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小幡陣屋(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9448.JPG←陣屋の復元石垣・空堀・土塁
 小幡陣屋は、後には小幡城とも呼ばれ、小幡藩を立藩した織田氏によって築かれた陣屋である。元々この地には、国峰城主であった小幡氏が国峰城築城以前に居住していたとも言われ、国峰城に居城を移してからは小幡氏重臣の熊井戸対馬守正満が屋敷を構えていたとされる。1615年に織田信雄(織田信長の2男)に大和国宇陀郡3万石・上野国小幡2万石が与えられると、翌年、信雄の子信良が福島陣屋に入部して、織田氏による小幡統治が開始された。1629年、3代信昌の時に小幡への陣屋移転を決め、13年後の1642年に陣屋が完成して藩政の中心を小幡に移した。また陣屋屋敷に南面して楽山園と呼ばれる庭園も造営された。しかし一説には1621年に織田信雄が楽山園を造営したとも言われているが、真偽は不明である。1767年、明和事件が起こって織田藩は出羽高畠2万石に転封され、8代152年に及ぶ織田家の小幡支配は終わりを告げた。織田家転封後、松平忠恒が小幡に入部し、以後4代続いて幕末まで存続した。この間、3代忠恵は、20余年間若年寄を勤めた功績により、1850年に「城主格」に進められた為、以後小幡陣屋は「小幡城」と呼ばれる様になった。

 小幡陣屋は、雄川東岸の段丘上に築かれている。陣屋よりも国名勝に指定されている楽山園の方が有名であるが、現在は陣屋跡や楽山園が復元整備されて公開されている。御殿はないが、中門の桝形石垣や内部の仕切り土塁・空堀・石垣が復元されている。また調査で検出された建物跡も地面に表示されている。井戸跡は御殿側に2ヶ所、庭園側に1ヶ所復元されているが、庭園側のものは熊井戸と表記され、戦国期の熊井戸氏の館にあったものらしい。陣屋・庭園以外にも、「城下町小幡」ということで武家屋敷や大手道(中小路)の石垣や喰い違い郭なども残っていて、往時の雰囲気を残している。
庭園に復元された熊井戸氏館跡→IMG_9483.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.228887/138.914566/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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八幡山砦(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9366.JPG←主郭外周の土塁
 八幡山砦は、小幡城の北側を守る砦とされる。しかし「小幡城」とは普通、江戸時代に織田氏が築いた陣屋のことを指すが、戦乱が遠ざかり幕政が安定した時期にわざわざ砦を築くことは考えられないので、おそらく国峰城のことを言っているのだろう。また八幡山砦は長畝砦と対になっていたらしく、長畝砦を「下の城」と称するのに対して「上の城」とも呼ばれていた様である。

 八幡山砦は、小幡八幡宮背後の比高50m程の丘陵上に築かれている。主郭は縦長の六角形の平場で、現在公園化されているが、北端部に物見台らしい土壇が、また南辺など周囲に土塁が散在している。主郭の北側下方には馬蹄形段曲輪が築かれ、東側には腰曲輪が取り巻き、南側の台地基部は小堀切が穿たれていた様だ。ここも長畝砦と同様、眺望に優れ、周囲を監視できる絶好の物見、兼陣場であったことが伺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.234512/138.921540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国関東三国志―上杉謙信、武田信玄、北条氏康の激闘 (歴史群像シリーズ (2))

戦国関東三国志―上杉謙信、武田信玄、北条氏康の激闘 (歴史群像シリーズ (2))

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研
  • 発売日: 1987/05
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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長畝砦(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9328.JPG←堀跡と櫓台
 長畝砦は、小幡城の北側を守る砦とされる。しかし「小幡城」とは普通、江戸時代に織田氏が築いた陣屋のことを指すが、戦乱が遠ざかり幕政が安定した時期にわざわざ砦を築くことは考えられないので、おそらく国峰城のことを言っているのだろう。また長畝砦は八幡山砦と対になっていたらしく、八幡山砦を「上の城」と称するのに対して「下の城」とも呼ばれていた様である。

 長畝砦は、比高15m程の半島状に突き出た丘陵の先端部に築かれている。以前は牧場となっていて立入禁止になっていたらしいが、現在は貸し農園になっていて進入可能となっている(但し先端の一部だけ羊牧場になっていて進入不能)。砦跡も農園化されているのでかなり改変を受けているものの、台地基部との間に堀切跡が窪地状の地形となって残り、櫓台らしい大きな土段も残っている。周りには一段低い腰曲輪が残っているが、その他には明確な遺構はなく、往時に全周していたと思われる土塁と空堀はかなり失われてしまっている。砦跡からの眺望は素晴らしく、西には内匠城、南西には国峰城、南東には一郷山城八束城天引城などの西上州の諸城砦が一望できる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.240310/138.921454/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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庭谷城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9283.JPG←主郭周囲に残る土塁
 庭谷城は、国峰城の支城で、小幡氏の重臣庭屋左衛門尉が城主であったと伝えられている。庭屋氏の事績については、。西牧根小屋城の項に記載する。1590年の豊臣秀吉による小田原の役の際、国峰城と共に落城したと言う。

 庭谷城は、鏑川蛇行部の西岸の断崖上に築かれている。梯郭式の城だったと思われ、方形の主郭の東以外の3面を二ノ郭で囲んだ構造となっている。主郭は赤城神社の境内となっており、周囲に土塁が残っているが、石が積まれるなどやや改変を受けている。南西の入口が往時の虎口の跡であるらしい。また主郭の北側斜面下にわずかに石垣があり、どうも北側に下る城道があったらしい。主郭周囲の二ノ郭は畑と民家に変貌しており、主郭との間には堀があったと思われるが全て埋められてしまっている。ニノ郭の南側は奈免沢という沢に接しており、沢がそのまま外堀となっていた様である。この沢筋へは遊歩道があり、沢底(堀底)まで降りることができる。庭谷城は、改変が進んでいるものの、往時の雰囲気をよく残している。
 尚、城の西方にある慶恩寺に庭屋氏のものと推測される五輪塔群が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.264795/138.945765/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1




