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深沢城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1817.JPG←外郭から見た主郭
 深沢城は、神梅城とも言い、この地の土豪阿久沢氏の居城である。阿久沢氏は、黒川谷の郷士の旗頭的存在で、室町中期頃迄は阿久沢氏らの黒川郷士は独立した武士団となっていたらしい。しかし桐生氏が黒川谷に進出すると桐生氏に服属し、桐生氏が滅亡すると、金山城の由良氏の勢力下に入った。この頃由良氏は小田原北条方で、越相同盟が破れたため、1574年には深沢城は上杉謙信の攻撃を受けて攻略されている。その後、謙信の急死と御館の乱による上杉勢力の減退により、深沢城は再び由良国繁に服属した。しかし1584年、由良氏が北条氏から離反し、それを契機に佐竹・宇都宮両氏を主軸とする北関東連合軍と北条の大軍が下野国沼尻で110日間に渡って対峙した時には、北条氏は阿久沢氏を調略して敵勢の切り崩しを図り、阿久沢氏ら在地衆に命じて五覧田城を攻略した。その際北条氏直は深沢城主阿久沢彦二郎の戦功を賞し、腹巻・甲・刀など破格の褒美を与え、北条氏照は彦二郎に五覧田城の普請を命じている。その後、沼尻合戦が勝敗を決しないまま終結した後、由良氏は北条方の拠点となっていた深沢城を攻撃したが、阿久沢能登守直崇らは激戦の末にこれを撃退した。1590年に北条氏が滅亡すると、阿久沢氏は帰農し、深沢城は廃城となった。

 深沢城は、渡良瀬川西岸の台地上に築かれている。この台地は、比高110m程あり、そこに広やかな緩斜面が広がっており、城集落がある。深沢城は、城集落南の崖端に位置している。地勢上、主郭が外郭より低い位置にある穴城形式となっている。断崖上の南西端に方形の主郭が置かれ、北西角部のみわずかな土塁が築かれ小祠が祀られている。主郭の北と東は大きな空堀が穿たれている。主郭の東には二ノ郭があり、大きな平場となっている。二ノ郭の東側にも自然地形を利用した大きな空堀が穿たれているが、北側は堀が続いていない。二ノ郭の東から主郭北側にかけては外郭で、そこには正円寺の境内も含まれる。正円寺の北から東にも土塁と空堀が築かれている。この他、主郭の西と南、二ノ郭の南にかけては腰曲輪が廻らされている。更に西の斜面にも腰曲輪らしい平場が見られる。更に南西には「登城」と呼ばれる細尾根があり、小郭と堀切2本が確認できるが、曲輪の幅が狭く、土橋程度の遺構で、その名の通り登城道の一つとして機能していたものかもしれない。尚、正円寺には阿久沢氏の墓が残っている。
ニノ郭から見た南腰曲輪→IMG_1867.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.484417/139.254327/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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谷山城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1788.JPG←低土塁のある主郭
 谷山(やつやま)城は、桐生親綱に攻められた仁田山城主里見勝広が自害した城と伝えられる。『日本城郭大系』によれば、元々この地の土豪谷氏の城で、谷直綱は1335年の中先代の乱の時に最後の得宗北条高時の遺児時行に属したとされ、数代後の近綱は享徳の乱の際に上杉勢の本陣であった武州五十子に参陣し、討死したと言う。以後、谷氏は桐生に移り、その跡地は二階堂氏の所領となり、その家臣里見家連が城を守ったが、1574年に上杉謙信に攻撃され、家連は討死し、その子河内は逃れて里見の古城に拠ったと伝えられるというが、この伝承は「はなはだ疑わしい」としている。
 しかし谷山城の歴史には不明な部分もあり、黒田基樹著『戦国北条氏五代』では、北へと勢力を伸ばす小田原北条氏に対して、越山した上杉謙信が1575年10月、沼田衆が守る桐生領仁田山城に対する向城として金山城主由良氏が築いた「谷山城」を攻略したと記載している。この間、どの様な変遷で仁田山城に沼田衆が入り、それと対峙するようになったのかは、よくわからない。

