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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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高館城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04151.JPG←主郭跡
 高館城は、黒羽城の北方約5kmほどの急峻な山上に築かれた山城である。伝承では那須与一宗隆の父資隆が築いたという。一説にはすぐ北の平野部にあった川田氏の居館の詰め城として築かれたとも言われている。麓からの比高は100mほどであるが、西側の那珂川に面した斜面は急崖を成し登ることはできない。現在は、県道179号線の高館トンネルの真上に位置し、高館トンネルの北側から車道が延びているので、車で城址公園まで登ることができる。
 城の作りはかなり簡素で、削平されたやや広めの曲輪が何段かあり周囲に腰曲輪が何段か付随しているだけで、堀切、竪堀などの防御施設はほとんどない。城の北のはずれには見張台跡と思われる高台が残るが、それ以外には防御を目的とした土塁もほとんど見られず、自然地形に近いかなり古い形態の山城である。おそらく戦国期にはほとんど使用されていなかったのであろう。ただ、城跡からの眺望だけは素晴らしかった。
城跡からの眺望→DSC04158.JPG
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.908862/140.130293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

黒羽城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSC04013.JPG←本丸東側の豪壮な堀跡
 黒羽城は、那須七騎の一つ大関氏の居城である。大関氏はもともと桓武平氏大掾氏の流れとも、或いは武蔵七党丹党の流れを汲むとも言われる。白旗城を拠点に那須氏家臣団の中で勢力伸張を図っていたが、その内に同じ家臣団の中の大田原氏との権力抗争が発生した。1518年、福原氏と結託して、一旦は大田原資清を讒言によって追い落としたが、1542年に越前朝倉氏の援助を受けた資清が逆襲に転じ、大関・福原両氏を攻め破り、自分の息子達を両氏の当主に据えることに成功した。こうして大関氏は、名は代わらないものの実質的に大田原氏の一族となって以後活動するようになった。

 このとき当主に座ったのが大田原資清の長男である大関高増で、なかなか優れた武将であったらしい。そしてこの高増がより堅固な城を求めて新たに築いたのがこの黒羽城である。高増は城と同時に城下町の整備にも着手し、黒羽繁栄の基礎を築いた。その後、大関氏は豊臣秀吉の小田原攻めの際、参陣を渋る主家の那須資晴を見限り大田原氏らと共に小田原に参陣、見事に近世大名として生き残ることに成功した。そして秀吉亡き後、天下を握ろうとする徳川家康が反抗する上杉景勝を攻めるため、諸大名と共に軍を率いて下野小山まで来た際に、大関資増ら那須七騎は家康に謁して二心なきを誓い、家康は対上杉用の防衛拠点として榊原康政を入れて黒羽城を大幅に整備修築させた。こうして黒羽城は那須地域における近世の大城郭になると共に、関ヶ原以後徳川幕府体制下の近世大名黒羽藩主大関氏の居城として幕末まで存続した。

 さて城の遺構であるが、これが非常に素晴らしい。主要な曲輪が南北に一直線に配置された典型的な連郭式の縄張りである。二の丸、三の丸は体育館などが建ってしまっているので、往時の姿そのままというわけではないが、本丸とその周辺の遺構は素晴らしい。本丸を取り巻く土塁に、その外側を深さ15mほどもある豪壮な堀が取り巻いている。本丸南側にはこの巨大な堀を介してかなり大きな馬出しが付随している。更にその馬出しから深い堀を挟んで三の丸に至る。本丸の虎口も土塁と堀の配置が巧妙で素晴らしく、二の丸虎口にも土塁が残る。本丸東側の道を挟んだ広場は現在城址公園の駐車場になっているが、もとは黒羽城の会所があった曲輪で、この周囲にも土塁と堀が見事に残っている。三の丸の南には、出丸を兼ねたと思われる大雄寺があり、二の丸の北側にもいくつかの曲輪があったらしく、かなり広い城域だったようだ。その証拠に、二の丸から数百mも離れた所に北坂門跡の標識があったり、その西側には削平された平場と往時のものと思われる土塁と堀跡も確認できた。三の丸の南東には黒門跡の標識や、二本の大きな土塁跡も残っている。

 石垣こそないが栃木県内では間違いなくTOPクラスの城跡遺構である。
本丸、公園化されている→DSC04050.JPG
DSC04065.JPG←本丸北東の搦め手枡形虎口
馬出しと三の丸の間の堀跡→DSC04027.JPG
DSC03987.JPG←会所跡南側の堀と土塁
黒門跡の枡形土塁→DSC04109.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.869339/140.121474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

佐良土館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03930.JPG←土塁跡
 佐良土館は、那珂川と箒川の合流点近くに築かれた居館跡である。豊臣秀吉の小田原攻めの際、那須氏の当主那須資晴は逡巡して参陣しなかったため、所領を没収、改易されて、わずかに福原庄に5千石を給されて佐良土に館を築いて蟄居隠棲した。それがこの佐良土館である。ただ、このとき初めて築かれたのではなく、元々あった居館を整備した可能性もあるようだ。
 現在は宅地や畑になっており、土塁もかなり削平されてしまっているので、遺構の残存状況は良いとはいえない。それでも土塁跡が一部に残り、周囲には堀跡と思われる地形も残っている。ただ夏場なので雑草が生い茂り、堀の遺構を明確に確認することはできなかった。
 それほど歴史のある居館跡でもないので、通りかかったついでに寄る程度の館跡であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.789044/140.123448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

