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古城めぐり(千葉) ブログトップ
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臼井城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0039.JPG←主郭北側の腰曲輪
 臼井城は、下総の名族千葉氏の庶流臼井氏が築き、後に同族で千葉氏の筆頭家老であった原氏の居城となった。臼井氏は、千葉一門の中でも最も古い一族で、平安時代後期に千葉常兼の子常康が臼井郷に分封されて、臼井氏の祖となった。この草創期の居城が臼井城であったかどうかは明確ではない。南北朝期の臼井氏中興の祖興胤の時、臼井城の基礎が築かれたと言われている。臼井城がはっきりと歴史上に姿を現すのは、1479年の太田道灌による臼井城攻めの時である。即ち、1476年に生起した長尾景春の乱の際に、景春方に付いた千葉一族討伐の為、1478年、扇谷上杉定正は家宰の江戸城主太田道灌と赤塚城主千葉自胤(武蔵千葉氏)らを下総国府台に向けて出陣させた。対する千葉孝胤は、原景弘・円城寺図書之助・臼井俊胤ら一族重臣を率いて境根原で迎撃したが敗れ、千葉勢は一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城に籠城した。翌年正月、道灌は弟の図書助資忠・千葉自胤を率いて臼井城を攻囲したが、守りが堅く容易に落ちなかった。太田資忠は、ようやく臼井城を落城させたが、自身は乱戦の最中に討死したと伝えられている。その後程なく臼井氏は臼井城に復帰したが、戦国時代中期の1557年、臼井景胤の死に当たり、遺言により若い久胤の後見として、同族で生実城主原胤清の子胤貞が臼井城に入り、原氏の影響下に置かれた。1561年、久胤は、里見方の大多喜城主正木時茂に臼井城を攻め落とされ、久胤は結城晴朝の元に逃れた。1564年、原胤貞は臼井城を奪還したが、1566年には上杉謙信に攻撃され、落城寸前まで追い込まれたが、辛うじて落城を免れた。その後、生実城を失陥した原氏は本拠を臼井城に移し、1590年に小田原の役で小田原北条氏に従って滅亡するまで、原氏の居城となった。徳川家康が関東に入部すると、臼井城には重臣の酒井家次が3万石で入ったが、1604年に酒井氏の転封により臼井城は廃城となった。

 臼井城は、印旛沼南岸の比高20m程の段丘上に築かれた城である。現在主郭とニノ郭は城址公園として整備されている。台地先端に当たる東端に、北側を腰曲輪群で防御した広やかな主郭を置いている。主郭とニノ郭の間は広い空堀で分断され、土橋で連結され、主郭腰曲輪はそのままこの空堀に繋がっている。この空堀に対して、主郭の西に張り出した櫓台から横矢が掛けられている。ニノ郭も広大な曲輪で、外周に低土塁が残っているが、公園化による改変で遺構はわかりにくい。ニノ郭の周囲には天然の谷戸を利用した空堀が構えられ、その西側に外郭が築かれている。主郭もニノ郭も周囲の空堀は広く、鉄砲戦を考慮したものと考えられる。外郭は畑や民家に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいるが、外郭西側の斜面に小規模な空堀が一部残存している。また南側の空堀は湮滅しているが、北端部の浅い堀切が山林の中に残り、この堀切に沿って土塁や櫓台・腰曲輪が残っている。この他、ニノ郭の南に祠の置かれた櫓台が残っている。臼井城は改変はあるものの、往時の雰囲気はよく残っており、謙信の猛攻にも耐えた要害の名残を残している。
外郭西側の横堀→IMG_0100.JPG
IMG_0114.JPG←外郭北端の小堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.737933/140.178962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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師戸城(千葉県印西市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_09936.JPG←三ノ郭空堀の大規模な横矢掛かり
 師戸城は、千葉氏の一族であった臼井氏と原氏の居城臼井城の支城である。築城時期ははっきりしないが、鎌倉末期には臼井氏四天王の一人師戸四郎が居城していたとされる。印旛沼対岸の臼井城とは「渡」で連絡され、臼井城の防衛に大きな役割を果たしたものと考えられる。戦国時代には、臼井氏に代わって臼井城主となった原氏によって改修され、現在の姿となった。1566年、関東に出陣した上杉謙信は臼井城を取り囲んで攻撃したが、師戸城は上杉勢の攻撃を防ぐ大きな役割を果たしたと思われる。1590年の小田原の役で落城し廃城となった。

 師戸城は、印旛沼北岸に張り出した比高20m程の台地先端部に築かれており、現在は「印旛沼公園」になっている。大きく4つの曲輪で構成されており、基本的には梯郭式に近い連郭式の縄張りである。先端に位置する主郭・ニノ郭は、元々は一つの曲輪だったと思われ、浅い空堀と小規模な土塁で分割しただけである。但し、空堀の両端には櫓台が張り出して主郭虎口への横矢を掛けている。主郭・ニノ郭と三ノ郭の間は、横矢の掛かった屈曲した中規模の空堀で分断され、土橋で連結されている。更に三ノ郭の外周は規模の大きな土塁が廻らされ、その外周は深さ8m程の大規模な空堀が屈曲しながら穿たれており、非常に見応えがある。三ノ郭東側は空堀外に帯曲輪があり、その外に四ノ郭があるが、ここは地形の改変を受けてしまっている。師戸城は、横矢掛かりが徹底した縄張りで、殊に三ノ郭空堀の横矢掛かりは北条氏のこの手の崖端城に多く見られる形状で、極めて北条的な城で見応えがある。

 尚、公園のパンフレットでは、高度成長期に不動産業者から住宅建設が申請されたが、遺構調査の結果、A級城跡とされて開発許可が降りなかったらしい。当時にしては珍しい行政当局の名判断によって、間一髪で後世に残された貴重な遺構である。
主郭外周の屈曲する空堀→IMG_09954.JPG
IMG_09961.JPG←主郭とニノ郭を分割する堀と土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.751779/140.183469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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高田山城(千葉県印西市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9909.JPG←ニノ郭西側の出枡形櫓台
 高田山城は、歴史不詳の城である。千葉氏の筆頭家老原氏の居城臼井城から、北に3.6kmの位置にある。臼井城周辺城砦群の中核・師戸城の後背部を扼する位置にあり、師戸川西岸の段丘先端部に北側を向いて築かれている。その配置と遺構の特徴から考えれば、原氏によって、臼井城防衛の為に築かれた城砦と考えるのが自然であろう。
 高田山城は、梯郭式の主郭・ニノ郭から成る比較的小規模な城である。ほぼ方形の築城プランを有しており、土塁と堀が良く残っている。主郭も二ノ郭も横矢を意識した縄張りで、特に二ノ郭では西側中央部に出枡形櫓台を築いて、台地基部側の防衛陣地としている。又、ニノ郭南に大手虎口があり、この虎口に向かって左袖の横矢掛かりが形成されている。主郭は、埋もれているせいか土塁も堀もかなり小さく、それほどの防御性は持ってない様に思える。主郭の北と東には帯曲輪が築かれ、空堀がそのまま虎口を兼ねて腰曲輪に繋がっている。高田山城は、出枡形櫓台は見事であるが、主郭周辺の遺構は少々見劣りする。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.771036/140.177503/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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笠神城(千葉県印西市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9846.JPG←見応えのある空堀
 笠神城は、歴史不詳の城である。城址の一郭にある南陽院には千葉氏の一族原豊前守の位牌があることから、原豊前守が城主であったと推測されている。小林城の東南東わずか1kmの位置にあり、平野(かつての低湿地帯)を挟んで対峙する位置に築かれていることから、両城が強い関連の下に築かれていたことが伺える。
 笠神城は、将監川の氾濫原にある比高15~20m程の独立小丘に築かれている。前述の通り城内の主殿が置かれていたと思われる平場には、南陽院が建てられている。寺の背後には、主郭とされる高台の平場があるが、南陽院が立入禁止にしている為、遺構を確認することができない。一方、南陽院南のお堂のある高台は物見台だったらしく、土塁が残る他、背後には深さ5m程の空堀が円弧状に廻らされている。その南側の竹林の中も外郭で、曲輪群が築かれているが、例によって倒竹等で見通しがきかず、途中で引き返した。結局、空堀だけが唯一の見所の城の様である。未整備未開放なのは残念である。
外郭の腰曲輪切岸→IMG_9858.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.819728/140.206894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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小林城(千葉県印西市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9835.JPG←北東の神社から見た城跡
 小林城は、歴史不詳の城である。発掘調査の結果等から、戦国時代後期にこの地域を支配していた千葉氏の一族原氏に関係する城と推測されている。