タグ:中世崖端城
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将門関連史跡 その5 [その他の史跡巡り]

これまでに主な将門関連史跡を訪問しているが、これはその補遺。

<親王山延命寺>(茨城県取手市)
IMG_9214.JPG←境内の小祠
 延命寺は、将門が信仰していた地蔵尊のお告げによって創建された、と伝えられている。境内に「駒形様」と呼ばれる塚があり、将門が戦死した時に乗っていた馬を埋めたところと伝えられている。塚の小祠には「将門大明神」と刻まれている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.928241/140.048304/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

<仏島山古墳>(茨城県取手市)
古墳上の小祠と石碑→IMG_9222.JPG
 仏島山古墳は、地元で昔から将門の墓とされてきた古墳である。実際には6世紀に築造された円墳であることが判明している。中世になって、墳丘上に仏像や石塔等が建てられてから「仏島」の名がついたと言われている。現在古墳上に小祠と石碑が建ち、将門の事績が綴られている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.927042/140.050943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


平将門と東国武士団 (動乱の東国史)

平将門と東国武士団 (動乱の東国史)

  • 作者: 鈴木 哲雄
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2012/08/01
  • メディア: 単行本


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小野館(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9192.JPG←堀跡の様な鉤型の道路
 小野館は、佐竹氏の一族が築いたとも、小野崎市の一族が築いたとも言われる。
 小野館は、小野崎城と同じ台地上にあり、縦長の台地の中程が東側に張り出した部分に築かれている。現在は常陸太田特別支援学校の校地に変貌している。遺構は完全に湮滅しており、どの様な館だったのかもはっきりしないが、校地は周囲よりやや高くなっている。造成時に土盛りされている可能性もあるが、校地北東部は外周の道路が鉤型に折れ曲がっており、堀跡だった可能性がある。また東側斜面には腰曲輪のような平場も見られる。改変が多いのではっきりしないが、館があった雰囲気は感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.562428/140.532517/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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八百岐館(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9179.JPG←大堀の堀跡
 八百岐館は、小野崎城を本拠とした小野崎氏の庶流石神小野崎氏の当初の居館である。南北朝期に小野崎城主小野崎通胤が櫛形城に本拠を移した際、その二男通房が旧地に留まり八百岐館を築いて居館としたとされる。後に石神城に居城を移したが、その時期には諸説あって明確ではない。いずれにしても石神城に本拠を移すと、八百岐館は廃館となったと言う。

 八百岐館は、小野崎城と同じ台地の西部に築かれている。館跡は現在、山林の他、北側が墓地に変貌している。あまりはっきりした遺構はなく、平場と腰曲輪らしい段が見られるだけである。墓地脇に土壇があり、ネットでは残存土塁の遺構とされているが、コンクリートブロックの塀が突き立っているなど、どうも遺構の様には見えない。館から若干東に離れて、大堀と呼ばれる堀跡があり、ここは形状が明瞭である。また館の東を谷戸に下る坂道の脇には井戸(小野七井の一つ、「前我井」と言う)が残っており、往時にも使われたものだったかもしれない。素朴な形態の台地上の居館だった様である。
 尚、館跡の北東の民家の庭先に「外城」と刻まれた大きな石があり、ここの字名であるらしく、城の痕跡を地名に残していることがわかる。ただその地名が、八百岐館に対する外城なのか、小野崎城に対する外城なのかはわからないのが実情である。
「外城」の碑→IMG_9170.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.559429/140.527089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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小野崎城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9165.JPG←南斜面の腰曲輪
 小野崎城は、佐竹氏の重臣となった小野崎氏の発祥の地である。小野崎氏の事績は櫛形城の項に記載する。初め鎮守府将軍藤原秀郷の6世の孫・通延が常陸国太田郷に移住し太田大夫と称した。その子通成は佐都郡に移り、孫の通盛の時、小野崎の地に土着して小野崎氏を称し、小野崎城を築いて居城としたとされる。以後小野崎城は、10代約200年にわたる歴代の居城となった。その後、佐竹氏に服属してその重臣となり、南北朝期には北朝方の佐竹氏は、南朝方の菅股城主大塚氏の南下を阻止するため、小野崎通胤を櫛崎城に移封した。その後、山尾城に居城を移し、山尾小野崎氏を惣領とし、庶流として石神小野崎氏・額田小野崎氏を輩出した。

 小野崎城は、今宮館のすぐ北東に隣接し、同じ台地の南東端に築かれている。現在城跡は瑞竜中学校の校地となっており、遺構はほとんど湮滅している。西側にはわずかに堀跡らしい窪地が見られる。この他では、南面から西面にかけての斜面に腰曲輪が残っており、往時の姿をわずかに残している。面積は広いが、単郭の素朴な形の城だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.554396/140.530736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国期権力佐竹氏の研究【オンデマンド版】

戦国期権力佐竹氏の研究【オンデマンド版】

  • 作者: 佐々木 倫朗
  • 出版社/メーカー: 思文閣出版
  • 発売日: 2016/11/30
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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今宮館(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9132.JPG←櫓台の様な土壇
 今宮館は、古くより今宮大納言坊館跡と伝えられる館である。館主は佐竹氏16代佐竹義瞬の庶長子永義と言われ、修験となって佐竹氏領内の山伏を統率したと現地標柱に記載されている。一方、『日本城郭大系』には、南北朝時代に小野崎通秀の居館であったと記載されている。元々小野崎氏の居館であったものを、後に佐竹氏が再利用したものであろうか?すぐ北東には小野崎氏の初期の居城小野崎城があるので、その一族の居館があったとしても不思議はないが、詳細不明のため想像するしかない。

