SSブログ
古城めぐり(千葉) ブログトップ
前の30件 | 次の30件

東金城(千葉県東金市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2704.JPG←虎口兼用堀切と櫓台
 東金城は、土気城を拠点に勢力を張った土気酒井氏の庶流、東金酒井氏の居城である。城の初見は、享徳の乱の際に関東に下向した東常縁による。鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を1455年に謀殺し、関東を二分する大乱が生起した。これが享徳の乱である。この余波で下総では名族千葉氏に内訌が生じ、千葉氏の庶流であった馬加城主馬加康胤が、宗家の千葉胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。この事態を受けて京都の将軍足利義政は、千葉氏の一族で美濃の豪族東常縁を下総に下向させ、千葉氏内訌の鎮定に当たらせた。康胤を討って両総を制圧した常縁は、家臣の浜春利を東金城主としたと言う。その後、応仁の乱以降は山口主膳が東金城主となった。1509年、土気城主酒井定隆は嫡子定治に土気城と家督を譲り、田間城を新たな居城として築いて3男隆敏と共に移ったが、城地が狭隘であった為、間もなく東金城を居城とした。以後、東金城は東金酒井氏の歴代の居城となり、同族の土気酒井氏と共に両酒井氏と並び称されて勢力を保った。東金酒井氏は、当初は反北条方であったが、河越夜戦第二次国府台合戦での北条氏の勝利を通して北条方に転じ、以後北条方として活動した。1590年の小田原の役の際には、豊臣秀吉の軍勢によって東金城は落城し、城主酒井政辰・政成父子は蟄居して恭順の意を示し、北条氏滅亡後は徳川家康の旗本に取り立てられた。

 東金城は、標高70m、比高50mの丘陵先端部に築かれた城である。まとまった広さがあるのは主郭とニノ郭だけで、それ以外は外周に築かれた腰曲輪と尾根状の小郭で構成され、派生する支尾根は全て堀切で分断した、細尾根城郭の典型的な縄張りである。主郭・ニノ郭とも広いが薮が多く、全体の確認は困難である。ニノ郭の先端には太平洋戦争中に構築されたトーチカ等があり、改変を受けている。支尾根に穿たれた堀切はいずれもあまり規模は大きくないが、しっかりと穿たれた鋭い薬研堀が多く、北尾根では円弧状に穿たれた堀切も存在する。また外周を廻る腰曲輪では、腰曲輪間を繋ぐ虎口兼用の堀切となり、堀切の先の尾根が櫓台となって腰曲輪間を分断しつつ防御を固めている。また南東尾根の堀切は、横堀状の虎口と組み合わせて枡形虎口を形成するなど、規模は大きくないが作りは巧妙である。東麓から登山道が整備されているが、全体に藪が多く、特に腰曲輪は未整備で踏査に骨が折れる。折角「史蹟 御殿山」という石碑が登山道入口に建っているのだから、全体を綺麗に整備してもらえるともっと見応えがあるのにと惜しまれる。
主郭腰曲輪と虎口兼用堀切→IMG_2791.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.560167/140.353605/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大関城(千葉県東金市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2565.JPG←堀状の溝地形
 大関城は、『上総国誌』によれば、1204年に安房国から上総国に移って来た畠山重忠の支族によって築かれたとされる。重康の代に大関城を築いて武威を伸ばし、東金酒井氏と争ったが、1526年12月、酒井隆敏に攻められて大関城は落城した。重康は上谷常福寺に逃れたが、自決して畠山氏は滅亡したと言われる。

 大関城は、依古島を中心とする低地帯に半島状に突き出た低台地上に築かれている。周囲を低湿地帯に囲まれた水城だったとされ、大関神社の地が本丸で、二ノ丸はその北にあったとされる。また、大手門は南方と推定されているらしい。国土地理院の『地図・空中写真閲覧サービス』の昭和20年代の航空写真を見ると、水田と化した低地帯に突き出た台地地形が如実にわかるが、現在は開墾などによって改変を受け、更に東金九十九里有料道路が城内を貫通している為、城の痕跡がかなり失われている。その為、堀跡や物見台も残ると東金市のHPに記載されているが、よくわからなくなってしまっている。わずかに果樹園の中に溝状の地形があり、これが堀跡であろうか?大関神社境内の裏にも堀っぽい地形があるが、かなり埋もれていてよくわからない。ほとんど湮滅してしまった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.524541/140.384386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世水城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小西城(千葉県大網白里町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2475.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 小西城は、千葉氏の重臣原氏の一族小西原氏の居城である。築城時期には諸説あって明確ではないが、室町後期の15世紀後半には、この地に入部していたらしい。この地は土気東金の両酒井氏の領国の中間に位置することから、戦国時代には両者の連携に楔を打ち込む目的で機能したと推測される。その後数代を経て、原能登守胤継は1570年に里見氏と戦って千葉寺下で討死したことが本土寺過去帳によって確認されると言う。この頃までは小西城も存続していたものと考えられる。

 小西城は、雄蛇ヶ池の南西に伸びる比高60mの丘陵上に築かれている。つい5年ほど前まで遺構は完存していたが、その後の圏央道の建設で城の主要部が破壊されてしまっている。しかし、わずかに城域の南東部分が残存している。かつての縄張図を見ると、空堀で囲まれた主郭と、その北側に中城・外城と呼ばれる外郭、それと主郭南西に突出した古城と呼ばれる出郭で構成され、それらの周囲に腰曲輪を幾重にも築いていた様である。現在残っているのは、主郭の1/3程とその南と東の腰曲輪群、そして南東の支尾根に築かれた堀切群と物見台である。主郭の北側にはわずかに空堀も残っている。腰曲輪は明瞭で、切岸もはっきりしている。南側の腰曲輪には曲輪を分断する竪堀も確認できるが、この辺は倒竹が多く確認が難しい。南東尾根遺構は上総の細尾根城郭的な造りであるが小規模なもので、小堀切が多数穿たれ、小ピークを物見台にしている程度のささやかなものである。これら以外は全て湮滅してしまっているが、主郭西には空堀で分断され、木橋を架けて連結された虎口に繋がる帯曲輪など、戦国後期の技巧的構造もあったらしい。わずか5年程の差で、貴重な遺構が失われたことは誠に残念である。既に人口減少に転じて老大国への道を歩んでいる日本で、貴重な城郭遺構を破壊して道路を作ることにどれほどの価値が有るのか、政治家や官僚によく考えて欲しいものである。
南東尾根の堀切→IMG_2541.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.553998/140.316010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

