圧巻なのが主城である。山頂に主郭を置き、西側に土塁の囲郭、南側に3段の曲輪群(ここでは上段郭・中段郭・下段郭と称する)を築いている。南の3段曲輪の東側には横堀が穿たれ、横矢掛かりのクランクを設け、上部で直角に曲がって東斜面へ竪堀となって落ちている。横堀の南端も竪堀となって落ちている。下段郭の付け根に虎口があり、おそらくこの横堀上に木橋を渡していたのだろう。横矢はこの木橋に対する防御と推測される。中段郭・下段郭はいずれも両翼を土塁で防御し、東側は前述の横堀で防御し、西側には畝状竪堀を設けている。ここの畝状竪堀は珍しい形で、一番下のものは下段郭側方の横堀を兼ね、上部でV字に分岐している。またその横の竪堀は逆U字形で初めて見る形状である。下段郭の下部中央には坂虎口、南西端には2本の竪堀で側方防御した桝形虎口が築かれている。上段郭は主郭の南面から東面に広がり、横堀沿いに土塁を設け、横堀直角部に土橋を架けている。東斜面には横堀から落ちる竪堀と連携させて計4本の畝状竪堀を穿っている。主郭はL字型の城内最大の曲輪で、全周を土塁で囲まれ、南東に隅櫓台を設け、その側方に上段郭から登る坂虎口を築いている。北尾根には2本の堀切を穿って分断している。主郭西斜面は内側に湾曲しているが、ここに合計11本もの畝状竪堀が構築されている。湾曲した斜面におびただしい数の竪堀が連なって落ちている様は壮観である。主郭の西側には西の囲郭と連携した二重桝形虎口が構築され、この虎口側方も畝状竪堀で防御している。この他にも2ヶ所の虎口っぽい窪みが主郭に見られ、複数の虎口を分散配置している様である。以上の様に、日置谷城は丹波地域の山城の中では、虎口構造に厳重な枡形を用い、横矢掛かりの横堀など相当に発達した縄張りを有しており、各地に割拠した小土豪の城とは明らかに一線を画している。小さい城ではあるが、丹波では最高峰の城の一つであろう。
主郭の隅櫓台と東虎口→IMG_2123.JPG
IMG_2185.JPG←畝状竪堀
主郭西側の二重桝形虎口→IMG_2196.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.366717/135.405958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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梨子ヶ岡城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1939.JPG←東斜面の畝状竪堀
 梨子ヶ岡城は、歴史不詳の城である。城主は坂田氏と伝えられるがその事績は不明で、周辺にはこの地域の国人領主である渡辺氏の沼ヶ谷城・赤道城があることから、梨子ヶ岡城も渡辺氏の勢力下にあった城であった可能性がある。

 梨子ヶ岡城は、県道1号線から南にやや奥まった上林川沿いの比高80m程の山稜先端のピーク上に築かれている。北麓の玉泉寺裏から適当な斜面を直登すると城に到達する。多重堀切と畝状竪堀を多用した城で、その技巧的縄張りには眼を見張らされる。山頂に主郭を置き、主郭の西から北にかけて一段低く腰曲輪を廻らし、前面(北面)に狭い二ノ郭を置いている。二ノ郭の前面には中規模の堀切が穿たれ、その前面は物見台となっている。主郭の背後の南尾根には三重堀切が穿たれて、背後を分断している。主郭の東面と西面には畝状竪堀が穿たれており、西側のものは小さくわかりにくいが、東側のものはしっかりと穿たれており、壮観である。前述の堀切・三重堀切からはいずれも竪堀が長く落ち、畝状竪堀の一部となっている。また主郭西側には張り出した堡塁があり、その先の西尾根には二重堀切が穿たれている。梨子ヶ岡城は、規模の小さい小城砦であるが、これだけ徹底して防御が固められているのは、少数の兵力で城を守りきるための工夫だろう。見応えがあって素晴らしい遺構である。
西尾根の二重堀切→IMG_2002.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326689/135.349996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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甲ヶ峯城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1804.JPG←城域入口の堀切・土橋