神田城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSC03884.JPG←堀跡
 神田城は、那須氏草創期の城である。那須氏の祖、須藤権守貞信が1125年に築いたといわれているが、築城年代についても諸説あって定かではない。とにかく12世紀前半までには築城されて、那須氏歴代の居城となった。一説では屋島の戦いで名を挙げた那須与一宗隆は、この城で生まれたといわれている。
 城は平地に築かれた方形単郭居館で、一部崩されているものの周囲の土塁と堀跡が良く残っている。郭内は水田になっていて西側には住宅が建てられている。ただし現在は無人のようである。那須地域では最も古い城跡の一つである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.751900/140.127032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

小志鳥城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03843.JPG←主郭周囲の空堀
 小志鳥城は、小型の単郭の山城である。砦と言った方が良いかもしれない。実際、現地解説板は「小志鳥砦」と記載している。那須氏が本拠の烏山城防衛のために築いた城塞群の一つといわれている。
 遺構はほぼ完存しており、主郭周囲をぐるっと取り巻く土塁と空堀、それに付随する帯曲輪や物見台が残っている。一応公園化されているので登るのに困難はなく、手軽な山城である。遺構もかなり手軽であるが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.698837/140.109059/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

稲積城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03820.JPG←主郭周囲の土塁。
                          太鼓楼跡と伝わる。
 稲積城は、那須氏が築いた最も古い時代の城の一つである。1109年の那須氏2代資道の築城とも、1165年の6代宗資の築城とも言われる。のち室町時代の1414年に上那須、下那須の分裂の際、沢村(那須)資重が一時この城に拠った。資重が烏山城に移ると、平井館の本庄広泰が稲積城に入り、以後那須氏が豊臣秀吉に改易されるまで、本庄氏の居城となった。

 城は、烏山城から南南東に5kmほどの那珂川沿いの台地上に築かれた平山城である。平山城とは言っても、周囲からの比高は10数mほどしかなく、ほとんど要害性を感じさせない。城域は、南東から北西に広く長く伸びていて、中城、外城などの字名が残っている。現在ではほとんどの遺構は湮滅しているが、外城の東端に残る長い一直線上の土塁や、城域内にところどころに残る土塁が、ここが往時城であったことを物語っている。また、主郭跡とされる南東端の曲輪も、畑となってはいるが周囲に土塁の遺構が残っている。堀はほとんど現存していないが、地元の方の話では、外城の水田の西よりに堀跡が残っていたそうであるが、埋めて水田にしてしまったとのことである。城の東には山々がそびえており、立地条件としてはあまり良いとは思えない。主に那珂川を使った水上交易の確保を狙った城だったのだろうか?
外城東側の土塁。→DSC03785.JPG
     中央は稲積神社参道。
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.622158/140.168917/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

桑窪城(栃木県高根沢町) [古城めぐり(栃木)]

DSC03747.JPG←主郭周囲の空堀
 桑窪城は稲毛田城の支城と言われ、建久年間(1190~9年)の築城と伝わる古い城である。桑窪修理亮秀春が築城したとも、谷口筑前守が築城したとも伝えられ、1361年に稲毛田城と共に宇都宮氏綱によって攻め滅ぼされ、廃城になったとも言う。それ以外のはっきりとした歴史は定かではない様だが、現在残る遺構は明らかに戦国期のもので、宇都宮氏が那須氏に対する最前線の城として改修利用した可能性がある。

 桑窪城は、喜連川丘陵と呼ばれる丘陵地帯の西南端付近に築かれている。基本的に単郭に近い城であるが、主郭南側にも周囲と段差のある平坦地が広がっているので、近代城郭の二の丸に相当するような曲輪であったようだ。南東端には櫓台と考えられる高台も残っている。この城で最大の見所は主郭で、内部は畑になっているものの周囲を囲む土塁と空堀がほぼ原形をとどめたまま完存している。大手虎口には堀の前面を防御する土塁を構え、土橋を渡ると両側には主郭の土塁が高くそびえて控えている。特に素晴らしいのは、虎口右手の横矢の張出しである。近代城郭で言う「左袖」であり、中世城郭でこれほど形の整った見事な横矢張出しの土塁が残っている例は、極めて少ないだろう。この張出しの上に登って虎口の土橋を見ると、ほぼ真横から敵兵を迎撃できることが良くわかる。主郭周囲の空堀は、北側に回るとやや浅くなっているが、その中に土橋と思われる遺構も見られ、更にその北側に小さな曲輪がある。そしてその北端を規模は小さいが横堀で掘り切って、城域の北限としているようだ。
 全体に規模はこじんまりしているが、遺構の残りが極めてよく、一見の価値の十分ある城である。
虎口を左方から見たところ→DSC03769.JPG
   中央に土橋がかかりその前後を土塁が防御している
   土橋の奥には横矢の張出しが見える

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.610886/140.058625/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城

佐久山城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03360.JPG←二の丸南側の虎口
 佐久山城は、那須十氏の一つ佐久山氏が築いた城である。那須氏は源平争乱の際、11人の兄弟の内、太郎光隆をはじめ上から9人は平家に味方し、十郎為隆は屋島の戦いで扇を射よとの命に従わず義経の怒りに触れ、末子の与一宗隆が扇を射て武功を挙げて那須氏の家督を継ぐことになった。そして与一の10人の兄は、那須各地に分知されて那須十氏となって宗家を支えた。佐久山氏は与一の兄、次郎泰隆に始まる系統である。泰隆は、佐久山に分封されると佐久山城を築いて居城としたと言われている。以後、佐久山氏歴代の居城となったが、戦国後期の1563年、同じ那須一族の福原資孝に居城を追われて入江野城に逃れ、佐久山城は廃城となった。1590年、福原資孝の子資保は、大田原氏・大関氏等と共に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して所領を安堵され、新たに佐久山四ツ谷に御古屋敷を築いて、片府田城から居城を移した。福原氏は江戸時代に入っても交代寄合旗本として存続し、1702年に古の佐久山城二ノ郭に陣屋を築いて移り住み、幕末まで続いた。

