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古城めぐり(兵庫) ブログトップ
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千丈寺砦(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5448.JPG←主郭南側の土塁
 千丈寺砦は、黒井城の支砦群の一つである。黒井城が築かれた城山から西の尾根続きの千丈寺山(標高346m)に築かれており、黒井城西方を守る要害として機能したと考えられる。千丈寺砦へは、黒井城から出城である西の丸を経由して、尾根を辿って行くことができる。
 千丈寺砦は、頂部の方形の主郭と、西側の腰曲輪から成る小規模な砦である。しかし普請はしっかりしており、主郭の南側には土塁も築かれている。また、西の丸との間の尾根にも遺構があり、兵主峠は掘切となっており、その西尾根のピークには櫓台らしい窪地を伴った平場があり、物見・馬場などの曲輪も散見される。そこには小堀切も確認できることから、単なる「曲輪状の平場」ではなく、はっきり曲輪として普請されたものであることがわかる。黒井城がいかに堅固な防衛網で固められた城であったか、千丈寺砦まで足を伸ばすとよく分かる。
掘切となった兵主峠→IMG_5453.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.184051,135.094618&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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黒井城 西の丸(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5384.JPG←ニノ郭先端の櫓台
 黒井城 西の丸は、黒井城の西尾根に離れて築かれた出城である。本城とは険しい岩場で隔絶されており、更に西の丸自体が東西230m程にも及ぶ規模を有していることから、名称は「西の丸」でも実質的には独立した出城として機能していたものと思われる。そういう意味もあって、ここでは黒井城本城とは別項として取り扱うこととする。

 東西に連なる4つの曲輪で構成されている。最上部は方形の主郭で、背後は切岸のみで防御している。いかにも西の丸全体の指揮所という感じで築かれている。その前面には、両側面に土塁を築いた細長いニノ郭が築かれている。ニノ郭の先端には櫓台が築かれ、櫓台内部に通じる通路も基壇に残っている。その先は深い掘切が穿たれ土橋を通じて三ノ郭に至る。三ノ郭も細長い曲輪で、前面に小堀切が穿たれ、更に四ノ郭に至る。四ノ郭も細長く、先端に櫓台を築いている。全体ではかなりの面積があり、かなりまとまった兵を置くことができるレベルで、赤井氏の高位の重臣が守将として配置された、独立性の高い出城であったと思われる。
主郭から見たニノ郭→IMG_5377.JPG
IMG_5396.JPG←ニノ郭先端の掘切と土橋
四ノ郭先端の櫓台→IMG_5410.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.181122,135.103437&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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黒井城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5359.JPG←本丸から見た二の丸
 黒井城は、丹波随一の勇将で「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井右衛門尉直正の居城である。元々は、南北朝期の建武年間(1334~38年)に、赤松円心の次男貞範が伊豆竹之下合戦の軍功により、足利尊氏から丹波春日部荘を賜って黒井城を築いたと言われている。ちなみに貞範の墓が黒井城に程近い白毫寺にあることから、晩年の貞範は春日部荘を本拠としていた様だ。その後、赤松氏の勢力が衰退する一方、国人領主の赤井氏が勢力を広げて氷上郡を支配するようになると、黒井城は赤井氏の持ち城となり、その庶流の荻野氏が城主となった。黒井城の城主として記録に残っているのは、室町末期の荻野和泉守とその子と思われる伊予守秋清以降である。この秋清を倒して黒井城主となったのが、赤井直正である。天文年間(1532~55年)に朝日城の荻野氏は、赤井時家の次男才丸を養子として迎えた。これが後の直正である。直正は朝日城を居城としていたが、1554年に叔父の秋清を宴席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。この直正の時代に黒井城は大規模な改修を受けた。1557年、後屋城主の兄赤井家清が没すると、直正が赤井・荻野一族の事実上の統帥者となった。1565年、赤井一族は丹波守護代の八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の実弟)と和久郷合戦で戦い、大勝した。こうして直正は丹波西方に武威を振るい、自身を「悪右衛門」を称して(中世の「悪」は「強い」の意味)全国にその名を轟かせた。1571年に但馬守護山名祐豊が氷上郡に侵攻すると、直正は逆に山名氏の本城此隅山城竹田城を攻め落としたと言われる。直正は、当初将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長に臣従したが、信長が義昭と対立するようになると信長から離反した。1575年、信長は明智光秀に丹波攻略を命じ、光秀は丹波の強豪八上城主波多野秀治を味方につけて、大軍で黒井城を包囲した。しかし籠城開始から2ヶ月以上経った頃、波多野秀治は突如裏切って背後から明智勢を急襲し、それと呼応した赤井勢によって光秀は大敗、命からがら近江坂本城まで逃げ帰った。その後光秀は各地の戦いに転戦した為、丹波攻略は進まなかったが、1578年2月、三木城主別所長治が信長から離反すると、篠山盆地一帯を支配していた波多野秀治は、別所氏に通じて丹波国人衆と共に一斉蜂起した。そこで信長は、再び光秀に丹波平定を命じ、光秀は軍勢を率いて同年3月に丹波へ再侵攻した。光秀はまず八上城に狙いを定め、周囲に城砦群を築いて完全包囲して八上城を兵糧攻めとした。しかし秀治は、黒井城の赤井氏と連携して八上城を拠点に徹底抗戦した為、両者の連携を恐れた光秀は、八上城と黒井城の連携を分断する為、両城の中間に金山城を築いた。1年3ヶ月の長期包囲戦の末、1579年6月八上城は遂に落城し、波多野氏は滅亡した。八上城を抜いた明智勢は孤立無援となった黒井城を囲んだ。前年3月に直正を喪っていた赤井勢は、直正の弟刑部幸家が直正の子直義を後見して明智勢と対峙したが、衆寡敵せず同年8月には黒井城も攻略され、光秀は丹波平定を完了した。光秀には信長より丹波一国が与えられ、黒井城には光秀の重臣斉藤利三が配置された。1582年、本能寺の変の後、山崎合戦で光秀も利三も敗れて滅亡し、その後は羽柴秀吉の家臣堀尾吉晴が黒井城主となった。1585年に吉晴が近江佐和山城に転封となると黒井城は廃城となった。

 黒井城は、標高356.8m、比高257mの城山山上に築かれた城である。丹波三強と呼ばれた赤井氏の居城であり、八木城・八上城と共に丹波の三大城郭と並び称されるが、黒井城は3城の中で最も優れた縄張りと遺構を有している。山頂部の主城部は、本丸・二の丸・三の丸・東曲輪が連郭式に配置され、更に本丸・二の丸の外周には腰曲輪が廻らされており、この点は八上城と似た構造となっている。しかしこれらの主要な曲輪の周りには、八上城をはるかに上回る石垣群が築かれており、高さもあり、算木積みの技法まで確認できる。また本丸と二の丸に築かれた枡形虎口も明瞭で、より進んだ築城技術が投入されている。これらはもしかすると、丹波平定後に光秀の家臣斎藤利三が改修を加えたものであろうか。これらの主城部以外に、北の丸・東出丸・石踏の段・三段曲輪などの曲輪群が主城からやや離れて分散配置されている。この中では東出丸には土塁の囲郭があり、その先端部は前面に堀切を伴った櫓門となってそびえている。三段曲輪については、曲輪があるのはわかるが見た限り三段ではなく、どこのことを指しているのかよくわからなかった。ちなみにこの曲輪群は奥に掘切を伴っている。この他、石踏の段の奥に腰曲輪群が薮に隠れ、更にゆるやかコースという道を降っていくと、途中には山腹を降る竪堀が2本穿たれているのが確認できる。

 黒井城は、こうした本城の遺構以外に、城山から派生する尾根の広範囲に砦群が築かれているが、これらを全て踏査するには丸1日掛かるだろう。いずれにしても勇将赤井直正の名に恥じない、立派な城である。
東曲輪と三の丸の石垣→IMG_5303.JPG
IMG_5314.JPG←三の丸南面の石垣
東出丸の櫓門の虎口→IMG_5490.JPG
IMG_5509.JPG←山腹に穿たれた竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.179245,135.104059&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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白毫寺城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5192.JPG←北城の畝状竪堀
 白毫寺城は、『氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書』では東城館と記載され、歴史不詳の城である。白毫寺の寺伝によれば、明智光秀の黒井城攻めの際、白毫寺衆徒は黒井城主赤井氏に味方して明智勢に抵抗し寺を焼かれたことから、当初は白毫寺衆徒によって築かれた城砦だったものを、明智勢が接収して黒井城攻めの付城に改修したと考えられる。

 白毫寺城は、白毫寺の東の比高40m程の独立小丘に築かれている。小丘は南北2つに分かれている為、城自体も大きく南北に分かれた一城別郭の構造となっている。まず北城は、社殿のある主郭を中心にしたほぼ単郭の縄張りで、主郭周囲に帯曲輪群を巡らし、南西斜面には畝状竪堀6条を穿っている。この竪堀群はかなり明瞭に残っている。その横には土塁に囲まれた短い横堀があり、斜度の緩い南斜面を防御している。北城は、いかにも臨戦的な砦という趣である。一方、南城は南北の尾根に沿って直線連郭式に曲輪を配置した縄張りで、大手と思われる北斜面には土橋を有した2段の小郭(虎口郭だろう)と小掘切で防御し、尾根上に段差だけで区画された細長い4つの曲輪を配置している。主郭の北端は岩場になっているが、一段高くなっており物見として機能したのだろう。4つの曲輪の両側には一段低く帯曲輪が走っており、更に一番北の三ノ郭の周囲に腰曲輪が廻らされ、北西に竪堀状の通路が降っている。北城も南城も普請は明確だが小規模な城砦で、臨時的な城塞の色彩が強い。
 また北城と南城で、築城構想が全く異なるというのも大変興味深い。戦乱の最中に築かれた中世城郭の築城では、やはり自然地形をどう城の縄張りに活かして普請の人工を少なくするかに主眼が置かれた為であろう。尚、南城では鹿に遭遇した。自然が豊かである。
南城の小郭と掘切→IMG_5210.JPG
IMG_5222.JPG←南城の帯曲輪と三ノ郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【北城】http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.196922,135.096699&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