 甲ヶ峯城は、山家城とも呼ばれ、この地の豪族和久氏の居城である。1563年に和久左衛門佐義国によって築かれたとされる。和久氏は、戦国時代に天田郡(福知山)一帯を治めた横山城主塩見氏の一族で、塩見頼勝の4男長利が和久城に分封されて和久氏を称した。その後、戦国後期に丹波守護代内藤氏の命で、天田郡から何鹿郡に入部して甲ヶ峰城を築いたと言われている。しかし一方、和久氏の菩提寺とされる照福寺の寺伝では、1445年に和久氏の菩提寺として創建されたと伝えられており、時代が合わないので、今後考証の余地がある。1565年の和久郷合戦で、八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の弟)が黒井城主赤井直正と戦って大敗・討死すると、和久氏は赤井氏に服属した。明智光秀が丹波を平定すると、光秀に降ってその配下となり所領を保ったが、城破却の命に従わず1580年に滅ぼされた。尚、照福寺は、現在は国道27号線近くの丘陵地にあるが、往時は甲ヶ峯城の出曲輪として山上にあったと言われ、和久氏はこの出曲輪を「寺庵」と称して破却しなかったため、光秀の討伐を招いたと言う。

 甲ヶ峯城は、標高236mの山上に築かれている。西麓の伊也神社から登り道が整備されている。本城は、山上に段差だけで仕切られた主郭・二ノ郭を置き、その両側に腰曲輪を築き、前面に三角形状の三ノ郭、南の尾根に段曲輪群を配している。大手は南西の尾根で、城の入口には中央に土橋を架けた八の字形の堀切を穿って防衛し、三ノ郭から二ノ郭に至る城道側方にも2本の竪堀を穿って防御している。また主郭背後には堀切を穿って尾根筋を遮断している。この背後の尾根を北東に辿ると、砦もしくは物見らしい土壇があり、その北西の先に照福寺跡とされる出曲輪がある。出曲輪は背後に虎口を備え、東側に低土塁を築き、前面に曲輪群を築いており、いかにも城砦の造りである。遺構としては以上で、それほど規模は大きくなく、技巧性もあまり感じられない城であるが、藪が伐採されて整備されているので、曲輪の姿が綺麗でよくわかる。
主郭背後の堀切→IMG_1850.JPG
IMG_1867.JPG←出曲輪の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.302019/135.322080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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山家陣屋(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1733.JPG←切岸に残る石垣
 山家陣屋は、現地解説板などでは山家城と称され、近世山家藩の藩政を司った陣屋である。1582年に、谷出羽守衛友が羽柴(豊富)秀吉より1万6000石で山家に封じられて陣屋を構えた。衛友の父、大膳亮衛好は、織田信長に仕えて1576年の石山本願寺攻めで軍功を挙げ、家紋「揚羽蝶」を賜ったが、1579年の三木城の別所長治を攻めて討死した。衛友も父と共に参戦していたが、父討死の時その屍を奪い返し、仇を討ち、秀吉から感状と「五三の桐」の紋を受けて山家に所領を賜ったと言う。以後、移封されることなく幕末まで存続した。

 山家陣屋は、上林川東岸の段丘角部に築かれている。現在、城址公園として整備されている。さすがに1万石を超える石高の大名の陣屋だけあって、かなり広大な面積を持った陣屋である。しかも丹波という平地の少ない土地柄もあって、陣屋が築かれたのは街中の平地ではなく、急崖に囲まれた段丘辺縁部で、選地は中世城郭そのものである。陣屋の敷地内には井戸跡や石積みの段差が残り、曲輪辺縁部は一段低く帯曲輪状になっている。外周には横堀が穿たれ、切岸には一部石垣が残っている。北西辺には塁線に折れを設けて横矢を掛け、切岸下の西側の斜面は広い緩斜面となって、曲輪として機能していたと考えられる。予想外に良好な城郭遺構で、陣屋というより城の名が相応しい。
外周の横堀→IMG_1742.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.301371/135.317852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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高城城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1631.JPG←主郭背後の2本土橋の堀切
