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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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勧農城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00874.JPG←墓地裏にある主郭の切岸・土塁
 勧農城は岩井山城とも言い、渡良瀬川沿いの独立した小山に築かれた足利長尾氏の本拠である。ちょうど川の中洲のようなところにある独立峰なので、要害性は申し分無い。この城も富士山城と同じく縄張りの形態は古く、段曲輪と土塁だけで構成されていたようだ。特に堀切や竪堀を確認することはできなかった。主郭は薮がひどく、形状を明確に確認することはできなかったが、周囲は土塁で防御されていたようである。主郭の東側にはいくつもの段曲輪があった様だが、墓地になったり梅林になったりしていて後世の改変の可能性を捨てきれない。
 長尾氏は坂東八平氏の一つで、足利尊氏の母清子の生家であった上杉氏の家宰であった。上杉氏は足利尊氏の母の実家であった関係から重く用いられ、特に尊氏の叔父の上杉憲房は尊氏のよき相談相手となって倒幕戦から一貫して補佐したほか、尊氏が京都争奪戦で敗れて落ち延びる時には尊氏を助けて討ち死にした。上杉氏が室町幕府体制の中で関東管領に任ぜられると、長尾氏もそれに従って上杉各家の領国の守護代となるなど、重きを成した。足利長尾氏は山内上杉氏に従って、享徳の乱などの古河公方足利氏との争乱でも活躍し、勧農城はその軍事駐屯基地として重視されたようである。
 このような由緒のある城でもあるし、せっかく市の史跡に指定されているので、もう少し整備の手を入れてくれると助かるのだが。なお、この日は梅がきれいに咲き誇っていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.322637/139.460054/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

富士山城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00808.JPG←富士山城遠景
 富士山城は、足利長尾氏城砦群の一つで、足利富士とも呼ばれる浅間山に築かれている。大きく3つの峰があり、一番北の高い峰には男浅間神社が置かれている。全山薮化しているので遺構がはっきり確認できない部分も多いが、真ん中の峰にはいくつかの削平地があり、段曲輪になっていたようだ。特に堀切や竪堀は確認できなかったので、古いタイプの山城のようである。伝承では、天正年間(1573~92年)に足利長尾氏の家臣岡田長親・秀親父子の居城とされるが、現況を見る限り戦国期の遺構とは考えにくく、上杉謙信と北条氏康が覇を競った戦国期には、城としての機能は失われていたのかもしれない。
 尚、ここでは『栃木県の中世城館跡』に倣って3つの峰をまとめて富士山城として記載したが、『足利市遺跡地図』では北から順に浅間山城、富士山城、坊主山城と3つの城に区別している。
低い方の峰にある曲輪跡→DSC00831.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.330166/139.442682/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

板倉城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00761.JPG←板倉城のある要害山遠景
 板倉城は、足利泰氏の次男渋川義顕が物見砦として築いたといわれている。城跡はつつじヶ丘ccというゴルフ場のすぐ隣にある要害山にある。現在主郭には雷電神社が置かれており、そこまで登る階段も一応整備されている。城跡は非常に小さく、主郭がある他は、袖曲輪が確認されたに過ぎない。また主郭を東西に分断する堀切のような地形もあるが、どうもはっきりしない。物見砦以上の機能は持たなかったようである。
主郭跡→DSC00772.JPG


【2017-6-9補足】
 所用があって図書館に行った際に見た本に(書名は忘れました)、板倉城の遺構配置図が載っていた。それによると、要害山上の遺構はあくまで物見台で、板倉城の主郭は要害山の南に伸びる尾根の鞍部にあったらしい。主郭は3段の曲輪で構成され、最下段だけ土塁を築いて防御していたらしい。また東の谷戸に居館や曲輪群が配置され、庭園や寺院の跡も発掘調査で確認されたと言う。残念ながら、これらの遺構は全てゴルフ場建設で破壊されてしまっていた事が判明した。何とも残念なことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.369483/139.404745/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城

小俣城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00684.JPG←途中の尾根道から見た主郭。
                          削平されているのがよくわかる。
 小俣城は、源姓足利氏の庶流、小俣氏の築いた城である。小俣氏は、足利泰氏の子賢宝を祖とし、代々鶏足寺の別当職を相伝したと言う。南北朝期の小俣氏については、太平記にその事績が語られている。摂津湊川の合戦の際、西国より攻め上る足利方の軍勢の中に多くの足利一門と並んでその名が見える。また観応の擾乱では、小俣少輔次郎義弘は足利直義党として戦ったが、薩埵山の合戦で直義党が敗北するとやむなく尊氏に降伏し、それに続く武蔵野合戦では、偽って尊氏の麾下に属して尊氏の命を狙い、それが露見すると南朝方の新田義興・脇屋義治に従って、南宗継らの守る鎌倉を攻撃して、鎌倉を一時的に制圧することに成功した。しかし間もなく、態勢を立て直した尊氏軍に鎌倉は奪還された。後に小俣氏が没落すると、同じく足利氏の庶流である渋川氏が入封して、小俣渋川氏となってこの城を本拠とした。南の小田原北条氏と北の上杉氏による関東を二分した勢力争いでは、小俣渋川氏は由良氏と共に北条方に付き、そのため1572年には上杉方の膳城主膳宗次らの攻撃を受けた。しかし善戦して守り切ったという。城は、鶏足寺北方にそびえる城山に築かれている。

 城の登り口であるが、これが非常にわかりにくい。県道218号線が小俣川を跨ぐ、宝珠坊橋のすぐ手前に、ひっそりと隠れるように立っている馬頭観音が入口である。これが全くわからず、地元の人に聞いて教えてもらった次第である。聞くところでは、城まで登る途中に集合アンテナがあるので、以前は下草の手入れをしに上っていたが、最近はそれもしなくなったとのこと。高齢化が進んでいるためであろう。そんなわけで最近は登る人もいないので、道があるかどうかもわからないといわれたが、思いのほか道がわかりやすく迷わずに登ることができた。それには城めぐりの先達が残して行ってくれた赤いリボンの標識も大いに役立った。

 この城の築かれた山は、頂上の手前にそれぞれ100mほど離れて2つほど支峰があり、尾根を伝ってそれらを経由して登っていくこととなる。支峰には、それぞれ物見台と思われる曲輪があったようで、削平がある程度されて曲輪らしい形状をしている。尾根道は薮が少なくて非常に歩きやすく、尾根道に取り付いてからの登城時間は思ったほど掛からない。2つ目の支峰の曲輪を過ぎると一旦やや下りの道となり、そこからまた主郭に向けて登り道となる。途中、大小2つの堀切がある。2つ目の大きい堀切を越えると、いよいよ主郭エリアである。頂上の主郭の回りに、環状に第2郭が巡り、その手前に1~2段の段曲輪がある構成である。主郭は削平がされているだけで土塁は無く、面積も小さい。主郭虎口にはわずかだが石積みが残っている。第2郭に石がゴロゴロしていることを見ると、もしかしたら主郭は石積みで防御されていたのかも知れない。主郭の北と南西にも数段の段曲輪があるが、いずれも大した大きさではない。

