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古城めぐり(東京) ブログトップ
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藤橋城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC08246.JPG←土塁跡。周囲の道路は堀跡か?
 藤橋城は、築城者不明の平城である。戦国期には、滝山城主北条氏照の家臣平山越前守虎吉の居城と伝えられているが、詳細は不明である。この平山氏は、檜原城主平山氏重の同族で、源平合戦で名高い平山季重の後裔であったと考えられる。小田原北条氏の勢力が武蔵を圧すると、その傘下に入ったものであろう。位置的には勝沼城からわずか2.5kmの距離にあり、三田氏に対する押さえの役目を果たしていたのかもしれない。
 藤橋城は、現在公園となっており、土塁などがほぼそのままの形で良好に残っている。周囲の水田から比高5~6m程の微高地で、おそらく往時は周囲を低湿地帯に囲まれた要害だったと考えられる。単郭の小さな城であるが、わずかに腰曲輪や出曲輪らしきものも見られ、主郭全周を土塁で防御して低湿地帯からの敵の接近を阻止した砦であったのだろう。小さいが遺構は良好である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.804014/139.300450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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勝沼城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC08186.JPG←横矢の掛かった横堀と土橋
 勝沼城は、師岡城とも呼ばれ、築城年代や築城者は不明であるが、武蔵西部の豪族で平将門の裔を称した三田氏の本城であった。三田氏は、室町時代には関東管領山内上杉氏の重臣として活躍したが、小田原北条氏の勢力が武蔵を席巻すると、一旦北条氏に降った後、上杉謙信方に付いて、北条氏に頑強に抵抗した。そして北条氏の圧迫を受けて、勝沼城を捨ててより要害性の高い辛垣城を築いて居城を移したと言う。しかし1563年、滝山城主北条氏照の攻撃によって辛垣城は落城し、三田氏は滅亡した。三田氏滅亡後、勝沼城は北条氏の支城となり、氏照の家臣師岡山城守将景が入って、城の修築を行い師岡城とも呼ばれるようになった。1590年の小田原の役で、八王子城落城と共に廃城となった。

 勝沼城は光明寺背後の城山に築かれており、その地勢は山と言うよりなだらかな丘陵地で、比高もわずか20m程に過ぎない。しかしその縄張は防御が厳重で、主要な三つの曲輪(本丸・二ノ丸・三ノ丸)のほぼ全周を横堀・土塁で防御している。また随所に横矢を掛けて堀底への射撃を可能にしているところは、北条氏時代の修築によるものであろう。三ノ丸は残念ながら妙光院の墓地となっていて改変を受けており、横堀も一部埋め立てられてしまっているが、それ以外の遺構はほぼ完存する、都内では有数の城跡である。貴重な遺構をこれ以上の破壊をしないよう、切に願うものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.795451/139.274379/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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館の城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC07988.JPG←横矢の掛かった空堀
 館の城は、楯の城とも記載される。築城年代・築城者共に不明であるが、その位置関係から三田氏の辛垣城の出城の一つと考えられる。辛垣城のある二俣尾の地に「西木戸」という所があるが、それに対して館の城を「東木戸」とも称し、三田氏の部将が城塞を築いて守っていた場所であると伝えられている。
 館の城は、JR青梅線の宮の平駅近くの傾斜地にあり、住宅地の後背の山林の中に空堀や土塁が残っている。周囲は線路が敷かれたり、国道や住宅地が作られているので、曲輪の形状もほとんど明らかにできないが、空堀の山側には緩やかな傾斜地が広がっていて、曲輪の一つと考えられる。空堀には横矢が掛かり、その横に土橋と虎口が残っている。空堀の南側は宅地の裏庭続きなので見て回ることができないが、堀に沿って数十mにわたって土塁で防御されているので、こちらが主郭であった可能性が高い。しかし曲輪形状はわからない。また東西は深い沢が天然の堀となって守りを固めている。
 全体に薮がひどく遺構の確認が大変だが、空堀は見事である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.789499/139.239124/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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枡形山城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC07948.JPG←大堀切、鳥居が建っている
 枡形山城は歴史不詳の山城である。辛垣城から南南東に600~700m程の位置にあり、辛垣城と何らかの関連があったと考えられる。その為、辛垣城に籠城する三田綱秀を攻める為、滝山城主北条氏照が築いた向い城とも、また三田綱秀が勝沼城と辛垣城の繋ぎの城として築いたとも言われている。

 枡形山城に行くには、辛垣城に行ったついでに尾根伝いに行く方が楽で場所もわかりやすい。辛垣城から尾根上のハイキングコースを東に行き、名郷峠の東のピーク(標高418m)から南に伸びる尾根を南下すると、城に到達することができる。

 枡形山城は最上部の主郭の南北に曲輪を連ねた連郭式の縄張であるが、主郭は他の曲輪との高低差が比較的大きく、独立性が高い。主郭は直径十数mの楕円形状の小さなもので、現在祠と石碑が建てられている。主郭の南には堀切を介して二ノ郭がある。二ノ郭は2~3段ほどの曲輪に分かれている様で、その南端には小振りだが明確な枡形虎口が設けられている。その先は大堀切があって、現在はそこに鳥居が建てられている。大堀切の南は丘陵上の地形となっているが、削平は甘いもののここも前衛の曲輪であったと考えられる。なぜならその南端にも小さな枡形虎口が残っているからである。2つもある枡形虎口が、枡形山の名前の由来であろうか。一方、主郭の北側は傾斜のきつい尾根筋に土橋を伴った小堀切が二つあり、その間は小曲輪となっている。また堀切はそのまま長い竪堀となって斜面を下っている。更にこの北尾根を辿ると、一旦鞍部に出てから登っていく途中に2~3段の段曲輪群が2箇所、明確に残っている。この尾根は前述の通り辛垣城に通じているので、辛垣城への道を塞いでいるものと見ることができる。