 谷山城は、標高449.2mの峻険な雷電山に築かれている。城へ行くには、鍾乳洞公園から南に伸びる林道を使っていくのが、最も手っ取り早い。但し、途中で道が荒れるので、そこからは車を降りて歩き、取り付きやすそうなところから西の尾根に登り、後はひたすら傾斜のきつい尾根を登っていくしかない。ちなみに西尾根の鞍部には古い峠道と思われる切り通しがある。谷山城は急峻な山上の小砦で、山頂に三角形をした主郭が築かれている。周囲に低土塁を築いた曲輪で、中央には土壇があって雷電神社の祠が祀られている。南には帯曲輪が2段築かれ、南尾根の遥か下方に出丸らしきものがあり、手前に堀切もあるが、これも昔の峠道の切り通しの様に見える。出丸は自然地形も多く、形状がはっきりしない。谷山城は、遺構を見る限り臨時に取り立てた城の様に思われ、仁田山城に対する向城として由良氏が築いたというのが実情の様に思われる。
南尾根の堀切→IMG_1798.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.460398/139.310095/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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高津戸城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1689.JPG←二ノ郭群外周の横堀
 高津戸城は、山田七郎平吉之の後裔の山田氏の居城であったとされる。しかし1351年、山田則之が城主の時に桐生城主桐生国綱によって滅ぼされたと言われる。1371年に、新田氏の一族里見氏の7代義連の3男氏連が桐生国綱の娘婿となり、その縁で仁田山八郷を国綱から任された。氏連から4代後の宗連は上杉謙信に攻められて自刃した。安房里見氏の一族と言われる里見勝広(上総入道)は、仁田山城の同族宗連の元に身を寄せていたが、宗連の死後は桐生助綱に客将として迎えられ、厚い信任を受けて仁田山城主となった。助綱の後を継いだ親綱は、失政が多く家中は乱れ、諫言した勝広を讒言によって自刃させた。勝広の二子、随見勝政と平四郎勝安の里見兄弟は、上杉謙信の助力を得て高津戸城を再興し、父の敵である石原石見守を討とうとしたが、石原氏に助勢した由良国繁に高津戸城を攻撃され、敗れて1578年9月に兄弟共に滅亡したと言う。但し、これらの伝承には不可解な点も多く、里見兄弟の墓と称される五輪塔も、形式的には鎌倉~南北朝時代のものとされ、時代が一致しないと言う。

 高津戸城は、渡良瀬川東岸に張り出した標高270mの要害山に築かれている。城内は公園化され、主郭には要害神社が建っているので一部改変を受けているが、遺構は全体によく残っている。城域は大きく3つに分かれ、山頂の主郭を中心に腰曲輪を廻らした主郭群、その南に扇状に展開する二ノ郭群、南の舌状尾根に広がる三ノ郭群がある。車で登った先の駐車場は三ノ郭群の付け根で、かつては2本の堀切があったらしいが、現在は改変されて湮滅している。しかし東斜面には段々に平場が広がっており、公園化による改変もあるものの、角張った塁線も散見され、往時の曲輪群の遺構と考えられる。二ノ郭群は最下段に円弧状に横堀を穿って三ノ郭群と分断し、南西と東の横堀を越えて入った所に桝形虎口を築いている。主郭群は改変が多いが、切岸が明瞭で、坂虎口らしい跡も確認できる。主郭の西に2~3段の段曲輪があり、北東尾根にも曲輪群が並び、北東尾根は3本の堀切で分断されている。この内、内側の1本目の堀切は、そのまま腰曲輪と連結しており、主郭の東下方を抜けて二ノ郭群に通じている。遺構は以上の通りで、技巧性は少ないものの普請はしっかりしており、戦国後期に拠点的城郭として利用されたことが伺われる。
北東尾根の堀切→IMG_1699.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.438305/139.281235/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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仁田山城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1604.JPG←三ノ郭背後の堀切
 仁田山城は、里見氏が一時期城主であったとされる城である。元は南北朝期にこの地を領した山田氏が築いたが、1351年に筑後守則之がこの城で桐生城主桐生国綱に攻め滅ぼされたと伝えられている。室町中期には、二階堂氏が仁田山郷を与えられ、その家臣里見蔵人家連が城主となった。 桐生氏の最盛期を築いた桐生助綱は、仁田山城の里見上総入道を客将として遇し厚く信任していたが、助綱の養子の親綱の代になると、失政により桐生家中は乱れ、里見氏も讒言によって攻撃され、谷山城で自刃に追い込まれたと言う。
 しかし仁田山城の歴史には不明な部分もあり、黒田基樹著『戦国北条氏五代』では、北へと勢力を伸ばす小田原北条氏に対して、越山した上杉謙信が1575年10月、沼田衆が守る桐生領仁田山城に対する向城として金山城主由良氏が築いた谷山城を攻略したと記載している。この間、どの様な変遷で仁田山城に沼田衆が入るようになったのかは、よくわからない。