 遺構は非常に良く残っているが、全体に規模が小さく、どうも詰の城としての機能だけであったようだ。

大きい方の堀切→DSC00702.JPG
DSC00724.JPG←主郭。これがほぼ主郭の面積全て。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.396563/139.375747/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

徳次郎城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00641.JPG←主郭東側の二重掘と二重土塁
 徳次郎(とくじら)城は、宇都宮氏の家臣新田徳次郎昌言によって築かれたと言われている。日光街道(国道119号線)の徳次郎交差点から数百m南東にある、こんもりした林が城跡である。田川沿いの台地上に築かれている平城であるが、周囲がかなり宅地化されているのに、奇跡的にここだけほとんど手が付けられておらず、極めて遺構の状態が良い。街中に近い平城で、この徳次郎城ほどほとんど遺構が破壊されずに残っている城は、全国でも極めて少ないだろう。主郭だけ残っている例は数多いが、この城は周囲の曲輪も含めて、ほぼすべて残っているのである。
 南側の堀と曲輪は薮がひどく、探索するのに骨が折れるが、主郭北半分は薮も比較的軽微で見通しも効き、遺構の確認がしやすい。主郭はほぼ四角形で、周囲に土塁と空堀をめぐらし、更にその外側に第2郭をめぐらしている。輪郭式の縄張りだったようであるが、第2郭の東側は、田川沿いの堤防・遊歩道工事で削られてしまっているようだ。しかしそれ以外はほとんど完存していて、特に主郭の北と東の二重掘は素晴らしい。その内側の堀にの北東角には土橋も見られる。堀は全周きれいに残っていて、主郭と第2郭の南面には横矢の折れも見られる。これらの堀の一部は、GoogleMapの航空写真でもはっきりと確認できる。第2郭の北には隠岐殿屋敷と呼ばれる曲輪跡と南側にも曲輪らしき地形が残っている。
 往時の平城の姿が今にも蘇ってきそうな素晴らしい遺構である。解説板も石碑も無いのが残念である。
主郭の虎口→DSC00642.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.648365/139.848790/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

深津城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00459.JPG←延命寺西側に残る堀跡
 深津城は宇都宮市と鹿沼市の境界線近くにあり、武子川沿いの河岸段丘上に築かれた平城である。但し段丘と言っても、武子川自体が小さな小川であるため、高低差は数mに過ぎない。1kmほど南東にある犬飼城と連動して、壬生氏に対する防衛線として機能していたのではないかと推察される。宇都宮氏家臣の小林豊後守の築城といわれる。
 城跡は現在、延命寺という寺の寺域になっているという事だったので、よくある単郭方形居館跡だと思って期待せずに行ったが、大きな誤りであった。延命寺があるのは城跡の一角に過ぎず、城域はもっと広くて、かなりの長さの堀跡が残っている。堀は規模はそれほど大きくは無いが、直線状ではなく微妙にS字にくねった形で走っていて、横矢掛りを意識したものと思われる。墓地の南東に周囲と堀で区画されたほぼ真四角の曲輪があるほかは、明確な曲輪の形状は残っておらず、どういう縄張りだったのかは推測の域を出ない。しかし竹薮化しながらも堀はよくその形を残しており、西側部分には二重堀と土塁が、また南東隅には櫓台と思われる高台もあり、思った以上に遺構がよく残っていたのには驚いた。
 周囲は前述の寺のほか、畑や宅地となっているので、これ以上破壊が進まないよう、行政当局の速やかな対応を望みたいところだが、この鹿沼市という行政府は史跡保護に殊のほか興味が無いらしく、市内の城跡についぞ石碑の一つを建てることもしないという有様である。何とかならないものだろうか?
これも堀跡。S字状にくねっている→DSC00461.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.540053/139.820187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

多気山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00604.JPG←多気山全景、この山全体が城!
 最近、何となく気乗りがせず、せっかくの山城攻略シーズンであるのにサボってしまっている今日この頃。でもそんな中、ちょっと気になって行ってみたのが多気山城だ。実はこの城に来るのは2回目で、前回は2006年2月の訪城であった。ちょうど丸2年が経過している。前回行った時は、だらだらと甘い削平地が際限なく続く、締まりの無い城、という程度のイメージしか持たなかったのだが、その後入手した文献を見てもネットで見ても、かなり高評価なので、もう一度見ないとだめかなー、程度の感覚で再訪した。かなり広い城であるのは前回でわかっていたので(オマケに前回は場所に迷いながら下山した)、今度は縄張り図などを入念に調べて、きちんと当たりをつけて訪城した。そうしたら評価が一変、ものすげー城でした。
 多気山城は、宇都宮氏が戦国後期に小田原北条氏の圧迫を恐れて、平城の宇都宮城から移った山城とされている。ただこのとき初めて築いたわけではなく、もともと詰の城として築かれていたらしい。場所は宇都宮市街の北西に位置している。
 この城は多気山というかなり大きくなだらかな山全体を城塞化している大規模な山城で、関東切っての名族宇都宮氏の名に恥じない城である。この城の最大の特徴であり、必ず見なければならないのが中腹に延々と築かれた大規模な横堀である。多気不動尊に通じる東面の道路近くから始まり、南面~西面までの山のほぼ半周を数キロに渡って延々と伸びているのだが、あちこちに横矢が掛かり、屈曲して斜面を駆け上り或いは駆け下る竪堀に変化しながら続くという豪壮なものである。しかもこの横堀を取り巻く防御構造がすごい。横堀の内側には土塁を築いて更にその内側に腰曲輪を延々配している。この土塁にはところどころ平虎口が作られており、敵を迎撃する守備兵の突撃口としていたようだ。押し寄せてきた敵軍を、まずこの横堀で釘付けにして迎撃しようという構想がよくわかる。防御の腰曲輪は1段ではなく、多いところで3~4段あって、その中の最高所の曲輪で横堀防御線の指揮を執っていたと思われる。こうした指揮所が、長大な横堀を大きく幾つかの防御ブロックに分ける形で何箇所も築かれているようだ。この重厚な防御構造を、数キロに渡る横堀全面に張り付けているのである。決して消極的な防御という性格のものではなく、ここで堂々と敵軍を迎撃し粉砕しようという強い意志が感じられる縄張りである。
DSC00316.JPG←横堀、土塁、平虎口の3点セット
 一方、主郭をはじめとする曲輪群は、大きく9つものブロックに分かれて配置されている。これらの曲輪群も見所が多い。要所には土塁を配して防御を固めると同時に、下段の段曲輪とつなぐ虎口は、必ずといってよいほど曲輪の一番奥に作られ、しかも枡形虎口を形成して決して直線路で登れないよう構築されている。一部の虎口では石が周囲に転がっているので、石垣もあったようだ。また虎口を出ると広い武者溜りが作られ、その脇では土橋で横堀外側と連絡するような、極めて技巧的で厳重な虎口もあった。南面の曲輪群には、大きな竪堀が作られているものもあり、この竪堀も斜面を登りきると90度屈曲して横堀に変化して伸びていくという見事なもの。この竪堀の規模は、皆川氏の最終防衛線であった布袋ヶ岡城のものを想起させる。主郭にも食違い虎口や土塁などが築かれ、隙が無い。これらをすべて回るには、優に丸2日を要する。
 前回の訪城では、これらの一番の見所ともいえる遺構群をかなり見逃していたことがわかった。何しろ城域が極めて広いので、正確な縄張り図を要所で確認しながら歩かないと、どこにいるのかわからなくなってしまうのである。
 それにしても、これほどの城を作り上げた宇都宮氏の勢威は驚くべきものがある。いくら佐竹氏の後援を受けたとはいえ、これほどの城を作るだけの人員を動員できるのである。本城をこれほど厳重に固めないと生き抜けない戦国下野の緊張感がひしひしと感じられると同時に、これだけの勢力があったのだから、一族重臣が結束してさえいれば北条氏に十分対抗しうる大勢力となったろうにと惜しまれる。飛山城西明寺城などの重臣の持っていた大型の城も含めて考えると、その感は一層強くなる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.604745/139.804051/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