 こうして見るとこの城は、背後(北側)は土橋で動線を確保し、且つ城からやや離れた尾根にも段曲輪を設けて辛垣城に通じるルートを厳重に防御している一方で、城の前面(南側)は規模の大きい堀切による分断防御を重視していることがわかる。ということは、北条氏照の付城などではなく、三田氏が築いた辛垣城の出城ではないかと考えた方が良さそうである。
二ノ郭の枡形虎口→DSC07939.JPG
DSC07909.JPG←土橋横から落ちる竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.806276/139.223052/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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辛垣城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC07808.JPG←北西尾根の堀切と土橋
 辛垣城は、平将門の裔を称して青梅地方に勢力を持っていた豪族三田氏の最後の居城である。三田氏は、室町時代に関東管領山内上杉氏の家臣となり、武蔵守護代大石氏と並ぶ奥多摩方面の雄族であった。特に山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱においては、三田弾正忠氏宗が勝沼城を本拠に、山内上杉顕定の股肱の臣として活躍した。その後、小田原北条氏の勢力が伸張し、1546年の河越夜戦で両上杉氏が没落すると、三田氏も一旦は北条氏康に降った。しかし山内上杉憲政が越後の長尾景虎を頼って落ち延び、関東管領職と上杉氏の名跡を景虎に譲ると、景虎改め上杉政虎(後の謙信)は北条討伐の為に連年の様に関東に侵攻し、時の当主三田綱秀は北条氏に背いて謙信方に付いて抵抗した。氏康は、謙信の度々の関東侵攻をいなしつつ巧みに関東に勢力を広げると、三田氏にも強い圧迫を加えていった。そこで綱秀は、平山城である勝沼城を捨てて、峻険な山城である辛垣城を築いて居城を移した。辛垣城に拠った綱秀は北条氏への抵抗を続けたが、1563年、北条氏康は滝山城主である子の氏照に命じて綱秀を攻撃させた。まだ25歳の若武者であった氏照は戦に秀で、辛垣城麓の軍畑で守る三田勢と激戦を展開し、その後三田方家臣の寝返りもあって辛垣城を陥とした。綱秀は辛垣城を脱出して岩槻城に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田氏は滅亡した。

 辛垣城は、勝沼城に対して西城とも呼ばれる。麓の三田氏所縁の海禅寺の北西150m程の所から山側に道が伸びており、そこを辿れば名郷峠から辛垣城まで伸びる山中のハイキングコースに到達することができる。(但し、途中にいくつかの分岐があり、どちらに行けばいいのかややわかり辛い。)辛垣城は、非常に高低差の大きい縄張で、主郭と周囲の段曲輪とは20m以上の高低差がある。主郭は、近代に行われた石灰石の採掘で破壊され、虫歯の様に中央が大きくえぐれた地形となってしまっている。しかし主郭外周は残っているのでその規模が想像できるが、もし山頂部が全て一つの曲輪だったとすると、かなり大きな主郭であったようである。主郭から派生する尾根筋はいずれも傾斜がきつく、そのせいもあってか、堀切はあっても規模は小さく、尾根筋の遮断を強く意識するようなものではない。南西の尾根にはハイキングコースの脇に数段の曲輪が広がっているが、その先では重機を入れて森林伐採が行われていた。その為、遺構は現在でも一部破壊されているようである。この方面の曲輪にはわずかに石垣が見られ、これが日本城郭大系に載っている写真のものと考えられるが、遺構なのか後世の改変によるものか俄かには判断できない。南の尾根にも同様に何段かの曲輪が連なり、変則的にえぐれた虎口状の遺構も見られ、石積みもあるが、これも後世の改変の可能性を拭いきれない。

 以上の様な感じで、どこまでが遺構か判断に迷う城である。また名族三田氏の最後の城としてはやや見応えに欠けるが、それだけ三田氏が北条氏に追い詰められていたことを象徴しているのだろう。
遺構?の石垣→DSC07824.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.812088/139.220477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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三田城(東京都国立市) [古城めぐり(東京)]

DSC07687.JPG←主郭西側の空堀と土塁
 三田城は、三田氏館・谷保の城山とも呼ばれ、城主不明の中世城館である。比高8m程の青柳段丘の崖縁に築かれている。城主については、菅原道武朝臣との説、津戸三郎為守との説、三田県主貞盛との説等があり、定まっていない。いずれにしても、複郭の方形居館であるが横矢が掛かっておらず、古い形態の城である。
 三田城は、主郭には民家が建ち、立ち入ることはできないが、その周囲に空堀と土塁がめぐらされている。主郭内部も南北に土塁で区画しているようであるが、遠目にしか見ることができない。主郭東側には大きな空堀が築かれて東の二ノ郭と分断されている。二ノ郭から主郭を見ると、櫓台の様な高台も見ることができる。かなり良好に遺構が残っているが、民家があるためよく見れないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.679104/139.438080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世崖端城
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立川氏館(東京都立川市) [古城めぐり(東京)]

DSC07668.JPG←普済寺境内に残る土塁
 立川氏館は、武蔵七党の一、西党日奉氏の支族立川氏の居館である。立川宮内大夫宗恒が、この地に初めて居館を構えたと言う。立川氏は鎌倉時代には御家人となり、室町時代には山内上杉氏に従った。その後、扇谷上杉氏の勢力が立河郷に伸びてくると、扇谷上杉氏の家臣平一族が立河郷を支配するようになり、立川氏は逼塞を余儀なくされたようである。その後、小田原北条氏の勢力が武蔵を圧すると、立川氏は滝山城主北条氏照の家臣となった。1590年の小田原の役の際には、立川氏館も城砦化され、豊臣方の軍勢によって焼き払われたという。以後、居館は寺域となった。
 立川氏館は、現在普済寺の境内となっている。寺の南東側に20m程の長さに過ぎないが、明確な土塁が残っている。この土塁は規模が大きく、最も高いところでは高さ4m程もある。また西の墓地裏にも土塁が残っているが、こちらは墓地造成の為にかなり改変されて削られてしまっている。南を流れる残堀川からは10m程の高さの崖になっており、かつては要害の地であったことがわかる。もう少し遺構が残っていればよかったが、東京の市街地では仕方ないところであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.690694/139.401795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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法林寺館(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC07649.JPG←境内に残る土塁
 法林寺館は、歴史不詳・館主不明の中世居館跡である。秋川を挟んで対岸に高月城があるので、大石氏との関係が考えられるが推測の域を出ない。
 法林寺館は、法林寺の境内が館域とされ、境内入口左側に明確な折れを持った土塁が30m程にわたって残っている。この折れは、北東側にあるので鬼門除けだったのかもしれない。またかつては土塁の外側に堀跡の水田があったそうだが、今では宅地化で湮滅している。法林寺の南側は秋川に臨む急崖で、中世居館の立地としては申し分ない。市街化の激しい地域に、土塁が残っているだけでも特筆物であろう。更に解説板などが整備されると良いのだが。
対岸の高月城→DSC07659.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.719200/139.319977/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
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小川城(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC07645.JPG←南側の急斜面
 小川城は、武蔵七党の一、西党に属すると言われる小川氏の居城と言われている。「新編武蔵国風土記稿」に拠れば、小川土佐守の居宅であったと伝えられるとのことである。その他のことは不明である。
 小川城は現在、宝清寺の境内となっており、遺構は湮滅している。わずかに墓地裏に土塁らしい名残が見られる。小川城の築かれた地は、秋川北岸の河岸段丘上に位置しており、南側は10m程の高低差の急斜面となっている。またかつては北から東側にかけても小川が刻んだ天然の堀で囲まれていたと言うが、現在では埋め立てられて道路となっている。その地勢だけが、城跡の痕跡を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.719671/139.315556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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伊奈城(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC07610.JPG←南斜面に残る竪堀状地形
 伊奈城は、歴史不詳の城である。近年になって中田正光氏の調査により確認された城で、松岩寺の裏山にある。麓の松岩寺は日本城郭大系では上平井館とされ、平井氏の館があったと言われているが、これも江戸時代後期に編纂された「新編武蔵国風土記稿」の推定に拠っており、推測の域を出ない。
 伊奈城は現在主郭跡に北郷神社が建ち、遊具の整備された公園となっている。ぱっと見ただけでは城跡とは思われないが、周囲を探索すると、確かに大きな竪堀状の溝や腰曲輪らしい平坦地が存在し、人為的な改変の跡が残っている。しかし尾根上には通常あるはずの堀切が無く、城郭としてはかなり中途半端である。勢力圏としては小田原北条氏の関連が考えられるが、それにしては普請が中途半端なので、北条氏以前の土豪が築城途中で放棄したものではないだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.735104/139.251655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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檜原城(東京都檜原村) [古城めぐり(東京)]