 今宮館は、比高20m程の台地南西端に築かれている。現在は白鷺神社の境内となっている。参道を登ると、すぐ左手に櫓台の様な土壇がある。平場の中央付近には、祠が祀られた塚もある。北側の畑との間には、堀跡らしい窪地や土塁らしき土盛りが見られるが、かなり不明瞭でもあり遺構かどうかははっきりしない。台地先端の基部を掘り切って区間しただけの城館だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.553172/140.528848/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


佐竹一族の中世

佐竹一族の中世

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2017/01/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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城ノ内遺跡発掘調査説明会2018(栃木県上三川町) [城郭よもやま話]

IMG_9103.JPG←発掘された2条の溝(外堀か?)
 もう5ヶ月も前のことになるが、7月1日に上三川町多功地区の城ノ内遺跡で、発掘調査説明会があった。すっかりブログに書くのを忘れていたので、今更ながらだがここに記載しておく。城ノ内遺跡は、縄文時代~近世(江戸時代)に跨る複合遺跡で、多功城に関係する遺構も含まれる。ここは城をメインにしたブログなので、中世多功城に関係する遺構についてのみ取り上げる。

 城ノ内遺跡で発掘された中世の遺構は、溝(堀)3条・土坑・地下式坑(竪穴から横に掘り広げて地下室とした施設)・井戸・柱穴などである。溝は、一番内側(多功城に近い側)はごく一部が発掘されただけなので、はっきりとした形状がわからず、寺の墓地の区画溝の可能性もあるという説明だった。一方、残りの2条は平行に長く一直線に伸びた堀跡で、内側のものは上幅3m程、その外に幅3m程の帯曲輪らしい平坦面があり、更に外側に上幅わずか1m程の堀(というより溝)が確認された。多功城の古い絵図と照合すると、多功城の外堀南西部に当たるのではないかとのことであった。形状はおそらく箱薬研堀と思われるが、1mも掘ると水が湧き出してくる地質で、底まで掘れなかった為、深さは確認できていないとの説明であった。井戸跡は数ヶ所確認されており、今でも清水が湧き出してくるとのこと。この後、城ノ内遺跡は調整池となってしまう様なので、大きく土取りされて遺構は消滅してしまうらしい(今はもう工事が行われて無くなっているかも)。ただでさえ遺構がかなり少なくなっている多功城の、往時の姿を残す貴重な遺跡だが、失われてしまうのは残念である。
今でも水を湛える井戸跡→IMG_9083.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428802/139.872007/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


発掘調査のてびき

発掘調査のてびき

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 同成社
  • 発売日: 2010/06
  • メディア: 大型本


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吉井陣屋(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9023.JPG←南西部の土塁跡
 吉井陣屋は、京都五摂家の一、鷹司家の出である松平信平を祖とする鷹司松平家の陣屋である。この地にはその前身として吉井城があった。1590年に徳川家康が関東に移封となると、家臣の菅沼定利が2万石を与えられ、吉井城を築いた。1610年、定利の養子忠政は美濃国加納に移封となって吉井城は廃され、その所領は幕府領や旗本の知行地となった。1682年、堀田正休が吉井藩を立藩したが、1698年に近江国宮川に移封となり、その所領は再び複数の領主の分割支配となった。一方、松平信平は徳川3代将軍家光の正室孝子の弟で、姉を頼って江戸に下って幕臣となり、後に紀州藩徳川頼宣の女婿となって松平姓の名乗りを許された。石高は1万石に過ぎなかったが、徳川親藩として江戸城中で重きをなした。藩主は江戸定府で、陣屋を置いて藩治に当たらせた。陣屋は始め木部陣屋、次いで矢田陣屋に移り、1752年、松平信友が藩主の時に吉井陣屋に移った。12代信謹の時に明治維新を迎え、廃藩となった。

 吉井陣屋は、吉井小学校のすぐ南東側にあった。南に大手門を構え、外桝形を形成し、陣屋の周囲には土塁と堀を築いていたと言う。現在陣屋跡は市街化し、吉井駅前から南に伸びる県道が陣屋跡を貫通しているため、遺構はほとんど残っていない。しかし一郷山城の資料館に掲げられた「吉井城館図」と照合すると、陣屋の形が道となって残っていることがわかる。また南西角部の土塁が残っており、石碑などが建っている。この他、陣屋表門が、少し南に離れた吉井文化会館脇に移築されて現存している。もう少し陣屋跡に標柱などが整備されていると良いのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.254414/138.984518/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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馬庭城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8999.JPG←櫓台跡とされる摩利支天社の土壇
 馬庭城は、高山氏の一族とされる馬庭氏の居城である。馬庭家重が城主で、関東管領山内上杉氏に属し、上杉憲政没落後は関東に出馬した上杉謙信に服属した「総社衆」の一人として関東幕注文に記載されていると言う。その後の事績は不明である。
 馬庭城は、現在はその跡地に剣術の馬庭念流道場が建っており、道場の方が名高く県の史跡に指定されている。遺構はほとんどなく、往時の主郭北西の櫓台跡だと言われる摩利支天社の土壇が残っているだけである。かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.263740/139.006984/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

  • 作者: 久保田順一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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三ッ木城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8979.JPG←堀切跡の畑
 三ッ木城は、文明年間(1469~87年)に三ツ木信守が在城したと伝えられている。一方、『日本城郭大系』では城主として三木信宗・春山和泉の名を記載している。詳細な歴史は不明であるが、城に接して鎌倉街道が南北に通過しており、関東管領山内上杉氏の居城平井城の北縁防御に当たった城と言われている。