PS.いくつかのHPで触れられているが、これだけの良好な遺構を有する多気山城であるが、非常に残念なことに南側曲輪群を中心に、かなり無造作に重機を乗り入れて森林伐採した跡が広がっている。しかも切り倒した木がそのままそこかしこに転がっていて、歩きにくいことこの上ない。曲輪や虎口でキャタピラで損壊しているものもあり、極めて残念である。2年前はこんなではなかったのに。許せないことである。
主郭下の曲輪の枡形虎口→IMG_9091.JPG
DSC00394.JPG←主郭の食違い虎口の土塁
屈曲する横堀→DSC00285.JPG
DSC00332.JPG←横堀に沿って配置された腰曲輪
横堀→DSC00333.JPG
DSC00490.JPG←南側曲輪群横の竪堀
南西曲輪群の枡形虎口→DSC00548.JPG
  この外に武者溜りと土橋がある
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西明寺城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

←北第2郭(奥が主郭)
 西明寺城は、益子の南東の高館山山頂に築かれた山城である。宇都宮氏麾下の有力な軍事集団であった紀清両党の一翼、益子氏の築いた城である。益子氏の事績については、益子城の項に記載する。益子氏は、この益子の地に大きく3つの拠点を構えていた。平山城的な益子城、独立丘陵上の益子古城、そしてこの西明寺城である。3つの城の役割や築城年代には不明な点が多いようだが、一般的には益子古城が益子氏の居城、西明寺城が詰の城と解釈されている。しかし、その解釈にはやや違和感を感じる。というのは、西明寺城は詰の城にしてはあまりに広大で本格的な山城だからである。

 この城は、その名の通り西明寺を懐に抱いている。西明寺は楼門や三重塔が国指定の重文になっている古刹である。その寺域も、よく見ると段曲輪のようになっており、城域の一部であったようだ。ここから登山道を登っていくと、いくつかの袖曲輪、段曲輪を経由して権現平と呼ばれる広い曲輪に到達する。途中には堀切や竪堀らしき地形も散見されるが、今一つはっきりしない。権現平は、築城当初の西明寺城の主郭であったといわれており櫓台らしき高台も備えている。更にここから山中を走る県道262号線を越えて、最終的な西明寺城の主郭部に至る。益子の街中から西明寺城(高館城)を車で目指すと、このすぐ近くにある駐車場に到着する。したがって、車で上まで昇ってきてしまって主郭を目指してしまうと、ここから下の曲輪群を見落としてしまうので要注意。

 さて、ここからが城の中心部であるが、中心の谷間を挟んで両翼に大きく曲輪群が連なって主郭まで到達している。谷間の駐車場正面には貯水池があるが、どうも井戸跡でもあったらしい。主郭に向かって右手から登っていくと、途中3~4段の曲輪がある。これらの曲輪は巨大ではないが、決して小さくはない。広いものではざっと200㎡以上はありそうだ。途中、土塁で区切られた虎口を通るが、崩落した土塁のそばに石がいくつも転がっているので、どうも野面積みの石垣で防御されていたようだ。主郭はこれまた小さくなく、十分な居住性を有している。東南隅に高台もある。

 主郭からは北に2段ほどの曲輪が続いた後、先ほどの谷間の左に連なる曲輪群と、そのまま北側に連なる曲輪群とに分岐している。主郭の北2段の曲輪は土塁で明確に区切られており、特に主郭との間は、「栃木の古城を歩く」(下野新聞社)の縄張図に拠れば、食違い虎口になっていたようであるが、現状ではちょっとわかりづらい。主郭の北2段の曲輪と更にそこから北に続く曲輪の間は、自然地形を利用したと思われる大きな堀切で仕切っている。更に北側にも堀切があり、北尾根からの侵入を防いでいる。その先は、一応尾根道はありなだらかな地形は続くが、特に城らしい雰囲気は無いようだ。一方、中央谷の左の曲輪群は、途中に堀切は無く、そのままキャンプ場になっている曲輪まで連なっている。いづれもかなりの広さを有している。その先に更に小さな曲輪があるが、そこには小さいながらも堀切があり、防御性を高めている。主郭の東斜面はかなり急で、大きな曲輪は無いが小さな袖曲輪が何段か作られていたようである。

 全体を歩くとかなりの広さがあり、しかも一つ一つの曲輪が大きいので、どこを歩いているか時々わからなくなりそうになるほどである。一部の曲輪は笹薮が多く見通しが利かないのが難点であるが、全体として遺構は良好に残っており、その規模からすると県内でもトップクラスの大きさである。守護、もしくは守護代クラスの城といっても過言ではない。防御施設はそれほど厳重という感じは受けず、またその規模から想像すると、戦時のみの詰の城というよりは、益子古城は政庁機能&下屋敷、益子氏の本拠は西明寺城というところではないだろうか?いづれにしても、当時の益子氏が宇都宮傘下でどれほどの勢威を誇っていたか、想像に難くない。しかしその勢威を恃んだ結果、主家に叛して滅ぼされてしまったのである。
堀切と土橋→


