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宇部館(岩手県久慈市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0149.JPG←西端の二重堀切の内堀・土塁
 宇部館は、元はこの地の土豪宇部氏(海辺氏)の居城であったと伝えられる。宇部氏は一時期野田氏を称したが、永正年間(1504~21年)に宇部氏15 代清政は一戸南部系野田氏に従属し、姓を宇部に復して宇部館を明け渡した。以後、一戸南部系野田氏の支城の一つとなった。野田氏11代源左衛門義親は大永年間(1521~28年)に宇部館を居城とした。後に野田古館を築いて居館としたとされる。戦国期の野田氏は、この地域では久慈氏と並ぶ豪族であった。1591年の九戸政実の乱では、南部薩摩守政義・掃部助直親(はじめ政親)父子は三戸城主南部信直方に付いて活躍した。この14 代直親から野田氏を名乗ったと言う。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして野田城は廃城となった。廃城後については、宇部館へ移ったとする説や野田新館を築いて移ったとする説があるが、明確ではない。いずれにしても南部氏が盛岡城を築いて移ると、野田氏もその城下に移り住み、盛岡藩の重臣となった。館跡の南の裾部には、後年盛岡藩の野田通代官所が置かれた。
 尚、『宇部館跡・北ノ腰遺跡発掘調査報告書』(2016年)では、1592年に廃城となった野田城は宇部館のことで、野田氏の居城は、野田古館→宇部館→野田新館と変遷したのではないかと推測している。

 宇部館は、宇部川北岸の比高30m程の丘陵先端部に築かれている。東西に長い城で、主郭の一番奥には八幡神社があり、参道が整備されている。ほぼ単郭の城館で、東の登道を登ると薮払いされた主郭が広がっている。主郭内は東に向かって下り勾配になっていて、この勾配に沿って郭内は5段ほどの平場に分かれている。主郭の先端下方には小郭があるが、藪の中に虎口が見えるので、虎口郭であったらしい。一方、主郭の後部は西側に張出し、その張出し付け根の北側には搦手の食違い虎口が築かれ、張出しから横矢が掛けられている。主郭は後部と北辺の一部にだけ土塁が築かれている。主郭の後部下方には腰曲輪が築かれ、張出しの下方は横堀となって西の尾根まで掘り切っている。この西の堀切は二重堀切となっており、近年の三陸道建設の際に一部破壊を受けている。私はてっきり二重堀切は壊滅していると思ったが、実際に行ってみると、三陸道の際に土塁と堀切がそのまま残っていた!二重堀切の内、消滅したのはわずかな部分だけで、こういう開発の仕方もあるのかと感心した。ただ、中間土塁の一部は表土が現れてしまっているので、豪雨時に崩れてしまわないか心配である。二重堀切の外堀は自然の谷をそのまま利用したものの様である。この他、館の東側の住宅地は往時の居館地と推測されており、南辺に土塁が残存している。以上が宇部館の遺構で、破壊されたと思っていた二重堀切がきれいに残っていたのは嬉しい誤算であった。
搦手虎口→DSCN0159.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.131748/141.779058/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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