 高城城は、八田城とも言い、何鹿郡の国人領主大槻氏一族の城である。南北朝時代に大槻左馬頭清宗がこの地の地頭となって入部し、高城山上に高城城を築いたと言われている。大槻氏の事績はあまり明確ではないが、足利尊氏・直義兄弟が全国に建立した安国寺の寺役の職務を司ったと言われ、そうした室町幕府との結び付きがあったためか、室町時代を通じて何鹿郡の中北部に勢力を扶植し、高城大槻氏を始め、高津城栗城などに一族が蟠踞した。天正年間(1573~92年)の明智光秀による丹波平定では、大槻清秀は明智勢に攻められて自刃したと言う。1591年、清秀の子清勝は500石で豊臣秀次に仕え、1615年の大阪夏の陣で討死したと伝えられている。又、高城城は1406年に地震などで大破したと言う。

 高城城は、標高298.7m、比高210mの高城山に築かれている。現在ではほとんど人が入らない山らしく、登山道は東麓の久香寺からのもの以外は道がわからなくなっている様だ。東の登山道を使うと、途中神社やNTT基地局を経由する長い尾根の縦走をして、ようやく城域に達する。最初に眼前に現れるのが主郭背後の堀切で、ここには東掛城で見られたのと同じ2本土橋が架かっている。主郭は背後に低土塁を築いた城内で一番広い曲輪で、南西部に西尾根に連なる曲輪群に通じる城道が降っている。西尾根の曲輪群は切岸だけで連ねられた段曲輪群で、先端に当たる最下段の曲輪の側方に枡形虎口が築かれている。この他には北出曲輪と南出曲輪があり、北出曲輪には背後に土橋の架かった堀切が穿たれ、南出曲輪には側方に竪堀が穿たれている。これらに繋がる城内通路は比較的明瞭に残っている。遺構としては以上で、単純であまり面白みのない遺構である。藪も少々多めなので、写真映えもせずパッとしない城である。
最下段曲輪の枡形虎口→IMG_1660.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.348815/135.299442/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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嶋間城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1597.JPG←虎口郭周囲の竪堀群
 嶋間城は、高城城の支城と言われている。城主は大槻備中守であったと伝えられるが、その事績は不明である。
 嶋間城は、高城城が築かれた高城山の南西麓の比高20m程の小丘陵に築かれている。南に主郭、北に二ノ郭があったが、二ノ郭は児童センターの建設で採土されて消滅している(全国どこの地域でも、こうした文化・教育施設等を作るために貴重な遺跡(城跡)を破壊している例が多数あるが、何とかならないのか?!)。主郭部は、北端の櫓台は消滅しているが、それ以外の部分の遺構はほぼ完存している。主郭の北面から西面にかけて横堀が穿たれているが、北面は消失しており、西面の小さな横堀が残っている。主郭の南西は塁線が内側に凹んでおり、その下方にほぼ方形の虎口郭が築かれている。この虎口郭の北側の付け根には、西に向かって竪堀状の虎口が築かれていて、下方の横堀に接続している。このことから、横堀が城内通路を兼ねていたことがわかる。またこの虎口郭周囲と、その下方の斜面には数本の竪堀が穿たれている。しかし竪堀は、一部を除き非常に小さい溝状である。この他、主郭にはわずかに土塁が残り、東麓からの登り道脇にも竪堀が見られる。一部破壊されつつも残存遺構は良好だが、規模の小さな小城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.344159/135.291567/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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丸山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1481.JPG←主郭背後の堀切
 丸山城は、この地の国人領主大槻氏の支城である。栗城主の弟大槻山城守遂重が城主であったが、1571年に織田信長方の軍勢によって落城し、その後は帰農したと言う。
 丸山城は、谷戸に面した比高30m程の丘陵上に築かれている。丘陵頂部に主郭を置き、その東面から南面にかけて、数段の腰曲輪を廻らし、主郭後部を低土塁と堀切で分断しただけの簡素な構造の小城砦である。主郭の東端に坂虎口が築かれて腰曲輪へ通じている。腰曲輪は南東部で馬蹄形に広がっているが、その他の部分では帯曲輪状である。曲輪の削平や土塁・堀切の普請はしっかりしており、小さい城ながら見応えがあって興味深い。