    【南城】http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.195414,135.09657&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0


丹波戦国史―黒井城を中心として (1973年)

丹波戦国史―黒井城を中心として (1973年)

  • 作者: 芦田 確次
  • 出版社/メーカー: 歴史図書社
  • 発売日: 1973
  • メディア: -


タグ:中世平山城
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朝日城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5121.JPG←主郭後部の櫓台
 朝日城は、丹波の国人領主荻野氏の居城である。荻野氏は、後屋城を本拠とした赤井氏の支族で、鎌倉時代に赤井為家の次男重家が朝日村に分封されて荻野氏を名乗った。荻野氏は、太平記の中でも、丹波国人衆の有力者として度々その名が顕れている。鎌倉末期の1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山で挙兵すると、その近臣千種忠顕は六波羅攻めの大将として伯耆から山陰・山陽両道の兵を率いて派遣され、荻野彦六朝忠も丹波国人衆と共に倒幕戦に投じて六波羅攻めの一翼を担ったが、幕府方の反撃に遭い、兵を引いて高山寺城に立て籠もった。その後、足利高氏(尊氏)が丹波篠村で倒幕に挙兵すると、高山寺城に立て籠もっていた朝忠は、足立・児島・位田・本庄・平庄等と共に「今更人の下風に立つ手はない」として高氏の下には参じず、丹後・若狭を経由して北陸道から攻め上ったと言う。また1336年正月の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に落ち延びた際には、室泊の軍議によって足利一族が来るべき再挙東上に備えて西国諸国に配置され、丹波には仁木頼章が大将として派遣され、久下・中沢・荻野・波々伯部らを率いて高山寺城に立て籠もっている。この様に荻野一族は、丹波の有力な国人領主として勢力を蓄えていたことが知られる。時代は下って戦国時代になると、天文年間(1532~55年)に朝日城の荻野氏は、赤井時家の次男才丸を養子として迎えた。これが後に「丹波の赤鬼」と呼ばれて恐れられた丹波随一の勇将、赤井右衛門尉直正である。直正は「悪右衛門」を称し(中世の「悪」は「強い」の意味)、丹波平定に乗り出した明智光秀を散々に打ち破ったことでも知られる。荻野氏時代の直正は朝日城を居城としていたが、1554年に叔父の黒井城主荻野秋清を宴席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。その後も朝日城には荻野一族が拠っていたが、1575~6年の明智光秀による黒井城攻めの際に、明智勢によって付城として改修されたと考えられている。

 朝日城は、黒井城の南西にそびえる向山の北麓の、比高30m程の舌状丘陵に築かれた城である。残念なことに城域の北半分は宅地開発で山ごと削り取られて湮滅し、遺構の多くが失われてしまっている。『図解 近畿の城郭』所収の縄張図で言うと残存しているのはⅢ郭以降で、そのため城の前面にあった竪堀群などは全て失われている。しかしⅢ郭~主郭に関しては藪が多いものの遺構はよく残っている。最上部の主郭は背後に大きな櫓台を築き、背後の尾根を掘切で分断しているが、あまり鋭さはない上、櫓台の両脇を抜けて背後の尾根鞍部に通じているので、動線の分断をそれほど意識していない様である。主郭の東斜面には、畝状竪堀があるとされるが、なんとなくそれっぽくは見えるものの竪堀が小さくかなり分かりにくい。それと言われなければ気付かないレベルである。主郭前面には虎口郭を経由してⅡ郭・Ⅲ郭が梯郭式に配置されている。Ⅱ郭の東側斜面には帯曲輪が幾重にも築かれ、中には竪堀状の虎口や土塁を伴っているものもある。入手した縄張図を見て期待して訪れたが、遺構の規模的に少々見劣りする城である。
畝状竪堀とされる地形→IMG_5117.JPG
IMG_5144.JPG←帯曲輪群の竪堀状虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.165915,135.084511&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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金山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4998.JPG←主郭周囲の石垣
 金山城は、明智光秀が丹波平定のために築いた城である。織田信長の命によって1575年に開始された光秀の丹波平定は、丹波に割拠する豪族たちの激しい抵抗に遭った。特に黒井城主赤井直正と八上城主波多野秀治の抵抗は激しく、一方攻める光秀も、黒井城攻めの際に裏切った秀治の策略によって背後を襲撃されて命からがら近江坂本城まで敗走した後は、各地の戦いに駆り出されて転戦するなど、当初平定事業は遅々として進まなかった。しかし1578年2月、三木城主別所長治が信長から離反すると、篠山盆地一帯を支配していた波多野秀治は、別所氏に通じて丹波国人衆と共に一斉蜂起した。そこで信長は、再び光秀に丹波平定を命じ、光秀は軍勢を率いて同年3月に丹波へ再侵攻した。光秀はまず八上城に狙いを定め、周囲に城砦群を築いて完全包囲して八上城を兵糧攻めとした。しかし秀治は、黒井城の赤井氏と連携して八上城を拠点に徹底抗戦した為、両者の連携を恐れた光秀は、八上城と黒井城の連携を分断する為、両城の中間に位置し、交通の要衝であったこの地に金山城を築いた。城番には矢島式部・加上弥右衛門・朽木久兵衛が置かれたと言う。そして1年3ヶ月の長期包囲戦の末、1579年6月八上城は遂に落城し、波多野氏は滅亡した。同年8月には黒井城も攻略して、光秀は丹波平定を完了した。しかし『兼見卿記』によれば、同年10月に至っても金山城はまだ普請が続いていたらしい。平定を終えたものの、波多野氏や赤井氏の残党の蜂起を恐れていたのかもしれない。しかし翌年には廃城となったと推測されている。

 金山城は、標高540m、比高290mの金山に築かれた、峻険な山城である。ハイキングコースが整備されているので、迷うこと無く登ることができる。岩盤の露出した岩山である金山の東西に伸びる尾根に主要な曲輪を配し、更に南に伸びる支尾根に出曲輪を築いている。主郭は主尾根の中央に位置し、周囲に帯曲輪を伴っているが、それほどの広さは有していない。主郭の北西と南東に虎口が築かれているが、北西側のみ側方に石垣がわずかに残っている。また主郭の西端部はやや高くなり、西面から南面にかけて石垣が残っていることから、天守台であった可能性もある。主郭の東にはニノ郭に相当する東郭があり、虎口を有し、その東側下方に2段程の腰曲輪を有している。一方、主郭の西側には西郭があり、ここには有名な「鬼の架け橋」という巨石がある。東郭も西郭も、曲輪内は岩石がゴロゴロしており、あまりまとまった広さはなく居住性は殆どなかっただろう。一方、西郭から南出曲輪に通じる城道の途中には小さな段曲輪がある。南出曲輪は、幅広の尾根を削平して馬場としており、その先に土塁と虎口、腰曲輪を築き、その下に広い曲輪を築いている。ここには後世、園林寺と言う寺が建立され、今でもその跡が残っている。金山城は、支配拠点として築かれた周山城などと比べればその違いは一目瞭然で、役割は番城だったものだろう。石垣はあるが、範囲は狭く、崩落も進んでいるようなので、遺構面では少々見劣りする。
石垣の残る主郭虎口→IMG_5009.JPG
IMG_5016.JPG←天守台の様な主郭の高台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.114029,135.113994&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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東山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4911.JPG←畝状竪堀
 東山城は、淀山城を本拠とした丹波の豪族波々伯部一族の城である。波々伯部氏の事績は淀山城の項に記載する。東山城は、波々伯部次郎左衛門光則の支族、民部丞光郷の子、兵庫助光興が大永年間(1521~27年)に築いたと言われている。その子光久は、東山城を更に堅固な城郭に大改修するなど、波々伯部氏は一族繁栄して屈指の土豪に成長したと言う。