 仁田山城は、標高505mの石尊山に築かれた山城である。あまり意識していなかったが何気に高い山で、麓からの比高は265mもある。尾根筋に築かれた曲輪群を堀切で分断した、連郭式の細尾根の城で、主郭・二ノ郭・三ノ郭の背後にそれぞれ堀切が穿たれている。二ノ郭には小さな土壇があるが、物見台であろうか?三ノ郭の前面には堀切に沿って低土塁が築かれている。主郭前面の大手筋には多数の段曲輪群が築かれ、いくつもの祠や不動明王像が立っている。城のある尾根の背後の標高510mのピークの西の尾根には遠堀とされる小堀切があるが、これは向城の谷山城に対する備えであろうか?この他、登り口近くに緩斜面の平場があり、蔵等があった可能性がある。尚、登山道の案内も出ているは助かるが、入口付近のがさ藪はマダニの巣窟らしく、降りてきてから車に乗る前に確認したら、ズボンに10匹近くもマダニがくっついていた!ここに登る時は注意しましょう。
大手の段曲輪群→IMG_1560.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465938/139.323850/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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桐生城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1361.JPG←南郭群の大竪堀
 桐生城は、柄杓山城とも言い、この地の豪族桐生氏の歴代の居城である。桐生氏は、渡良瀬川流域の諸豪に多く見られるのと同じく、秀郷流藤原氏の後裔である。その動向が明確になるのは南北朝時代からで、1350年に桐生国綱が桐生城を築いたと伝えられる。国綱は、家臣の谷直綱に命じて高津戸城主山田則之を滅ぼし、高津戸を支配下に置くなど、桐生氏発展の基礎を築いた。その後、この地を拠点に勢力を保ち、享徳の乱では上杉方として活躍した。その後、助綱が当主の時、周囲に勢力を拡大して最盛期を迎え、1560年に上杉謙信が関東に出馬すると、その元に参じた。助綱の死後は、同族の佐野氏から入嗣した親綱が後を継いだが、失政が多く家中は乱れ、民心が離反した。助綱が迎えた客将で厚い信任を受けていた仁田山城主の里見上総入道は親綱に諫言したが、返って讒言によって自害を命ぜられ、家中は益々乱れた。この事態を見た由良成繁は、1572年桐生城を攻撃して攻め落とし、親綱は実家の佐野へ逃れた。その後桐生城は由良氏の支城となり、1574年、成繁は金山城を嫡子国繁に譲り、自身は桐生城に移って善政を敷いた。1578年、成繁が没すると、桐生親綱は桐生城の奪還を計ったが失敗した。1582年に武田勝頼・織田信長が相次いで滅びると、北関東には小田原北条氏が大きく勢力を拡張し、由良国繁・足利長尾顕長兄弟も北条氏に屈し、国繁は北条氏の圧力により金山城を明け渡し、桐生城に退去した。1590年の小田原の役の際には、国繁は小田原城に籠城させられたが、その母妙印尼は嫡孫貞繁を伴って松井田陣の前田利家を訪れ、そのまま各地を転戦した。豊臣秀吉は、妙印尼の功を激賞し、国繁に常陸国牛久5千石、弟渡瀬繁詮に遠江国横須賀3万石を与えた。こうして由良氏が牛久城に移ると、桐生城は廃城となった。

 桐生城は、標高361.1m、比高220m程の城山に築かれている。公園として整備されており、登山道も整備されているので訪城は比較的楽である。私は城の北西まで伸びる林道を車で登り、車道の終点からハイキングコースを城まで歩いた。想像していたより普請の規模が大きい城で、主郭・ニノ郭・三ノ郭に穿たれた堀切はいずれも深さ3~4m程もある。東端から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭と並べた連郭式を基本とし、二ノ郭の北の支尾根に北郭群、三ノや郭の南の支尾根に南郭群を置いている。北郭群では堀切の他に桝形虎口や土塁囲郭が築かれている。南郭群では大竪堀や横堀が穿たれている。また主郭とニノ郭は、それぞれ後部に円弧状横堀を穿って備えを固めている。この他、主郭の東と南東の尾根に段曲輪群が築かれ、南東の尾根の下方には堀切・土橋の先に坂中郭という出曲輪がある。基本的に戦国後期のセオリー通りの整った縄張りを有しており、見応えがある。
主郭後部の円弧状横堀→IMG_1476.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.445331/139.358053/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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手臼山砦(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1319.JPG←主郭北側の浅い横堀
 手臼山砦は、彦部屋敷の背後にある物見の砦である。彦部屋敷の主・彦部氏は、足利尊氏の執事として室町幕府創業期に辣腕を振るった高師直で有名な高氏の庶流である。高氏は高階氏の出自で、源頼義の頃に清和源氏と姻戚関係を生じ、その後源氏の家臣となったらしい。後には下野国足利庄に下向した源義国に従って高惟貞も下野国に下り、源姓足利氏の重臣として活躍し、執事職を歴任することとなった。高氏は大高・南・彦部らの諸氏を輩出し、元弘の乱で足利尊氏が一族を引き連れて鎌倉を出陣した際には、足利一門32人に対して「高家の一類43人」とあり、主家足利氏を上回る人数になっていた(『太平記』第9巻)。この地の彦部氏は、伝承では1336年5月の摂津湊川の合戦で討死にした彦部光高を祖とする一族とされる。彦部氏ではこの他にも、観応の擾乱の際に1352年に武庫川で惨殺された高一族の中にも彦部七郎の名が見え、また2代将軍足利義詮に供奉した彦部秀光も知られ、室町期には幕府の奉公衆として京都で活動した様である。1561年、彦部信勝は、関東に下向した関白近衛前嗣に従って上野国に下り、近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まり、後に帰農した。

