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勝山城(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3857.JPG←本丸北斜面の石垣
(2021年2月訪城)
 勝山城は、平地の谷村城に対する詰城である。築城時期は不明で、『甲斐国志』では1594年に浅野長政の家老浅野左衛門氏重が築いたとしているが、近年では1532年に小山田越中守信有が歴代の居館中津森館から谷村城を築いて移った際に、勝山城も築城されたのではないかと推測されている。いずれにしても越中守信有以降、小山田氏は出羽守信有・出羽守信茂と3代に渡り谷村を拠点として郡内の支配に当たった。1582年の武田氏滅亡の際、信茂は武田勝頼を裏切って織田信長に出仕したが、処刑されて小山田氏は滅亡した。信長横死後に生起した天正壬午の乱では、小田原北条氏が郡内地方を制圧したが、徳川氏との間で和睦が成立すると、徳川氏の重臣鳥居元忠が谷村城に入城して郡内を支配した。1590年の北条氏滅亡後、徳川氏が関東に移封となると、郡内は羽柴秀勝の領地となり、その家臣三輪近家が、次いで加藤光吉・浅野氏重が相次いで谷村城に入った。その後、鳥居成次・本堂茂親の後、1633年に秋元泰朝が上州総社城から谷村城に移封となった。勝山城は谷村城と桂川に架かる内橋で連絡され、両城一体となって機能していたらしい。秋元氏支配時代には、宇治から江戸に運ばれる将軍家御用のお茶壺を保管する茶壺蔵が勝山城内に置かれた。秋元氏が3代続いた後、1704年に秋元喬知が川越城に移封となると、谷村城と共に勝山城も廃城となり、天領(幕府直轄地)となって谷村代官が置かれ、谷村陣屋が造営されて幕末まで続いた。

 勝山城は、標高571.3m、比高120m程の城山に築かれている。現在は公園となって整備されている。山頂の本丸には櫓台が築かれ、東照宮が建てられている。本丸の南側に腰曲輪状に二の丸・三の丸が築かれている。二の丸は本丸の西側まで帯曲輪となって廻らされ、三の丸も東側まで帯曲輪となって続いている。また北・東・南の三方の尾根には舌状曲輪群が配置され、各尾根の先端には大沢見張り台・源生見張り台・川棚見張り台が置かれた。勝山城には堀切が少なく、北尾根にのみ堀切が穿たれている。一方で、西から南西の山腹に横堀が延々と穿たれ、南端では竪堀となって南尾根側方を落ちており、この方面の防御を重視していたことがわかる。この他、本丸の北斜面の城道脇に石垣が築かれ、北尾根の曲輪群の城道にも石列、また二の丸から本丸への登り道にも小さな石垣が構築されている。本城部から離れた南西麓には竪堀・竪土塁があり、南の平地には外堀跡が低地となって残っている。この外堀は西側まで続いていたらしいが、現在は中央道が建設されているため破壊されている。
 以上が勝山城の遺構で、現在残る縄張りや遺構を見る限り、武田氏時代の城というより、豊臣時代の近世的山城の側面が強い様に感じた。しかし武田・北条間で軍事的緊張の強かった時期に、小山田氏が平城の谷村城しか築いていなかったとは考えにくく、横堀などはその時代の名残かもしれない。
三の丸と南の郭群→DSCN3654.JPG
DSCN3731.JPG←北尾根曲輪群の石列
西側山腹の横堀→DSCN3792.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.554426/138.903998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:近世山城
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