 城は現在の佐久山小学校の裏山に築かれており、御殿山公園となっている。公園化しているため、どこまで旧状が残されているのが不明なところもあるが、全体によく遺構が残っており、特に二の丸周辺の土塁や櫓台、更にその外側(西側)の袖曲輪や土塁、虎口など、中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせている。またバラ園となっている本丸背後にも大きな土塁があり、更にその裏には城中最大の空堀があるようだが、この日は薮がひどく日没も迫っていたので見逃してしまった。更に本丸の東側には土塁と空堀が残されている。
 全体の規模はそれほど大きくないが、手ごろに楽しめる城跡である。
本丸東側の空堀→DSC03374.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.805711,140.006504&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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大田原城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03221.JPG←北曲輪(上段)と土塁
 かなりサボってしまったが、久しぶりに城巡りの記事をUP。
 大田原城は、那須七騎の一つ、大田原氏の本拠である。大田原氏は、もともと大俵氏といい、武蔵丹党の分かれという。那須氏に仕えたが、主家那須氏の上那須・下那須の分裂期に、この抗争を利用して筆頭重臣にのし上がった。上那須家が滅亡したときの策謀の中心は大田原資清で、資清はライバルの大関氏、福原氏との権力抗争に敗れて一旦は越前の永平寺に出家隠棲したが、たまたま永平寺に訪れた朝倉氏と意気投合し、その支援を得て下野に帰国した。その後ライバルだった大関氏、福原氏を養子戦略で乗っ取り、主筋の那須家をも牛耳った。この辺の歴史は、下克上の世とはいえ余りにも謀略が多く、そのため私は大田原氏をあまり好きにはなれない。そして大田原氏は戦国末期には抜け目なく秀吉の小田原攻めに参陣して近世大名として生き延びることに成功し、大田原城はそのまま近世大名大田原氏の居城となって明治まで存続した。
 大田原城は、大田原市中心部の東方、蛇尾川沿いの断崖上の丘陵地帯に築かれている。前述の通り江戸時代にも近世城郭として使用され、現在は龍城公園となって公園化されているが、遺構は大きく、全体によく残っている。本丸北側には2段の曲輪があり、特に上段の曲輪は周囲を取り巻く土塁がきれいに残っており、また本丸への切岸も高低差が大きく目を引くものがある。
坂下門枡形土塁→DSC03242.JPG
 本丸西側には坂下門という近世城郭としての遺構があり、枡形土塁とわずかな水掘が現存している。更にその西の西曲輪や三の丸は、宅地化などで湮滅している。本丸南側には大きな堀切を挟んで、馬出しのような二の丸があり、更にその南側にも稲荷曲輪に続く細長い曲輪が明瞭に残っている。先端には小さな堀切があり、二の丸への登り口は中世城郭的な虎口が残り、林が生い茂っているせいもあって、この辺りは中世城郭の色彩が濃厚である。二の丸から土橋を渡った本丸は広く、周囲をぐるっと規模の大きい土塁で防御している。また虎口の形状も明瞭である。近世城郭としての側面も持ちながら、中世山城の雰囲気も濃厚に漂わせた、県内屈指の城郭遺構である。
DSC03262.JPG←二の丸南側の曲輪
二の丸へ通じる虎口→DSC03268.JPG
DSC03280.JPG←本丸、周囲を土塁が取り巻く
本丸と二の丸間の堀切・土橋→DSC03303.JPG

 お城評価:☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.868498,140.034549&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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矢板城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03200.JPG←矢板城址の古墳跡
 矢板城は、塩谷氏の家臣、矢板氏の居城とされる。矢板城址の碑文によれば、矢板周防守長則が1558年、上杉謙信の宇都宮攻めの際に奮戦討死したという。
 城跡は市街地化の中で完全に湮滅し、古墳跡(瓢箪塚というらしい)とされる高台がわずかに往時の城跡らしさを残すに過ぎない。かつては、矢板保健所、NTT、矢板小学校のあたりに堀をめぐらした館跡があったという。

 お城評価:☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.807807/139.927626/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

御前原城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03194.JPG←西虎口と土橋
 御前原城は、治承・寿永年間に塩谷頼純により築かれたと言われている平城である。しかしその後、塩谷氏は西に3km程の場所にあり矢板市内を一望できる要害性の高い川崎城を築いて本拠を移し、御前原城はその支城として機能したようだ。
 城跡はシャ-プの工場群のど真ん中に主郭だけが残っている。(ちなみにこの町の名前は早川町という。シャープの昔の名前の早川電気に由来する。)複郭の城であったが、主郭以外は駐車場や工場敷地に変貌してしまっている。しかし主郭に関しては遺構が非常に良く残っており、ほぼ正方形に近い曲輪の四周を囲む土塁と堀跡が見事で、一部には土橋跡も見られる。主郭内部は公園となっているが、仕切り土塁と思われる跡や堀跡(池跡?)と思われる窪地なども散見され、事前の想像以上に良い城跡である。主郭南にも、曲輪跡らしき小さな敷地が残っているが、主郭以外でなぜここだけ残したのかよく分からない。

 お城評価:☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.788890/139.944706/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

