石坂柵(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]
←交差点脇の標柱
石坂柵は、俘囚の長安倍氏が築いた城柵で、安倍氏12柵の一つである。1057年11月に黄海の戦いで大敗した源頼義が自軍の勢力回復に努める間、安倍貞任は強勢を誇っていた。安倍氏打倒に燃える頼義は、出羽の豪族清原氏に援軍を請うこと再三に及び、1062年、族長清原光頼は遂にこれを容れて弟武則を総大将とする大軍を派遣した。源頼義・清原武則連合軍は最初に小松柵を攻撃した。大兵を擁する源氏・清原氏連合軍は優勢で、安倍軍は大敗を喫し、小松柵を放棄して石坂柵に逃げ延びた。しかし清原勢の激しい追撃により、遂に石坂柵も放棄して衣河柵へと敗走したと言う。
石坂柵は、擬定地の標柱が赤荻地区西部の交差点脇に立っている。擬定地なので、当然ながら遺構はない。一方、岩手県の文化財地図では、標柱の位置から北方750m程の丘陵上の一角を石坂柵としている。しかし国土地理院地形図の傾斜量図で見る限り、丘陵上にも明確な遺構はなさそうである。ここでは標柱の位置を記載しておくに留める。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.941128/141.082585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
石坂柵は、俘囚の長安倍氏が築いた城柵で、安倍氏12柵の一つである。1057年11月に黄海の戦いで大敗した源頼義が自軍の勢力回復に努める間、安倍貞任は強勢を誇っていた。安倍氏打倒に燃える頼義は、出羽の豪族清原氏に援軍を請うこと再三に及び、1062年、族長清原光頼は遂にこれを容れて弟武則を総大将とする大軍を派遣した。源頼義・清原武則連合軍は最初に小松柵を攻撃した。大兵を擁する源氏・清原氏連合軍は優勢で、安倍軍は大敗を喫し、小松柵を放棄して石坂柵に逃げ延びた。しかし清原勢の激しい追撃により、遂に石坂柵も放棄して衣河柵へと敗走したと言う。
石坂柵は、擬定地の標柱が赤荻地区西部の交差点脇に立っている。擬定地なので、当然ながら遺構はない。一方、岩手県の文化財地図では、標柱の位置から北方750m程の丘陵上の一角を石坂柵としている。しかし国土地理院地形図の傾斜量図で見る限り、丘陵上にも明確な遺構はなさそうである。ここでは標柱の位置を記載しておくに留める。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.941128/141.082585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:奥州安倍氏12柵