 小林城は、将監川の氾濫原に西から突き出た比高20m程の小丘上に築かれている。周囲は氾濫原に半島状に突き出た広い台地で、その南角の小高い小丘を利用して築かれていた様である。しかしこの周囲の大地は一面の住宅地に変貌し、しかも小林城のあった小丘は、ド真ん中に新道が建設されて、城の中枢部は丸ごと遺構が湮滅してしまっている。かつては大きく4つ程の曲輪と付随する腰曲輪で構成され、主郭・ニノ郭間を堀切・土塁で分断した城であった様だが、周囲は住宅地でもあり、「のぼるな」という看板がこれ見よがしに設置されているので、残存遺構の確認すら儘ならない。何とも残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.823635/140.196450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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布施殿台城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9761.JPG←櫓台(ようがん台)と横堀
 布施殿台城は、歴史不詳の城である。伝承では、高藤山城と同様、上総介広常の居城であったと伝えられるが、定かではない。しかし台地上の広い平地に居館を築き、山稜で背後を防衛する地勢は、鎌倉時代の武士の居館では普通に見られる地勢であるので、殿台・根古屋・堀之内等の地名と合わせ、あながち単なる伝説とも言い難いものがある。いずれにしても、現在残る遺構からは戦国期に改修使用されたと考えられる。

 布施殿台城は、落合川西岸の比高10m程の台地上に築かれている。台地上の広大な平場は、民家と畑に変貌している。奥殿台と前殿台の地名が残っているらしく、上段に当たる奥殿台が主郭であったと見られる。奥殿台は切岸がはっきり残っており、その下には空堀の名残の畑が窪地となって残っている。台地西側は高さ10m程の細尾根になっているが、この部分にはクランク状の横堀が穿たれ、櫓台や西側下方の腰曲輪に繋がる虎口が形成されている。西側の腰曲輪群は、基本的に上総式の垂直切岸型のものである。尾根を南に辿って行くと、腰曲輪群を経由して「ようがん台(要害台)」と呼ばれる櫓台がそびえている。櫓台の南斜面に横堀が穿たれ、更に南の鞍部は自然地形を利用した堀切となっている。その更に南尾根にも段曲輪と物見台が見られるが、そこから先は自然地形となって城域が終わっている。布施殿台城は、割と旧態依然とした縄張りを残しており、戦国期には繋ぎの砦か、或いは城谷城と対峙する夷隅金山城の後方支援拠点の様な位置付けで運用された城だったのかもしれない。
台地西のクランクする横堀→IMG_9728.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.222911/140.341492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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鶴ヶ城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9685.JPG←北尾根の切通し虎口と櫓台
 鶴ヶ城は、万喜城主上総土岐氏の支城である。北方の一宮正木氏の一宮城に対する土岐領防衛の為の境目の城として機能し、鶴見弾正や佐々木駿河らが守っていたとされる。一説には、万喜城築城以前の土岐氏の居城であったとも推測されている。1590年の小田原の役で、徳川四天王の一人本多忠勝が房総諸城を攻略した際、鶴ヶ城も開城降伏したと言う。

 鶴ヶ城は、隣接して亀ヶ城の名が残っており、鶴亀2つを一城別郭とした城と考えられる。椎木堰・中原堰という2つの貯水池に挟まれた比高30m程の低台地上に築かれており、かなり広範囲に曲輪を構築した、軍事駐屯地的な城となっている。残念ながら城の主要部は藪がひどく、また山林の合間を縫う様に民家や別荘・畑が散在している為、不審者と怪しまれない様、遺構の確認には神経を使うし、勝手に畑に入ることも儘ならない。『図説 房総の城郭』の記述に従うと、東の中原堰に半島状に突き出した東部郭群は畑の先にある台地で進入不能、西部郭群も民家が点在し、進入は憚られる。結局、中央部の林道を通って確認できる主要部(中央郭群)での明確な遺構は、三ノ郭手前西側にある横堀・土塁遺構と、ニノ郭手前の二重堀切で囲まれた馬出郭ぐらいである。あとは平場がだらだらと続いているだけで、どこまでが遺構かはっきりしない。林道奥西側の高台が主郭とされるが、藪がひどく平場が広がっていることぐらいしか確認できない。

 ところが、この城の白眉は主郭の先の尾根筋にある。主郭後部の道は横堀状になって主郭の東に位置する「屋敷台」と呼ばれる高台の背後に回りこんでいるが、屋敷台に向かって櫓台を備えた虎口があり、その先は横堀状の城道となり、屋敷台背後の枡形虎口に通じている。一方、屋敷台から北に伸びる尾根筋は、万喜城と同様な構造の外郭尾根遺構が延々と続いている。尾根側方を垂直切岸で掘削し、その横に腰曲輪・帯曲輪を廻らし、尾根筋には櫓台を要所に配置している。更に堀切兼用の切通し虎口が設けられ、垂直切岸で囲まれた広い腰曲輪も見られる。更に北に伸びる尾根にも、尾根上の櫓台に横堀が構えられている。この他、尾根東側の腰曲輪に横堀状の城道があり、木戸口を守る土塁が構えられている。

 以上の様に鶴ヶ城は、主要部の遺構には見るべきものが少ないが、北部郭群の遺構が素晴らしく、全く期待していなかっただけに嬉しい誤算となった。
三ノ郭西側の横堀→IMG_9546.JPG
IMG_9589.JPG←屋敷台の枡形虎口
垂直切岸で囲まれた腰曲輪→IMG_9648.JPG
IMG_9691.JPG←横堀状の城道と木戸口土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.329185/140.386130/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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一宮城(千葉県一宮町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9480.JPG←南外郭の物見台の堀切
 一宮城は、一宮正木氏の居城である。築城時期は不明で、その歴史についても不明点が多く、1562年9月に城主内藤久長が里見義頼・万喜城主土岐頼春・大多喜城主正木盛賢らに攻められて落城したとも、或いは同年7月に城主糟谷大炊助が勝浦城主正木時忠・時通親子に攻撃されて数ヶ月後に落城したとも言われるが定かではない。いずれにしても正木氏の支城の一つであったが、1564年の第二次国府台合戦の後、勝浦正木氏が里見氏から離反して小田原北条氏に付くと、一宮城を攻略して嫡男正木時通を城主とした。しかしその後、里見氏は勢力を回復し、1575年に万喜城や一宮城に攻撃を掛けると、北条氏政はその救援の為に下総・上総に侵攻した。1577年に里見氏と北条氏の間で和睦が結ばれると、勝浦正木氏は里見方に復帰し、一宮城は里見氏の支城となった。1590年には里見氏の家臣鶴見氏が一宮城主となっていたが(或いは、上総土岐氏の家臣にも鶴見氏がいるので、土岐氏の支城となったものか)、小田原の役の一環で徳川四天王の一人本多忠勝が房総諸城を攻略した際、一宮城も落城した。江戸時代に入ると、1657年には脇坂淡路守安元が、また1826年には加納遠江守久儔が藩主となってこの地に陣屋を構え、幕末に至った。