 三ッ木城は、鏑川南岸の河岸段丘の北縁に築かれている。主郭と二ノ郭を南北に並べ、間を堀切で分断し、更にそれらの東西に小型の曲輪を配した縄張りとなっている。城趾は改変が進んでおり、主郭は公園(豊受神社)と畑に、二ノ郭は民家となっている。主郭の南辺には土塁が築かれているが、なんと土塁と曲輪の間は切り通し道が貫通して破壊されている。普通なら堀切を切通し道にするものだが、この城では珍しい形で主郭を破壊している。土塁には虎口があり、南側には堀跡の畑があるが、ほとんど埋められてしまっており、現地解説板の縄張図を見なかったら気付かないレベルである。この他では二ノ郭跡の民家の周りに僅かな段差が見られる程度である。全体的にかなり城の雰囲気が失われているが、解説板があるだけマシであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.257736/139.027390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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吉良上野介陣屋(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8963.JPG←陣屋跡の標柱と解説板
 吉良上野介陣屋は、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の陣屋である。吉良家は足利一門でも家格の高い家柄で、戦国時代に駿河の太守として有名な今川氏は、その分流に当たる。足利将軍家が万一絶えた時は、次の将軍は吉良家から、吉良が絶えたら今川家から、と言われる程の家格を誇った。徳川幕府が成立すると、有職故実に通じた由緒正しい名家を高家肝煎職として、主に対朝廷の儀式・典礼の対応に当たらせたが、吉良家もその一家であり高家筆頭でもあった。吉良家は1650~1703年まで、現・藤岡市の白石に712石を領し、字中郷に陣屋を作って治めさせていた。伝承では吉良若狭守の正室が伊香保温泉からの帰途この館に寄り、義央を生んだとされる。義央は勅使饗応に当たって赤穂藩浅野内匠頭長矩と確執を生じて江戸城中で刃傷沙汰となり、後に赤穂藩の家老大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士の討ち入りに繋がったことは忠臣蔵の物語で広く知られている通りである。義央が赤穂浪士に斬殺されると吉良家は改易となり、この時に陣屋も廃されたのだろう。

 吉良上野介陣屋は、次の訪問地へ行く途中でたまたま案内看板を見つけて立ち寄った。標柱と解説板が道路脇に立っているが、その背後に広がるのは一面の畑だけで全く遺構は確認できない。昭和20年代の航空写真を見ても既に遺構はない様なので、早くに失われたのだろう。すぐ近くに上野介の産湯の井戸が残っていたのだが、見逃してしまったのは残念。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.249482/139.031725/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


誰も知らなかった日本史 その後の顚末 (青春文庫)

誰も知らなかった日本史 その後の顚末 (青春文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2017/02/10
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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東平井砦(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8955.JPG←南西部に残る土塁
 東平井砦は、関東管領山内上杉氏(上野守護も兼帯)の本城平井城の外堡と言われている。詳細な歴史は不明であるが、平井城の東方を防衛する出城として機能したのだろう。もしかしたら河越夜戦の後、迫り来る北条勢に備えて急遽築造したものかもしれない。しかし全く逆の見方もでき、河越城に対する大堀山城の様に、平井城を攻撃した小田原北条氏によって築かれた付城だった可能性も考えられるだろう。
 東平井砦は、平地に築かれた方形単郭の砦であったらしい。現在は砦の東部分を県道175号線が貫通し、また砦内は水田となっているので、遺構はかなり湮滅している。しかし県道の西側に砦南西角部の土塁がL字形で残っている。また砦北辺の堀も、一段低い水田となってその痕跡を留めている。とりあえず少数の兵を籠めておくだけの臨時的要素の強い小城砦で、標柱も解説板もないが、土塁と堀跡の一部が残存しているのは奇跡的である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.220959/139.038205/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


上杉顕定 (中世武士選書24)

上杉顕定 (中世武士選書24)

  • 作者: 森田真一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣城
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スーパー地形図! [雑感]

私は基本的に貧乏性なので、
有料アプリや有料ソフトは余程のことがない限り購入することはない。

なので、有名な山岳地図ソフトのカシミールも使っていなかったのだが、
最近ひょんなことから、Android端末用にカシミールからリリースされていた
スーパー地形Lite」というアプリが有るのを知ってインストールした。

iPhone用は数年前からリリースされていて、かつ有料版しかなかったらしいのだが、
Android用はここ1年ぐらいでリリースされたばかりらしく、
しかも今のところ機能限定版を無料で使える。

で、さっそく入れて使ってみているのだが、このスーパー地形図がすごい!
山城の曲輪の輪郭線などが、はっきり手に取るようにわかるのである。
高さ5mもあるような切岸や大堀切はそのまま表示されるので、
縄張り図を描く人にも曲輪の形状が追いやすいだろう。

また、所在地がよくわからなかったり、
県などの遺跡地図以外にネット上に情報がなく、
行ってみないと城の正確な位置がわからない山城なども、
スーパー地形図で見てみると、事前にその位置が特定できるのである。

位置がわかるだけでなく、曲輪の配置など城の規模・構造が大体分かるので、
薮の中を無理して行く価値のある城なのかどうかも判断できる。

行った城に関しても、背後の尾根や支尾根などに
遺構の見落としがなかったかのチェックもできる。

基本的には国土地理院の傾斜量図を利用しているようだが、
そこに高度による彩色と陰影を合わせているので、非常に見やすいし、
アプリとしても使いやすい。

中世城郭巡りには最強のツールであり、素晴らしい!
また技術の進歩とは驚異的である。
そのうちドローンを使って
個人で山城の赤色立体地図が作れるようになったりするんだろうなぁ。