 東山城は、淀山城のすぐ南東に位置する標高370m、比高110mの山上に築かれた城である。西麓に解説板が建ち、城まで登道が整備され、城内も綺麗に整備されている。小規模ながら戦国後期の技巧的築城技術が投入された縄張りを有している。主郭は周囲を低土塁で囲繞し、北・南西・東の三方に虎口を築いている。縄張りから考えると、南西のものが大手らしく、この虎口のみ石積み跡がわずかに確認できる。その下には6段の段曲輪群が展開しており、綺麗に整備されているため、上から見ると美しい6段曲輪の姿を眺めることができる。主郭の北には2つの小郭と掘切が築かれている。主郭東は、ニノ郭・三ノ郭が切岸だけで区画されており、三ノ郭は先端と北辺に土塁が築かれ、北辺の土塁の基底部には石列が確認できる。三ノ郭の先には大きな掘切が穿たれているが、この掘切から落ちる竪堀と並んで、南側斜面に3本の畝状竪堀が穿たれている。この畝状竪堀は規模が大きく見応えがある。前述の掘切の先は削平の甘い外郭で、南側に竪堀1本を穿ち、尾根の途中に土橋の架かった浅い掘切がある。その先のピークは「馬駆場」の名が残るが、特に明確な普請はなく、藪も多い。東山城は、端正かつ技巧的な姿を残す山城で、登り易いこともあって淀山城と共にお勧めである。波々伯部氏の城は面白い!
大手の6段曲輪→IMG_4880.JPG
IMG_4898.JPG←三ノ郭土塁の石列
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
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八百里城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4819.JPG←大堀切
 八百里城は、丹波の戦国大名波多野氏の家臣畑氏の居城である。その創築は明確ではないが、南北朝時代の築城と考えられている。畑氏以前には、丹波守護細川満元の弟、満国・持春父子がこの城の城主となって畑荘を領していた。満国・持春はその名が示す通り、室町幕府将軍足利義満・義持の偏諱を受けたもので、また後に下野守を称したことから野州家と称され、三管領家の一、細川宗家(京兆家)を支える有力支族として活躍した。一方、戦国時代にこの城の城主となった畑氏は、新田義貞の重臣で剛勇で聞こえた新田四天王の一人、畑六郎左衛門時能の後裔とされる。1341年、越前で時能が足利一門の越前守護斯波高経の軍勢と激戦の末に戦死すると、その遺児六郎時速は母に連れられて丹波にいた新田一族の江田行義を頼って落ち延び、成長したのちは江田氏に属して丹波畑氏の祖となったと伝えられている。明徳の乱の後、管領細川氏が丹波守護を兼帯すると、畑氏は細川氏に属した。1507年に幕府の実権を握っていた細川政元が家臣に暗殺され、家中の内訌によって細川氏の勢力が減退すると、八上城主波多野氏が西丹波で台頭し、畑宗右衛門忠綱は波多野氏に従った。天正年間(1573~92年)に明智光秀が織田信長の命で丹波に侵攻すると、畑牛之允守能は波多野秀治と共に抗戦し、1579年5月に八百里城は明智勢によって落城した。この時、守能の長男守国・次男能国は討死し、守能は落ち延びて摂津の永沢寺に入って仏門に入り、後に高野山で余生を送ったと言う。

 八百里城は、標高442m、比高212mの八百里山に築かれている。南東麓の寺の脇から山道がついているが、途中で斜面に沿って登っている害獣除けの柵にぶつかるので、柵に沿って斜面を直登することになる。南の尾根に辿り着くと、南側には尾根先端の物見台に当たる3段程の曲輪群がある。ちなみに私はここで、はぐれ猿と遭遇した。従って、この山では野生動物との遭遇は覚悟しておいた方が良い。一方、柵の北側の尾根には二重堀切が穿たれている。深さは1m程度で小規模である。二重掘切の先は削平がやや甘いが、曲輪となっている。その付け根には東側に竪堀が穿たれ、かなり長く下まで伸びている。ここから尾根筋を登って行くと、朽ちかけた小さな社殿の建つ平場がある。ここも曲輪だったらしく、この近くの登道には、動線制約の竪堀が東側に穿たれている。この曲輪には、八百里1号墳があって、石室がむき出しになっている。更に上ると数段の大手の段曲輪群を経由して主城域に入るが、その手前の尾根にも両側に竪堀が穿たれて、大手道から斜面への移動を制約している。主城部も基本的には単純な連郭式の段曲輪だけで構成された縄張りで、古い形態をそのまま残している様である。中央の最高所に主郭が置かれ、主郭にだけ虎口部や北辺に土塁が築かれ、後方に櫓台を備えた厳重な構造となっている。主郭背後に2段の段曲輪があり、その先は深さ5~6mの大堀切となっている。その先も出曲輪があって、先端に片掘切があって城域が終わっている。また主郭の南側斜面だけ、腰曲輪が築かれている。日本城郭大系によれば、ニノ郭の南側を降っていくと、2段程の曲輪が築かれているようだが、藪がひどく踏査は断念した。八百里城は、守護の細川氏一族が関連した城にしては、大規模な普請というほどではなく、戦国後期まで存続した城としても、大堀切以外には特筆すべき遺構は少ない。城域はそれなりの範囲に広がっているが、少々面白みに欠ける城であり、山頂まで踏跡は付いているが全体に藪が多いのも難である。
 尚、畑氏の平時の居館は大渕館であったと言われている。
二重掘切→IMG_4724.JPG
IMG_4841.JPG←主郭の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.096035,135.248748&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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般若寺城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4701.JPG←堀切状の虎口
 般若寺城は、八上城攻めの際に明智光秀が本陣を置いた陣城である。織田信長より丹波攻略を命じられた明智光秀は、1575年2月、老ノ坂を越えて丹波に入った。丹波は、古より京の背後を扼し、山陰・山陽に繋がる街道を押さえる要衝で、京の安定的な確保と来るべき中国の毛利攻めには無くてはならない土地であった。光秀は、内藤忠行に亀山城で迎えられ、赤井直正の黒井城攻めを進めるが、八上城主波多野秀治の策略によって大敗を喫し、居城の近江坂本城まで総退却した。この時亀山城も波多野氏の手に落ちた。その後、2年程の間、亀山城を巡って一進一退が繰り返され、また光秀自身も各地の戦いに転戦しており、1577年に本格的な丹波攻略を再開し、ようやく亀山城を確保して丹波攻略の拠点とした。その後1578年、光秀は赤井氏の拠る黒井城と波多野氏の拠る八上城の中間地点に金山城を築いて両者の連携を断つと共に、八上城を完全包囲して兵糧攻めにした。この時に本陣としたのが般若寺城である。この籠城戦の最中も光秀は、毛利攻めを行う羽柴秀吉への援軍に赴いたり、信長に反旗を翻した荒木村重を討伐するため有岡城攻めに参陣したりと、転戦を続けた。そして1年3ヶ月にわたって籠城戦を続けた波多野秀治も、1579年6月、遂に兵糧尽きて降伏した。その後、8月には黒井城も落とし、光秀は5年の歳月を掛けてようやく丹波攻略を成し遂げた。信長はその功績を絶賛して、光秀に丹波一国を与えた。本能寺の変の、3年前のことであった。

 般若寺城は、八上城から篠山川を挟んで対岸の北に位置する比高50m程の独立小丘陵に築かれている。現在正覚寺が建てられているこの山の麓の地には、元々波多野秀治が建立した般若寺があり、光秀は寺の本堂に本営を置き、背後の山上に城砦を築いた。この山上へは南東麓から小道が付いており、登るのは容易であるが、山上は激しい藪に覆われている。それでも、頂部の曲輪や切岸、腰曲輪、掘切を兼ねたと思われる虎口などが確認できる。東西にそれぞれ東郭・西郭を置き、その中間部に一段低い窪地の曲輪で連結した構造で、腰曲輪は基本的に八上城のある南面に集中している様である。曲輪群は明確であるが、如何せん薮で遺構の確認が大変な上、遺構自体も左程特筆するようなものではない。しかし光秀の本陣が置かれた場所でもあり、歴史的な重要性に鑑みれば訪れておきたい城砦ではある。
東郭の切岸→IMG_4680.JPG
IMG_4703.JPG←腰曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.076282,135.264884&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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奥谷城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4633.JPG←ニノ郭背後の大堀切
 奥谷城は、蕪丸城とも呼ばれ、丹波の戦国大名波多野氏の初期の居城である。後により峻険な八上城を築いて居城を移すと、奥谷城は出城として機能したと考えられている。

 奥谷城は、高城山から伸びる南西の尾根先端の比高60m程のピーク上に築かれている。比較的小規模な城であるが、遺構はよく残っている。麓の道路に解説板があり、その脇から山林内に入って行ける。特に整備はされていないが、比較的歩きやすい。解説板の脇から登る道はかつての大手道らしく、その上に大手木戸口と大手郭群が築かれている。大手郭群から尾根道を数分登ると主郭の腰曲輪に至る。この腰曲輪は主郭前面の三ノ郭に通じている。三ノ郭と主郭は3m程の切岸で区画されている。主郭は西側に大手虎口が築かれ、虎口の両側には幅広の土壇があるので櫓門になっていたのだろう。主郭の東斜面には竪堀らしい地形も散見されるが、あまり明瞭ではなく遺構かどうかはっきりしない。主郭背後には切岸下の小堀切を挟んでニノ郭があり、ニノ郭の背後は高城山に続く尾根との鞍部で、大堀切に加工されている。掘切の底は堀底道として使われていた様だ。一方、主郭の北西斜面には腰曲輪群が築かれ、その下方には居館の平場が広がっている。この居館部は、腰曲輪群から続く土塁で囲まれ、更にその下にも大きな平場があって、上下2段の平場で構成されていた様だ。居館部のすぐ南側が、最初に登ってきた大手郭群である。奥谷城は、比較的単純な形態の小さな城で、波多野氏の勢力が増すにつれて、手狭になった為に八上城に移ったことが、遺構を見るとよく理解できる。
山麓の居館部→IMG_4650.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.056102,135.252954&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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法光寺城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4547.JPG←主郭の低土塁
 法光寺城は、丹波の戦国大名波多野氏の支城である。波多野氏は当初奥谷城を居城としたが、その後より峻険な八上城を築いて居城を移した。そして八上城西麓の殿町に城下町を整備し、城下町と八上城の防衛の為、西に障壁の様にそびえる山稜上に法光寺城を築いた。法光寺城の築城は天文年間(1532~55年)の頃と推測されており、1559年に三好長慶の軍勢に八上城が攻められた時、法光寺城が三好方の部将内藤宗勝の手に落ちたという記録が残っている。1578~79年に明智光秀が八上城を完全包囲して兵糧攻めにした時には、法光寺城は明智方の手に落ちて八上城に対する付城として機能したと言う。