 手臼山砦は、彦部屋敷背後の標高190m、比高100m程の山上に築かれている。東麓の賀茂神社の脇から登山道が整備されている。但し、一応道はあるが砦の近くなど一部途絶に近い部分もあるので、注意を要する。物見と言うだけあって小規模な城砦で、頂部の主郭の他、数段の腰曲輪で構成されただけの簡素な造りである。主郭北側には浅い横堀が穿たれているのも確認できる。西尾根はなだらかな広い尾根であるが、自然地形で積極的に普請された形跡は見られない。あくまで山上の小城砦だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.372058/139.346015/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/07/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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発知城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0978.JPG←発知城址の桜
 発知城は、発知館とも言い、沼田氏の庶流発知氏の居城である。沼田景盛の子、発知三郎景宗が文永年間(1264~74年)頃に築いたとされる。その後の発知氏の事績は不明であるが、後に上川田城に移ったらしい。また発知氏は、その後7代続き、1581年、発知四郎左衛門景朝の時に、真田昌幸に奪われた沼田城の奪還を目指した沼田平八郎景義の軍に参加したが、昌幸の謀略により景義は重臣の金子泰清に謀殺され、景朝も共に滅亡したと言う。

 発知城は、上発知地区にあるという以外その正確な場所も不明であるが、この地区に「発知城址の桜」と言われる桜の木がある。東に向かって開いた谷戸で、背後に山を控えており、畑になった何段かの平場群が見られる。相模・武蔵によく見られる鎌倉期の古い居館と同じ様な作りになっていた可能性がある。尚、東に流れる発知川に架かる小橋の名は「馬場橋」で、いかにもここに城館があったことを想起させる。
城址?の平場→IMG_0981.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.721136/139.061229/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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高王山城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0890.JPG←西の腰曲輪群
 高王山城は、戦国時代に発知氏が築城したと伝えられている。1581年には、沼田景義がここに本陣を構え、真田昌幸に奪われた沼田城の奪還を図ったと伝えられる。しかし返って昌幸の謀略により、景義は重臣の金子泰清に謀殺され、沼田氏は滅亡した。

 高王山城は、標高766mの高王山に築かれている。未舗装の林道が南中腹まで伸びており、駐車スペースもあり、そこから登山道も整備されている。山頂に三角点のある主郭を置き、北に馬蹄段状に二ノ郭、三ノ郭を配置している。また主郭西側にはやや広い腰曲輪が数段築かれている。またそれらの下方には長い帯曲輪が延々と築かれ、ほぼ半周している。西斜面には更に帯曲輪が築かれている。一方、主郭の南東は虎口があったらしく、尾根上に小郭が2段築かれ、あまり明瞭ではないが、堀切も穿たれている様だ。この他、スーパー地形を見たら、西最下段に帯曲輪があるのがわかり、これも西から南へと延々数100mも伸びていた。高王山城は、大きな城ではないが、普請はしっかりしており、西方への備えを厳重にしていたことが伺われる。
長い帯曲輪→IMG_0911.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.691599/139.051166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


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石倉城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0823.JPG←主郭背後の浅い堀切
 石倉城は、1478年に平井城主・関東管領上杉顕定が故郷の越後との中継地として清水街道沿いに築いた城と言われている。この頃越後では顕定の弟の越後守護上杉房能と守護代長尾為景との抗争が続き、1507年に房能は敗死した。1509年、弟を討たれた顕定は子の憲房と共に、白井沼田を落し、更に為景を越後に攻め、一旦は為景を越中へ追放した。しかし、1510年の長森原の戦いで高梨政盛に敗北した顕定は自刃し、石倉城も廃城となった。