 なお、訪城当日は先に川崎城を訪れたのだが、生い茂る雑草と蛇とクモの巣に撃退され、撤退を余儀なくされたので、そちらは冬に堀江山城と合わせて再度攻略したい。

多功城(栃木県上三川町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8986.JPG←西の丸と思われる曲輪と外周の土塁
(2006年2月訪城)
 多功城は、宇都宮頼綱の四男、多功石見守宗朝によって築かれた。児山城上三川城と共に宇都宮領の南方を防御する重要拠点であった。多功氏は、代々主家宇都宮氏に良く仕えて勇名を馳せた一族で、裳原の合戦五月女坂合戦など、宇都宮氏の主要な戦いにはほとんど参戦し、功を挙げている。上杉謙信や北条氏政の軍勢ともこの城で渡り合い撃退したという。
 城跡は現在、ゴルフ練習場になってしまったため、主郭部分などの主要部はほとんど湮滅しているが、北側の二重土塁跡などがわずかに残っている。しかし、実はそれ以上に極めて良好な遺構が西側に残っているのに遭遇した。事前にネットで調査した時には記載がなかったが、南西部に横矢の掛かった曲輪がほぼ丸ごと残っていたのである。竹薮がひどく、歩くのが大変だが、曲輪の全周に土塁が残り、外側の一部には明確な堀跡も残っていた。古絵図を見ると、曲輪の形状からして、どうも西の丸に相当するようである。それほど広い曲輪ではないが、事前調査では何もなさそうだったので、曲輪丸ごと残っているのには驚いた。ただ、どうも個人の所有地のようだったので、行く方は迷惑掛けない様気をつけてください。(私は知らずに迷い込んでしまったのだが・・・)
 なお、ゴルフ場の入り口には石碑が立っているほか、城跡南側にある見性寺には多功一族の墓が残っている。
西の丸横の堀跡→IMG_8981.JPG
IMG_8992.JPG←横矢の掛かった土塁跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.431452/139.874432/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

児山城(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8926.JPG←主郭南側の土塁、堀と土橋
(2006年2月訪城)
 児山城は、宇都宮氏の一族児山氏の城である。宇都宮頼綱の四男多功宗朝の二男朝定が児山氏を称してこの城を築いたのが、建武の新政期であると伝えられる。近くの多功城上三川城とともに、小山氏に対して宇都宮領の南方を押さえる拠点として重視されたようである。後、天文年間に宇都宮家中の抗争で、権臣の座から滑り落ちた芳賀高経がこの城に追い詰められて自害して果てた。
 城跡は個人所有地のようであるが、県指定史跡として整備保存されているので、大抵の地図にも載っており、遺構の残存状況も比較的良い。もともと方形居館から発展したらしく、主郭は方形の土塁とそれを取り巻く堀跡が非常に良く残っている。堀の広さは10mほどもあるので、現在は浅くなっているが、往時はかなりの深さを持った大きな堀であったと想像される。主郭南には、土橋を伴った虎口もあり、主郭の土塁の隅には、櫓台らしい盛り上がりが明瞭に残っている。主郭の周囲にも特に南側と東側に土塁らしき地形などが残るが、あまりはっきりしないので主郭以外の曲輪の縄張りがどのようであったかは今ではわからない。ただ、このあたりには、中城・西城などの地名が残っているようで、想像以上に城域が広かったようだ。日光街道(国道4号線)という主要街道近くに構えた、宇都宮氏の重要拠点であったことがうかがえる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447765/139.852374/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

羽生田城(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

xDSC05175.JPG←三ノ丸の空堀
(2005年11月訪城)
 羽生田城は、壬生氏の鹿沼進出に伴って築かれた城といわれ、壬生城鹿沼城の繋ぎの城としての役目を負っていた重要拠点だったようである。壬生氏は後に小田原北条氏の傘下となったので、佐竹氏の後援を受けて北条氏に対抗する宇都宮氏としては、何としても自領の安全保障のために壬生氏の領地を蚕食する必要があり、この羽生田城も攻防の的となったようである。
 城跡は現在、羽生田小学校が置かれているので、本丸・二の丸については破壊されている部分が多く、当時の遺構を確認することはできないが、小学校の西側の薮の中などに、三の丸外周の土塁や堀跡などが明瞭に残っている。基本的にこの三の丸周辺が一番遺構の残りが良い。もともと段丘の上の要害に築かれた城で、小学校の南は現在でも崖状になっている。東側も畑から切岸を築いて10mほどの高低差を設けていて、薮の中には土塁らしい遺構も残っている。また西の方にも土塁跡などが残っていて、何となく城の感じはつかめる程度の遺構は残っているが、特に城の西側の薮がひどく、もう少し整備をお願いしたいところである。

