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姉帯城(岩手県一戸町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0031.JPG←二重堀切の外堀
 姉帯城は、奥州南部氏の庶流姉帯氏の居城である。姉帯氏は、九戸連康の子兼実が糠部郡姉帯村を領して、姉帯氏を称したことに始まる。九戸氏との繋がりが深かった為、戦国末期の三戸城主南部信直と九戸城主九戸政実との南部家家督をめぐる内訌(九戸政実の乱)では、九戸方の有力豪族として戦った。1591年、信直は九戸討伐を進めたが苦戦し、自力討伐を諦めて豊臣秀吉に「九戸政実反逆」を訴えた。秀吉はこれに応じ、甥の豊臣秀次を総大将とした奥州仕置軍を再編成して九戸氏征伐のため派遣した。蒲生氏郷を主力とする奥州仕置軍は、九戸城攻略の前哨戦として九戸方の前線基地である姉帯・根反両城を攻撃した。これに対し姉帯城では、領主姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟・兼興の妻で薙刀の名手小滝の前・棒術の名手小屋野など一族郎党が近隣諸豪と共に立て籠もり応戦した。しかし仕置軍約3000に対し、守備兵100 程度であり、衆寡敵せず大半が討死にして落城した。九戸の乱鎮圧後は南部氏の持城となり、家臣の野田甚五郎(直親か?)に与えられたらしい。翌92年、南部氏が豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。

 姉帯城は、馬淵川北岸の比高70m程の丘陵先端部に築かれている。東西2郭で構成された城で、いずれの曲輪も広さがある。西郭は綺麗に削平された平坦な曲輪で、現在公園化されており、西に腰曲輪があり、東端部に神社と姉帯兼興一族の供養塔が建てられている。神社の裏には東端の土塁があり、その背後に東郭との間を分断する幅広の大堀切が穿たれている。東郭は西郭より高所にある。未整備の雑木林で面積は西郭以上に広いが、郭内が大きく傾斜しており、建物はなかった可能性がある。東郭の東端には基部を分断する大型の二重堀切が穿たれている。この二重堀切の中間土塁は高く盛られ、西の丘陵地から内堀と郭内とが見えないように構築されている。姉帯城の主郭が西郭・東郭のどちらだったかやや判断に迷うが、削平状況からすると西郭が主郭だったと思われる。実際に戦闘が行われた城であるが、縄張りとしては簡素である。
西郭→DSCN9981.JPG
DSCN9991.JPG←西郭~東郭間の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/40.174865/141.322246/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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