Screenshot_20181216-123751.jpg←情報皆無の狼河原城もこの通り
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浄法寺館(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8940.JPG←浄法寺
 浄法寺館は、武蔵御嶽城主であった長井豊前守政実の居館である。元々は、南北朝期に白旗一揆の一翼を担った浄法寺氏の居館であったらしい。浄法寺氏は、1352 年の武蔵野合戦の際、浄法寺左近大夫が白塩下総守・高山越前守・小林右馬助の諸将と共に白旗一揆として足利尊氏に味方し、新田義宗・同義興・脇屋義治らの軍勢と戦っている(『太平記』第31巻)。時代は下って戦国時代になると、浄法寺館は長井駿河守忠実・豊前守政実・右衛門信実3代の居館となった。武田信玄が西上州に侵攻すると政実は武田氏に従属し、1570年、小幡信尚と共に武蔵八千貫地を切り取り、三千貫文を与えられて武蔵に移ったが、信玄没後には上野島名城主となった。1582年、政実の子信実は、武田氏・織田信長滅亡後にこの地を制圧した北条氏に抗して越後に去ったが、1590年の小田原の役の際、上杉景勝の軍勢に属して上州へ侵攻し、藤田信吉と共に多比良城を攻略した。役後、その功によって信実は旧領浄法寺を与えられたが、江戸時代初期に参勤交代の幕命に従わず改易され、1614年に播磨の配所で没したと言う。

 浄法寺館は、現在の浄法寺の地にあった。境内には既に明確な遺構はなく、単なる寺の境内という以外に言い様がない。一方、この寺には伝教大師最澄が来たと言う伝承があるらしい。境内奥に「伝教大師護摩御修行舊跡石爐壇」と言う史跡が残っている。「なんで最澄が群馬に?」と思ったが、後で調べてみると実際にこの地まで来て布教活動を展開したらしい。城館としてより、最澄の旧跡としての史跡価値の方が余程貴重に感じた。

 尚、『日本城郭大系』では、「武蔵金鑚御嶽城・上州三ツ山城などを堡塁とし、現在の浄法寺の場所を館とした浄法寺地域城」と言う概念を記載している。この「地域城」という概念には私は非常に懐疑的なのだが(単に「城砦群」と言うなら話はわかる)、浄法寺館主の長井政実は武蔵御嶽城の城主でもあったので、少なくとも御嶽城が浄法寺館の詰城として機能していたことは間違いないだろう。
浄法寺から見た御嶽城→IMG_8951.JPG
IMG_8946.JPG←伝教大師旧跡の石爐壇

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.191334/139.059727/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


伝教大師最澄の寺を歩く―比叡山延暦寺を中心に、最澄ゆかりの地へ (楽学ブックス―古寺巡礼―古寺巡礼)

伝教大師最澄の寺を歩く―比叡山延暦寺を中心に、最澄ゆかりの地へ (楽学ブックス―古寺巡礼―古寺巡礼)

  • 作者: 堀澤 祖門
  • 出版社/メーカー: ジェイティビィパブリッシング
  • 発売日: 2007/03/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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藤岡城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8917.JPG←北側の大土塁
 藤岡城は、芦田城とも言い、徳川家康の部将芦田康寛(依田康勝)が築いた居城である。康寛は、甲斐武田氏の家臣であった佐久郡の有力国衆依田信蕃の次男である。織田信長の武田征伐の際、父信蕃は田中城を守って徳川氏の重囲にも屈せず、崩壊する武田勢の中で唯一抵抗を続け、開城したのは武田勝頼滅亡後であった。その後、信長の武田遺臣狩りから逃れるため、信蕃は家康に匿われた。信長横死後の武田領国を巡る天正壬午の乱の際には、信蕃は家康の司令を受けて佐久方面で北条氏の攻撃にも耐え抜き、逆に北条勢の補給路を断つなど、徳川方の勝利に大きく貢献した。信蕃の死後、康寛の兄康国が家督を継いだが、1590年の小田原の役の際、石倉城攻めで討死すると、弟の康寛が家督を継いだ。徳川家康が関東に入部すると、康寛は3万石で藤岡に封じられ、家臣清水久三郎の縄張りで藤岡城を新規築城して居城とした。1600年春、康寛は囲碁の争いから小栗三助というものを刺殺して改易となり、城は廃された。

 藤岡城は、平地に築かれた方形単郭の城で、周囲を土塁と堀で囲んでいたらしい。現在は藤岡第一小学校の校地となって破壊が進んでいる。しかし北側には高さ5m程もある大土塁が残っており、かつての威容を偲ばせる。この大土塁の東西両端には櫓台があったとされ、西の櫓台跡には石碑などが建っている。東の高台上に神社が建っているが、これは東の櫓台跡に立っているらしい。この他、城址北東にある工務店の北門には「乾門通用口」と書かれており、城址の名残を思わせる。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南に角馬出を備えた追手虎口、北に搦手虎口を構えていたと言う。遺構は北側の土塁だけだが、これほど市街化された中にあって、奇跡的にもよくこれだけ立派に残っていると感心させられる。しかも校地に入らないで済むように散策路が整備されているのもありがたい。これで解説板があれば言うことなしなのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.241920/139.075091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国三代の記―真田昌幸と伍した芦田(依田)信蕃とその一族

戦国三代の記―真田昌幸と伍した芦田(依田)信蕃とその一族

  • 作者: 市村 到
  • 出版社/メーカー: 悠光堂
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: 単行本


タグ:近世平城
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木部城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8865.JPG←堀跡と思われる道路
 木部城は、この地の土豪木部氏の居城である。木部氏については木部氏館の項に記載する。当初は館に居住していたと思われるが、戦国後期に上州が激しい戦乱に包まれると、永禄年間(1558~69年)の頃に新たに木部城を築いて居城を移したのではないかと考えられる。