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.454660/140.120637/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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刑部城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

←土塁と堀跡
 刑部城は「おさかべ」と読み、宇都宮氏の一族刑部氏の居住した方形居館跡である。今でもその後裔の刑部氏が住宅を構えて住んでいる。周囲には土塁と空堀がめぐらされているが、残念なことに西側の土塁は一部を残し、隠滅している。城跡の正面の道路との間には一段低い畑があるが、これが堀跡であることは、城巡りをしている人の目からすれば一目瞭然である。道路と土塁の間は5mほどもあるので、往時はそれだけの幅のあった立派な空堀であったと想像される。城跡内部は個人の宅地であるので、勝手に入ることはできないが、周囲から見た限り四囲の土塁以外の遺構は無いようだ。なお、この宅地の西隣の家の北側にも、なんとなく土塁のような跡が見受けられるので、複郭式の城であったらしい。
 個人の持ち家と化している割には、遺構はよく残っている方であろう。なお、周囲には「堀の内」などの地名が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.489834/139.945693/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

中村城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

東側の二重土塁

 中村城は、鬼怒川と小河川との間の台地上に築かれた方形居館跡である。中村朝宗が保元元年に築いた、かなり古い城だと言われている。ちなみに中村氏は、源頼朝の奥州征伐で戦功を挙げ、奥州の雄伊達氏の祖となった。
 城跡は現在、遍昭寺という寺の境内になっており、周囲を土塁と空堀が取り巻いている。空堀は、南東部分が宅地化で一部欠損している以外は、ほぼ完存している。また寺の北側と東側は、土塁が二重になっているが、南と西は外側の土塁がなく、隠滅したのか最初から無かったのかはわからない。
 ここに居を構えた中村氏は、後に宇都宮氏の家臣となってその組下に組み込まれたが、久下田城を築く前の水谷蟠龍斎正村に攻められ、一旦は攻撃を跳ね返したものの夜襲を受けて落城し、そのまま水谷領に組み込まれた。敗れた中村氏は、奥州の一族伊達氏を頼って落ち延びたという。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.408996/139.956958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:居館

小倉城(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

 正月3日の日は、朝から初詣でで日光の二荒山神社などを回った後、夕方の仕事までの間に山城の登り初めをした。行ったのは、帰り道の例幣使街道間近かにある小倉城である。読み方は「こぐら」というようだ。もともと日光山衆徒が、北方への勢力拡大を狙う宇都宮氏に対して築いた城といわれる。その後、小田原北条氏の支援を得た日光山勢と宇都宮氏との間で、奪い奪われの争奪戦が繰り広げられたという。
 城への登り口は、南麓の消防団建物の近くにある。それとない小道が沢沿いに奥まで延びている。この道をちょっとあがっていくと、右側に高さ10m程度の大きな岩場がある。小倉城のある山の南尾根の先端に当たるのだが、どうも見る限り登城道を監視する見張り砦の雰囲気が濃厚である。もう少し登ったところから尾根の上に登って確認したが、自然地形ではあるが尾根上は道のように平坦になって山頂方面まで一直線に伸びており、どうも見張り砦で間違いないようだ。とすれば、今入ってきた道が大手道ということになる。沢沿いの道は沢の奥で消えてなくなるので、この尾根沿いに登ってしばらく行くと、中腹に腰曲輪が2段現れた。オッと思って探っていくと、腰曲輪の奥に土塁で防御された明確な虎口が現れた。
←虎口の土塁

そこを入ると同じく腰曲輪が一段あり、その更に上には小型の段曲輪が8段ほど大手道に沿って並んでいた。ところがそれが一度途切れて、更に40~50mほど登っていくと、また南斜面を半周程度取り巻く、長い腰曲輪が現れた。この曲輪を探ると、ほぼ真南と真東に合計2本の竪堀があった。また曲輪はここで途切れ、更に20mほど登るとようやく主郭エリアに到達した。
 主郭エリアは、山頂部に南北に連なる2つの曲輪が中心で、この二つの曲輪を堀切で分断している。この堀切はそのまま竪堀となって斜面を下っている。この二つの曲輪をここでは便宜上、北のやや高い方から順に主郭・副郭と呼ぶこととする。主郭も副郭も広さはあまりなく、居住性はほとんどないと言ってよい。副郭は東側に土塁を伴っているようだ。そして主郭・副郭ともそれぞれ曲輪より5mほど下の斜面(北側と南側)に横堀を伴っている。この横堀は形状がかなり明瞭で、主郭・副郭をそれぞれ半周程度にわたって防御している。大手道の副郭への寄り付きは土橋となっている。
副郭南の横堀→
←主郭と副郭を分断する堀切
 主郭の北西下方にはやや広めの段曲輪が2段ほどあり、井戸跡らしき窪みもあることから、ここが居住スペースになっていたのではないかと思われる。ここから北西に緩やかな尾根が延びており、どうも搦め手道が通っていたようだ。そしてこの搦め手方面からの攻撃を防御するため、段曲輪北西を堀切で分断しているが、規模はそれほどのものではない。
 以上が小倉城の概要である。基本的に南に伸びた緩やかな斜面を重点的に防御している。草木は比較的少ない方なので歩きやすく見通しも効き、構造の把握がしやすい。また木を切り倒してはあるが、城自体には人の手がほとんど入っていないらしく、虎口や横堀・竪堀など遺構が明瞭でわかりやすい。
 規模は小さめだが、近くの板橋城などより遥かに城らしい、登り初めに最適な山城だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.635082/139.719508/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:中世山城

八木岡城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]


 八木岡城は、南北朝の騒乱にも出てくる歴戦の城である。宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団として太平記にも名高い紀清両党の一翼、芳賀氏の一族八木岡氏によって鎌倉時代に築かれた。八木岡氏の事績としては、太平記 巻15「多々良浜合戦の事」に、足利直義の軍勢の中で八木岡五郎左衛門の活躍が記されている。
 一方、この城が歴史の表舞台に出てくるのは2度ある。1度目は、南北朝動乱期に南朝の地方勢力建て直しのため、東国に下向した北畠親房・春日顕国が北関東で軍事行動を展開し始めたときのこと。春日顕国(顕時ともいう)は積極的に下野方面に軍を展開し、北朝方に付いていた芳賀氏の拠点であった真岡城、八木岡城を落とし、更に前進して宇都宮城の目と鼻の先の重要な軍事拠点、飛山城をも落とした。幕府はこの事態に対応するため、将軍足利尊氏の執事高師直の一族、高師冬を鎌倉府執事として下向させた。師冬は有能な軍事指揮官で、次第に関東南朝の中心、常陸の小田城などを攻め落とし、最終的に関東から南朝勢力を一掃することに成功した。
 次に八木岡城が出てくるのは、久下田城の水谷正村(蟠龍斎)との攻防の時のこと。このときも最終的には正村によって攻め落とされている。