DSC07487.JPG←東斜面の長大な竪堀
 檜原城は、奥多摩に築かれた山城である。源平合戦で名高い平山季重の後裔の平山氏の居城であったと言われている。1416年に上杉禅秀の乱が起こると、平山三河入道は鎌倉公方の足利持氏方として武州南一揆を率いて活躍し、その戦功により持氏から檜原谷を与えられて、禅秀残党の甲斐武田氏に対する押さえの城として檜原城を築いたと言う。その後、小田原北条氏が武蔵を制圧すると平山氏はその傘下に入り、檜原城は北条氏の支城となって、甲斐武田氏に対する警衛の城として重視されたと思われる。その証拠に、檜原城を起点とする北条氏の狼煙台ネットワークは、戸倉城網代城戸吹城と経由して、緩やかな弧を描いて滝山城まで通じている。しかし1569年の武田信玄による小田原侵攻の際には武田勢はこの地を通らず、本軍は碓氷峠から武蔵を南下し、小山田信茂率いる別働隊は小仏峠を越えて滝山城に侵攻した為、この城が攻防の的となることは無かった。1590年の小田原の役の際には、城主の平山伊賀守氏重が守っていたが、八王子城落城後に八王子城代の横地監物らの敗残兵と共に籠城して前田利家・上杉景勝らの北国勢と戦った。しかし衆寡敵せず7月12日に落城し、平山氏重、氏久親子は城下で自害した。北条氏滅亡後、廃城となった。

 檜原城は、標高449m比高170mの峻険な山上に築かれた城である。吉祥寺から登る登山道はなかなか斜度がきつく大変である。登山道の途中では山腹をぶち抜く長い竪堀を見ることができる。この長大な竪堀は、一直線ではなく湾曲している。大手道を登り切ると二ノ郭下の腰曲輪に至るが、ここから二ノ郭に登る虎口は明確に屈曲して横矢を駆けている。山上の遺構は、その規模・縄張は詰城そのもので、小規模な主郭の北側に3段の段曲輪と堀切を介して最も広い二ノ郭が連なっている。この堀切が起点となって、前述の長い竪堀が東側斜面を遥か下まで伸びている。二ノ郭の北側斜面にもいくつかの段曲輪と2つの堀切が続いている。主郭の背後の南尾根には3つの堀切が連なっていて、その両側に浅くなった竪堀が続いている。戸倉城と同程度の規模であるが普請はよりしっかりしており、この城の重要性を感じさせる。小規模ではあるが、武蔵、ひいては関東防衛の要として重視された城である。
主郭前面の段曲輪群→DSC07504.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.726291/139.143552/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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戸倉城(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC07372.JPG←北出曲輪の内枡形
 戸倉城は、小宮城とも言い、元々15世紀頃に武州南一揆の一員として秋川谷の領主であった小宮氏の居城であった。その後、小田原北条氏の勢威が武蔵を圧し、河越夜戦で山内・扇谷両上杉氏が没落すると、武蔵守護代の大石定久は北条氏に降り、1564年頃に北条氏康の次男氏照に滝山城と大石氏の名跡を譲って、定久は戸倉城に隠居したと伝えられている。ただ定久が晩年を送った場所は山上の城ではなく、山麓の光厳寺周辺であったと推定されている。北条氏時代の戸倉城は、甲斐武田氏の武蔵侵攻に対する押さえである檜原城との中継城の役割を持ったと考えられている。その後、1590年の北条氏滅亡と共に廃城となった。

 戸倉城は標高434m、比高200m程の峻険な城山山上に築かれている。城域の最も東に主郭を置き、その西に数段の段曲輪に続いて広めの二ノ郭を配置している。二ノ郭の北側下方には腰曲輪と水の手が置かれて城の入口となっている。二ノ郭から100m程西には西出曲輪が置かれその周囲には腰曲輪と竪堀・横堀が配置されている。一方、北東の大手道から登って来ると、武者走り状の細道が北尾根に繋がり、そこを辿ると北尾根上の平坦地に至る。各種縄張図には記載が無いが、これも遺構と考えられる。この北出曲輪の入口は窪地になっていて、内枡形になっている様だ。ここから尾根上を登っていくと、いくつかの平坦地と共に竪堀状の溝が残っている。この竪堀は城内通路兼用のものの様だが、もしかしたら遺構ではなく森林伐採か何かの時に作られた溝かもしれない。

 戸倉城は、網代城よりは普請がしっかりしていて城域もより広く、余程城らしい城ではあるが、北条氏の城としては小規模である。やはりこの城も網代城と同じく、北条氏が本格的な城塞として使用したのではなく、元々あった城をそのまま狼煙台ネットワークの繋ぎの城として転用したものなのだろう。そして檜原城-戸倉城-網代城-戸吹城と続くこの狼煙台ネットワークのラインは、緩やかな弧を描いて滝山城に通じているのである。この城も北条氏の巧妙な支城網を知る上で貴重である。
西出曲輪の竪堀→DSC07409.JPG
DSC07543.JPG←檜原城から見た戸倉城遠景