 一宮城は、「城之内」の地名の残る台地と、その外周を取り巻く細尾根の外郭で構成された城である。規模は異なるが、この城郭構造は長南武田氏の居城長南城とよく似ている。現在「城之内」地区は城山公園となり、おそらく往時は主殿が置かれたであろう台地最上段には振武館と言う体育館が建てられており、城内はかなり改変されている。振武館の北と南には細尾根外郭が残っているが、北側は藪が激しく踏査不能で、南側だけ途中まで確認した。要所に物見台を設け、その間を細尾根で連結し、垂直切岸の外側に帯曲輪を巡らした、上総式細尾根城郭の典型的な縄張りを有している。この南尾根の中間の物見台には堀切も穿たれている。その他は改変が激しく、往時の遺構はあまり見ることができないので、物足りなさを感じる城である。
細尾根周囲の帯曲輪→IMG_9485.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.372659/140.360939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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高藤山城(千葉県一宮町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9418.JPG←城域最南端の堀切
 高藤山城は、高塔城または柳沢城とも言い、鎌倉幕府創業の功臣上総介広常の居城と伝えられる。伝承では、1126年に平常家が上総権介に任じられ、以後常明・常隆・広常と4代の居城となったとされる。上総氏は、上総平氏の棟梁として勢威を振るった。1180年に平家打倒に挙兵した源頼朝は、石橋山の合戦で大敗し、渡海して安房に逃れると、和田義盛を遣わして広常に加勢を求めた。広常がこれに応じて2万の大軍を率いて参陣したことで、関東諸豪が雪崩を打って頼朝に帰参し、源氏の勢威は関東を席巻して鎌倉幕府の樹立に繋がった。広常は、幕府創業に大功があり、その後も軍功を挙げたが、驕慢の振る舞いが多く、頼朝の内意を受けた梶原景時によって1183年に誅殺された。その後、この地は広常の弟頼次を祖とする金田氏が領したことから、高藤山城は金田氏の持ち城となったと推測されている。戦国時代になると、一説には正木左近大輔の居城となったとも、或いは1589年に一宮城主鶴見甲斐守が高藤山で自刃していることから、一宮城の支城になっていたとも推測されるが、定かではない。

 高藤山城は、一宮川南方のやや奥まった比高60m程の丘陵に築かれた城である。城域は大きく2つに分かれ、現在石碑や解説板の建っている主郭を中心とした主城部と、そこから西にやや離れた尾根筋に築かれた外郭部から成っている。主郭は大きく2つの段に分かれ、外周には土塁が築かれている。北には堀切を介してニノ郭があり、東と北の尾根に段曲輪が築かれ、特に北尾根は派生する尾根にも堀切が細かく刻まれている。主郭の西側には、小さな横堀があり、その下に西の尾根との鞍部に広がる5郭がある。ここは藪がひどく、仕切り土塁などもある様だが未踏査である。西に向かう尾根には南辺に土塁が築かれ、その外側に犬走りが確認できる。この尾根の先は横堀があって、その上に腰曲輪を伴った6郭がそびえている。6郭も西に派生する支尾根に堀切が2本穿たれている。6郭は狭小な物見台で、ここから南に堀切を介して7郭が広がっている。7郭は外周をL字状土塁で囲まれた窪地状の曲輪で、派生する尾根には全て細かく堀切が穿たれ、北西角には隅櫓台が築かれ、南には大土塁の先に櫓台がそびえている。この櫓台の南東と南尾根にも堀切が穿たれて、城域が終わっている。以上の様に高藤山城は、全ての尾根筋を細かく堀切で分断しているが、全て小規模な薬研堀である。規模は異なるが城谷城等と同様、戦国後期~末期頃に外郭を拡張した様で、主城部と外郭とが離れた一城別郭構造となっている。歴史的経緯からすれば、里見氏系の勢力によって城域が拡張されたとするのが一般的かも知れないが、堀切が皆一般的な薬研堀であり、上総式の細尾根城郭の造りとも異なっているので、遺構面からは里見系とは異質で、里見氏勢力による拡張とは俄に断じ難いものがある。一方で、一宮城の一宮正木氏が小田原北条氏に帰参して里見氏と攻防を繰り広げていたことを考えると、北条氏の勢力による拡張と考えても良いかもしれない。
7郭の隅櫓台・土塁→IMG_9424.JPG
IMG_9345.JPG←堀切と主郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354863/140.345812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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勝見城(千葉県睦沢町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9250.JPG←垂直絶壁切岸で囲まれた曲輪
 勝見城は、上総権之介広常の弟金田小太夫頼次の居城と伝えられている。頼次は金田郷を領したことから金田氏を称し、源頼朝挙兵の時には兄広常と異なり、頼朝の旗揚げ前から三浦氏の居城衣笠城に入るなど、鎌倉幕府創業に貢献した。一方広常は大兵を擁して、房総半島に逃れた頼朝の勢力挽回に大功を挙げたことから、幕府内で専横の振る舞いが多く、1183年、頼朝の内意を受けた梶原景時によって誅殺された。広常の誅殺と共に、頼次も蟄居を命ぜられ、後に病死したと言われる。その後許された一族は旧領を回復したが、頼次の孫盛常は、1247年の宝治合戦で三浦氏に同調した理由で蟄居を命じられ、所領は同族の千葉氏に与えられた。盛常の子胤泰は、叔父に当たる千葉胤定の跡を継いで鏑木氏を称したが、8代後の常信の時に旧領に復して金田氏を称した。この時、勝見城を居城としたかどうかは定かではない。いずれにしても天文年間(1532~55年)以降は、正木氏か長南武田氏のいずれかの支城になったと推測されており、1590年の『関八州諸城覚書』(毛利家文書)によれば、戦国末期には長南武田氏の属城となっていたことが知られている。

 勝見城は、比高50m程の細尾根状の丘陵地に築かれた城である。この城では、細尾根状の狭小な曲輪群は単なる物見台か詰城に過ぎず、基本的には細尾根両側を削って山腹に築かれた広い曲輪群が主体となっている城である。従って、中心的な曲輪というものがはっきりせず、求心性のない縄張りとなっている。尾根筋には点在する物見台の間を深さ3m程の数本の堀切で分断し、城域南西端には大堀切が穿たれて、一応の区画を成している。「一応の」と言うのは、その先の尾根にも腰曲輪が廻っており、どこまで城域かがあまりはっきりしない為である。尾根側方の曲輪群は、上総式細尾根城郭の典型で、背後を垂直絶壁切岸で守られた平場で、曲輪間は基本的には小規模な段差だけで区画している。尾根東側の曲輪群には、主尾根から東に分岐した支尾根を天然の障壁とし、堀切を兼ねた切通し状虎口を設けた構造が2ヶ所確認できる。勝見城の様な縄張りは夷隅地方には多い形態であるが、中心的曲輪を防御する構造が欠落しており、普通の城の縄張りから考えれば、かなり異質な城である。
城域南西端の大堀切→IMG_9239.JPG
IMG_9278.JPG←堀切兼用の切通し虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.381912/140.325825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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真ヶ谷城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9111.JPG←主郭背後の土塁
 真ヶ谷城は、歴史不詳の城である。地域的には真里谷武田氏の勢力圏であることから、初期の築城は真里谷武田氏に関連した在地領主で、その後、上総に進出した里見氏方の勢力が現在の規模に改修したと推測されている。
 真ヶ谷城は、養老川の支流内田川の北側、比高50m程の丘陵に築かれた城である。大きく主郭とニノ郭の二つの曲輪で構成されている。南西端の太子堂裏の荒沢神社から尾根を登って行くと、腰曲輪や細尾根を削平した曲輪を経由して、ニノ郭に到達する。この間、細尾根を分断した小堀切が3本あり、最後のものは土橋が掛かってニノ郭に繋がっている。その側方には腰曲輪が築かれている。ニノ郭は城中最大の曲輪で、現在は広大な畑になっている。南東隅には搦手虎口があり、また北側の支尾根には堀切が穿たれている。ニノ郭の上には主郭があるが、3段程の平場に分かれており、背後に土塁と櫓台を備え、その裏には中規模の堀切と腰曲輪が築かれている。堀切の北にも尾根の先に物見台状の小郭があり、やはり背後に堀切が穿たれている。遺構はよく残っているが、主郭裏はちょっと藪が多く、遺構的にも特色の少ない印象の薄い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.404897/140.166695/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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佐是城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8972.JPG←ニノ郭南の横堀状搦手道
 佐是城は、真里谷武田氏の支城である。伝承では元々の創築は、鎌倉時代に佐是禅師円阿が館を構えたとされるが定かではない。真里谷武田信興の弟三郎国信が文明年間(1469~86年)頃にこの地に分封され、佐是城を築いた(現地解説板では天文年間(1532~55年)とされるが、時代的に合わない為当方にて修正)。その後、国信の子孫は、1552年の椎津合戦で籠城軍と参陣し討死したと伝えられる。その後の佐是城主武田氏の事績は不明であるが、現在残る遺構からは、その後も城は改修されたと考えられている。