 石倉城は、利根川西岸の2つの細流に挟まれた段丘上に築かれている。先端に主郭を置き、横矢の掛かった堀切を挟んで西に二ノ郭が広がっている。但し堀切は小さく、深さ1m程しかない。主郭側には低土塁が堀に沿って築かれている。主郭先端は東に細く伸び、やや傾斜して端部が断崖に面している。二ノ郭は大半が畑となっており、平場以外に明確な遺構は見られない。関東管領が築いたにしては随分とささやかな城で、元々土豪の城であったものを越後への中継拠点として利用しただけなのかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.746794/138.978724/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉顕定 (中世武士選書24)

上杉顕定 (中世武士選書24)

  • 作者: 森田真一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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味城山砦(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0704.JPG←南東の竪堀
 味城山砦は、見城の柵とも呼ばれ、小川城主小川可遊斎が鉢形城主北条氏邦の大軍に攻められた際、立て籠もって抵抗した城砦と伝えられている。その経緯については小川城の項に記載する。可遊斎は将兵を指揮して大いに奮戦したが、700mもの高山であったため、水や食料の補給が困難となり、結局越後へと落ち延びたという。

 味城山砦は、上越新幹線上毛高原駅の西にそびえる標高757.4m、比高307m程の味城山に築かれている。東麓から南東の尾根まで登道があり、そこから尾根筋を登れば城址に至る。平坦な山頂に、東西に4つの曲輪を連ね、周囲に帯曲輪群を廻らしている。4つの曲輪は堀切で区画されているが、堀切はいずれも浅くささやかなものである。南東の帯曲輪には明確な竪堀が落ちており、他の遺構がささやかなのと比べると異彩を放っている。この竪堀は南の支尾根からの斜面移動を防ぐためのものの様である。この南支尾根にも竪堀が数本穿たれ、先端に物見台が置かれていた様である。また北西に伸びる尾根にも遺構らしいものがあり、小堀切も見られる。その北斜面に何段かの腰曲輪の様な地形が見られるが、構造が崩れていて不明瞭である。味城山砦は、北条氏の攻撃に備えて急ごしらえで作った城らしく、あまり本格的な普請はされていない様である。
主郭の堀切→IMG_0718.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.692528/138.965957/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

北条氏康の家臣団 (歴史新書y)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2018/12/04
  • メディア: 新書


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権現山城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0560.JPG←主郭南側の横堀
 権現山城は、一説には榛名峠城と同一の城とも言われ、小田原北条氏が名胡桃城に対する境目の城として築いた城である。築城は1588年前後とされ、わずか3年足らずしか使われなかった短命の城である。猪俣能登守宛の北条氏政書状に「なくるミ(名胡桃城)へ矢たけの権現山取立儀」とあることから、権現山城が北条氏によって新規築城されたことが知られる。一方、これとは別に『榛名峠城法度』と呼ばれる文書が存在する。学術的には『猪俣邦憲判物』(林文書)と呼ばれ、1587年に鉢形城主北条氏邦の重臣である猪俣邦憲が榛名峠城の城将林治部左衛門に、榛名峠城における13ヶ条の法度を伝えた文書である。但し、これらの文書の年代推定の結果からすると、権現山城と榛名峠城は別に存在していた可能性があり、今後の検討を要する。また現在山上に残る遺構が権現山城と言われる城なのか、榛名峠城と言われる城なのか、まだ明確にはなっていないが、ここでは権現山城として記載する。

