SSブログ

一方井城(岩手県岩手町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9653.JPG←主郭後部の大土塁
 一方井城は、輪台城とも言い、南部氏の家臣一方井氏の居城である。一方井氏は、前九年合戦で滅ぼされた安倍貞任庶流の後裔を称する秋田安東氏の一族がこの地に入部し、一方井氏を称したとされる。三戸城主南部氏が岩手・紫波方面に勢力を伸ばした際、南進策の足がかりとして手を結んだ北岩手郡の諸氏の中でも最有力の豪族で、南部氏に従った際には700石を賜った。前進拠点として重要な役割を果たしていたが、南部氏が1592年に豊臣秀吉の命により領内諸城を破却した際、破却36城の一つとして廃城となった。後に盛岡城が築城されると、一方井氏は盛岡に移住した。尚、一方井城主一方井安正の娘は、南部氏23代安信の弟石川高信の側室となり、庶長子信直を一方井城で生んだ。信直は後に田子信直となり、1582年に南部氏25代晴継が若くして死ぬと、南部氏一門の北信愛(のぶちか)の推挙を受けて信直が26代当主となった。従って一方井城は、南部氏中興の祖信直の出生の地でもある。

 一方井城は、高山から南西に伸びる丘陵先端部に築かれている。城は公園化されており、南西麓から散策路が整備されているので、簡単に登ることができる。南北に3つの曲輪を並べた連郭式の縄張りとなっているが、曲輪の順番は普通の城と逆で、南端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭と配置されている。主郭は後部にL字型の大土塁を築いており、土塁上に八幡宮が建っている。大土塁の裏には規模の大きな堀切が穿たれて、二ノ郭との間を分断している。この堀切は、西側でL字に曲がり、主郭西側に回り込んで横堀となっている。また堀切東側は、主郭東側の腰曲輪に通じる虎口が築かれ、更にその下方にも虎口が築かれている。二ノ郭と三ノ郭との間の堀切は浅く、切岸の鋭さもない。三ノ郭背後の堀切は、季節柄薮でわかりにくかったが、ほとんど自然の谷をそのまま利用したようである。この他、主郭の北西角には土塁を伴った腰曲輪があり、また南西斜面にも腰曲輪群が築かれている。城の東斜面にも腰曲輪らしい平場が何段も見られるが、耕地化による改変の可能性もあり、遺構かどうかはっきりしない。以上が一方井城の遺構で、比較的単純な構造の城であるが、主郭の土塁と堀切は規模が大きく、見応えがある。
主郭背後の堀切→DSCN9681.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.969712/141.164746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南部信直 (中世武士選書 第35巻)

南部信直 (中世武士選書 第35巻)

  • 作者: 森嘉兵衛
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/11/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0)