 佐是城は、この地域では珍しく河岸段丘を利用して築かれた崖端城である。主郭のすぐ東は曲流する養老川が刻んだ断崖となっている。かなり広い城域を有した城で、竹林となった主郭・ニノ郭は遺構がほぼ完存している。主郭の北東には隅櫓台と虎口が築かれ、北側の腰曲輪へと繋がっている。主郭とニノ郭の間は堀で分断され、東端に土橋が掛かっている。ニノ郭は東縁部に低土塁が築かれ、南端に隅櫓台が置かれている。その南下には横堀状の搦手道が通り、外側を土塁で防御している。丁度、真里谷城三ノ郭北側の横堀状大手道と同じ構造で、虎口も残っている。ニノ郭の西には三ノ郭があり、やはり堀で分断されている。三ノ郭は現在畑に変貌しており、南の外郭との間を分断していた堀は、わずかに低地の畑となって名残を残し、堀沿いの土塁のみわずかに残っている。外郭東側にも土塁が残り、南の大手には二重枡形が民家の入口に見事に残っている。この他にも主郭の北に、谷戸を挟んで三角形状の北ノ郭があり、ここには妙性院が建っている。北ノ郭外周の谷戸は「内堀」とされ、天然の深く大きな堀となって、城の主要部を隔絶している。しかしこの内堀の南部分は埋め立てられてしまっており、地形が改変されてしまっている。更に北の光福寺のある台地も外郭だったらしく、境内に土塁や虎口跡が残っている。この付近は古墳も多数散在している。一部地形の改変があるものの、全体としては遺構がよく残っており、これ以上の破壊が進まないよう、保存の手立てを講じて欲しいものである。
三ノ郭の堀跡→IMG_8991.JPG
IMG_9001.JPG←民家に残る大手枡形
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.399985/140.128339/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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鶴舞城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8861.JPG←水堀跡
 鶴舞城は、未完の城である。明治元年(1868年)、新政府が樹立され、恭順した徳川慶喜が駿府に移ると、これに伴って徳川宗家を相続していた徳川家達も駿府70万石に移封となった。これにより駿遠の幕臣大名は多く配置換えとなり、浜松藩主井上河内守正直の上総転封により鶴舞藩が成立した。正直は鶴舞城の築城を開始したが、城が完成する前に廃藩置県となり、築城工事は中止されて鶴舞藩庁となった。鶴舞での藩知事時代はわずか15ヶ月に過ぎなかったと言う。
 鶴舞城は、池和田城背後の台地上に築城された。元々未完の城であり、現在は市街化も進んだ為、残っているのは鶴舞小学校脇の本丸跡の土塁と井戸跡、そして南西側に残る大きな水堀跡ぐらいである。さすがに近代城郭らしく水堀は広やかで、堀に沿って土塁らしき跡も残るが、如何せん未整備の薮で、立入禁止になっていることもあり、あまり深くは探索できなかった。池和田城に行ったついでに訪問する程度の城であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.383942/140.181908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近代城郭
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池和田城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8817.JPG←主郭に残る土塁
 池和田城は、安房里見氏と小田原北条氏との間で争奪戦が繰り広げられた城である。城の創築は明確ではないが、鎌倉時代に和田太郎正治の居城であったと伝えられている。戦国時代になると長南武田氏の重臣多賀氏の居城となり、長南武田氏が里見氏の勢力下に入ると多賀氏もそれに従ったが、1564年の第二次国府台合戦で里見氏が北条氏に大敗を喫すると、勢いに乗じた北条氏に上総まで攻め込まれ、池和田城も北条氏政の大軍に囲まれた。第二次国府台合戦で討死した多賀越中守高明の子多賀蔵人・兵衛兄弟の奮戦と、要害堅固な城に北条方は攻めあぐねたが、城内に内応者が出て落城した。しかし1567年に三船山合戦で北条氏が敗れると、反攻に転じた里見氏によって池和田城は奪還され、再び多賀氏の居城となった。1577年に里見氏と北条氏の間で和睦が成立すると、長南武田氏は北条氏に属し、池和田城も北条方の城となった。1590年の小田原の役の頃は内藤大和守が城主であったが、浅野長政らの上方勢に攻め落とされ、以後廃城となった。

 池和田城は、標高73m、比高30m程の小丘に築かれた城である。この丘陵は、住宅地裏に位置しているので、あまり思うようには遺構の探索ができない。それでも天神社の鎮座する主郭は整備され、低土塁が残っており、登り道の途中には井戸跡が残り、主郭の周りに腰曲輪が築かれているのもわかる。しかし主郭北西の二ノ郭などは未整備で冬でも藪がひどく、踏査は断念した。この他、北側の斜面に段々に平場があるが、いずれも畑になっているため、往時の遺構かどうか判断が難しい。ニノ郭の隅には櫓台らしい土壇も遠目に確認できたが、如何せん民有地なので進入できなかった。この他、縄張図では西側に横堀がある様だが、民家の裏の為これも確認できなかった。北条勢が攻めあぐねたにしては、ささやかな規模の城であり、遺構もあまり見どころがなく、少々拍子抜けした。おそらく往時は、平蔵川を天然の外堀とし、低湿地帯に囲まれた要害地で、あまり大きな普請を必要としなかったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.380758/140.175836/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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大羽根城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8729.JPG←コブ状の多重堀切
 大羽根城は、『日本城郭大系』では音羽根城と記載され、天正年間(1573~92年)に安房里見氏が千葉氏と戦うために築いた城ともされるが、確かなことは不明である。