 法光寺城は、前述の通り八上城から殿町を挟んだ西の山稜上に築かれた城砦である。その中枢部は343.7mの三角点のあるピークで、そこから北に伸びる尾根上に3ヶ所、西の尾根に2ヶ所の合計6ヶ所の「防御陣地」(現地解説板の表現)が築かれている。法光寺城も、本城の八上城と共に国の史跡範囲に入っているが、あまり整備はされておらず明確な登道も整備されていない。しかしよく見ると北麓の藪の中に虎口郭らしい平場と土塁がある。大手の木戸口であろうか。そこを登ってやや東側へと登っていくと、そこから竪堀状の登り道が一直線に伸びているが、大手道であろうか?この道は逃げ場のない一気直登の急坂である。そこを登って尾根状の平坦面に出ると、そこが第1郭群である。先端に数段の段曲輪を伴った広めの舌状の曲輪を有し、更に数段の小郭で構成されている。更に尾根を進むと小堀切の先の小ピーク上に第2郭群、更にその先に第3郭群が現れる。第2郭群は明確な切岸の段曲輪を持ち、頂部の曲輪の後部は一段高くなっている。その後ろにも細長い曲輪が続いている。第3郭群は第2郭群と比べると少々普請が甘く、切岸などの明瞭さにやや欠ける。その先に竪堀で動線制約された土橋があり、その先が主郭に当たる第4郭群である。ここが最も多くの段曲輪群で構成されており、更に頂部の主郭外周には低土塁も築かれており最も防備が厳重であるが、砦的なレベルで普請は小規模である。ここから西尾根の2つの郭群は、時間の都合で今回はパスした。法光寺城は、小規模な郭群だけで構成された小城砦であるが、八上城の全体像を把握する上では貴重な遺構である。
 尚、主尾根のほとんど全体に害獣除けの金網が張ってあるので、写真映りが悪くなってしまうのが難。
動線制約の竪堀→IMG_4534.JPG
IMG_4583.JPG←北麓の大手木戸口らしい地形
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.058192,135.245122&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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館山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4460.JPG←謎の窪地と土塁・竪堀群
 館山城は、歴史不詳の城である。江原左馬之助または河村紀伊が築城したとも言われるが、詳細は不明である。

 館山城は、標高298m、比高58m程の丘陵上に築かれた城である。非常に謎の多い縄張りで、給水設備のある山頂に主郭があるがここはほとんど単郭で、主要な遺構はその東側の緩斜面に集中している。ここには中央に大きな窪地があり、その周りを囲む様に北に向かって放射状に大土塁と竪堀が交互に築かれ、その東側に社殿の置かれた小郭がそびえ、それに続いてその南東にも曲輪状の土壇と通路状の掘切が築かれている。これらは全て、前述の窪地を取り巻くように配置されている。これらの中腹の遺構群から山上の主郭への途中にも、竪堀状通路と土橋状の尾根や平場がある。人為的な遺構には間違いないが非常に特異な遺構で、特に窪地と竪堀群についてはその意図がさっぱりわからない。米沢の矢子山城にも窪地とその周囲に掘切状通路があったが、これは石切り場の跡であったということから、それに類似した雰囲気の館山城も、本当に城郭遺構かどうか少々疑問に感じる。判断は今後の考究に待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(城郭遺構かどうか不明なため、☆一つ減)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.038799,135.196306&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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大渕館(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4422.JPG←土塁と空堀
 大渕館は、土居の内とも呼ばれ、この地の土豪畑氏の居館と言われている。古書には「天正の頃、畑左近允能綱・同弾正守広等の住居」と記されていると言い、戦国後期には八上城主波多野氏に属していた。尚、畑氏は詰城として八百里城を構えていたが、明智光秀の丹波平定戦で落城している。
 大渕館は、現在も城主の末裔の畑家の屋敷であり、その周囲に土塁と空堀が良好に残っている。ほぼ方形に近い単郭居館で、土塁には隅櫓台も築かれ、小土豪の居館の雰囲気を濃厚に漂わせている。県の史跡にも指定されており、よくぞここまで立派に遺構を維持してきてくれたと畑家の方々には感謝せずにはおれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.082568,135.256408&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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大上西ノ山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4361.JPG←主郭の横矢張出しの櫓台
 大上西ノ山城は、歴史不詳の城である。1578~79年に八上城を完全包囲した明智光秀が本陣を据えた般若寺城から北北西にわずか850mしか離れておらず、陣城的な縄張りであることから、明智勢によって築かれた付城という説が有力である。
 大上西ノ山城は、標高250m、比高わずか40mの山稜先端部に築かれた城である。基本的には南北2郭で構成された小規模な城で、南側がほぼ長方形をした主郭で、前面に低土塁と掘切を穿ち、背後も堀切で二ノ郭と分断している。この背後の掘切は、城の規模から想像するより規模が大きい。主郭の北は二ノ郭で、やや削平の甘い平場の背後に大きな櫓台を備え、やはり背後を掘切で分断しているが、主郭掘切ほどの鋭さはない。この城で特徴的なのは、主郭西側の腰曲輪から落とされた竪堀群で、数m間隔で7~8本ほど穿たれている。しかし小規模な上、長さも短く、どれほどの防御効果を発揮したかは定かではない。一方、この竪堀群のある腰曲輪に対しては、主郭南西端に張り出した櫓台から横矢が掛けられており、竪堀群と横矢張出しの櫓台の連携で、初めて防御性を発揮したのかもしれない。主郭の東側にも腰曲輪と竪堀2~3本があるが、藪が茂っておりあまりよく確認できない。この地域では少々特異な形態の、陣城的な小城砦である。
西側腰曲輪と竪堀→IMG_4370.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.083253,135.260099&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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八上城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4206.JPG←本丸背後の石垣
 八上城は、明智光秀の丹波平定に最後まで頑強に抵抗した丹波の戦国大名、波多野氏の居城である。波多野氏の出自は明確ではないが、相模の豪族波多野氏の後裔とも言われ、石見から丹波に入部して吉見姓を名乗っていたが、清秀の時に管領細川勝元に仕えて主命によって母方の姓波多野氏を名乗り、応仁の乱で大功を挙げて、多紀郡を与えられたと伝えられている。当初は高城山南西の尾根先端部に奥谷城を築いて居城とし、奥谷に城下町を形成した。その後も丹波守護を兼帯した管領細川家(いわゆる京兆家)に属したが、細川政元の暗殺後に後継を巡って細川家は内訌を繰り返し、その中で清秀の子元清は細川高国に属して周辺の荘園を蚕食し、多紀郡内を制圧した。西丹波の有力者に成長した元清は、新たな支配拠点として八上城を築いた。また元清の弟元盛は京兆家内衆の名門香西氏の名跡を継ぎ、末弟の賢治は大和国衆の柳本氏を継ぎ、妹は播磨の名門別所氏に嫁ぐなど、勢力を大きく伸ばした。元清は、将軍足型義稙から偏諱を受けて稙通と改名し、幕府の評定衆に列した。1526年、細川高国は細川尹賢の讒言を信じて、近臣の香西元盛を誅殺し、怒った稙通(元清)は弟の賢治とともに高国の政敵細川晴元に通じて高国から離反して、稙通は八上城に、賢治は神尾山城に拠って挙兵した。高国を破って京都から追い落とした稙通は、三好元長と共に晴元を支える有力者となった。波多野氏の勢力が強大化すると共に丹波守護代で八木城主の内藤氏との対立が激しくなり、1538年に稙通は三好政長と共に八木城を攻め落として内藤国貞を没落させた。天文年間(1532~55年)の末になると、波多野氏は細川晴元と対立した三好長慶と敵対するようになり、三好勢に八上城を度々攻撃され、1557年に長慶の部将松永久秀によって落城した。長慶は、松永孫六を八上城主としたが、1566年に波多野秀治は八上城の奪還に成功し、旧領を回復した。1568年、足利義昭を奉じた織田信長が上洛して義昭を将軍の座に据えると、秀治は黒井城主赤井直正と共に信長に降った。しかし将軍義昭と信長の間が険悪になると、赤井直正は信長から離反し、1575年、信長は明智光秀に丹波平定を命じた。光秀は、西丹波深くまで進撃して直正を黒井城に囲んだが、光秀に属していた秀治は突如裏切って光秀軍を背後から急襲し、光秀は大敗を喫して京に逃れた。その後再び光秀の丹波平定戦が始まり、八上城は1578年から明智方の大軍に完全包囲され、1年に渡る籠城戦の末に落城降伏した。秀治ら波多野3兄弟は、神尾山城を経由して安土城に護送され、磔にされて波多野氏は滅亡した。その後、丹波を平定した光秀は、並河飛騨守を八上城代とした。光秀滅亡後の豊臣政権期には亀山城主となった前田玄以の属城となった。1608年に松平康重が八上城に移封となったが、徳川家康の命で新たに篠山城を築城し、その完成と共に八上城は廃城となった。