永田城(千葉県大網白里町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2359.JPG←三ノ郭北側の堀切
 永田城は、歴史不詳の城である。JR外房線、永田駅の南西にある、比高36mの南北に細く伸びた丘陵上に築かれている。南北に細長く城域が伸びた城で、駒形神社の置かれた主郭から、尾根上に細長く曲輪を連ねた連郭式で、その側方にも尾根と平行して延々と腰曲輪を廻らしている。尾根上の曲輪は、要所を堀切で分断しており、特に三ノ郭の北側は二重堀切となっている。堀切はいずれも比較的小規模であるが、普請は明瞭である。側方の腰曲輪は、一段だけ築かれ、僅かな段差で多くの平場に区画されている。この段差は、主に前述の堀切の側方に築かれており、その構造から考えれば虎口を兼ねた堀切だったと思われる。城の北端は周囲と段差だけで区切られた広めの平場の中に大きく平らな土壇を築いている。一方、主郭の南にも腰曲輪が伸びている。そこにも尾根状の細く伸びた土壇があり、南端は堀切で分断している。この堀切は城内最大のものである。その南にも物見台が築かれており、祠が置かれている。城内の北半は下草が整備され遺構が明瞭に確認できるが、主郭の南の遺構は藪が多くややわかりにくい。永田城は、本納城からわずか1.8kmしか離れておらず、規模もそれほど大きくないことから、本納城の支城だったと考えるのが妥当であろう。
尾根側方に築かれた腰曲輪→IMG_2386.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.499020/140.304503/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

真名城(千葉県茂原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2238.JPG←主郭の切岸
 真名城は、この地の豪族三上氏の居城である。三上氏は、南北朝時代に近江半国守護となった京極佐々木氏の一族で、足利幕府の草創期に活躍した稀代の梟雄佐々木道誉の一族が、足利尊氏から上総畔蒜庄を与えられ三上氏を称したとされる。真名城で名高いのは、戦国時代前期の1517年、三浦氏を滅ぼして相模を平定して間もない伊勢宗瑞(北条早雲)が、真里谷武田氏支援のため相模から渡海してこの城を攻め囲んだことである。この頃、真里谷武田氏は、小弓城主で千葉氏の執権であった原氏や真名城の三上氏と対立しており、伊勢宗瑞と同盟を結んでその支援を求めたのである。真名城を攻略した宗瑞は、上総二宮荘を獲得したらしく、1590年の滅亡まで小田原北条氏はその領有を主張していた。また真里谷武田氏との同盟は、宗瑞の子北条氏綱の時代にも効力を持っており、1534年の真里谷武田氏の内訌でも氏綱は求めに応じて援軍を派遣している。しかし真名城のその後の歴史は不明であるが、遺構から見る限り、戦国後期まで拡張整備が続けられたと考えられる。

 真名城は、茂原市と長柄町の境界に近い、比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭に八幡神社が置かれている為、東麓からの参道が整備されているので、登るのは容易である。基本的には連郭式の城で、主要曲輪間はほとんど堀切を使用せず、切岸だけで区画している。いずれの曲輪も削平はしっかりされており、切岸も明瞭で、かなり広範囲に普請が行われていることがわかる。主要部は、主郭とニノ郭の間に一段低い三ノ郭を挟んだ一城別郭構造で、各曲輪の周囲には腰曲輪が廻らされ、主郭の北には更に四ノ郭・五ノ郭などが連なっている。これらの曲輪が連なる尾根に沿って、側方に腰曲輪が延々と続いている。主郭の北の遺構は、竹藪などで踏査が困難な部分が多いが、なんとか踏み越えて行くと、Ⅵ郭とされる櫓台がそびえ、その周りにも腰曲輪が築かれている。そこから先は、藪でほとんど踏査不能である。一方、三ノ郭の南側の遺構は下草などが刈られ、遺構がよく確認できる。その先にニノ郭がそびえ、ニノ郭には土塁や隅櫓台が築かれている。東と南の2ヶ所の隅櫓台の先には堀切が穿たれているが、これはニノ郭外周の腰曲輪間を繋ぐ切通し虎口を兼ねている。またニノ郭の隅から派生する尾根にも要所に堀切が穿たれ、特に南西尾根には深さ5~6m程の大堀切が穿たれている。南東の尾根にも堀切があるが、地形図にある65.7mの三角点の先は圏央道が貫通し、消滅している。南半分は遺構が見易いが、北半分は見辛くちょっと整備して欲しいものである。
ニノ郭の隅櫓台→IMG_2193.JPG
IMG_2211.JPG←南西尾根の大堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.460439/140.250237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長南城(千葉県長南町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2070.JPG←太鼓森裏の堀切
 長南城は、庁南城とも記載し、長南武田氏の居城である。長南武田氏は、真里谷武田氏と同族で、甲斐武田氏の一族武田信長が享徳の乱の際に古河公方足利成氏に味方して、上総の守護代に任ぜられたことに始まる。1456年に上総に入部した信長は真里谷城と長南城を築いて、真理谷城には嫡男信高を置き、自らは長南城に拠って上総支配の拠点とし、以後真里谷武田氏と長南武田氏が並立した。以後長南城は、5代150年に渡る長南武田氏歴代の居城となった。長南武田氏の系譜には不明点が多く、その動きも明確ではない。『鎌倉大日記』によれば、1479年に太田道灌が長南城を攻め落としたと記され、その後の戦国後期には他の房総諸豪と同様、安房里見氏と小田原北条氏との勢力の狭間で、揺れ動いていた様である。はっきりしているのは最後の当主信豊だけで、弘治年間(1555~58年)から長南武田氏滅亡の1590年まで当主であったことが知られ、戦国末期には北条氏に属し、『関八州諸城覚書』(毛利家文書)によれば勝見城池和田城を属城として抱え、1500騎の兵力を有していたとされる。1590年の小田原の役の際、7月7日に長南城は徳川四天王の一人、本多忠勝の軍勢に開城しており、この日に信豊は自刃したらしい。以後、長南城は廃城となった。

