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川口城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9765.JPG←北西の大空堀
 川口城は、河村氏の一族川口氏の歴代の居城と伝えられる。奥州河村氏は、1189年に河村四郎秀清が奥州合戦の戦功により源頼朝から岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯の地を賜ったことに始まる。その後、秀清の子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に勢力を扶植し、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・玉山・下田・渋民・川口・沼宮内の諸氏を分出した。川口氏は、玉山氏から分かれて川口の領主となった。1411年に与十郎秀利は三戸城主南部守行に服属し、領地安堵を得て、領地名の川口氏を名乗るよう命じられた。また南部信直の時代には、川口村を領した川口左近秀長は川口村400石を安堵され、その子正家は南部利直に従って大坂の陣に家臣8名を率いて参陣した。1615年、元和の一国一城令によって川口城は破却され、川口氏は盛岡城下に移住した。1657年に正家の子正康が亡くなると、継嗣利景はまだ2歳だったため、奉公できないからと取り潰された。しかし正家の娘孝は初代八戸藩主南部直房の夫人(霊松院)であり、利景は霊松院に引き取られた。後に八戸藩士となり家老まで務め、以後川口家は八戸藩士として幕末まで命脈を保った。

 川口城は、北上川と古館川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。城跡には現在線路や町道(旧国道4号線)が貫通する他、城域西半には工場が建っており、遺構はかなり破壊されてしまっている。従って現況からでは往時の縄張りを想像するのは難しいが、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』によれば、東西2郭から成り、西郭を大館、東郭を小館と呼ぶらしい(現地解説板では誤って逆の呼称となっている)。西郭はほとんど破壊しつくされており、東郭も塁線が残っていないのでどの範囲が曲輪だったのかよくわからない。しかし西郭と東郭を分断する最大深さ10mもの大空堀が台地上に残っている。また大空堀の東に東郭南端の櫓台が残っている。櫓台の東にも空堀の一部が残っているが、少ししか残っていないので、往時の構造はよくわからない。全く期待していなかったが、規模の大きな空堀が残っているのには驚いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.926926/141.201632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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