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沼宮内城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9809.JPG←後部が高台となった主郭
 沼宮内城は、河村氏の一族沼宮内氏の歴代の居城と伝えられる。奥州河村氏は、1189年に河村四郎秀清が奥州合戦の戦功により源頼朝から岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯の地を賜ったことに始まる。その後、秀清の子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に勢力を扶植し、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・玉山・下田・渋民・川口・沼宮内の諸氏を分出した。沼宮内氏は、鎌倉時代から沼宮内城を居城としたと考えられている。沼宮内氏の系譜がわかるのは、戦国後期の沼宮内民部常利・治部春秀父子が南部氏に服属して以後である。この時、南部信直は沼宮内村400石を安堵したと言う。沼宮内氏は、1566年の鹿角長牛城攻撃や、1572年の斯波表の戦い、1586年の大館城攻撃などに参陣した。1591年の九戸の乱の際には、豊臣秀吉が派遣した奥州仕置軍5万3千余騎がこの地に駐留し、南部信直と沼宮内城で軍議を開いた。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。その後も1601年には、春秀は南部氏に従い和賀岩崎一揆の討伐に出陣したと言う。

 沼宮内城は、北上川とその支流大坊川の合流点の東にある、比高60m程の丘陵先端部に築かれている。主郭を中心に、三方に伸びる尾根に曲輪を配した縄張りとなっており、現在城山公園となっている。主郭は南北に長い曲輪で後部が一段高くなっており、土塁も見られる。主郭の南には、浅い堀切を介して二ノ郭があり、北西には三ノ郭が張り出している。三ノ郭の外周には低土塁が残っている。主郭の東には堀切を挟んで小さな東郭が置かれ、その先は二重堀切で尾根筋を分断している。これらの曲輪の周囲には腰曲輪が築かれている。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では二ノ郭・三ノ郭の西斜面に二重横堀・三重横堀があると記載しているが、見た限り横堀ではなく腰曲輪にしか見えなかった。腰曲輪の誤認であろうか?いずれにしても、奥州仕置軍が軍議を開くほど重要な拠点であった様だが、今残る遺構からは規模も縄張りも特筆する程のものはなく、パッとしない印象の城である。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN9814.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.976273/141.229892/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北奥羽南部氏

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