 木部城は、北側に鏑川の河道跡を臨んだ平地に築かれている。主郭とニノ郭を回字状に築いた環郭式の城だったらしい。現在城跡は宅地と畑になっており、遺構はほとんど湮滅している。方形に道が廻っているのが主郭である。よく見ると、主郭跡は周囲よりわずかな微高地となっている。周囲の道は堀跡だと思われるが、埋められているので城跡だと知らないと堀跡だとは気付かない。南西角にはわずかな土盛りがあり、もしかしたら残存土塁であるかもしれないが、はっきりしない。ニノ郭はほとんど痕跡すら残していない。以上の様な感じで、残念ながら木部城はほとんど消え失せており、残念である。尚、城跡には「堀之内」の地名が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.280832/139.050157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


[新装版]戦国武田の城

[新装版]戦国武田の城

  • 作者: 中田 正光
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2010/05/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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木部氏館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8837.JPG←境内に残る土塁
 木部氏は、源頼朝の弟・蒲冠者源範頼の後裔を称する土豪である。戦国後期の当主は木部駿河守範虎で、箕輪城主長野業政の娘を娶り、長野氏の重臣となっていた。業政が病没すると武田信玄は西上州に侵攻し、長野氏を攻め滅ぼした。長野氏滅亡後、範虎は武田氏に服属し、木部五十騎を率いて各地に転戦し、勇名を馳せた。1582年に天目山で武田勝頼が滅亡した時、範虎は勝頼に殉じて家来諸共、天目山桔梗ヶ原に散った。享年72歳と伝えられる。範虎の子貞朝は北条氏に仕え、1590年の小田原の役の際、小田原城に籠城して北条氏と運命を共にした。

 木部氏館は、現在心洞寺の境内となっている。心洞寺は木部範虎が開基したと伝えられているので、この時には既に木部城を築いて居城を移していたと考えられる。しかし有事の際には木部城の出城として機能していたと推測される。山門の東西にしっかりした土塁が残っており、館跡の名残をとどめている。木部城の遺構が壊滅状態なので、こちらの方がよほど城らしく見える。尚、境内には木部範虎の廟所や、木部氏の家臣須川氏の墓所がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.282120/139.052646/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国時代の大名と国衆 (戎光祥中世史論集7)

戦国時代の大名と国衆 (戎光祥中世史論集7)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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木部北城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8830.JPG←土塁の遺構か?
 木部北城は、木部城の支城である。歴史は不明であるが、木部城と命運を共にしたのだろう。位置は烏川と鏑川に挟まれた半島状の平地の北端近くにあり、現在は玄頂寺となっている。境内に土塁状の土盛りがあり形状もはっきりしているのだが、それにしては『群馬県古城塁址の研究』の縄張図に記載がなく、『日本城郭大系』にも「遺構はない」とされていることからすると、最近の墓地造成でできたものの様である。その他では、山門の西側に非常にわずかな起伏があるが、前述の縄張図の塁線付近にあるので、これは土塁の遺構かもしれない。しかしあまりにかすかであり、遺構はないものと考えた方が良い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.288944/139.051960/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東・甲信越 戦国の名城・古城 歩いて巡るベスト100

関東・甲信越 戦国の名城・古城 歩いて巡るベスト100

  • 作者: 清水 克悦
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2012/10/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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島名城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8809.JPG←主郭後の現況
 島名城は、応永年間(1394~1428年)に武蔵七党児玉党の一流、島名伊豆守によって築かれたと言われる。この時は北部の桜屋敷と呼ばれる郭を居館としていたと推測されている。戦国後期には、浄法寺城主長井豊前守政実が武田氏の貴下で武蔵の八千貫の地を切り取り、三千貫文を与えられて武蔵に移っていたが、信玄没後にこの地に入部した。1582年、政実の子信実は武田氏・織田信長滅亡後にこの地を制圧した北条氏に抗して越後に去り、島名城は廃城となった。
 島名城は、井野川東岸の段丘端に築かれていた。現在は耕地整理と河川流路変更によって、遺構は完全に湮滅している。大類城と同じく、多くの曲輪で囲んだ広い城であったらしいが、全くその痕跡は見出だせず、一面の畑が広がっているだけである。東にある眼聖寺も一郭であったらしいが、土塁も残っていない。城趾石碑もなく、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.330996/139.058998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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大類城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8792.JPG←主郭跡の現況と城址碑
 大類城は、和田城(後の高崎城)の出城として戦国後期に存在した城と考えられている。元々この地には武蔵七党児玉党の一流、大類氏がおり、平治の乱以来戦国期までその足跡が確認できるが、大類氏は大類城の南250mの位置にあった大類館に居たと考えられている。一方、大類城は、その縄張りと発掘調査で確認された出土遺物から、永禄・元亀・天正(1558~92年)の頃に20数年間存在した城と推測されている。この地域の歴史と照合すると、この城は箕輪城落城後のもので、和田城主和田氏が支城として築き、新後閑右京亮が城代として在城し、1590年の小田原の役によって廃城になったと考えられる。

 大類城は、一貫堀川の北側の平地に築かれた城である。城内は宅地化や耕地化で改変され、遺構はほぼ湮滅している。主郭があったところには城址碑が立ち、主郭付近は周囲よりやや高くなっている。城の周辺には、判形・原邸などの環濠遺構があり、築城前からあった屋敷を外堡として利用したと考えられているが、現在明確に残っているのは判形の北端部の堀跡で、水路の形として残っている。また熊野神社南の空地の奥に堀跡らしい地形が見られ、これが唯一の現存遺構かもしれない。尚、宿大類公民館脇に、大類城を含めたこの地域の城館跡についての解説板が建っている。
堀跡らしい地形→IMG_8808.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.330503/139.041831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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和田下之城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8760.JPG←主郭北西角の横矢張り出し部
 和田下之城は、和田城(高崎城の前身)の支城である。1561年、関東管領山内上杉憲政没落後の上州で上杉方として孤軍奮闘していた箕輪城主長野業政が病没すると、和田城主和田業繁は武田氏に降り、出城として和田下之城を築き、弟の正盛を城代として守らせた。その後、長篠の戦いで武田勢が大敗を喫すると、業繁も戦傷が元で死去した。1582年に武田氏が滅亡すると、上州は織田信長、北条氏と支配者が変転し、正盛の子正直は北条氏直に仕えた。1590年に北条氏が滅亡すると、城は廃された。