 権現山城は、標高840mの山上に築かれている。東西に連なり尾根がほぼ直角に南に折れ曲がる付近に築かれている。この南に折れた尾根の先は国道145号線の権現峠に至る。権現峠から林道が伸びているが、現在工事中で途中で進めなくなってしまうので、途中で車を乗り捨てて適当に尾根に取り付いて行くしか方法はない。この南尾根を登っていくと小堀切と土塁があり、ここから城域となる。尾根の高台の周囲に横堀状の腰曲輪が廻らされ、更に東にも腰曲輪らしい平場がある。北に進むと細尾根となり、主郭と思われる最高所はほとんど自然地形に近い。ここから前述の通り尾根は西に向きを変えて続くが、北側に腰曲輪、南側に横堀が穿たれている。この横堀は明確で、規模は異なるが御坂城と類似した構造である。更に西に進むと小ピークがあり、ここから南に派生する支尾根がある。この尾根には虎口の土塁や小堀切が見られるので、城域であったことは間違いなさそうである。更に西側にもう1本、南に伸びる支尾根があるが、こちらはほとんど自然地形で遺構は不明瞭である。東西に伸びる主尾根には堀切がなく、この尾根の西方に対する防御はほとんど意識されていない様である。権現山城は、部分的に明確な遺構が残り、城があったことは間違いないが、全体に普請が不徹底でささやかな遺構である。短期的戦術上の攻撃拠点とは、松山城の例にも見られる通り、この程度の普請で十分だったのかもしれない。
南支尾根の虎口土塁→IMG_0607.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.644629/138.986278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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中山古城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0457.JPG←主郭背後の堀切
 中山古城は、昭和40年代に発見された城で、元々この地域の中核的な城であった。戦国末期に小田原北条氏がこの地を制圧するまで、中山衆と呼ばれる地侍達が活躍した城である。築城は大永年間(1521~28年)か永禄年間(1558~70年)であろうと考えられている。城主は中山氏であったとされている。中山氏の出自には諸説あり、武蔵七党児玉党の一流、阿佐見弘方の子実高が中山氏の祖となったとも、或いは岩櫃城を築いた斎藤憲行がその次男幸憲を中山に分封したのが中山氏の始まりとも言われる。但し、斎藤氏が児玉党阿佐見氏の出自と言われることから、いずれにしても阿佐見氏の後裔であった様である。中山安芸守は上杉謙信に属していたが、謙信急死の後の後継争い「御館の乱」が起きて1579年にこの地に武田勝頼の勢力が及ぶと、武田氏に従った。1582年6月、本能寺の変後の混乱の中で、安芸守の子右衛門尉は津久田城を攻撃して討死にし、弟九兵衛は名胡桃城に落ちて、中山古城は北条氏に服属した白井勢に占領された。その後間もなく北条氏が新城(中山城)を築くと廃城となった。

 中山古城は、標高680m、比高100m程の山上に築かれている。南西麓の民家脇から登道が付いており、ほとんど迷うこと無く簡単に登ることができる。馬蹄形の尾根を利用して築かれており、北の尾根が主郭を中心とした主城部で、南の尾根が外郭若しくは出曲輪に相当する。北尾根には北東から順にニノ郭・主郭・三ノ郭が並び、三ノ郭の先にも更に数段の段曲輪が築かれている。主郭と二ノ郭の背後には堀切が穿たれているが、いずれも規模は小さい。二ノ郭の北には外郭があり、南の尾根に曲輪が続いているが、外郭の背後にも堀切が穿たれ、堀切はそのまま南に伸びる外郭東側の腰曲輪(部分的に横堀となる)に続いている。主城部の北西斜面にも腰曲輪が続き、堀切から落ちる竪堀が貫通している。この他、馬蹄形の尾根の間には小屋掛けの平場があり、大手虎口を築いていたと思われる。中山古城は、普請はしっかりしているが、全体に普請の規模が小さい。地衆の城であれば、この程度のものだろうか。
外郭の横堀(腰曲輪)→IMG_0431.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.634505/138.962932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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土屋陣屋(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_0359.JPG←現存の長屋門
 土屋陣屋は、永田陣屋とも呼ばれ、江戸時代初期に徳川家康の家臣の関東郡代・伊奈備前守忠次が、荒川改修や新田開発をおこなうために設置した陣屋である。その時期は、家康が江戸に開幕し覇権を確立した1603年以降と推測されている。1642年、伊奈忠治が赤山陣屋を築いて移転したため、土屋陣屋は伊奈氏の家臣である永田氏が拝領した。永田氏は伊奈家の職を辞して帰農し、この地で名主となった。
 土屋陣屋は、現在も永田家の居宅となっている。周囲には水堀が廻らされ、南西正面には大きな長屋門と築地塀が現存している。その南西側の空き地も陣屋の一部であったらしく、土塁跡の様なわずかな土盛りや堀跡の様な溝が残っている。比較的小規模な史跡であるが、現存門など見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.905772/139.573960/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸幕府代官頭 伊奈備前守忠次

江戸幕府代官頭 伊奈備前守忠次

  • 作者: 和泉 清司
  • 出版社/メーカー: 埼玉新聞社
  • 発売日: 2019/05/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
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中山城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0120.JPG←主郭の土塁
 中山城は、小田原北条氏が真田氏攻撃の為に新造した城である。1582年前後の書状等から、1582年12月~83年初頭頃の築城と推測されている。既に北条氏に服属していた白井長尾氏の軍勢が中山の地を攻略すると、沼田顕泰の孫に当たる赤見山城守昌泰を中山に置いて守らせた。北条氏は直ちに新城(中山城)を築き、山城守の調略により、川田・須川・沼田の地侍で北条氏に服属する者が相次いだ。しかし1586年、真田昌幸によって中山が奪還されると、中山城には真田方の林弾左衛門らが入ったと言う。その後の中山城の歴史は不明であるが、豊臣秀吉による沼田領帰属問題の裁定が下るまで、北条・真田両氏の間では強い軍事的緊張状態が続いたので、城は存続していたと考えられ、1590年の小田原の役の際に廃城になったと思われる。