 長南城は、非常に特異な城で、細尾根の山稜で周囲を囲まれた平地を中心とした縄張りとなっている様であるが、全体としてどのような構造だったのか、今一つ明確ではない。折からの強風の影響と、酷い倒竹地獄に辟易したせいで、今回踏査したのは長久寺裏から太鼓森と呼ばれる櫓台にかけての部分だけだったが、いかにも防御思想がはっきりせず、求心性のない縄張りで、どこに城の中心があったかも明確ではない。山稜で囲まれた平地には中城・城の内・要害などの地名が残っていることから、ここが中心だったとも思えるのだが、周辺の縄張図を見る限り、ここを集中して防御しているわけでもなさそうである。遺構としては、平地は畑に変貌していて見る影もなく、周囲の細尾根に櫓台や腰曲輪、堀切などの遺構が散在している。踏査した部分に限って言えば、上総式の細尾根城郭の一つではあるが、よく見られる垂直絶壁切岸は、この城では全体にやや不明瞭である。太鼓森には妙見社の建てられた平場と櫓台があり、櫓台背後に土塁が築かれ、派生する尾根との間を堀切で分断しているのが確認できる。とにかく冬場でも藪がひどく、結局踏査したのは縄張図の1/3にも満たない。中途半端な縄張りと遺構共々、少々消化不良気味の城巡りとなった。

 尚この後、長南城関連の展示を見に長南町郷土資料館に伺ったところ、折悪しく展示品は一時撤収されてしまっていたが、代わりに教育委員会編纂の『長南城跡確認調査報告書』を無償で頂くことができた。この場を借りてお礼を申し上げます。
長久寺裏の櫓台と削り残し土塁→IMG_2032.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.399034/140.237834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(2)  コメント(5) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

金山城(千葉県鴨川市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1929.JPG←外周土塁の切通し状虎口
 金山城は、この地の豪族東条氏の城であったと伝えられている。伝承では、平安末期には長狭六郎常伴など長狭氏の居城であったと言われる。常伴は、石橋山の合戦で大敗して安房に落ち延びてきた源頼朝を襲撃したが、逆に頼朝方の三浦氏らに討たれたと言われる。室町時代には東条氏の居城となり、里見義実による安房平定の最後の城となり、里見勢に攻められて落城したと言うが、確証はない。戦国時代には里見方の属城となったが、1580年の正木憲時の乱の際に正木方の城であったことが確認され、里見義頼に攻め落とされた。

 金山城は、金山ダム北西の丘陵上に築かれた城である。城内最高所から順に、主郭・ニノ郭・三ノ郭を連ね、その東側下方にまるでグラウンドの様な半楕円形の広い曲輪を築いている。しかしこの最下段の曲輪は、金山ダム建設の際の大量の採土の為改変されているらしい。この曲輪の外周には、高さ5m程もある大きな土塁(というか、岩盤の削り残し)が残っており、そこに垂直切岸の切通し虎口が数ヶ所築かれている。この手のグラウンド状の広い円形の曲輪は、下野鹿沼城や遠江城之崎城などにも見られるので、同様の形状であった可能性が考えられ、主殿などが置かれていたのではないだろうか。また外周土塁の南東隅は櫓台となっており、外周への防御を固めていたとみられる。主郭~三ノ郭は、切岸だけで区画された比較的小さな曲輪で、おそらく下の居館的曲輪に対する詰城的な部分だったのだろう。主郭背後の尾根にも細尾根遺構群が存在し、垂直切岸の大堀切などや大岩をそのまま利用した物見台などが確認できる。金山城は、山間の間道を押さえる中継拠点的な城砦として、重視されたことが伺われる。
主郭東尾根の大堀切→IMG_1960.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.153539/140.073109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

白浜城(千葉県南房総市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1619.JPG←西遺構西部の腰曲輪群
 白浜城は、安房の戦国大名里見氏の最初の居城と言われている。元々は安房四氏の一、丸氏が出城を構えていたと言われる。その後、室町中期~後期の頃に、里見義実がこの地に移って白浜城を築いて居城としたとされる。義実の安房入部の経緯は必ずしも明確ではないが、享徳の大乱の際に、関東管領上杉氏の勢力が占めていた安房を押さえる為に古河公方足利成氏から送り込まれたのが義実であったとする説が有力であるらしい。その後義実は、安房国内の擾乱に乗じて安房一国を平定したとされる。しかしそもそも義実の存在自体が同時代資料で確認できないこともあって、里見氏の勃興については依然として謎が多い。従って白浜城についても謎が多く、戦国前期の里見義豊の時に「白浜」と地名で尊称される人物が在城していたことが知られているのみである。しかし、その広大な城域から考えても、拠点城郭として重要な位置を占めていたことが想像され、その古い形態の縄張りからしても、前期里見氏の拠点城郭であったことは間違いないと考えられている。

 白浜城は、野島崎の北にそびえる標高144mの城山に築かれている。前述の通り広大な城域を有した城で、西遺構・東遺構・城山北遺構に大別され、その範囲は東西1kmにも及ぶ。これらは、曲輪群を多数連ねた中枢部の構造と、江見根古屋城と同様の細尾根城郭の構造を併せ持っている。城の中心は西遺構で、頂部は小規模な物見台状の小郭に過ぎないが、周囲に幾重にも腰曲輪を廻らし、東西両端を切通し状の大堀切で分断している。現在はそこにハイキングコースが整備されているが、往時も城道であったのだろう。西遺構から北に伸びる支尾根は城山北遺構で、細尾根に沿って段曲輪・腰曲輪や物見台が散在し、北端に近い出曲輪の手前には堀切状の虎口と土壇が築かれている。東遺構は冬でも藪がひどくあまり踏査できないが、やはり多数の平場群が築かれ、東端部は切通し状の堀切となっている。全体にあまり技巧性はなく、求心性も乏しい縄張りで、外来者である里見氏の立場を物語っているようにも思える。
 尚、この山には城山縦走路が完備されており、東遺構や派生する支尾根の遺構以外はハイキング気分で簡単に踏査することができる。
西端部の切通し状の大堀切→IMG_1606.JPG
IMG_1649.JPG←支尾根に築かれた段曲輪
北端部の出曲輪と堀切状虎口→IMG_1665.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.912916/139.890638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神余城(千葉県館山市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1548.JPG←主郭を囲む土塁
 神余城は、別名を金丸城とも言い、安房四氏の一、神余氏の居城である。神余氏は、平安時代後期から室町時代までこの地を本拠として勢力を保っていたが、神余(金丸)光孝は家臣山下景胤の謀反により殺害されて城を奪われ、神余氏は滅亡した。しかし景胤は、間もなく同じ安房四氏の安西景吉・丸信朝に討伐されて討死した。

 神余城は、比高15m程の丘陵先端部に築かれている。山頂部に主郭を置き、その北東部と前面に腰曲輪を築いている。主郭内部は周囲を土塁で囲まれた窪地になっており、虎口らしき跡も2ヶ所見られるが、後世の石積み炭釜跡もあるので、改変を受けており、どこまでが往時の遺構かよくわからない。主郭背後にはニノ郭があり、その先は空堀を兼ねたと思われる鞍部の曲輪が続き、その上に三ノ郭が築かれている。三ノ郭は数段の平場に分かれ、櫓台が築かれている。更にその先にも、藪がひどくてわかりにくいが、曲輪らしい平場が続き物見台らしき跡も見られる。明確な堀切はないので、どこまでが城域か、はっきりとは判断し難い。いずれにしても室町中期頃までの、古い形態の城である。
三ノ郭の櫓台→IMG_1570.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.930440/139.869782/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