 大羽根城は、高滝湖に流れ込む養老川中流域の東岸にそびえる、標高119mの南北に長い丘陵上に築かれた城である。城域は広く、主城部だけでも南北500m程に及んでいる。しかし縄張りは単純で、主要な曲輪を一直線に連ね、曲輪間を浅い薬研堀の堀切で分断した形を基本形とし、その西側に広く長い腰曲輪を廻らしている。三ノ郭には中央に仕切り土塁が見られ、主郭背後にも土塁が築かれている。主郭背後に繋がる南の尾根には、コブ状の小型の多重堀切が穿たれており、規模も形も異なるが峰上城の七重堀切に似た雰囲気がある。主郭には背後から東側にかけて腰曲輪が廻らされ、そこから北東に伸びる支尾根にも物見台や堀切が築かれている。この他に、城域北端に近い曲輪の中央にも櫓台が築かれている。大羽根城は、遺構を見る限り技巧性は感じられず、堀切の浅く緩い造りから戦国初期までの運用の様に感じられる。或いは一時的な陣城として築いたものだろうか?いずれにしても、岡本城など戦国末期でも古風な城の多い里見氏の城という伝承は、首肯できるものがある。
三ノ郭の堀切→IMG_8694.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.332355/140.153016/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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雀が崎城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8619.JPG←主郭周囲の堀と馬出し郭
 雀が崎城は、歴史不詳の城である。この城の台地続きには、平安時代に大館氏が築いたとされる御園生館があり、それとの関連が推測されるが詳細は不明。一説には、永禄年間(1558~69年)に湯浅七良右ヱ門という者がこの城にいたとも推測されているが、定かなことはわかっていない。
 雀が崎城は、養老川西岸に突き出した比高30m程の段丘先端に築かれている。城内は一部墓地に改変されているが、遺構は良く残っている。かなり小規模な城だが、主郭外周は空堀を廻らし、土橋で連結された馬出しを備え、更に腰曲輪や外郭を構えている。外郭にも堀があるが、浅いささやかな規模のもので、堀というより溝に近い。実際に外郭に建つ掘立小屋の排水側溝か何かだったかもしれない。いずれにしても、馬出しを備えることから戦国後期の遺構であることはほぼ間違いなく、東に1.7kmの位置にある池和田城に向けて城が築かれていることから、永禄年間(1558~69年)に小田原北条氏が池和田城を攻囲した際に築かれた砦であったかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.378223/140.157576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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真里谷城 その2(千葉県木更津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8477.JPG←三ノ郭北側の横堀状大手道
 上総の城巡りで真里谷城の近くまで来たので、以前に来た時に夏場で確認できなかった、三ノ郭・四ノ郭を回った。いずれも中心となる曲輪の周囲に腰曲輪を幾重にも廻らし、派生する尾根筋に沿って物見台や堀切を配置した、上総式の細尾根城郭の造りとなっている。但し要所に穿たれた堀切は、いずれも比較的小規模な薬研堀で、岩盤掘削型の垂直絶壁切岸の堀切ではない。この外郭部で特徴的なのは、三ノ郭の北辺に沿って築かれた横堀状の大手道で、外側に土塁が廻らされて城道を防衛しているのが明瞭である。しかしいずれもそれ程規模の大きな遺構ではなく、技巧性もあまり感じられない。尚、冬場でもなかなか藪が多くて、遺構の確認が難しい部分もある。やはりもう少し整備の手を入れて欲しいところである。
四ノ郭→IMG_8419.JPG
IMG_8453.JPG←四ノ郭南尾根の櫓台
三ノ郭西尾根の円弧状堀切→IMG_8497.JPG

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真里谷要害城(千葉県木更津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8307.JPG←ニノ郭外周の大空堀
 真里谷要害城は、歴史不詳の城である。天神台城と武田川を挟んで対面に位置する、標高100mの山上に築かれているが、城の普請は両者でかなり様相が異なっている。真里谷要害城は、高低差の大きな切岸と大規模な空堀を多用した城で、横矢掛かりも発達しているのが特徴である。

 城址北西端に秋葉神社があり、そこから城内に入ると、段曲輪の先に堀切を兼ねた横矢の掛かった横堀が穿たれている。その上に数段の段差で区画された曲輪があり、その先には深さ8m程、上幅15m程にも及ぶ大空堀が穿たれて、その上にそびえるニノ郭を防御している。ニノ郭は主郭の外周を廻る帯状の曲輪であるが、ここでも主郭との間を幅広の大きな空堀で分断し、その上に急峻な切岸で防御された主郭がそびえている。主郭は外周を大きな腰曲輪が廻り(前述の空堀はそのまま腰曲輪に繋がっている)、特に東面から南面にかけては高さ10m程の切岸で囲まれている。主郭の南西にも曲輪群が連なっているが、藪がひどく途中で引き返した。一方、主郭の北東には外郭が伸びている。この外郭は、主城部との位置関係や構造が千本城の「曲輪」地区と良く似ている。その先には円弧状の土塁で囲まれた、半円形の防衛陣地のような曲輪があり、その外周を巨大な三重空堀で囲んでいる。この空堀群は、深さは7~8m、幅は20m以上もある巨大なもので、明らかに鉄砲戦を意識した戦国末期の遺構である。この東側にも曲輪群がある様だが、藪がひどく諦めた。真里谷要害城は、大型横堀の効果的な配置や横矢掛かりが北条的であり、戦国末期の頃にこの地域に北条氏の勢力が伸びていたことを伺わせる、見応えのある遺構である。しかし城域全体が藪がひどく、殊に三重空堀に至っては倒竹地獄で移動も儘ならない。これほどの立派な遺構なのだから、今後の整備を望みたい。
腰曲輪にそびえる主郭→IMG_8347.JPG
IMG_8568.JPG←巨大な三重空堀の一つ
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆(薮の分、減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.372695/140.080253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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天神台城(千葉県木更津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8248.JPG←主郭背後の切岸と堀切
 天神台城は、歴史不詳の城である。1534年の真里谷武田氏の内訌の際、武田信隆方の城として「真里谷新地の城」が同時代資料に見られるが、それが天神台城であるとの説が有力である。信隆を支援する小田原の北条氏綱は、重臣の大藤金谷斎栄永らの軍勢を援軍として派遣し、真里谷新地城に入らせた。しかし1537年5月に、武田信応方を支持する小弓公方足利義明が大軍を率いて攻撃を行い、信応方の勝利に帰し、信隆は追放された。この時、真里谷新地城の北条軍も義明に降伏したと言う。

 天神台城は、武田川と泉川に挟まれた標高110m、比高75mの丘陵上に築かれている。地形に沿ってくの字に曲輪を配置した連郭式の縄張りで、中央に主郭を置いている。主郭とその背後の三ノ郭にはそれぞれ横矢掛かりの堀切が穿たれ、上部の櫓台からの攻撃を効果的なものとしている。また主郭・三ノ郭には周囲に帯曲輪が廻らされ、特に主郭では横堀も築かれて防御を固めている。主郭の手前は二ノ郭で、浄水場が築かれているので一部改変を受けている。ニノ郭の先には、土塁を伴った虎口と堀切が2ヶ所築かれ、土橋も掛けられている。横矢の掛かった堀切や横堀・帯曲輪など、上総では珍しく北条系城郭の特徴が多く見られる一方、堀切などの規模が小さく、曲輪の削平も甘いざっくりした普請で一時的な陣城らしい造りから、北条軍が籠もった真里谷新地の城と比定する説には説得力がある。しかし城域の大半は藪がひどく、遺構の確認が大変である。
主郭周囲の横堀と帯曲輪→IMG_8269.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.366291/140.077636/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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天神山城(千葉県富津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8138.JPG←ニノ郭側方の堀切
 天神山城は、文明年間(1469~86年)に峰上城主真里谷武田氏が、支城として築いた城と言われている。後には里見氏の部将戸崎玄蕃頭勝久の居城となったとされる。しかし、城域内にある天神社や付近にある妙見社との関係から千葉氏の一族天羽氏の関連や、小田原北条氏の関連も指摘されている様だ。