 中山城は、比高わずか15m程の舌状台地に築かれている。台地中央の東端に方形の主郭を置き、周囲に大きな空堀をコの字に穿ち、更に外側に二ノ郭を巡らしている。主郭内は東辺以外の3辺に土塁が築かれて防御を固めている。二ノ郭は、主郭の西から南にかけてL字状に配置され、主郭北側の北二ノ郭とは空堀で分断されている。二ノ郭周囲にも空堀が穿たれ、周りに三ノ郭が配置されている。北二ノ郭・三ノ郭の北側にも空堀が穿たれ、帯曲輪と北郭が築かれている。三ノ郭は耕地化で改変されており、ニノ郭外周の空堀は一部はかなり埋められてしまっている。また三ノ郭の南側には舌状の四ノ郭があり、間に堀切を穿って分断している。『日本城郭大系』では四ノ郭を「捨郭」としている。四ノ郭はただだだっ広いだけで、外周に腰曲輪があるものの、あまり防御構造を築いていない。こうした面を考えると、兵坦拠点としての機能を重視した城だった様に思える。
 さすがは戦国末期に築城巧者の北条氏が築いただけあって、空堀は大規模で防備に余念がないが、横矢掛かりは思いの外少ない。但し二ノ郭周囲の堀は、やや複雑な堀のネットワークを形成しており、まるで迷路の様である。また北ニノ郭から主郭の堀底へは横矢が掛けられ、攻撃のポイントを絞った普請がされている。中山城は、村の史跡に指定され、主郭は整備されているが、残念ながらそれ以外はけっこう薮がひどい。ニノ郭など、もう少しきれいに整備されていると期待して行ったのだが、残念な状況だった。
主郭外周の空堀→IMG_0138.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.627376/138.951623/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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箱崎城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8937.JPG←二ノ郭西側の堀切
 箱崎城は、1541年以後は布施の地侍衆原沢大蔵が守り、その後、森下又左衛門が城代を務めたとされる城である。その他の歴史は不明である。

 箱崎城は、須川川北岸の比高30m程の段丘先端部に築かれている。みなかみ町新治支所の南から登り道が付いている。これを登り切ると小郭を経由して二ノ郭北東角の虎口に至る。二ノ郭は五角形の曲輪で、ほぼ全周に土塁を築き、西側の台地基部に大堀切を穿って分断し、枡形虎口を築いている。南には主郭があり、主郭との間の堀切は東側だけ明瞭で、西側はかなり不明瞭になっている。主郭は大きな高低差で区間されたの2段の平場となっている。数mもある高低差なので、普通なら各々独立した曲輪として扱われるはずだが、『日本城郭大系』の縄張図では一つの曲輪として扱っている。下段郭の先端と側方に残る土塁の形状が極めて不自然だし、昭和20年代前半の航空写真では2段の平場は確認できないので、おそらく土取りで大きく削られたものではないかと思う。主郭下段の更に南側には笹曲輪が築かれている。遺構は全体に良く残っているが激薮の城で、特に主郭は形状把握が難しい程である。ニノ郭も半分は薮に埋もれていて、冬季以外の踏査は不可能だろう。縄張り的にも平易で、やはり土豪の城という感じである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮の分、☆1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.684080/138.923728/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

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  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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諏訪の木城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9840.JPG←主郭と空堀
 諏訪の木城は、真田氏の支城である。1581年6月、真田昌幸はこの城に塩原源太左衛門を置いて守らせた。しかし1589年に豊臣秀吉による沼田領帰属問題の裁定があり、小田原北条氏に引き渡され、以後は北条氏滅亡まで望月主計・塩原清左衛門が置かれたと言う。