南条城(千葉県館山市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1483.JPG←主郭背後の堀切兼用の木戸口
 南条城は、烏山城とも呼ばれ、安房の戦国大名里見氏の家臣烏山氏の居城である。烏山時明・時正・時貞と3代の居城であったが、時貞の娘が里見義豊の正妻になったことから、里見氏の内乱「天文の内訌」に巻き込まれ、1534年に義豊が滅んだ際、時貞も稲村城で討死し、時貞の娘は南条城に逃れて城の北方で自害し、南条城は一旦廃城となった。その後、里見義頼の時に「正木憲時の乱」が発生し、乱を鎮圧して憲時を滅ぼした後、義頼は正木氏の名跡が絶えるのを惜しみ、次男時堯に正木氏を継がせて正木大膳亮時堯を名乗らせ、南条城の城主を兼帯させたと言う。

 南条城は、標高56m、比高40mの丘陵上に築かれた城である。細尾根城郭的な造りの比較的小規模な城で、先端に近い城内最高所に主郭を置き、周囲に腰曲輪を廻らし、主郭背後には堀切を兼ねた木戸口を設け、鞍部に数段の平場に区画された広い空堀状のニノ郭を設け、その先に物見台状の小さな三ノ郭を築いている。三ノ郭にも堀切と前面障壁の土塁を設けて、城の入口を防御している。主郭前面にも腰曲輪があり、段差で区画された腰曲輪間を繋ぐ木戸口も見られる。この他、主郭腰曲輪の西端部や、三ノ郭の西に続く主尾根に物見台が置かれ、尾根途中に小堀切が穿たれ、更に派生する尾根にも細尾根郭と物見郭が設けられている。大した兵数を籠められる城ではないが、普請は比較的しっかりされており、腰曲輪群の形状が明確である。但し、主郭に戦時中の給水施設がある様に、太平洋戦争時に海軍によって使用された様なので、全てが往時の遺構かどうかは俄には判断し難い。
鞍部のニノ郭群→IMG_1476.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.978331/139.878252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

御霊山出丸(千葉県館山市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1429.JPG←出丸外周の堀跡
 御霊山出丸は、館山城の外郭を守る出丸である。館山城の東方500m程の位置にある小丘で、周囲には堀跡が明瞭に残り、堀の上には腰曲輪、頂部には物見台の様な平場が存在する。遺構から見る限り、城の外周(総構え)を守る防衛陣地の様なものだったと考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=34.980078,139.861714&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

葛ヶ崎城(千葉県鴨川市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1393.JPG←主郭と背後の切岸・物見台
 葛ヶ崎城は、安房の戦国大名里見氏の支城である。この城が歴史上に姿を現すのは、1580年の正木憲時の乱の時である。その経緯は、興津城の項に記載する。里見義頼に対して叛乱を起こした憲時は、興津城を攻略し、葛ヶ崎城を取り囲んだ。この時、城代の角田丹後守一明は岡本城にあって不在で、代わりに病床にあった弟丹波守一元が城兵100名を率いて奮戦、討死した。時に20歳であったと言う。その後、義頼は反撃を開始し、葛ヶ崎城も間もなく奪還された。その後の城の歴史は不明である。

 葛ヶ崎城は、浜荻漁港の東に突き出た標高70m程の小丘に築かれた城である。地勢的に考えて、眼下の軍港を押さえた里見水軍の一拠点であったものと考えられる。『日本城郭大系』では、東西に分かれた二峰と中間の台地から成るとされるが、台地上は現在民家などの敷地に変貌していて遺構は明確ではなく、はっきり遺構が残っているのは西の峰だけとなる。中間の台地上に登る道を行くと、右手に駐車場があり、その奥に腰曲輪と思われる平場が薮の中に残っている。そこから斜面を直登すると、上の方の中段に広い主郭があり、その背後は垂直切岸となっている。その上にも腰曲輪があり、頂部は物見台の小郭がそびえ、祠が多数祀られている。その西側斜面にも腰曲輪群が築かれている。遺構から見る限り、中間か北麓の台地にあったと推測されている居館に対する単なる詰城的な小城砦であったと思われ、技巧性はないが削平は明瞭である。
山頂の物見台→IMG_1406.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.119275/140.149408/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

夷隅金山城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1274.JPG←主郭腰曲輪の仕切り土塁
 夷隅金山城は、歴史不詳の城である。周辺は城郭密度が高い地域で、夷隅金山城の北方500mの位置には城谷城が配置されていることから、万喜城の上総土岐氏と安房里見氏の境目の最前線の城で、里見氏方の城であったと推測されている。