 さて、そんな八木岡城であるが、現在残る城の遺構を見る限り、それほど堅牢な城には見えない。五行川右岸の地にあるほんとに小さな小山を利用して築かれているが、残っているのは二本の大きな土塁とその間の空堀、それと周囲の曲輪跡らしき微高地だけである。周りはすべて田んぼになっているので、開墾の際にもしかしたら遺構の一部が削られているのかもしれないが、今からでは偲べるものはない。東側に土塁が崩落したような跡があるので、もしかしたらこちらにもう少し何かあったのかもしれない。しかし川が近くに迫っているので、大したものではなかったろう。
 城跡は真岡市が数年前に土地を取得して、末永く市の史跡として保存していくようである。なお、城の北100mほどのところを北関東道が建設中であるが、これもわざわざ八木岡城を避けたようである。このような歴史のある城をきちんと残してもらえるのはありがたいことだ。
二本の土塁の間の空堀→
     横矢も掛かっている

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.416992/139.989939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

【2009年1月追記】
 国土変遷アーカイブを確認したところ、城のすぐ東を流れる五行川はかなり流れが変えられていることがわかった。現在はかなり直線的な流れで城のすぐ東を流れているが、かつてはかなり蛇行する流れで現在よりもう少し離れたところを流れていたのである。五行川の流れを改修するときに、東側の城址遺構が破壊された可能性がある。また南側の部分も改変されたようである。何か中途半端な曲輪の形状と思ったが、もともとの城の縄張りはもう少し違っていたようだ。

鶴ヶ渕城(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

角馬出の虎口
 鶴ヶ渕城は、会津西街道を日光から北上して五十里湖を過ぎ、国道400号線との合流点から更に2Kmほど行った先にある。かつてはこの道を、小田原の役後に会津入りした太閤秀吉や、宇都宮城の攻防で惜敗して会津に敗走した、土方歳三率いる旧幕府軍と新撰組の混成部隊が通った。
 もともと会津西街道は奥州街道(現在の国道4号線にあたる)と並んで、北関東から南奥州の中心地、会津に抜ける主要街道であり、その街道を監視し押さえるために築かれたのが、鶴ヶ渕城なのである。

 ただし城といっても、街道を北上する敵軍の侵攻を抑える為に築かれた「防塁」的な要素が非常に強い。大きく3つの部分から構成され、街道横の男鹿川の向こう岸に構築された角馬出と、それに続く長い防塁、そして対岸の姥捨山山上に築かれた物見台といわれる曲輪群から成る。もともとは中世戦国期に、会津田島を所領とした長沼氏が築いたようだが、その後関ヶ原前夜に徳川軍の侵攻を阻止するために上杉景勝の命で防塁が増強されたり、また前述の通り戊辰戦争の折、敗走する幕府軍によって増強されたとも言われる。
 まず一番見やすいのは角馬出しで、会津西街道から川を渡る橋を越えてすぐのところにある。遺構は明瞭であるが、土塁の高さや周囲の堀の規模など、街道の監視砦的な域を脱していない。それに続く防塁は、堀とともに野岩鉄道の線路を越えて、田代山の麓まで数百mにわたって続いている。途中には横矢も掛かっている。

 次に対岸の姥捨山上の曲輪であるが、これははっきり言って苦労してみるほどのものではなかった。全体に削平が甘く、自然地形なのか何なのかよくわからないのである。山頂の主郭と思しき部分は、真ん中が擂鉢状に窪んでおり、文献では「寒風よけに深く掘られた」と記載されているものもあるが、どうも人工的なものには見えにくくよくわからない。まだ一向衆が敦賀の木の芽峠に築いた城塞群の方が、土塁などが明瞭である。それ以外の部分は、ほとんど自然地形を利用した物見台で、堀切などの防御施設もあまりはっきりしない。
 所詮、街道の監視が主任務の城(砦?)なのであろう。ここで敵軍を粉砕したり、籠城したりする目的ではない城であった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.026625/139.726889/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


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轟城(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

 轟城は、「とどろくじょう」と読むらしい。この近辺の台地上には小川が幾筋も流れ、水の流れる音が非常に気持ちがよい。そしてその小川を水堀の代わりにしている方形居館跡が轟城である。
 轟城は、ちょっと場所がわかりにくい。と言うのも、表通りである国道461号線の脇に、解説板が出ているのだが、そこから右に脇道を入ってかなり奥(2~300mぐらいか)に行ってから、小さな入り口案内が道の左側にあって、そこから草むらの小道を入りさらに100mほど奥に行くと、やっと城の入り口になると言う感じである。
 方形居館跡の周囲を巡る土塁は高さ1~3m程度。近くに民家があるが、ほとんど破壊されず、返って適度に手が入れられているので、薮があまり酷くなく、特に郭内は非常に歩きやすく見通しも良い。全体としてはほぼ方形に近いが、一部は微妙に曲線となっていて、横矢を意識したものと思われる。北側の土塁の外は、段丘の急斜面になっている天然の要害の地で、土塁の北西角と南西角には、櫓台があったと思われる広い高台状の土塁がある。虎口は、西側の土塁の中央付近にあり、虎口を監視する小屋か何かが置かれたような微高地が土塁のすぐ内側にある。西側と南側の土塁の外は、小川を通して水堀としており、東側の土塁の外は、小さな横堀、もしくは幅の狭い腰曲輪に更に小さな土塁を外側に付け足して、その外側は蛯が沢渓谷になっている。このように、城の周りを渓流が行く筋も流れているようなところは初めてで、とても新鮮な印象を受けた。ただ、これらの渓流、ゴミが多く、あちこちにビニール袋だの何だのが引っかかっていて、せっかくの景観が勿体無い感じである。郭内の中央やや北東よりのところには、大きな井戸跡も見て取れる。
 この城は、かの有名な坂東武者、畠山重忠の子の重慶が源実朝に反旗を翻して立て篭ったとも伝えられるが、詳細は皆目わからないとのことである。

 ↓渓流(水堀)と土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.753344/139.748948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