 八上城は、篠山盆地の東南東に位置する標高462m、比高242mの高城山に築かれている。丹波三強と呼ばれた波多野氏の居城であり、丹波の三大城郭の一つに数えられるだけあって、かなり広範囲に曲輪が散在し、広大な城域を有している。主城部を主峰に置き、そこから派生する北西・東・南東・南の尾根に、外郭を配置している。主城は石垣を有した本丸と、その周りを囲むニノ丸・岡田丸の他、三ノ丸、右衛門丸を初めとする曲輪群を大手に当たる北西側に集中的に展開している。更に大手筋に沿って、下から順に「鴻の巣」「下の茶屋丸」「中の壇」「上の茶屋丸」が築かれているが、それぞれは基本的には尾根上の小平場で、あくまで番所的な位置付けの様である。一方、主城の南東部の谷戸に朝路池という大井戸を有した広い平場と、それを挟む両翼の尾根に蔵屋敷・池東番所と池西番所があり、更にその先の尾根にも段曲輪群が築かれている。蔵屋敷から東に伸びる尾根には、「はりつけ松」「茶屋の壇」「馬駈場」「芥丸」「西蔵丸」が点在している。これらの外郭が広範囲に広がる一方、掘切は比較的少ない城で、規模の大きなものは池東番所と池西番所のもの、それ以外は規模が小さなもので、右衛門丸の先の曲輪群等にいくつか見られる程度である。掘切よりも防御構造として重視されているのは動線制約の竪堀の様で、北西と東の尾根道に数ヶ所築かれている。特に東尾根では茶屋の壇などの平場の前面に竪堀を穿って尾根を土橋状にして、効果的に動線を制約している箇所が全部で4ヶ所確認できる。石垣は本丸後部と右衛門丸横の虎口部のみに低いものが築かれ、土塁も蔵屋敷と池東番所にだけ確認できる。尚、北西尾根の山麓には、主膳屋敷という居館跡の平場が広がり、高さ10m程の大切岸で上段の御殿屋敷と2つの平場に分かれ、この切岸に残存石垣が見られる。そしてこの居館付近の大手筋にも曲輪群が確認できる。以上が八上城の遺構であるが、更に出城として奥谷城と、奥谷の城下町を挟んで西の山稜上に法光寺城を築いている。しかし八上城は、石垣がある以外は天守台も築かれておらず、虎口などもそれほど技巧性は感じられない古い形態の縄張りを引きずっており、強勢を誇った波多野氏の本拠にしては少々見栄えしない城である。但し、石垣については、篠山城築城の際に石材が転用されている可能性もあり、往時はもっと立派な石垣であったかもしれない。

 尚、八上城は国指定史跡であり、登山道が整備されているので迷うこと無く登ることができるが、山道は傾斜がきつい上、整備された丸太の段の一段一段の段差が大きく、登るのに非常に疲れる。比高250mに満たない、丹波では決して高くない山城であるが、体力消耗度は大きい。
池西番所の曲輪群→IMG_4277.JPG
IMG_4298.JPG←尾根筋を防御する竪堀
主膳屋敷の残存石垣→IMG_4082.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.061723,135.2557&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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淀山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_3914.JPG←ニノ郭の大堀切
 淀山城は、丹波の豪族波々伯部氏の居城である。「波々伯部」の名は、この地の部民が古代朝廷で亀卜に用いる「ハハカ(波波架)」の木を献上していたことから付いた名と言われる(ハハカの木は現在も波々伯部神社にあり、地元の方の話では極めて珍しい樹だとのことである)。この地に土着した一族が波々伯部氏を称したが、一説には八幡太郎源義家の裔の房光が篠山に入部したことに始まるとも言う。鎌倉末期~南北朝期には次郎左衛門為光が足利尊氏に仕えて活躍した。『太平記』には、丹波での戦いの中で諸豪族に混じって波々伯部の名が頻繁に現れている。明徳の乱の際も光豊・光基らが活躍した。また一族の光尚は南山城を、基継は垣屋城を、光興は東山城を築いて、一族繁栄して屈指の土豪に成長した。その後、丹波守護の山名氏や細川氏の被官となり、後に八上城主波多野氏が強大化すると、その重臣となった。戦国後期に織田信長の部将明智光秀が丹波に侵攻すると、波々伯部光吉は落城前に帰農した。その子光広は酒屋を開業して、大いに繁盛したと言う。

 淀山城は、国道372号線の北に位置する標高302m、比高52mの丘陵上に築かれた城である。丘陵頂部に当たる南に主郭を置き、その周囲に腰曲輪を設け、主郭の北に横堀状の腰曲輪を挟んでニノ郭、更にその北に大堀切を介して外郭を配している。比高の低い山であるため、要害性の不足を補うために、主郭・二ノ郭とも大きな高低差を持った大切岸で囲まれており、近づくものを寄せ付けない。これらの更に外周にも腰曲輪が築かれ、土塁や独立堡塁、横堀・竪堀などを効果的に組み合わせた、中々技巧的な縄張りとなっている。特にニノ郭の東側には短い横堀の両側から竪堀が落ちており、特に南側のものは麓まで伸びる長い竪堀で、それを挟むように腰曲輪まで付随している。構造から考えると、この竪堀は城内通路を兼ねていたと考えられる。また東側山麓の2ヶ所に平場があり、井戸跡が残っている。波々伯部氏の勢威がよく感じられる、良好な遺構である。
ニノ郭東側の横堀・竪堀→IMG_4014.JPG
IMG_3932.JPG←西側腰曲輪の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.071927,135.309623&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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細工所城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_3817.JPG←堀切に架かる斜めの土橋
 細工所城は、荒木城とも言い、天正年間(1573~92年)に八上城主波多野氏の家臣荒木山城守氏綱の居城であった。氏綱は波多野氏旗頭七人衆の一人と称され、かなりの勇将であったらしく「荒木鬼」と呼ばれて恐れられた。織田信長の命で丹波に侵攻した明智光秀によって、度々攻められたが何度も撃退したと言う。しかし1577年に始まった二度目の丹波攻めの際に激戦の末に落城し、氏綱は光秀に降伏した。光秀は長期包囲戦で1579年に波多野氏を滅ぼした後、氏綱の武勇を惜しんで家臣になるよう請うたが、氏綱は病気を理由に固辞した。代わりに子の氏清が光秀に仕え、本能寺の変や山崎合戦にも参加したが、天王山で光秀と共に滅んだと伝えられている。

 細工所城は、篠山川東岸にそびえる標高404m、比高164mの山上に築かれている。南西麓から登道が整備されているので、迷うこと無く登ることができる。山頂の主郭を中心に、北・南西・南東に段曲輪群を配し、更に北西に伸びる尾根上にも片掘切と一騎駆けの土橋を介して出曲輪を築いている。掘切は各尾根に配された段曲輪群に見られるが、南東尾根のもの以外は小規模で数も少ない。また全体的な縄張りも比較的旧態依然としたもので、戦国後期に明智軍の猛攻に耐えた城という印象はあまり感じられない。ただ非常に特徴的なのは、南東尾根に穿たれた掘切で、城内では最も規模が大きい上、斜めに土橋が架かる珍しい構造をしている。この搦手筋を厳重に防御する意図があったのだろう。この他、山麓からの登道を登り始めた所に、山麓居館跡とされる平場と櫓台・掘切があり、周囲には腰曲輪も付随している。細工所城は、縄張り的にはやや見所が少ないが、登道が整備されているので登りやすく、且つ光秀の丹波平定戦で知られた城であり、お勧めである。
主郭まで段々に連なるニノ郭群→IMG_3786.JPG
IMG_3760.JPG←出曲輪との間の一騎駆け土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.092822,135.322284&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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篠山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_8814.JPG←内堀と二ノ丸石垣
 篠山城は、徳川幕府が豊臣氏包囲網の一環として新造した近世城郭である。徳川家康は関ヶ原合戦で勝利して政権の実権を握ると、1603年には征夷大将軍に補任され、僅か2年で後継者の秀忠に将軍職を譲って将軍職の世襲化を図り、着々と豊臣家の勢力漸減を図った。一方で、未だに隠然たる勢力を以って大坂城に君臨する豊臣家を包囲するため、外様諸大名に命じて西国各地の城を大々的に築城・整備した。篠山城もその一つで、元々この地は、明智光秀の丹波平定に激しく抵抗した波多野氏の居城であった八上城が拠点城郭であったが、1608年に家康の実子ともされる松平康重がこの地に入部すると、家康の命で新城の築城に取り掛かった。この築城工事は西国15ヶ国20諸侯の大名に夫役を命じた天下普請で行われ、縄張奉行に家康の信任厚く築城の名手と言われた津城主藤堂高虎を、普請総奉行に家康の女婿の姫路城主池田輝政を当て、突貫工事によってわずか1年足らずで完成した。完成とともに、幕命によって康重は八上城から篠山城に移り、大坂城包囲網の一翼を担った。豊臣氏滅亡後も篠山城は需要な城として存続し、明治維新までの260年間に松平3氏8代、青山氏6代の居城となった。