 夷隅金山城は、標高95m、比高80mの山上に築かれた城である。この地域では城谷城と並ぶ規模の大きな城で、縄張りもかなり技巧的である。山頂にまとまった広さのある主郭があり、低土塁と2ヶ所の内枡形の虎口が築かれ、外周には腰曲輪が廻らされている。この主郭腰曲輪には、仕切り土塁が数ヶ所設けられているが、こうした構造は全国的に見ても類例が少ない、特異なものである。倉などの周囲に設けられた土塁であろうか?主郭の南尾根と南東尾根には堀切の先に櫓台や腰曲輪が築かれている。この内、南東尾根の櫓台には石積みが見られる。主郭の北東には堀切を挟んでニノ郭が築かれているが、主郭~ニノ郭間の動線は厳重を極める。ニノ郭側方の腰曲輪から切通し状の枡形を直角に曲がってくぐり抜け、堀切に架った土橋を渡って、主郭腰曲輪に築かれた櫓門に入るという構造である。これも中世城郭としては類例の少ない技巧的構造で、ほとんど近世城郭の様な虎口の完成形である。ニノ郭から北東の尾根には段曲輪群が築かれ、その側方に2本の竪堀状の城道が伸びている。2本の内、西側の城道は最下方で横堀状に変化している。この他、北側にも谷戸を大きく囲む様に外郭の腰曲輪群が連なり、その先端に神社の祀られた櫓台が置かれている。更に天然の堀切となっている窪地を挟んで、北東に最高所に櫓台を置いた曲輪群が設けられている。以上の様に夷隅金山城は、薮でわかりにくい部分もあるが、複雑な遺構をよく残した、県内屈指の城である。但し、上総・安房方面の城としては、非常に特異な遺構で、里見氏系城郭とは大きく様相を異にする。里見氏の城であったのではないかとの説には、まだ考究の余地が多い様だ。
ニノ郭~主郭間の厳重な虎口→IMG_1358.JPG
IMG_1335.JPG←南東尾根の堀切と櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.245993/140.338574/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平蔵城部田城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1230.JPG←主郭の内枡形虎口
 平蔵城部田城は、歴史不詳の城である。平蔵城の北に伸びる尾根の先、城山(じょうやま)と呼ばれる丘陵上に築かれた比高60m程の城で、平蔵城の出城と考えられている。
 主郭と周囲を巡る腰曲輪、更に北に浅い堀切を介して出曲輪を設けた程度のほぼ単郭の城であるが、随所に技巧的な構造を有している。腰曲輪には竪堀状の虎口を数ヶ所設けて、曲輪の分断効果を併せ持ち、主郭先端はV字状に中央部が抉れており、そこに内枡形の虎口を設けている。虎口に対しては、両翼から横矢が掛けられているほか、枡形・動線などの形状はかなり複雑になっている。前述の出曲輪には櫓台が設けられ、主郭の角部にも櫓台が設けられている。また、主郭背後には深さ8m程の堀切が穿たれ、その先の細尾根には櫓台と堀切2本が築かれている。曲輪の削平もしっかりとし、全体に平蔵城より新しい戦国期の縄張りの城と考えられる。
主郭背後の堀切→IMG_1220.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.343048/140.199009/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平蔵城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1097.JPG←三ノ郭の物見台状の土塁
 平蔵城は、この地の地方領主土橋氏の居城である。土橋平蔵という武士が、いつの頃かこの地に土着して平蔵城を築いたと言われており、「平蔵」という村落の名もこの武士の名前から付いたと考えられている。明応年間(1492~1501年)にはその裔、土橋平蔵将経が城主で、城の鬼門に西願寺を建立した。戦国末期の城主としては土橋守秀、土橋平蔵忠吉の名が伝わり、忠吉の時に小田原の役となり、豊臣秀吉の派遣した軍勢に平蔵城は攻め落とされ、忠吉は城から逃れて自刃したと伝えられている。

 平蔵城は、平蔵川の曲流部に付き出した、比高70mの緩やかな丘陵上に築かれた城である。主郭に近い山上には民家があるので、この城を巡るには民家の方の許可が必要である。幸い訪城時には間伐作業中だったので、お断りして歩かせていただいた。支城の吉沢城と同様、旧態依然とした縄張りで、堀切はなく、幾重にも連なった曲輪群だけで構成された城である。山頂には長方形に近い主郭があり、その周囲をニノ郭・三ノ郭と2段の曲輪が廻らされた環郭式の縄張りが、中心部の構造である。主郭先端とニノ郭先端にはそれぞれ、下段の曲輪に通じる城道を土塁状の尾根上に作っている。その先には三ノ郭の土塁があるが、物見台を兼ねていた様である。三ノ郭北東部には、郭内を分断するように堀が穿たれ、そのまま竪堀状に下方に伸びているが、あまり大きなものではないので、分断効果も限定的である。この他、中枢部の東斜面には多くの曲輪群が連なっているが、畑や民家に変貌してしまっている。大手道と考えられる登道の途中は切通し状の木戸口があり、右手に櫓台がそびえている。いずれにしても、縄張りの面白みには少々欠ける城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.338813/140.201348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

吉沢城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1018.JPG←大堀切
 吉沢城は、平蔵城の支城である。城主は、平蔵城主土橋氏の一族、土橋平蔵忠勝であったと言われ、1590年の小田原の役の際、本城である平蔵城が豊臣秀吉の派遣した軍勢に攻め落とされた際、吉沢城も命運を共にしたとされる。

 吉沢城は、小草畑川西岸にそびえる標高110m、比高55mの丘陵上に築かれた城である。南北に伸びる尾根上に連なる、3つのピークを曲輪に仕立てた、大きく3つの曲輪群で構成されている。背後の尾根を区切る堀切は、深さ10mにも及ぶ大規模なものであるが、それ以外の遺構は曲輪の削平も甘く普請が粗い。主郭も、どの曲輪だか判断が難しい。それというのも、普通に考えれば主郭に相当する、最も高所に位置して背後を大堀切で防御した広い最上段の曲輪は、削平が甘くほとんど自然地形に近いのである。そして、一番削平がしっかりしている曲輪は2段目に当たり、今一つピンと来ない縄張りである。曲輪群の間は堀切で分断されており、一部には明確な腰曲輪も確認できる。この他、大堀切の先にも四ノ郭らしい平場と物見台らしい2つの小ピークが見られ、堀切状の尾根道で区画されている。しかしいずれにしても、『日本城郭大系』に「城構えは南北朝時代を思わせるほど人工が加えられていない」と記載されている通り、普請が中途半端な城で、大堀切だけが見所という感じである。
 尚、城の北麓にある鳳来寺観音堂は、吉沢城守護の為に建てられたと伝えられ、往時の名残を伝える貴重な建造物である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.333982/140.187873/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鹿渡城(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0909.JPG←主郭の空堀
 鹿渡城は、獅子ヶ鼻砦とも呼ばれ、歴史不詳の城である。鹿渡の名は、千葉氏の諸族臼井氏の庶流に鹿渡太郎などの名があり、勢力圏からしても千葉氏の関係する城と考えられるが、或いは臼井城攻めなどの際に上杉氏や里見氏等の対抗勢力によって築かれた中継拠点的な城であったかも知れない。

 鹿渡城は、小名木川西側の比高20m程の台地先端部に築かれた城である。以前は郷土の森という公園になって開放されていた様だが、現在は閉鎖されてしまっているらしい。東側の斜面を直登すると遺構はほぼ縄張図の通り完存しているが、全く未整備で藪が多く、城址は荒れるがままとなっている。主郭は外周を土塁と空堀で囲まれた、ひしゃげた形の曲輪で、北のニノ郭との間の堀切と、南西の虎口に対して横矢が掛けられている。北の二ノ郭は先端に浅い堀切を穿ち、虎口を設けている。三ノ郭は、主郭の南西から南東まで広がっていて、土塁と空堀で防御されている。この他に、三ノ郭からやや離れて、南東端に物見台状の土壇があり、空堀で防御されている様だ。鹿渡城は、横矢掛かりなどやや複雑な構造を持ち、この地域ではある程度重要な役割を負っていた城であることが想像される。
土塁で囲まれた主郭→IMG_0921.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.674223/140.186119/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