 尚、大石定久の隠居城との伝承であるが、由木城にも同様な伝承がある。どちらが正なのであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.725681/139.197882/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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網代城(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC07312.JPG←堀切跡
 網代城は、秋川右岸の標高330m、比高150m程の山上に築かれた山城である。15世紀中頃に農山村の指導的立場にあった地侍達の自衛集団である南一揆によって利用された城であるらしい。領主の過酷な苦役から逃れる為、村人達の兆散の場としても利用されていたと考えられる。16世紀中頃に入って滝山城に小田原の北条氏康の次男氏照が入ると南一揆は解体され、網代城は滝山城の支城として機能したと見られる。その時の城主は青木内記とも貴志氏とも伝えられている。1590年の北条氏の滅亡に伴って廃城となったと思われる。
 網代城は元々村人の兆散等にも利用されたと言われるだけあって、非常に小さな城である。小さい主郭の周囲に段曲輪や腰曲輪をいくつか築いた簡単な構造で、堀切もあるにはあるがいずれも規模は小さい。これは北条氏が網代城を本格的な城塞として使用したのではなく、元々あった城をそのまま狼煙台に転用しただけなのだろう。網代城は、檜原城から戸倉城を経て至る狼煙台ネットワークの中継地点だったことは、そのラインが更に戸吹城を経て滝山城へと至ることから良くわかる。この狼煙台ネットワークのラインは緩やかな弧を描いて滝山城まで通じており、城を絶妙に配置していることはその位置を地図上にプロットすると良くわかるのである。城としてはやや物足りないが、北条氏の支城網を知る上で貴重な城である。
大手木戸口→DSC07324.JPG
DSC07441.JPG←戸倉城から見た網代城遠景
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.720507/139.242579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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大丸城(東京都稲城市) [古城めぐり(東京)]

DSC07722.JPG←城址の住宅地
 大丸城は、多摩丘陵が北にせり出した小山の上に築かれた山城である。歴史は定かではないが、発掘調査の結果から南北朝時代から戦国時代に使われたことが判明している。おそらく小沢城等の出城として、扇谷上杉氏の城塞の一つであったのだろう。山頂の主郭の周囲に空堀をめぐらした小さな城であった様である。
 大丸城が築かれた小山は周囲数百mしかない小さなもので、その小ささ故に多摩ニュータウンの造成によって山ごと削り取られてしまったため、現在は地上から消えてしまった城である。かつて大丸城のあった場所は平地になって住宅地に変貌しており、その北側に解説板が立っている。国土変遷アーカイブの航空写真からすると、解説板が立っている付近が山麓の北端であったようだ。住宅地の南にわずかに山地が残っているが、これは城跡ではない。また西の道路の向こう側に城址公園があるが、これも城のあった場所とは無関係である。なかなか紛らわしい。いずれにしてもこの城は、高度成長期に無残に消えた城の最たるものであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.646974/139.489492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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関戸城(東京都多摩市) [古城めぐり(東京)]

DSC07232.JPG←現在の関戸城天守台付近
 関戸城は、鎌倉街道を扼する山城である。多摩川に面し武蔵野台地を一望できる絶勝の地であることから、鎌倉幕府以来の物見台的城塞や狼煙台であったと考えられている。北の府中分倍河原から多摩川を渡って南の関戸に至る地域は、中世の関東における要地で、この地をめぐって幾多の戦いが繰る広げられた。1333年上野の野から挙兵した新田義貞が鎌倉を目指して疾風の様に南下すると、得宗北条高時の弟泰家を総大将とする鎌倉幕府軍がこの地に拠って防衛戦を展開した(分倍河原の戦い、関戸の戦い)。この時泰家が拠ったとも、北条勢を敗走させた後義貞が陣を敷いたとも言われる関戸の砦が関戸城である。また1335年の中先代の乱の際も、この地域で激戦が展開された。その後も、足利尊氏・直義兄弟の内乱(観応の擾乱)に乗じて新田義宗が挙兵した武蔵野合戦(1352年)、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が戦った永享の乱(1438年)、扇谷上杉定正と山内上杉顕実と戦った明応3年の戦い(1494年)等でも多くの軍勢が往来し、要害の地として重視されてきた。

 関戸城は現在、聖蹟桜ヶ丘の住宅街となっていて、かつての城址の面影はない。城域の西端には金比羅宮があり、この付近が天守台と呼ばれている。住宅街の東には山林が残り、関戸城の一部であったと考えられるが、フェンスで囲まれているし住宅街の只中なので、カメラを持ってこの中に突入するのはさすがに憚られる。周囲を俯瞰できる高台にある地勢はそのままであり、城を築いた必要性が現在でも良くわかる。しかし歩道脇に標柱がなければ、ここが城跡であったと思う人はいないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.644202/139.445482/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


新田義貞 (人物叢書)

新田義貞 (人物叢書)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2005/05/01
  • メディア: 単行本


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小野路城(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC07151.JPG←主郭と土塁
 小野路城は、秩父氏の庶流小山田氏が築いた城である。1171年に小山田有重が小山田城を築き、その支城として子の二郎重義に小野路城を築かせたと言う。その後、1205年に有重の長男稲毛重成が、同族の畠山重忠を讒訴した為に誅殺され、小山田氏は没落した。室町時代の1476年に長尾景春の乱が起こると、小野路城は小山田城と共に長尾方に対する扇谷上杉氏の拠点となった。この乱の最中、1477年3月に長尾勢によって小山田城は攻め落とされたが、おそらく小野路城も同様に落城したと考えられるらしい。その後の歴史は定かではないが、1559年成立の「北条氏所領役帳」によると、この地は大石一族の者が領していたようである。

 小野路城は、小山田城東方2km弱の丘陵上に位置する平山城である。地元では城山と呼ばれる山に築かれているが、傾斜がなだらかで山と言うよりは丘陵に近い。主郭には小さな神社が祀られており、その背後には土塁が残っている。主郭の周囲には横堀が取り巻いているが、埋もれているのかかなり浅くなっており規模は小さい。二ノ郭は主郭の西に位置しているが、間はなだらかな傾斜で繋がれていて、堀切による分断は意図されていない。二ノ郭の南尾根筋には小さな枡形虎口が見られる。一方、二ノ郭の北尾根には堀切といくつかの曲輪が連なっている。二ノ郭西側は傾斜が急であるが、それ以外の部分は主郭も二ノ郭も切岸がなだらかで、あまり防御性を感じさせない。主郭からかなり離れた東の尾根道に堀切状の地形が見られ、ここも城域だったかもしれない。いずれにしても小野路城は全体に防御構造が弱く、古い形態の城と思われる。尚、道がわかりづらいので行くのが大変だが、ハイキングコースが整備されているので、場所さえわかっていれば訪城はしやすい。
二ノ郭南尾根の枡形虎口→DSC07158.JPG
DSC07176.JPG←二ノ郭北の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.596496/139.428145/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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小山田城(東京都町田市) [古城めぐり(東京)]