 天神山城は、上総湊の河口に程近い標高110mの山上に築かれている。天神台と呼ばれる台地上の外郭は、現在住宅地に変貌しているが、その最上段の天神社の脇から登道が付いている。登って行くと山裾に2段程の腰曲輪があり、横堀の様な地形が確認でき、畝のようなものも見られる。その先を登って行くと段曲輪群の先に小さく細長い主郭がある。主郭の物見台の様な部分にはくり抜かれた穴があるが、太平洋戦争時の塹壕が何かであろう。主郭の先は2本の堀切を介して、ニノ郭に至る。ニノ郭は削平の甘い曲輪で、背後に当たる西の尾根と、側方に当たる南の尾根に堀切が穿たれている。以上の計4本の堀切は、いずれもしっかりと普請された中規模のもので、一部は岩盤垂直絶壁の堀切である。主城部の西には小高い独立峰があり、物見台と思われる。ほとんど自然地形に近いが、西側斜面に腰曲輪状の平場や、岩盤を削った切岸が見られ、多少の普請の跡が伺える。しかし遺構はあまり明瞭ではない。天神山城は、比較的小規模の兵力で守っていた城で、湊の海運を押さえる要害であったものと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.209865/139.873831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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君ヶ谷城(千葉県富津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8071.JPG←大堀切
 君ヶ谷城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』編纂の中での調査によって確認されたらしく、二又山と呼ばれる山上部には「要害」の地名が残っていると言う。その為、いつも拝見している余湖さんのHPでは、「二又山要害城」の呼称を採用している。
 君ヶ谷城は、館山道富津竹岡ICに程近い、標高130m、比高100,程の山上に築かれた城である。城域は南北に細長く、尾根伝いに遺構が散在している。主要な遺構は、山裾の曲輪群と山上部の主郭部に大きく分かれている。山裾の曲輪群は、大きく3つの曲輪があり、最下段は畑に変貌している。その上の曲輪の先は堀切が穿たれ、その先に鞍部を削平した広い曲輪が築かれている。この曲輪は兵の駐屯が可能なレベルである。その先は細尾根となるが、屈曲した虎口や岩場を削って作った城道が残っている。山上部の主郭部は周囲を自然の斜面で断絶した独立区画で、前述の城道のある尾根との間に大堀切を穿ち、その手前に物見台を置いて防御している。山上部は段状に構築された3つの曲輪と、付随する段曲輪から成るが、比較的小規模で物見的な城であったことを伺わせる。この地域の拠点城郭である造海城から2.3km程しか離れておらず、造海城攻撃の為に築いた付城の一つだったかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.190280/139.857459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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三直城(千葉県君津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8020.JPG←主郭の堀切と土橋
 三直城は、古く平安時代に築かれたと言われる城である。斉衡年間(854~57年)に藤原三直の城であったとされる。時代は下って戦国時代には安房里見氏の部将忍足治部少輔の居城となり、小田原北条氏との攻防の拠点になった。
 三直城は、館山道君津IC近傍のバスターミナルの北に位置する、比高15m程の台地上に築かれた城である。台地南端に主郭を置き、北にニノ郭・三ノ郭を直線的に連ね、三ノ郭の西側に外郭を置いた、簡素な構造である。北側の住宅地横の車道から小道が伸びており、簡単に訪城できるが、三ノ郭と外郭の間の堀切を兼ねた城道脇は、不法投棄の山となっている。三ノ郭南西角には枡形虎口があり、L字状の土塁で虎口を防御している。主郭・ニノ郭・三ノ郭の間は、それぞれ堀切で分断され、土橋で連結されており、虎口部は土塁で防御されている。また主郭の南西隅には隅櫓台があったらしく、わずかな高まりが見られる。堀切はいずれも直線的で、横矢掛かりは見られない。比較的ささやかな遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.319261/139.936274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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笹子城(千葉県木更津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7939.JPG←城中最大の堀切
 笹子城は、真里谷武田氏の支城である。伝承では、文明年間(1469~86年)に真里谷武田信興が、真里谷城の支城として築城したとされる。その後、真偽は明確ではないが、『笹子落草紙』『中尾落草紙』によると、1543年に真里谷武田氏家中で二度目の内訌が生じたとされ、笹子城が内紛の場として登場する。即ち、真里谷武田信隆は家臣の堀内氏から弟の笹子城主武田信茂に謀叛の兆候があるとの讒言を受け、後藤兵庫助・鶴見五郎に笹子城を急襲させ、信茂を討ち取った。その後、鶴見氏が笹子城主となったが、間もなく後藤氏との間で紛争が起こり、真里谷武田信秋と共に後藤氏を攻撃したが、後藤氏は大多喜城主武田朝信や小田原の北条氏康の援軍を得て、逆に笹子城を攻めて鶴見氏を攻め滅ぼした。後藤氏は中尾城主となり、家臣に笹子城を守らせたが、その後、家臣の鶴見五郎を殺された武田信秋は、安房の里見義尭に依頼してその属将正木時茂らと共に逆襲し、中尾城と笹子城を攻め落とし後藤氏を敗死させたと言う。

 笹子城は、中尾城と同様、館山道木更津JCTに程近い比高50m程の南北に伸びた丘陵地に築かれた城である。縄張りも中尾城と似ており、直線連郭式の縄張りを基本としており、曲輪間を堀切で分断している。先端部に当たる北郭が最も大きな曲輪だが、藪化しており、曲輪内の段差や周囲の腰曲輪が確認できる程度である。この北郭の北西端は館山道の建設で破壊されている。北郭とニノ郭の間は車道に変貌した大堀切となっている。ニノ郭は数段の曲輪群と東に土橋を介して伸びた出曲輪で構成されており、背後に2本の堀切を穿っている。その南の主郭は、前面に堀切で区画され土橋で連結された馬出し状の小郭を置き、櫓台状の土壇や背後に土塁を築いている。また主郭にだけ、東側下方に横堀による側面防御が施されている。この南にも堀切を介して曲輪群が続くが、竹薮がひどい。全部で9本もの堀切で区画された城であるが、規模の大きなものは2本ぐらいで、他は規模が小さい。またいずれの堀切も薬研堀であるが鋭さに欠け、縄張りの技巧性も乏しいことから、戦国末期の遺構とは考え難く、戦国中期には廃城となったという伝承が正しい様に感じられる。尚、途中に「立入禁止」と立て札が建てられた部分があるので、遺構踏査には注意が必要である。
主郭東側の横堀→IMG_7933.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.378401/139.988878/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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中尾城(千葉県木更津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7770.JPG←三ノ郭虎口の櫓門跡
 中尾城は、真里谷武田氏の支城として築かれた。伝承では、明応年間(1492~1501年)に真里谷武田信興が、真里谷城の支城として築城したとされる。その後、真偽は明確ではないが、『笹子落草紙』『中尾落草紙』によると、1543年に真里谷武田氏家中で二度目の内訌が生じ、真里谷武田氏家臣の後藤兵庫助が、大多喜城主武田朝信や小田原の北条氏康の援軍を得て笹子城主鶴見五郎を攻め滅ぼして中尾城主となった。その後、家臣の鶴見五郎を殺された真里谷武田信秋は、安房の里見義尭に依頼してその属将正木時茂らと共に逆襲し、中尾城を攻め落とし後藤氏を敗死させたと言う。