 和田下之城は、JR高崎線のすぐ北側にあり、現在は一面の住宅地となっている。従って、遺構はほとんど湮滅している。しかし主郭北西部には下之城町児童公園があり、奥に城址石碑と解説板が建っている。その東側には主郭北西角の土塁と堀跡が残り、わずかな横矢張り出しも確認できる。この他、町内には堀跡が水路となって残っており、概略の往時の縄張りを追うことができる。かなり残念な状況ではあるが、水路が縄張りの名残を残しているだけマシであろう。
北郭北西角の堀跡の水路→IMG_8782.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.309497/139.030287/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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畠山陣屋(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8654.JPG←陣屋の玄関
 畠山陣屋は、江戸時代の高家畠山氏の置いた陣屋である。陣屋はこの地の旧家・岡田嘉右衛門家の屋敷内に置かれた。岡田嘉右衛門家は栃木市屈指の旧家で、その祖・岡田親興は戦国時代に関東管領山内上杉憲政に仕えていたが、平井城が落城した後、近世初頭の慶長年間(1596~1615年)頃にこの地で帰農して新田開発に当たり、その田畑はその名に因んで嘉右衛門新田と呼ばれた。日光例幣使街道の開設盛行に伴って、沿道の名主としての重責を担ったほか、高家畠山氏の知行地となり陣屋が開設されると、当主は代々領内13ヶ村の惣代名主的な役割を果たした。また幕末期には代官職を代行したと言う。

 畠山陣屋は、現在岡田記念館となっている。付近は江戸時代の古い町並みの風情を残す嘉右衛門町として有名で、「蔵の街栃木」でも必ずパンフレットなどに載っているほど有名である。嘉右衛門町の名は、もちろん岡田嘉右衛門家に由来する。邸内には陣屋の建物(代官屋敷)が残っており、往時の役所の様子などが感じられる。
 尚、西に100m程離れた所に「翁島」と言う別邸があり、大正時代に建てられた、その道の職人が技を尽くした瀟洒な建物である。岡田記念館で申し込めば案内していただけるので、是非こちらも訪れてもらいたい。
陣屋の表門と石碑→IMG_8671.JPG
IMG_8651.JPG←陣屋内部

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.386189/139.733541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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花ヶ崎城(茨城県神栖市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8491.JPG←主郭西側に残る土塁
 花ヶ崎城は、この地を領した花ヶ崎氏の居城である。花ヶ崎氏は、室町時代に鼻ヶ崎の津を知行した土豪で、一族に伝わる由緒書によれば光仁天皇の子孫とされる。光仁天皇は桓武天皇の父であることから、花ヶ崎氏は桓武平氏に連なる大掾氏の庶流であったと推測されているそうだ。花ヶ崎氏の事績は不明であるが、戦国期を通して生き残っていたらしく、1591年に佐竹氏の鹿行地方制圧(いわゆる南方三十三館の仕置)により花ヶ崎氏も滅ぼされたと言う。

 花ヶ崎城は、現在浄動院という寺の境内となっている。浮島の様な主郭で、主郭外周には低土塁が築かれ、周りを広い堀で囲んでいた様である。堀の西側半分は、砕石が敷き詰められた空き地(駐車場?)に変貌している。東側半分は薮に覆われてるが、窪地になっていて堀跡であることが明瞭である。この他、南の入口付近に左手に土塁で囲まれた桝形のような地形があるが、遺構であろうか?
 訪城した時に確認したのは以上であったが、帰ってから国土地理院の昭和20年代の航空写真を見たところ、どうも主郭の北から東にかけて二ノ郭が囲んでいたらしい。また二ノ郭の南端が、西に主郭の虎口前まで細長く伸びていて、主郭との間に木橋が架かっていた可能性がある。また主郭の南の虎口は、南にやや突出していた様である。二ノ郭の更に北西にも馬出しの様な独立区画があった様にも見える。浄動院の北に広がる薮を探索すれば、土塁ぐらいは確認できるかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.865691/140.669138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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石神城(茨城県神栖市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8465.JPG←東側の水堀
 石神城は、大掾氏の流れを汲む石神氏の居城である。粟生城主粟生氏と同族とされ、石神八郎憲幹が粟生氏からこの地に配され、粟生城の出城として石神城を築いて備えを固めていたと言う。しかし1558年に粟生・石神両氏の間で争いが起き、両氏とも滅亡したと伝えられている。
 石神城は、現在花光院という寺の境内になっている。周囲には低土塁が残り、東側には水堀跡も残っている。塁線は基本的に直線状だが、東側だけ北東部が湾曲して張り出している。しかし横矢掛かりと言う程ではない。基本的には縦長の単郭の城だったと思われる。外郭があった可能性もあるが、古い航空写真を見ても推測も困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.868100/140.650856/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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ホイホイ地蔵・十三塚(茨城県稲敷市) [その他の史跡巡り]