DSC07083.JPG←本郭と二ノ郭間の堀切
 小山田城は、秩父氏の庶流小山田氏の居城である。小山田氏は、武蔵守平将常5代の孫秩父重弘の次男有重が小山田荘に住んで小山田氏を名乗ったことに始まり、有重は1171年に小山田城を築いたと言う。また、子の二郎重義を小野路城に配した。その後、1205年に有重の長男稲毛重成が、同族の畠山重忠を讒訴した為に誅殺され、小山田氏は没落した。後の南北朝期に新田義貞の挙兵に加わり、湊川の合戦で義貞を救って討死した小山田太郎高家は、重成の弟行重の後裔と伝わっている。室町時代には、長尾景春の乱で長尾方に対する扇谷上杉氏の拠点として重視されるなど、小山田城は扇谷上杉氏の城として使用された。この時には、1477年3月に長尾勢によって小山田城は攻め落とされた。その後の歴史は定かではない。因みに、武田信玄の時代に甲斐郡内を本拠として勢威を振るった小山田氏は、同族であったと言う。

 小山田城は、大泉寺背後の山に築かれており、比高が20m程度と低い為平山城の分類に入っているが、その縄張は山城のものと見た方が良い。それほどの広さを持たない3つの曲輪を連ね、間を堀切で分断した連郭式である。しかし現在大泉寺の羅漢像がたくさん並べられた散策路になっているせいか、堀切はどれもかなり浅くなっている。だが元々大した規模ではなかった様だ。本郭内は削平が甘くデコボコしているが、これも後世の改変の可能性がある。しかし二ノ郭との間の堀切に面して低い土盛があるのは、土塁の遺構なのであろう。本郭西側には横堀と、土橋で連結された帯曲輪が防御を固めている。二ノ郭には目立った防御構造はなく、二ノ郭内部の西の方には内枡形らしい土塁状の遺構が見られる。堀切等の防御構造が少なく、あっても規模が小さいので、かなり古い形態の城の様に感じられる。本当にこの城が扇谷勢の重要拠点として使用されたのか、その縄張から見ると多少の疑問を持たざるを得ないと言うのが、正直なところである。

 尚、小山田城は大泉寺檀家以外の無断での入山は禁止されており、訪城の際には大泉寺の方に一声掛ける必要がある。声さえ掛ければ気軽に入山を許可して頂ける。
本郭西側の横堀→DSC07103.JPG
DSC07078.JPG←二ノ郭の枡形土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.599880/139.411408/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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由木城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC07038.JPG←永林寺墓地背後の高台と丘
 由木城は、由木氏館とも呼ばれ、横山党の庶流由木氏の館跡と言われている。横山経兼の子隆兼の弟の保経が由木六郎を称して源頼朝に仕えた。また、西党の祖西大夫宗忠の次男宗貞の子三郎大夫重直も由木氏を名乗り、両系統があったらしいが、小田原北条氏の進出によってその配下に入ったと言う。また一説では、滝山城主大石定久の居館(別館)で、永林寺背後の丘に館が築かれていたとも言う。その為、大石氏の居館跡として市の史跡に指定されている。
 由木城は、前述の通り永林寺の背後の丘に築かれていたらしいが、現在では明確な遺構を見ることはできない。墓地の背後の高台にフェンスに囲まれた平地があって、由木城の石碑と大石定久の銅像が建っているが、明らかに改変を受けているので城跡と見ることはできない。その裏の山にも城跡らしい形跡は無い。よくわからないが丘の上よりも、二つの尾根の間に居館があったのでは、と感じた。尚、定久が創建した永林寺には、至る所に北条氏の三つ鱗の紋が描かれているが、これは大石氏が名実共に北条氏に組み込まれたことを示すのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.631227/139.382204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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平山氏館(東京都日野市) [古城めぐり(東京)]

DSC07007.JPG←駅前ロータリーに建つ石碑
 平山氏館は、平山武者所季重の居館である。季重は西党日奉氏の流れを汲む平山直季の子と言われ、保元・平治の乱で活躍したほか、源平争乱の際には一の谷の戦いで熊谷直実と武勇を競った源氏方の侍大将で、武名を轟かせた豪放大胆な坂東武者であった。その武勲から鎌倉幕府の宿老となり、源実朝誕生の時には鳴弦役を務めたと言う。
 居館跡は現在、市街化と京王線敷設で完全に湮滅し、往時の面影は全く感じることができない。わずかに駅前ロータリーに石碑と解説板が建てられているのみである。南に300m程離れた宗印寺には、季重の木像が伝わり、季重の裔を称する松本藩士平山季長の建てた墓も残っている。また、宗印寺背後の山上には、季重が物見を置いたと伝わる平山城がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.647393/139.380745/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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平山城(東京都日野市) [古城めぐり(東京)]

DSC06979.JPG←主郭に鎮座する平山季重神社
 平山城は、山麓北方に居館を築いていた平山武者所季重が物見を置いた山城である。季重は源平争乱の際に武名を轟かせた坂東武者で、その事跡については平山氏館の項で述べる。
 平山城は、物見を置いた城と伝わるだけあって、段曲輪が数段構築されているだけの簡素な山城である。丸山と呼ばれる山上の主郭には現在、平山季重神社が置かれている。細長い舌状の曲輪で、台地続きの方には車道が通っているが道沿いに若干の土盛らしき物が見られるので、もしかしたら堀切の跡であったかもしれない。主郭の下方には登り道に沿って数段の平場があり、下の方になるとそこそこの広さがあって、ある程度の兵が常駐していたようである。登り道の途中には、土塁で挟まれた虎口らしき部分も見られるが、遺構かどうかはっきりしない。いずれにしても小規模な砦レベルの城だったのだろう。
 尚、京王線の駅名にもなっている平山城址公園は、城とは別の場所にあるので、そちらに行ってしまうと大間違いである。実際の城は城址公園の北の外れ、平地に突端の様に突き出した台地上にある。紛らわしいので注意が必要だ。
腰曲輪の一つ→DSC06995.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.641848/139.381453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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片倉城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC06923.JPG←二ノ丸西側の空堀
 片倉城は、歴史不詳の平山城である。元々、武蔵七党の一、横山党の嫡流横山氏の城であったと言われる。横山氏は鎌倉幕府の創業に功を挙げたが、1213年の和田義盛の乱の際、横山時兼は義盛に与して討死した。乱後、横山荘は鎌倉幕府の重臣大江広元に与えられた。広元の次男時広を祖とする長井氏がこの地を領し、鎌倉幕府の評定衆となって幕政に重きを成した。室町時代に入ると長井氏は扇谷上杉氏に仕えた。1504年に山内・扇谷両上杉氏が戦った武蔵立河原の合戦に於いて、扇谷方の長井八郎が椚田塁で山内方に捕われたが、この椚田塁は初沢城とも片倉城であるとも言われている。いずれにしても、現存する遺構は深大寺城と縄張が類似すると言われ、扇谷上杉氏家臣の長井氏が築いた城と推定されている。その後の歴史は不明であるが、武蔵を制圧した小田原北条氏により滝山城の支城として使用されたとの見方もある。