古屋城(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0844.JPG←主郭先端の堀切
 古屋城は、歴史不詳の城である。比高15m程の台地先端部に位置し、東にわずか300mの所にある北ノ作遺跡と関連して存在したと思われる。
 古屋城は、現在主郭が民家の敷地になっている。入手した縄張図によると、台形状の台地を削平して主郭とし、先端に堀切と前面障壁の副郭、更に主郭西側は横堀、東側は腰曲輪を設けた、ほぼ単郭の小規模な城となっている。ネット上の情報だと民家の方にお願いすれば主要部を案内していただける様だが、夕闇迫る時間だった為訪問は遠慮し、北側の斜面を登って山林内の堀切と副郭だけ確認した。堀切は深さ2mに満たない小規模なもので、一直線上に主郭前面を分断している。副郭は大きな土壇で、櫓台を兼ねたものだっただろう。古屋城は、その規模と構造から考えれば恒久的に構えられた城とは考えにくく、小土豪が比較的短期的に構えた詰城だったものと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.691653/140.197095/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北ノ作遺跡(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0823.JPG←わずかに残る腰曲輪と土塁
 北ノ作遺跡は、屏風山城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。比高15m程の台地先端部に位置し、西にわずか300mの所に古屋城があり、密接な関連があったものと考えられる。
 北ノ作遺跡は、土塁で囲まれた主郭と周囲の腰曲輪から成る、単郭の小規模な城砦であったらしい。現在は主郭内が土取りか、逆に土入れされたかで遺構は破壊されている。南東側の道路から小道がついていたので登ったところ、腰曲輪と土塁とそこに開かれた虎口の様な遺構だけが確認できた。しかし肝心の主郭は前述の通り大きく土が盛り上げられてしまっており、遺構がよくわからなくなっている。過去に行われた発掘調査の結果によれば、主郭の台地基部には畝を持った堀切もあったらしい。いずれにしても古屋城に対する物見の出城の様な位置付けだったと思われる。
 それにしても、はっきり宅地か何かに転用されたわけでもなく、土取りで完全消滅したわけでもなく、意味不明の非常に中途半端な転用の仕方で、貴重な遺構だけが地上から消え失せてしまっている。こうゆうのを乱開発と言わずに何と言おうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.692141/140.200336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小篠塚城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0775.JPG←主郭の堀と土塁
 小篠塚城は、下総の名族千葉氏に関連する城であったと考えられているが、詳細は不明。鎌倉時代には、千葉宗家直臣の平河氏、宍倉氏らがこの地を知行していたらしいので、小篠塚城もこうした地方領主の城であった可能性が考えられる。その後の歴史も不明であるが、一説には、享徳の大乱の最中の1471年に、出陣の留守中に古河城を失陥した古河公方足利成氏が、千葉孝胤を頼って佐倉に逃れた際、この小篠塚城に入ったとも推測されている。また1502年にも古河公方足利政氏・高基父子が小篠塚城に動座したとも言われるが明証はない。戦国後期には、千葉氏の本拠本佐倉城へ繋がる街道を押さえると共に、臼井城岩富城との繋ぎの城として機能したものと推測されている。

 小篠塚城は、現在正慧寺の境内となる他、正慧寺によって城址公園として整備されている。鹿島川北岸の段丘先端部にある、比高20m程の小丘を利用して築かれており、西側に主郭を置き、その東に3つの曲輪を縦横に配置した群郭的縄張りとなっている。保存状態が最も良好な主郭は、外周に土塁が廻らされ、北と東に堀を穿ち、ニノ郭に繋がる虎口に掛かる土橋に対しては、塁線を屈曲させて横矢が掛けられている。しかし堀も横矢も規模は小さく、ささやかなものである。この他、二ノ郭や三ノ郭にも土塁が残り、南側には腰曲輪も廻らされている。四ノ郭は正慧寺の建築で改変されている。小篠塚城に見られる群郭的縄張りは、陸奥篠川城などの御所的城郭とも共通しており、古河公方がこの城に拠ったという説もあながち否定できるものではに無いように思われる。尚、この城は寺が自費で城跡を整備し、解説板や標柱まで立てており、非常に頭の下がる思いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.677675/140.223527/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

向根古谷城(千葉県酒々井町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0753.JPG←馬出郭の堀切
 向根古谷城は、本佐倉城の出城である。本佐倉城の南に、低地を挟んで向かい合う段丘上に築かれている。現在畑地となった三日月状の広大な主郭が遺構のほとんどで、ほぼ単郭の城である。主郭の北側には腰曲輪が廻らされ、主郭の北西端には物見台、更にその先には木戸口土塁と動線制約の竪堀が築かれている。また主郭の南側の台地基部には馬出郭が設けられ、その前後を大きな堀切で分断している。堀切に沿って、主郭にも馬出郭にも土塁が築かれ、横矢も掛けられている。単純な形態の出城であるが、馬出しや横矢の掛かった大きな堀切など、なかなか見応えがある。
主郭北西端の木戸口土塁→IMG_0717.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.724567/140.260305/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

本佐倉城(千葉県酒々井町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0592.JPG←セッテイ郭の大空堀
 本佐倉城は、下総の名族千葉氏の戦国期の居城である。千葉氏は元は千葉城(猪鼻城)を居城としていたが、室町期に生起した享徳の大乱の余波で千葉氏内部に内訌が生じ、宗家の千葉胤直・胤宣父子は、一族の馬加城主馬加康胤・小弓城主原胤房らに攻められて志摩城・多古城に敗走し、志摩城・多古城も攻囲されて自刃し、千葉宗家は滅亡した。その後は馬加康胤の系統が千葉氏を称し(後期千葉氏)、康胤の子輔胤が文明年間(1469~86年)に新たな拠点として本佐倉城を築城した。その後、小弓公方足利義明を擁する真里谷武田氏・里見氏らとの抗争の中で、千葉氏は関東に勢力を伸ばしつつあった小田原の北条氏綱と誼を通じ、その姻戚となって命脈を保った。しかし、重臣であった小弓城主原氏や小金城主高城氏などは独立領主化して北条氏直属の他国衆として遇され、千葉宗家の勢力は衰亡の一途を辿った。1585年に千葉邦胤が家臣に殺害されると、北条氏政は7男直重を千葉氏の後継に送り込み、実質的に千葉氏を乗っ取った。1590年に北条氏が滅亡すると、千葉氏も改易された。徳川家康が関東に入部すると、本佐倉城はその家臣の持ち城となり、1610年に土井利勝が入部して新たに佐倉城を築くと、1615年の一国一城令で本佐倉城は廃城になった。