南東に広がる腰曲輪群→IMG_1498.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.332624/135.226851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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物部城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1330.JPG←主郭の大型の櫓台
 物部城は、一時期丹波守護代となって強勢を誇った上原氏の居城である。上原氏は、信濃諏訪神党の一族上原成政が1193年に物部郷の地頭として入部したことに始まるとされる。最初は高屋山に城を築いたが、後に物部城を築いて居城を移した。戦国時代初期には、上原豊前守元秀は管領細川政元の重臣として重用され、丹波守護細川氏の下で八木城主内藤氏に代わり丹波守護代となった。しかし元秀は国内で横暴な政策を強行した為、1489年、これに抵抗した丹波国人衆の位田氏・荻野氏・大槻氏・須知氏らが反乱を起こして位田城に立て籠もり、位田の乱が発生した。この丹波国人一揆に対して、守護方は丹波・但馬・摂津など13ヶ国の大軍を動員して攻め寄せたが、一揆勢の守りは固く、一年間にわたって抗戦を続けた。そして1490年、一旦は一揆勢は城に火を放って自落したが、翌年には一揆勢が再起して位田城など7つの城を占拠して反乱を続け、結局乱が鎮圧されたのは1492年の位田城陥落の時であった。その後も上原氏の勢威は続き、1493年、明応の政変における将軍廃立でも重要な役割を担った。これらの大功によって上原氏は増長し、被官共々驕慢な振る舞いが多く、刃傷沙汰を起こして元秀が死ぬなどして勢力を弱めた。そして1571年、上原右衛門少輔の時、黒井城主赤井直正に攻められて物部城は落城した。

 物部城は、犀川とその支流に挟まれた比高35m程の独立丘陵に築かれている。丘陵南東端に物部神社があり、その参道から登ることができる。南東から順に五ノ郭・二ノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭と直線的に並べた連郭式を基本とし、東西の斜面に1~2段の腰曲輪を築いた縄張りとなっている。前述の物部神社があるのが五ノ郭である。そこから横堀状の通路を登っていくと、奥の右手に二ノ郭虎口があるが、反対側には動線制約の大竪堀が穿たれている。まずこの竪堀の規模が大きいのにビックリする。二ノ郭と主郭はわずかな切岸だけで区画され、主郭前面には天守台とも考えられる大型の櫓台が築かれている。主郭は丘陵中央の最高所にあり、背面にも大きな土塁を築いている。この土塁の西側側方に搦手虎口があり、北の三ノ郭に通じる城道が伸びている。また東側には斜面を迂回する武者走りも残っている。主郭と三ノ郭は大きな切岸で区画されている。西側の腰曲輪は複雑な構造で、櫓台を備えた虎口があって、下方に城道が伸びている。三ノ郭の先端にも土塁が築かれ、東斜面には畝状竪堀が穿たれている。三ノ郭と四ノ郭も大きな切岸で区画され、四ノ郭東側には櫓台が築かれている。四ノ郭の先端は数段の帯曲輪となって終わっている。これらの主要な曲輪間の動線には、西側の腰曲輪群が使われており、要所には横矢掛かりが多数散見される。四ノ郭付近だけは竹薮で踏査が大変だが、それ以外は比較的藪が少なく遺構の確認がし易い。低丘陵の単純な形の城なので、全然期待していなかったが、堀切こそ無いものの要所にかなり技巧的な遺構が確認でき、さすがは一時期強勢を誇った守護代の城だと感心させられた。
二ノ郭虎口脇の大竪堀→IMG_1309.JPG
IMG_1404.JPG←三ノ郭側方の畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.357022/135.218825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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下舘城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1288.JPG←天守台跡の土壇
 下舘城は、豊臣秀吉の家臣石川備後守貞通の城である。貞通は、秀吉の毛利攻めの頃からその幕下に仕えたとされ、1591年、丹波国天田郡2千石余を加増された。しかし秀吉の死後の1600年、関ヶ原合戦において西軍に属して丹後田辺城攻撃に参加したため、戦後改易された。尚、東の丘陵上にある舘城も貞通の城と伝えられ、地元では本城の舘城に対して下舘城は出城であったと伝えられているらしい。