タグ:居館

猪倉城(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

 先日、板橋城を攻略した後、近くの猪倉城に続けて行ったので、ここに記す。
 板橋城同様、この城も登山道が整備されており、登るのに大きな苦労はない。途中には、櫓台跡と思しき小さな平坦地があるが、削平がやや甘く自然地形なのか曲輪跡なのかはっきりしない。はっきりしないのは、主郭以外の曲輪も一緒で、特に主郭の南西方向の稜線上に連なる曲輪など、削平地全体が傾斜していて、一瞬自然地形と勘違いしてしまいそうである。
 その一方で、主郭周りやその北側の第2郭では、明確な虎口や土塁、横堀、堀切などが見られ、板橋城よりはるかに城郭らしい遺構を留めている。ただ全体としては、横堀や堀切の規模がやや小さめで、虎口の形状も特にこれと言った防御性を持つものでもなく、それほど堅固な山城と言う印象はない。ちょっと全体としては印象の薄い山城だったような気がする。
 なお、ついでながら書いておきたいのだが、いつも城巡りの際に参考にさせていただいている「余湖君のお城のページ」の縄張りイラストであるが、日本城郭体系などの主要書籍を参考に、現地踏破した貴重な記録であり、正確なことこの上ない。すごいことだといつも感嘆している。この場を借りてお礼を言いたい。

 ↓特徴的な形状の土塁と横堀

 ↓城中最大の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.665613/139.761350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


板橋城(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

 連休も明けて、やっとのことで時間が取れるようになったので、久しぶりに城巡りに出かけた。今回は、日光例幣使街道脇にある板橋城に登った。何でも、壬生氏に客将として招かれていた後北条旗下の武将、板橋将監が日光方面を押さえる要衝として拠点とした城と言うことで、後北条ファンの私としては、かねてより行きたい城の一つだった。
 しかしそんな思いとは裏腹に、この城の規模は小さく、あまり面白味のない城だった。城山の山頂に主郭と、堀切を隔てて第2郭が並んでいるほかは、登山道の途中に小さな物見櫓程度の削平地が2~3あるのと、多少の腰曲輪らしきものがある程度で、城としての規模はかなり小さく、いざの時の詰めの城的な存在だったのかもしれない。程遠くないところにある猪倉城の方が、規模も縄張りも立派である。
 城はこんな感じであったが、麓には居館跡が残っている。居館跡は見事な土塁が残っているが、中央をJR日光線が突っ切り分断されているのと、土塁内は薮が酷くて踏み込める状態にないのとで、外周から遠巻きに眺める他はないというのが、何とも残念である。
 また、ここからさほど遠くないところには、板橋将監の墓が残っている。死後しばらくたってから立てられたそうで、地名に「板橋」の名が残っていることと言い、墓が残っていることと言い、よそから来た客将ではあったが、地元では慕われていたのではないかと思われる。

↓第2郭側から見た堀切と主郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.670467/139.727812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


烏山城 その1(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

 少し前のことであるが、戦国那須氏の居城烏山城に行ってきた。栃木県内でも屈指の規模の山城である。最初、上り口を間違えてしまい、毘沙門山という一つ南側の山から登ってしまったため、えらく遠回りになってしまった。しかし、一見城域から外れたこの山の上り口にも、何段かの小さな削平地らしきものがあり、どうも物見ぐらいはあったのではないかと思われる。
 さて、本題の烏山城であるが、大きな曲輪を連ねた典型的な連郭式山城で、曲輪間にはしっかりと堀切が掘られている。山頂に大きく4つの曲輪が作られ、そのどれもがかなりの面積を持ち、しかも大きな切岸で腰曲輪から遮断されている。高低差は10mを超える、大きな規模の切岸である。大手道をあがっていったところには、規模は大きくないが石垣も築かれている。これは、近世城郭として使われた時代のものであろう。

 また大手とは反対側の曲輪の西側には、大規模な横堀がぐるっと巡らしてあり、非常に豪快である。こちらは堀底までの高低差は15mぐらいありそうである。まさに圧巻のスケール!大きい城とは聞いていたが、聞きしに勝る大城郭であった。
 ただ惜しむらくは、この城、あまりにも人の手が入っていないため、至る所藪だらけで歩きづらい。特に西側斜面は、ほとんど藪に埋もれており、全容が掴み辛い。もっと下がったところにも曲輪があるとのことだが、藪を見て行く気が失せてしまい撤退してしまった。栃木北部の最重要な史跡なのだから、もう少し考えてもらいたいものだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆ (城はすごいが、藪がひどいので減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.663703/140.147974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※後日の再訪記はこちら


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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布袋ヶ岡城 その1(栃木県都賀町) [古城めぐり(栃木)]

 二条城攻略の後、都賀の布袋ヶ岡城に行った。この城は、皆川氏と宇都宮氏との間で攻防の広げられた激戦地であるようなので、かねてより目を付けていたのである。しかし、この城はインターネット上では極端に情報量が少なく、遺構の状況がほとんどわからない状態での登城となった。ただ、皆川氏にとっては最終防衛線であったそうなので、それを期待して行ったのである。

 しかし情報量が少ないので、まず登り口がよくわからない。最初は東側の尾根から、と思ったが道らしきものがわからなかったので北側に移動した。山麓に栃木植物園というものが工事中のようであるが、作業者の方が数名いて、入園料などとも書かれていたので、そこは敬遠して、しばらく東側に歩いたところに、藪の少ない斜面があったので、そこから取り付いた。この北側斜面は、20~30°の傾斜が頂上近くまで続いていて、曲輪らしいものは片鱗も見られなかった。また竪堀のようなものもない。本当に城跡かなあと思ったが、頂上には祠もあり、手書きで布袋ヶ岡城本丸跡と書かれた札もあったので、間違いないようだが、いかんせん遺構がなさ過ぎる。ちなみにここはハイキングコースが通っており、頂上の本丸部は草木が伐採されていて、非常に眺望が良い。ほど近くにある西方城や、この間登ったばかりの赤壁城が間近に見えた。

 さて、その遺構の少なさだが、伐採されている開けた部分の中で、本丸から十数m下の北東側斜面に小さい平坦地があるだけだった。頂上から南側に続く尾根道を行ってみても、「もしかしたら」と思われるような小さな堀切状のへこみしか見られず、本丸周囲にも全く土塁などがない。ここまで見る限りでは、ただの見張り用砦ぐらいにしか見られなかった。

 正直「なんだこれ、全然期待ハズレだな。」と思った。よく考えれば、皆川氏の本城の皆川城もそれほど大きな規模の城ではない。幾重にも取り巻く腰曲輪の数こそ多いが、とても何千もの兵を押し込めるような規模ではなかった。「皆川氏ってのはたいしたことないんだなぁ。」と思い始めた矢先、先ほどの腰曲輪よりもう少し南側の東側斜面の藪の中に小さな平坦地が見えた。ダメモトで降りていってみると、やはり腰曲輪らしいが、たいした大きさではない。しかしその曲輪の南東側にちょっと道らしく見える、藪のやや開けた部分があった。そこを下っていってみたら、バーン!出てきました、巨大曲輪。さらに曲輪の先が見えないので、もしかしたら、と思って行ってみたら、予想通り巨大な竪堀も!それらを藪の中の道沿いに下りて行ってみると、出てくる出てくる。広大な曲輪群に大きな竪堀、横堀。