 中尾城は、館山道木更津JCTに程近い比高30m程の南北に伸びた丘陵地に築かれた城である。基本的には直線連郭式の縄張りで、曲輪間を堀切で分断している。特に神社のある主郭の南北を分断する堀切(現在は道が通る)は規模が大きい。また主郭の北にある三ノ郭には櫓門が置かれていたと思われる立派な虎口が見られる。その他にも腰曲輪や平場が多く見られるが、墓地造成や宅地化・道路建設で改変が多く、どこまでが往時の遺構かはっきりしない。その意味で少々消化不良気味の遺構である。
主郭南の大堀切→IMG_7721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.382057/139.970467/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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万喜城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7016.JPG←外周を防御する櫓台と堀切
 万喜城は、戦国時代後期に上総に武威を誇った上総土岐氏の居城である。上総土岐氏の出自については諸説あって明確にはできない。土岐氏と言えば、美濃の守護大名が有名で(明智光秀もその一族とされる)、一説には斎藤道三によって領国を奪われた土岐氏の一族が関東に下向し、安房里見氏の知遇を得て夷隅郡に入部し、万喜城を築いたともされる。いずれにしても戦国前期には里見氏勢力の一翼を担っていたが、次第に隙を生じ、1564年の第二次国府台合戦で里見方が大敗すると、時の当主土岐為頼は小田原北条氏からの誘降を容れて北条方に転身した。以後、土岐氏は一貫して北条方として活躍した。為頼の子頼春は武略に優れ、里見氏やその配下の大多喜正木氏、長南武田氏らに度々攻撃されたが、全て跳ね返して勝利を収めた。特に1589年の発坂峠の戦いでは、頼春の巧みな用兵により里見勢に快勝した。しかし1590年に北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入部すると、徳川四天王の一人本多平八郎忠勝に城を攻略され、上総土岐氏も滅亡し、万喜城は廃城となった。

 万喜城は、夷隅川曲流部に張り出した標高70mの城山に築かれた城である。戦国上総で重要な位置を占めた土岐氏の勢威を示す様に、極めて広大な城域を有した城である。主郭周辺は城址公園となっているが、公園化されているのは城域の僅か一部に過ぎない。まず主郭は、倉ノ台と呼ばれる東西に長い曲輪で、背後に土塁と櫓台が築かれ、その前面に広いニノ郭、更にその1段下に三ノ郭が置かれている。ニノ郭と三ノ郭を睥睨するようにマス台と呼ばれる大きな櫓台があり、現在は模擬櫓が建てられている。三ノ郭の西側には、現在駐車場となった曲輪があり、その北側に城山と呼ばれる東西に長い曲輪が高台となって築かれている。以上が公園化されている部分であるが、城域はその数倍の規模で広がっている。前述の主要部の北側斜面に、多くの曲輪群が築かれているが、外周を土塁と櫓台を築いて防御し、その外側は高さ10m以上の垂直絶壁の切岸にして、外側からの登攀を不可能にしている。その途中には堀切を兼ねた切通し状虎口が数ヶ所築かれ、北端には浅間台と呼ばれる大きな櫓台を置いている。この内城地区は、垂直切岸と土塁で谷戸を包み込んで防衛された区画となっている。一方、「城山」の北西斜面には、V字状に分かれた大きな竪堀が穿たれ、上部には櫓台がそびえて堀底を監視している。この竪堀は、朝から掃除をされていた地元の老夫婦に教えて頂いた。「この奥におっきい堀があるよ。そのへんから登れるよ。」ということで、民家にほど近い薮の腰曲輪に遠慮無く突入させていただいた成果である。
 一方、主郭の裏にも絶壁の下に数段の腰曲輪が築かれ、東に伸びた尾根の先に妙見台という出曲輪が築かれ、そこまでの途中にも背後を土塁で囲んだ曲輪があり、背面下方に垂直絶壁切岸と腰曲輪が尾根に沿って連なっている。また主郭から南に伸びた尾根の先にも、派生する支尾根に分岐しつつ、全長1km以上にわたって細尾根の外郭線が伸びている。この外郭線も普請は明らかで、土橋ならぬ石橋があったり、中央を横堀で分割した櫓台、垂直切岸の横堀など、上総でよく見る細尾根城郭に典型的な遺構が見られる。この尾根に沿って、延々と垂直絶壁切岸とその下方の帯曲輪が廻らされている。三島正之氏作図の縄張図で言うと、櫓台Kの先に穿たれた堀切の先は尾根が広くなり、垂直切岸も無くなって普請が甘くなっている。

 万喜城は、緻密な技巧的縄張りは見られないが、外郭線に延々と垂直切岸を構築した大城郭で、最大で20m程もある大切岸はまるで小田原城の大外郭の様であり、千本城の項でも記載した通り、北条氏がこうした上総の築城技術を取り入れて小田原の役に備えたことは、十分考えられる話であろう。万喜城は、上総式細尾根城郭の究極形である。
城山北西のV字竪堀上部→IMG_7092.JPG
IMG_7233.JPG←延々と続く垂直切岸と帯曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.296989/140.326021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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大野城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6924.JPG←主郭北西端の堀切
 大野城は、15世紀を通して伊北荘を支配した上総狩野氏の居城と言われている。上総狩野氏は、伊豆の豪族で狩野城主であった狩野氏の一族で、織豊期に画壇を牛耳ることとなった狩野派の始祖狩野正信を輩出したとされる。その後、この地域は大多喜正木氏の支配下になったと考えられるので、大野城も大多喜正木氏の支城となったと推測されている。

 大野城は、夷隅川南岸の比高25m程の河岸段丘上に築かれた城である。この手の段丘上の城としては、周りの平地部との比高差が大きな台地上の城で、曲輪内は大半が畑と化して改変を受けているが、遺構は比較的良く残っている。台地西側の最高所に主郭とニノ郭を置き、その東側に腰曲輪を挟んで内城と呼ばれる三ノ郭を、更に空堀を挟んで外城と呼ばれる四ノ郭を配置している。三ノ郭の空堀はほとんど埋められて、わずかに痕跡を残す程度の畑に変貌している。三ノ郭の南には土塁が残り、薮で不明瞭だが堀切が穿たれている様だ。主郭の東端には八幡神社が鎮座し、その東下方の腰曲輪には土塁や横堀状の虎口が確認できる。主郭とニノ郭の間には堀があったらしいが、現在は埋められてしまいほとんどわからない。主郭の北西隅には大きな堀切が穿たれて、先端部の物見台と分断されている。この堀切は薬研堀で、主郭下の腰曲輪から横矢が掛けられている。この他、車道を挟んで南西にも小さな外郭があり、車道建設で破壊されているもののここにも堀切が残っている。台地上の地勢や堀の造りなど、全体的な城の造りは北条的だが、大多喜正木氏の城と考えられている。個人的には少々謎が残る。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.276953/140.285445/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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城谷城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6815.JPG←土塁を巡らせた山上の八ノ郭
 城谷城は、歴史不詳の城である。周辺は城郭密度が高い地域で、城谷城の南方500mの位置には夷隅金山城が配置されていることから、万喜城の上総土岐氏と安房里見氏の境目の最前線の城で、土岐氏方の城であったと推測されている。又、戦国末期の上総土岐氏の城として万喜城・鶴ヶ城・へひうかの城の3城が知られているが(『関八州諸城覚書』(毛利家文書))、所在不明の「へひうかの城」がこの城谷城のことではないかとする説もある。