【2010年1月更新】
 近くの城に行った帰り、まだ日のあるうちに羽生田城に通りかかったので、空堀を見に再訪した。以前行った時にはまだ藪が深く、天敵のクモもウヨウヨいそうで空堀突入は断念したが、今回は冬場なので思う存分空堀を巡り歩いた。
 以前の記述の通り、羽生田城は本丸と二ノ丸が小学校に変貌している為、遺構が残っているのは三ノ丸の西半分となる。三ノ丸の外周には高さ2~3mの土塁が防御を固め、その周囲に大規模な空堀が往時の約半分の長さで残っている。この堀は深さ8m程、幅10m程もある大きなもので、三ノ丸外周をぐるりと囲んでいる。空堀は北西でほぼ直角に曲がっているが、良く見ると三ノ丸北西角の櫓台が微妙に張り出して横矢が掛かっていて、堀底の敵を迎撃できるようになっている。
 国土変遷アーカイブの昭和20年代の写真を見ると、小学校は本丸にしかなく、本丸~三ノ丸迄の堀と櫓台等がほぼ完存していたことがわかる。小学校が拡張された時に破壊されており、今から思えば惜しいことをしたものである。羽生田小学校西側周囲をめぐる道路は、二ノ丸空堀の名残である。崖端に築かれた本丸を、幾重にも堀と曲輪が囲んでいる縄張は、岡本城と同じ構造である。
 残念ながらかなり破壊が進んでしまったとはいえ、現存する遺構だけでも一見の価値のある城である。今回空堀を歩いて、以前はわからなかった遺構の良さを確認できたので、以前のお城評価を訂正した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.474238/139.777293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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壬生城(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8698.JPG←横矢掛りの土塁と水掘
(2005年11月訪城)
 壬生城は、宇都宮氏の家臣、壬生氏の築いた城である。但し、「宇都宮氏の家臣」という言い方は、史実に照らすと正確ではない。というのも、壬生氏は紀清両党以上に独立性が強く、事実上宇都宮氏に敵対して戦国大名化していたと見なしてよい。時には宇都宮氏の配下として振る舞い、時には宇都宮氏に真っ向から敵対して、宇都宮城を乗っ取ったこともあるほどである。そのため、宇都宮氏は常に南西方面に対しての備えを固めざるを得なかった。こうした内部の統制の弱さが、関東屈指の名族宇都宮氏を、地方豪族のままに止めてしまったのである。
 壬生氏は出自には諸説あって定かではないが、どうも宇都宮氏の一族であったらしい。または婚姻を通して一族化したのだろう。元々は壬生城を本拠としていたが、鹿沼氏を下して鹿沼城を手に入れると、鹿沼城に本拠を移した。この頃の城の規模がどの程度だったのか定かではないが、後に戦国時代が終わりを告げると、壬生氏は断絶し、他の大名家の下で近世城郭として発展した。特に1712年に鳥居氏が入封すると、幕末まで続いて町の発展に尽力し、そのため現在では鳥居氏の築いた町として記憶されているほどだ。現在、栃木の名産になっている干瓢は、もともと鳥居氏が持ち込んで特産化したものである。
 鳥居氏時代の城は、かなりの広さを持った複郭の平城で、近世城郭の名に恥じないものであったようだが、現在では市街化で破壊が進み、わずかに本丸の南側に水堀と土塁跡が残るが、それとても公園化に伴って石積みの護岸が築かれ、とても旧状を推し量れるようなものではない。南西側の横矢がよく残っているが見所はその程度で、本丸内には公民館や歴史資料館が建てられているため、それ以外の遺構は壊滅している。街中も歩いては見たが、とても旧状を推し量れるような遺構は無く、大手門には丸馬出しまで備えられていたといわれるのに、勿体ない限りである。宇都宮城もそうだが、栃木県は貴重な文化遺産を自ら望んだ近代化の中で永遠に失ってしまったのである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.427653/139.798086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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赤見城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8537.JPG←主郭西側の重厚な二重土塁
(2005年11月訪城)
 赤見城は、佐野市街の西北方にある。藤姓足利氏の足利俊綱が最初に築いたと言われる。その後、藤姓足利氏が没落した後、建久元年(1190年)戸賀崎義宗が城を再興し、以後赤見氏となって佐野氏の領国支配の一翼を担った。しかし永禄2年(1559年)赤見伊賀守が主家佐野泰綱に叛いて城を攻められ、敗れて常陸に落ち延び、その後は佐野氏の支城となったようだ。
 城跡は、なんと保育園になっており、子供の誘拐なども騒がれる昨今では近づき難いことこの上ない。主郭の土塁と堀跡が、南側が一部壊されているものの極めて良好に残っており、しかもその土塁の高さが、良くある方形居館跡などのレベルを超えており、まさしく城と呼ぶに相応しい重厚なものである。西側は二重土塁となっていて、さらにその重厚感が増している。現在は主郭しか残っていないが、往時は二の丸、三の丸、西の丸、北の丸などを備えた、立派な複郭式の平城であったようで、若干ながら地形の跡にその名残を見ることができる。しかしほとんどは湮滅していて、その外形を追うことは難しい。
 いずれにしても、これほどの重厚な遺構が住宅地の真っ只中に残っていること自体、奇跡に近い。今後も長く保存してもらいたいものだ。
二重土塁の更に西側には→IMG_8517.JPG
    西の丸があったらしい。わずかに堀跡らしき地形と曲輪跡らしき段差が残る。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.353523/139.533750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

阿曽沼城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8622.JPG←八幡宮境内裏の堀跡
(2005年11月訪城)
 阿曽沼城は、佐野市内の浅沼八幡宮境内一帯が城域とされる。もちろん、「浅沼」とは「阿曽沼」が転訛したものであろう。この地を本拠とした阿曽沼氏は、藤姓足利氏から分かれた佐野氏の一族で、源平合戦の行われていた寿永年間にこの城を築いたという。南北朝期になって、小山氏に領地を横領されたとも言われるが、場所的に考えて唐沢山城を本拠とした佐野氏の支城群の一翼を担っていたと考えられる。
 城跡は宅地化でほとんど湮滅し、わずかに八幡宮裏に1本の堀跡が残っているに過ぎない。ただ当時は見ることができず気付かなかったが、GoogleMapの詳細航空写真で見ると、浅沼八幡宮を南東部に配した方形の曲輪跡が追えそうである。機会があれば再度追ってみたい。なお、八幡宮境内に城址の石碑が立っているが、阿曽沼氏の子孫の方の筆になるそうだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310993/139.587264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