 大小合わせて、20以上の曲輪はあるであろう。大きいものは、400~500m2はあるのではないか。そしてその端は大きな竪堀で遮断。竪堀は、そのまま下の帯曲輪に接続されていたり、横堀に接続していたりと多彩。竪堀は大きいものだけでも3つ以上。長さは最も大きいもので50~60mもあるだろう。深さ約5m、幅約8m。ちなみに下っていった道は予想通り登城道で、この道も途中から竪堀形状になっている。この登城道の左右に大小の曲輪群が斜面に沿って連なっているのである。それも、ほとんど麓から山頂に至るまでの間すべてが曲輪で埋め尽くされているようだ。大きな曲輪の東側は巨大な切岸になっており、下の曲輪との高低差はゆうに5mを越している。そうした巨大曲輪が3つも4つもある。一番下の方は木材の伐採場になっているらしく、伐った木材の集積場などもある。この辺まで来ると、開発の手が入っている可能性が高いが、ほぼ原形をとどめていると考えられる部分もある。全体的には城作りのコンセプトなど、皆川城と共通するものが感じられ、皆川城の縄張りを更に大きいスケールで具現化したもののように思えた。
←数十mに及ぶ大きな竪堀
大きな切岸→

 それにしても予想外に大きな山城だ。何もないと思われた城郭遺構は、東側の尾根沿いに延々と広がっていたのである。特異なのは、こうした城郭遺構が東側斜面にしか存在しないのである。東方面に宿敵の宇都宮氏がいたからであろう。まさしく戦国期の宿敵宇都宮に対する強い緊張状態をまざまざと見せつける山城である。また皆川氏も、地方勢力とはいいながらも、さすがは関東八屋形に列せられた大名だとよくわかった。これだけの規模の城であれば、かなりの兵を駐屯させられただろう。この城は、最終防衛線として皆川氏の存亡をかけた重要拠点であったのであろう。

 なお、今回見たのは東側の尾根筋であるが、この山には北東側にもう1本尾根がある。もしかしたらそちらにも遺構が残っているかもしれない。ぜひ近いうちに行ってみようっと。

※北東尾根の遺構はこちら

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.449097/139.699209/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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二条城(栃木県西方町) [古城めぐり(栃木)]

←大手筋の竪堀状虎口
(2013年1月再訪)
 二条城には、2007年に訪城し、当ブログにも簡単に紹介していたところ、kouchansさんから貴重なコメントを頂いたので、鑁阿寺に初詣に行った帰りにふと思いついて、改めて遺構を確認した。6年ぶりに再訪した結果、西側の遺構をかなり見逃していたことがわかったので、記事を全面的に書き直した。

 二条城は、関ヶ原合戦後に徳川氏の家臣となった藤田能登守信吉が、下野国西方の地を与えられて築いたとされる近世城郭である。信吉は、北武蔵有数の豪族で花園城主藤田康邦の子であったが、河越夜戦での勝利によって関東の覇権を握った小田原の北条氏康に藤田氏が降り、氏康の子氏邦が入嗣して家督を継いだ為、用土城に隠居して用土氏を称した父康邦と共に不遇をかこつこととなった。その為、後に北条氏から離反して武田勝頼、滝川一益、上杉景勝と主君を変え、最後は徳川氏に仕えた。1615年の大阪夏の陣の後に改易され、二条城もそのまま廃城となった。

 二条城は、西方城の築かれた城山東麓の、比高55m程の丘陵上に築かれた平山城である。城域中央に方形に近い形状の主郭を置き、周囲に二ノ郭等の曲輪群を廻らした環郭式の縄張りである。相変わらずの藪城で、主郭内部は全く突入不可能である。主郭周囲には高さ1m程の土塁が築かれ、一部には石積みが明確に残っている。主郭北西隅には櫓台が備わり、その下方にある腰曲輪の虎口を監視している。この虎口はおそらく搦手虎口で、主郭北東に位置するニノ郭南側の大手虎口と共に櫓台が備わり、櫓門がそびえていたと考えられる。この大手虎口にも左方には腰曲輪の隅櫓がそびえ、厳重に監視されている。主郭周囲の腰曲輪の内、東面と西面には土塁が築かれて防御を固め、特に東側は横堀状の腰曲輪となり、土塁には折邪みがついており、厳重な防御線を構築している。また城域西端の台地基部には、中間に小郭を備えた二重堀切が穿たれ、尾根筋を分断防御している。この二重堀切の内、二本目のすぐ向こうはゴルフ場のフェアウェイで、ヘタに藪の中をガサガサ歩いていると、プレー中のゴルファーから奇異の目で見られてしまう。この二重堀切は南側の谷戸に繋がっており、この谷戸は大きな空堀として多少の手を加えられ、防御線として機能していた様である。この他、現在開山不動尊が鎮座する腰曲輪には、その東西両端に竪堀状の虎口が構築され、東側が大手筋で、奥側に当たる西の虎口は、隠し虎口となって腰曲輪を経由して前述の搦手虎口に繋がっていたと考えられる。この隠し虎口横には井戸跡のような窪地が残っているが、遺構かどうかは不明である。

 以上の様な感じで、二条城は小藩の居城であるため規模は決して大きなものではないが、さすがに近世城郭らしく、虎口側方には必ず櫓台がそびえており、見事な動線構造を有している。その一方で、台地基部の二重堀切など中世山城的特徴も有しており、中世城郭から近世城郭への過渡期に位置する縄張りの城である。これで薮が整備されていれば、かなりオススメの城になるのだが。
主郭北西隅の櫓台→DSC12076.JPG
DSC12083.JPG←1本目の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.471733/139.724918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:近世平山城
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赤壁城 その1(栃木県西方町) [古城めぐり(栃木)]

 今日は、会社を休んで役所に行って所用を済ませた後、ぷらっと未攻略の近場の山城に行ってきた。西方にある赤壁城である。この城は、北関東でも有数の、広大で良好な遺構を持つ山城、西方城の目と鼻の先にある。(というか、道路を挟んで隣の山。)

 例によって、いつも拝見させていただいている「余湖君のお城のページ」で下調べをして行った。まぁ、壮大な西方城に比べると規模も小さく、技巧的な部分は少ないだろうと思って行ったが、予想より見ごたえのあった城だった。主郭までの山道の途中に、堀切が3ヶ所ほどあり、主郭の周りには面白いことに、環状に腰曲輪が2重か3重ぐらいに取り巻いていて、主郭を厳重に防御している。主郭の東側の腰曲輪には、石碑が立っていて、こう書かれていた。
「氷室山標高一九三米 高谷城岡本若狭守秀勝居城 天正慶長年間時代」
高谷城ってこの城のことだろうか?