 篠山城は、篠山と呼ばれる小丘陵を利用して築かれた城である。その意味では平山城であるが、実質的には平城である。基本的には環郭式の城で、内郭・外郭双方の外周を水堀で囲み、外郭に当たる三ノ丸は外周に土塁を築き、内郭の本丸・二ノ丸は総石垣で囲まれた曲輪となっている。本丸と二ノ丸は高さ数mの段差だけで区切られ、本丸の南東角には天守台が築かれている。しかし篠山城では、天守は築かれたことがない。築城当時、他の城の普請を急ぐため、天守の創建は放棄されたと見られている。内郭の石垣には、天下普請の城らしく、石垣に多数の刻印が残っており、そこかしこで見ることができる。また二ノ丸には、昭和19年に失火によって消失した大書院が復元されている。この城の特徴は、三ノ丸の外3ヶ所に角馬出が築かれていることで、北側の大手馬出しは市街化によって湮滅しているが、残りの2ヶ所が現存している。特に南馬出しは規模が大きく、立派な土塁で囲まれている。また三ノ丸を取り巻く水堀は幅40m程もあって全周を囲んでおり、威容を湛えている。同じく藤堂高虎が築いた、今治城や津城との類似性を感じさせる。
大手枡形と屈曲する内堀→IMG_8774.JPG
IMG_8868.JPG←東馬出し
南馬出しの土塁→IMG_8838.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.073167/135.217705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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柏原藩陣屋(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_8663.JPG←現存する表御殿
(2014年4月訪城)
 柏原藩陣屋は、江戸時代中期に柏原藩主となった織田氏によって造営された居館である。柏原藩は、元々は1598年に、織田信長の弟信包によって立藩された。その後、信則、信勝と3代に渡って続いたが、1650年に無嗣断絶となり、所領は収公されて天領となった。その後、1695年に、信長の次男信雄の玄孫信休が、大和宇陀藩から「宇陀騒動」によって封地半減のうえ移封となり、柏原に入部した。入部した当初は財政逼迫のため藩邸もなく、信休は亀屋忠助の邸宅を仮御殿とするなどしてしのいだ後、1713年にようやく幕府から藩邸建築の許可を得て、陣屋を造営し、翌年完成した。1818年に火災によって長屋門など一部の建物を残して消失し、1820年に再建された。柏原藩はそのまま幕末まで存続した。

 柏原藩陣屋は、現在、1714年当時から残る長屋門と、1820年に再建された御殿の表御殿部分が現存している。大名の陣屋で建物が江戸時代と変わらず当時の場所に現存する例は全国的にも少なく、また表門から御殿玄関に続く構えも現存例は少ない。かつての陣屋の範囲の多くは小学校や庁舎の敷地に変貌しており、史跡指定されて現存している建物や、かつての建物位置の表示は一部に過ぎないが、それでも往時の大名陣屋の雰囲気はよく残っており、中々見応えがある。

 尚、北東に500m程離れた山麓には、織田家の廟所が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.128888/135.082093/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:陣屋
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姫路城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_9875.JPG←連立式天守
(2006年7月訪城)
 姫路城は、日本国内に現存する城郭遺構として最大最高の城である。その創築は南北朝時代に遡り、播磨の守護大名赤松円心の次男貞範が1346年に姫山に城を築いた。しかし、それ以前の元弘の乱の頃にも、大塔宮護良親王の令旨を受けて挙兵した円心が、姫山に砦を築いたらしい。赤松貞範は、わずか3年で庄山城を築いて移り、姫路城には家臣の小寺氏を入れて守らせた。1441年の嘉吉の乱で赤松氏は一時滅亡し、播磨は山名宗全の領国となったが、応仁の乱の中で東軍の細川勝元の後援で赤松氏を再興した赤松政則は、播磨から山名氏を追い払って領国を回復した。当初姫路城を本拠としたが、間もなく置塩城を築いて移り、姫路城には旧例に倣って小寺氏を置いた。戦国時代に入ると小寺氏は御着城を築いて移り、姫路城には最初小寺氏の執事八代氏が、後には家老の黒田氏が入った。1577年、織田信長の部将羽柴秀吉が播磨討伐に下向すると、姫路城主黒田官兵衛孝高は、織田・毛利のどちらに付くか迷う周辺諸豪を尻目に率先して臣従し、姫路城を秀吉に献上した。1580年、播磨を平定した秀吉は、信長から播磨一国を与えられ、姫路城に三層の天守を建てて居城とした。尚、秀吉は、黒田孝高を竹中半兵衛重治と並ぶ参謀とし、孝高は播磨平定戦、毛利攻め、そして織田信長横死後の電光石火の反転劇、いわゆる中国大返しにおいて、その才を遺憾なく発揮したことは広く世に知られている。秀吉が信長の後継者の地位を実力でもぎ取ると、姻戚であった木下家定を姫路城主とした。1600年、関ヶ原合戦で覇権を握った徳川家康は、娘婿の池田輝政を姫路城主とし、西国の豊臣恩顧の諸大名に備え、且つ豊臣氏の居城大阪城包囲網の一環として、今に残る壮大な姫路城を築城させた。江戸時代に入ると、姫路城には徳川譜代の松平、本多、榊原各氏が城主となり、最後は酒井氏で明治維新を迎えた。

 姫路城については、多言を要しないだろう。壮大な平山城で、その巧みな縄張りと現存建築物の多さは、国内に残る他の城を圧倒する。世界遺産になるのも当然と言ってよい。有名なのは大天守と3つの小天守から成る連立式天守の威容であるが、姫路城の素晴らしさは、何と言っても往時の城の姿を残しているといってもよいほど、たくさんの建築物が現存していることである。城門は勿論、多門櫓や土塀に至るまで。その様子は、天守から眼下を眺めるとよく分かる。残念ながら現在は平成の大修理の最中で、その眺めもしばらくお預けとなっていると思うが、2年後には再び望むことができるはずである。2006年に初めて行った姫路城は出張のついでに寄ったのだが、とても「ついで」で回りきれるような規模ではなく、内城部分の半分ほどしか回れなかった。2年後の再訪を楽しみにしたい。
天守から見た西ノ丸の遺構群→IMG_9901.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.839353/134.694014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

 ※姫路城外郭についてはこちらこちら
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姫路城外郭 その1(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05807.JPG←内京口門
 姫路城は、いわゆる「姫路城」として一般に認識されている城域の外に、更に二重の堀が巡って外郭を形成していた。これらは中濠・外濠と呼ばれる。外濠は既に市街化の中に埋没し、わずかに水路としてその痕跡を留めているに過ぎないが、中濠の東側部分は往時の姿を色濃く残している。特に賢明女子学院高校の南東部には、内京口門の石垣や隅櫓台などが残っている。遠目に見た限りでは、学校敷地内に当たる枡形部は既に破壊されている様であるが、外側は門跡・櫓台などの石垣と水濠がほぼ往時そのままの姿を残している。
 今回、兵庫山城巡りの終わりに当たって、帰りの新幹線までの時間にまだ余裕があったので、以前に訪れていなかった姫路城外郭部分を駆け足で巡ってみた。
東部中濠と土塁→DSC05788.JPG

 場所:【内京口門跡】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/34.835302/134.698391/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※後日の外郭再訪記はこちら
タグ:近世平山城
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八木氏館(兵庫県養父市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05772.JPG←石垣跡?
 八木氏館は、八木城主八木氏の平時の居館である。八木氏の事績については、八木城の項に記載する。
 八木氏館は、殿屋敷と呼ばれる地区にあり、現在は国指定史跡に指定され、空き地となっている。方形の数段の平場で構成されている様で、一部に石垣が見られるが、往時の遺構かどうかはわからない。訪城した時は、丁度発掘調査が開始される時だったらしく、教育委員会のテントが張られて人が作業し始めていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.386513/134.721662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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八木土城(兵庫県養父市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05693.JPG←食違い虎口
 八木土城は、八木古城とも呼ばれ、八木城より古くから存在する城である。その歴史については、八木城の項に記載する。
 八木土城は、八木城より80m程高所に築かれている。基本的には稜線に沿って方形の郭群を連ねた単純な連郭式の城であるが、下方部はくの字に曲がって南に派生する尾根に連なっている。方形の曲輪には土塁が築かれ、虎口も明瞭で端正に築かれている。虎口の一部は内枡形や食違い虎口、枡形虎口となっており、戦国期まで存続していた城であることが想像される。途中には井戸曲輪があり、周りをコの字に土塁で囲んでおり、内部の井戸跡には今でも水が溜まっている。八木城がかなり崩落が進んでおり、その分八木城より八木土城の方が普請が丁寧な印象を受ける。いつまで八木土城が存続していたかは、現在でもはっきりしていないが、遺構から考えれば前述の通り戦国期まで至ることは間違い無いと思われる。ただ楽々前城鶴城などと比べると、堀切も竪堀もないので技巧性に乏しく、戦国期にどこまで重視されていたかは疑問である。
井戸曲輪の土塁と井戸→DSC05678.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.391742/134.707569/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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八木城(兵庫県養父市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05622.JPG←本丸の石垣
 八木城は、但馬守護山名氏の重臣で山名四天王の一、八木氏の歴代の居城である。この地には元々、源義家の重臣閉伊四郎頼国が居を構え、山上に八木土城を構えていた。1194~1200年頃、日下部氏を祖とする朝倉高清は、閉伊十郎行光を攻め滅ぼし、高清の次男安高が八木荘に入部して、八木氏を称した。八木氏は、南北朝期から室町期にかけて次第に興隆し、但馬守護山名氏に服属して山名四天王の1人として家中に重きを成した。応仁の乱後、山名氏の守護権力は衰退し、戦国時代に入ると山名氏の勢力は更に弱まり、但馬国内は垣屋氏・太田垣氏・八木氏・田結庄氏ら山名四天王が自立の動きを見せ、群雄割拠の状況となった。戦国後期になると、織田信長が勢力を伸ばし、その部将羽柴秀吉が中国平定に出陣すると、但馬の国人衆はその去就に大いに迷うこととなった。そして1577年と1580年と、二度にわたる信長の但馬征伐が行われ、八木城も1580年に羽柴秀吉の軍に攻められて、八木但馬守豊信は降服した。そして秀吉の下で因幡侵攻作戦に参加し、若桜鬼ヶ城の守備を命ぜられて八木城を去った。その後の1585年、別所重棟が八木城主となって入部した。重棟の子吉治は1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した為除封され、八木城は廃城となった。