佐野城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8580.JPG←堀切跡
(2005年11月訪城)
 佐野城は、春日岡城ともいい、佐野氏が築いた近世平山城である。もともと佐野氏は天険の要害をなす唐沢山城を本拠としていたが、1602年に徳川家康から唐沢山城を廃するよう命令が出され、新たに平山城を築いたのがこの城である。佐野市のど真ん中にある独立丘陵を利用して作られた城であるが、佐野氏が改易されたため、わずか12年で廃城となった。
 南北に細長い丘陵を利用して、4つの曲輪を並べて各々を堀切で分断した典型的な連郭式縄張りであるが、周囲を内堀が取り囲み、更にその周囲をぐるりと取り囲む平地も馬場などの曲輪であったらしい。更にその外側には外堀となる水堀が周囲を取り囲んでいたらしいが、今では完全に湮滅している。
 現在は、最南端の三の丸のすぐ南にJRと東武線の佐野駅があり、丘陵部は城山公園として綺麗に整備されているため、往時の様子を思い浮かべるのは難しいが、各曲輪を南北に分断する堀切は良くその形状を残している。また、丘陵の西斜面の一部には、内堀に面した犬走りの遺構が保存されて残っている。それ以外は宅地化されたり、学校が建ったり、税務署が建ったりと、市街化の中に完全に埋没している。
 特に歴史のある城でもなく、近世城郭としても規模が小さく中途半端なので、何かのついでに寄る程度の城であろうか。
犬走り遺構→IMG_8605.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.319154/139.579196/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

清水城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8383.JPG←本丸の土塁と堀跡
(2005年11月訪城)
 清水城は、現在は興聖寺という寺の境内になっている。よくある方形居館跡と思ったが、文献によれば江戸中期頃の古絵図に、複郭式で水濠で囲まれていたと描かれているそうだ。今ではその面影は無く、寺域の周囲に方形に土塁が巡り、その外側を堀跡が囲んでいて、これが本丸跡である。周囲一帯は住宅地となっているので、それ以外の遺構は湮滅している。
 この城は、1228年に佐野国綱が一族の岩崎義基のために築いた城と伝えられ、後の1521年佐野秀綱の居城となったらしい。その後、徳川の世になって佐野氏が改易されると共に廃城になったという。佐野氏の本拠唐沢山城の支城網の一翼を担っていたのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.349732/139.575977/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

唐沢山城 その1(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02251.JPG←本丸の高石垣
(2005年11月訪城)
 唐沢山城は、佐野氏の祖に当たる鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が築いた城と言われている。その後時代が下って、佐野氏の歴代の居城となった。関東にしては珍しい、本格的な石垣の城であるが、この石垣は豊臣秀吉の関東仕置きで旧領を回復した佐野房綱が大改修した際に築かれたようだ。この天険の要害を誇る城を巡っては、関東戦国史の2強、相模の小田原北条氏と越後の上杉氏との勢力争いの境目に当たったため、数多くの戦が繰り広げられたが、いずれの戦いでも落城させることはできなかった。特に上杉謙信は前後10回にもわたってこの城を攻めたと言う。
 そのような歴戦の城であるが、今は山頂に藤原秀郷を祀った唐沢山神社が築かれ、そのための車道も整備されているため、気軽に訪れることのできる山城になっている。全体に遺構は良く残っており、関東七名城に数えられる遺構の素晴らしさを満喫することができる。城域は広く、唐沢山神社の置かれた本丸とその周囲の高石垣を始め、二の丸、三の丸、武者溜り、帯曲輪、北城・南城・西城の各曲輪群、石垣作りの桝形虎口、堀切、横堀など、枚挙に暇が無い。それぞれの曲輪がそこそこの広さを持っているので、全体ではかなりの居住性も有しており、かなりの兵を置くことができたと思われる。北城の曲輪には、青年の家が建てられていたり、キャンプ場になったりと変貌しているが、堀切などが良く残っていて、往時の状況を掴むのにさほど苦労はしない。
 正月になると多くの初詣客で賑わう、一般人にも身近な、関東屈指の山城である。

山上の駐車場に着くと、→IMG_8234.JPG
      枡形虎口がお出迎え
DSC02237.JPG←南城の石垣
北城の堀切、青年の家の→IMG_8314.JPG
    給水タンクが置かれている
IMG_8324.JPG←北城曲輪群の薮の中にも
                          石垣が埋もれている

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.353759/139.600761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※今回から時折、ブログを始める前に訪れた城についても紹介していきます。
 ちなみに唐沢山城は、北陸転勤中に覚えた城歩きを、関東に戻ってから初めて行った城でした。

※後日、重要な遺構群を見逃していたことが発覚。詳細はこちら


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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豊代館(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01342.JPG
 豊代館は、正運寺城とも呼ばれ、佐野源左衛門常世の居館跡と伝えられている。この佐野源左衛門常世は謡曲「鉢の木」の故事で名高い。即ち、旅の途上大雪で難渋していた僧を、佐野源左衛門は自らも貧しい身の上ながら自宅に泊めて、秘蔵の鉢の木まで焚き木にしてもてなした。そして鎌倉幕府への厚い忠節を僧に語ったが、その僧は、実は時の執権最明寺(北条)時頼の旅の姿で、後に時頼は言葉に違わず鎌倉に馳せ参じた源左衛門の忠節を愛でて、厚い恩賞を与えたというものである。本当かどうかは知る由も無いが、その伝説の武人の居館跡と言われているのである。
 場所は、佐野市といっても葛生の方なので、佐野市街からはかなり離れている。場所はかなりわかりにくい。基本的に方形居館跡で、土塁が明瞭に残っている。特に西側と北側の土塁は、隅の櫓台の高台まで明瞭である。しかし、かつて石灰岩運搬用の鉄道が郭内を突っ切っていたため、土塁が削られているほか、東側はかなり土塁が小さくなってしまっている。また南側はほとんど土塁が確認できなくなってしまっている。空堀は湮滅したのか、見られない。郭内は畑に、周囲は宅地になっており、これ以上破壊されないことを望む。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.423821/139.597349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館