 下舘城は、犀川東岸の舘町地区の西端に位置している。宅地化・耕地化で遺構はほとんど湮滅しているが、わずかに天守台跡と伝承される土壇のみが残存している。またこの土壇の裏はわずかな低地になっており、堀跡であったと推測される。それら以外は、往時の姿は見る影も無いが、現状から推測すると城というほどの規模ではないので、方形の居館か陣屋であったものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326934/135.213268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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甲ヶ岳城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1207.JPG←三ノ郭の土橋と堀切
 甲ヶ岳城は、鴻ヶ嶽城とも記載され、丹波守護代内藤氏が築いた城と言われている。1564年、丹波守護代の八木城主内藤備前守宗勝は、福知山盆地進出の拠点として、一族の内藤正綱に命じて甲ヶ岳城を築かせたと言う。1576年、内藤氏は高津城栗城の大槻氏を攻めたと言われ、その際に甲ヶ岳城は前進基地として大きな役割を果たしたと思われる。1579年、明智光秀が八木城を攻め落とすと、内藤正勝は再起を期して甲ヶ岳城に逃れたが、遂に討死にして甲ヶ岳城も廃城になったと言う。以上が現地解説板などに語られる一般的な伝承であるが、一方、元々この付近は高津城を本城とした大槻氏の支配領域で、安場から観音寺の間に大槻安芸守辰高が城を多数築き、大槻左京亮倫高の代に落城したとされ、甲ヶ岳城もこうした大槻氏の支城群の一つであった可能性も捨てきれない。

 甲ヶ岳城は、標高289.8mの甲ヶ岳山頂に築かれている。北東から尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭・五ノ郭とここでは呼称する。三角点があるのが四ノ郭で、ほとんどが藪に覆われ、緩斜面上に段々に平場群を築いている。南斜面には竪堀が数本穿たれている。四ノ郭からやや幅広の堀切を介して三ノ郭に至る。この堀切には北端に土橋が架かり、南端には堀内障壁がわずかに見られ、三ノ郭側には土塁が築かれている。三ノ郭と主郭の間も堀切で分断されている。主郭は、前面に虎口郭を設け、主郭に登るようになっているが、単純な坂虎口で馬出しという程の機能性はない。主郭には秋葉神社が建っている。主郭後部には低土塁が築かれ、その裏に二ノ郭がある。二ノ郭の南西角には枡形虎口があるが、藪でわかりにくい。二ノ郭の先が五ノ郭で、一面藪に覆われている。この他に、城への登り道の途中にも竪堀が穿たれており、登城道を防衛していたと考えられる。遺構は比較的よく残っているが、あまり技巧性は感じられず、特に四ノ郭や五ノ郭は辺縁部が自然地形に近くなってしまっており、普請も少々荒い感じである。その中では2本の堀切だけが異彩を放っている。
 尚、甲ヶ岳の東と北西の支尾根には茶薄山城・野山砦があり、甲ヶ岳城の出城であったと考えられている。
登山道途中の竪堀→IMG_1166.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.296835/135.222559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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茶薄山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1136.JPG←腰曲輪に囲まれた主郭
 茶薄山城は、甲ヶ岳城の出城と考えられる。伊藤伊織が城主であったと伝えられるが、その他の歴史は不明である。
 茶薄山城は、甲ヶ岳の北東尾根先端の比高110m程のピーク上に築かれている。甲ヶ岳城への登山道が尾根に至ると、そのすぐ左手(東側)が城域である。登山道が尾根に至る部分も実は登山道自体が堀切道で、尾根上には土橋が架かっている。主郭はまるで古墳の様な高台になっており、周囲に腰曲輪を廻らしている。わずかな段差で何段かの平場に分かれ、更に東には低い位置に平場が広がっているが、この辺りは藪が酷く判然としない。この下段の平場の付け根には竪堀が穿たれているようである。茶薄山城は、出城の位置付け通り、簡素な構造の小城砦である。登山道のすぐ脇になければ、わざわざ見に行くほどの遺構ではない様に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.299444/135.229490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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石原城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1107.JPG←土塁と空堀