 片倉城は現在、城跡公園として整備されているが、公園化による改変を多少受けていても、遺構がほぼ完存している。周囲から20m程の高台にあって周囲を睥睨できる要害の地で、東西に本丸と二ノ丸を並べ、間を横矢の掛かった空堀で分断している。この空堀はかなり浅くなってしまっているが、往時は5~6m程の深さを持った堂々としたものだったろうと想像される。二ノ丸の北側には堀切を挟んで物見曲輪があり、本丸の北東側には腰曲輪があって現在住吉社が祀られている。また、二ノ丸の西側から本丸南側にかけて周囲を防御する空堀や腰曲輪・土塁も良好に残っているが、こちらは冬でも薮がひどく、遺構の確認が難しい部分も多い。しかし二ノ丸から南に下る大手筋の土橋なども明瞭でなかなか素晴らしい。歴史は定かではなくても城址遺構としては非常に良好で、都内でも屈指の遺構だろう。
二ノ丸と物見曲輪間の堀切→DSC06900.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.639275/139.337400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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浄泉寺城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC06840.JPG←城跡周囲の高低差
 浄泉寺城は、近藤出羽守屋敷とも呼ばれ、八王子城主北条氏照の家臣近藤出羽守助実の居館である。助実は下野榎本城の城代を務めていたが、1590年の小田原の役に際して家臣に榎本城を預けると自身は八王子城に入り、中山勘解由家範・狩野一庵と共に中ノ丸を守ったと言う。6月23日、八王子城は前田利家・上杉景勝らの北国勢に攻め落とされ、助実も討死した。
 また、元々は平安末期に鎌倉権五郎景正の館跡であったとも言う。
 浄泉寺城には現在、近藤助実が創建した浄泉寺が建っている。土塁や空堀跡が残ると寺の由来に記されているが、現在では湮滅しているようである。寺の背後に墓地が広範に広がっているので、墓地造成によって破壊されてしまったのかも知れない。しかしその地勢は、周囲に川が流れる切り立つような丘で、要害性の高い場所であったことが今でも明確にわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.633346/139.293562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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初沢城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC06807.JPG←土橋横の堀切跡
 初沢城は、椚田城とも呼ばれ、歴史不詳の山城である。一説には、横山氏の庶流椚田氏の居城とも大江氏の後裔と言われる長井氏の城郭とも言われる。椚田氏は1213年、和田義盛の乱に際して横山氏一族と共に義盛方として鎌倉で戦い、討死して没落した。一方、時代は下って1504年、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が戦った立河原合戦に際して、扇谷上杉氏家臣の長井八郎が桐田塁を守って山内上杉勢の捕虜になったと言われるが、桐田塁は椚田塁とされ、初沢城と推定されているが、片倉城とする説もありはっきりしていない。その後、伊勢宗瑞(北条早雲)の台頭に危機感を持った両上杉氏は和睦したが、1510年頃に山内上杉顕定が家臣の三田氏に宛てた書状に椚田地方のことが記載され、三田氏の勢力圏に入っていたようである。その後の初沢城の歴史は不明である。
 初沢城は、比高100m程の山上に築かれた城であるが、傾斜の緩い山であり峻険さは無い。現在ハイキングコースも整備されているので、訪城も楽である。山頂の主郭と腰曲輪を始め周囲にはいくつかの曲輪群が散在し、曲輪間には堀切などもあるようであるが、公園化された時に改変されたのか縄張があまりはっきりしない。堀切もかなり浅くなってしまっているので、ちょっと見ただけではそれと気付かないレベルである。給水施設が作られている平場も曲輪の一つであったと考えられる。全体的に見ると古い形態の城の様で、戦国後期には本格的な城郭としては使用されていなかっただろう。小田原北条氏の時代には、周辺の廿里砦等と共に砦兼狼煙台として使用された程度であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.635648/139.278821/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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八王子城 太鼓曲輪(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC06693.JPG←最大の大堀切
大きすぎて写真のフレームに収まらない

 八王子城太鼓曲輪は、八王子城の南の尾根筋に築かれた八王子城の外郭である。その役割は地形を見れば一目瞭然で、本城との間の谷間にある御主殿などの居館地区(根古屋)を防衛すると同時に、南側から八王子城に迫る敵に対する物見兼障壁として機能していたのであろう。

 1年前に八王子城に訪れた時には、時間切れで太鼓曲輪まで周ることができなかったので、今回改めて訪城した。(前回、北条氏照の墓が歩道工事の為立入り禁止になっていて、氏照墓に再訪するついででもあった。)生憎の雪であったが、それでも十分にその遺構を堪能することができた。岩盤を削り抜いた豪快な大堀切が5つもあり、小さいものでも深さ8m程、最大となる3つ目の大堀切では最大高低差20m近い巨大なものである。形状は基本的に薬研掘だが、4つ目の大堀切だけは底がU字型の毛抜掘の様だ。太鼓曲輪と呼ばれるのは、おそらく3つ目の大堀切の上の曲輪と思われる。この曲輪だけは堀切側を一段高くして櫓台とし、かなり崩落しているもののその周囲には石垣が今でもはっきり見て取れるなど、最も防備が厳重である。太鼓曲輪以外でも、各堀切前後の曲輪の切岸には石積みが散見され、かつては本城と同様、総石垣に近い曲輪群であったことが想像される。また、他のサイトではあまり言及が無いが、これらの大堀切以外に1本目と2本目の間に、ささやかな小堀切があるようだ。しかし強固な意志の感じられる大堀切と比べるとほとんど防御の役に立たないレベルで、何故わざわざ造ったのか疑問に感じられる。

 八王子城本城の堀切は、大きいとは言っても自然地形に多少の造作を加えた程度のものであったが、太鼓曲輪の5つの大堀切はいずれも岩盤を削り砕いて無から生み出した圧倒的なもので、強大な勢威を誇った小田原北条氏が本気で堀切を穿つとどういう規模のものになるか、象徴的に表している様だ。山城好きの人ならば、本城より太鼓曲輪の方が圧倒的な大迫力で見応えがあるだろう。