鰻山城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01310.JPG←土塁上から見た主郭内部、
                          奥に石碑が見える
 鰻山城は、佐野氏の一族戸奈良氏によって築かれた古い平山城である。1241年に佐野実綱の4男戸奈良五郎宗綱が築いたと伝えられる。しかし1247年の宝治合戦で父実綱と共に執権北条氏と戦って討死したと言う。その後、鰻山城は廃城になった。

 城は、旗川近くの小山の上に築かれている。全山薮化しているので、冬場でも主郭などの探索は容易ではない。基本的に削平された何段かの曲輪と、主郭周りにめぐらされた土塁で構成されている。主郭には城址の碑が立っており、その更に奥にいくと土塁上に祠が立っている。主郭はほぼ四角い形状と思われるが、何しろ薮がひどく土塁上を歩くのがやっとの感じなので、正確な形状を掴むことができない。主郭の北西側には5~6mほど下に曲輪が2段ほど作られている。また主郭南西側には広い削平地があり、近世城郭で言う二の丸、三の丸に相当する曲輪であろう。全体に古い形態の城であることは間違いない。それにしてもせっかく石碑まで建てているのだから、もう少し手入れしてもよさそうだが。もったいない・・・。(矢沢風に)
主郭北西の曲輪→DSC01314.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.376472,139.561965&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

正光寺城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01223.JPG←主郭虎口と土塁
 正光寺城は、下彦間の正光寺境内の裏にある。あまり知られていないので、期待せずに、まぁよくある居館跡だろうと思って行ったが、予想外に素晴らしい遺構だった。それほど大きい城ではないが、主郭の入り口には土塁と虎口が築かれ、周囲は大きな横堀で防御されている。虎口正面は広い土橋となっている。主郭背後は彦間川に面した急崖となっている要害の地で、横堀はそのまま崖の斜面に接続して掘り切っている。周囲を巡ると、広い平坦地に土塁の遺構らしきものも散見されるので、周囲に曲輪があったようである。また寺の墓地の南側の林の中も広い平坦地となっているので、ここも居館などがあったのかもしれない。
主郭周囲の横堀→DSC01244.JPG
 なお、寺の境内には、1585年の須花坂の戦いで戦死した佐野宗綱とその将士の墓がある。それから推察すると、ここは足利長尾氏に対する、佐野氏の国境防衛拠点の一つであったのだろう。佐野氏はその後、次の当主に北条氏政の弟氏忠を迎え入れ、ここに佐野氏は小田原北条氏の勢力下に置かれることになったのである。
DSC01218.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.403125/139.503880/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

要谷山城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01183.JPG←第2郭外周の石垣遺構
 要谷山城は、根古屋森林公園内にある。佐野氏の家臣小野氏が拠った山城である。そのため小野城とも言われる。山麓のキャンプ場などが居館跡だったのだろうが、公園化の際にどこからどこまで手を付けたのかよくわからないので、明確な遺構とは判断しがたい。城の築かれた山頂へは何本かの登山道が整備されていて、かなり登りやすい。城跡に最も近いのが、「せんげんの道」という登山道である。
 林道を抜けて道を登ってしばらく行くと、段曲輪群に出る。大手道に沿って約10段ほどにもなる小さな段曲輪が連なっており、長野の小笠原氏系城郭で見られるような段曲輪群である。栃木近辺では今市の小倉城ぐらいでしか見られない、珍しい縄張りだと思う。その先を更に登っていくと、主郭部に到達する。主郭を中心に何段かの曲輪が取り巻いているが、最初に出くわす曲輪は一応の広さを持ち、明確な井戸跡も残っている。この上が主郭をぐるっと取り巻く第2郭になるが、第2郭周囲にはところどころ明確な石垣遺構が残っている。更に主郭部北側の尾根沿いに大きい堀切1本と細長い曲輪が伸びている。主郭南側にも1段の曲輪があるがその東斜面は大きくえぐれており、自然地形のようにも竪堀遺構の様にも見られるが、ちょっと判然としない。主郭は展望台になっているが広さはそれほど無い。全体的にはそれほどの広さを持っていないので、やはり麓の居館(根古屋)に対する詰の城的存在だったとも見られるが、石垣を伴うなど、設計の新しさを感じさせる。それもそのはず、城ができたのは天正年間だとのこと。要するに織田信長・豊臣秀吉の天下一統の時代である。これほど良好な遺構なのだから、もう少し城についての案内や解説板があっても良いのだが。
主郭北側の曲輪群と堀切→DSC01177.JPG
DSC01160.JPG←大手道に沿った段曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465447/139.471520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

名草城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01141.JPG←主郭と周囲の土塁
 名草城は、名草の地(現金蔵院)に居を構えた南氏の築いた山城で、詰の城であったと考えられる。城が築かれた山は山頂が平らに見えるのでわかりやすく、麓の清源寺脇から登るが、道が完全に消滅していて薮の中を無理やり登っていくので、目印を付けながら登らないと帰り道に迷うこと必定である。ちなみに地図上は、谷一つ隔てた南側から登山道があるように記載されており、迂回する形でそこから登ろうともしたが、こちらも途中で完全に道がなくなってしまい、逆に名草城の南側の急斜面の深い薮を突っ切って直登しなければならないようだったので、結局断念して清源寺に戻ったしだいである。やはりこういう城では道など期待した柔な行動をせず、道なき藪の中に突っ込んでいく強行軍の方が正解な様だ。これほどまで拘って登ったのは、この城が高一族の城だったからである。南北朝フリークとしては必須なのだ。
 薮の中を尾根筋に従って登っていくと徐々に視界が開けてきて、地形もなだらかな傾斜に変わってくるが、どこからが城域かは判然としない。山頂近くになると何段かの小さい曲輪が現れてその先に堀切と土橋が現れる。そこを越えると城の中心部である。主郭は周囲に土塁をめぐらし、大手側に虎口を設けている。主郭周囲に狭いが2段ほどの帯曲輪を張り付けている。主郭の北側と南西側の尾根筋に沿っても数段の段曲輪を配しているが、いずれも規模は小さい。面白いのは、尾根の地形を利用しているのであろうが、それぞれ1本ずつの縦土塁でこれらの段曲輪と帯曲輪の間を遮断しているところである。また主郭の背後にあたる西側はこれら二つの縦土塁で挟まれるように曲輪があり、主郭以外ではこの曲輪が一番広い面積を持っている。
 この近辺では良くある、主郭周囲に何段かの小曲輪があり、2~3の堀切で防御した典型的な小型の山城のようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.392586/139.471068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城