 本佐倉城は、低地帯に突き出た比高25m程の段丘先端部に築かれた城である。衰えたりと雖も名族千葉氏の本城らしく、極めて広大な城域を有しており、遺構はほぼ完存し、国指定史跡となって整備が続けられている。段丘先端から、主郭(城山)・ニノ郭(奥ノ山)・三ノ郭(倉跡)が並び、その北側の谷戸部にⅣ郭とⅤ郭(東山馬場)の平場が築かれている。その北側には東山と呼ばれる細尾根の外郭がある。また三ノ郭の西側には空堀を挟んでⅦ郭(セッテイ)があり、更に大空堀を挟んで西側に外郭の広大な平地が広がっている。

 まず主郭は、発掘調査の結果に基づいて表示板や構造を示すラインが引かれており、土塁や隅櫓台・虎口の枡形門跡などが残っている。復元建物などは無いが、余計な復元建物に金をかけずに表示板と想像図とラインだけの方が、キャッスラーには想像性を掻き立てさせるので非常に好ましい。また復元建物がないので、視界が遮られないのも良いと思う。主郭とニノ郭の間は深さ5m程の堀切で分断されており、ここには木橋が架かっていたと考えられている様だ。ニノ郭は西側だけに土塁が残る広い平場であるが、発掘調査によって妙見宮の基壇跡が見つかっているらしい。ニノ郭と三ノ郭は3m程の段差だけで区切られているが、段差部の南端に坂虎口が築かれている。三ノ郭外周には深さ10mの空堀が、屈曲しながら穿たれている。この空堀の北側は東光寺ビョウ(Ⅵ郭)の平場に繋がっており、木戸口が発掘で見つかっている。空堀の西側にはⅦ郭がそびえ、「セッテイ」の名から接待曲輪か人質曲輪であったと推測されており、周りに腰曲輪や虎口が築かれている。Ⅶ郭の外周の空堀は16mもの深さの巨大なもので、横矢が掛けられている。堀の両側に竹が生えた、美しい屈曲する大空堀は、同じ北条氏の城であった小机城のものを彷彿とさせる。堀の北端部は堀底道となって伸びており、その両側は物見台を兼ねた細尾根が走り、細尾根は要所を堀切で分断している。城域最西部の外郭は現在一部が民家になる他は一面の畑であるが、南端に大土塁と空堀が残っている。ここには中央部に出枡形の櫓台が残り、土塁の東端にも櫓台が張り出して横矢が掛けられている。この他、東山の細尾根には横堀や物見台も残っている。本佐倉城は非常に素晴らしい中世城郭の遺構で、下総では最良の城であろう。
主郭の枡形虎口→IMG_0499.JPG
IMG_0671.JPG←外郭の出枡形部の空堀
東山の横堀→IMG_0458.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.728259/140.260402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中沢城(千葉県富里市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0402.JPG←主郭背後の堀切
 中沢城は、歴史不詳の城である。城の構造などから、室町時代後半に下総の名族千葉氏の支城として築かれたと考えられており、城主は千葉氏の庶流三谷氏が有力であるとされる。
 中沢城は、比高15m程の台地辺縁部に築かれた城である。登口付近に真新しい解説板が設置されており、城までの道が整備されている。小規模な単郭の城で、主郭は背後を土塁と深さ2m程の小堀切で分断している。主郭内部は傾斜しており、3段程の平場に分かれている。主郭は北側と南側に腰曲輪を伴い、南側は城道が横堀状に貫通している。また主郭の南西端には竪堀状の虎口が築かれ、その前面に小郭を設けている。遺構から見る限り、有事に備えた簡素な砦程度の城だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.722510/140.320162/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鷺山城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0375.JPG←主郭の大堀切
 鷺山城は、公津城・根古屋城とも言い、下総の名族千葉氏の支城である。伝承では、千葉宗胤の子、馬場五郎胤重が最初に城を築いたと言われ、後期千葉宗家の本佐倉城主輔胤、孝胤、昌胤、良胤代々の隠居城であったともされる。そして良胤が城主の時、千葉氏当主の邦胤と仲が悪く、良胤は陸奥に出奔し、鷺山城は廃城となったと言う。別説では、千葉氏の老臣円城寺氏が居城していたとも言われる。

 鷺山城は、印旛沼南東の比高20m程の丘陵上に築かれている。南東麓の民家裏から登道が整備されている。この道はかつての大手道だったと考えられ、道沿いに腰曲輪や土塁が確認でき、木戸口らしい跡や大手道を監視する櫓台も見られる。丘陵南端に主郭があり、北のニノ郭との間は大堀切で分断され、主郭周囲には南から西側にかけて腰曲輪が廻らされている。主郭には土塁も良好に残っている。ニノ郭には妙見社が鎮座し、やはり土塁が残っている。ニノ郭の北側から西側にかけても腰曲輪が築かれているが、倒竹が多い。ニノ郭の東側には三ノ郭があり、南辺部に土塁が築かれ、その下方に腰曲輪がある。三ノ郭の東半分は倒竹地獄で踏査が儘ならない。東端に物見台があり、その先は土取で一部消滅している。その先にも四ノ郭や堀切があるらしいが、民家裏の山林でもあり、藪もひどそうだったので、未踏査である。鷺山城は、大きな城ではないが、主郭の大堀切がなかなか見応えがある。ただ全体に藪が多いのが難である。
主郭の土塁→IMG_0337.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.766243/140.269823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

駒井野城(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0302.JPG←横矢の掛かる主郭堀切
 駒井野城は、歴史不詳の城である。成田空港の目と鼻の先、というか東西の滑走路に挟まれた比高20m程の丘陵上に築かれている。位置的にはマロウドインターナショナルホテルの道路を挟んだすぐ北側に当たる。厳重警戒の空港近傍ということもあって、恐る恐る近づいたが、柵は一部にあるものの出入りは自由になっている様で、城址に行くことができた。東から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の城で、主郭の遺構は完存している。主郭は台地先端ではなく中央部の最高所に置かれており、その為主郭前面にも空堀が穿たれて、周囲台地との間を区画している。主郭周囲には腰曲輪が築かれ、主郭背後には土塁と堀切が築かれている。このニノ郭との間の堀切はクランクし、主郭土塁上から明確に横矢が掛けられているのがわかる。ニノ郭は東半分は旧状を残しているが、西半分は湮滅に近い。それでもわずかに形状を残しており、三ノ郭との間の土塁と堀切もわずかに名残を残している様だ。三ノ郭はただの平地で遺構はあまり明確ではないが、土壇のような土盛が見られた。