 それにしてもこの太鼓曲輪の尾根への登り口がわかりにくかった。中央道に架かる歩道橋があるのだが、ここへのアクセスルートがさっぱりわからないのである。国の史跡なのだから、ここにも案内表示の一つも欲しいところである。
太鼓曲輪櫓台の石垣→DSC06752.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.651464/139.257492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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小田野城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC06607.JPG←主郭と物見の土壇
 小田野城は、八王子城の出城である。八王子城主北条氏照の家臣小田野源太左衛門が築いた屋敷跡との伝承を持っている。案下道(陣馬街道)を見下ろす丘陵上に築かれており、八王子城を守る出城の一つと考えられる。文献・資料が残っていない為定かではないが、伝承によれば、1590年6月に八王子城が攻め落とされた際に、小田野城も上杉景勝の軍勢に攻め落とされたと言う。
 小田野城は、現地解説板では「小田野出城」と表記され、主城の八王子城と共に国の史跡に指定されている。しかしその遺構はかなり改変されているようで、切岸などは傾斜が緩くなり、縄張はあまりはっきりしない部分も多い。広い主郭の南北に物見らしい土壇が築かれ、周囲をいくつかの腰曲輪で防御している。東の公園からの登り道には、虎口の土塁らしいものもあるが、はっきりと遺構と断定することはできない。また解説板の縄張図では竪堀もいくつかあるとされるが、薮がひどくその形状がほとんど掴めない。おまけに訪城当日はあいにくの雪で、余計に遺構の把握が難しかった。ちょっと残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.669055/139.263028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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戸吹城(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC05762.JPG←二ノ郭へ至る断崖上の細道
 戸吹城は、根古屋城、二城城とも呼ばれ、秋川南岸の急峻な断崖上に築かれた山城である。良好な遺構にも関わらず記録が全く無いため、その歴史も築城者も定かでは無いが、その位置からして小田原北条氏の支城であったことはおそらく間違いない。それは、檜原城戸倉城網代城と続く狼煙台ネットワークのラインが滝山城へと至る線上に戸吹城が位置しているからである。地図にプロットしてみるとよくわかるが、この狼煙台ネットワークは、緩やかな弧を描いて滝山城に通じているのである。北条氏の支城網の巧妙さには舌を巻かざるを得ない。

 戸吹城の築かれた地勢は滝山城と同じで、秋川~多摩川の南岸に続く山地上に占地し、南の根古屋地区からは緩やかな斜面で比高30m程に過ぎないが、北側は川べりに望む比高50m以上の絶壁となっている。山上には東西にハイキングコースが通っているが、その付近に櫓台跡の土塁とその西側に横堀が走っている。櫓台南側の斜面には2段ほどの帯曲輪が築かれ、東側は浅い竪堀で遮断している。一方、櫓台から北側には、左右が崩落して垂直絶壁となった幅1mに満たない細道を経由して、楕円形をした二ノ郭と更にその先に堀切を跨いで主郭がある。主郭周囲はかなり崩落している様で、現在では垂直絶壁で囲まれた狭い主郭に過ぎないが、400年前はもっと大きな面積だったのだろう。主郭からは東京サマーランドと圏央道のあきる野ICがよく見える。

 戸吹城は遺構はよく残っているが、崩落しつつある断崖上の城であり、おそらく50年もしたら崩れてなくなるのではないだろうか。撮影に気を取られていると、普通の人でもバランス崩して転落しかねない城なので、特に高齢者には主郭への訪城はお勧めできない。東京一危険な城と言われる所以である。
主郭手前の堀切→DSC05776.JPG
DSC05779.JPG←絶壁に囲まれた主郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(但し、非常に危険!)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.715087/139.278525/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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高月城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC05665.JPG←ホテル背後の堀切跡
 高月城は、関東管領兼武蔵守護の山内上杉氏の家臣で、武蔵守護代となった大石氏の滝山城以前の居城である。長禄年間(1457~60年)に大石顕重によって築かれたと言われている。しかし、約60年後の1521年に、顕重の子定重は新たに滝山城を築いて居城を移した。以後、廃城となったと言われるが、一説には支城の一つとして使われ続けたとも言われ、定かではない。
 高月城は、秋川沿いに突き出した加住丘陵の先端部の舌状台地に築かれている。周囲は住宅地となっているほか、先端に近い曲輪には廃業したホテルが建てられており破壊を受けている。しかし、先端の曲輪には土塁が明確に残り、祠が祀られている。ホテルの裏には堀切跡も見られるが、かなり埋もれて浅くなっている。ホテル手前の車道は、城域を南北に分断する堀切だったらしい。そこから最高所の主郭までの間は、二ノ郭も含めて何段かの曲輪が斜面に沿って並んでいるが、みな耕地等に変貌している。前述の堀切跡の道路から主郭までは40m近い高低差があり、こうした崖端城ではあまり見られない曲輪配置である。最上部の主郭も全面耕地化され、かつて主郭背後にあったという空堀と虎口は、改変を受けてほとんど壊滅に近い状態である。主郭背後の南西側の尾根筋にも小規模な曲輪が連なるが、薮が多く削平もやや甘い。主郭の手前に段々畑のように斜面に並ぶ段曲輪と、二ノ郭の前面下方に残る空堀跡が、もっともかつての姿を残しているかも知れない。
 一部の遺構は比較的良好に残るが全体に改変が多く、耕地化されていない場所は藪が多くほとんど遺構の確認ができない。やや残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.712876/139.318979/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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滝山城(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]

DSC05243.JPG←二ノ丸の巨大な空堀
 滝山城は、小田原北条氏の最も重要な支城の一つで、3代北条氏康の次男氏照(正確には三男)の居城であった。氏照はこの城を本拠に滝山衆と言う北条氏きっての強力な軍団を組織し、父氏康・兄氏政を助けて関東各地の戦いに出撃して行った。

 関東管領兼武蔵守護であった山内上杉氏の家臣で武蔵守護代であった大石定重が、1521年に新たに滝山城を築いて居城の高月城から移り住んだとされるが、また一説にはその子定久が築いて移り住んだとも言われている。大石氏は木曽義仲の裔を称する武蔵屈指の雄族で、小豪族から守護代にまで登り詰めた。しかし定久の時、1546年の河越夜戦で北条氏康が上杉氏の勢力を駆逐すると大石氏も北条氏に服し、氏康の次男氏照を養子に迎えて家督を譲って隠居した。1559年頃に、氏照は滝山城に入り、江戸城代遠山氏らと共に武蔵を掌握しつつ、北関東制圧に奔走した。また一方で滝山城は、甲斐武田氏に備える重要拠点でもあり、檜原城戸倉城等の支城網によってその動きを監視した。1568年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が破綻すると、北条氏と武田氏の間は一気に緊迫した情勢となり、1569年、信玄は遂に北条氏の本城小田原侵攻を決意した。碓氷峠から関東に侵入した信玄は、小田原への途上、滝山城に2万の大軍で攻撃を加えた。信玄の子勝頼は、自身軍団の先頭に立って猛攻を掛けたが、氏照の重臣師岡山城守らの奮戦により北条方は辛くもこれを撃退した。この時、武田勢に二ノ丸まで攻め込まれたと伝えられる。信玄は自軍の損害の多さを憂慮して、滝山城攻略を諦めて小田原へ向かった。氏照はこの時の戦訓から、より防御の堅い山城の築城を決意し、新たに八王子城を築いたとされる。1584~87年頃に氏照は居城を八王子城に移し、以後滝山城は廃城になったと言う。