南氏館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

 南氏館は、現在の金蔵院のある一帯であるといわれている。南氏はもともと清和源氏の嫡流足利氏に仕えた譜代の家臣高氏の庶流である。高氏で最も名を知られているのは、足利尊氏の執事として活躍した高師直である。南氏は、師直の祖父師氏の弟頼基を祖とした一族で、南北朝動乱期には同じ頼基の系統から出た大高氏などと共に、高氏一族の一翼を担って各地を転戦して活躍した。高氏一族は、観応の擾乱という足利一門の相克の争いの中で一族ほとんどが族滅された。しかし南氏は生き残り、後に鎌倉公方の下で働いたようである。南氏の中では南北朝期の南宗継が最も知られており、尊氏の九州落ちや観応の擾乱での働きなど、太平記に記されている。長く備中守護を務め、一時期は尊氏の執事的な役目も負っていたようである。時代は下って室町後期に足利長尾氏が初めて足利荘に入部した時にも、南氏はこの地に勢力を有しており、南氏の城であった樺崎城が攻め落とされている。この頃もこの南氏館を居館としていたかどうかは不明である。
 南氏館は、現在では金蔵院周りにあったとされる土塁がかなり湮滅していて、わずかに土塁の名残らしきものが見られるぐらいである。境内には宗継の孫、南宗氏の墓がある。また近くには、詰城と思われる名草城がある。名草城の南東麓には、宗継が開基となり、南氏の菩提寺となった清源寺があり、その近くの山林内に南氏歴代の墓所がある。館の遺構は極めて僅かであるが、南氏の足跡が色濃く残っている地である。
土塁の名残?→DSC01008.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.388504/139.479825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館

下県城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01063.JPG←曲輪と堀跡か?
 下県城は、県氏の築いた城らしいが、城の歴史も県氏の事跡も不明である。ご存知の方がいたらご教示を請う。
 城跡は現在、神明宮という神社になっている。境内は周囲の住宅地や道路より一段高くなっており、曲輪があったらしい雰囲気を漂わせている。また畑は逆に一段低くなっていて堀跡を想起させるが、もしかしたら堀というより低湿地帯であったのかもしれない。それ以外の城らしい形跡は皆無である。
 近くに上県城というのもあるらしいが、日没で今回は訪城できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.287197/139.464183/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:中世平城

八椚城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01053.JPG
 八椚城は、平地の居館跡と思われるが、宅地化で遺構はほとんど隠滅している。わずかにそれと思われる台地と、周囲の畑との高低差が、堀跡であることを物語っているようだ。この城は、古河公方と関東管領上杉氏との抗争の中で、足利長尾氏に攻め落とされたらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.320364/139.490061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:居館

尻無山城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00961.JPG
 尻無山城は、足利市街の北東、国道293号線が新袋川を越える千歳橋のすぐ北西にある丘陵状の小山に築かれた城である。MapFanでは助戸新山城と記されている。城の歴史は定かではないらしいが、おそらくは富士山城などの足利市内の他の城と同様、足利長尾氏の築いた足利城砦群の一つであろう。
 城跡は一部は公園化しているが、主郭部をはじめとする城の中枢部は、市街地にもかかわらずかなり薮化しており、その分遺構の残存状態は良い。何段かにわたる曲輪群と切岸、土塁などが薮の中に確認できる。また公園化している川沿いの平地部は、元々居館が築かれていたのかもしれない。金刀比羅神社が置かれている丘陵部分も、元はといえば曲輪跡だったのであろう。但し、これらの公園化してしまっている部分は、どこまでが遺構なのかは明らかではない。後世の改変も多いかもしれない。
 いずれにしても富士山城などと同様、堀切、竪堀などは無く、土塁と曲輪で構成された古いタイプの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.345446/139.470556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

中里城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00926.JPG
 中里城は柳田氏居館跡とも言い、よく街中の平野部にある単郭方形居館跡である。南北朝時代に足利氏の家臣、柳田伊豆守が築いたといわれている。柳田伊豆守の事跡は定かではないが、戦功により足利義満からこの地を拝領したという。
 この城は、住宅地の奥まったところにあるので探すのにちょっと手間取る。しかも結構新しい1戸建てやアパートが周辺にひしめいており、その中を縫うようにして細い路地を入って行くと突然目の前に土塁が出てくるので、結構ビックリする。方形とは書いたが、真四角ではなくやや五角形に近い歪んだ形をしている。また南西部分は土塁と堀跡が宅地化などで隠滅しているので、往時の正確な形を知ることはできないが、解説板や見学ルートの案内がわかりやすく掲示されていて、非常に親切である。残っている土塁はかなり残存状態が良く、櫓台跡の高台も明確に残っている。また周囲の堀跡も大体想像できるレベルである。市指定の史跡にもなっていて、周辺住民から大切に保存されていることがわかる良好な遺構である。
 なお、近くの宝福寺には柳田伊豆守夫妻の墓塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310975/139.460406/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:居館
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