 さて、ここから先は「余湖君のお城のページ」には載っていないのだが、いったん主郭から降りていくと、腰曲輪の北にも縦長の曲輪が連なっている。2つほどの小さい堀切を越えて、この縦長の曲輪を2~30mも行ったところであろうか、突然、この城で最大の大堀切が出現した。深さ約3m幅3~4mというところ。その先にもまたしばらく行ったところに小さい堀切があり、そこを過ぎるとやや平坦な曲輪状の地形が続くが、果たしてどこまでが城域か判然としない。そのうち峰続きの山をまた登りそうになるが、かなり藪がひどそうだし、城域かどうかもわからないので、そこで引き返した。

 この城は、この主郭北側の曲輪のすぐ東がゴルフコースになっており、そこまでちょっと降りて山側を見てみると、山城の曲輪の連なりをすぐ横から展望できるという、珍しい城である。また、コースに近い曲輪には、OBになったゴルフボールが何個か転がっていた。登り道も案内が出ていて、わかりやすいので、手軽に楽しめる山城だった。
主郭部をゴルフ場側から見たところ→

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.473151/139.708908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※その後の再訪記はこちら

粕尾城(栃木県鹿沼市粟野) [古城めぐり(栃木)]

 今日は一日良い天気で、また非常に暖かかった。もう完全に春の勢いだ。昨日今日と天気がよかったので是非冬の間しか行けない山城に!ということで、今日は粕尾城に行ってきた。

 この城は、南北朝期に小山義政の乱で有名になった城で、小山義政が最後の戦いを繰り広げた地である。しかし歴史的には結構有名でも、古城めぐりのサイトでは、全然お目にかかれない城で、私がいつも拝見させていただいている、その方面ではトップクラスのサイト、「埋もれた古城」や「余湖くんのお城のページ」でも全く取り上げられていないし、小山氏が急ごしらえで作った山奥の城だろうという先入観もあり全然期待していなかったのだが、見事に裏切られ、全く嬉しい誤算となった。

 案内板も目に付くところにはないので、場所もわかりにくいのだが、ちょっと奥にある大手口(城の一番北側に当たる)から上がっていって、最頂部の主郭まで上っていける。幸いなことに地元の方の手が入っていて、一部の郭以外は藪がある程度伐採されており、ほぼ全容を掴むことができた。全体としては、主郭を頂点にして大きなハート状に郭が並んでおり、断崖絶壁になっていない外側部分を横堀が巡っているような形である。ハート状になっている両翼の郭の真ん中に大手道が走っている形だが、その部分にも3段ほどのかなり広い平坦地があり、現在は畑になっているようだ。この平坦地までは、重機が入ってこれるような道がなく、個人が原野を開拓するには規模が大きすぎるので、明らかに当時からのものと思われる。おそらくは城主か城代クラスの居館があったのではないかと考えられる。

 主郭の頂上には小さな祠があり、周囲は断崖絶壁になっている。ここには物見櫓があったらしい。土台部分の岩盤は、一部削りだした岩を積み上げて補強していた後が見られた。これは石垣というほどのものではなく、ただの石組みレベルのものである。さて、次に主郭から西側の郭を北上する形で攻めて行くと、小さな堀切があり、その奥にはかなり大きな削平地が広がっている。現地説明版で二の丸・武者溜とされているこれらの郭は藪がひどくないので、奥まで見通しが利き、その広さがわかる。かなりの居住性を備えた山城である。その西側斜面には帯郭もあり、また郭周囲には、小さな土塁も巡らしてある。広いことは広いけど、やっぱり防御性が弱い急造の城だな、と思いきや、更に北側にそれらしい臭いのする土塁が見えてきた。そこを上ると、なんとその外側に大きな横堀があるではないか!高低差が5mほどもある大きなもので、同じ小山氏の鷲城の横堀を小型にした感じである。しかし底に下って見たら、堀にしては底が平坦で、底幅も5mほどもあり、堀というより帯郭のようである。その外側にも小さな土塁が築かれている。

 更にその北側の斜面を下って行くと小さな横堀が走っており、ここまでが城域のようである。この横堀に沿って西側斜面を下って行くと、水が湧き出している渓谷状の地形に出た。ここは往時も水の手になっていた可能性がある。というのも、そのすぐ南側の稜線部には削平された郭と、その一番先に物見櫓と思しき地形が見えるからである。水の手の監視・防御用の櫓ではないだろうか?

 さぁ、これでほぼ見終わったかなと、北側の町道に出て大手口まで戻ったが、東側の城域は見てないなぁと思い、大手口を登りだしてすぐ左側の小さな横堀から取っ付いてみた。その規模は小さくその先の藪もひどいので、そこから中央の平坦地(畑)にもう一回出て、そこから奥の藪に突っ込んですぐ左側の緩斜面を進んでいった。この斜面はそれなりに平坦な地形だが、全体に5~10°ほど傾いているので、こりゃただの自然地形だなと思って、そろそろ引き返そうかと思った矢先、その南端に大きな横堀が出現した。この横堀は外側に小さな土塁を伴っていて、後北条の比高二重土塁のような形状である。それが大きく弧を描いて郭を取り巻いており、上の郭にはこの堀を見下ろすように、櫓台と思われる高台も見られた。
←曲輪外周の横堀

 このような感じで、この城はかなり広大な城域を持ち、かつ十分な防御性も備えており、決して急ごしらえの粗雑な山城ではなく、十分な準備と周到な計画を持って作られた、小山義政の切り札の城であったようだ。ただ如何せん、比高が低い山だし独立峰ではないので、それなりに鎌倉公方軍にも攻め口はあったのだろう。また、かなり大きな城であるため、兵が少ないとかえって防御が弱くなる面もあるようだ。

 なお、思川をはさんで対岸の、この城から程近い携帯基地局のところに、小山義政の墓があると地元の方に教えていただいた。(これは自刃の地と伝えられる赤石河原とは別の場所である。)この場を借りて、お礼を申し上げたい。おかげで充実した1日になりました。
小山義政の墓→

 帰ってから、くしゃみと鼻水でもう大変!かなり花粉を付けて帰ったみたい。この分だと今年の山城シーズンは今月で終わりだなぁ・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.524903/139.593114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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