 八木城は、標高409mにそびえる八木土城と、その東の稜線上に位置する標高330mのいわゆる「八木城」と2つ存在している。現在残る八木城は総石垣の本丸を有し、明らかに別所氏時代に改修を受けているが、最初にいつ築かれたかは定かではない。八木氏時代に、既に山上の八木土城から城を移されていたとも言われるが、はっきりしない。或いは出丸として稜線上に築かれた砦を、別所氏時代に主城として取り立てたものかもしれない。ここでは石垣の残る八木城に付いて記載し、八木土城については別項で取り扱う。

 八木城は、比高220mの山上にそびえており、大手筋に当たる南東尾根には多数の段曲輪群を構えている。ここには小規模な石積みが多数散見され、後世に積まれた可能性もあるが、二ノ丸の石垣と同じ積み方であるので遺構である可能性も高く、往時は総石垣の城だった可能性がある。本丸は前述の通り周囲を石垣で囲まれているが、石垣は崩落が進んでおり、今後の速やかな整備が必要であろう。本丸内は西側に石塁を積み、後部に櫓台を設けている。この櫓台は、天守台と言うほど大きくはないので、小型の二重櫓程度のものが置かれたのだろう。本丸周囲には腰曲輪が取り巻き、特に西側には石垣の残る帯曲輪が数段残っている。本丸手前の二ノ丸や三ノ丸、その他の段曲輪は、一部に石垣が残るものの中世山城に残る段曲輪そのままである。本丸の背後の尾根筋には、やや規模の大きな堀切があり、これも中世城郭的遺構である。虎口もあまり発達せず、基本的に中世の城の縄張りをベースとした城だったようだ。ただ同じ中世の城でも、楽々前城鶴城等と比べて、技巧性に乏しい縄張りであることは否めない。
大手筋の段曲輪群に残る石垣→DSC05490.JPG
DSC05607.JPG←本丸内の石塁と櫓台
堀切→DSC05636.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.389123/134.711375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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此隅山城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05338.JPG←尾根筋の堀切
 此隅山城は、但馬守護山名氏の歴代の居城である。山名氏は、南北朝時代に足利氏に従って功を挙げ、山陰に地歩を築いた。その経緯は山名時氏墓所の項に記載する。但馬にも勢力を伸ばし、文中年間(1372~74年)に山名時氏の子時義が、守護所として此隅山城を築いたと言われている。但馬山名氏は山名氏の宗家として威令を振るい、明徳の乱で勢力を減退した後も、山名持豊(宗全)が嘉吉の乱の赤松討伐で功績を挙げ、赤松氏の遺領を手に入れるなど大守護として存在感を高めた。しかし宗全は、三管領家の斯波氏や畠山氏の家督争いに介入して管領細川勝元と対立し、将軍足利義政の後継者をめぐる争いもあって、遂に応仁文明の大乱を引き起こすに至った。11年に渡った戦乱で、京都は灰燼に帰し、領国経営を放置して京都での騒乱に明け暮れた各地の守護大名は、守護代や国人衆にその実権を奪われ、一気に戦乱の世に突入することとなった。西軍の総帥であった山名氏も宗全が陣没し、長い戦乱で勢力を弱め、更に乱終結後の播磨をめぐる再興赤松氏との抗争で敗北し、守護代の楽々前城主垣屋続成は主家を凌ぐ勢力となって山名氏と対立した。1505年には山名致豊は居城の此隅山城を垣屋続成に攻撃され、翌年、将軍足利義澄の調停で山名・垣屋両氏は和睦した。その後、山名氏の勢力は更に弱まり、但馬国内は垣屋氏・太田垣氏・八木氏・田結庄氏ら山名四天王が自立の動きを見せ、群雄割拠の状況となった。戦国後期の1569年には、織田信長の命によってその部将羽柴秀吉が但馬に侵攻し、此隅山城を含む18城を落城させた。この後、1574年に山名祐豊は残存勢力を結集して有子山城を新たに築き、此隅山城は廃城となった。

 此隅山城は、西麓に守護所や家臣団の武家屋敷が置かれ、比高120m程のなだらかな山上に詰城として築かれた山城である。詰城とは言っても、三管四職に名を連ねた強豪守護の築いた城だけあって、城域は山全体に及んでいる。しかし、その縄張りは室町期の古い形態で、基本的には段郭群で構成されただけである。山頂には南北に長い主郭があるが、その防御はあまり固いようには見えない。虎口は平易で枡形はほとんど見られず、堀切も数は少ない。堀切はいずれも小規模なものである。北西尾根の堀切には、これに沿う形で二重竪堀が穿たれているが、これも規模は比較的小さい。守護代垣屋氏の楽々前城の方が遥かに高度な縄張りで、此隅山城が古い形態であるのは山名氏没落の証であったのかもしれない。此隅山城は国指定史跡であるが、主郭周辺は草茫々で、遺構の確認が大変である。遺構共々やや残念な城である。とは言え、中世但馬の歴史の中心地であり、その重要性には変わりはない。
二重竪堀→DSC05332.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.487231/134.872359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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鶴城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05150.JPG←搦手のL字状土塁の虎口
 鶴城は、但馬守護山名氏の重臣で山名四天王の一、田結庄氏の居城である。田結庄氏は、南北朝期に足利家の重臣であった山名時氏が但馬に進出した時に、山名氏に服属した土着豪族であったと考えられる。鶴城は、永享年間(1429~41年)に山名宗全が築城したとされ、その後、田結庄氏を入れて城を守らせたものだろう。応仁の大乱で山名氏の守護権力が衰退し、更にその後の播磨をめぐる赤松氏との抗争で山名政豊が敗北して但馬に撤収すると、山名四天王の筆頭で但馬守護代だった楽々前城主垣屋続成は主家山名氏と対立し、1505年には続成は山名氏の居城此隅山城を攻撃した。この時、田結庄氏は山名方に付いて戦った。その後、山名氏の勢力が更に衰微すると、但馬国内は四天王が群雄割拠する状況となり、更に東西から織田氏・毛利氏の二大勢力が迫ってくると、但馬の国人衆はその去就に大いに迷うこととなった。その結果、織田氏との連繋を主張する田結庄派と、毛利氏との連繋を主張する垣屋派とに分かれて抗争した。1575年、田結庄是義は野田合戦で垣屋豊継らに攻められて、菩提寺の正福寺で自刃し、その後鶴城は垣屋豊継の支配するところとなった。しかしそれから間もなく、1580年に織田信長の第2次但馬征伐で但馬は制圧された。鶴城の最後は定かではないが、織田氏の但馬制圧後、程無くも廃城になったと考えられる。

 鶴城は、円山川東岸の愛宕山と呼ばれる比高100m程の山上に築かれており、現在は「愛宕山みはらしの森」という公園となって整備されている。適度な公園化で遺構は確認しやすいが、同じ山名四天王でも垣屋氏の楽々前城と比べると随分と古風で小規模な城で、垣屋氏との勢力差を感じさせる。山頂の主郭を中心に南尾根と西尾根に曲輪を連ねた比較的単純な連郭式の縄張りである。曲輪群は削平が明確で広いが、堀切は比較的小規模である。東斜面には畝状竪堀もあるが、これまた楽々前城と比べるとかなり小規模で、かなり確認しにくい。遺構が比較的素晴らしいのは西尾根の曲輪群で、北側に土塁を築いて守りを固め、搦手虎口がL字状の土塁で普請されて枡形を形成するなど、戦国後期の築城技術も垣間見られる。畝状竪堀・堀切・土塁は、東側から北側にかけて集中配置されており、この方面の防御に重点を置いていたことがわかる。とは言うものの、比高も低い丘陵地で峻険さに乏しく、自ずから防御力に限界があったことだろう。藪漕ぎをしなくて済むのはありがたいが、楽々前城の壮大さと比べるとやや物足りなさを感じた。
小規模な畝状竪堀→DSC05095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.556530/134.829422/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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有子山城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC04852.JPG←第3曲輪の石垣
 有子山城は、但馬守護山名氏の最後の居城である。1569年、織田信長の部将羽柴秀吉は総勢2万余の大軍で但馬攻めを行い、2週間程の間に18城を落とした。この時、山名氏の守護所であった此隅山城も落城した。この後、1574年に山名祐豊は残存勢力を結集し、新たに築いたのが有子山城である。しかし既に山名氏は昔日の勢威を失い、周辺諸勢力の間で余命を保つしかない状態であった。その後間もなくの1577年と1580年と、二度にわたる信長の但馬征伐が行われた。二度目の征伐の際、秀吉の実弟羽柴秀長が有子山城を攻め落とし、山名氏政は因幡に逃れ、南北朝期以来守護大名として山陰に君臨してきた山名氏は滅亡した。従って、山名氏が有子山城を居城としたのは僅か6年ということになる。その後有子山城は秀吉の持ち城となり、1585年には秀吉古参家臣の前野長康が城主となった。長康は、秀吉が美濃墨俣築城などで手柄を立てた頃からの最古参の重臣であったが、子の長重が関白豊臣秀次の近臣であったことから、秀次の処刑に連座して、長重共々斬首となった。その後1595年に播磨龍野城から小出吉政が有子山城に移封となり、以後、小出氏の居城となった。関ヶ原合戦後の1604年、小出吉英が山麓に新たに出石城を築いて居城を移し、有子山城は廃城となった。