 諏訪の木城は、赤谷川北岸の標高456m、比高40m程の段丘先端部に築かれている。城内は耕地化で改変されており、一部遺構の湮滅が見られるが、主郭などの曲輪の形状は比較的明瞭に残っている。段丘先端部の崖端城にしては珍しく、主郭は台地基部側に当たる城域西側の南に偏して築かれている。方形の曲輪で外周を空堀で囲んでいたと思われるが、北側の空堀は耕地化で埋められてしまっていて切岸の段差が残っているだけとなっている。東西の空堀は大きく、その形状を残している。主郭の北から東にかけてはニノ郭で、二ノ郭先端にも大きな竪堀(片堀切?)が穿たれて、更に東の三ノ郭との間を区画している。この竪堀のすぐ東には、三ノ郭後部の大きな櫓台が築かれている。三ノ郭は広大な曲輪で、現在は空き地となっているが、辺縁部の一部に土塁が残っている。『日本城郭大系』では三ノ郭を捨曲輪としており、所収の縄張図では長円形の曲輪としているが、実際には北に角状の突出部を持った形をしている。また三ノ郭の東側先端部に小堀切が穿たれ、笹曲輪が築かれている。笹曲輪の南東下方にも腰曲輪が築かれている。諏訪の木城は、主郭は薮に埋もれているが、二ノ郭・三ノ郭は歩きやすい。ただ『大系』に、土居・堀の斜面が野面積みの石垣で被覆されている、とあるが、これは既に湮滅してしまった様である。
三ノ郭の櫓台→IMG_9869.JPG
IMG_9897.JPG←三ノ郭先端の小堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.681791/138.949006/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • メディア: 単行本



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明徳寺城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9815.JPG←東腰曲輪の横矢掛かりの屈曲
 明徳寺城は、小田原北条氏から真田昌幸が奪取した城である。元は南北朝期に、荘田城主沼田氏が会津の葦名氏の来攻に備えて天神山砦を築いたのが始まりと推測されている。明徳年間(1390~94年)に僧の松庵が城郭の下に明徳寺を開山したことから、明徳寺城の名が一般的になった。戦国後期になると、関東管領上杉憲政を駆逐した北条氏の勢力が一旦は沼田城まで伸びたが、1559年に上杉謙信が越山するとその後しばらくは越後上杉氏の勢力下に入った。1579年、上杉家の家督を巡る内訌「御館の乱」が上杉景勝の勝利で終結すると、上杉氏の勢力圏は後退し、明徳寺城は北条氏の領有する所となった。この頃、東上州進出を窺っていた武田氏重臣の真田昌幸は、岩櫃城を拠点に名胡桃小川両城を攻略し、利根川西岸の支配を固めた為、北条氏家臣の沼田城代藤田能登守は明徳寺城を構築し、沢浦隼人・渡辺左近・西山市之丞・師大助等を置き、名胡桃・小川両城と対峙した。翌年8月1日の夜半、昌幸は明徳寺城を急襲して奪取した。明徳寺城の守将矢部豊後守は奮戦の末に敗れ、沼田城に撤退した。昌幸は弥津志摩守・出浦上総守等を明徳寺城に置き、更に城を補強した。その後、北条氏から沼田領帰属問題の裁定を求められた豊臣秀吉は、1579年に裁定を下し、)の盟約により、名胡桃城を除く利根、沼田の地が北条領として認められた。しかし、鉢形城主北条氏邦の重臣で沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を奪取したことで、秀吉の惣無事令違反となり、小田原の役が開始され、北条氏は滅亡した。その後、再び利根・沼田の地は真田氏の所領となり、明徳寺城は廃城となった。

 明徳寺城は、三峰山南西の山裾の標高460m、比高60m程の丘陵上に築かれている。茄子の様に大きく西向きに湾曲した広い主郭を持ち、外周に腰曲輪を廻らした縄張りで、ほぼ単郭の城となっている。しかし主郭は広く、内部は南に向けて下り勾配となって傾斜している。主郭の外周には高さ2~3mの土塁が築かれ、先端部の南西辺と西辺の北1/3以外は全て土塁で防御されている。主郭周囲の腰曲輪は北斜面以外の全周に築かれている。主郭西側は単に弓なりに緩やかに湾曲した塁線となっており、腰曲輪には土塁もないが、主郭東側はところどころ複雑な折れを持った塁線で、腰曲輪への横矢掛かりを強く意識している。途中数ヶ所に虎口も確認できる。腰曲輪外周にも土塁が築かれ、こちらも横矢の屈曲が多く見られる。また更に東下方にも腰曲輪が築かれている。主郭の台地基部には二重堀切が穿たれ、大土塁で大手虎口を防御し、主郭は食違い虎口となっている様である。全体を見ると、東側に対する防備を厳重にしていることがわかるので、真田氏が北条氏から奪取した後に沼田方面からの攻撃に備えて改修したものかもしれない。
 明徳寺城は、遺構はよく残っているが、主郭内部以外は全体に激薮とバンブー地獄で、あまり見栄えしない。みなかみ町、もっと史跡整備に頑張れ!
主郭東辺の土塁→IMG_9705.JPG

IMG_9669.JPG←主郭の大手虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683718/139.005718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: 単行本


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