IMG_9446.JPG←ホイホイ地蔵
 ホイホイ地蔵と十三塚は、南北朝時代に常陸に下った南朝の重臣北畠親房に関連する史跡である。建武の新政が瓦解し、吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、1338年に主戦力であった新田義貞、北畠顕家(親房の嫡男)を戦場で失い、勢力再建が急務となった。そこで閏7月に自らの皇子である義良親王・宗良親王・懐良親王を伊勢を経由して、それぞれ奥州・遠州・九州の各地の南朝勢力の元に派遣し、勢力挽回を企図した。この内、義良には親房とその次男顕信を付けて海路奥州に下したが、9月に途中の遠州灘で暴風に遭い、兵船は四散、義良は伊勢に吹き戻されて、翌年吉野に戻って皇太子となった(後の後村上天皇)。一方、親房は常陸に漂着し、南朝方の地頭東条氏に迎えられて神宮寺城に入り、ここを東国経営の拠点として活動を開始した。しかし間もなく、北朝方の武家である佐竹義篤(常陸守護)・大掾高幹・烟田時幹・鹿島幹寛・宮崎幹顕らの軍勢に攻められ、10月5日あえなく落城した。親房は阿波崎城に逃れたがこれも陥とされ、更に小田城へと落ちていった。
 この間、近郷の農民を督励し、築城・兵糧等の役務に尽力した近郷の名主13名は、佐竹義篤らによってその罪を問われて斬首され、神宮寺原の露と消えた。しかし一人阿波崎村の名主根本六左衛門は、偶々他出していて難を逃れたが、帰宅し盟友らの死を知るや悲憤に絶えず、小野川畔に「ホーイ、ホーイ」と去りゆく敵将を呼び返し、自ら進んで斬られ、盟友らの後を追ったと言う。その霊を弔うために建てられたのが、ホイホイ地蔵と呼ばれる地蔵尊だと言われている。

 またこの事件から43年後、南北朝末期の1381年に椎塚の善吉寺の但阿和尚らによって塚を設けて供養したのが、十三塚である。実際には、一人残ってしまい後に自ら斬られた根本六左衛門も祀られたため、塚は14基ある。現地解説板に今日伝えられる名主の名は次の通り。

  神宮寺村  根本三郎兵衛     四箇村  後藤喜左衛門
  阿波村   平山市左衛門     飯出村  根本助之丞
  高田村   岡澤庄左衛門     須賀津村 高城嘉兵衛
  椎塚村   宮本平右衛門     三次村  糸賀市兵衛
  釜井村   岩瀬源左衛門     下馬渡村 坂本茂兵衛
  伊佐部村  鳥羽利兵衛      浮島村  高塚勘左衛門
  幸田村   飯塚左馬之助     阿波崎村 根本六左衛門

 ホイホイ地蔵は、霞ヶ浦に臨む古渡橋の南のたもとの東側にある民家の入口付近にある。表の道路から100m程奥にあるので、一瞬入っていくのがためらわれる場所であるが、地蔵堂には解説板もあるので、史跡として保護されている。
 十三塚は、神宮寺城の真北460m程の交差点脇に大きな石碑が立ち、その脇道沿いに14基の墓(塚)が一直線に祀られている。墓石は新しいものなので、再建されたものなのだろう。
 何故かはよくわからないのだが、当時の関東では常陸国が南朝方の勢力が非常に根強く残っていた。建武期には楠木正成の一族、楠木正家が派遣されて瓜連城を拠点として東国経営を行っていたが、わざわざ河内の楠木氏を派遣していることから、後醍醐政権にとって常陸が重要視されていたことを物語る。また小田氏が中心となって南朝方に与する武家も存在していた。そのため親房も、東国の南朝再建のために常陸を目指したのである。こうした背景から、元々この地の村民にも南朝に対するシンパシーが強かったことが想像でき、ホイホイ地蔵や十三塚といった話が語り継がれているのだろう。地域の貴重な歴史の一コマである。
十三塚→IMG_9455.JPG

 場所:【ホイホイ地蔵】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.973943/140.350857/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【十三塚】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.959789/140.369139/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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ヌオーヴォ城(イタリア/ナポリ) [ヨーロッパの城郭]

IMG_7634.JPG
 ヌオーヴォ城[Castel Nuovo (Ita.)]は、1279年から3年の歳月をかけてアンジュー家のシャルル・ダンジュー(シチリア王カルロ1世)によって築かれた。城の名は直訳すると「新城」で、これはサンタルチア港の小島に築かれたカステル・デッローヴォ(卵城)[Castel dell'Ovo (Ita.)]に対して新しい城という意味である。1443年、アラゴン王家のアルフォンソ5世がナポリを攻略してヌオーヴォ城に入城し、ナポリ王となった。アラゴン家支配時代にヌオーヴォ城は大改修を受けた。その後、スペイン統治・オーストリア統治・ブルボン朝統治・ナポレオン統治を受けた。こうして1815年までナポリ王の居城として続いた。
 ヌオーヴォ城は、港湾都市ナポリの玄関口にそびえている。幾多の戦いを繰り広げた城であるため、北面の城壁には砲弾(投石?)が当たった跡も残る。外郭や稜堡式の塁線はなく、複数の円形の塔を組み合わせた、ヨーロッパ中世の城の形態を留めている。
砲弾の跡の残る北側城壁→IMG_7623.JPG

 場所:https://goo.gl/maps/1EyaugUUtV82


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サンテルモ城(イタリア/ナポリ) [ヨーロッパの城郭]

IMG_7647.JPG←丘上にそびえるサンテルモ城
 サンテルモ城[Castel Sant'Elmo (Ita.)]は、ナポリを支配したなアンジュー家によって築かれた、ヴォメロの丘に立つ要塞である。創築は1275年、シャルル・ダンジュー(シチリア王カルロ1世)の時代とされる。その後14世紀に入ると、ロベルト1世(賢明王)によって整備拡張された。16世紀にスペイン人がナポリを支配すると、1537~47年にトレドの総督ドン・ペドロによって、星型の稜堡式城郭へと改修された。
 サンテルモ城は、ナポリの港町からよく見える高台にそびえている。時間がなかったので、実際に行くことはできなかったが、稜堡式の城壁が遠目にもよく見える。

 場所:https://goo.gl/maps/Qo6GHsHkLGs


るるぶ南イタリア・シチリア (るるぶ情報版海外)

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