 有子山城は、戦国末期の城であり、しかも近世城郭への過渡期にも存在していたため、規模の大きな雄大な山城である。比高302mの峻険な山上に築かれており、総石垣の本丸の他、本丸手前に連なる曲輪群に多数の石垣を連ねている。本丸の背後には千畳敷と呼ばれる広大で平坦な楕円形の曲輪があるが、その間は深さ10mを超える大堀切で分断され、一城別郭の縄張りとなっている。千畳敷は前野長康の隠居所でもあったものだろうか?千畳敷の曲輪内部には、石列遺構も確認できる。またこの城は、中世から近世への過渡期に存在したため、中世山城の側面も色濃く残した縄張りであり、千畳敷背後の腰曲輪の先や、本丸の西方に派生する尾根筋の段曲輪群の先には深さ4~5m程の堀切が穿たれ、規模が大きく見応えがある。段曲輪も比較的規模が大きい。但し、虎口構造は割りと平易である。大手筋に当たると考えられる出石城から登る北西尾根筋の段曲輪とその中の堀切・竪堀は規模が小さく、山名氏時代の遺構をそのまま残していると考えられ、石垣以外は中世山城の縄張りとも考えられる。中世の縄張りに壮大な石垣が築かれた姿が印象的で、竹田城などとはまた違った意味で深く心に残った城である。
大手筋の小規模な堀切・土橋→DSC04775.JPG
DSC04946.JPG←本丸の石垣
千畳敷との間の大堀切→DSC04878.JPG
DSC04991.JPG←西尾根の段曲輪
段曲輪の先の堀切→DSC04985.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.455392/134.878024/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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出石城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC04713.JPG←本丸石垣と復興隅櫓
 出石城は、関ヶ原合戦後に築かれた近世城郭である。有子山頂には山名氏が築いた有子山城があったが、1604年に小出吉英が有子山城を廃し、山麓に出石城を新たに築いた。以後、小出氏が9代100年間在城し、その後、松平氏を挟んで仙石氏が7代160余年と続いて、幕末まで存続した。
 出石城は、鳥取城龍野城などと同じく、有子山北麓の高台を利用して築かれた平山城で、近世城郭らしく総石垣の城となっている。縄張りは平易な梯郭式で、最上部に稲荷郭を置いて、城の鎮守である稲荷社を祀り、その下に本丸・ニノ丸上段・ニノ丸下段と連ね、麓の平地には三ノ丸を構えていた。また城域は更に東側にも広がっており、山里郭などが置かれていた。現在は三ノ丸は市街化で遺構の多くが失われているが、その上の曲輪の石垣は見事に残っている。この城には元々天守はなく、4棟の櫓が建っていたが、明治維新後に全て取り壊され、昭和に入ってから2棟の二重櫓が復興され(外観は旧態に依らない)、往時の城の雰囲気が回復されている。また、ほとんど湮滅した三ノ丸の中では、大手門付近に残る辰鼓楼の建つ石垣・水堀の他、西側にも三ノ丸西門跡の石垣が残存している。小ぢんまりした近世城郭であるが、城下町の雰囲気をよく残した印象の良い城である。
三ノ丸西門跡→DSC05035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.460111/134.874355/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平山城
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楽々前城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC04552.JPG←圧巻の畝状竪堀
 楽々前(ささのくま)城は、但馬守護山名氏の重臣で山名四天王の筆頭とされる垣屋氏の居城である。垣屋氏は、南北朝時代に足利家の重臣であった山名時氏の直臣として、時氏の但馬入部と共に垣屋重教が但馬に入り、但馬守護代となった。山名一族の内訌に付け入った3代将軍足利義満の挑発に乗って山名氏清が起こした明徳の乱では、二条大宮の戦いで垣屋時忠は山名時煕を助けて討死した。時忠の子隆国は、応永年間(1394~1428年)に楽々前城を築いて、以後、垣屋宗家の居城となった。その後、山名氏は嘉吉の乱で没落した赤松氏に代わって播磨に勢力を伸ばしたが、応仁の乱の頃に赤松氏が再興されて播磨で復権すると、赤松政則やその重臣の浦上氏との間で激しい抗争が繰り広げられ、垣屋氏は山名氏の下で多くの犠牲を払った。その為、連年の戦いに疲れた山名政豊が但馬に撤収すると、多くの国人衆が山名氏に背き、守護の山名氏と守護代垣屋氏の対立も顕在化した。1499年に山名政豊が死に、致豊が跡を継いだが、既に昔日の守護権力は衰退し、守護代垣屋続成は山名氏を凌ぐ勢力となっていた。1505年には山名致豊は居城の此隅山城を垣屋続成に攻撃され、翌年、将軍足利義澄の調停で山名・垣屋両氏は和睦した。後に垣屋続成は足利将軍直参となり、更に勢威を強めた。1512年には、続成は鶴ヶ峰城を築いて居城を移したが、楽々前城は依然として一族の拠る要害として重視された。その後、山名氏の勢力は更に弱まり、但馬国内は垣屋氏・太田垣氏・八木氏・田結庄氏ら山名四天王が自立の動きを見せ、群雄割拠の状況となった。戦国後期になると、織田信長が勢力を伸ばし、その部将羽柴秀吉が中国平定に出陣すると、但馬の国人衆はその去就に大いに迷うこととなった。垣屋宗家の光成は織田方に付いたが、一族の一部は西の毛利方に付いて楽々前城に立て籠もって秀吉に抗戦し、攻められて落城した。その後の城の歴史は定かではないが、程なく廃城になったと考えられる。

 楽々前城は、山名四天王筆頭と言われる垣屋氏の本拠とされるだけあって、雄大な規模を持った長大な城である。本丸は標高300mの山頂にあるが、そこから北に長く伸びた尾根上に無数の曲輪群を展開し、その全長は800~900mにも及んでいる。大手はこの北尾根筋で、明確な登り口はないが、北端の斜面を数十m程直登すると間もなく段曲輪に行き当たる。ここから登城を始めるが、まず城域の北端近くにある中ノ丸にすら中々行き着かないほど多くの曲輪群で守られている。ネット上で事前に縄張図を入手していたが、縄張図に載っていない段曲輪も多数存在している。途中には多くの小堀切や土塁で囲まれた方形の曲輪などもあり、大手の守りはかなり厳重であったことが伺われる。ただ、曲輪群の脇をすり抜けるように登城道が敷設されて主郭まで延びており、城主専用の主郭直通ハイウェーの様な趣である。この城で圧巻なのはニノ郭周辺の遺構群で、ニノ郭西側にはこれでもかというぐらい執拗に大型の竪堀が連発している。しかも一部の竪堀はV字状に落とされ、その交差部に櫓台を設けて畝状竪堀の防御を完璧なものにしている。またニノ郭前面の堀切は、食い違い状に穿たれ、そこに架かる土橋は食い違いの堀切によってS字状に屈曲する巧みな構造となっている。ただ面白いことにニノ郭の東側には目立った防御構造は見られない。主郭の最前面の段曲輪には矢竹が群生しているが、ここで重大なアクシデントが発生し、押しのけた矢竹が跳ね返って顔面に当たり、片目のコンタクトを落としてしまったのである。藪の中なので、探したものの見つからず、主郭手前まで来て引き返すわけにも行かず、この後は片目で城を歩くことになってしまった。主郭部は、ニノ郭ほど技巧的な縄張りではなく、単に腰曲輪を幾重にも取り巻いた構造で、割りと平易である。主郭付近はあちこちに石が散乱し、石垣が築かれていたらしい。腰曲輪には低い石垣も見られるが、これは往時の遺構かどうかわからない。いずれにしても壮大な規模の山城で、遺構も完存し必見の城である。
北尾根曲輪群の堀切→DSC04500.JPG
DSC04514.JPG←土塁で囲まれた方形郭
S字状の土橋→DSC04531.JPG
DSC04613.JPG←主郭腰曲輪の石垣?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.453696/134.742497/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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観音寺山城(兵庫県朝来市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC04298.JPG←わずかに残る石垣
 観音寺山城は、竹田城の北東の尾根続きの小峰に位置する出城である。竹田城から尾根上を歩いて5分程しかない至近距離にあり、竹田城北東方面を防衛する砦であったものと考えられる。
 観音寺山城は、古い形態を留める城であるが、一部残る石垣は竹田城と同じ積み方をしており、改修後の竹田城と同時期に機能していたと考えられる。ほぼ単郭に近い小規模な城で、主郭周囲の腰曲輪の他、前面に段曲輪1段を置き、更にその全面に堀切とそこから落ちる4本の竪堀で防御を固めている。この竪堀の一部は、登城道として機能していた様である。主郭の北西部はえぐれて窪地になっていて、井戸跡だった様である。この他、竹田城に設置されていた縄張図には書かれていないが、主郭後方にも削平の甘い平場があり、実質的にニノ郭であったと考えられる。また竹田城に続く尾根沿いに腰曲輪が配置されているなど、縄張図に記載されていない曲輪もある。小規模な城であるが、縄張り的にはなかなか面白い。
前面の堀切と竪堀→DSC04277.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.302728/134.832555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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