 滝山城はこの冬の城巡りの最大の目標で、今更ながら初めての訪城であったが、想像以上の広さ・でかさに呆然とするばかりだったというのが正直なところである。大体、大馬出で並みの城の主郭ぐらいの大きさという、とてつもない規模である。主要な曲輪だけでも、本丸、中ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、千畳敷、信濃曲輪、小宮曲輪など多数で、各曲輪はいずれも規模が大きく、十分な兵の駐屯が可能であり、更にこれらの曲輪の周囲に多数の腰曲輪が付随している。また主要な曲輪の周囲には大規模な空堀が築かれ、防御をより堅固なものにしている。特に二ノ丸外周の巨大な空堀は圧巻で、堀底からの高低差は20m以上もあり、石垣こそ無いものの近代城郭顔負けの規模である。各曲輪の虎口も出色で、馬出し・土橋・枡形土塁などで巧みに構築され、動線を屈曲・旋回させる技巧的な構造で、至るところから敵を迎撃できるよう工夫されている。正に戦国期の築城技術の粋を結集した縄張となっている。

 それにしてもこの滝山城、一体松山城の何倍の大きさがあるのだろう。写真の撮影枚数・訪城時間(歩き回ること4時間超!)共、これまでのレコードである。また、これほどの規模でこれほど防御の固められた城を、一体どこから攻めるんだろう。どこから攻めたらよいか、攻め口がさっぱりわからないぐらい広大なのである。これほどの城になると、余程の数と武力を持った精強な軍団でなければ攻めることさえできまい。滝山城を攻めた武田軍も大したものだとつくづく思う。これが支城に過ぎないとは、北条氏の勢威とはどれほど強大なものだったのか、改めて感じざるを得ない。滝山城は、武蔵経営の拠点であると同時に本国相模防衛の最重要拠点でもあった。その規模、技巧的な縄張。これまでに訪れた中で、間違いなく最高の中世城郭である。

 尚、以前は中ノ丸に車を駐車できたようだが現在は車両進入禁止になっており、しかも付近に駐車場が無いので車の置き場所に非常に困る。国指定史跡なのだから、早く駐車場を確保してほしい。
二ノ丸東側の喰違い虎口→DSC05344.JPG
DSC05358.JPG←二ノ丸南側の土橋と空堀
本丸東側の枡形虎口→DSC05460.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.702021/139.328270/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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葛西城(東京都葛飾区) [古城めぐり(東京)]

DSC00011.JPG←堀跡の道路
 葛西城は、中川西岸の微高地に築かれた平城である。元は秩父平氏の一流、葛西氏の勢力下であったようだが、室町中期に入ると関東管領山内上杉氏の目代大石氏の勢力がこの地を覆ったようである。この頃までの葛西城の実態は明らかではないが、ようやく明らかになるのが、関東に大きな地歩を築きつつあった小田原の北条氏綱が1538年にこの城を陥とした時である。以後、小田原北条氏の支城となり、小弓公方足利義明や安房里見氏に対する備えとして整備され、2度にわたる国府台合戦では、葛西城は重要な拠点として表舞台に登場した。また一時期は、北条氏の勢力に服し傀儡化した古河公方足利義氏(実は北条氏康の甥に当たる)が葛西城を御所としたこともあった。北条氏が滅亡し、江戸に徳川幕府が開かれると、葛西城跡地には青戸御殿が建てられ、家光までの3代の将軍によって鷹狩りの際に使用された。
 葛西城は、現在そのど真ん中を環七がぶち抜いており、それ以外は完全に市街化され、かつての姿は見る影もない。わずかに葛西城址公園と御殿山公園が作られ、石碑と解説板があるのみである。しかし、環七建設前の発掘調査で堀の遺構が確認され、それに拠れば周囲の道路はある程度、堀跡をトレースしたものになっているようだ。とは言っても、現在では堀らしい起伏もなく、ただの生活道路でしかない。
 日本城郭大系では、現代日本を次のように厳しく指弾している。
「たびかさなる落城にもかかわらず、後世に多くの資料を伝えてくれた葛西城の本当の敵は、貴重な遺産を破壊して省みない現代人の荒んだ心の中にあるようである。」
近くの公園にあった解説板→DSC00010.JPG
       こういうのがあるとちょっと嬉しい

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.755463/139.854798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

江戸城外郭 その2(東京都) [古城めぐり(東京)]

 東京の中心には、江戸城の遺構が多い。かつての壮大な城郭都市は、今ではすっかり変貌しているが、よく見てみると城であった痕跡が点在しつつ明確に残っている。
 5月連休に実家に帰った際に、去年に続いて再び江戸城外郭の遺構を訪ね歩いた。

<常盤門>
 江戸城外郭の中で、最も良好に当時の遺構が残っているのが常盤門である。枡形の内、表側半分しか残っていないが、門の両側を固める石垣が極めて良好に残る。江戸城外郭では必見の遺構。
DSC08335.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.46.24.2N35.40.57.9&ZM=11

<呉服橋門>
 遺構は湮滅し、広い車道と化している。

<一ツ橋門>
 無残に削られつつも、石垣が残る。また、この一ツ橋門周辺から雉橋門に掛けては、外堀に沿った石垣が良好に残る。
DSC08359.JPG
DSC08364.JPG
DSC08366.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.44.6N35.41.15.9&ZM=11

<雉子橋門>
 ほとんど遺構は残っていないが、住友商事のビルの一角にぽつんと石垣が残る。尚、この付近から見える清水濠に沿った北の丸石垣は壮観。
DSC08374.JPG
DSC08377.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.34.8N35.41.21.4&ZM=11

<神田橋門>
 丁度首都高の神田ICが作られているので、景観上の破壊もひどい。勿論遺構は壊滅。

<溜池櫓台>
 江戸城外堀に作られた3つの隅櫓の内、唯一現存する石垣。文科省新庁舎近くにある。またこの櫓台を起点にして、外堀の石垣が一直線上に3ヶ所残る。新庁舎建設の際に発掘されて一部埋め戻されたものの、一部は綺麗に展示されている。
DSC08387.JPG
DSC08402.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.1.7N35.40.0.3&ZM=11
     http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.5.9N35.40.3.6&ZM=11

<内幸町付近に残る石垣>
 ビルの谷間にわずかに石垣の断片が残る。この前にある道路が、丁度外堀ラインに当たるようだ。
DSC08424.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.26.4N35.39.59.1&ZM=11

<虎ノ門>
 遺構は壊滅。見るべきものはない。

※江戸城外郭 その1 はこちら
※江戸城外郭 その3 はこちら
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