 駒井野城付近は、以前は空港関連施設の建設が予定されていたらしいが、未だにその計画は進んでいない様で、全く未整備の状態となっている。

 尚、城址への道であるが、GoogleMapには東の低地を迂回して城址に至る小道が記載されているが、この道は途中で完全に薮に埋もれており、薮の突破にエライ苦労した。一方、北西の廃寺跡から城址へはすぐで、薮も少なく、最初から正攻法でこの廃寺跡から辿っていれば、苦労しなかったのにと後悔した。
主郭前面の空堀→IMG_0286.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.781094/140.370996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大篠塚城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0269.JPG←主郭背後の大土塁
 大篠塚城は、歴史不詳の城である。太田要害城と同様、比高30m程の台地辺縁部に築かれた、ほぼ単郭の小規模な城砦である。主郭は斜面上に築かれていて、郭内は大きく傾斜しており、まともな建物は殆どなかったのではないかと思われる。主郭背後は、この手の単郭小城では不釣り合いな程の高さ5mにも達する大土塁が築かれており、大きな壁のように立ちはだかっている。しかしその分、土塁上に立てば主郭内は丸見えである。しかも土塁背後の空堀は深さ2m程で、規模が大きくないので分断効果も左程高いとは思われず、防御的にはどんなものかやや疑問に思う。この空堀は、主郭の西側では竪堀状に斜面を降って、そのまま主郭南側(下側)の空堀に繋がっている。この西の堀に面して、主郭内部に入る虎口が築かれている。この他、主郭東の下に腰曲輪があり、また主郭北西に外郭のような平場と城内通路が伸びている。しかしこの外郭部は城域の境がなく、どこまで城として使われていたのかは明確ではない。大篠塚城は、斜面上に主郭を構築した、やや特異な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.680539/140.211524/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

太田要害城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0229.JPG←横矢掛かりの空堀と主郭土塁
 太田要害城は、用替ヶ丘砦とも呼ばれ、歴史不詳の城である。日本城郭大系では、室町時代に千葉氏の内紛の中で登場する寺崎城が、この城のことではないかとの推測を紹介している。即ち、享徳の大乱の余波によって千葉氏内部に深刻な内訌が生じ、1455年、庶流の馬加康胤は宗家の千葉胤直・宣胤父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。しかし宗家の居城千葉城が炎上した為、康胤は寺崎城に入ったとの説がある。しかし康胤が拠ったのがこの太田要害城ではないかとの説は、遺構の規模から見る限り、やや疑問に思われる。

 太田要害城は、鹿島川東の比高30m程の台地辺縁部に築かれた城である。ここには「用替(要害の転訛)」の地名が残っている。不整形な三角形状の主郭を持ち、周囲に空堀と腰曲輪を廻らしただけの、ほぼ単郭の簡素な城砦である。空堀は、主郭の南側から東に回りこんで北側までの約半周を分断しており、この空堀に沿って主郭には土塁が築かれている。土塁北端部は東側に張り出した櫓台となっており、堀底に対して横矢を掛けている。また主郭西端部にも櫓台が築かれている。主郭の北側は二重堀切となっているが、実態としては一重の堀切の外側に、更に1本の片竪堀を落したような構造で、完全な二重堀切にはなっていない。空堀を挟んで主郭の東側は、平地が広がっているだけで、外郭だったとは思われるものの堀などの明確な遺構は見られない。外郭は畑になっている部分もあるので、改変を受けている可能性もあるだろう。いずれにしても、小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.698297/140.211394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

飯重城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0195.JPG←台地上の方形の囲郭
 飯重城は、歴史不詳の城である。鹿島川の氾濫原に臨む比高15m程の台地上に築かれている。台地北側の飯重集落から、大宮神社に登る道が付いており、そこから簡単に訪城できる。南北に細長い台地の中腹部に土塁で囲まれた方形の囲郭があり、そこが主郭と考えられるが、台地の最高所はその背後にやや離れた大宮神社の部分で、物見の外郭か何かがあったと推測されるが、明確な遺構に乏しくはっきりしない。しかし神社入口脇に土塁状の土盛があるので、遺構の可能性がある。主郭は、神社との間に一文字状の土塁と浅い堀切を築いて、台地基部を分断しているが、埋もれているのか堀切はかなり浅く、わずかな遺構である。主郭は、冬場だと藪が少なく、囲郭になっているのがはっきりわかる。北と南に虎口が構えられ、南下方には更に腰曲輪が築かれて城域が終わっている。飯重城は簡素な城砦ではあるが、遺構が見易くお勧めである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.715792/140.196922/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小竹城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0170.JPG←外周の堀と土塁
 小竹城は、室町前期の明徳年間(1390~93年)に千葉氏の庶流で家臣筋に当たる、小竹五郎高胤によって築城されたと伝えられている。小竹氏は、臼井氏からの分かれとされるが、その他の歴史は不明である。
 小竹城は、現在民家の敷地となっているが、周囲に土塁と空堀が良好に残っている。民家の中は立入禁止になっているが、虎口の土塁脇に標柱が建ち、外周の空堀は一周巡ることが可能である。台地辺縁部に築かれた単郭居館で、臼井城から西南西1.5kmと程近く、手繰川の氾濫原を挟んで臼井城外郭に向かい合う位置にあることからすれば、小竹城も臼井城防衛網の一翼を担っていたと考えるのが自然であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.734066/140.163576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

臼井田宿内砦(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0148.JPG←主郭背後の土塁
 臼井田宿内砦は、臼井城の周辺城砦群の一つである。臼井城の周囲の台地上には、この他に洲崎砦・仲台砦・稲荷台砦田久里砦などが築かれ、相互に連携して堅固な防衛線を築いていたと思われる。
 臼井田宿内砦は、臼井城の南東の台地先端部に低地を挟んで向かい合う様に築かれている。他の砦が市街化の波に呑まれて湮滅した中にあって、宿内砦だけはその姿を今に残している。現在は地権者の方のご好意によって公園化されて開放されている。簡素な構造の砦で、平坦で広い主郭と、その東西に築かれた数段の腰曲輪、そして主郭背後の土塁と堀切状の窪地になった曲輪、更に背後の台地基部の曲輪から構成されている。大半の遺構は見易いが、主郭西側の腰曲輪はガサ藪で覆われている。縄張図では、ここに竪堀状の虎口もある様だが、あまり良くわからなかった。周りは全て市街地に変貌した中で、この砦の中だけ異次元空間の様に中世の遺構が残っている。
主郭東側の腰曲輪→IMG_0144.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.734048/140.181708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | 次の30件 古城めぐり(千葉) ブログトップ