 石原(いさ)城は、高津城主大槻氏の一族の城である。天文年間(1532~55年)に、大槻安芸守政治によって築かれたと伝えられている。政治は、後に隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、死後長らく廃墟となっていたが、石原の僧華翁が寺を造って、政治の法名にちなんで洞玄寺と名付けたと言う。
 石原城は、前述の通り洞玄寺の境内となっている。比高10m程の台地辺縁部にあり、寺の周囲に土塁と空堀が残っている。特に南辺の土塁には横矢の張出し櫓台が築かれている。規模・構造から考えれば、国人領主一族の居館と言った趣で、一部破壊を受けて改変されているものの、往時の雰囲気はよく感じられる。
 尚、南東の山稜上にはヌクモ山城があり、「上城」と称されていたと言われ、石原城の有事の際の詰城であった可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.298411/135.177906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鬼ヶ城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0950.JPG←山上の曲輪群
 鬼ヶ城は、明智光秀の丹波平定に頑強に抵抗した国人衆が立て籠もった城と伝えられている。1575年、明智光秀は織田信長の命により丹波に入ると、口丹波亀山城主内藤忠行は、光秀の入部を祝し、忠行の主従は光秀に従った。そして各地の土豪は光秀に降る者と、徹底抗戦する者とに分かれ、久下・中沢・並河・釈迦牟尼仏(にくるべ)・河田らの各氏は退いて、鬼ヶ城・高見城に拠って抵抗を続けたと言う。その後、光秀の丹波攻略に抵抗していたのは、八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏となったが、赤井直正の弟幸家は、安芸毛利氏の一族吉川元春と通じてその来援を請い、元春来援の際の本陣とするため、鬼ヶ城に砦を築いたと言う。しかし元春の来援がないまま丹波は平定され、鬼ヶ城も光秀の陥れるところとなった。『信長公記』によれば、1579年7月に明智光秀が鬼ヶ城を攻めて近在に放火し、付城を築いたとあると言う。

 鬼ヶ城は、標高544mの峻険な山上に築かれている。東麓の観音寺から登山道が整備されている。登頂比高は340mもあるので登るのは一苦労だが、山頂からは360度の大パノラマで、疲れは吹き飛んでしまう。遺構も見事で、峻険な山城なので小さい城だと思っていたが、普請はかなり大規模である。『図解 近畿の城郭Ⅰ』所収の縄張図は、なぜか大手の曲輪群や北東尾根の曲輪群が抜けてしまっているが、実際はそれらも遺構であることは明白で、従って実際の城域はもっと広いのである。登山道を登り南尾根に至ると、その北側に平場群と明確な虎口が見られ、ここから城域に入る。この大手郭の坂虎口は両側に櫓台を設けており、黒井城東出丸の虎口に酷似している。この大手郭の東にも段曲輪が3段ほど築かれている。更に登ると側方に石垣の残った虎口を設けた曲輪に至る。この上に城の中心部がある。頂部に主郭があり、南東斜面に沿って3段の腰曲輪が設けられ、ここにも石垣の跡が見られる。この腰曲輪から西に向かって武者走りが伸び、南西の腰曲輪を経由して、北尾根の曲輪群に繋がっている。北尾根曲輪群は南北に長い曲輪を連ねており、山上の主郭部が狭く居住性がないのに対して、そこそこの広さがあり、城兵の居住区になっていたと考えられる。この他にも前述の通り、主郭の北東尾根に連なる曲輪群があり、この東郭群は全部で9段もの馬蹄段が築かれている。鬼ヶ城は、福知山市街全域を一望できる要地にあり、しかも予想以上に規模の大きな遺構群で、赤井氏が光秀に抵抗するために構築したという伝承も十分説得力がある。山上の眺望も素晴らしく、苦労して登る価値は十分ある。
大手郭の虎口→IMG_0901.JPG
IMG_1057.JPG←東郭群の馬蹄段
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341481/135.142307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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