 城谷城は、標高80mの山頂部を頂点に、そこから北に伸びる尾根上に連郭式に曲輪を連ねた城である。尾根の北端には2段に区画された曲輪があり、上段が主郭であったと考えられる。西側から北側にかけて腰曲輪が配置され、腰曲輪との間は横矢も掛けられた横堀で区画されている。ここには畝というよりもタコツボ状の塹壕に近い穴が幾つか掘られているが、意図は不明である。ここから南には、堀切を挟みつつ5つの曲輪群が直線的に連なり、側方や支尾根には腰曲輪が築かれている。中でも四ノ郭が小ピークとなっており、外周に堀切を兼ねた横堀が廻らされて、腰曲輪や五ノ郭と分断され、四ノ郭内には方形に土塁が築かれ、櫓か何かが建てられていたと思われる。六ノ郭の背後の堀切は畝堀となっており、土橋状に数本の畝が繋がっている。七ノ郭背後には堀切を挟んだ山上に広大な八ノ郭が築かれている。八ノ郭は背後の外周に土塁を巡らせ、周囲に派生する支尾根にも数段の曲輪群を配置し、要所を堀切で分断して防御している。この城の堀切は、上総でよく見られる垂直絶壁型の堀切ではなく、オーソドックスな薬研堀となっており、遺構の特徴から考えれば、土岐氏を支援した小田原北条氏の関連が推測される。おそらく、当初は尾根北端の主郭部近辺だけで構成された城を、その後の攻防戦の中で城域を拡張し、山上にまで普請を入れて大城郭に成したものだろう。
畝が見られる堀切→IMG_6754.JPG
IMG_6820.JPG←八ノ郭背後の堀切と腰曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.254913/140.337158/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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勝浦城(千葉県勝浦市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6562.JPG←八幡神社裏の堀切
 勝浦城は、勝浦正木氏の居城である。伝承では、天慶年間の平将門の乱の時に将門から上総介に任じられた興世王が築いたとも言われるが、元より伝説に過ぎない。戦国時代前期に真里谷武田氏が築いた城砦であったが、真里谷武田氏の衰退に乗じて東上総へ侵入した正木氏の一族時忠(大多喜城主正木時茂の弟)が、1541年頃に勝浦城を攻略して居城とした。正木氏の宗家に当たる時茂は里見氏の同盟者として上総に勢力を張ったが、時忠は1564年の第二次国府台合戦の後、里見氏から離反して小田原北条氏に付いた。その後、一宮城を攻略するなど反里見方として活動したが、里見氏の勢力回復に伴って次第に圧迫され、1577年に北条・里見両家の間で和睦が成立すると、勝浦正木氏は里見方に復した。1590年、豊臣秀吉の仕置きによって里見氏が上総を没収されると、勝浦城主正木頼忠も城を明け渡して安房に移った。尚、頼忠の娘於万は、後に母が伊豆河津城主蔭山氏広と再婚し、沼津本陣で徳川家康に謁見した際、見染められてその側室となり、頼宣(紀州徳川家の祖)・頼房(水戸徳川家の祖)の二子を生んだ。

 勝浦城は、勝浦湾東側の八幡岬に築かれた城である。以前は岬先端部の、現在公園化されている部分のみが勝浦城と認識されていたが、近年の研究によって尾根伝いにかなり北方まで城域が伸びていることが確認されている。基本的には南北に伸びた尾根上に曲輪群を連ねた長大な城である。岬の南端部には、断崖絶壁に囲まれた海抜34mの主郭があり、台地基部に向かってニノ郭、三ノ郭などが尾根脇の平場として展開している。しかし公園化による改変が進んでおり、どこまで往時の遺構を残しているのか定かではない。唯一、小ピーク上に鎮座する八幡神社付近は櫓台としての遺構を留めており、北西と北東の尾根筋に比較的大きな堀切がそれぞれ穿たれている。更に北西尾根の先に中規模の堀切がある。この本城域からやや北に離れた新地ヶ台と呼ばれる地区に、外郭に当たる曲輪群が築かれている。特に新地ヶ台は大きく、多数の腰曲輪を伴った曲輪群で構成され、その北に小堀切を介して長い曲輪群が連なっている。途中には曲輪間を繋ぐ長い土橋状の遺構も確認できる。尾根の側方には広い腰曲輪も築かれていて、そこそこの兵が籠められたことが伺われる。但しこれらの外郭部は、冬場でも下草が生い茂っているので、平場があるのはわかるが、遺構の形状確認はなかなか難しい。もう少し整備されることを望みたい。
曲輪間をつなぐ土橋→IMG_6640.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.135341/140.311280/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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吉尾城(千葉県勝浦市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6450.JPG←ニノ郭の堀切
 吉尾城は、吉宇城とも言い、勝浦城主勝浦正木氏の支城である。伝承では、真里谷武田氏の庶流で大多喜城主武田朝信が築城して守兵を置いたと言われている。天文年間(1532~55年)に正木時忠が勝浦城を攻略して居城とすると、吉尾城もその支城となった。1580年の「正木憲時の乱」では、興津城と共に憲時に攻略されたが、直ちに反撃を開始した里見義頼によって奪還され、憲時は興津城に敗走して立て籠もった。乱収束後は、再び勝浦正木氏の持ち城となったのだろう。

 吉尾城は、勝浦城から勝浦湾を越えた対岸の痩せ尾根上に築かれている。城の主要部は吉尾集落東側にそびえる山稜上にあるが、もっと岬の先端に近い部分にも遺構が残存している。まず先端部の遺構は、砂子ノ浦観音の背後から尾根上に登り、そこから辿ることができる。明確な遺構はそこから南西に進んだ先の小ピークにあり、峰上に削平された曲輪と物見台、それとその周囲の腰曲輪等が存在する。一方、主要部へは住宅地裏の小道を登って行くことができる。主郭は閉鎖された民有地で立ち入りできないが、その背後の細尾根上に合計6つの曲輪群が連なり、それぞれ垂直絶壁の堀切で分断された直線連郭式を基本形としている。この尾根の西側斜面に沿って山道が付いているが、これは往時の城道だったらしく、岩盤を削った横堀状の小道になっている。ニノ郭横は垂直切岸の横堀となり、六ノ郭の北東では支尾根を分断する堀切を兼ねている。六ノ郭背後には堀切で区画された三角形の櫓台があり、その背後の尾根筋は両側を削り落とした一騎駆けとなって城域が終わっている。曲輪内は藪が多いが、山道沿いは遺構の確認が容易である。
一騎駆けの土橋→IMG_6509.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.138000/140.288588/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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興津城(千葉県勝浦市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6385.JPG←主郭南東尾根の堀切
 興津城は、鎌倉中期の1258年にこの地の土豪佐久間兵庫介重吉、同兵庫頭重貞が築いた城と言われているが確かなことは不明。この城が歴史上に明確に現れるのは、1580年の「正木憲時の乱」の時である。大多喜城主であった憲時は、1578年に起きた里見義弘没後の里見氏家中の内訌の際、義弘の実子梅王丸派に属した。この頃、興津城は勝浦正木氏の支城となっていたが、1580年、憲時は里見義頼に抗して吉尾城・興津城に侵攻してこれを占領した。しかし義頼は直ちに反撃を開始し、憲時は興津城に籠もって抵抗したが敗れて大多喜城へ退却し、最後は家臣に殺害されて滅亡した。こうして義頼は実力で里見氏の家督を継承し、梅王丸を岡本城の一郭に幽閉した。その後の興津城の歴史は不明である。

 興津城は、海岸線と夷隅川流域の平地を隔てる山地の一角、標高120mの山上に築かれている。主郭には現在、寺社関係か何かの建物(以前は保養所だったらしい)が建ち、ニノ郭・三ノ郭は畑化されるなど、一部の改変が進んでいるが、思ったより遺構は良好に残っている。先端に主郭を置き、堀切を介して物見台が背後にそびえるニノ郭が配置され、更にその北側に三ノ郭を配置している。主郭とニノ郭には腰曲輪が廻らされ、主郭には南西尾根の南側と西側と、南東尾根に、垂直絶壁切岸の大堀切が穿たれている。更に南西尾根の南側堀切の先に中堀切と、南東尾根の堀切の先にも小堀切が穿たれている。また、ニノ郭腰曲輪には物見台が築かれている。三ノ郭の北端にも横堀状の山道が通っており、往時の堀切であったと思われる。この他にも腰曲輪などに虎口らしい跡や石積みらしき跡も残っている。尚、主郭の建物には人は不在でいなかったが、民有地なので無断での立入りは厳禁である。
ニノ郭腰曲輪と物見台→IMG_6328.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.145870/140.251113/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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